紀  州  東  照  宮  三  重  塔

紀州東照宮三重塔

紀州東照宮三重塔

「紀伊國名所圖會 巻之2」

和歌御宮(別当和歌山天曜寺雲蓋院・天海僧正開山)・・・東照宮・・・
仏堂として楼門、三重浮図塔(本宮の東にあり。本尊大日如来)、護摩堂、鐘楼、薬師堂等 の存在が知られる。
  (かっては三重塔が存在した。)

紀州東照宮三重塔:左図拡大図
   (2009/11/05:拡大画像入替)

2010/01/03追加:サイト「紀州よいとこ」 から転載
 紀伊國名所圖會:紀州東照宮部分図

2017/07/31追加:
○「和歌浦の風景 カラーでよむ『紀伊国名所図会』」2012 より(解説:額田雅裕、彩色:柴田浩子)
 
   妹背山/大相院/東照宮/天満宮:上図拡大図(容量:1.78MB):西村中和/画:「紀伊國名所圖繪」に彩色を施す。

   紀伊東照宮・部分図:上図の東照宮部分図

2015/10/30追加:
○ 「紀伊国名所図会 巻之2」 より
妹背山/大相院/東照宮/天満宮:和歌の浦全図である。
 妹背山/大相院/東照宮/天満宮
楼門を入ると、向かって右手に護摩堂、鐘楼があり、本殿の東に三重塔、西に薬師堂が配置される。雲蓋院から石階を上った所/薬師堂の下方に本地堂がある。
別當雲蓋院は鳥居の西に位置し、鳥居の東には西から和合院、玉泉(仙)院、正法院、宝蔵院が展開し、更に東南方向・玉津島社の北西には大相院がある。十如院は天満宮社頭の西にある。

紀州東照宮など絵図

和歌山・厳島図(屏風絵):<作製年代不詳>

和歌浦の部分図
(下図拡大図)

東照宮・三重塔の部分図:(下図拡大図)

 


紀伊和歌浦図巻(2006/02/17追加)



紀伊和歌浦図巻:天明2年(1782)桑山玉洲筆、所有者の情報なし
(左図拡大図)

2010/01/03追加:サイト「紀州よいとこ」 から転載
 紀伊和歌浦図:紀州東照宮部分図

紀州和歌浦會圖(2006/02/17追加)
 紀州和歌浦會圖1:江戸後期;全図 : 中央が紀州東照宮・右下が海禅院 (2009/11/05:画像入替)
 紀州和歌浦會圖2:紀州東照宮及び紀伊海禅院 付近:部分図。左上御宮が東照宮三重塔・右下が海禅院多宝塔

2009/11/07追加:「紀州東照宮の歴史」特別展図録、和歌山県立博物館、1990 より
東照宮縁起絵巻
 27段までは日光東照宮縁起絵巻と同一内容で、28段の紀州東照宮造営が独自のものと云う。
  東照宮縁起絵巻1:紀州東照宮造営の部分図
  東照宮縁起絵巻2:紀州東照宮部分図:三重塔の初重のみが描かれる。
東照宮縁起下絵
 寛永21年直後の下絵と推定される。(東京藝術大学藝術資料館蔵)
  東照宮付近の部分図
和歌浦図
 江戸前期と推定
  和歌浦図・全図:左に東照宮・雲蓋院など六坊、中央に養珠寺・妙見宮・妹背山・海禪寺、右は紀三井寺
  和歌浦図・東照宮部分

