大  和  菩  提  山  正  暦  寺  三  重  塔

大和菩提山正暦寺三重塔(菩提山、菩提山寺)、十三重塔

菩提山正暦寺古図(天正古図)・・・正暦寺蔵:「正暦寺修正会」大原弘信、正暦寺、1991 より絵図を転載

 本絵図の菩提山伽藍には三重塔、正願院門跡・常光院伽藍には十三重塔、龍泉谷薬師院には三重塔が描かれる。
菩提山正暦寺には正暦寺三重塔、十三重塔、薬師院三重塔が存在したと思われる。
この内、正暦寺三重塔は天保7年(1836)諸伽藍焼失の時類焼と推定されるが、現在は塔基壇・塔礎石の一部を残す。
しかし、十三重塔、薬師院三重塔は早くから失われたようで、その跡の明確な遺構はなく詳細を明らかにはすることはできない。
 今現在、現地に残る堂舎は菩提山伽藍と寺中福寿院のみとなり、その他の堂塔伽藍は全て退転するも、現地を逍遥し、今も此処かしこに残る遺構を子細に観察すれば、「天正古図」と云われる「菩提山古絵図 」で描かれた山容を現実のものとして蘇らせることが可能である。
即ち、菩提山の大部は荒地・田畑・山林・藪・駐車場などに変貌するも、現地では、数十にのぼる坊舎跡の石垣が累々と残ることが確認できる。特に深い藪の中に、辛うじて廃道が残り、半分崩壊した伽藍・坊舎の石垣が忽然と姿を現し、延々と続くのは感動を 覚える風景である。
つまり天正古図で描く菩提山の山容は決して、空想や誇張ではなく、現地の地形・遺構と照らし合わせれば、絵図で描く堂塔・坊舎・石塔はほぼ正確に照応するのである。中世末期の菩提山は天正古図の描くとおり実在したのである。  

菩提山正暦寺古絵図(天正古図)表題

天正古図
菩提山正暦寺古絵図2:下図拡大図:画像容量大:上が南・下が北

菩提山正暦寺古絵図3:上図を天地逆回転・画像容量大:上が北
菩提山正暦寺古絵図:上の古絵図と同一:画像容量小

 

 

 

 

 

 

天正古図・仮称惣門谷:菩提山大門(惣門)から菩提仙川両岸沿いの福寿院手前までを「惣門谷」と仮称する。
天正古図・菩提山伽藍・中尾谷:2012/03/22図差替:図上が北:
中尾谷は菩提山伽藍下東にある。上下の菩提仙川の合流地点がら上菩提仙川右岸沿いに坊舎と上下菩提仙川に挟まれた場所からなる。
上下菩提仙川に挟まれた場所に迎接院跡・蓮光御墓がある。
天正古図・福寿院付近:絵図中央やや上が福寿院
 :上が南
天正古図・浄光院伽藍1:正願院門跡・浄光院などの伽藍坊舎群
 :上が南
天正古図・浄光院伽藍2:正願院門跡・浄光院などの伽藍坊舎群
 :上が北
天正古図・報恩院/龍泉谷1:報恩院などの 坊舎群・龍泉谷(薬師谷)の伽藍坊舎群:上が南
天正古図・報恩院/龍泉谷2:報恩院などの坊舎群・龍泉谷(薬師谷)の伽藍坊舎群:上が北

天正古図部分図4(中央部分伽藍図)
 ※図上が南
天正古図部分図5(中央部分伽藍図)
 ※図上が北、この図は下の大和名所圖會と同一の構図

 ○菩提仙明治26年頃境内図:明治26年編「寺院明細帳」     ○天正古図・菩提山塔頭注釈:左記を「天正古図」に落としたもの
 ○菩提山現状略図:「天正古図」を現実の地形に落としたもの
 ○天正古図・浄光院伽藍注釈      ○天正古図・報恩院龍泉谷注釈

参考:「天正古絵図」の世界は現在の地形・遺構・遺物などと照合した結果、極めて実描写に近いものと判明する。
つまり、こjの絵図の描く世界は決して、空想や誇張ではないのである。
唯一点、浄光院伽藍の堂塔と薬師院伽藍の堂塔の描写のみは、菩提山伽藍の堂塔の伽藍と比べても、やや誇張されたきらいもあるが、これは描画時には現実の堂塔が退転していたため想像でしか描くすべがなかったためであろう。
決して、浄光院十三重塔や薬師院三重塔の存在したことを否定することにはならないのである。
 ところで
木造十三重塔が現存するのは多武峯妙薬寺の一基のみであるが、文献上 あるいは遺構の残る木造十三重塔は以下が知られる。
 ※山城笠置寺南都興福寺四恩院鎌倉極楽寺山城高山寺山城光明峯寺大和長谷寺・大和菩提山正暦寺・備前八塔寺

大和名所圖會:寛政3年(1791)刊に見る正暦寺

菩提山正暦寺全図:左図拡大図
 :(2012/03/06、2012/03/22画像入替)
記事:
「竜樹院と号する。寺中42坊あり。本尊薬師仏。」

大和名所圖會・惣門・付近寺中:部分図

菩提山三重塔跡現状

塔跡の現状

2012/03/15:再度実測:一部法量を訂正:

○塔基壇は切石の乱積基壇で、一部崩落するも、ほぼ原形を留めると思われる。
○塔基壇の一辺は正面・上辺で約7.8mを測る。
基壇の高さは一番高いと思われる南東角で90cmである。
○元位置を保つと思われる側柱礎(自然石・A−F)5個が残存する。
さらに基壇上には浮遊した礎石と思われる石1個がある。
○計測値:A−Cは約3.4m、C−F(Fを東にD−E線まで移動したとして)約3.3mを測る。
(約10cmの誤差があるが、これは礎石の形状が不整形であり、正確な柱間が計測できないことによるものであろう。)

○以上から、両脇間は3尺(90cm)、中央間は5尺(150cm)からに5尺3寸(160cm)と考えられる。
おそらくは中央間5尺、両脇間3尺の設計であり、だとすれば、塔一辺(心心)は3.3mとして良いであろう。

○塔は東を正面として、本堂(南面)に向かって左前に建つ。
○幅180cm、踏代27cm高さ18cmの4段の石段が完存する。
○塔中心位置には一本の広葉樹が立ち、中心礎石、四天柱礎の存在は不明。
○椽束石は見当たらず、無いものと思われる。
大和名所図會の絵では縁を廻らせてはいないように描かれる。

 ※数値は概要の数値である。


塔跡基壇と本堂:左図拡大版)
塔跡基壇正面
塔跡基壇南面
如意経堂跡(左)塔(中)春日社(右)跡
塔跡基壇(上から)
塔側柱礎1
塔側柱礎2
塔側柱礎3
塔石段 1
塔石段 2
塔石段 3
本堂向かって左手に、如法経堂跡、三重塔跡、春日社跡が残り、各々の基壇も明瞭に残る。

2012/02/26撮影:
 菩提山三重塔跡11     菩提山三重塔跡12     菩提山三重塔跡13     菩提山三重塔跡14     菩提山三重塔跡15
 菩提山三重塔跡16     菩提山三重塔跡17     菩提山三重塔跡18     菩提山三重塔跡19     菩提山三重塔跡20
 菩提山三重塔跡21     菩提山三重塔跡22     菩提山三重塔跡23     菩提山三重塔跡24
2012/03/15撮影:
 菩提山三重塔脇柱礎4     菩提山三重塔脇柱礎5     菩提山三重塔脇柱礎6


正暦寺略歴:2007/06/26書換・修正:参考資料「正暦寺一千年の歴史」、1992 より
          2012/03/22追加:「重要文化財正暦寺福寿院客殿修理工事報告書」奈良県教育委員会、1978.8 より

菩提山竜華樹院と号する。本尊:金銅薬師如来倚像(重文・白鳳)

本尊金銅薬師如来は、天平8年(738)唐より来朝した印婆羅門僧菩提遷那の請来したもので五ヶ谷北椿尾に祀られていたと伝承する。
しかし、記録としては近世のものしかなく、不明とするしかない。

永祚元年(989)一条天皇、霊夢により、当地菩提山に寺院建立を発願、兼俊僧正に勅命する。
 ※兼俊僧正:関白九条兼家(藤原道長の父)の息と伝えるも確認できない。別院の自坊報恩院を創建。
 2012/03/08追加
 ※菩提山入口大門付近に青龍ヶ淵があり、ここに出現した青龍が東方の龍泉谷に飛び一条天皇勅使を導くと云う。(明治26年記録「古伝」)
龍泉谷には龍泉寺跡があり、薬師仏を安置したので、薬師谷とも称する。
天正古図では薬師院が描かれ、古伝と一致する。
 (更に東方に薬師堂跡と見えるが、あるいはこれが古伝に関係するのかも知れないが、不明。)
 
正暦3年(992)兼俊僧正により、勅願寺菩提山正暦寺が創建される。
 ※以上は古記録散逸のため、応永16年1409「正暦寺原記」、江戸中期「和州菩提山并舎利伝記」の中世・近世文書による。
その後、おそらくは藤原北家などと関係を持ち、寺領の寄進を受け、発展したものと推測される。(報恩院以下86坊があったという。)

報恩院:開山兼俊僧正が自坊として建立、正願院を別にして、明治維新まで真言密教を奉じ、院家の筆頭であり、正暦寺一山を支配した。
現在も報恩院跡に兼俊僧正墓所が残り、十三重石塔(鎌倉期)が残存する。
     ・2012/02/26撮影:報恩院跡十三重石塔1報恩院跡十三重石塔2:兼俊僧正墓所(鎌倉期)
     ・2012/03/15撮影:報恩院跡十三重石塔3報恩院跡十三重石塔4
 報恩院家:天正古図・報恩院/龍泉谷1(薬師院伽藍と報恩院家) ※報恩院は図左 やや上:図上が南・・・上掲載図

