山城祇園社(山城祇園感神院・祇園牛頭天王社)

→ 牛頭天王全般については「牛頭天王」のページを参照。

祇園社塔婆の興亡

諸記録によれば、以下と知れる。

承徳2年(1098)公家供養祇園御塔。(「歴代編年集」、「百練抄」、「代要記」)
大治4年(1129)供養祇園御塔(「百練抄」)
天正18年(1590)祇園宝塔供養。(「華頂要略稿本」)
 ※以上であるならば、近世の多宝塔は天正18年再興塔、下記の元徳の絵図は大治4年再興塔と思われる。
2013/02/19追加:
「院家建築の研究」 より
 上記の大治4年 (1130)造立塔については「中右記」同年12月28日の条で「今日白河新造御塔供養也、・・・是忠盛所作女院御祈十基中云々、今日又祇園御塔・・・・是又忠盛造進十基中忠盛五基承也」とある。
 女院とは待賢門院(白河円勝寺3塔の御願でもある)であり、平忠盛が女院御願十基のうち、五基を造進し、一基は白河にあり、一基は祇園にあったという。大治4年(1129)供養祇園御塔とはこの忠盛造進の祇園御塔であり、これが祇園感神院の塔婆であるかどうかは未検証である。
つまり、この大治4年の供養された祇園塔とは常識的には祇園感神院の塔婆であろうと思われるが、本実は良く分からない。

寛政年中(1789-1801)多宝塔火災焼失。以降再興されず。

中世の祇園社大塔

元徳3年<1331>「祇園社境内絵図」:祇園社蔵 より
 ※大治4年(1129)に待賢門院の御願で平忠盛の造営したという祇園御塔が祇園感神院の塔婆を指しているとすれば、
  本図の大塔は大治4年に造営された塔婆の姿であろう。
この絵図によれば、中世の祇園社塔婆は初重平面5間の「大塔形式」の建築であったと思われる。
またその位置は近世の位置とは違い、本殿背後の左(北西)に位置する。
 祇園社境内絵図:全図
 祇園社境内絵図2(部分図):右拡大図:図には「多宝大塔」と記入がある。

2008/02/27追加:「古図にみる日本の建築」より
 祇園社境内絵図3(部分図):右拡大図 :
裏面墨書により元徳の古図とされる。八坂神社蔵
  裏面墨書:「儀御社絵図 元徳参季(辛未)12月日 大絵師法眼隆円」
  ※元徳三年(辛未)は1331年
2022/03/04追加:
○「北山七重大塔の所在について(下)」東 洋一 では
祇園社大塔の屋根は甍棟塔(屋根は柿葺であるが、甍<四隅を飾る降り棟>は瓦で造る)との指摘がある。
 ※
創建時大塔の形式は不明であるが、祇園感神院が天台系の大寺であったことを考慮すると、創建時大塔は「天台大塔形式」の大型塔であった可能性はかなり高いと思われる。
 ※祇園社は当初は興福寺末寺であったが、のちには延暦寺が末寺化し、以降天台宗であった。

近世の祇園社多宝塔

近世には天正18年(1590)供養の多宝塔が寛政年中(1789-1801)まで存在した。
その位置は本殿・舞殿の東である。

天明年間刊「都名所圖會」巻3の祇園社 より
 近世には多宝塔があった。

・・・・・神殿の中央は大政所〔牛頭天王、素盞鳴垂跡〕東の間は八王子〔三女五男〕、西の間は〔稲田姫本御前〕
抑祇園牛頭天皇を、愛宕郡八坂郷感神院に勧請せし濫觴は、聖武天皇の御宇天平五年三月十八日、吉備大臣唐土より帰朝の時、
播磨国広峯に垂跡し給ふを崇奉れり。其後常住寺の十禅師円如上人に神託あつて、帝城守護の為貞観十一年に遷座し給ふなり。
[中臣秡抄]に曰、清和天皇貞観十八年、疫神崇をなして世の人疾に悩むこと以の外なり、曩祖日良麿洛中の男女を将て、六月七日十四日疫神を神泉苑に送る、しかりしより年々かたの如くしつけて、祇園会といふなり。神輿を置所をば八坂郷感神院といふ寺なれば、神殿もなきほどに、昭宣公の御殿をまゐらせられて神殿とす。祇園は尋常の殿舎造りなり、是を精舎といふ。後人又祇園の名を加へけり。
・・・、其外摂社末社は図画に見えたり、元山大師は神殿東の庇の間にありしが、安永七年絵馬堂の西にうつす。
〔日本略記に曰、天延元年五月七日以、祇園天台別院と為す〕
薬師堂は観慶寺と号す、本尊は薬師如来、作は伝教大師なり、陽成院の勅願所として開基は円如上人という。〔当寺の鐘楼に撞木なし〕・・・・・
 