略 歴

紀州東照宮
徳川頼宣の創建で元和7年(1621)完工。社領1000石余を有する。
正保2年(1645)東照大権現の宣下により、東照宮と社号を変更。
本殿、拝殿、楼門、回廊、本地堂(薬師堂)、三重塔、護摩堂、開山堂、唐門、鐘楼などの伽藍を有する。
明治5年7月、神仏分離で本地堂、三重塔、鐘楼などの堂塔が取壊され、雲蓋院は廃寺となる。
雲蓋院
元和7年徳川頼宣、山麓に別当和歌山天曜寺(雲蓋院)を創建。(天台宗・天海開基・本尊薬師三尊)
開基は天海、2世は日光院円空、3世上野真如院豪俔。
徳川家位牌所と定められ、位牌安置の霊屋が設置され、歴代紀伊藩主の位牌も安置される。
大相院、十如院、和合院、玉泉院、宝蔵院、正法院の6ヶ院が設置される。
雲蓋院寺領は200石、子院6ヶ院も各々40石の寺領を持つ。寛文年中には末寺32ヶ寺を有する。
明治2年霊屋は廃され、明治3年徳川宗家位牌は和歌山城西の丸へ、歴代藩主の位牌は◎長保寺へ移す。
明治5年雲蓋院は子院5院とともに、子院の大相院に移住する。
無住となった堂宇は兵営などに充てられた後、東照宮山下の坊舎は全て取壊される。
明治20年大相院に移った雲蓋院ほか6院は合併し、大相院を雲蓋院と改号、再興する。
大半の寺宝は現雲蓋院が所持するが、御成門は和歌浦養泉寺、通用門が和歌浦窓養寺、南竜院廟所厨子が西照寺本堂須弥壇厨子として現存するという。
明治8年天曜寺跡には南竜神社(祭神:頼宣)が建立される。大正6年には東照宮へ合祀される。
 (なお別当雲蓋院の跡地は全て薮と化している。:神社側説明)

2009/11/07追加:
「重要文化財東照宮本殿・石の間・拝殿ほか二棟修理工事報告書」和歌山県文化財研究会編、1981 より
「東照宮縁起」:
元和六年紀伊太守源大納言頼宣の選地・造営による。
「紀伊国名迹志」:
本社は東照宮左は山王明神、右は摩多羅神なり。社の西の側に薬師堂あり。これ本地の真身なり。層塔、護摩堂、鐘楼、御供所あり。山の下に寺あり、雲蓋院となずく。天台宗なり。和合院、正法院、玉泉院、宝蔵院、円成院、大相院これを六坊となずく。・・・
「和歌山県文化財総合調査報告書(T)」:
元和7年東照宮竣工、頼宣は同時に山麓の浜に東照宮別当を建立し、和歌山天耀寺と号する。天海は江戸から来和し、自ら開山となり、東照宮別当を兼務する。正遷宮の儀式のあと、2世として叡山日光の円空を指名する。
天耀寺(雲蓋院)には、家康の臣で後に頼宣に付随して紀州に移った重臣たちが寄進した六子院が建立された。
 和合院・元和8年筆頭家老安藤直次起立。別所和合院慶順が開祖。
 宝蔵院・元和9年次席家老水野重仲起立。駿河宝蔵院慶順が開祖。
 大相院・寛永5年家老彦坂九兵衛起立。山門南光坊円移が開祖。
 玉泉院・寛永年中、粉河三池坊天英が開祖。・・・・以上鳥居の東にある。
 円成院・寛永3年以降、江戸上野栖生坊亮盛が開祖。(享保2年国照院と改号、さらに後に十如院と改号)
 正法院・寛永20年家老水野義重起立。吉野山慶海が開祖。
さらに寺外六坊があった。
 寺外六坊・今福明王院(海部郡吸上)、高松円珠院(和歌浦)、名草郡坂田了法寺、吹屋町功徳寺、新町浄福寺、広瀬浄願寺
天耀寺(雲蓋院)伽藍:当初は寺地5反1畝の地に客殿・御装束所・小書院・庫裏・台所を建立、ただし御装束所・小書院は頼宣の命で駿府城から移築される。
寛政12年(1800)10代藩主治宝、南竜院霊屋を改築、12×6間の本堂を寄進、南竜院霊屋をその中に祀る。
天保2年治宝は寺地を拡張し、南竜院廟を建立、これによって東から綱紀霊屋、頼職・治員の相殿、宗直・宗将・斉順の相殿、治宝・夫人の相殿、歴代裏方の相殿、南竜院霊屋、光貞霊屋が並ぶこととなる。
 (別当<雲蓋院>における明治の神仏分離の処置・廃寺の経過は省略・・・概要は前項「雲蓋院」の記述と同じ)
「紀伊続風土記」天保10年の雑賀山の項:
○東照宮 境内方八町
 本社三座 前殿(5間×2間半)
  本地堂(方4間本尊薬師如来脇立日光月光四天王十二神将)
  三重塔(方2間本尊大日如来左右八幡神愛染明王) 鐘楼 護摩堂 神輿舎 御供所 宝蔵 竹臺 唐門 東西廻廊 楼門 慈眼堂
  拝殿 経蔵 御橋 御池(竹生島弁財天社あり) ・・・・
  別当 雲蓋院(和歌山天耀寺 天台宗) 本堂 大書院(御装束所・駿府より移築) 小書院 新書院 内仏殿 方丈 外庫裏
      内庫裏 表玄関 内玄関 四足門 通用門
  三重塔中八幡宮愛染明王は多田満仲出陣の守本尊にて新田義重寄附の鰐口と鉄の小さき鳥居あり今塔中に蔵む。
※神仏分離の処置で、明治4年10月、三重塔、鐘楼、鐘、薬師堂、護摩堂、神輿2基など破壊湮滅する。