開山当時、「正暦寺原記」によれば、龍華樹院と坊舎86坊などがあったと云う。
しかし、近世の諸記録によれば、龍華樹院は興福寺荒池付近に中世を通じ存在したことが知られる。
古代・中世の正暦寺の姿を知る確実な資料がなく、何れとも決し難いが、これは何れにせよ、興福寺と菩提山(興福寺配下の菩提山、興福寺別院としての菩提山、藤原氏の氏寺的な性格の正暦寺)の深い関係を示唆するものかも知れない。
 なお、京都玄琢土橋邸には文永10年(1273)銘の龍華樹院石燈籠が遺されると云う。
川勝氏紹介文では、この石燈籠は花崗岩製、六角形、総高2.2mもの、竿の部分に「龍華樹院 十三重 塔之石 燈籠也 願主故 □□□
沙汰人 □□□ 文永十年癸酉」と云う。龍華樹院十三重塔前に奉納されたことが分かる。(「福寿院客殿修理工事報告書」)
 ※龍華樹院十三重塔とは中世末まで存在した興福寺龍華樹院(興福寺龍華樹院に十三重塔があったのかどうかは不明)なのか、あるいは、奇しくも菩提山浄光院に十三重塔が描かれるが、この菩提山(龍華樹院)十三重塔を指す可能性もあり、もしそうであれば、菩提山縁の石燈籠と云える。

治承4年(1180)平重衡の南都焼討で全山炎上、廃墟と化す。
養和元年(1181)信円(関白忠通の息)興福寺別当に着任、興福寺復興に着手、文治5年(1189)復興なり、興福寺別当辞任。
文治年中以降、信円は正暦寺復興に専念する。承元2年(1208)経蔵、建保5年(1217)本堂落慶。
建保6年(1218)信円大僧正がさらに一区画の法相伽藍および坊舎数十を再興(興福寺信円は中興開基とされる)。
金堂・弥勒堂・講堂・十三重宝塔・経蔵・御影堂・鐘楼・六所社などと別院正願院門跡などが整備されたという。

正願院門跡:信円は正暦寺経営(再建)と平行して、自坊正願院を造立する。
文明10年(1478)「大乗院寺社雑事記」:信円開山時には、正願院御堂、中門、奈良大門<正暦寺大門か>之建立、薬師堂塔、真言堂以下は後代に至って、造立了りぬ・・・。
天正古図・浄光院伽藍1:上が南 (天正古図・浄光院伽藍2:上が北)では、本堂東南、報恩院家東北に位置する、正願院門跡は常(浄)光院と号する堂塔があり、六所社を祀る。
常(浄)光院は大講堂、御影堂、経蔵、宝蔵、十三重大塔、墓所(信円、良円・・信円弟子・九条兼実息、九条基房)からなる。
六所社は熊野・吉野・春日・八幡・白山・大龍王を云う。
信円死後(貞応3年1224)、正願寺は弟子実尊が相続、この時から門跡は大乗院門跡が兼帯する。以降中世末まで大乗院門跡の支配が及ぶ。(法相の道場)
 ※信円は興福寺の有力院家(一乗院・大乗院・龍華樹院・禅定院・喜多院)を兼帯、また師の尋範から内山永久寺を引継ぐという。
 ※正願院は江戸初頭まではその存在が確認できるが、江戸中期には退転し、今は田畑・藪となる。
   正暦寺古絵図(江戸期):正願院部分図
 ※上記「大乗院寺社雑事記」中の「薬師堂塔」とは正暦寺伽藍三重塔なのか薬師院三重塔なのかは不明。

2012/03/08追加:
「<論文>菩提山本願信円の夢」大原 眞弓(「史窓」Vol.58、2001 所収) より
 信円は摂政関白藤原忠通の息として、仁平3年(1153)生れる。
応保元年(1151)興福寺恵信(忠通長子)に入室・出家する。
永万2年(1166)一乗院院主となる。(尋範の弟子)
治承弦念(1177)一乗院・大乗院兼帯
治承5年(1181)興福寺別当に補任される。(前年に興福寺は全山焼失・壊滅す。)
天仁元年(1224)菩提山に於いて逝去、菩提山本願僧正と号される。
 常光院(寺伝では浄光院)跡地の一角に信円・良円(正願院2世とする)・基房と伝えられる3基の墓(鎌倉期の宝篋印塔)があった。これは昭和48年本堂下に移転する。
    ・2012/02/26撮影:伽藍下宝篋印塔3基:菩提山伽藍下にある。
    ・2012/03/15撮影:伽藍下宝篋印塔3基2    伽藍下宝篋印塔3基3    伽藍下宝篋印塔3基4    伽藍下宝篋印塔3基5
文治2年(1186)菩提山正願院本尊開眼、建保6年(1218)菩提山本堂再建
 江戸期の古絵図(上掲「正暦寺古絵図」であろう)では常光院・正願院と推定される院家、鎮守六社社が描かれ、常光院には弥勒大講堂、十三重大塔、御影堂、経蔵、墓所(信円、良円、基房)、門が描かれる。

建暦年中(1211〜13)蓮光(法然弟子)が専修念仏を伝えるべく、中尾谷(本堂東下)に移り住み、安養院とその別院迎接院を建立する。
 ※専修念仏は一時隆盛するが、蓮光死後、中尾谷に真言宗大坊が建立され、中世末には大坊に主導権を譲り、什宝を本堂に預けるという。
 享保15年(1730)伝来の什宝を本山に寄進、迎接院本尊も本山に寄進して、その歴史を閉じる。
 迎接院跡には蓮光墓という宝篋印塔が残ると云う。
  天正古図・菩提山伽藍・中尾谷:菩提山伽藍下、菩提仙川東には中尾谷があり、
  ここは蓮光法師(法然上人弟子)が安養院とその別院迎接院を営んだ場所である。
  迎接院跡には蓮光法師の墓が残ると云う。図の中央やや下右端に「蓮光之御墓」の注記と石塔(宝篋印塔)が描かれる。
    ・2003/05/28撮影:中尾谷宝篋印塔
    ・2012/02/26撮影:中尾谷蓮光宝篋印塔1中尾谷蓮光宝篋印塔2中尾谷蓮光宝篋印塔3
    ・2012/03/15撮影:中尾谷蓮光宝篋印塔4中尾谷蓮光宝篋印塔5中尾谷蓮光宝篋印塔6

鎌倉期、信円によって復興した菩提山は創建以来の真言密教の報恩院家を中心とした院家群、大乗院門跡支配の別院・正願院門跡(伽藍は浄光院)を中心とする院家群の法相空間、本堂東下の中尾谷の蓮光以来の迎接院での浄土・舎利信仰に加え、大坊成立後は真言密教の学僧も住む空間の3つが形成される。
要するに、中世正暦寺は、真言宗報恩院が寺務を執行し、また中興信円の法相(興福寺)も修せられ、また浄土教も安養院・別院仰接院を中心に行われたとされ、隆盛であったと云う。

2013/02/26追加:
「和州菩提山正暦寺中尾谷と浄土信仰--牙舎利信仰をめぐって」大原真弓(「史窓 (49)」京都女子大学史学會、1992 所収)
 ※本論考の本旨である蓮光の思想や系譜などは論及が高度であり、本ページの主旨に合致しないので割愛する。
鎌倉期以降、正暦寺の宗教空間は次の4つに大別できる。
1)本尊薬師如来を祀る本堂
2)本堂東の中尾谷
 ここでは、多くの人が往来、止宿したと考えられる。多くの人とは浄土聖、勧進聖、楽人、修験、尼僧たちである。
 本堂東は二本の川が合流し中尾川(現在は菩提山川)となっていくが、その合流点の谷が中尾谷である。
 また二本の川に挟まれた一帯を通称「川向ヒ」といい、ここに中尾谷浄土信仰の中心となった迎接院が蓮光によって建てられる。
 中尾谷のもう一つの中心は、迎接院の建立後、鎌倉後期に建てられたと推定される大坊である。
 大坊は江戸期吉野修験当山派十二正大先達の一つであり、20年ごとに宝蔵院と大先達を交替したと云う。
3)中世から近世まで寺務を所管していた報恩院家(開山兼俊の墓を守る)とその周囲の真言宗坊舎群
4)信円建立の正願院とその伽藍である常(浄)光院。法相伽藍である。(以上)

康正元年(1455)兵火により、堂塔および坊舎の大半が焼失。
文明8年(1476)堂塔子院の大半の復興なる。
延徳3年(1491)伽藍旧観に復する。(延徳3年本堂・三重塔・灌頂堂以下建立之了)
永正4年(1524)伽藍坊舎火災により灰燼に帰す。大門のみ残る。寺領1000石。
大永4年(1507)伽藍坊舎(82坊)再興なる。(法相は正願院門跡、真言は報恩院が差配。)
慶長6年(1601)の寺録約987石の配分は以下のとおり
伽藍修理料(173石)、報恩院家(118石)、西福院(15石)、金蔵院(25石)、顕識坊(1石)、珍蔵院(6石)、妙観院(13石)、最勝院(5石)、成福院(6石)、時之坊(4石)、三蔵院(10石)、善勝院(1石)、蓮春院(5石)、春禅坊(9斗)、金剛院(6石)、小坂坊(2石)、円満院(5石)、了禅坊(1石)、西音院(13石)、角之院(16石)、円勝坊(3斗)、宝光院(37石)、興善院(9石)、向之坊(6石)、阪ノ上坊(2石)、明王院(5石)、観音院(3石)、新坊(1石)、瞬聖坊(4石)、口ノ坊(2石)、蓮華院(7石)、西之坊(10石)、普門院(8石)、浄瑠璃院(4石)、文殊院(8石)、威徳院(6石)、徳蔵院(6石)、浄宗坊(2石)、宝蔵院(5石)、大福院(13石)、霊仙院(10石)、瞬宗坊(5石)、辻坊(9石)、福寿院(21石)、春顕坊(13石)、知足院(43石)、大坊(11石)、観瞬坊(3石)、宝幡院(15石)、安楽院(46石)、浦之坊(5石)、実相院(5石)、多門院(8石)、奥ノ坊(4石)、拾宝院(28石)、勝瞬院(12石)、西方院(11石)、光蓮院(6石)、中之坊(4石)、宗顕坊(4石)、了識坊(1石)、成身院(6石)、一心院(7石)、賢浄坊(11石)、祐瞬坊(1石)、吉祥院(3石)、勢至院(1石)、南坊(9斗)、釈迦院(1石)、金剛幢院(18石)、返照院(6斗)、前之院(1石)、北ノ坊(3石)、端ノ坊(1石)、西転経院(7石)、教順坊(1石)、仏光院(20石)、二階ノ坊(5石)、春陽坊(12石)、持宝院(25石)、前ノ坊(2石)、良春坊(6石)、浄勝坊(1石)の82の院坊があった。
 *石以下(斗以下)は全て切り捨てて記載

