豊 後 柞 原 社 多 宝 塔 (柞原八幡宮・由原八幡宮)

豊後柞原社多宝塔(柞原八幡宮・由原八幡宮)

柞原八幡宮(由原八幡宮)概要

由原宮 、由原八幡宮、賀来社とも称す。
「由原八幡宮縁起」<正応2年(1289)、大宮司平経妙著>では、
天長4年(827)、比叡山の僧金亀和尚 が豊前国宇佐宮に参籠し、八幡神が豊前国に垂迹する託宣を得る。
同年、白幡が賀来社に飛び渡り、金亀和尚はこのことを朝廷に奉上する。
承和3年(836)仁明天皇は勅し、八幡神の社殿を造営。
以上を起源とすると云う。
要するに、宇佐八幡が柞原八幡宮として豊後に勧請されたということであろう。

中世以降、源頼朝の禁制、範頼の奉幣等があり、また大友氏ら歴代領主の崇敬を受ける。
神宮寺は金亀の法脈と伝える金蔵院と云う。
なお、金亀の法統を継ぐ僧位は宮師(みやし)と呼ばれ、柞原八幡宮を支配する。
また、中世以降、柞原八幡宮は豊後国一宮を称し、それ以前から一宮を称していた西寒多神社との間で近世まで論争する。

近世には、府内藩主(竹中氏、日根野氏、松平氏)の保護を受ける。
八幡社殿のほか、参道両側の築垣の中に、講堂、阿弥陀堂、外側社頭には宮師、権宮師、宮師祝、貫首等の坊舎、清教坊などの社僧があったとされるが、入手資料 が不鮮明のため全貌は不明。(近世には社家200余、坊舎は30を数えると云う。)
現在も放生会が存続していると云う。

2007/09/10追加:「八幡神と神仏習合」逵日出典、講談社現代新書、2007 より
天長4年、延暦寺僧金亀和尚が宇佐に一千日参籠し、一乗妙経を読誦し両部の秘法を勤行する。果たせるかな、八幡神の示現があり、豊後国賀来村の大楠の二俣上に大菩薩の初衣である八足の白幡が飛来した。和尚は之を木の本に祀り、後に右大臣清原夏野が勅を奉じ、承和3年豊後国司大江宇久が宝殿を造営したと云う。
堂宇の配置は柞原山の麓に鳥居・南大門があり、頂上に本殿・付属建物・多宝塔があり、山の各所に普賢堂・講堂・神宮寺殿・弥勒堂・阿弥陀堂・元三大師堂・10ヶ所の坊舎・地主権現社7社などが散在するものであった。その組織は宮師(僧侶)が最高職でその下に神職群と社僧群を従える、より徹底(宇佐宮より)した僧団中心の宮寺であった。
柞原八幡宮の成立した平安初期は真言・天台の山岳宗教が隆盛な時期であり、この山岳宗教の特性がこの自由な伽藍配置を採らせた背景であろうと思われる。

近世の柞原八幡宮概要

「柞原八幡宮所蔵社頭古絵図の製作年代」佐藤正俊 (日本建築学会大会学術講演梗概集(東海)1994.9所収)
「柞原八幡宮古図の性格」佐藤正彦 (日本建築学会大会学術講演梗概集(関東)1988.10所収) より

社頭古図絵は次の数点が知られると云う。
1)「由原八幡宮縁起絵巻」絵師土佐光信、詞書尊鎮法親王、室町末期・・・未見
2)「由原八幡宮絵図」:江戸初頭・・・下に掲載(やや不鮮明)
3)「豊後国大野郡由原八幡宮図(日本與地西海道廟佛刹部)」、享保13年(1728)製作。宝暦5年(1755)模写・・・未見
4)「社頭絵図」:97×67cm、彩色:明治の神仏分離で仏堂仏塔を取壊す直前の景観を描いたものと推定。
   ・・・下掲載図(相当に不鮮明)
5)「柞原八幡宮指図」1枚:大きさ1192×1788mm、20枚の和紙を継ぐ(裏打ち):
    寛延2年(1749)の大火後まもなくの景観を描いたものとされる。・・・(入手資料では写真が殆ど判別不能、良く見えない)。
6)「由原八幡宮御本社」、「由原宮ろうもん」:建地割図(江戸後期)・・・未見