2009/11/07追加:
「重要文化財久能山東照宮[本殿・石の間・拝殿、唐門、東門、廟門、玉垣、渡廊、末社日枝神社本殿、神庫、神楽殿、鼓楼、神厩、楼門、廟所参道]保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会、2009 より
瑞垣の西にある仮殿と神輿舎は大正7年合祀された南竜神社の遺構を移築したものである。

2015/10/30追加:
○「和歌山史要」増補3版、和歌山市役所、昭和14年 より
 和歌ノ浦雲蓋院
天台宗。和歌の浦東照宮に並び、雑賀山麓にありたり。もと東照宮別當寺。元和7年徳川頼宣の草創、慈眼台紙大師天海大僧正の開基にして、日光法親王支配下に代々僧正に任じ、徳川宗家及紀州家歴代の霊屋あり、その寺領、東照宮の分と合わせて千石余、・・・寺中六ヶ坊(十如院、和合院、玉泉院、寳藏院、正法院、大相院)末寺并支配32ヶ寺数える大寺なりしが、維新後明治2年霊牌所を廃せられ、ついで同3年神仏混淆禁止の太政官令により、東照宮奉仕を免ぜらるると共に寺領上地となり、寺中大相院に名存合併せらる。
同20年頃大相院を廃してこれを雲蓋院と改称せり。
 和歌ノ浦大相院
叡山末。雲蓋院寺中6ヶ坊の一にして、寛永5年紀州藩士彦坂九兵衛光正の造立、比叡山常光坊闘移の開基也。
明治3年4月東照宮祭典改正され雲蓋院はじめ玉泉院、寶蔵院、正法院、和合院、十如院の五ヶ坊廃するや当院に名存合併され、同4年僧徒残らずここに移りしが、後明治20年頃寺号を雲蓋院に改む。

○別当雲蓋院現況:
東照宮別當雲蓋院(天曜寺)は上記で縷々述べたように、明治の神仏分離の処置で廃寺、寺中であった大相院に他の寺中とともに合併、ところが明治20年に至り大相院を雲蓋院に改称し、現雲蓋院がある。
2007/03/28撮影:
 現雲蓋院/旧大相院:雲蓋院現況、寺暦は未掌握 (以上の通り)。本堂は新築されたと思われるも、今なお境内は未整備と思われる。
 推定雲蓋院歴代墓所:推定であるが、歴代 雲蓋院及び社僧の墓標と思われる。
(大相院が子院の内で、東照宮鳥居の外に営まれたのは、「神領の境内は死者を忌むゆえに、雲蓋院并に5ケの塔中に亡僧などある時は早速大相院に送りて葬儀などをなす」為と云う。 要するに、大相院は所謂葬式寺であったのであろう。)
20018/10/08撮影:
 現雲蓋院/旧大相院全容1    現雲蓋院/旧大相院全容2    現雲蓋院/旧大相院本堂    現雲蓋院/旧大相院庫裡など
 現雲蓋院/旧大相院堂宇:名称不明、なおこの堂宇の背後山麓一帯には多くの僧侶の墓碑がある。