寛永6年(1629)堂塔坊舎焼失。寺録は300石となる。(多くの坊舎を抱え、いよいよ菩提山は財政的に窮乏する。)
 ※焼失前の様子については「菩提山伽藍図」で全容が知れる。
本堂、三重塔、護摩堂、観音堂、地蔵堂、灌頂堂、鐘楼、経蔵2、如法経堂、御影堂、十三重塔、弥勒堂、六所明神、鎮守などがあった。
その後順次堂塔坊舎は復興される。しかし法相は順次廃絶していく。
寛永7年(1630)82坊、延宝8年(1680)80坊余り(学侶坊32、下僧坊20、30は兼務、寺僧49人余り、下僧20人余り)
 2003/7/18追加
 ○元禄5年奈良奉行宛て「明細帳」:大和志(上)所収
      覚
     真言一宗
  1.御朱印300石和州添上郡菩提山正暦寺
  1.開基・・・
   伽藍
  1.本 堂 本尊薬師如来
  1.灌頂堂 本尊大日如来
  1.地蔵堂 千躰仏
  1.如法経堂 毎日三時不退御祈祷
  1.三重塔 本尊釈迦如来多宝仏
  1.鐘 楼 一宇
  1.施餓鬼堂 本尊阿弥陀如来
  1.宝 蔵 一宇
   神社
  1.鎮守一社 春日大明神
  末社 土公神、善女竜王、牛頭天王、弁財天、閼伽井明神、石荒神
  .六所明神 春日、八幡、吉野権現、熊野権現、白山権現、善女竜王
   末社 新宮
  1.峯弁財天 一社
   寺家
  院家 報恩院
  ・大福院、・福寿院、・金蔵院、・実蔵院、・成身院、・霊山院、・経蔵院、・迎接院、・多聞院、・光幢院、・蓮華院、・拾玉院、・興善院、
  ・西福院、・徳蔵院、・明王院、・威徳院、・文殊院、・西音院、・珍蔵院、・西方院、・知足院、・普門院、・妙感院、・釈迦院、・橋之院、
  ・北之坊、・松之坊、・峙之坊、・実光院、・吉祥院、・東遍照院、・地蔵院、・弥勒院、・仏光院、・岸之坊、・中之坊、蔵之坊、・杉本坊、
  岩之坊、前之坊、宝珠院、前之院、竹林坊、梅之坊、下之坊、浄瑠璃院、谷之坊、角之坊、転経坊、上之坊、三蔵院、多楽院、金剛幢院、
  光蓮院、西遍照院、大門之坊、花蔵院、実相院、東之坊、成就院、安楽院、椿之坊、・奥之坊、南之坊、西之坊、満蔵院、観音院、小坂坊、
  新坊、持宝坊、十輪院、辻之坊、坂之坊、浄土坊、桜之坊、東橋之坊、
   寺数83株
         以上
   ※但し寺家83は株数で、元禄の頃は・(点)を付した40余坊が存在という。

元禄13年(1700)ほぼ伽藍が再興される。
江戸中期からは仁和寺末となる。
享保12年(1727)40坊、寛政3年(1791)有住20坊、天保6年20坊(有住15坊)
中世から近世まで、宝蔵院・大坊は大峰当山派で正大先達を保持する。
天保7年(1836)諸伽藍焼失。観音堂・地蔵堂・施餓鬼堂・宝蔵などのみ残るという。
嘉永7年(1854)9坊(内無住1)、僧侶8人
文久4年(1864)本堂再興(但し資金不足のため、屋根は杉皮葺のまま放置されるという。)

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※以上から、三重塔の興亡は以下のように推定される。

 寛永6年(1629)三重塔も焼失と推定される。
 少なくとも、元禄5年(1692)頃までには、三重塔も再興されたと思われる。
  ※元禄5年「明細帳」では三重塔の書上げがある。(下記参照)
 寛政3年(1791)刊:大和名所圖會には三重塔が描かれる。
 天保7年(1836)諸伽藍焼失の時、三重塔も類焼したと推定される、以降再興はされず。
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明治維新以降の正暦寺

2012/04/08追加:
 「正暦寺修正会」大原弘信 では以下のように記す。
  江戸期には300石の朱印があり、これは薬師寺・唐招提寺・西大寺と同じであったが、山内には80余の塔頭があり、
 その経営は窮地に陥る。
 江戸期の260年は正暦寺にとって餘に長く、その間大半の塔頭は倒れ、山を離れる僧は跡を絶たなかった。
 明治の神仏分離・廃仏毀釈で、ただ一人の僧侶、大原秀全を残すのみとなる。辛うじて残った四つの塔頭、福寿院・徳蔵院・吉祥院・
 多聞院については大原秀全や末寺の住職を名義上の住職にして、その名目を保とうとした。
 しかしただ一人の僧・大原秀全も過労のため、明治32年43歳の若さでこの世を去る。その子の大原最俊は8歳であった。

安政3年(1856)吉祥院修理、同4年宝蔵院修理。慶応3年1867)徳蔵院修理。
明治維新で僧侶の離散が相次ぎ、なお一層荒廃する。
明治元年三輪社若宮から仏像・仏器を55両で引取り。
明治8年成身院再建、普門院・大福院廃絶。大原全秀正暦寺住職となる。
明治9年福寿院・吉祥院無住となる。
明治16年本堂焼失。(「和州菩提山正暦寺中尾谷と浄土信仰」より)
明治17年観音堂(寛永7年再興堂)焼失。
明治23年宝蔵院庫裏倒壊。
明治26年の寺院明細帳:本堂・宝蔵・惣門・施餓鬼堂(昭和初期に退転)4宇と寺中9寺。
坊舎(寺中9院)は普門院、吉祥院、大福院、多門院、宝蔵院、福寿院、徳蔵院、成身院、報恩院と云う。
しかし報恩院、成身院、宝蔵院は廃頽し、実際に坊舎があったのは福寿院、徳蔵院、吉祥院、多門院(普門院は不明)のみと思われ、僧侶は1名のみで兼務であったという。
 菩提仙明治26年頃境内図(寺院明細帳 より)
大正2年普門院移転(福岡県糟屋郡志賀島村大正院に移転)
大正5年本堂を建替。(「和州菩提山正暦寺中尾谷と浄土信仰」も同様の記載)
大正14年鐘楼再建。
大正11年六所明神(神社)を春日神社に合祀。
昭和36年第2室戸台風で惣門倒壊。
 ★倒壊前惣門(山門)写真:写真は正暦寺所蔵、再興を試みるも、現在なお再興に至らずと云う。
昭和42年仁和寺から独立、菩提山真言宗大本山と称する。

2013/02/09追加:2013/02/26追加・加筆:
◎奈良県公文書(奈良県立図書情報館蔵) より

◇明治2年「寺院及人民願伺届之件 社寺之部」庶務課 より:
以下の2通の「御願」がある。
 「境内荒地開拓願」
  「奉願上候口上書
   当山境内山林の内 字ヲ カメ石ト申ス處并ソノ外」の樹木が育たず荒地となったので「今般 山開仕度」云々・・・・
                                   明治二年己己八月廿八日  菩提山年預 成身院 弘盛(印)」
 「境内荒地開拓願」
  「奉願上候口上書
     「当山境内山林下草苅取・・・寺中日々柴ニ焚仕候、余分少々寺々修理料ニ売払仕度奉存候・・・・
                                   明治二年己己八月廿八日  菩提山年預 成身院 弘盛(印)」
  ※明治2年には「成身院」が菩提山の年預(輪番あるいは役者であろう)であり、成身院の存在が知れる。

◇明治6年「大和國寺院明細帳」 より:
以下の明細の書上げがある。
 「添上郡菩提山 元石高三百石 古義真言(城州御室菩提院末) 正暦寺
   塔中 報恩院家 普門院 吉祥院 妙観院 成身院 福壽院 大福院 多門院 徳蔵院 宝蔵院」
 ※以上の10ヶ院の書上げがあるも、妙観院とは良く分からない。(妙観院は慶長6年に確認できるだけである。)
  報恩院については以下に見るように、既に坊舎の実態はなかったもんと思われる。

◇明治7年「人民願届之件 明治七年自七月至十二月 戸籍之部 兵事課」 より:
 農籍編入〔願〕 〔添上郡〕菩提山村菩提山僧侶 / 井藤隆正(菩提山僧侶8名の惣代)
 「一、今般僧侶・・・・・・・・菩提山村農籍・・・・・・・・・
  吉祥院住職                井藤隆正
  宝蔵院住職                ?山隆敬
  多門院澍職                原井奥隆
  成身院住職                森 海道
  福壽院住職                乾 倫宥
  大福院住職                大原秀全
  徳蔵院僧?                仙石行孝
  菩提山村/農太田一ニ〇願善院住職 吉良秀蔵 ----<「農太田一ニ〇」及び「願善」寺の判読は不確実>
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ???惣代/菩提山村菩提山僧侶 /井藤隆正(印)」 ----<この項はコピー不良で推測>」

   ※吉祥院、宝蔵院、多門院、成身院、福壽院、大福院、徳蔵院、願善院<不確実>の八院の存在が知られる。
   ただし、願善院(判読は不確実)とは良く分からないし、かつこの行の文意も不明である。
   普門院は既に廃絶か?