2)「由原八幡宮絵図」

2)「由原八幡宮絵図」:ほぼ全図:本社の右手(東)に多宝塔がある。
2)「由原八幡宮絵図」2:部分図:左図拡大図

2008/08/03追加:
2)「柞原八幡宮絵図」3:「大分市史 中」大分市史編さん委員会、1987 より


4)「社頭絵図」 :同じく本社の右手(東)に多宝塔がある。
  :但し、極めて画像状態は不良

※さらに別の古図があるとも思われるが、不明(入手資料では写真が殆ど判別不能のため判断不能)。
 この絵図は大きさ1192×1788mmで、20枚の和紙を継ぐ(裏打ち):寛延2年(1749)の大火後まもなくの景観を描いたものとされる。

4)の「社頭絵図」では以下のように屋根色が塗り別けられているとされる。
檜皮葺・板葺屋根は「濃茶」、瓦葺屋根は「青」、茅葺・藁葺屋根は「黄」色が使用される。
さらに「青」には濃淡があり、
濃青は廻廊・多宝塔・釈迦堂・地蔵堂・(山王権現拝殿)、淡青は仮御所番所・宝蔵・普賢菩薩・鐘楼・弥勒堂・武内社拝殿・神楽舞台・楽屋・経蔵・釈迦堂西の御手洗、中間は南大門(この色は銅板葺とも推定される。) に区別される。
修理記録から嘉永2年(1849)に本地蔵堂・手水鉢屋根葺替・廻廊が瓦に葺き替えられたと推定される。

寛延2年(1749)法住坊より出火、境内の大部の建物を焼失。
焼失した建物は記録によれば、以下のとおりで、本社始めその周辺の29棟程が焼失と云う
 堂天神御殿拝殿普賢堂馬場坂社/八王子社斗??西御門(鐘楼)廻廊楼門東中門
 御本社御拝殿両脇殿御仮殿多宝塔/東外門御本地地蔵愛宕堂太郎社山王/御社拝殿御炊殿迄焼失
この時の大火で焼失を免れた堂舎は以下の通り
 宝蔵・屏外坂王子・忍熊王子・仮御殿番所・釈迦堂・地蔵堂・常小屋・神楽殿・転(ママ)蔵・弥勒堂・神宮寺観音・武内社社殿・同拝殿・厳島明神・御馬・煮売屋・毘沙門・天神・虚宝蔵 ・地主5棟・弁天・観音・御手洗・大門・鳥居

寛延2年の大火からの復興は順次以下のように再興される。
寛延3年(1750)東御門建、御炊殿再建
宝暦4年(1754)御本社再興
宝暦7年(1757)山王御社、両脇殿再興
宝暦10年(1760)楼門再興(棟札は宝暦9年)
宝暦13年(1763)東外門再建
宝暦14年(1764)天神御殿・馬場坂社・太郎(房)社再建
明和2年(1765)普賢堂再建
明和7年(1770)八王子社・多宝塔再建。
安永3年(1774)本地堂再建
安永4年(1775)愛宕堂再建
なお講堂の再建記録は見当たらない、天神拝殿・本社拝殿は各本殿再興とともに再興と思われる。
その他再興記録のない堂舎も以下のように修理記録がある場合もある。
出火元の法住坊、宮佐古坊、遠蔵坊、香再坊、神春日坊もまもなく再建されたと思われる。

堂舎の修理記録は以下のとおり。
本殿:宝暦4年(1754)再興、[天明3年(1783)造営、安政2年?(1855)造営。]
多宝塔:文化5年(1808)屋根替
地蔵堂:文久元年(1861)立替
山王社拝殿:天明8年(1788)修理
普賢菩薩:安永6年(1777)修理、寛政6年(1794)修理
鐘堂:享和元年(1801)修復、嘉永7年(1854)立
御供所:天明3年(1783)修理
神楽舞台:寛政8年(1796)立替
経蔵:安永7年(1778)修理、寛政10年(1798)修理(輪蔵)、文久元年(1861)屋根替
弥勒堂:天明5年(1785)修復
南大門:宝暦11年(1761)修理、安永10年(1781)修理、寛政7年(1795)修理、文政8年(1825)屋根替。慶応2年(1866)立替
御仮伝:弘化3年(1846)上棟
仮御殿番所・釈迦堂・楽屋などは修理記録なし。