○雲蓋院御成門/和歌浦養泉寺山門
雲蓋院御成門は和歌浦養泉寺に現存するという。
但し、確証は得られない。(住職は常住ではないと思われる。)山門が存在するので、この山門が移築さえたものと推定する。
20018/10/08撮影:
 推定雲蓋院御成門遺構1    推定雲蓋院御成門遺構2    推定雲蓋院御成門遺構3    推定雲蓋院御成門遺構4
 推定雲蓋院御成門遺構5    推定雲蓋院御成門遺構6    推定雲蓋院御成門遺構7
現在、山門の屋根の大部はトタン板で覆われる。相當程度屋根は傷んでいるものと思われる。
この山門が旧雲蓋院御成門である確証はないが、唯一眼に付くのは、降り鬼瓦に使用されている紋が「三つ葉葵」である。これは紀州徳川家の家紋と酷似した紋であり、これは雲蓋院の御成紋であるから、使用されているのかも知れない。

紀州東照宮三重塔跡現状

この項撮影日の明示の無い写真は2003/01/05撮影:

紀州東照宮三重塔跡:下図拡大図
本殿向かって左の社叢が三重塔跡

2007/03/28撮影:
 三重塔跡に至る石段
今般、三重塔跡への立ち入りは拒否されるも、
三重塔に至る石階は健在である。


社殿のある壇右に石階(A)がある。
三重塔跡に至る石段:下図拡大図

三重塔跡想定地には土蔵様な建物(壁をトタン板で覆う)がある。
塔跡土蔵様建物:下図拡大図



三重塔跡想定図:下図拡大図


その土蔵様建物には石階(B)が付属する。
この石階は塔婆に至る階段もしくは
基壇に至る階段の可能性があると思われる。
土蔵様建物石段(B):下記拡大図

(神社側の説明では塔に続く石階が残っているとのことであったが、(A)なのか(B)なのかは確認不足で、判然とせず。 )

日光東照宮は五重塔現存し、駿河久能山東照宮は五重塔跡ほぼ完存するも、紀州東照宮三重塔は跡地も判然とはせず。

2015/10/08撮影:
 紀州東照宮三重塔跡:推定、写真に写る建物は倉庫という。(拝観案内人の言)

紀州東照宮現状

無印は2003/01/05撮影、○は2007/03/28撮影、◇は2015/10/08撮影:

弁才天社:東照宮創建と同時期の元和7年(1621)の創建と云う。但し、現建物は近年のものと思われる。
 ◇紀州東照宮弁才天社     ◇紀州東照宮弁才天社社殿
紀州東照宮参道
 ◇紀州東照宮参道石橋:石橋下の流れは弁才天社池に至る。      ◇楼門下石階見上げ     ◇楼門下石階見下し
紀州東照宮社殿
楼門(重文・3間1戸、梁間2間・切妻造・本瓦葺き・元和7年)、平唐門(重文・元和7年)、
拝殿(重文・桁行5間、梁間3間・正面向拝3間千鳥破風・桧皮葺き・元和7年)、東西回廊(重文・元和7年)、
石の間(重文・桁行3間、梁間1間・桧皮葺き・元和7年)、本殿(重文・桁行3間、梁間3間・入母屋造・桧皮葺き・元和7年)が残り、
いずれも精巧な細工がなされ、極彩色が施される。
 紀州東照宮楼門3      同    楼門4      同   楼門5      同   楼門6      同    楼門7     同   楼門8
 ○紀州東照宮楼門A     ○ 同   楼門B     ○  同     楼門1    ○  同     楼門2
 ◇紀州東照宮楼門11    ◇紀州東照宮楼門12    ◇紀州東照宮楼門13    ◇紀州東照宮楼門14
 ◇紀州東照宮楼門15    ◇紀州東照宮楼門16    ◇紀州東照宮楼門17    ◇紀州東照宮楼門18
 ◇紀州東照宮楼門19    ◇紀州東照宮楼門20    ◇紀州東照宮楼門21
 紀州東照宮社殿1        同     社殿2
 ◇紀州東照宮社殿1    ◇紀州東照宮社殿2
 ○紀州東照宮唐門1     ○ 同   唐門2     ○ 同   唐門3
 ◇紀州東照宮平唐門11    ◇紀州東照宮平唐門12    ◇紀州東照宮平唐門13    ◇紀州東照宮平唐門14
 ◇紀州東照宮拝殿11
推定雲蓋院跡:判然とはしない。
 ◇推定雲蓋院跡1:通称「女坂」の半ばに石階の分岐があり、その下一帯が雲蓋院跡と推定される。この石階は本地堂の石階の残欠とも推測される。
 ◇推定雲蓋院跡2:上記の石階を少し南に入った付近の写真であるが、雲蓋院の趾と推定される。
 ◇推定雲蓋院跡3:県立武道館であるが、この付近も雲蓋院跡と推定される。
推定薬師堂趾:
社殿東側には倉庫(という)が建ち、三重塔跡と推定される。
一方本殿西側には塀で囲繞された区画があり、ここには権殿(仮殿)が建つ。「絵図」を検討すれば、おそらくこの権殿の建つ場所が薬師堂趾と推定される。 しかし、ここは、一般人は立ち入りは出来ないため、写真の撮影はなし。
なお、瑞垣の西にある仮殿と神輿舎は大正7年合祀された南竜神社の遺構を移築したものであるという。
 ◇推定本地堂趾:本地堂趾は判然とはしない。通称「女坂」の途中に平坦地があり、あるいは これが本地堂趾かもしれない。


