巻之5:東叡山寛永寺

東叡山寛永寺五重塔・多宝塔

寛永寺略歴

2011/06/01追加:2015/02/24加筆:
○「日本の美術 528」(「都市と寺社境内」光井渉)2010年 より
寛永元年(1624)天海の居住である本坊が建築される。
 ※本来徳川氏の宗旨は浄土宗であったが、天台宗天海は徳川家康に重用され、天台宗は浄土宗と並ぶ地位を獲得する。
 天台の関東における拠点は江戸から離れた川越喜多院であったが、
 天海に師事していた家光は江戸城下の拡張に合わせ、天台宗の関東の拠点である寛永寺の建設が企画される。
 そして、寛永寺の寺地は江戸城の鬼門に当たる忍岡と云われていた上野台地が選ばれる。
寛永4年(1627)中心堂宇がほぼ竣工する。この造営は徳川家光によるものである。

家光によって造営された寛永寺の景観は以下で知られる。
 ■寛永末頃の寛永寺境内:「寛文大江戸図」に基づく。
   中心堂宇は比叡山西塔の構成(荷担堂<法華堂・常行堂>)であり、直交する形で東照権現・五重塔が配置される。
   なお、清水観音堂は京都清水寺本堂、不忍池・弁財天堂は近江琵琶湖・竹生島を模倣する。
   子院は25院で、徳川家の霊廟・霊屋はまだ建立されていない。
    ※織田信長によって焼け落ちた比叡山延暦寺の復興は、まず西塔伽藍は豊臣氏によってなされる。
     即ち転法輪堂と法華・常行堂(荷担堂)の再建であり、横川は家康が再建する。
     しかし中心である東塔は仮堂のままであったため、家光は東叡山寛永寺の建設と並行し比叡山の大改造にも着手する。
     即ち、比叡山東照宮(寛永11年)、根本中堂(以下寛永19年)、文殊楼、太講堂、鐘堂、戒壇院(寛永年中)などの再興である。
   以上の比叡山の三塔の威容に比べて、東叡山建永寺の伽藍は西塔の一伽藍を模したのみで
   その意味では多少貧弱なものであったことは否めないであろう。
  家光の寛永寺創建伽藍を表した絵図に以下がある。
   ■寛文大江戸図:寛文10年(1670)、北条安房守氏長が実測した図に基づき、藤井半知(遠近道印)が製図。
              江戸を5図に別けて出版、本図はその内の「下谷・上野・谷中・湯島・本郷・小石川・駒込・染井」の図
              掲載は東叡山の部分図、なお掲載図の左上は谷中感應寺である。
寛永15年守澄親王(後水尾天皇第3子)天海の法嗣となる。正保4年(1647)親王関東下向。
慶安4年(1651)大猷院(家光)霊廟、延宝9年(1681)厳有院(家綱)霊廟の建立。
承応5年(1654)守澄親王寛永寺に入り、天台座主となる。ここに寛永寺が天台宗の頂点に立つ。
 ※寛永寺は隆盛となるも、子院や霊廟が増加し、中心堂宇も貧弱で、不完全が目立つこととなる。
  子院は創建時25院で、荷担堂の東西に凄然と配置されるも、諸大名の寄進で36院に急増する。

元禄10年(1697)徳川綱吉、不完全さの解消をめざし、改造に着手、
元禄11年根本中堂落慶(薩摩藩が造営)。同時に文殊楼も建立。
 ※荷担堂を少し南に移建、北側に根本中堂、南に文殊楼(仁王門と代替)を建立し、比叡山東塔と西塔の様相を実現する。
 ※根本中堂の規模は桁行47m梁間36m高さ35mの重層建築で正面に回廊を廻らす巨堂であった。
元禄11年、完成したばかりの根本中堂の勅額搬入の最中に、町中の火事が寛永寺を襲い、中堂は類焼を免れるも、本坊・子院などがほぼ全焼する。
上記の「勅額火事」により、手狭な境内を、北西方面と南東方面(現在はJR上野駅)に拡張、最終的には子院は36坊に増加。
宝永6年(1709)常憲院(綱吉)霊廟が建立される。基本的のこの山容が幕末まで存続する。
 ■幕末期の寛永寺境内:「東叡山絵図」(下掲)に基づく。
   文殊楼、荷担堂、根本中堂が直線に配される巨大伽藍が完成する。
   □下掲の「慈眼大師縁起」は元禄期の綱吉改造前の景観を表す。
2006/10/18追加:
東叡山絵図(水野家文書:首都大学図書館蔵)

