出 雲 日 御 碕 社 三 重 塔 ・ 多 宝 塔

出雲日御碕社三重塔・多宝塔

◇概説:日御碕社三重塔・多宝塔については、寛永の造営で建立され、江戸期を通じて存在したが、明治の神仏分離で廃絶したと云われる。
しかし、この社についての資料は極めて乏しく、僅かに、以下の史料を眼にするだけで、詳細は不明である。
  「日御碕社社殿建地割図」(重文)、「日御碕社殿の図」、「日御碕神社分間惣地絵図」(詳細不詳)
宝暦4年(1754)には両塔の存在は確認できる(「神門郡北方萬指出帳」)も、その後の両塔の消息は全くつかめない。
加えて、明治の神仏分離の記録も、現状では、全く眼にすることができず、日御碕に於いてどのような神仏分離の処置が行われたのかは全く不明である。

日御碕社神宮寺概要

日御碕神社は日沉の宮(下の宮:祭神アマテラス)と神の宮(上の宮・祭神スサノウ)で構成される。
神の宮は当初現社殿背後の隠ケ丘(日御碕燈台の東方にある)に鎮座とされ、後に現在地に移座する。
天暦2年(948)村上天皇代、清江の浜の経島にあったと云う日沉の宮を現在地へ遷し、両社を総称して日御碕大神宮と称したと云う。
また村上天皇勅願により、日御碕社の境内に伽藍を建立、神宮寺が成立と伝える。
 (中世には神宮寺、恵光院などの寺院が見られる。)
元和年間(1615〜24)社僧順式慶雄(別当恵光院順式)が神社復旧のため、慕府に造営を懇請する。
  (現在、参詣道途中に順式社なる小祠が残るが、順式を祀ると云う。)
寛永14年(1637)順式の請願が功を奏し、家光命により京極忠高が造営に着手するも、中途にて同家が断絶。その後には松平直政が入府。
寛永21年(1644)松平氏により造営が継続され、この年に主竣工する。
 (現在の社殿は基本的にこの時の造営とされる。)
 (社殿のほかに薬師堂、経堂、護摩堂、三重塔、多宝塔、大師堂、鐘楼などの造営を見る。)
近世の社領については、堀尾氏の時代は780石。京極・松平氏によって順次加増され、明治元年には1285石と云う。
「神門郡北方萬指出帳」宝暦4年(1754)では
社殿のほかに、三重塔(本尊釈迦如来)、薬師堂(薬師如来)、多宝堂(塔カ)(五智如来)、大師堂(弘法大師)、護摩堂(愛染明王)、鐘楼などの存在が挙げられる。
  ※これ等の堂塔は明治の神仏分離で殆ど取壊(破壊)されたと云う。(詳細不詳)

神宮寺の歴史は良く分からないが、附近に天一山神宮寺が現存する。
長禄年間(1457-60)備中洞松寺3世茂林志繁大和尚が、中興し、曹洞宗洞松寺の末寺となる。
享保4年(1719)及び寛政10年(1798)焼失。
天保7年(1836)廃仏の処置で(あるいは寛政の焼失後)、日御碕社を出、薦沢谷(東3町)の現在地に移転する。
嘉永2年(1849)大風にて堂宇倒壊、小宇を再建。
明治6年、神仏分離の処理で、「順具寺」と改号。
昭和34年、神宮寺の寺号に復号する。現在は本堂(本尊釈迦牟尼仏)、庫裏、薬師堂を備える。
薬師堂本尊薬師如来像は日御碕社の本地仏と伝える。

日御碕社三重塔

日御碕社三重塔十分一図:下記拡大図
(出所不詳)

日御碕社社殿建地割図(三重塔):下図拡大図
(日御碕神社蔵)