祇園社・祇園感神院・祇園牛頭天王

都名所圖會・祇園社:左図拡大図

多宝塔は寛政年中(1789-1801)の火災で 焼失す。
以後再興はされず。

2003/05/17:
 東山遊楽図:元和頃の作成と推定
 洛中洛外屏風図:寛永3年
 東山遊楽図(高津古文化会館):17世紀
 洛中洛中図(紙本金地着色)無名・・元和初頭の景観
 洛中洛中図(紙本金地着色)無名・・元和5年(1619)−正保3年(1646)の間のもの
 洛外洛中図(南蛮文化館)・・元和頃
 洛外洛中図(寂光寺本)

2006/04/27追加:
 ○U第32図(d)京都祇園社
シーボルト「日本」第2巻に見る多宝塔<文政9年(1826)の江戸参府>
 ※この絵は文政9年頃と思われるが、この絵には寛政年中に焼失し、以降再興されなかった多宝塔が描かれる。
 ※この絵は上に掲載の「都名所圖會・祇園社」と「瓜二つ」であり、まず「都名所圖繪」からの転用と断定できるであろう。
  したがって、シーボルトの江戸参府の時には存在しない多宝塔が描かれるのは当然なのである。

寛政以降の祇園社及び多宝塔

2008/12/07追加:
○「扁額軌範」(初編)合川a和・北川春成画、櫟亭琴魚序、菅原雪臣跋、文政2年(1819)序・刊 より
       (二編) 壹〜五、速水春暁斎編、北川春成画、湯浅経邦序、文政4年(1821)序・刊
 扁額軌範・祇園感神院: 「大塔 塔ハ寛政年炎上して今なし」とある。

2015/01/18追加:
○「東山名勝圖會」(「再撰花洛名勝圖會 東山之部」)木村明啓・川喜多真彦/著、松川安信ほか/画、元治元年(1864) より
 巻1:祇園社(ぎおんのやしろ):下図拡大図 :「塔の趾

 元治元年(1864)刊行の本絵図では、多宝塔は「塔の趾」とされ、そこは多少の広場のようで、桜の下で宴がもようされる様子が描かれる。
  (右端の上方)
 南楼門と中門が描かれるも、欄外に「楼門中門(今)旡惟旧趾存巳」とあり、既に退転しているとする。
 愛染堂、薬師堂、元三大師堂はまだ健在であったようで絵図に描かれる。

万延2年(1861)−慶応2年(1866)の境内図:
拝殿東の多宝塔旧地は既に桜林になっていたと思われる。その背後(東)は宝寿院、本殿背後(北)」は新坊、北西背後に竹坊、
西大門の南から楼門(南大門)にかけて(西から東へ)西梅坊、東梅坊、本願、宝光院の坊舎があった。
 ※現円山公園枝垂桜は宝寿院の庭にあったとされる。この位置は動いていないと推定されるから、宝寿院はこの位置にあったと想定される。
また西大門から拝殿に至る参道に北に大師堂、薬師堂が存在していたとされる。
いずれも明治の神仏分離で取壊される。

2003/09/16「京都坊目誌」 より
○宝塔の址
 元八坂神社の境内、今の大神宮のある地より稍東北に当る。・・承徳2年建立以来興廃一再ならず。
存在の塔は寛政年中火災に罹り焼亡せり。
承徳2年、大治4年、天正18年に各々祇園御塔供養の記事あり。

2009/10/31追加:
○祇園社多宝塔跡推定地
 「京都坊目誌」(上掲)には「今の大神宮のある地より稍東北に当る。」とある。
  祇園社多宝塔推定地:推定塔阯の現地を実見すると、塔の遺構などは残らないが、建物跡の雰囲気は残る。

○推定多宝塔跡地
 2007/03/10撮影:
  推定祇園社多宝塔跡1:現大神宮の背後(東)と東北の地点、多くの石が集められている、中には新しいものもあるが、
   近世のものとも思われる石もあり、多宝塔関連の石のある可能性はあると思われる。
  推定祇園社多宝塔跡2:現大神宮の東北の地点(この付近に近世の多宝塔はあったのであろうか)
 2009/11/05撮影:
  推定祇園社多宝塔跡3:多宝塔の石積基壇の残滓のような雰囲気を残すが、近代の石組みである可能性もある。