◇明治10年「省寮進達書類」庶務課 より
 「明治9年自1月至12月住職進退」中に以下の記載がある。
  「    大和國添上郡菩提山村/真言宗 正暦寺住職
               教導職試補 大原秀全
   一月廿ニ日 右同村大福院住職兼務申付」
    ※正暦寺住職大原秀全は大福院住職を兼務する。
    ※教導職とは大教宣布のため、明治5年から同17年まで設置された宗教官吏である。以下の14階級があった。
    大教正、権大教正、中教正、権中教正、少教正、権少教正、大講義、権大講義、中講義、権中講義、少講義、権少講義、訓導、権訓導
    ※大講義が教導職七級試補であり、以下順次、権大講義(八級)、中講義(九級)、権中講義(十級)、少講義(十一)、
    権少講義(十二級)、訓導(十三級)、権訓導が教導職十四級試補であった。
    当時、僧侶は教導職試補以上でなければ公認されず、つまり住職にはなれなかったようである。

◇明治10年「省寮進達書類」庶務課 より:
 〔添上郡菩提山村真言宗吉祥院住職井藤隆性ノ権訓導職解任ノ教部省ヘノ上申ニ付起案〕 / 庶務課〔堺県令〕
  「教部省ヘ上申按/解職之義ニ付キ上申
      菩提山村/真言宗吉祥院住職権訓導/井藤隆性
   右ハ明治九年四月官林之樹木ヲ盗伐致候処、其罪破廉恥甚ニ係ルヲ以テ、奪職之上実断可致見込ニ付、
   権訓導解職之義、大坂裁判所堺支庁ヨリ照会有之候条、至急御指揮相成度才段及上申候也
      明治十年一月十日 堺県令???
        教部大輔宍戸城殿」
           (以下添付資料2点は省略)
   ※明治10年「吉祥院」住職・権訓導井藤隆性は「罪」を得て、同年解任の上申がなされる。
   ※罪とは官有林盗伐であるが、寺領林野の上地それに伴う寺院維持ならびに住職の生活維持に資する経済基盤の喪失が背景にある。
   これは上地地所復旧願に繫がるものであろう。
    →下掲載の(明治14年)「寺院願伺届」〔添上郡菩提山村正暦寺ノ上地地所復旧ニ付回議書〕を参照。

◇「明治十二年七月調 大和国添上郡寺院明細帳」 より
 要約すれば、以下のとおりである。

堺縣管下大和國添上郡菩提山村字菩提山/本山仁和寺末/古義 真言宗 正暦寺 ・調査17年8月31日
・昭和10年2月27日付奈良県指令(161号)によって朱書の遡り、明細著の訂正をなす云々。
項目 事項 欄外書入
本尊 薬師仏 .
由緒 正暦3年(992)一条天皇の奉勅、兼俊大僧正創立、故に正暦寺の寺号を賜う。その庫裏を報恩院家と称し塔中坊舎80余坊と云う。
建保6年(1218)信圓大僧正中興、古の伽藍再興(真言宗)、正願院門跡に因て相宗を伝え、新に相宗伽藍(法相宗)を建立する。(朱印地千石と伝う)
慶長7年(1602)朱印地三百石、この時坊舎40余現存。
寛文年中報恩院無住。その後、仁和寺塔中菩提院家より当寺を兼帯、本寺を菩提院とす。さらに維新以降仁和寺を本寺とす。
.
本堂 桁行7間 梁間6間 明治36年(?)39年(?)本堂改築(?)
大正4年本堂改築(?)、用材伐採許可
土蔵 桁行2間3尺 梁間2間 .
桁行4間3尺 梁間2間 .
境内 7、506坪(?)/37、896坪(紙貼付)/39、566坪(再紙貼付) ・境内地増加/沿革後記(公印)
・官有川岸を境内に組替/?増加沿革後記(公印)
境内仏堂 3宇 観音堂 本尊金銅如意輪観音 4間×3間
地蔵堂 本尊千躰地蔵菩薩 方3間
施餓鬼堂 本尊阿弥陀仏、地蔵菩薩 方3間
.
塔中 9ヶ院 .
報恩院 古義真言宗 本尊地蔵菩薩 本堂無之 .
成身院 古義真言宗 本尊釈迦牟尼仏 庫裏4間3尺×3間
境外所有地 田1反27歩(字西音院)/畑6畝29歩(字薬師院)
.
寳蔵院 古義真言宗 本尊大日如来 庫裏5間×4間
境外所有地 田2畝1歩(字小坂坊)/畑4畝2歩(字休場)/畑4畝10歩(字林泉寺)
.
徳蔵院 古義真言宗 本尊十一面観世音菩薩 庫裏6間3尺×5間
境外所有地 田2反5畝25歩(字ヤケアト)/畑3畝21歩(字洞ノ観音)/
 畑4畝23歩(字徳蔵院前)/畑1反1畝15歩(字六所辻)/
 畑4畝27歩(字薬師院)/畑4畝21歩(字休場)
・調査17年8月31日
多門院:
多門院を消し、多聞院に訂正
古義真言宗 本尊薬師如来 庫裏7間×5間3尺 門1間3尺×1間
境外所有地 田9畝27歩(字ヤケアト)
・大正8年8月2日縣指令教第4509号を以て多門院を多聞院と訂正許可。
 →下に掲載の(大正8年)「寺院」 教育課 より
「寺院明細帳誤謬訂正の件/ 添上郡五ヶ谷村正暦寺塔中多門院/大正八年二月十日」を参照。
普門院  本尊十一面観世音菩薩 仏堂無之 大正3年福岡市小島馬場龍華院に合併、さらに糟屋郡志賀島村1315番地へ移転、寺号を大正(西?)院と改称許可。
吉祥院 古義真言宗 本尊吉祥天 仏堂方3間<21年8月30日転倒に付き届出>
 庫裏5間×8間(縦線で消す)
境外所有地 田1反7畝24歩(字休場)
・庫裏取???出ニヨリ明治38年4月26日許可載朱済
大福院 古義真言宗 本尊十一面観世音菩薩 仏堂無之 .
福壽院 古義真言宗 本尊薬師如来 仏堂方2間
 庫裏桁行9間 梁間8間(本寺に使用変更)
 供部屋2間×1間3尺 納屋1間3尺×4間 門1間3尺×1間
境外所有地 田1反1畝1歩(字薬師院) 田1反3畝25歩(字川向い)
 田1反7畝25歩(字十三里) 畑5畝27歩(字休場) 畑3畝24歩(字小坂坊)
・調査17年8月31日
・庫裏 桁行9間 梁間8間
塔中福壽印庫裏を本寺庫裏に転用使用許可/39年10月31日許可
境外所有地 田10反余(字ヤケアト、大亀石) 畑1反余(字休場、小坂坊) 宅地6歩(字大門) .
 (以下略)

  ※塔中9ヶ院のうち、形が整っているのは福壽院1坊のみであること、
  建物が維持されているのは成身院、寶藏院、徳蔵院、多聞院、吉祥院の5ヶ院であること、
  報恩院、普門院、大福院は建物は退転してほぼ更地であること、普門院は大正3年に福岡市の龍華院に移転合併と云うことが分かる。

◇(明治14年)「寺院願伺届」庶務課社寺掛  より:
 〔添上郡菩提山村正暦寺ノ上地地所復旧ニ付回議書〕
  本文書には下記の絵図が添付される。
   正暦寺境外上地復舊願図1:大きな図
   正暦寺境外上地復舊願図2:小さな図      正暦寺境外上地復舊願図3:文字入れ
  ※正確な内容は良く分からないが、上地した土地(山林)の回復を願い出たものであろう。
    →上掲「明治十二年七月調 大和国添上郡寺院明細帳」の「境内」の項を参照。
      この回復は、「境内」の項の内容から、全面的なのか一部なのかは不明ながら実現したものと推定される。
  ※正暦寺住職/大原秀全、正暦寺塔中惣代寳蔵院住職/青山隆観 などの連名があり、この連名で回議か。

◇(明治14年)「寺院願伺届」庶務課社寺掛  より:
 〔添上郡菩提山村真言宗正暦寺塔頭成身院住職森海道ノ該院住職解免ノ儀に付達〕 / 大阪府 p.016
  ※本文書は未見
  ※明治14年には成身院が健在である。本資料を未見であるが、成身院住職森海道が住職解免されたものと思われる。
  下記の「丙第百七号達」に関係したものであろうか。

◇明治14年「明治14年 丙号達」 より:
 丙第百七号(真言宗正暦寺塔頭成自院住職教導職試補差免ノ旨通知ノ件達) p.020
  ※本文書は未見
  ※成自院とは成身院である。明治14年成身院の存在が確認でる。内容不明であるが教導職 試補を差免(解職)されたものと思われる。

◇明治二十八年四月内務省訓令第三号ニ拠リ 古社寺沿革史 奈良県内務部第三課 寺院之部」  より:
 「奈良縣大和國添上郡五ヶ谷村大字菩提山/真言宗古義派/正暦寺
  本尊 薬師如来木像 ・・・
  事由 ※開祖兼俊大僧正、信円僧正の復興、源空上人弟子蓮光などなどの栄枯盛衰、境内の墳墓などの記述がある。
  建物
   本堂 桁行七間梁間六間 ・・・・   寶藏 桁行二間五尺梁間弐尺 ・・・・
   楼門 桁行四間五尺梁間二尺 創建正暦三年、再建建保六年、修理文明八年
   境内施餓鬼堂 桁行三間梁間三間三尺 創立年代不詳、再建文明十六年大永六年、修繕天保十二年文久三年明治十三年
  境内塔中
   成身院 桁行四間三尺梁間二間 開山兼俊僧正、創立即正暦3年ナリ、明治8年再建ス。
   徳蔵院 桁行五間梁間六間三尺 創立再建年代不詳、天保五年嘉永三年修繕
   多聞院 桁行七間梁間五間三尺 創建不詳、再建文明八年大永七年、修繕慶長十年寛永十三年天保三年
   吉祥院 桁行八間梁間五間 創立再建年代不詳、修繕寛政三年文久二年
   福壽院 持仏堂・・・、庫裏 桁行九間梁間八間、廊下・・・、表門・・・、塀?門・・・、供部屋・・・、納屋・・3棟・・
         創立再建年代不詳、延宝九年、享保十一年、文化八年、天保十二年、明治十三年修繕ス。
  境内地 財産 宝物・・・(略)・・・
   ※明治28年には建物の存する塔中は成身、徳蔵、多聞、吉祥、福壽院の5ヶ院となり、
   福壽院は門・仏堂・庫裏・その他を有するが、他の4ヶ院は本堂・庫裏兼用の坊舎1宇のみの状態であると推定される。