 東叡山絵図:左図拡大図

東叡山の盛時には、寺域36万5000坪、寺領1万1790石、子院36坊があったと 云う。
絵図の端裏書には「一 山衆 三十六坊 内御別当九ヶ院」とある。
成立時期は不詳であるが、いずれにしろ最盛時の寛永寺絵図と思われる。
寛永2年(1625)本坊が完成、東叡山寛永寺と号する。
根本中堂は徳川綱吉によって造営される。

2016/08/21追加:
○上野寛永寺絵図:立正大学図書館田中啓爾文庫蔵
 上野寛永寺絵図:上掲の東叡山絵図とほぼ同じ絵図で恐らく同じ版下の絵図であろう。
何れにしろ、家綱による造替後の盛時の山容を描くものである。

慶応4年、寛永寺境内で幕軍と官軍が戦闘、根本中堂などの中心伽藍が焼失。
寛永寺は子院大慈院に避難し、これを寛永寺とする。
明治12年川越喜多院本地堂を移建し寛永寺本堂とする。

2009/04/19追加:「上野寛永寺と将軍家の葬儀」浦井正明、吉川弘文館、平成19年 より
正保3年(1646)寺領:2100石余
承応3年(1654)寺領:5600石余
寛文5年(1665)寺領:6000石余
貞享2年(1685)寺領:7870石余
元禄11年(1698)寺領:9170石余
宝永3年(1706)寺領:9320石
享保3年(1718)寺領:11790石、以降幕末までこの寺領が継続する。
 但し、多くの子院の収入、各大名からの祈祷料・寄進などがあり、幕末には3万5000石以上の収入があったと推定される。

東叡山寛永寺古絵図

江戸名所圖會:東叡山寛永寺(2011/06/01追加) ・・・・・元禄11年(1698)徳川綱吉改造後の寛永寺

寛永寺は江戸城の鬼門に位置し、かつ徳川家の菩提寺であった。
その寺地は上野全山を占地し、三縁山増上寺と並ぶ江戸の巨刹であった。

東叡山寛永寺:下図拡大図: (画像容量は1201KB)

江戸名所図會に見る寛永寺多宝塔(雲水塔)

東叡山寛永寺は上野全山を占地していたが、 明治の戊辰戦争(将軍家の崩壊)・今次大戦の空襲で伽藍はほとんど焼失する。
僅かに、五重塔・清水観音堂・東照宮等が炎上を免れ、今日に伝えられる。

根本中堂の向かって右に多宝塔(雲水塔)があったことが知られる。しかしながら、多宝塔の詳細は殆ど不明。
推測するに、多宝塔は寛永4年(1627)家光の造営によって創建され、綱吉による元禄期の改造で多少動かされた可能性はあるも、
幕末まで存続したと思われる。
しかし、慶応4年の上野山の戦いで焼亡したと伝える。

新訂 江戸名所図会(ちくま学芸文庫版)市古夏生・鈴木健一校訂から

雲水塔(中堂の前、右の方にあり。多宝塔と唱ふ。
この塔は初め、慈眼大師の建立にて、いまは公の御修理所なり)。

武州東叡山鐘銘ならびに序:江城の艮に一佳境あり。誠にこれ霊区なり。
叡山大僧正天海、官につげて攸を相し、もって東照大神君の原廟を奉営せんと欲す。
これによりて・・中略・・ここにおいて利勝<土井利勝>五層の塔を建て、謹んで神意を奉ず。・・以下略・・

2007/02/16追加:東叡山寛永寺多宝塔(雲水塔):左図範囲拡大図
江戸名所図会(部分図)

山門(文殊楼)、常行・法華堂、中堂と並び、中堂向かって右に多宝塔、左に転輪蔵が配置される。
この図で見る限り、雲水塔は多宝塔形式の塔婆であったと思われる。

2000/10/04:
多宝塔(雲水塔)は根本中堂の向かって右に存在した。
 ※「江戸砂子」では三重塔と云うも、三重塔とはおそらく何かの錯誤であろう。
慶応4年(1866)戊辰戦争で根本中堂以下と同様、多宝塔も焼失したとされる。
多宝塔跡の推定は現在では全く不可能と思われる。