祇園社概要

2018/04/30追加:
◎「新撰京都名所圖繪 第一巻」竹村俊則、白川書院、昭和33年 より
八坂神社
当社の創建は甚だしく古く、従って諸説多くあってあきらかでないが、斉明天皇2年(656)我が国に来朝した高麗の調進副使伊利之使主<いりしのおおみ>(八坂氏祖)が朝鮮の牛頭山(曽尸茂利<そしもり>)に祀るスサノヲの神霊を移し、子孫代々当社の祠官として奉仕したといわれているところから、当社ははじめ八坂氏の氏神社として創祀されたものであろう。
天智天皇の時、社号を感神院と名付けられ明治元年八坂神社と改めるまではこの称を用いた。
しかるに貞観年中、僧円如が播磨國広峰より牛頭天王を勧請し、下河原の地に一宇を建てて祇園天神社と称し、承平4年(934)その傍らに薬師堂を創建してこれを観慶寺といい、別に祇園寺とも呼んだ為に両者混同視され甚だ紛らわしくなる。
その後八坂氏が衰微するに及び、中世には感神院は比叡山の別院となり、祇園社は日吉の末社となり、叡山の僧徒が日吉の神輿を奉じて朝廷に強訴する基地となる。
本殿:重文、承応3年(1654)徳川家綱が紫宸殿を模造して再建したものと云われる。
西楼門:重文、明応3年(1497)再建。
疫神社:蘇民将来社とも称する。蘇民将来が祭神である。
蛭子社:重文、正保3年(1646)の建立、一間社流造であるが、左右後の三方に庇を付設するが、これは本社の祇園造を真似たものという。
石鳥居:重文、正保3年(1646)の建立で高さ9.5mあり、現存鳥居中最も大きなものという。
 ※明治の神仏分離の前までは、次の主祭神が祀られていた。
  中の座:牛頭天王、東の座:八王子、西の座:頗梨采女
 しかし、復古神道は次の祭神に取り替えをなす。
  中の座:スサノヲ、東の座:クシイナダヒメ、西の座:八柱の子(ヤハシラのコ)
◎天明年間刊「都名所圖會」巻3 より
祇園社について、都名所圖繪が述べるところは、上述の「近世の祇園社多宝塔」の項で示すので、参照を乞う。
 ※播磨広峰山に鎮座の牛頭天王を常住寺の円如上人が遷座させるという。

2018/06/05追加:
◎祇園社(現・八坂神社)HP より
八坂神社の歴史」のページでは、祇園社の創始については次のように述べる。(大意)
 慶応4年5月30日付の神衹官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称する。
 創祀については諸説がある。
第1には、斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座したスサノヲを山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。
また、一説には貞観18年(876)南都の僧円如が建立、堂に薬師千手等の像を奉安、その年6月14日に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に垂跡したことに始まるともいう。
伊利之来朝のこと、またスサノヲが子のイソタケルとともに新羅国の曽尸茂梨(そしもり)に降られたことは、ともに「日本書紀」に記され、「新撰姓氏録」の「山城国諸蕃」の項には渡来人「八坂造」について、その祖を「狛国人、之留川麻之意利佐(しるつまのおりさ)」と記す。
この「意利佐」と先に記した「伊利之」は同一人物と考えられ、伊利之の子孫は代々八坂造となるとともに、日置造(へきのみやつこ)・鳥井宿祢(とりいのすくね)・栄井宿祢(さかいのすくね)・吉井宿祢(よしいのすくね)・和造(やまとのみやつこ)・日置倉人(へきのくらびと)などとして近畿地方に繁栄する。
天長6年(829)紀百継(きのももつぐ)は、山城国愛宕郡八坂郷丘一処を賜り、神の祭祀の地とする。これが感神院の始まりともされている。そして、八坂造の娘を妻とし、男子のなかった八坂造家の職を継承したといわれ、その後裔である行円は、永保元年(1074)に感神院執行となり、以後子孫代々その職を継ぎ、明治維新による世襲制の廃止まで続く。
 ※慶応4年神仏判然令によって、祭神を牛頭天王からスサノヲに変更したことには触れない。
 ※広く流布している説であるが、祭神である牛頭天王は播磨広峰山から遷座したことには、これも全く触れない。