柞原八幡宮多宝塔の興亡

柞原八幡宮絵図に見る多宝塔

以下は「柞原八幡宮多宝塔消滅までの顛末」佐藤正彦 (日本建築学会大会学術講演梗概集(近畿)1987.10所収)より

近世、柞原八幡宮造営に深く関わった大工利光家所蔵資料に柞原八幡宮多宝塔建地割図及び若干の造営資料がある。

多宝塔位置は「絵図」によると東門の外・「仮殿件御輿舎」の前にあった。

多宝塔建地割図:明和3年(1766)の年紀を持つ

構造は下重は方3間、上重平面円形で、その間は饅頭を設ける紛れも無い「多宝塔」形式である。
下重は礎石上に上部に粽を持つ円柱を立て、切目・内法長押、頭貫・台輪で結合する。
唐様の木鼻を用い、組物は二手先斗栱とする。軒は二軒。
中央間は板扉、両脇間は不明(漆喰壁か板壁?)。
周囲には切目縁(擬宝珠柱付き勾欄あり)を廻らす。内部は板床で小組格天井を張る。
上重は五手先斗栱を組む。屋根材はおそらく図の屋根厚や修理記録から檜皮葺と推定される。

残念ながらこの建地割図には寸法の表示が無いが、利光家に伝来する建地割図であるため、実際を無視して作図されたとも思えない。
作図寸法が正確として、主要部の長さの比率を計算すると以下になる。
1)上重軸部直径/下重総柱間=0.57
2)相輪高/下重総柱間=1.50
3)相輪高/露盤下高=0.63
4)露盤下高/下重総柱間=2.38
2)3)が大きく、これは相輪が大きいことを示す。
また4)が大きく、これは相当「背」が高い建築と思われる。
 

大工利光家所蔵の造営資料では多宝塔の沿革は以下の通り
 ○寛永13年(1636)由原多宝塔建立(寛永以前の多宝塔の造立については資料がなく不明)
 ○寛延2年(1746)由原大火により多宝塔焼失
 ○明和7年(1770)由原多宝塔再建(明和3年建地割図はこの再建の作図)
 ○文化5年(1808)由原多宝塔屋根替
  ※文化再興多宝塔は明治の神仏分離で姿を消す。(次項参照)

明治の神仏分離の処置(多宝塔の処置)

明治5年、大分県庁宛に「堂塔」取除について「生石村浄土寺(豊後浄土寺)」より「応札」があり、堂塔「譲渡」の願が出され、認可される。

  奉願上覚
一、柞原社頭ノ堂塔早々取除被仰付自分取崩シ候ニハ雑費モ不少困入札ニテ売払度候処入札人無之心配致シ候処
今般生石村浄土寺ヨリ申請度段申出候ニ付相譲申度此段奉願上候
御差支無御座候ハ願之通被仰付可被下奉願候此条宜敷被仰上可被下候已上
     申四月廿日 柞原社/宮師大衛(印)
 <※申は明治5年、宮氏は神宮寺金蔵院>
  大分県庁/御執事
(割印) 願之趣聞届能条早々可取払事
     壬申四月廿ニ日
 <※壬申は明治5年>

同じく、浄土寺より、大分県庁に対し、「多宝塔申受」の願が出され、「聞届」られる。

  奉願上覚
一、柞原社多宝塔当寺ヱ申受以前有来候処ヱ再建仕度奉願上候右願之通被仰付被下候者難有仕合奉存候此段宜敷被仰上可被下候以上
    申四月廿日 浄土寺(印)
  大分県庁/御執事
(割印) 聞届能事/    壬申四月廿ニ日


以上の資料により、柞原社多宝塔は浄土寺が落札した。以前にあった多宝塔の再興の意味合いと意図される。
少なくとも柞原社は入札・譲渡する意図があり、浄土寺側も譲り受ける意思があり、県庁も認可したのは上記の資料のとおりである。
しかしながら、
実際には多宝塔が浄土寺に移建された形跡は資料的にも現地調査でも全く無いという。
どういうことなのであろうか?。
何らかの事情で浄土寺で資金の工面が出来ず、結局は譲渡されず現地で取壊しになった、あるいは資金の工面が出来、多宝塔は解体され浄土寺に運ばれたが何らかの理由 (資金不足など)で再建されず、用材は廃棄された又は腐朽した、あるいは突発的な障害が発生し移建は断念されたなどの事情が考えられるが、資料が全くないので不明という。

