巻之1:芝・増上寺

芝増上寺五重塔


江戸名所図會に見る芝増上寺
 「新訂 江戸名所図会(ちくま学芸文庫版)」市古夏生・鈴木健一校訂 から図版:浅草寺及び塔婆関連記事を転載

巻之1:三縁山増上寺:弘度院と号す。関東浄家の総本寺、十八談林の冠首にして・・以下略

その3(本堂等伽藍中心部)

その2(門前から山門付近)

その4(五重塔等)
五層の塔(同所御仏殿の地、蒼林のうちにあり。酒井雅楽侯の建立なりといへり)
注)上記の同所とは安国殿をいう。

◆◆ 江戸名所圖會芝増上寺全図  :(上記拡大図)

 


芝増上寺五重塔写真

増上寺五重塔の写真は、東京に位置しかつ昭和20年まで現存したにもかかわらず、意外に遺されたものは少ない。
これはおそらく、江戸後期の再興で建築的に注目されなかった、あるいは立地が伽藍中心ではなくて林茂の中にあった、あるいは増上寺が徳川家廟所であった・・・などと推測される。

「KENKEN」氏ご提供画像(焼失前増上寺五重塔)

丸山<前方後円墳(長径100m前後)>上に建立。
台徳院(徳川秀忠)の供養塔であり、承応年中(1652-)酒井雅楽頭が創建と伝える。
文化年中雷火で焼失・再び酒井氏が再建。
屋根 瓦葺きで最上層のみ銅葺き、丹塗りの塔と云う。
長押の蛙股には江戸期の装飾を象徴するような十二支の彫刻があった。

現状:
「現在の芝公園丸山古墳付近にあったものと推察されるが、
台座に至るまで全てが灰と化し何も残っていない。」

写真は
「KENKEN」さんサイト「東京港区芝公園
 →増上寺写真館
  →※特別編U〜焼失した五重塔〜 から転載
2017/01/16追加:本サイトおよび写真は現在閉鎖と思われる。

なおこの写真は下に掲載の「府下に於ける佛塔建築」
に所収の写真と思われる。

芝増上寺五重塔写真

増上寺五重塔3:左図拡大図:明治初頭

2005/04/29追加;
増上寺五重塔1:昭和14年撮影

2006/02/11追加:
○「芝公園梅林・銀世界」:昭和6年撮影、
  上方に五重塔5重が写る。
  現在、この梅林は移設され、当時の位置にはないと云う。

2007/07/18追加:
サイト:「西武グループの歴史」より
芝公園五重塔: 一見切石積基壇上に建立されている様にみえるが、
 これは石柵などの類であろう。
 (「基壇は設けない」とされるので、基壇は無かったと思われる。)

2008/09/16追加:2011/01/28追加修正:
「伊藤 友己」氏による「増上寺の石灯篭」と云う優れたサイトがある。
   以下はその中からの転載である。
 1)「増上寺徳川家霊廟の風景(1)」の末尾に芝増上寺五重塔写真(絵葉書)の掲載がある。

  ○増上寺絵葉書・五重塔:『増上寺絵葉書』増上寺霊廟事務局(筆者蔵:伊藤友己氏蔵)とある。

 2011/01/28追加:
 2)「増上寺徳川家霊廟の風景(6)」(五重塔ふたたび&丸山古墳のこと)に芝丸山五重塔写真(絵葉書)3枚の掲載がある。

  ○大正2年芝増上寺五重塔:「東京の○雪 芝公園」;五重塔を東南東方向からつまり丸山の後方部越しに撮影したものと推定される。
  ○妙定院月影園よりの五重塔:山下谷妙定院月影園からつまり五重塔を西南西から撮影したものと推定される。
  ○妙定院・五重塔遠望:芝公園グランドから妙定院、五重塔を望む:五重塔を東南東方向から撮影、
                但し上記大正2年写真よりやや南より撮影と推定される 。
   ※写真(絵葉書)は何れも伊藤氏蔵。
 なお、当ページには五重塔位置について詳細な考察があり、参考にすべし。