2018/06/05追加:
○Wikipedia<八坂神社> より(抜粋)
 戦後における祇園社の創祀についての先駆的な学術的研究は久保田収の「祇園社の創祀について」<「神道史研究 10(6)」1962 所収>であり、これは今日においても一定の支持を得ている。
久保田は同論文において史料を詳細に検討した結果、祇園社は貞観18年(876年)僧・円如が寺院を建立し、ほどなく祇園神が垂迹したものと結論づけている。なお、中世において吉田神道に採用され、江戸時代には通説化していた播磨国広峯遷座説については、平安時代の史料に全くあらわれず鎌倉時代以降に広峯社側から主張しはじめたとの文献検討の結果、これを否定している。
 祇園會は、貞観11年(869年)に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、天禄元年(970)ごろから祇園社の祭礼として毎年行われるようになったという。
 祇園社は当初は興福寺の末社であったが、10世紀末に戦争により延暦寺がその末寺とした。延久2年(1070)には祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力からの「不入権」を承認される。このころから祇園社は紀氏一族が執行家として世襲支配するようになる。

2018/06/05追加:
二十二社註式
「羣書類従」→木版原板巻二十二(47)
国立国会図書館デジタル化資料番号:第23冊〜25冊[147]の138祇園社 より
 ●二十二社註式-祇園社-木版
「羣書類従. 第壹輯」
国立国会図書館デジタル化資料:コマ番号406-407 より
 ●二十二社註式-祇園社-翻刻
冒頭部分:翻刻文
  祇園社  (延喜神祇式曰山城国愛/宕郡祇園神社式外三座)
牛頭天皇初垂跡於播磨明石浦移廣峯其後移北白河東光寺其後人皇五十七代陽成院元慶年中移感神院
西間 (本御前竒稲田媛垂跡一名婆利/女一名少将井脚摩乳手摩乳女)
中間 (牛頭天皇号大政/所進雄尊垂跡)
東間 (蛇毒氣神龍王/女今御前也)
冒頭部分:読み下し文  
  祇園社  (延喜神祇式に曰く 山城の国愛宕郡祇園神社  式外三座)
牛頭天皇 初めて 播磨明石浦に於いて 垂迹し 廣峯に移る 其の後北白河東光寺に移り 其の後人皇五十七代陽成院元慶年中感神院に移る
  ※垂迹は佛が衆生を済度するため仮に日本の神として現実に姿を現すこと。元慶年中は877-885。
西間 本御前 竒稲田媛(クシナダヒメ)の垂跡なり 一名婆利女(ハリメ) 一名少将の井 脚摩乳手摩乳女(アシナヅチテナヅチメ)
中間 牛頭天皇 大政所と号する  進雄尊(スサノヲノミコト)の垂迹なり
東間 蛇毒氣神(ダドクケシン) 龍王の女  今御前也
  ※本御前は正室、今午前は側室
末尾部分:読み下し文
 神社本縁記いわく。昔、北海に坐すの武塔神、南海の女に通いて、彼に出ますに、日暮れたり。彼の所に将来二人ありき。兄は蘇民将来という。甚だ貧窮。弟は巨旦将来という。富饒で屋舎一百ありき。ここに武塔神が宿る所を借りるに、惜しみて借さず。兄の蘇民将来は借したてまつる。すなわち、粟柄を以って席となし、粟飯を以って、饗たてまつる。武塔出まして後に、年を経て八柱の子を率い還り来て、我、まさに奉りの報答を為さんとす。曰く。汝に子孫ありや。蘇民答えていわく。己(おのれ)に子女、子と婦と侍ると申す。宣わく。茅を以って輪を為し、腰上に着けよ。詔に随いて着く。即ち、夜に、蘇民の女(むすめ)、子と婦と置きて、皆ことごとく殺し亡ぼしてき。時に詔わく、吾は速須佐能神なり。後世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云いて茅の輪を以って腰に着く人あれば、まさに免れむとすと詔き。