紀伊和歌浦天満宮

2017/07/31追加:
○「和歌浦の風景 カラーでよむ『紀伊国名所図会』」2012 より(解説:額田雅裕、彩色:柴田浩子)
 
   妹背山/大相院/東照宮/天満宮:上図拡大図(容量:1.78MB):西村中和/画:「紀伊國名所圖繪」に彩色を施す。

2015/10/30追加:
○ 「紀伊国名所図会 巻之2」 より
妹背山/大相院/東照宮/天満宮:和歌の浦全図である。
 妹背山/大相院/東照宮/天満宮

和歌ノ浦天満宮略歴
延喜元年(901)菅原道真が大宰府に下向する時、海上には風波があり、それの回避のため和歌浦に船を停泊する。
この時、道真に供する敷物がなく、漁師たちは艫綱を円座にして道真に供したと伝える。(綱敷天神)
康保年中(964-968)参議橘直幹、大宰府から帰洛する途中に和歌浦に立ち寄り、この地に安楽寺天満宮を勧請する。これが和歌ノ浦天満宮の始まりである。
爾来、和歌浦天満宮は大宰府安楽寺天満宮北野天神と並ぶ天神と称される。
社殿は、豊臣秀吉の天正13年(1585)の紀州攻めの兵火で焼失の後、桑山重晴が荒神・本地堂などを建立、続いて浅野幸長により社殿・社地が造営される。
 ※荒神・本地堂は現存しないが、「紀伊國名所圖繪」には荒神・本地堂(観音)が描かれ、本地堂趾には石積が残る(未見)という。
慶長9年(1604)〜同11年(1606)浅野幸長は天神山の中腹を開き社地を造成、本殿、唐門、拝殿、楼門、東西廻廊などを再建する。これが現存する社殿である。 この時造営された本殿奥や楼門前面の石垣も現存する。
元和7年新たに入部した徳川頼宣は天満宮東に東照宮を造営、これを契機に天満宮神主安田氏は東照宮社司を兼務することとなり、天満宮は江戸期を通じ、紀州藩の庇護を受けることとなる。
即ち、万治元年(1658)、延宝5年(1677)、元禄11年(1698)、宝永7年(1710)、享保13年(1728)、安永元年(1722)に国主名でもって修理が行られる。さらに天保6〜7年(1835〜36)には大修理が行われたと記録される。
楼門は一間一戸の大規模楼門であり、様式はかなり純粋な唐様を用いる。これは神社建築としては異例である。
本殿は桁行5間、梁間2間、入母屋造、正面千鳥破風付き、向拝3間、檜皮葺である。
 ※なお、和歌浦天満宮の建築としての意味の詳細については、
 論文 「和歌浦天満神社の建築史的特質」鳴海祥博(「紀州経済史文化史研究所紀要」、和歌山大学 28、」(2007-12)所収) に詳しい。
 論文「和歌浦天満神社の建築史的特質」 より
  天満宮境内・変遷図