 2017/01/16追加:
 ○s_minaga入手絵葉書:上に掲載の「妙定院月影園よりの五重塔」と同一の絵葉書である。

 妙定院月影園より五重塔を望む:左図拡大図
通信面に「きがは便郵」と「はかき」に濁点がつくので、昭和8年2月以降の絵葉書であると同時に、「きがは便郵」と左書きであるので、戦前の絵葉書であろう。要するに、昭和8年以降昭和20年迄の間の写真 と推定される。
 ※月影園とは妙定院書院の庭である。したがって本絵葉書に写る建物は妙定院書院であり、書院越に円山五重塔を望むものである。

2006/06/15追加:
「東京市史稿」 より転載

「東京市史稿 市街編34」、東京市役所、昭和14年刊
文化6年(1809)6月
幕府増上寺五重塔(市内芝区)ヲ再建ス。姫路(播磨国)城主酒井忠道。(雅楽頭)役ヲ助ク。・・・
増上寺五重塔再建 文化3年ノ災ニ焼失シタルヲ以テ也。・・・・

「東京市史稿 遊園編7」、東京都編、1953
明治23年10月30日
芝公園徳川家墓地上地(市内芝区)五百余坪ヲ五重塔及天人門ト共ニ公園に編入ス(庶政要録)
 芝区芝公園徳川墓地ノ内
1.地坪590坪7合7勺
1.五重塔      1基
1.門        1ヶ所
右地所別紙面朱線之通、建物ヲ併セ公園ニ組入候ニ付、及御引継候也・・・・・
  別紙:私有地墓地公園内へ編入( 「別紙図面」)
   ※明治23年五重塔などを公園に編入時の別添図。

「東京市史稿 遊園編7」
増上寺五重塔仏像遷座式 の項

・増上寺五重塔仏像遷座式  明治24年11月19日
増上寺住職ヨリ五重塔仏像遷座式執行願ノ件・・・が提出され、認可される。
 (この遷座は五重塔修繕着手、塔中に安置の仏像(釈迦三尊)置場に差支えがあるため、一時増上寺に預け置く処置と思われる。)

「東京市史稿 遊園編7」
●増上寺五重塔仏像遷座式 の項に
増上寺五重塔写真の掲載がある。

芝増上寺五重塔:「東京市史稿 遊園編7」掲載写真 :左図拡大図

説明文:
「大正11年頃ノ写真ナリ。戦災ニヨリ焼失、現在ハ台石ノミ存在ス。」

 

2008/06/27追加:
「府下に於ける佛塔建築」東京府 , 昭和7年(1932) より

大伽藍増上寺の五重塔に関しては、殆ど諸書伝えるところがない。
瓢塚(丸山古墳)の西に接して高い丘上、
 蒼林の中に人々から忘れられた様に旧観のまま立つ。

増上寺五重塔・昭和初頭:左図拡大図

基壇は設けない。初重には勾欄の無い縁(切目縁)を廻らす。(縁高3尺7寸、縁幅6尺3寸、縁板厚3寸5分)
初重一辺は15尺8寸(中央間5尺6寸、両脇間5尺1寸)
内陣(四天柱内部)は須彌壇を設置、5体の仏像を安置する。



 増上寺五重塔初重軒廻1:左図拡大図
   同        軒廻2
   同        軒廻3
   同      初重扉

外部は全体丹漆塗、二重以上は縁に組勾欄を付設する。
各重中央間は桟唐戸、両脇間は蓮子窓。
軒廻は初重〜4重は基本的に和様、五重目は唐様を用いる。
 (同時代の五重塔で寛永寺塔は全重和様、池上本門寺塔は2重〜5重が唐様)
斗栱は三手先組物、初重中備は蟇股、二重以上は間斗束を使用。
蟇股には十二支の彫刻を貼る。
内部四天柱は漆塗で金箔を置き、上部は盛上石彩色の金襴巻を施す。
内陣天井は鏡天井、外陣は格天井を用いる。

◎4枚の棟札が遺存する。(内1枚は塔再建時のもの、2枚は修理の時のもの、あと1枚は火災防除の祈祷札)

 増上寺五重塔棟札(表):左から (1)文化6年、(2)文化13年、(3)嘉永2年、(4)祈祷札
 増上寺五重塔棟札(裏)

(1)文化6年(1809)棟札(9寸5分×4尺9寸)
<表>
 武州三縁山増上寺
台徳院殿廟傍五重塔 姫路城主従四位下酒井雅楽頭源忠道再建
 文化六年己巳五月廿四日

-------------------------------------------------------------

<裏>
 寛永九年壬申先臣忠世恭発願為
台徳廟剏建五層塔明年癸酉終功越文化
 丙寅罹回禄臣忠道恭請再建以丁卯秋
 七月鳩工以己巳夏五月告成
--------------------------------------------
(2)文政13年(1816)棟札(5寸8分×3尺2寸5分)
<表>
 武州三縁山増上寺
台徳院殿廟傍五重塔姫路城主従四位下左近衛権少将酒井雅楽頭源忠實修造
 文化十三年庚酉十月廿四日
-------------------------------------------------------------
.