「古図にみる日本の建築」国立歴史民俗博物館

現在の社殿は寛永年間に造営されたものである。
寛永21年(1644)正遷宮を行い、この時の設計図が19図残る。<日御碕社社殿建地割図>
19図:下本社御殿、下本社、上本社幣殿、下本社拝殿、禊所、廻廊・下本社および上本社の玉垣、楼門、門客、上本社御殿、上本社拝殿、宝蔵、御供所、護摩堂、鐘楼堂、三重塔、多宝塔、御影堂、高門、本地堂、神宮寺

2010/05/28追加::「身延山五重塔の復元」文化財建造物保存技術協会、身延山久遠寺、2009.3 より
 日御碕社三重塔断面図:幕府御大工・鈴木近江守長次の設計図である。
当社三重塔・多宝塔は寛永21年の遷宮であるが、長次は寛永12年に没する。工事は長次の没後も、長次の設計図に基づき継続されたものと推定される。 勿論、長次は実際の現場の棟梁ではないが、幕府作事方と云う権威ある役職であったからである。

日御碕社多宝塔


日御碕社多宝塔建地割図(日御碕神社蔵) :下図拡大図



「設計図が語る古建築の世界」浜島正二

日御碕社社殿建地割図(多宝塔):下図拡大図
(日御碕神社蔵)

「古図にみる日本の建築」国立歴史民俗博物館

現地未訪問のため、塔跡などの現状は未掌握。

日御碕社補足

2006/04/09追加:2012/10/19画像入替、追加
○「重要文化財日御碕神社社殿修理工事報告書」重要文化財日御碕神社社殿修理委員会、1969 より
日御碕神社には「日御碕社殿地割図」、「日御碕社殿の図」、「日御碕神社分間惣地絵図」、「日沉宮本殿内陣壁画」の4種類の古図がある。
「日御碕社殿地割図」は寛永21年(164)に作成されたもので、19枚あり、その内訳は上に掲載のとおりである。
本ページの三重塔図、多宝塔図、上本社御殿図、上本社拝殿図がそれである。
 日御碕社社殿建地割図(上御本社御殿):(日御碕神社蔵)
 日御碕社社殿建地割図(上御本社拝殿):(日御碕神社蔵)
◇「日御碕社殿の図」寛永21年

 日御碕社殿の図1:全図 :左図拡大図
下本社の背後に鐘楼がある。

 日御碕社殿の図2
神の宮付近に多宝塔、鳥居・高門と楼門との間の向かって左に2段の石垣が組まれ、その上に三重の塔が描かれる。

 日御碕社殿の図3
全図に判明した堂宇名称を付与、多宝塔右上もしくは右やや上の堂宇が薬師堂と思われるも判然とはせず。
※文字が潰れ判読し難いが、
日沉宮の上に鐘楼があり、さらにその上に門を構え築地に囲まれた区画があるが、これが神宮寺と推定される。
三重塔のある山(丘)が天一山であり、その上にある屋敷が社家小野家と思われる。
中央上に9ヶの施設が並ぶが神田であろう。中央は用水池か。

◇「日御碕神社分間惣地絵図」は文化10年(1813)の作成で、大修理に伴い作成されたものであろう。
 (ただし、本書に掲載された図が小さく社殿周囲にある仏教堂塔が描かれているのかどうかは判然とはしない。)
◇「日沉宮本殿内陣壁画」は寛永20年本殿竣工時のものとは思えないが、描くテーマは変っていないと思われる。