以下断片的な情報:
○浄土寺:(大分市王子西、旧生石村)、浄土宗鎮西派、文亀元年(1501)開山。
豊後に配流になった松平忠直<慶安3年(1650)没>の墓所。 → 豊後浄土寺
○現在の社務所の場所に普賢堂があった。
○大山寺:附近にある。
天台宗、天長4年(827)金亀和尚の開山で、法脈を伝えるという金蔵院の後身とも云う。
木造普賢菩薩坐像(重文・平安中期)は普賢堂より遷座と伝える。
○柞原八幡宮には以下の什宝が伝来する。
銅造如来立像(重文):本地阿弥陀如来像と伝える。
木造不動明王立像、木造女神形坐像、木造菩薩形坐像、木造祖師形坐像、板彫多聞天立像、板彫不動明王立像、紺紙金泥増壱阿含経・・・

2013/10/28撮影:
○豊後柞原八幡宮現況
境内建物で辛うじて南大門や楼門、その他の小門は寺院建築の要素を残すが、それ以外には仏教的要素は皆無である。
但し、未見ではあるが、小金銅仏(白鳳・壽文、阿弥陀如来と伝え、檮原八幡の本地仏と云う。)、木造不動明王立像(鎌倉)、木造祖師坐像(平安中期)、板彫不動明王立像、板彫多聞天立像、木造菩薩坐像(破損仏)などの仏像が残るという。(宝物館は閉館期間であった。)
柞原八幡宮多宝塔跡:
多宝塔位置は「絵図」によると東門の外(つまり東側)「仮殿件御輿舎」の前に 描かれる。「仮殿件御輿舎」とは仮殿ではあるが神輿舎という程の意味であろうか。
多宝塔跡地について、神職に聞くも、跡地には何も残らないし、多宝塔の遺物も全く残らないとの返答であった。
現状、東門を出ると、推定「仮殿件御輿舎」があり、そこは築地塀に囲まれた一画となる。東門の東、推定「仮殿件御輿舎」の南東に多宝塔があったものと推定される。そこには今、小祠(天満社との情報があるが、未確認)がある。また「仮殿件御輿舎」の南には小門(門の名称が不明であり、仮称仮殿門とする)を開く。つまり、仮称仮殿門 を起点にすれば、仮称仮殿門を入り右手に多宝塔跡がある。
 推定「仮殿件御輿舎」1:東門の外(東)に一宇があり、この堂宇が「仮殿件御輿舎」と思われる。
 推定「仮殿件御輿舎」2:同上、さらに 「仮殿件御輿舎」の南東に多宝塔があったものと思われる。
 推定多宝塔跡1     推定多宝塔跡2     推定多宝塔跡3:推定多宝塔跡地には今、小祠がある。
 仮称仮殿門:正面は推定「仮殿件御輿舎」、入って右手に多宝塔があったものと推定される。
 柞原八幡宮東門1: 写真に写る東門の奥・正面に多宝塔があったものと思われる。門の奥には小祠(天満社か)が写る。
柞原八幡宮東門2:南東より撮影
※近年、以下の重文と表記した南大門以下西宝殿までの10棟が重文指定を受ける。
南大門:重文、明治3年建立、日暮門と称し、壁面には二十四孝などの彫刻を置く。
 柞原八幡宮南大門1    柞原八幡宮南大門2    柞原八幡宮南大門3    柞原八幡宮南大門4    柞原八幡宮南大門5
 柞原八幡宮南大門6    柞原八幡宮南大門7
 南大門彫刻11     南大門彫刻12     南大門彫刻13     南大門彫刻14     南大門彫刻15     南大門彫刻16
 南大門彫刻17     南大門彫刻18     南大門彫刻19     南大門彫刻20     南大門彫刻21
堂宇・坊舎跡地:南大門から楼門と西門に至る2つの参道があるが、その参道左右には堂宇・坊舎があったと思われる平坦地がある。しかし、現地には全く案内がなく、また入手した絵図が小さく平坦地にあった建物の名称を明らかにすることは出来ない。