◇明治三十二年 「名所旧蹟古墳墓一件」 より
 「寺院境内取調調書/菩提山正暦寺境内」
  本資料には下記の「菩提山正暦寺境内見取図」が添付される。

●菩提山正暦寺境内見取図:左図拡大図

菩提山正暦寺境内見取図:左図拡大図

 ※明治32年ころの菩提山の様子が克明に描かれ、菩提山のほぼ全容を知ることが出来る。

  美文調で凡そ以下のように記述する。
  現況概略:源境内7606坪
   四周は山嶺、一条の渓流(中尾川)その中央に延長す。
  縁由概略
   ・・・明治4年元境内山林230町歩上地、寺録(300石)奉還、寺院維持の財源を失し、・・・
  一、堂々谷:惣門外中尾川の東を云う。山麓に平坦の地あり・・・・
  一、青龍の淵:惣門内中尾川の中にあり、現存・・・
  一、龍泉寺跡:往古龍?飛騰之際、この谷に至り法水を降らすと云う。
     この地に伽藍を建立し、龍泉寺と名く、即ちこの山を竜泉寺谷と云う。
     また薬師仏を安置するによって薬師院谷とも云う。
  一、御酒井 ・・・・・
  一、春日影向石:本堂西北の方山麓にあり、現存。伽藍創立の時、春日明神が影向すると云う。
  一、虎石:j本堂に南にあり、現存。
  一、金台山:元境内山林中中浄光院の東南にあり。基祖兼俊僧正この山に不動明王を勧請。不動山、劒帯山とも云う。
  一、不動瀧:金台山の東谷にあり現存。
  一、大黒石 ・・・・
  一、天狗松 ・・・・
  一、浄光院大伽藍跡:本堂より一町余東南にあり。中興開山信円大僧正創立の伽藍跡なり。
  一、正願院門跡旧地:浄光院の東南にあり。信円大僧正・・別院の旧跡なり。
  一、弁財天社:弁財天原の峰にあり。礎石社址を残存す。
  一、六所堂:字六所にあり。礎石址を残存す。熊野吉野春日八幡白山八大龍王の六所を勧請、一山の鎮守とす。
  一、閼伽井社:本堂より三町許西、山林中にあり。礎石社地残存。
  一、懺法堂:本堂より六町許、字洞の観音の峰にあり。礎石社址を残存。古は牛頭天王を祀る。
  一、近衛基煕(?)公墓:山林内字小坂坊地竹林中にあり。高さ7尺5寸宝篋印塔。
  一、筒井順慶墓:山林中字徳蔵院裏にあり。
  一、摂政関白松殿基房、中興開山信円大僧正、第二世良円僧正墓地:字浄光院にあり。
  一、蓮光法師及迎接院代々之墓地:字川向にあり。蓮光法師始め先代の碑石数十現存。
  一、開山兼俊僧正墓地:現境内中にあり。僧正墓碑高さ一丈五尺の十三重塔壱基現存。
  (以下省略)
   ※正暦寺伽藍は山門、施餓鬼堂、本堂、寶藏のみ現存し、三重塔、鐘楼、経蔵、観音堂、灌頂堂、地蔵堂、鎮守社などは跡地のみ
   の状況であることが描かれる。
    また寺中の内、山門を構え、築地塀を廻らせ、仏堂・庫裏・土蔵その他を備えるのは福壽院1坊のみで、
   徳蔵院、成身院、吉祥院、多聞院の4坊は山門・築地もなく、僅かに庫裏(一部寺中には納屋など)一宇の建物を残すのみである。
   さらに報恩院は開山僧正墓(十三重石塔)と冠木門と木柵と一部の土塀のみの、大福院は更地に石碑のみの、
   寶藏院・普門院は更地のみの状態であることが分かる。  

◇明治42年 寺院  庶務課
 144 土地売買登記済に付御届 添上郡五ヶ谷村正暦寺塔中宝蔵院 p.214
  ※本資料は未見。
  ※宝蔵院が土地売買にかかわり、その存在が知れる。

◇(大正8年)「寺院」 教育課  より
 「寺院明細帳誤謬訂正の件/ 添上郡五ヶ谷村正暦寺塔中多門院/大正八年二月十日」
  ※主旨は以下のとおり
   「多門院」は「多聞院」の誤字であるので、寺院明細帳を訂正願いたし。
   元禄5年寺社改之書に列記・・・ 前略、成身院、多聞院、徳蔵院、後略・・・。
   享保12年「当寺知行割抄録」にも文化12年「寺持宝帳抄録」にも「多聞院」とある。
  ※時の多聞院住職は田岡大鳳、正暦寺住職は大原最俊。
  ※真言宗御室派管長・大僧正土宜法龍の「添書」あり。
  大正八年八月二日奈良県より許可される。
  ※寺院明細帳訂正願い提出及び手続きがなされ、多聞院の存在が確認できる。
    →上掲「明治十二年七月調 大和国添上郡寺院明細帳」の多門院の項を参照。

◇昭和21年「旧宗教法人台帳 (真言宗)」文書学事課 より
 宗教法人台帳に以下の3ヶ寺の台帳が綴られる。
  ・真言宗御室派/正暦寺/登記:昭和17年3月25日/境内地:12町7反8畝15歩-目下譲?申請中
  ・真言宗御室派/徳蔵院/正暦寺塔中/登記:昭和17年3月25日/境内地:483坪
  ・真言宗御室派/福壽院/正暦寺塔中/登記:昭和17年3月25日/境内地:981坪
  ※「法人台帳」の散逸がないとすれば、昭和17年には正暦寺寺中は福壽院・徳蔵院の2坊に減じたと思われる。
-------------------以上 2013/02/09追加:2013/02/27追加・加筆-------------------

正暦寺所蔵(神仏分離の処置に伴い正暦寺に遷座 した仏像。おそらくは買取であろう。)

2007/06/26追加:「正暦寺一千年の歴史」、1992 より
神仏分離で遷座した以下の仏像が現存する。(根拠は墨書銘による)
慶応4年、三輪大明神若宮から仏像・仏具などを受入(55両さらに42両を奉納)
 日光・月光菩薩像:三輪大御輪寺安置像
内山永久寺より遷座
 五大力明王像:内山徳蔵院安置像
 阿弥陀如来立像:北東院持仏堂安置像、十一面観音像:普門院安置像、毘沙門天立像:徳蔵院持仏堂、弘法大師像:徳蔵院安置像
桃尾山龍福寺より遷座
 吉祥天像:吉祥院本尊
 十一面観音像:安楽院本尊
  ※参考:→三輪大御輪寺(三輪大明神若宮)内山永久寺(徳蔵院/持仏堂/普門院は近世内山永久寺伽藍復元図を参照)、
       桃尾山龍福寺は大和興福寺中の桃尾山龍福寺を参照。


無印の写真は2012/02/26撮影、△印写真は2012/03/15撮影、▲印写真は2013/02/09撮影
菩提山正暦寺現状

 ◎菩提山現状略図:菩提山の現状を現在の地図上に落とした概要図(略図)である。2013/03/02本「略図」一部訂正。
  「天正古図」で描かれた伽藍や地形が見事に現状に即応し、天正古図の正確性・信憑性は高く評価するべきものであろう。
  「天正古図」と合わせ、下に掲載の説明・写真を見る時に、参照を希望するものである。
 ◎菩提仙明治26年頃境内図:明治26年編集「寺院明細帳」  より
                   (「重要文化財正暦寺福寿院客殿修理工事報告書」奈良県教育委員会、1978.8 所収)
  ※明治26年頃の境内・塔頭の様子を知ることができる。
 ◎天正古図・菩提山塔頭注釈:上の明治26年頃境内図 にある塔頭名を「天正古図」の上に記入したものである。
 2013/02/26追加:
 ◎菩提山正暦寺境内見取図:明治三十二年 「名所旧蹟古墳墓一件」 より
  ※詳細に明治32年頃の菩提山の様子を描く美しい絵図である。