2006/07/12追加:
○「神社建築の研究」福山敏男、中央公論美術出版、昭和59年 より
日御碕神社:元和年中、社頭が荒廃したことを権大僧都順式慶雄和尚が幕府に訴え、家光は社殿再興を命ずる。
造替は当初は松江藩主京極忠高次いで松平直政が奉行する。
寛永11年から20年まで、上下両宮の社殿、拝殿、門客神、末社、楼門、廻廊、御禊所、御供所、文庫、高門、鳥居、護摩堂、薬師堂、多宝塔、三重塔、鐘楼、神宮寺等が落成し、寛永21年遷宮が行われる。
2012/10/29追加:
○「日御碕神社所蔵建地割の作製年代・作製方法・表現内容に関する検討」江島智子、伊東龍一、後藤久太郎、斎藤英俊、吉田純一、松井みき子、山口俊浩、木村充伸、「学術講演梗概集、F-2、建築歴史・意匠」、2007 より
日御碕神社建地割図は19枚(重文)と6枚の断簡が残る。
 19枚に描かれた堂塔は以下の通りである。
1図:下本社御殿、2図:同拝殿、3図:上本社御殿、4図:同拝殿、5図:下本社及び上本社幣殿、6図:上下の本社の玉垣、7図:門客・弁財天、8図:祓所、9図:宝蔵、10図:供所、11図:楼門、12図:高問、13図:御影堂、13図:護摩堂、15図:三重塔、16図:鐘楼、17図:神宮寺、18図:多宝塔、19図:本地堂
 6枚の断簡は使われた紙質や表題や文字の配置は1〜19図と全く同じであることから、1〜19図の透写と考えられる。
6枚に描かれる建物は以下の通りである。
20-21図:下本社2枚、22図:廻廊、23図:門客、24図:祓所、25図:薬師堂
 但し、25図は19図の写しであるが、表題を本地堂から薬師堂と書き換えている。これはかって境内に存在した神宮寺は天保7年(1836)に境外に移されるが、この時本地堂は移築され薬師堂と名称を改めた可能性が高く、それ故透写の折に本地堂は薬師堂と変更されたものと推定される。
なお現神宮寺境内にある薬師堂の薬師如来は日御碕社の本地仏と云われることも、以上を示唆する。

2012/12/12追加:
「日御碕回顧録」加地浩一郎、昭和36年(1961) より
日御碕社記という一書に村上天皇が神宮寺を創建した時、薬師堂・経堂・護摩堂・三重塔なども一時に造営してと云うも、これはは疑わしい。
 (神宮寺の創建は見るも、上記堂塔が一時に造営されたとは疑わしい。)
日御碕旧記によれば、以下の社殿・堂塔の建立を見る。
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日沉宮下之本社 玉垣32間4尺
 御本殿之向巽 8尺間5間四方 高4丈5尺四方 各有外椽
 拝殿 6間3尺5寸×7間半 高4丈3尺 四方各有外椽     幣殿 3間1尺×4間2尺
神宮下之本社
 御本殿之向酉 2間3尺5寸×2間5尺四方 高4丈3尺 四方各有外椽
 御殿 3間×4間 高4丈3尺 四方各有外椽     幣殿 8尺×2間    玉垣 28間
楼門 2間×4間2尺 二重屋根ニ階高欄各有四方
廻廊 1間2尺×49間
両門客人社 7尺×5尺4寸 三方有外椽
御禊所 4間×6間 各有外椽
御配膳所 (略)    火焼屋 (略)    御宝庫 2間3尺四方 各有外椽     柏御紋石屋 (略)
高門  2間5尺5寸×4間1尺 二重屋根ニ階高欄各有四方
 (位置は現在の小学校前にあリたるものにして今は無し)
   →※高門は今ないが、今の日御碕小学校前にあったという。この地は低いが西側日御碕と東側宇龍港との分水嶺にあたる。
   現在は車道が複雑に交差するが、古は宇龍港のある海側の街から西に上がり、高門を通り、さらに西に降り、 日御碕社に参拝したので
   あろうと推測される。
石鳥居 (略)     石手水鉢 (略)     石垣 (略)     石階 (略)     舞台 (略)
御神田 九窪 号点狭田(桑原・中加持の前にあり。用水池は下加持・松下の前にあり。中央に石橋を南北に架して在りしも、今は全部埋めらる)
  堂 塔
薬師堂 3間4尺9寸四方
多応答 2間3尺四方 四方各有外椽 五智如来也 大日釈迦 薬師 阿弥陀
護摩堂 3間四方 四方各有外椽 愛染明王也
三重塔 3間3尺四方 四方各有外椽 薬師如来也
大師堂 2間7尺四方 四方各有外椽
鐘楼  2間×2間5尺2寸 道春銘有
 ・・・以下社内・社外の多くの社などの列記があるが、省略・・・・
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寺院については「雲陽誌」日御碕の条に以下の記載がある。
神宮寺 曹洞宗天一山号す本尊地藏開山蔵海和尚なり。
 現在順具寺と云う寺院あり。その由来は天暦2年(948)村上天皇代の創建と云う。
 長禄年中(1457-)備中洞雲寺より第3世来りて、曹洞宗に改宗す。
 寛永21年神宮寺も改修されるも、享保4年(1719)及び寛政10年(1798)回禄す。
 本地仏であったので明治8年まで神社より米8石、大豆4斗、小豆4斗が授与される。
 天保7年(1836)神社境内を出て、薦沢谷の現在地に小宇を建立移転する。
  (元の地は今の燈台入口の西広場の地で寺屋敷と称する所である。)
 明治6年神仏判然の命により順具寺と改称す。明治40年現在の堂宇を建立す。
恵光院 真言宗金剛山という本尊薬師本堂客殿庫裏あり。
 日御碕社中上官古庄家の元の所有地に「エコウイン」と称する山林及び田畑あり。(上加地旧宅の道路を隔てた前面)
 おそらくその廃墟ならんか。
 寛政年中には諸文書にてその存在は明らかなるも、その後何時如何なる理由して破棄せられたかは不詳である。
天通院 真言宗寛正山という本尊虚空蔵。
 小野家系図(86代尊俊の条)に「・・天性院住持・・・云々」とあり、おそらくは同一の寺院でならん。
 それ以外の事象については全く不詳。