和歌浦天満宮現況

楼門<重文、慶長10年(1605)の建立>、 本殿 <重文、慶長11年(1606)の建立>、 末社多賀神社本殿<重文、未見>、 末社天照皇太神宮豊受大神宮本殿<重文、未見>の4棟の重文建築を有する。
2007/03/27撮影:
 紀伊天満宮遠望:今で云う権現山に鎮座し、東照宮はこの東に鎮座する。東照宮創建に 際し、地主神として崇敬される。
2015/10/08撮影:
 和歌浦天満宮     和歌浦天満宮石階
 和歌浦天満宮楼門11   和歌浦天満宮楼門12   和歌浦天満宮楼門13   和歌浦天満宮楼門14
 和歌浦天満宮楼門15   和歌浦天満宮楼門16   和歌浦天満宮楼門17   和歌浦天満宮楼門18   和歌浦天満宮楼門19
 和歌浦天満宮社殿1    和歌浦天満宮社殿2    和歌浦天満宮社殿3    和歌浦天満宮唐門1    和歌浦天満宮唐門2
 和歌浦天満宮本殿11   和歌浦天満宮本殿12   和歌浦天満宮本殿13   和歌浦天満宮本殿14
 和歌浦天満宮本殿15   和歌浦天満宮本殿16   和歌浦天満宮本殿17   和歌浦天満宮本殿18   和歌浦天満宮本殿19


2009/11/16追加:
●不老橋:
嘉永3年(1850)大御所徳川治宝は東照宮御旅所の場所替えと道筋の普請を命ずる。
嘉永4年御旅所の普請が完成、次いで「御旅所裏道」に架かる石橋が完成する、この石橋は「不老橋」と呼称される。
この普請の背景には御旅所付近の塩田化・耕地化の進展があり御旅所と云う聖地の俗化が進行したと云う事情があった。それに加えて元御旅所付近は風波の被害を受けたこと、当時の飢饉などで貧窮対策事業の実施が要請されたという事情も重なったとされる。
(新御旅所は元御旅所の東南方向・入江の入り口付近に移動する。)
 2007/07/31「O」氏撮影画像
  紀州東照宮不老橋1     紀州東照宮不良橋2
 2007/03/27撮影:
  紀州東照宮不老橋3

2009/11/16追加:
●和歌の浦の範囲・歴史的意義について
和歌の浦の範囲については時代によりあるいは人により想い描く範囲は様々であろう。
ましてや紀州人でないあるいは思い入れの無い部外者が範囲など指し示すのは「差出がましいこと」であろうが、お許しを希う。
「和歌の浦」の範囲は、最も狭義には現在の地名「和歌の浦」(愛宕山以南、和歌川河口から出島浦の範囲、妹背養珠寺・東照宮などが入る)を指すのであろう。
広義では今で云う「新和歌の浦」を含むことは勿論、東は名草山(紀三井寺など)、西は雑賀崎浦までを含む地域と云えるであろう。
この広義での範囲は名勝「和歌の浦」を主題とする多くの絵図に取上げられた範囲でもあることが傍証となろう。
 当サイトで取り扱う妹背山多宝塔養珠寺、紀州東照宮、紀三井寺のページなどは「和歌の浦」の範囲にある。
 また広義の「和歌の浦」の範疇には雑賀崎も入るのであるが、雑賀崎には例えば下記の景観がある。
 2007/07/31「O」氏撮影画像
  雑賀崎からの景観1:雑賀崎西方に浮かぶ双子島・中ノ島、大島(左から)
  雑賀崎からの景観2:大島の右に、鼻状に突き出した岬が番所ノ鼻
一方歴史的な意味では、中世末期の豊臣秀吉の雑賀攻めで紀州の中世は終わり、豊臣秀長・羽柴秀保(ともに代官は桑山氏)の統治、浅野氏の統治を経て、徳川頼宣の入府によって紀州の近世の領国経営は完成すると云われる。
頼宣は中世以前の玉津島信仰(古代の巌山信仰、丹生明神との同体説などあり)、天満宮(菅原道真)、矢の宮(雑賀庄などの総鎮守・産土神と云われる)などが鎮座するこの地を自ら検分し、この地に東照宮の建立を企図する。
これは古くからの景勝の地であり、さらに上述のような様々の階層の信仰がある地に、近世権力の象徴としてあるいは自らの権威の祭祀化として東照宮(別当天曜寺・妹背山多宝塔・養珠寺などを含めて)を創建することによって、宗教的に近世封建性のスタートを宣言したものであろう。
以上の意味で、「和歌の浦」は景勝地であると同時に頼宣の領国経営の「聖地」としての意味を持つに至ったのであろう。


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