(3)嘉永2年(1860)棟札(5寸8分×3尺2寸5分)
<表>
 武州三縁山増上寺
台徳院殿廟傍五重塔姫路城主従四位下侍従酒井雅楽頭源忠實修造
 嘉永二年己酉年十一月廿四日
-------------------------------------------------------------
.

(4)文化6年祈祷札(4寸7分×2尺9寸6分)
<表>
奉懇念出世大弁財天女供再営宝塔火災消除祈所
-------------------------------------------------------------


<裏>
文化六歳己巳夏五月吉祥日 白蓮池宝珠院順誉普教謹言
---------------------------------------------

文化6年棟札:寛永9年酒井忠世が発願、台徳院廟に五重塔を剏め、その翌年功が成る。
         文化3年回禄の災に罹る。
         酒井忠道再興を乞い、文化4年起工、文化6年竣工。
酒井忠實、文化13年及び嘉永2年五重塔を修造。

増上寺五重塔絵図

「江戸図(屏風絵)」に見る五重塔:推定寛永期

 

2007/07/18追加:
 東都名所 芝赤羽 増上寺:歌川広重、天保後期と推定

2003/07/09追加:
 江戸切絵増上寺

2006/02/11追加:
 版画「増上寺塔赤羽根夏53景」:
          歌川広重「名所江戸百景」より

2005/04/29:追加
  三縁山増上寺絵図
          江戸後期と推定:絵図左に「塔」の配置がある。

2007/02/16追加:
「江戸砂子」:三縁山増上寺

2002/11/04追加:
寛永期のものと推定される江戸図(屏風絵)に見る五重塔

 

2007/07/18追加:
「明治東京名所図会 上・下巻」朝倉治彦、槌田満文編、東京堂出版、1992
 (東陽堂刊「風俗画報臨時増刊」「新撰東京名所図会 第1編-第47編」明治29-40年刊の複製) より

何れも明治期の丸山五重塔が描かれる。

 芝丸山の図:明治30年「新撰東京名所図絵第六編」

 芝公園全図その2:明治30年「新撰東京名所図絵第七篇」

 芝公園丸山の図(全図):明治30年「新撰東京名所図絵第七篇」
 芝公園丸山の図(部分):左図拡大図:同上


芝増上寺五重塔跡

過日掲載図
5000/1地図(陸軍陸地測量部?)
字丸山の丸山は「芝丸山古墳」でこの地図でもはっきりと前方後円墳の形を見て取れる。
(全長108m、前方部幅40m高6m、後円部径64m高8m、くびれ部幅22mという。半壊。東京都史跡。5世紀後半の造築とされる。)
丸山古墳前方部西に「塔記号」が描かれる。
 ※なお丸山古墳西の台徳院殿墓は今は全く消滅する。
  台徳院廟所を含め、丸山古墳西側は商業施設に変貌し、五重塔塔記号のある場所は丸山古墳と商業施設との境界付近と思われる。
  この境界には塀が建てられる。