仮称惣門谷

 ◎天正古図・仮称惣門谷:菩提山大門(惣門)から菩提仙川両岸沿いの福寿院手前までを「惣門谷」と仮称する。:上に掲載
ここには惣門(大門)、菩提仙川右岸には阿弥陀堂、地藏堂(施餓鬼堂)、普門院、多聞院、左岸には吉祥院など、両岸に少なくとも十数ヶ坊が描かれる。
※なお、菩提仙川の呼称は近代のもので、古くは中尾川(谷の名称は中尾谷)と云う。
 ◎大和名所圖會・惣門・付近寺中:惣門及び付近の寺中が描かれる。
「天正古図・仮称惣門谷」では惣門前に円堂と思われる堂(文字不鮮明であるがおそらく阿弥陀堂)があり、両側に九重とも思われる石塔(多重石塔)が描かれる。
「大和名所圖會・惣門・付近寺中」にも惣門前に「あみだ」堂(円堂には見えない)が描かれ、その左右に多重石塔と思しきものが描かれる。
 ※現在、菩提山伽藍下に供養塔墓石群があるが、この東西に各1基十三重石塔が置かれる。
 この菩提山伽藍下の十三重石塔2基は本図に描かれる石塔(多重石塔)が遷されたものなのであろうか。(推測)
○惣門(大門):上記の両図とも楼門形式で描かれる。
菩提山惣門(大門):写真・鯱鉾は正暦寺所蔵:上記「天正古図・仮称惣門谷」に描かれる惣門と酷似し、天正古図の正確性がここでも現実味を帯びる。
 ◎菩提山大門古写真:写真のように形式は楼門であった。室町期の建立と云う。
 (建立時期を室町期とする根拠は永正4年<1524>伽藍坊舎火災により灰燼に帰すも大門のみ残るとの記録があり、
 その後の退転や再興の記録が無いことが根拠であろうか。)
 ◎倒壊前惣門(山門)写真:2003/05/28撮影
   ※本写真は大門を大門の外から写したもので、向かって左に写る石垣と土塀は施餓鬼堂のものである。
   この様子は明治32年「菩提山正暦寺境内見取図」の大門の部分に余すところなく描かれる。
   この絵図には、施餓鬼堂土塀、石垣、石階と大門が描かれ、写真と合致する。
   ※大門遺物: 菩提山大門鯱鉾1        菩提山大門鯱鉾2・・・正暦寺蔵
惣門(大門)は昭和36年第2室戸台風で倒壊。その後再興を試みるも、未だ再興に至らずと云う。
 菩提山惣門跡:但し、大門位置は未確認であり、正確な位置は未掌握である。
上掲載の両図で検討すると、この写真の「大本山正暦寺」石碑の背後の石組の堂舎跡は「阿弥陀堂」「あみだ」堂跡と推定される。
この推定が正しければ、惣門はこの写真の「石組の堂舎跡」の後方にあったものと推定される。
 △菩提山惣門跡2:写真手前坊舎跡は阿弥陀堂跡、その後方に惣門はあったと推定される。
2013/02/09大門(惣門)跡を確認する。
 ▲菩提山大門跡3:手前左石階のある場所が施餓鬼堂跡、写真奥の石垣の切れ目・右手やや道路が広がった所が大門跡である。
 ▲菩提山大門跡4     ▲菩提山大門跡5
○施餓鬼堂(阿弥陀堂)跡:仮称惣門谷右岸坊舎跡:施餓鬼堂跡(本尊阿弥陀仏、地蔵菩薩)である。
 以下坊舎11〜15及び坊舎跡2は「施餓鬼堂」(「阿弥陀堂」「あみだ」堂跡)と判明する。
 仮称惣門谷右岸坊舎11      仮称惣門谷右岸坊舎12     仮称惣門谷右岸坊舎13
 仮称惣門谷右岸坊舎14      仮称惣門谷右岸坊舎15     坊舎跡2(惣門付近北側坊舎跡):2003/05/28撮影
 △仮称惣門谷阿弥陀堂跡:「大和名所圖會・惣門・付近寺中」 に「あみだ」堂が描かれ、その堂の建つ石組造成地には石階が描かれる。
  この石階が写真に写る石階である。
 ▲菩提山施餓鬼堂跡1     ▲菩提山施餓鬼堂跡2     ▲菩提山施餓鬼堂跡3
○惣門谷参道
 仮称惣門谷右岸坊舎16:写真の左に歩道が写るが、その右・道路がやや広くなった付近に惣門があり、右奥の石垣上に施餓鬼堂があった。
 仮称惣門谷右岸坊舎17
○普門院跡:以下坊舎18〜20は「菩提仙明治26年頃境内図」によれば、普門院跡と思われる。
 仮称惣門谷右岸坊舎18      仮称惣門谷右岸坊舎19      仮称惣門谷右岸坊舎20
 ▲菩提山普門院跡
○多聞院跡:仮称惣門谷多聞院跡

※以下の写真は「菩提仙明治26年頃境内図」によれば、多門院跡である。
 仮称惣門谷右岸坊舎21:左図拡大図 :多聞院跡
 仮称惣門谷右岸坊舎22:以下多聞院跡
 仮称惣門谷右岸坊舎23
 仮称惣門谷右岸坊舎24
 仮称惣門谷右岸坊舎25
 仮称惣門谷右岸坊舎26:本石組は多聞院入口右の石組で、別の坊舎の可能性あり。
 △仮称惣門谷多聞院跡1:耕作地が多聞坊跡
 △仮称惣門谷多聞院跡2
 △仮称惣門谷多聞院跡3
 ▲菩提山多聞院跡4
 ▲菩提山多聞院跡5

○仮称惣門谷左岸坊舎跡
 仮称惣門谷左岸坊舎11      仮称惣門谷左岸坊舎12      仮称惣門谷左岸坊舎13
 △仮称惣門谷左岸坊舎跡14    △仮称惣門谷左岸坊舎跡15:架橋跡か
 △仮称惣門谷左岸坊舎跡16    △仮称惣門谷左岸坊舎跡17:架橋跡か    △仮称惣門谷左岸坊舎跡18
○吉祥院跡
 仮称惣門谷左岸坊舎14吉祥院跡(いこいの広場)
 
仮称惣門谷吉祥院跡1    △仮称惣門谷吉祥院跡2    △仮称惣門谷吉祥院跡3    △仮称惣門谷吉祥院跡4
 ▲菩提山吉祥院跡5       ▲菩提山吉祥院跡6
○大門付近供養塔墓石群など
 大門前地蔵菩薩:円形光背は水子地藏、舟形光背は身代地藏で享禄4年(1531)銘を有する。
 大門前供養塔墓石1     大門前供養塔墓石2:おそらく仮称惣門谷付近の坊舎跡にあった僧侶の供養塔・墓石などを集めたものであろう。
 大門前供養塔墓石3:例えばこの墓石は「■恵大法師 慶長9年(1604)」の銘がある。

菩提山伽藍・中尾谷

 ◎天正古図・菩提山伽藍・中尾谷:上に掲載
 菩提仙川に沿って仮称「惣門谷」を上ってくれば、菩提仙川右岸(北側斜面)に大福院ほか、少なくとも5ヶ院の坊舎があり、左岸(南側)には寶藏院、福寿院 、徳蔵院などの数棟の坊舎がある。
そのすぐ東北には高い石垣が組まれ、その上には菩提山伽藍(本堂・三重塔など)がある。
 さらに、菩提山伽藍下のすぐ北東地点で菩提仙川が上下に分岐し、上下の菩提仙川に挟まれた場所と上菩提仙川北麓に坊舎が営まれ、この範囲が中尾谷と称されると推定される。
 上下の菩提仙川に挟まれた場所では、蓮光法師(法然上人弟子)が安養院とその別院迎接院を営んだ場所である。
迎接院跡には蓮光法師の墓が残ると云い、現在も宝篋印塔(これが蓮光墓であろう)が残る。
天正古図では中央やや下右端に「蓮光之御墓」の注記と石塔(宝篋印塔)が描かれる。
さらに上菩提仙川の北麓沿い(右岸)には少なくとも6ヶ院坊が描かれる。真言密教の大坊は菩提仙川北麓に建立と云われ、右岸に描かれる坊舎の中の何れか1坊が大坊であろう。
○福寿院対岸付近(菩提仙川右岸・西側斜面)石垣
 福寿院対岸石垣1     福寿院対岸石垣2     福寿院対岸石垣3
この付近には少なくとも5ヶ院の坊舎が描かれ、坊跡石垣などが残存するも、通路が閉鎖され、詳細を見ることができず、不詳である。
○大福院跡:2013/02/09福壽院住職子息に跡地を確認。
 ▲菩提山大福院跡1:中央 左右に写る石垣が大福院跡
 ▲菩提山大福院跡2:同上
 ▲菩提山大福院跡3:同上、下段は大福院下坊舎跡       ▲菩提山大福院跡4
○大福院下、南及び奥付近坊舎跡
 福寿院対岸坊舎跡3     福寿院対岸坊舎跡5:何れも下付近
 △菩提山大福院下付近坊舎跡
 △菩提山大福院下付近坊舎跡1    △菩提山大福院下付近坊舎跡2
 ▲菩提山大福院南坊舎跡:大福院の南の傾斜地に、絵図類では確認が取れず、また近代の造成でない保証もないが、
  坊舎のあったと思われる平坦地がある。
 ▲大福院奥坊舎跡
○福寿院・徳蔵院跡
 ◎天正古図・福寿院付近:上が 東、菩提仙川左岸(東)の左が徳蔵院、中央が福寿院、その右上が寶藏院であり、
   福寿院入口架橋から対岸(西)に渡り、そこからすぐ西に上る路があり、その奥に描かれる坊舎が大福院と推定される。
   2003/05/28追加:
    福壽院は現在、唯一現存する坊舎で正暦寺の管理にあたる。護摩堂・客殿・庫裏・土蔵・山門を有する。
     ★福寿院客殿:延宝9年(1681)再興<棟札>、重文
 福寿院山門1     福寿院山門2
 福寿院俯瞰      福寿院書院1     福寿院書院2     福寿院見上     福寿院書院3     福寿院書院庭園
 ▲菩提山福壽院堂舎1     ▲菩提山福壽院堂舎2     ▲菩提山福壽院堂舎3     ▲菩提山福壽院堂舎4
 ▲菩提山福壽院山門3     ▲菩提山福壽院山門4
 ▲福壽院庫裏玄関扁額     ▲菩提山福壽院堂舎5     ▲菩提山福壽院庭園
○徳蔵院跡
 △菩提山徳蔵院跡1    △菩提山徳蔵院跡2    △菩提山徳蔵院跡3
○菩提山伽藍
 菩提山伽藍石階:下段33段及び上段48段あると云う。      菩提山伽藍石垣
 菩提山本堂1     菩提山本堂2     菩提山本堂3     菩提山本堂4     菩提山本堂5
 菩提山本堂象鼻1     菩提山本堂象鼻2:江戸初期再建本堂、天保7年(1836)焼失本堂像鼻 、正暦寺蔵。
 菩提山鐘楼     菩提山如意経蔵跡1     菩提山如意経蔵跡2     菩提山鎮守社跡     菩提山宝蔵
○菩提山伽藍下供養塔墓石群
常光院(寺伝では浄光院)跡地の一角に信円・良円(正願院2世とする)・基房と伝えられる3基の墓(鎌倉期の宝篋印塔)があった。
これは昭和48年本堂下に移転すると云う。
東西の十三重石塔は天正古図・仮称惣門谷の大門西に描かれる石塔(多重塔)が遷されたものであろうか。
 伽藍下供養塔墓石群
 伽藍下宝篋印塔3基:常光院跡地の一角にあったと云う信円・良円・基房と伝えられる3基の墓(鎌倉期の宝篋印塔)であろう。
 △伽藍下宝篋印塔3基2    △伽藍下宝篋印塔3基3    △伽藍下宝篋印塔3基4    △伽藍下宝篋印塔3基5
 伽藍下東十三重石塔1     伽藍下東十三重石塔2     伽藍下西十三重石塔1     伽藍下西十三重石塔2
 ▲伽藍下供養塔墓石群:墓石は山中の坊舎跡にあったものを集めたと云う。
○中尾谷
上下の中尾川(現在は菩提仙川)に挟まれた場所の狭い区画に数院の坊舎が描かれ、現地にも数院の坊舎跡がある。
 ※通称「川向ヒ」とはこの付近を云うようである。
絵図には2段の平坦地が描かれ、西の一段に坊舎があり、東の一段上った平坦地にも坊舎(迎接院)が描かれる。迎接院東端に蓮光御墓が描かれる。
現地の実際も絵図の通りの2段の遺構が残存し、一段上の東の平坦地奥に1基の宝篋印塔が現存する。
坊舎跡に残る供養塔の類は山内2箇所(菩提山伽藍下・惣門付近)に集められたと云うも、この宝篋印塔は蓮光の墓であるので、唯一基原位置に残されたのであろうか。
 中尾谷入口坊舎跡01:中尾谷入口の坊舎跡      中尾谷入口坊舎跡02:同左     中尾谷入口坊舎跡03:同左
   2003/05/28撮影:坊  舎 跡 1:上の写真・坊舎01と坊舎02を同時に撮影したもの
 中尾谷迎接院西坊舎跡1: 南側石組     中尾谷迎接院西坊舎跡2:平坦面
 △中尾谷迎接院西坊舎跡3:西側石組、 石組に沿って廃路があるも、雑木が繁り歩行困難、石組は北方へ長く続くが終端の確認は困難。
 △中尾谷迎接院西坊舎跡4
○中尾谷迎接院跡:蓮光法師墓