2007/02/16追加:「江戸砂子」享保17年(1732)本
  ●「江戸砂子」寛永寺
中堂前右の位置に(雲水塔として)三重塔が描かれる。
  ●「江戸砂子」寛永寺記事:  「△雲水塔 三重なり 中堂のまへ」とある。
 「江戸砂子」:沾凉纂緝、 [江戸]:若菜屋小兵衞、享保17年([1732)
 別書名:「江戸砂子温故名跡誌」、「新撰江戸砂子」、「江府名跡志」
2007/02/22追加:「再校江戸砂子」明和9年(1772)本
  ●「再校江戸砂子」寛永寺・・・・・こちらの方が画質は良 。
  ●「再校江戸砂子」寛永寺記事
享保本と同じく、 中堂前右の位置に(雲水塔として)三重塔が描かれ、三重塔と記載される。
 「再校江戸砂子」沾涼纂輯 ; 恒足軒再校 ; 冬渉訂正、[江戸] : 藤木久市, 明和9年(1772)
 別書名:「再校江戸砂子温故名蹟誌」、「再校江戸砂子名跡誌」、「再校江府名跡誌」
享保−明和年中の頃は三重塔であったが、その後多宝塔に改められたのか、それとも「江戸砂子」の単なる錯誤なのか不明 ではあるが、
 入手できた資料の中で、三重塔とするのは「江戸砂子」だけであるので、「江戸砂子」の錯誤であろう。

「江戸名所花暦」に見る東  叡 山(部分図):
     中堂前右の位置は多宝塔の絵となる。「江戸名所花暦」:文政11年(1827)刊

2007/02/16追加:JIT日本画像行脚様サイトより転載
  ■「東叡山中堂之図」:勝春朗(北斎)
  ■「東叡山中堂之図」多宝塔部分図(同上) :「浮世絵大家集成15 北斎」大鳳閣書房、昭和7年4月15日、
中堂前右の位置には 多宝塔が描かれる、特に相輪は、九輪の輪の数は不審であるが、多宝塔のそれと描かれる。
 ※なお 葛飾北斎は宝暦10年?<1760> - 嘉永2年<1849>の生涯とされる。

 ※上図と同じようなアングル(構図は楼門から担い堂を遠望する大胆なものであるが)に広重の絵がある。
  ■広重「東叡山中堂」:一立斎広重画、「美術世界 23巻」、春陽堂発行、明治25年

2007/02/16追加:
  ●「江戸名所圖繪 通景五十景」の「上野」
「江戸名所圖繪 通景五十景」:天明5年(1785)、夢佛庵撰、北尾恵斎政美画:多宝塔図である。

  ■「名所之内上野
  ■「名所之内上野」(部分図):さくら坊芳盛筆、「下谷上野」久保田金僊編集、松坂屋発行、昭和4年
 ※制作年代は不明なるも、盛時の東叡山の名所図と思われる。部分図は中堂・多宝塔部分図、多宝塔は「宝トウ」とある。

  ■「明治4年東京大絵図」:東京市史稿市街編附図第二、東京市役所、大正5年発行
 ※制作年は明治4年か?、焼失前の東叡山概要と思われるが、詳細は不明。

2009/04/19追加:「上野寛永寺と将軍家の葬儀」浦井正明、吉川弘文館、平成19年 より
主要伽藍初建年次一覧:寛永4年(1627)法華堂、常行堂、仁王門、黒門、東照社、経蔵、多宝塔、三十番神 とある。
  (五重塔は寛永8年、薬師堂<本地堂>は寛永16年、根本中堂は元禄11年<1698>の建立)