2004/04/10追加:
明治17年参謀本部陸軍部陸地測量局測量地図

2011/02/27追加:2011/02/19撮影
◆現在地表には五重塔を偲ぶ遺構は全く何も残らない。
 丸山五重塔推定地1:丸山古墳くびれ部付近から南方(前方部)を撮影、
   写真中央に大野伴睦句碑があり、その句碑の右手下に塔があったと推定される。
 丸山五重塔推定地2:上の写真と同一アングル、 写真中央に大野伴睦句碑があり、その句碑の右手下に塔があったと推定される。
   上に掲載の写真「増上寺五重塔・昭和初頭(「府下に於ける佛塔建築」)」は ほぼこのアングルに近いと推定される。
 丸山五重塔推定地3:丸山古墳前方部の先端を南東方向から撮影、右やや上に大野伴睦句碑がある。
   上に掲載の写真「芝増上寺五重塔(東京市史稿 遊園編7)」、「増上寺絵葉書・五重塔(増上寺絵葉書)」はこのアングルと思われる。
 丸山五重塔推定地4:丸山古墳前方部の先端を東(やや南)方向から撮影、写真中央・前方部を後に越えた所に塔はあった。
   上に掲載の写真「芝公園梅林・銀世界」(昭和6年撮影)はこの写真を更に下まで降って撮影したものであろう。
 丸山五重塔推定地5:丸山古墳前方部を西方向から撮影、写真中央の丘の稜線が丸山古墳前方部で、その手前に塔は建つ。
 丸山五重塔推定地6:上の写真とほぼ同一アングル、写真右手の丘の稜線が丸山古墳前方部で、その手前に塔は建つ。
  ※大野伴睦句碑は昭和38年建立と云う。



2006/09/30追加
芝増上寺台徳院宝塔
 

幕末・明治期の古写真仮想展示会(長崎大所蔵古写真仮想展示会)のサイトより転載
  台徳院宝塔: 左図拡大図
台徳院宝塔は木造、軒下斗組は四手先、正面は唐様桟唐戸、腰長押より上部の羽目には瀟湘(しょうしょう)八景の図、下部の羽目には牡丹の図を高蒔絵に施し、七宝入の透彫金具を打つ。
八角覆屋中に安置され、八角三重石造台座上に置かれたという。
  台徳院霊廟本殿内部
拝殿は入母屋造、正面に千鳥破風、軒下に唐破風の向拝付設。
拝殿からは相之間を経て本殿が造営。本殿内部は内陣と外陣に円柱区別する。
写真は本殿外陣を写し、円柱より左側が内陣。内陣柱の肘木 は金箔押であり、欄間には花鳥の透彫を施す。
海老虹梁は極彩色に彩色されていると云う。

2007/07/18追加:
サイト:「西武グループの歴史」より
 台徳院宝塔覆屋1     台徳院宝塔覆屋2

※台徳院(徳川秀忠)霊廟は正室崇源院霊廟に隣接し、奥院は東照宮の裏側の丘の上にあった。 
 寛永9年(1632)秀忠薨去。

2006/10/18追加:
千秋文庫「増上寺絵図」の世界(増上寺の石灯篭 報告者:伊藤 友己) より 転載(増上寺の石灯篭:PDF版)

※「増上寺絵図」(以下千秋文庫絵図):千秋文庫(九段下)蔵:
  千秋文庫は秋田藩主佐竹家に伝わる文化資料を収蔵・展示する社団のようです。
この絵図の成立年代下限は天和元年(1681)以前と考証する。
  安国殿別当安立院(元和3年1617)、崇源院別当最勝院(寛永3年1626)、台徳院別当宝松院(寛永9年1632)、
  台徳院別当恵眼院(寛永9年1632)の4院は描かれているが、恵眼院の右隣の桂昌院御霊屋別当佛心院(宝永2年1705)
  描かれていない。
 千秋文庫絵図表示範囲:黒枠が千秋文庫絵図表示範囲で、この範囲が千秋文庫絵図の範囲となっている。
 台徳院宝塔覆屋   台徳院宝塔覆屋前
 台徳院御霊屋附近  台徳院御霊屋前写真(正面:水盤舎)  台徳院御霊屋前写真(左:水盤舎より丁字門を望む)
 崇源院霊牌所前

台徳院霊廟は寛永9年(1632)将軍家光の命で土井利勝が造営。
台徳院宝塔は、奥院拝殿背後の八角形の覆屋の中に安置。
この宝塔は木製であった。その後の将軍の宝塔は銅製で造営され、吉宗の時代から石造に改められる。
台徳院宝塔は昭和20年の空襲で焼失。焼失を免れた台徳院勅額門・御成門などは、現在所沢市の狭山山不動寺に移築現存する。