山林の中にひっそりと蓮光御墓が残る。
 2003/05/28撮影:中尾谷宝篋印塔
 中尾谷迎接院跡1:法面
 中尾谷迎接院跡2
 △中尾谷迎接院跡3:法面
 △中尾谷迎接院跡4:平坦地
 △中尾谷迎接院跡5:蓮光宝篋印塔

 中尾谷蓮光宝篋印塔1       
 中尾谷蓮光宝篋印塔2:左図拡大図
 中尾谷蓮光宝篋印塔3
 △中尾谷蓮光宝篋印塔4
 △中尾谷蓮光宝篋印塔5
 △中尾谷蓮光宝篋印塔6
 ▲中尾谷蓮光御墓1
 ▲中尾谷蓮光御墓2

上菩提仙川右岸(北麓)に少なくとも6ヶ院坊が描かれる。ここには今も坊舎跡石垣が連続して残る。
 中尾谷北麓坊舎跡1     中尾谷北麓坊舎跡2     中尾谷北麓坊舎跡3     中尾谷北麓坊舎跡4
 中尾谷北麓坊舎跡5     中尾谷北麓坊舎跡6     中尾谷北麓坊舎跡7     中尾谷北麓坊舎跡8
 △中尾谷北麓坊舎跡9:北麓坊舎西端坊舎入口       △中尾谷北麓坊舎跡10:北麓坊舎西端坊舎跡
 △中尾谷北麓坊舎跡11:北麓坊舎入口
  但し、天正古図で描かれるような門に至る石階の遺構は発見はできず。

正願院門跡・浄光院伽藍・坊舎群

 ◎天正古図・浄光院伽藍1:上が南
 ◎天正古図・浄光院伽藍2:上が北
 ◎天正古図・浄光院伽藍注釈
菩提山伽藍本堂下から川を渡り、谷筋に東西道(浄光院谷筋東西道)がある。この谷筋東西道の北には下菩提仙川の深い谷を隔てて、中尾谷迎接院などの坊舎がある。 谷筋東西道の北側が下菩提仙川の深い谷であり、南側には坊舎の石垣が長く続き、7、8ヶ院の坊舎が並ぶ。
 ※谷筋東西道は現在全く使われない。西側南北道の分岐から東はやや歩行難渋、東側南北道から東は雑木林と化し相当歩行困難である。
谷筋東西道からは南に上る東西の2本の道(浄光院西側南北道・浄光院東側南北道)が通じる。
西側南北道はかなり傾斜がきついが、報恩院前道に繫がり、道の東西には5ヶ院ほどの坊舎が並ぶ。
 ※南北西道はほぼ廃道。多少荒れるが、歩行は容易である。急斜面。
東側南北道の西側には3ヶ院の坊舎が並び、東には浄光院伽藍敷地である。
 ※東側南北道は全くの廃道、雑木林と化す。かなり歩行困難である。
 北端の西30坪ほどに瓦礫が搬入され、坊舎石垣が少し破壊されている。
浄光院伽藍は東側南北道の中央に大門を開き、十三重大塔、大講堂、御影堂、経蔵、宝蔵、墓所などからなり、相当の大伽藍であった。
西側南北道の南端と東側南北道の南端は東西道(浄光院山筋東西道)で結ばれる。この山筋東西道の東端は浄光院門が開き、現在のように東には抜けず、その門が終端であったように絵図には描かれる。
 ※浄光院伽藍跡は荒れた雑木林である。足を踏み入れる余地なし。従って遺構などの状況は未確認。
 ※現在山筋東西道は浄光院伽藍が終端ではなく、東に車道として延びる。
 そのため、平行する谷筋東西道がまったく使われなくなったものと推定される。
正願院門跡の堂舎は浄光院伽藍境内の東の地続きに石垣を築き、広い敷地を造成し、その上に営まれたように絵図には描かれる。
 ※現状は1乃至2枚の田圃と化す。
さらに正願院門跡の東には既に退転した寺家跡の敷地(区画)が描かれる。
 ※現在では田圃と化し、状況は良く分からない。
○谷筋東西道西端
 △谷筋東西道・架橋2:北から南を撮影、上の平坦地は坊舎跡、下方は谷筋東西道
 △谷筋東西道・西端坊舎跡
○谷筋東西道と西側南北道との交差地点<A>
 谷筋・西側南北道交差01:谷筋東西道と西側南北道との交差地点、左は谷筋東西道、右は西側南北道
 谷筋・西側南北道交差02:同  上、手前は谷筋東西道、右は西側南北道
 △谷筋・西側南北道交差1:北西隅石垣    △谷筋・西側南北道交差2:同左
 △谷筋・西側南北道交差3:北西隅石垣、手前谷筋、右西側南北道
○西側南北道西坊舎
 西側南北道西坊舎・下坊舎跡1     △西側南北道西坊舎・下坊舎跡2
  西側南北道西坊舎・上坊舎(坊舎名は不詳)

西側南北道の西に接する坊舎で上方に位置する。
 西側南北道西坊舎・上坊舎跡1:左図拡大図
 西側南北道西坊舎・上坊舎跡2
 西側南北道西坊舎・上坊舎跡3
 西側南北道西坊舎・上坊舎跡4
 西側南北道西坊舎・上坊舎跡5
 △西側南北道西坊舎・上坊舎跡

※この石組の高さは2.7mを測る。
※この「西側南北道西坊舎・上坊舎」の位置は「天正古図・浄光院伽藍注釈」で示す。
高い石垣は<F>であるが、この部分は「天正絵図」にしては正確な描写ではない。

○西側南北道東坊舎
 △西側南北道東坊舎・下坊舎跡
 西側南北道東坊舎・中坊舎跡1     △西側南北道東坊舎・中坊舎跡
 西側南北道東坊舎・上坊舎跡1     西側南北道東坊舎・上坊舎跡1:同上、写真左は西側南北道、写真下は山筋東西道
 △西側南北道東坊舎・上坊舎跡
 ▲西側南北道東坊舎・下坊舎跡

○谷筋東西道:<A>から<C>間、石垣は崩落箇所も多く見られる。

坊舎跡石組が谷と平行する廃道に沿って累々と続く。
 △谷筋東西道・坊舎石垣跡1
 △谷筋東西道・坊舎石垣跡2
 △谷筋東西道・坊舎石垣跡3:左図拡大図
 △谷筋東西道・坊舎石垣跡4
 △谷筋東西道・坊舎石垣跡5
 △谷筋東西道・坊舎石垣跡6
 △谷筋東西道・坊舎石垣跡7
 △谷筋東西道・石垣谷筋道跡8
 △谷筋東西道・坊舎跡9
 △谷筋東西道・坊舎石垣跡10
 △谷筋東西道・谷筋東西道:写真中央左端やや上から右端やや下に一筋の道が写るが、これが谷筋東西道である。
写真では少し分かり難いが、対岸の迎接院跡付近から撮影。