 推定堂宇/坊舎跡地1   推定堂宇/坊舎跡地2   推定堂宇/坊舎跡地3   推定堂宇/坊舎跡地4   推定堂宇/坊舎跡地5
 推定堂宇/坊舎跡地6   推定堂宇/坊舎跡地7   推定堂宇/坊舎跡地8   推定堂宇/坊舎跡地9   推定堂宇/坊舎跡地10
 推定普賢堂跡:写真は社務所、現在の社務所の場所が普賢堂跡と伝える。
楼門:重文、宝暦9年(1759)建立、三間一戸楼門。
 柞原八幡宮楼門1     柞原八幡宮楼門2     柞原八幡宮楼門3     柞原八幡宮楼門4     柞原八幡宮楼門5
 柞原八幡宮楼門6     柞原八幡宮楼門7     柞原八幡宮楼門8     柞原八幡宮楼門9     柞原八幡宮楼門10
 柞原八幡宮楼門11
東廻廊:重文、柱に板壁や長押が付いていた痕跡が残る。
 寛政10年(1798)建立であるが、柱は宝暦4年(1754)建立の本殿の柱を流用と思われる。
 柞原八幡宮東廻廊:奥は楼門と拝殿。
西廻廊:重文、同上。
 柞原八幡宮西廻廊
西門:重文、寛延の焼失後、すぐに建立されたと考えられる。
 柞原八幡宮西門1     柞原八幡宮西門2     柞原八幡宮西門3     柞原八幡宮西門4     柞原八幡宮西門5
柞原八幡宮社殿:
 申殿と本殿1        申殿と本殿2        拝殿・申殿・本殿
拝殿:重文、寛延2年焼失と思われるも再建時期は不明、しかし江戸期の建立ではある。
 柞原八幡宮拝殿
申殿:重文、宝暦2年(1752)建立、桁行3間、梁間1間の妻入の切妻造である。
 柞原八幡宮申殿
本殿:重文、嘉永3年(1850)建立、各々梁間2間の前殿・後殿からなる八幡造である。
 柞原八幡宮本殿11    柞原八幡宮本殿12    柞原八幡宮本殿13    柞原八幡宮本殿14    柞原八幡宮本殿15
 柞原八幡宮本殿16    柞原八幡宮本殿17    柞原八幡宮本殿18    柞原八幡宮本殿19    柞原八幡宮本殿20
 柞原八幡宮本殿21    柞原八幡宮本殿22    柞原八幡宮本殿23    柞原八幡宮本殿24
東宝殿:重文、宝暦7年(1757)建立、三間社流造。
 柞原八幡宮東宝殿1    柞原八幡宮東宝殿2
西宝殿:重文、宝暦7年(1757)建立、三間社流造。
 柞原八幡宮西宝殿1    柞原八幡宮西宝殿2
柞原八幡宮仮宮;浜の市に仮宮(お旅所)がある。
 柞原八幡宮仮宮1     柞原八幡宮仮宮2
本宮山大山寺:
 天台宗本宮山大山寺は柞原八幡宮を創立した金亀の開創と伝える。
現在、木造普賢延命菩薩坐像を所蔵する。本像は、明治の神仏分離の処置で、柞原八幡宮普賢堂より遷座すると伝える。
現地の説明板では、普賢堂からの遷座は明確ではないとするが、これは明確な資料が存在しないということで、優れた古仏であること、尊像が普賢菩薩であること、大山寺は金亀との関係を説き八幡宮近くに位置することなど、まず普賢堂から遷座したと考えて良いと思われる。
本像は平安前期もしくは中期の作と見られ、台座は鎌倉期のものと推定される。材質は榧。重文。
 大山寺普賢堂:普賢菩薩収蔵庫      大山寺本堂庫裏
木造普賢菩薩坐像
 ブログ:気まま日記>大山寺、大分の素晴らしい仏像 より転載
  木造普賢菩薩坐像1     木造普賢菩薩坐像2
 ページ:大分県の仏像紹介 より転載
  木造普賢菩薩坐像3
 


2007/08/05作成:2013/11/16更新:ホームページ日本の塔婆