2007/07/18追加:
■増上寺徳川家廟所概要

明治維新あるいは昭和20年あるいは昭和33年までは
増上寺本堂南(南廟)には
台徳院(二代将軍徳川秀忠)霊廟及び宝塔、崇源院(お江与の方・二代将軍秀忠正室)霊廟、さらに東照宮(安国殿・徳川家康)
天親院(鷹司任子・十三代将軍家定正室)宝塔、
見光院(お金の方・十二代将軍家慶側室)墓、珠妙院(お筆の方・十二代将軍家慶側室)、勢真院(お満の方・十一代将軍家斉側室)墓ほか
本堂西には
清揚院(甲府徳川綱重・六代将軍家宣の父)廟
本堂北(北廟)には
文昭院(六代将軍徳川家宣)霊廟及び宝塔、有章院(七代将軍徳川家継)霊廟及び宝塔
惇信院(九代将軍徳川家重)宝塔、慎徳院(十二代将軍徳川家慶)宝塔、昭徳院(十四代将軍徳川家茂)宝塔、
静寛院(和宮・十四代将軍家茂正室)宝塔、天英院(近衛熙子・六代将軍家宣正室)宝塔、廣大院(近衛寔子・十一代将軍家斉正室)、
桂昌院(お玉の方・三代将軍家光側室・五代綱吉生母)宝塔、月光院(お喜世の方・六代将軍家宣側室・七代家継生母)宝塔、
瑞春院(お伝の方・五代将軍綱吉側室)墓、観行院(経子・和宮親子の生母・仁孝天皇の女御、典侍)墓、
清涼院(お定の方・十二代将軍家慶側室)墓、妙音院(お廣・十二代将軍家慶側室)墓、秋月院(泰露子・十二代将軍家慶側室)墓、
見光院(お金の方・十二代将軍家慶側室)墓、珠妙院(お筆の方・十二代将軍家慶側室)墓、勢真院(お満の方・十一代将軍家斉側室)墓ほか
があった。

昭和20年東京大空襲、増上寺伽藍および霊廟はその大半が焼失する。
 (3月10日 − 芝増上寺徳川家霊廟、東京大空襲により北廟六十八棟被災)
 (5月25日 − 芝増上寺徳川家霊廟、東京大空襲により南廟二十八棟被災 )
戦後、廃墟には将軍宝塔(墳墓)、灯篭などが雑草に覆われて空しく佇む姿であったという。
昭和33年敷地売却、将軍家墳墓の大改葬が行われる。
 (西武鉄道に売却、その売却主体<増上寺なのか自治体なのか徳川家なのか?>およびその経緯・動機などは不詳、
 本堂北の霊廟跡地は東京プリンスホテルとなる、台徳院建物・灯篭などは狭山山不動寺に移転、などなど文化財の破壊が進行する。)

現存する建築
有章院(七代将軍徳川家継)霊廟二天門:重文(享保2年・1717)・・・プリンスホテル所有?
文昭院(六代将軍徳川家宣)霊廟鋳抜門:重文:新徳川家墓所(昭和33年改装集約した廟所)の唐門として移築。
台徳院(二代将軍徳川秀忠)霊廟惣門:(寛永9年・1632):現在位置は三門・黒門の隣に接し、旧位置より日比谷通りに移動という。
    ・・・プリンスホテル所有?
清揚院(甲府藩主徳川綱重)廟水盤舎:本堂前広場に移築
静寛院(和宮・十四代将軍家茂正室)茶室:本堂裏南奥にありという。

台徳院霊廟勅額門(寛永9年・1632)丁子門(寛永9年)御成門(寛永9年)は狭山山不動寺に移転。
灯篭1000基も西武園に運ばれ、その後全国の寺社に寄進される。同時に、膨大な量の御霊屋の石垣、土台石も西武園に運ばれたという。

 2011/02/19撮影・・・何れも下に掲載写真(重複)
  芝増上寺鋳抜門:旧文昭院殿霊廟(徳川家宣)の宝塔前の中門であった。
  芝増上寺水盤舎1     芝増上寺水盤舎2     芝増上寺水盤舎3
   :清揚院殿霊廟(徳川綱重)の水盤舎であり、明治の解体・昭和の空襲を逃れる。現在地に移築されたものである。
  増上寺台徳院霊廟惣門1     増上寺台徳院霊廟惣門2     増上寺台徳院霊廟惣門3
  増上寺台徳院霊廟惣門4     増上寺台徳院霊廟惣門5     増上寺台徳院霊廟惣門6
   :重文、寛永9年(1632)造営、勿論以前は増上寺の建築の一つであったが現在は商業資本の手にある。
  有章院霊廟二天門(重文):徳川七代将軍家継霊廟惣門。享保元年(1716)建立。 ・・・・・未見

