山 城 神 泉 苑

天明年間刊「都名所圖會」巻1の神泉苑(部分)から
 本文:二重塔は大日如来を本尊とする。

現在の神泉苑は真言宗東寺派の小寺院であるが、
近世には多宝塔が存在していた。

山城神泉苑:左図拡大図

この多宝塔は天明8年の大火(天明の大火)で焼失、以降再興されず。

大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(上京第ニ十一學區之部)
多宝塔関連記事を抜粋。
慶長12年筑紫の僧雅管に請うて再興する。空海請雨の旧縁により東寺に附せられ寺領40石を与う。
天明8年(1783)正月火災に罹り堂塔社殿を焚く。<二重塔大日如来を本尊とす。>池中島に善女竜王を祀る。
同「京都坊目誌」(天明の大火)
寺院の部:神泉苑(二重の塔炎上)・・とあり。
 ※天明の大火

多宝塔は天明の大火(1783)で焼失し、その後は再建されなかったと思われる。

2003/5/18追加:
 洛外洛中図(紙本金地着色)・・元和初頭の景観
 洛外洛中図(紙本金地着色)・・元和5年(1619)−正保3年(1646)の間と推定

2005/11/14追加:
「京都府史蹟勝地調査会報告 第7冊」:
 神泉苑絵図(華洛細見図):「宝永華洛細見図」:池中小島に二重塔が描かれる。
 神泉苑絵図(都林泉絵図):「都林泉絵図」:基本的に上述の「都名所圖會」と同一図 であろう。
  ※池嶋に美女竜王、池畦に弁財天を祀る。

2009/01/17追加:「京都府史蹟勝地調査会報告 第7冊」京都府史蹟勝地調査会編、1926 より
仏塔は、板倉勝重等再興のときの建造なるべし。

2016/03/01撮影:
 抑々神泉苑は平安京造営当時に移行として名高く、古代・中世には度々雨乞いが行われたという。
江戸期には二条城造営によって苑の多くの地が割き取られたので、往時の姿を失う。
現在の姿は筑紫の僧覚雅が再興したもので、現在は真言宗東寺派の寺院である。
 推定多宝塔跡:確証はないが、現在の神泉苑苑池が近世の各種古絵図とほぼ同じであるならば、写真の祠(弁才天社)のある凸部が多宝塔跡と推定される。
 神泉苑本堂:昭和37年の「新撰京都名所圖繪」では、本堂北に客殿、そのさらに北には書院があったが、現在は祇園平八神泉苑という飲食店になっているようである。同じく「新撰京都名所圖繪」では、本堂南に鐘楼及び恵方社があったが、その姿はなく、寺務所が建てられている。それは客殿・書院を飲食店に転用した措置であろう。なお恵方社は善女竜王社の手前に移設されているようである。
 神泉苑中島:善女竜王を祀る。
 


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