2012/12/12追加:
「神仏合一と日御碕『神宮寺』の由来」神宮寺25世吉田重信(「大社の史話  第3号」1974 所収) より
今でも蛇山に「寺の間」「寺屋敷」の地名が残る。これは神宮寺の名残りであろう。
天保7年に神社境内を出た理由は、この頃から廃仏の声が高まったからである。
園山良之助著「日御碕史略」には
蛇山には、日御碕社境内の堂塔とは別に、神宮寺(6間×4間半)、鐘楼(2間半に2間)、庫裏(3間半×7間半)
天一山東北、古庄の南高地に、恵光院(7間×6間)、庫裏(5間×7間)
天一山山麓に三重塔(2間半四面)が建立されるとある。
 →※三重塔が建立された山は天一山と称するようである。
 日御碕社神宮寺の図:石田博蔵、軸物
中央やや下に鐘楼(袴付)があり、その下の入母屋造の堂宇が神宮寺であろう。
  ※なお本図には多宝塔が描かれる。 →上掲載「日御碕社殿の図3」の位置と一致する。
  また「日御碕社殿の図3」には日沉宮の上に鐘楼がありさらにその上に門を構え、築地に囲まれた区画があるが、
  「(元の神宮寺は)今の燈台入口の西広場の地で寺屋敷と称する所である」と云うことからも、これが神宮寺と推定される。
2012/12/01撮影:
現日御碕社神宮寺
 日御碕神宮寺     神宮寺薬師堂1     神宮寺薬師堂2     神宮寺薬師堂3:本地薬師如来は秘仏と云う。
 神宮寺本堂1      神宮寺本堂2      神宮寺庫裏
 日御碕順式社:三重塔のあったと伝える天一山の麓近くにある。
順式は現在の社殿の造営に成功したと伝える社僧であるので、祀られるのであろうか。
 神宮寺庫裏衝立図:五重塔が描かれる。しかし市販品を購入したもので、題材は不明との事。(同じ出雲であるので、安来雲樹寺の五重塔かと一瞬思ったが、見当はずれのようである。)