2006/07/22追加:
「ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真、マーケーザ号の日本旅行」より:第2回目の日本旅行(明治15年10月から翌年1月末まで)の撮影
  芝増上寺勅使門
   有章院((七代将軍徳川家継)霊廟勅使門、戦災にて焼失。

2007/07/18追加:
 ・「日本百景」小川一真、東京:小川一真出版部、明治29年
   芝増上寺境内勅額門;有章院(七代将軍徳川家継)霊廟勅額門

 ・「東京名所写真帖」亀井和七編、東京:美博堂、明35年
   芝の将軍廟の唐門;有章院(七代将軍徳川家継)霊廟勅額門

 ・「最新東京名所写真帖」東京:小島又市、明42年
   芝   霊  廟;崇源院(お江与の方・二代将軍秀忠正室)霊廟

2007/07/18追加:
台徳院(二代将軍徳川秀忠)霊廟惣門建地割図:「古図にみる日本の建築」より
台徳院廟所惣門建地割図
  
台徳院廟所惣門側面
台徳院廟は寛永10年竣工、南から惣門、勅使門があり、勅使門左右に水盤舎、その奥に透塀に囲まれた本殿・相之間・拝殿があり、正面に中門があった。
  <上掲:千秋文庫絵図表示範囲を参照>
しかし台徳院霊廟は昭和20年空襲にて焼失、焼失を免れた勅使門・丁子門・御成門は所沢不動寺に移建。現地(位置は近年移動)には惣門だけが残る。
 ※仕様:三間一戸八脚門、屋根入母屋唐破風、銅板葺き、金剛力士像を安置。重文。

但し、上に掲載の台徳院惣門の絵図があるが、現地に残存する惣門は八脚門で本図(四脚門)とは全く様式が違う。
また狭山不動寺に移建された勅使門は四脚門ではあるが細部の様式が違うとされる。
このため、この建地割図を台徳院惣門とするには重大な疑問がある。

参考:
徳川家霊屋向柱組物彩色絵本1   徳川家霊屋向柱組物彩色絵本2   徳川家霊屋向柱組物彩色絵本3
徳川家霊屋向柱組物彩色絵本4:蟇股彩色絵本   徳川家霊屋向柱組物彩色絵本5:蟇股彩色絵本
徳川家霊屋向柱組物彩色絵本6:蟇股彩色絵本


2011/02/27追加:2011/02/19撮影
芝増上寺宝塔(大納骨堂)

昭和8年建立、昭和55年現在地へ移建・改修(元地がどこであるのかは情報が無く不明)。RC造。本尊地蔵菩薩。
大納骨堂と称し「有縁無縁の本骨、分骨が収まられ、広く納骨堂として解放」と云う。
蓋し聊か品性を欠く建築であろう。
なお、春・秋の彼岸中扉は開かれると云う。
 芝増上寺宝塔1     芝増上寺宝塔2     芝増上寺宝塔3     芝増上寺宝塔4


