和  泉  家  原  寺

和泉家原寺三重塔・多宝塔

和泉家原寺(再興)三重塔

平成元年(1988)建立。総檜、彩色。本格的な木造塔婆。高さ20m?。

2001/09/19撮影:
和泉家原寺三重塔11
  同        12
  同        13

2006/02/18撮影:
和泉家原寺三重塔1
  同        2:左図拡大図
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7

古建築はないものの、広大な境内に諸伽藍が点在し、三本尊の内の文殊菩薩は日本三文殊の一つとされ、広く信仰を集める。
この地は行基菩薩の生誕地といい、慶雲元年(704)生家を寺に改めて当寺が成立する。
古は東大寺式伽藍が一山を埋めたが、度重なる兵火で衰微する。

 

和泉家原寺(退転)三重塔

2007/03/16追加:
創建時の家原寺堂塔について、一般的には以下の「行基と律令国家」の見解のように云われる。
「行基と律令国家」:
「『年譜』慶雲元年の条、『堂1宇一間四面、塔1宇三重』とある堂は金堂で今の本堂の位置であり、
塔は『和泉名所図絵』の『家原寺伽藍図』の右下『たんじょうぼく(たん生木)』と云われる土饅頭のように描かれているのが土壇であったと思われる。」(伽藍図は部分)
以上が正しいとすると、現在本堂西に残る「誕生塚」(上には八角?堂が建立されている)という土壇が創建時の三重塔土壇と思われる。
 ※誕生塚土壇の写真は未撮影。
207/12/24追加:
「現存する行基開基寺院」田中重久、(「史迹と美術」127・128号、昭和16年 所収)
「行基年譜」:慶雲元年(704)行基37歳の条:「此歳、掃清於本生家、為仏閣。即家地原寺是。」家原寺は「堂一宇(一間四面)塔一宇(三重)」とある。
三重塔には以下の文を刻んだ金筒を埋めるとあるという。(「行基年譜」)
「・・・今為令衆生出離生死、往生極楽、頓証菩提。数点此所、亦於此所、起立塔廟。但縁猶薄、運在像末。若一人、如我起立、当知是人即我身、是結縁、此者速、得成仏、□□、此者敬当勤習、発決定心、勿生疑惑。歳次戊寅(738年)、沙門行基。慇末代輩、記貽来葉・・・」
 ※行基、三重塔建立は歳次戊寅(738年)と知れる。
本堂の西南、放生池の西に行基塚と呼ばれる土壇が三重塔跡である。
なお境内からは8世紀の瓦が出土する。

また行基菩薩の創建時は「・・・三層の塔中には四智佛を描いて安じ・・」との記録があると云う。(出所不詳)

「行基菩薩行状絵伝」(推定鎌倉期・家原寺蔵・重文)では、背後の山「一乗菩提峯」を背にして、入母屋造の堂一宇、三重塔一基、及び前面の池沢が描かれているという(未見)。

2005/11/23追加:
天保3年(1832)の「三重塔婆図」が現存する。
 (三重塔再興計画があったと思われる。)

「摂河泉の寺社境内図と造営資料」大阪歴史博物館編集、2003:より
家原寺三重塔婆図: 左図拡大図
天保3年(1832)、大阪歴史博物館蔵
当図裏に
「棟迄/惣高サ4丈7尺8寸5分/天保3辰5月吉日/木村清七/中之間5尺木割図」
とあるという。縮尺1/10。
  ※4丈7尺8寸5分=14.5m

和泉家原寺多宝塔:明治維新の頃退転か

和泉名所圖會より:

家原寺伽藍図(全図)
家原寺多宝塔(部分図)
記事;
「一乗山、開基 行基菩薩、中興 興正菩薩、本尊文殊菩薩。
 多宝塔(大日如来を安置す。香燈木院と号する)、不動堂、祖師堂、薬師堂・・・・」

 ※なお「楼門址 本堂の前下段にあり、仁王門 金剛力士を安ず」とあり、方丈池と表門(南大門か)との間に12個の礎石を描くが、これが楼門(即ち中門)址と思われる。

多宝塔の建立場所は現在三重塔が再興されている場所に近いと思われる。

※図の多宝塔が廃絶した理由については、現在情報を持ち合わせてはいない。
(近世末まで現存?の可能性が高いと思われる。)
「日本塔総鑑」では「明治初年に失われたらしい。 」という。


2007/12/24作成:2007/12/24更新:ホームページ日本の塔婆