○谷筋東西道と東側南北道との分岐<C>
 △谷筋東西道・東側南北道分岐1:写真左上が道の分岐。
 △谷筋東西道・東側南北道分岐2
○東側南北道:全くの廃道で、歩行困難ではあるが、雑木林中に低い石垣や土壇を両脇に残し、道の痕跡を残す。
 △東側南北道1     △東側南北道2     △東側南北道3     △東側南北道4     △東側南北道5     △東側南北道6
○谷筋東西道:<C>から<E1>間
 △谷筋東西道・坊舎跡11    △谷筋東西道・坊舎跡12    △谷筋東西道・坊舎跡13    △谷筋東西道・坊舎跡14
 △谷筋東西道・坊舎跡15    △谷筋東西道・坊舎跡15    △谷筋東西道・坊舎跡17    △谷筋東西道・坊舎跡18
 △谷筋東西道・坊舎跡19    △谷筋東西道・坊舎跡20    △谷筋東西道・坊舎跡21    △谷筋東西道・坊舎跡23
 △谷筋東西道・坊舎跡22:写真左は石垣東終端 で<E1>地点の石組である。
○谷筋東西道:<E2>地点から東
 △谷筋東西道<E2>石垣1:<E2>は「天正古図・浄光院伽藍注釈」で示す地点である。
 △谷筋東西道<E2>石垣2:この石組の上の現状は田圃と思われる。この田圃は 天正古図で描く「寺坊跡」と推定される。
 △谷筋東西道<E2>東石垣:石組は更に東に続くも、崖と雑木で足場が悪く、東進は断念、石組の上の現状は田圃(推定「寺坊跡」)である。
○浄光院伽藍
 △浄光院伽藍地1:東の推定寺坊跡から撮影、雑木林の中は未確認。
 △浄光院伽藍地2:山筋東西道南側、天正古図では何も描かれず、様子が不明であるが、 伽藍地土壇なのであろうか。
 △浄光院伽藍地3:山筋東西道南側、 伽藍地土壇もしくは石垣が崩落した伽藍地土壇であろうか。
 ▲浄光院(正願院)付近石垣残欠
○正願院門跡跡
 △正願院門跡跡:東から撮影、中央の田圃が正願院門跡跡地と推定される。その跡地右には寺坊跡と推定される田圃がある。
  奥の雑木林は浄光院伽藍の跡で、浄光院伽藍跡と正願院門跡跡との境界には1.5mから2.0mほどの段差がある。
  天正古図で描かれる通り正願院門跡は一段高い平坦地の上に営まれていたのであろう。
2013/03/02追加;
○すぐ上で、「正願院門跡跡」と記した田圃は通称浄光院畑と云う(おそらくは浄光院伽藍正願院門跡屋敷跡と推定される。)
 ▲通称浄光院畑1     ▲通称浄光院畑2     ▲通称浄光院畑3

報恩院などの坊舎群・龍泉谷(薬師谷)

 ◎天正古図・報恩院/龍泉谷1:上が南
 ◎天正古図・報恩院/龍泉谷2:上が北
 ◎天正古図・報恩院龍泉谷注釈
大門から仮称惣門谷を上り、仮称惣門谷の終端部・仮称惣門谷左岸吉祥院跡(現・いこいの広場)の北側に菩提仙川に架かる橋がある。
 (この橋は福寿院から見れば、寶藏院を挟んだ南にあり、橋を渡れば正暦寺の駐車場・・・ここも絵図では坊舎が描かれる・・・がある。)
橋を渡り駐車場を過ぎれば、南に道が分岐(<J>第一辻)し、右に南下すれば数軒の坊舎が描かれる。
 報恩院/龍泉谷坊舎11:第1辻東南坊舎跡
 △第一辻東南坊舎西石垣1    △第一辻東南坊舎西石垣2    △第一辻東南坊舎跡
 △第一辻南終端付近坊舎跡: この付近は立入禁止で様子は不明
第一辻からさらに進むと報恩院前を通る報恩院前道と薬師院(龍泉谷)へ至る薬師谷道が分岐(<K>第ニ辻)する。
第一辻から第ニ辻への路左右には坊舎跡が見られる。
 △報恩院/龍泉谷第ニ辻1
 △報恩院/龍泉谷第ニ辻2:何れも西から撮影、右側には小川、その右の道が竜泉谷道、奥山林右よりが薬師院跡
 △第一第二辻間南側坊舎跡1   △第一第二辻間南側坊舎跡2   △第一第二辻間南側坊舎跡3   △第一第二辻間南側坊舎跡4
 △第一辻東北坊舎跡石垣:寶藏院跡と推定される。 ただし寶藏院跡はもう一段下の西側平坦地の可能性がある。
 △第一第二辻間南側坊舎跡
第ニ辻を直進して薬師谷道を辿れば、道脇に数軒の坊舎があり薬師院伽藍(本堂・三重塔など)へ至る。
 ※坊舎跡は田畑となり、路の終端部は荒れ、路は判然とはしなくなるが、終端部付近に、絵図には描かれないが、
 薬師院下付近平坦地があり、さらにその上に薬師院伽藍地と推定される平坦地がある。その南にも坊舎跡と推定される藪がある。
 しかし推定薬師院伽藍跡は山林・藪で地上には何の遺構も発見できない。
 報恩院/龍泉谷坊舎12:右端は 薬師谷道、左端石垣は成身院跡
 △薬師谷道北坊舎跡:右は薬師谷道と小川(常に流水あり)、左手には2坊舎跡がある。      △薬師谷道南坊舎跡1
 △薬師谷道小川分岐小池:薬師谷道途中で小川が合流し、側に小池(現代のものと思われる)があり、清冽な水が小川から常時供給される。
 △薬師谷道南坊舎跡2:小池南側坊舎跡     △薬師谷道南坊舎跡3:小池南側坊舎跡
 薬師院南側坊舎跡(坊舎名不詳)

薬師谷道南坊舎跡4:薬師院南側坊舎跡石垣、左端の道は薬師谷道、そのさらに左には推定薬師院伽藍平坦地がある。
薬師谷道南坊舎跡5:左図拡大図:薬師院南側坊舎跡石垣
薬師谷道南坊舎跡6:同上
  ※上記の坊舎跡4〜6の石垣が「天正古図・報恩院龍泉谷注釈」で示す<M>の石垣に相応する。
薬師谷道南坊舎跡7:薬師院南側坊舎跡、左に推定薬師院伽藍地がある。
薬師谷道南坊舎跡8:薬師院南側坊舎跡
薬師谷道南坊舎跡9:同上

 △薬師谷道南坊舎跡10: 上記坊舎8の東側坊舎跡    △薬師谷道南坊舎跡11:同左の側溝
 △薬師院遠望:右端下は第 二分岐、そこから薬師谷道が写真中央に進む、写真中央に小川合流・小池がある。
 小川合流・小池から右奥に薬師谷道は入り、薬師院跡に至る。薬師院跡は写真中央右の林中にある。
 ▲薬師院伽藍遠望
薬師院:絵図には薬師堂・三重塔・経蔵のみ描かれ、特に門・石垣・土塀などはなかった様子である。
 想定される平坦地は少し狭いようであり、大規模な堂塔ではなかったのであろうか。堂塔の遺構は地表には見当たらない。
 △推定薬師院跡1:薬師院下    △推定薬師院跡2:薬師院下    △推定薬師院跡3:薬師院下
  ※2013/02/09の探索の結果、以上は薬師院伽藍下平坦地と判明する。その上(背後)にはさらに大きな平坦地があり、
  この平坦地が薬師院伽藍跡と推定される。現状は山林・藪で地上には何も残らない。
   ▲菩提山薬師院伽藍跡1: 伽藍平坦地を見上げ
   ▲菩提山薬師院伽藍跡2     ▲菩提山薬師院伽藍跡3     ▲菩提山薬師院伽藍跡4
   ▲菩提山薬師院伽藍跡5     ▲菩提山薬師院伽藍跡6     ▲菩提山薬師院伽藍跡7
   ▲薬師院伽藍南側坊舎跡
第ニ辻を左に折れて、報恩院前道を行けば、成身院・報恩院と5軒の坊舎が道両脇に描かれる。
この道は成身院・報恩院の門前を通り、正願院・浄光院区の「西側南北道」に繫がる。
 △第二辻北西坊舎跡     △成身院前坊舎跡
○成身院跡

報恩院/龍泉谷坊舎13:左図拡大図
  :中央石垣は成身院跡
報恩院/龍泉谷坊舎14:左端奥石垣は成身院跡、右端は龍泉谷への分岐
報恩院/龍泉谷坊舎15:石垣は成身院跡
報恩院/龍泉谷坊舎16:同上
報恩院/龍泉谷坊舎17:成身院跡
報恩院/龍泉谷坊舎18:成身院跡
報恩院前道成身院跡1    △報恩院前道成身院跡2
菩提山成身院跡3       ▲菩提山成身院跡4


○報恩院跡


◆報恩院には現在も報恩院跡に「兼俊僧正墓所」が残り、十三重石塔(鎌倉期)が残存する。(樹木と紛らわしいが、天正古図・報恩院/龍泉谷1の報恩院家の境内の向かって右端の石造と思われる多層塔が描かれるが、これが、兼俊僧正石造十三重塔と思われる。)
 報恩院家跡1     報恩院家跡2
 報恩院家跡3:報恩院北側石垣      報恩院家跡4:報恩院石垣
 △報恩院家跡5    △報恩院家跡6:左図拡大図      △報恩院家跡7

 報恩院跡十三重石塔1
 報恩院跡十三重石塔2:兼俊僧正墓所(鎌倉期)
 △報恩院跡十三重石塔3      △報恩院跡十三重石塔4
 ▲兼俊僧正墓所十三重塔5     ▲兼俊僧正墓所十三重塔6
 ▲兼俊僧正墓所十三重塔7

 報恩院跡僧侶墓:向かって左から、正信和尚墓碑、最俊法印墓碑、秀全法印墓碑である
 ▲報恩院跡秀全法印墓碑:明治31年6月3日寂、上述のように、明治期の困難な時期に住職であった。
 ▲報恩院跡最俊法印墓碑:昭和59年4月17日寂、最俊は上述のように、
 ▲報恩院跡正信和尚墓碑:平成15年4月5日寂、最俊の後継と思われる。なお現住は大原弘信 と思われる。

 報恩院跡残置石仏類     報恩院跡残置石塔部材
 △報恩院残置石塔類1     △報恩院残置石塔類2     △報恩院残置石塔類3     △報恩院残置石塔類4

 △報恩院前坊舎跡1      △報恩院前坊舎跡2      △報恩院前坊舎跡3

 報恩院/龍泉谷坊舎19:報恩院北側坊舎跡      報恩院/龍泉谷坊舎20:同左
 △報恩院北側坊舎西石垣                △報恩院北側坊舎北石垣


2006年以前作成:2013/03/02更新:ホームページ日本の塔婆