2018/06/05追加:
◎「スサノヲと祇園社祭神--『備後国風土記』逸文に端を発して」鈴木耕太郎(「論究日本文学 (92)」2010 所収) より

1)祇園社の初出史料
(A)「貞信公記」延喜20年(920)閏六月二十三日条
廿三日、壬午、為除咳病、可奉幣吊走馬祇園一之状、令真祈申、又令鑒上人立冥願。
 文献上、初めて祇園社を確認出来る史料は「貞信公記」(藤原忠平が同時代に書き残していた日記)である。
ここでは、延喜20年には既に「咳病を除く」ため幣吊並びに走馬が祇園社に奉じられていることが記される。
2)祇園社の創始
ここでは(B)から(D)の史料で考察する。
(B)「二十二社註式」
 →上に全文を掲載
 「二十二社註式」では、
祇園社は貞観年間(859-877)、或いは貞観18年(876)に常住寺の圓如という法師によって「建立」されたと云う。
しかも、
祇園社は観慶寺という寺院として創始されたことになる。その中で、薬師如来及び脇侍の菩薩、観音などは三間の堂に、天神・婆利女・ 八王子は五間の神殿に、それぞれ安置されていたことが分かる。 薬師像については、(D)の「別記」にも記されており、圓如が 建立した堂に祀られていたと考えて良い。
(C)十巻本「伊呂波字類抄」
「諸社祇園」の項:
祇園 延久20庚戌十月十四日焼亡但天神御體奉扶出畢別當
安誉焦全焔翌日入滅世人以為神罰四−三月廿六日−始有後三条院行幸牛頭天王因縁自天竺北方有國其名曰九相其中有國名
日吉祥其國中有城其城有王牛頭天王又名日武答天神云其父名
日東王父天母名日西王母天是二人中所生王子名日武答天神此神王沙渇羅龍王女名日薩迦陁
此為后生八王子従神八万四千六百五十四神也
為利生之誕生也  ミミミ  昔常住寺十禅師円如有詫宣貞観十八−奉移八坂郷樹下其後昭宣公感威験懐蓮臺数字建立糖舎官符文
 十巻本『伊呂波字類抄」は鎌倉期に成立したと云われる古辞書である。
ここでは、貞観18年に八坂郷にて建立した、と 記されている。
ここには「牛頭天王因縁・・」とあり簡単な牛頭天王縁起が参照されている。この縁起(因縁)はその口調からみて、明らかに佛家側の立場から編まれたものであろう。
 ※神家、佛家、暦家の各々の立場は本稿の「(4)天神・武塔神とは」の章の後半にある「祇園社略記」の部分を参照。
(D)「社家條々記録」
清和天皇宇
 富社草創根元者、貞観十八年、南都円如上人始建立之、是最初本願主也、
  別記云、貞観十八年南都円如先建立堂宇、泰安置薬師千手等像、則今年夏六月十四日、天神東山之麓祇園林二令垂跡御坐。
「社家條々記録」は室町期に祇園社社務執行職にあった晴顕が著した記録書であるが、ここでは貞観十八年に八坂郷にて建立したと記されている。
 以上、祇園社の創始は、(B)〜(D)の史料から貞観18年(876)少なくとも貞観年中であることは確かであろうと云える。
 さて、創始は(B)に従えば、祇園社は観慶寺という寺院として建立され、薬師仏が安置され、神殿には天神が祀られたという。即ち、この段階では牛頭天王という名前は出てこず、祇園社に祀られるのは単に「天神」とある。
問題は、この「天神」とは何を指すのか、ということである。
さらに、関係する史料を検討しよう。
  (E)「類聚符宣抄」巻三「疾病事」所引、天徳二年(958)五月十七日宣旨
   左弁官下網所 應分頭詣寺社 轉讀仁王般若経事
    石清水 権少僧都 僧十口
     中略
    上出雲御霊堂 僧  十口
    祇園天神堂  僧  十口
  (F)「日本紀略」永祚元年(989)八月十三日条
     十三日辛酉。酉戌刻。大風。宮城門舎多以顛到。(中略)又 祇園天神堂同以顛到。
  (G)「扶桑略記」延久二年(1070)十月十四日条
     十月十四日辛未。戌時。感神院大廻廊。舞殿。鐘棲。皆悉焼亡。但天神御體奉取出之。別常安誉身焦餘焔。翌日入滅。世人以為神罰