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2007/02/22追加:
●「慈眼大師縁起」(部分図):延宝8年(1680)、寛永寺蔵:「江戸時代図誌4」、筑摩書房、昭和50年
  「慈眼大師縁起2」(部分図、多宝塔・五重塔部分図):雲水塔は明確に多宝塔の姿で描かれる。
   (※多宝塔・経蔵の位置が中堂の前ではなく、法華・常行堂前に描かれているのは、本図が元禄10年(1697)の綱吉の東叡山伽藍改造
   の前の図であり、当時は荷無坦堂前に多宝塔・経蔵があった。
   この間の事情については、上掲の【2011/06/01追加: ○「日本の美術 528」(「都市と寺社境内」光井渉)2010年 より】の項を参照。
   上掲:「寛永末頃の寛永寺境内」、「寛文大江戸図」を参照。)
●「上野寛永寺平面図」:「大日本建築全史附図」佐藤佐、文翫堂、昭和8年:享保5年以前の作図・幕府大棟梁甲良家作成
  南より、文殊楼、法華堂・常行堂、根本中堂が並び、中堂向かって右に「多宝塔」が配置される。
   (※享保初頭以前の作図とされる幕府方棟梁資料も雲水塔は多宝塔とある。)
  西方には東照宮が配され、本地堂たる薬師堂、勅願御門内に護摩堂があり、五重塔は東照宮手前向かって右にある。
  また、歴代廟所、寛永寺子院の配置もはっきりと知ることが出来る。
●「江戸図屏風」 (寛永寺部分図)年代不詳、京都浦部繁治氏蔵:「江戸時代図誌5」、筑摩書房、昭和51年
  多宝塔図は不鮮明であるが、その形式は雪舟の「天橋立図」中の多宝塔図、あるいは「宇佐弥勒寺古図」中の多宝塔図を
  思わせる姿で描かれる。しかし、この形式で描かれる意味は不明である。
●「分道江戸大絵図」(部分図):享保頃、石川流宣:「江戸時代図誌5」、筑摩書房、昭和51年
  多宝塔図は一見八角多宝塔を思わせる姿で描かれる。
  なぜ、この内山永久寺あるいは興福寺勧学院多宝塔を思わせる姿で描かれたのかは不明。
  さらに、上野東照宮五重塔が三層塔とも思われ、ややこの図の建造物は信憑性に欠けると思われる。
  なお、図の左上は谷中感応寺であるが、残念ながら塔の描写は省略される。
   ※(感応寺五層塔は・・・、明和九年<1772>の火災に焦土となれり。よって寛政(1789−1801)のいま再建して、むかしに復せり)。
     ということであれば、享保年中には五重塔はあったものと思われる。


上野寛永寺五重塔

2003/5/18:江戸図・出光美術館(寛永8−10年ころのものと推定)

2003/03/27撮影画像:

重文。五重塔は東照宮に属する。
初代は寛永4年(1627)に竣工、寛永16年(1839)に焼失。
同年、土井利勝が直ちに再興寄進。一辺約4.9m、高さ約32m。
純和様の古典的な仕様の塔婆である。大工は甲良宗広・宗久父子とされる。
東照宮参道右手に位置するが、現在は東京都に移管され、動物園中にある。
しかしながら、管理主体が東京都であるのは仕方ないとしても、少なくとも動物園からは区分管理し、東照宮参道側に付属するような措置(仕切りの配置)をすることが、少なくとも戊辰戦争・今次大戦の戦火 にも生延びてきた文化財にたいする礼儀というものであろう。
2003/03/27撮影:
 上野寛永寺五重塔1:左図拡大図
   同        2
   同        3
   同        4
   同        5
   同        6
   同        7
   同        8
   同        9
2006/05/15撮影:
 上野寛永寺五重塔10
   同        11
   同        12

2013/05/09撮影:

寛永寺五重塔21
寛永寺五重塔22
寛永寺五重塔23
寛永寺五重塔24
寛永寺五重塔25:左図拡大図
寛永寺五重塔26
寛永寺五重塔27
寛永寺五重塔28
寛永寺五重塔29
寛永寺五重塔30
寛永寺五重塔31
寛永寺五重塔32
寛永寺五重塔33
寛永寺五重塔34
寛永寺五重塔35
寛永寺五重塔36
寛永寺五重塔37
寛永寺五重塔38
寛永寺五重塔39
寛永寺五重塔40
寛永寺五重塔41
寛永寺五重塔42
寛永寺五重塔43
寛永寺五重塔44
寛永寺五重塔45
寛永寺五重塔46
寛永寺五重塔47
寛永寺五重塔48
寛永寺五重塔49
寛永寺五重塔50
寛永寺五重塔51
寛永寺五重塔52
寛永寺五重塔53
寛永寺五重塔54
寛永寺五重塔55
寛永寺五重塔56
寛永寺五重塔57
寛永寺五重塔58
寛永寺五重塔59
寛永寺五重塔60
寛永寺五重塔61
寛永寺五重塔62
寛永寺五重塔相輪

初重各間中備には十二支を彫刻した蟇股を置く。

2010/05/28追加::「身延山五重塔の復元」文化財建造物保存技術協会、身延山久遠寺、2009.3 より
甲良宗広・宗久の設計、高さ32.3m)。
 寛永寺五重塔立面図     寛永寺五重塔断面図

2004/04/10追加:
 明治17年参謀本部陸軍部陸地測量局測量地図1
 明治17年参謀本部陸軍部陸地測量局測量地図2

◆寛永寺古写真
2009/07/25追加:
「太陽の通路で/In the track of the sun : readings from the diary of a globe trotter」
 トンプソン(トムソン)/Thompson, Frederick Diodati, 1850-1906 より
  寛永寺五重塔19