日御碕社現況

2012/12/12追加:2012/12/01撮影:
◆推定多宝塔跡・推定三重塔跡
日御碕社務所で神職に跡地を尋ねるも、全く跡地はない、詳しいことは分からないとのことで取り付く島もなし。
日御碕神宮寺住職に尋ねるも、やはり跡地は分からないとのことであるが、住職との面談(絵図と現地の様子の照合など)の結果、以下で推定する場所で概ね合致するとの心証を得る。

 ◎推定多宝塔跡
多宝塔跡の手掛りは上掲載「日御碕社殿の図3」が唯一のもので、他には全く資料がないが、絵図の位置に多宝塔があったとして現地を見れば、写真に写した場所に多宝塔があったと推定される。(現地を見ると、写真に写した場所しか適地はない。)
 推定多宝塔跡1:左が宝蔵、右が神の宮であり、写真中央とその右に平坦地があり、ここに多宝塔があったものと推定される。
 推定多宝塔跡2:中央部やそのやや右が多宝塔跡と推定される。
 推定多宝塔跡3:同上
 推定多宝塔跡4:同上
 推定多宝塔跡5:推定地の地上には塔阯を偲ばせるものは何も残らない。

 ◎推定三重塔跡
三重塔跡の手掛りも上掲載「日御碕社殿の図3」が唯一のものであるが、神宮寺住職の見解もここにあったと思われるとのことである。
さらに住職は、この地は禁足地であり様子は分からないとも云う。
 推定三重塔跡1:右端の山(丘)が天一山でここに三重塔があったはずである。左の鳥居と小祠は順式社と稲荷社である。
 推定三重塔跡2:同上、右端には社家小野家屋敷が写る。
 推定三重塔跡3:「日御碕社殿の図」によれば、写真中央に三重塔があったものと思われる。
 推定三重塔跡4:天一山麓付近

○「出雲みやげ名所写真帖」福井写真館編、松江:福井写真館,大正6年 より
 日御碕神社

◆現在、以下の社殿が重文指定:
日御碕神社社殿:日沉宮(下の宮)本殿、幣殿、拝殿、玉垣、禊所、廻廊、楼門、門客人社
 神の宮(上の宮) 本殿、幣殿、拝殿、玉垣、宝庫、鳥居(2基)
  附 日御碕建立絵彩色塗金物1冊、 出雲国日御碕御造営銀子請取同入用高帳1冊、
    日御碕社殿地割図19枚、日御碕社殿の図 1巻、石燈籠 5基
2012/12/12追加:2012/12/01撮影:
日御碕社俯瞰
 日御碕社俯瞰1     日御碕社俯瞰1
楼門
 楼  門1     楼  門2     楼  門3     楼  門4     楼  門5
 楼  門6     楼  門7     楼  門8     楼  門9
門客人社
 左門客人社1      左門客人社2     右門客人社1     右門客人社2
神の宮(上の宮)
 神の宮11     神の宮12     神の宮13     神の宮14     神の宮15     神の宮16     神の宮17
 神の宮18     神の宮19     神の宮20     神の宮21     神の宮22     神の宮23     神の宮24
日沉宮(下の宮)
 日沉宮11     日沉宮12     日沉宮13     日沉宮14     日沉宮15     日沉宮16     日沉宮17
 日沉宮18     日沉宮19     日沉宮20     日沉宮21     日沉宮22     日沉宮23     日沉宮24
 日沉宮25     日沉宮26     日沉宮27     日沉宮28     日沉宮29     日沉宮30     日沉宮31
 日沉宮32     日沉宮33     日沉宮34     日沉宮35     日沉宮35     日沉宮37     日沉宮38
 日沉宮39     日沉宮40     日沉宮41     日沉宮42     日沉宮43     日沉宮44
禊所
 禊  所
宝蔵(現宝庫)
 宝  蔵1     宝  蔵2     宝  蔵3     宝  蔵4     宝  蔵5     宝  蔵6
社家小野家
 社家小野家1     社家小野家2


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