 以上の史料から「祇園天神堂」の存在は確実であろう。つまり、観慶寺は薬師を本尊とする寺院であり、観慶寺には祇園天神堂が創建され、天神が祀られているという観慶寺と祇園天神堂の構図であろう。
 繰り返すが、観慶寺が寺院として建立された後、祇園天神堂が神社として建てられ、「天神」という神が祀られた、ということになる、あるいは観慶寺には天神を祀る祇園天神堂が祀られ、観慶寺は神仏の習合した寺院であったということであろう。
 史料が示すように、最初は「祇園天神堂」には「天神」が祀られていたのであるが、では、祇園社祭神が牛頭天王とされるのは何時からであろうか。
 史料によって検討しよう。
少し、時代を下った史料に牛頭天王が記される。
それは、平安末期藤原信西により編纂された「本朝世紀」である。
(H)「本朝世紀」久安4年(1148)三月二十九日条所引、延久2年十月十四日記事
延久二年十月十四日。(中略)火出来焼失寶殿。并飲舎屋。牛頭天皇御足焼損。蛇毒気神焼失了。
牛頭天皇(ママ)の初見である。
さらに
(I)「玉藻」承久2年(1220)四月十四日条外記、延久2年 十月十四日勘文
祇園社焼亡例事
延久口年□口十四日、辛未、成剋感神院榊(拂カ)地焼亡、牛頭天王御足焼損、八王子御體并蛇毒気神大将軍御體同焼亡、(中略)僅随捜侍八王子一體奉取出之程、安誉身焼損、(中略)
被埋大壁五頭天玉(ママ)并婆梨女御體御座、(中略)但左右御足焼損給、各御長六尺余計歎、八王子三體所々焼損、同所御座也、
(中略)其残八王子四體、蛇毒気神大将軍御體等皆悉焼失畢云々。
とある。
天神ではなく牛頭天王(天皇)となっているのである。
即ち、「本朝世紀」が成立した久安4年(1148)には、少なくとも、「天神」は「牛頭天王」と習合していたものと考えられる。
久安4年の少し前より、祇園社の祭神は牛頭天王という祭神と認識されることとなる。
(3)「備後国風土記」逸文から見るスサノヲ信仰
正安3年(1301)頃に成立したとされる「釈日本紀」は、 平野卜部氏の兼方により著された「日本書紀」の注釈書である。 この書の骨子は、兼方の父・兼文が行った「日本書紀」の講義案にあるといわれている。
しかし、「釈日本紀」は単なる注釈書であるだけではなく、「日本書紀」の注釈を通じて、新たな「中世神話」を生み出している、とも考えられるのである。
どういうことか、それは、後段で述べる。
では、具体的な考察に入る。
「釈日本紀」の中でも、 スサノヲについては多くの注釈が施されているが、本稿で取り上げる箇所は、巻七「素戔嗚尊乞宿於衆神」と題する項日である。これは「日本書紀」第七段の一書に見られる、アマテラスを石窟へと追い込んだスサノヲが、諸神の怒りを買い、高天原から底根の国へと追放され、衆神に宿を乞うても悉く断られる、という場面の注釈となる。
 ※本稿では原著である漢文が掲載されるが、敢えて、書き下し文を掲載する。
 「備後国の風土記に曰く。疫隈の国社。昔、北海に坐しし武塔神、南海の神の女子をよばいに出でいますに、日暮れぬ。
彼の所に将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚だ貧窮。弟の将来は豊饒で屋倉一百ありき。ここに、武塔神宿る所を借りるに、おしみて借さず。
兄の蘇民将来は借したてまつる。すなわち粟柄を以って座となし、粟飯等を以って饗たてまつる。ここにおえて出で坐す。
のちに、年を経て、八柱の子を率いて還り来て詔りたまひしく、我は将来の報答を為す。汝の子孫、その家にありやと問いたまふ。蘇民将来、答えて申ししく。己が女子、この婦と侍りと申す。すなわち詔りたまひしく。茅の輪を以って腰の上に着けさしめよ。詔にしたがひて着けさしむ。すなわち、夜に蘇民の女子一人を置きて、皆ことごとく殺し滅ぼしてき。
すなわち、詔りたまひしく。吾は速須佐雄能神なり。後の世に、疫気あれば、汝、蘇民将来の子孫といひて、茅の輪を以って腰に付けるある人は将にのがれなむと詔たまひしき。