芝増上寺古伽藍

2015/02/24追加
「日本の美術528 都市と寺社境内」光井渉、至文堂、2010 より
○増上寺の創建
「三縁山志」では明徳4年(1393)西誉を開山として、江戸氏が館を構える貝塚(現平河町)に創建される。
その後太田道灌庇護をうけ、天正18年(1590)徳川氏江戸入部の時には塔頭や学林を備える大寺であった。
開山西誉は徳川氏菩提寺である三河岡崎大樹寺開山聖誉と近しい関係にあったため、増上寺は江戸における徳川氏菩提寺となるという。
慶長3年(1598)江戸城拡大のため、増上寺は現在地・芝へ移転する。
幕府組織によって、芝増上寺の堂舎は慶長16年までには完成する。
元和3年(1617)家康逝去によって、家康霊廟・安国殿が造営される。
 元和10年在虎図;「三縁山志」、東寄りに13の寺中及び多くの学寮が配される。
             本堂裏/西が安国殿で表門、三門、本堂、安国殿が東西一直線に配置される。
○寛永期の改造
徳川家光は寛永寺と同様に増上寺の改造に着手する。
その目的は徳川氏の霊廟霊屋を追加するために寺地の拡大が図られる。取り込まれたのは丸山である。
寛永6年丸山周辺に台徳院霊廟と五重塔(台徳院の菩提のため)が建立され、寛永18年には本堂の背後にあった安国殿も丸山に移建し、さらに正保4年(1647)台徳院室崇源院霊廟も本堂北西から移される。
寛永17年境内北側から南に通ずる道路を拡張し、裏門は御成門と改め、この道は御成道と呼称された。要は境内南に集められた霊廟を将軍が参拝することを目的とした改造であった。東西軸とは別に江戸場内に直結した南北軸が造り出されたということであろう。
寛永18年北側に隣接していた鍋島家など3家の大名屋敷が増上寺境内に組み込まれる。
 延安癸丑(元年)郭栄上人図:「三縁山志」、延宝元年は1673年、増上寺の拡張、配置替、南北軸の出現などが分かる。
                  安国殿は南に移る。
○その後の境内改変
正徳3年(1713)文昭院(6代家宣)の霊廟建設。(境内北側)
享保2年(1717)有章院(7代家継)の霊廟建設。(境内北側)
8代吉宗は自らの霊廟を建てることを禁じ、その後大規模な霊廟建設はないが、境内北側にはその後も徳川家の人間が合祀され続けられ、最終的には70棟近い建造物が本堂北側に密集する。
さらに、坊中、別当、三蓮社、別院と云われた子院は50院近くを数えることとなる。
居住する僧侶は明治2年の調査であるが、山内に2800人を数えるという。
 芝増上寺総絵図;妙定院蔵、嘉永7年(1854)から安政6年(1859)間の状況を描く。
           本堂の南西北三方は霊廟で埋まる、さらにそれらを子院が円周形に取り囲む。
昭和20年東京大空襲で中心の堂舎群や南北の霊廟は2、3の遺構を除いて、全て焼失する。

江戸名所圖會芝増上寺全図・・・・・冒頭に掲載

2006/10/18追加:
増上寺絵図(水野家文書、首都大学図書館蔵)

増上寺絵図:左図拡大図

「台御廟」(秀忠廟)南に五重塔がある。

 

2005/04/29:追加・・・・上に掲載
  三縁山増上寺絵図: 江戸後期と推定:絵図左に「塔」の配置がある。


2021/09/13追加:
○岡山大学池田家文庫蔵
 三縁山廣度院増上寺1:全図:年代不詳
 三縁山廣度院増上寺2:部分図:安国殿北に台廟(大徳院廟所)があり、台廟に向かって左手が五重塔(塔との表示はなし)である。

2007/02/16追加・・・・上に掲載
「江戸砂子」:三縁山増上寺

天保年間調製之図:明治30年「新撰東京名所図会第八篇」

2008/12/31追加:「東京案内」明治40年 より
 芝公園之図:明治末期の増上寺、江戸期より境内の様子が変貌し、さらに戦後に面影を失う。

芝公園地現今調製之図:明治30年「新撰東京名所図会第八篇」

◆三縁山増上寺境内全図・・・・2011/02/27追加

三縁山増上寺境内全図:左図拡大図 :本人(s_minaga)蔵
 :明治34年発行:原図は銅板画
   ・・・・・画像容量約1.4Mあり

増上寺の記録

2008/09/16追加:
「A handbook for travellers in Japan(日本旅行案内)」Chamberlain(チェンバレン/チェンバリン/チェンバルン), Basil Hall, 1850-1935 より
 ○芝の寺院と霊廟(増上寺)

明治30年「新撰東京名所図会第六篇」より:
増上寺:明治6年火災に罹りて焼失せしが、明治12年に至り再建せし。
黒本尊:元護国殿と称す、増上寺本堂の後ろに在り。
威徳院、天光院、雲晴院 5号地にあり、月窓院 6号地にあり、華養院、源実院 7号地にあり、
広度院、源興院、源流院、常照院 8号地にあり、池徳院、花岳院 9号地にあり、常行院(臨池学院)、天陽院 10号地にあり、
浄雲院 11号地にあり、最勝院、多聞室、真乗院、宝松院、浄業院、学頭寮 14号地にあり、清光寺 15号地にあり、
隆崇院 16号地にあり、妙定院 17号地にあり、宝珠院、大銀院、鑑蓮社 18号地にあり、金地院、光実寺 20号地にあり、
光照院、安蓮社、松蓮社、・・・
五重塔、開山堂、経蔵、鐘楼、浴室、・・・東照宮・・・
 2011/02/19撮影:芝増上寺妙定院(下に掲載)