2012/09/28追加:
 寛永寺絵葉書五重塔:撮影年代不明

2014/07/25追加:
「特別保護建造物集成. 第1至6輯」岡本定吉編、建築工芸協会、大正8年 より
 大正8年頃寛永寺三重塔


○上野寛永寺東照宮
2003/03/27撮影:
 上野寛永寺東照宮(重文)
2006/05/15撮影:
 寛永寺東照宮2     寛永寺東照宮3       同        4
○上野東照宮水舎門
2013/05/09撮影
元は東照宮水舎上屋として阿部重次が奉納したものである。慶安4年(1651)建築。
水舎は社前右側にあったが、昭和39年上屋を門として移築する。
 上野東照宮水舎門1     上野東照宮水舎門2
なお、東照宮薬師堂本尊は明治の神仏分離の処置で寛永寺に遷座し、昭和42年大仏山パゴダに安置される。

○寛永寺清水観音堂:重文、寛永8年(1631)京都清水寺に擬して建立されると云う。
2003/03/27撮影:
 上野寛永寺清水観音堂
2013/05/09撮影:
 寛永寺清水観音堂1    寛永寺清水観音堂2    寛永寺清水観音堂3    寛永寺清水観音堂4    寛永寺清水観音堂5
 寛永寺清水観音堂6    寛永寺清水観音堂7    寛永寺清水観音堂8    寛永寺清水観音堂9

○不忍池弁天堂
 不忍池弁天堂1       不忍池弁天堂2

2012/09/28追加:
○上野大仏山パゴダ/上野大仏
◇森川和夫のホームページ より
 →廣重の風景版画の研究(1)古写真で読み解く広重の江戸名所→100.喜鶴堂版東都名所 上野東叡山ノ図 より転載
  上野寛永寺大仏殿:鹿鳴館秘蔵写真帖:左が大仏堂、手前基壇は文殊楼基壇
慶応4年(1868)戊辰5月15日上野の戦争で、寛永寺根本堂、多宝塔、輪蔵、鐘楼、法華堂、常行堂、文殊楼などが焼失、大仏堂、清水観音堂、東照宮、五重塔などが僅かに残る。
しかしその残った大仏堂は明治8年取壊され、露座の大仏のみが残る。この大仏も大正12年関東大震災で頭部が落下、昭和15年金属供出で顔のみ残し、供出される。
◇上野大仏山パゴダ
現在大仏殿のあった場所には上野パゴダが建立され、その脇に上野大仏の顔のレリーフが設置される。
パゴダは昭和42年上野観光連盟が建立、高さ15m、内部には薬師三尊像を安置する。
この薬師三尊は東叡山東照宮薬師堂本尊本地仏であり、明治の神仏分離の処置で寛永寺に移安されたものである。
◇某サイトより
 2013/05/27追加:
  上野寛永寺大仏殿2:上写真と同一写真 、上野寛永寺大仏
◇ブログ:お顔だけ残った大仏様「上野大仏」  より転載
 2013/05/27追加:
  上野大仏殿写真:左は「時の鐘」      関東大震災直後上野大仏
◇ページ:上野絵葉書 より転載
 2013/05/27追加:
  上野大仏絵葉書1     上野大仏絵葉書2
2013/05/09撮影
○上野大仏山パゴダ
 上野大仏山パゴダ1     上野大仏山パゴダ2     上野大仏山パゴダ3     上野大仏山パゴダ4
 東照宮薬師堂本尊本地仏
○上野大仏
寛永8年(1631)越後村上城主堀直寄、自邸であったこの地の高台に、戦没者の菩提のため釈迦如来像(漆喰造)を造立する。
正保4年(1647)地震で倒壊。
万治年中(1658-60)銅造に改められる。(明暦年中とも云う)
元禄11年(1698)露座の大仏に大仏殿が建立される。
天保12年(1841)火災焼失、天保14年堀直央が大仏を新鋳・大仏殿を再建する。
安政2年(1855)安政大地震により、頭部が破損。再び堀直央の寄進により修復。
明治8年上野恩賜公園の整備に際し仏殿が撤去され、露座となる。
大正12年関東大震災により頭部が落下。大破した頭部、解体撤去した胴部以下は寛永寺が保管する。
昭和15年金属供出にて、顔面部を除く頭部、胴部以下が供出される。
昭和47年上野観光連盟が願主となり、寛永寺保管の顔面部をレリーフとして旧跡に安置する。
 上野大仏1     上野大仏2


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