 ※続いて、大殿(前関白・一条実経)と先師(兼文)間での問答があるが、この部分は漢文で転載する。
 先師申云。此則祇園社本縁也。
 大仰云。祇園社三所者。何神哉。
 先師申云。如此國記者。 武塔天神者素戔嗚尊。少将井者号本御前。奇稲田姫歟。南海神之女子今御前歟。
 重問云。祇園号異國神不然歟。
 先師申云。戔嗚尊初到新羅帰日本之趣。見當記。就之有異園神之説歟。祇園為行疫神。武塔天神御名。世之所知也。而吾者、速須佐雄能神也。云々。素戔嗚尊。亦名速素戔嗚尊。神素戔嗚尊之由見此紀。仰而可取信者也。御霊會之時。於四條京極奉備粟御飯之由傳承。是蘇民将来之因縁也。又祇園神殿下有通龍宮穴之由。古来申傳之。北海神通南海神女子之儀符合歟。
 以上の要約は次の通りである。
1.備後国風土記の記述について
〔一〕(備後国風土記における疫隅国社について)昔、北海にいらっしゃった武塔神が南海にいる女子を妻に娶ろうと旅立った。
〔二〕しかし、日が暮れてしまったので、蘇民将来という二人の兄弟に宿を借りることにした。
〔三〕初めに、大変裕福な弟の将来の家を訪れた。しかし、弟将来は武塔神に宿を貸さなかった。
〔四〕次に貧しい兄、蘇民将来の元へ訪れた。この兄は、貧しいながら粟柄を敷き、粟飯などでもてなした。
〔五〕その後数年を経て、武塔神は八柱の御子を連れて兄蘇民将来の元へ、再度訪れ、蘇民将来に対して恩に報いたい旨を伝え、また彼に子孫はいるかと尋ねた。そこで蘇民将来は、娘が妻といると答えたところ、腰の上に茅の輪をつけさせよ、と命じた。
 〔六〕そこで蘇民将来は、娘に茅の輪を付けさせたところ、その夜になり、武塔神と八柱の御子が、蘇民将来の娘だけを残し悉く滅ぼしてしまった。
〔七〕武塔神は、「私は速須佐能雄神である、後世に疫病が広まった時、お前(蘇民将来の娘)は、「蘇民将来の子孫なり」と言って、茅の輪を腰につけたならば、その疫病から逃れられるだろう。」と仰った。
2.問答
〔イ〕先師は「これこそ祇園社の本縁である」と申された。
〔ロ〕大殿(一条実経)は、「祇園社の三神はどのような神であるのか」とお尋ねになられた。先師は「この風土記の記述の 通りだと申し上げた。即ち、武塔天神は素戔嗚尊(スサノヲ)であり、少将井は本御前であり、奇稲田姫(クシナダヒメ)のことかと思われ、南海の子女は今御前ではないか」と。
〔ハ〕大殿は重ねて、「祇園の神は異国の神ではないのか」とお尋ねになられた。
先師は、「スサノヲは初め新羅国に到りその後日本へ帰られたという記述が見られるため、異国の神であるという説が生じたのではないか」と申し上げた。そして、「祇園の神は行疫神と為られ、武塔天神の御名は広く世に知られているが、これは速須佐雄能神(スサノヲ)である」などと申し上げた。
〔ニ〕さらに先師は、「素戔嗚尊または速須佐雄能神、神素戔嗚の由来はこの紀(日本書紀)に見られる。御霊会の時、四条京極にて粟飯を奉じる伝承は、蘇民将来の因縁であると申された。また、祇園社の神殿の下には龍宮に続く穴があると古来より伝えられてきた、これは北海神が南海神の女子の元へと赴く、という点に附合するのではないか」と申された。