明治30年「新撰東京名所図絵第七篇」より:
増上寺子院:
広度院(8号地)、天陽院(10号地)、瑞華院(山下谷もと北谷・廃寺)、花岳院(9号地)、天光院(5号地)、夏源院(松原通・廃寺)、常照院(8号地)、源流院(8号地)、瑞善院(清光寺東隣・廃寺)、月窓院(6号地)、徳水院(観智院東隣・廃寺)、安養院(表門南・廃寺)、月界院(松原通西角・廃寺)、華養院(7号地)、良雄院(八軒寺町・廃寺)、源興院(8号地)、池徳院(9号地)、昌泉院(松原通・廃寺)、光学院(八軒寺町・廃寺)、常行院(10号地)、浄蓮院(11号地)、源壽院(八軒寺町北角東・廃寺)、林松院(山下谷・廃寺)、源実院(7号地)、隆崇院(16号地)、清光院(15号地)、恭徳院(大門右横八軒寺町入口・廃寺)
●五層塔:丸山の南茂林の中に在り・・・今は其周囲に鉄柵を廻らして人の猥りに昇降するを許さず。

明治30年「新撰東京名所図会第六篇」:
台徳院廟:別当宝松院、恵眼院(今廃寺)
文昭院廟:別当真乗院、有章院廟:別当瑞蓮院、崇源院廟:別当最勝院、桂昌院殿:別当仏心院、清揚院殿:別当通元院
安国殿(東照宮):別当安立院(神仏分離の際廃寺)、浄徳院殿:別当岳蓮社、・・・・・

2011/02/27追加:2011/02/19撮影
芝増上寺伽藍の残像と現状

 芝増上寺三解脱門1     芝増上寺三解脱門2:重文、元和8年(1622)建立
 芝増上寺本堂:昭和49年再建      芝増上寺本堂他
 芝増上寺安国殿:徳川家康念持仏・秘仏黒本尊を祀る。
安国殿(徳川家康)は家康の御霊屋(1次安国殿)として、現在の東照宮の位置にあり。
明治の神仏分離により安国殿御霊屋は東照宮として分離・神社となされる、黒本尊は本堂裏側(西側)の2次安国殿に遷座する。
昭和20年の空襲で1次安国殿(東照宮)及び2次安国殿も焼失、昭和49年旧仮本堂を本堂北に移築し、3次安国殿とする。
平成21年現在(4次)の安国殿落慶。
 芝東照宮:醜悪な建物として戦後再興されたのであろう。     芝増上寺安国殿門礎
 芝増上寺経蔵:慶長10年(1605)創建。天和元年(1681)改造移築し、さらに寛政12年(1806)現在地に移築。
 芝増上寺黒門:旧増上寺方丈の表門であった。慶安年間(1648-52)の建立と云う。
 芝増上寺妙定院

 芝増上寺鋳抜門:旧文昭院殿霊廟(徳川家宣)の宝塔前の中門であった。
 芝増上寺水盤舎1     芝増上寺水盤舎2     芝増上寺水盤舎3
  :清揚院殿霊廟(徳川綱重)の水盤舎であり、明治の解体・昭和の空襲を逃れる。現在地に移築されたものである。

 増上寺台徳院霊廟惣門1     増上寺台徳院霊廟惣門2     増上寺台徳院霊廟惣門3
 増上寺台徳院霊廟惣門4     増上寺台徳院霊廟惣門5     増上寺台徳院霊廟惣門6
  :重文、寛永9年(1632)造営、勿論以前は増上寺の建築の一つであったが現在は商業資本の手にある。
  なお、左右には仁王像が安置されるが、この仁王像は武蔵西福寺仁王門(現在は退転)安置であったと云う。

 有章院霊廟二天門(重文):徳川七代将軍家継霊廟惣門。享保元年(1716)建立。(未見)
 増上寺御成門が残るも、未見。(現在は何れも西武グループの所有と思われる。)


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