 この「備後国風土記」は断簡含め現存しておらず、ここに見られる逸文が「備後国風土記」として確認出来る唯一の記述である。しかし、該当箇所記述が真に「風土記」編纂時に作成された文章であるかは、疑問視されているのも多くの学説が指摘するところである。
 では、スサノヲが登場するこの逸文のどこに祇園社との繋がりが説かれているのか。
それはどこにもないのである。
即ち、逸文の中に牛頭天王が現れない点から考えて、牛頭天王縁起として位置づけることは慎重にならざるを得ず、この縁起は「疫隅国社」固有の縁起と考えられる。
つまり、この疫隅国社縁起を祇園社縁起とする・・・疫隅国社祭神のスサノヲを祇園社祭神とする・・・強引にも見える置き換えは、結果として、「日本書紀」注釈という形を取った、兼文による新たな「スサノヲ神話」の「創成」に他ならないのである。
 ところで、この疫隅国社は現存しておらず、この社をどこに推定するかでは各説がある。
文化6年(1809)の「福山志料」では「備後に祇園社は三所あり。一は品治郡江熊天王、一は世羅郡小童(シチ)の祇園、一は沼隈郡鞆祇園云々」とある。
しかし、各説の内何れが妥当であろうか。
それは、疫隅の字から、江熊天王社が該当するであろう。また延喜式神名帳に深津郡に須佐能蓑神社の名を確認できるため、当社がスサノヲを祭神としていたことは明確であり、疫隅国社だと考えて不自然はない。
 ところで、出雲はスサノヲ信仰の一大拠点であり、出雲・備後間の古代交通径も確認でき、さらに延喜式神名帳に出雲にも「須佐神社」が確認できる。おそらくは出雲から備後へとスサノヲ信仰は伝播していったのではないだろうか。
(4)天神・武塔神とは
 前出の「備後国風土記」逸文に続く兼文と実経との問答はどのようなものであったか、振り返れば、以下の様である。
兼文は冒頭「此則祇園社本縁也」として、疫隅国社の縁起を何故か祇園社の本縁だ、と断じる。そして「祇園社三所者」と尋ねる 実経に対して、「武塔天神者素戔嗚尊」と答え、さらに「祇園為行疫神。武塔天神御名。世之所知也。而吾者、速須佐雄能神也」 と持論を述べている。そこで実経は「祇園号異國神不然歟」と重ねて兼文に尋ねるが、兼文は「素戔嗚尊初到新羅帰日本之趣」と して、「日本書紀』第八段一書を論拠に、重ねて祇園社の祭神はスサノヲであることを説くに至っているのである。
 即ち、ここで、兼文の論理を纏めれば、次のような論理であったと推定される。
  疫隅国社祭神 = スサノヲ = 武塔神・武塔天神 = 祇園社祭神
この論理は多少難解ではあるが、「逸文を祇園社の本縁だと述べることで、即ちスサノヲが祇園社の祭神であると述べることが出来るのである。然らば、牛頭天王がなぜこのロジックに組み込まれないか、自ずと分かってくる。牛頭天王は異国神であり、既に「仏」の枠組みに回収されていたからである。」
 「この一連の注釈により、「日本書紀」第七段一書では、諸神から追い遣られるだけの神だったスサノヲを、逸文を注釈に用いることでその姿を拡大させ、かつ、逸文とは本来関係のない祇園社とを、今度は「日本書紀」第八段一書を逆に用いて結びつけるこ とで、祇園社祭神としてのスサノヲを見事に登場させたことになる。それはまさしく、「スサノヲ神話」の新たな「創成」に他ならない。そしてまた、この「スサノヲ神話」は、祇園社祭神を巡る「神家ノ説」とも直結することとなる。」
 なお、神家・佛家・暦家三者の立ち位置を簡明に示した文書がある。
それは、年次不明ながら室町期に編墓されたと疑われる「祇園社略記」である。
そこには
 或曰、神家ニハ祇園ヲ素戔嗚尊ト称ス、佛家ニハ是ヲ牛頭天王ト為ス、暦家ニハ之ヲ天道神ニ配ス、余曾シテ各家之説ヲ解ス
とある。ここから、「神家」では「素戔嗚尊(スサノヲ)」を、「仏家」では「牛頭天王」を、そして「暦家」では「天道神」を、それぞれ祇園社の祭神と見なしていたことが分かる。
歴家は別にして、神家及び佛家の立ち位置とは以上のようなものであったのが理解する前提である。
(5)終わりに
 「先述したように、武塔神は、『天神』同様に、防疫・除疫神であり、同時に疫神であった。このような神格を持った武塔神は、 やはりどこかスサノヲと重なるところがある。
高天原におけるスサノヲは、姉神・アマテラスを天の磐戸へと追い込むほどの荒ぶる神だが、高天原追放後に降り立った出雲では、ヤマタノオロチを退治する「英雄神」的な存在として描かれている。これは、先の武塔神と同様、相反する神格を内在化させているのである。
また、何故、「日本書紀」第八段一書では、高天原追放後のスサノヲが、新羅を経由して日本へと渡ってきたとするのかを検討すると、そこにはやはり、スサノヲと、疫病を防ぎ、同時に疫病 を広める渡来神の姿が重なったからではないだろうか。」
 「このスサノヲを『救った』のが兼文である。即ち、兼文は、イザナギ・イザナミを両親に持ち、アマテラスを姉に持つに相応しいスサノヲの新たな一面を「日本書紀』の注釈を行うことで「自然と」見出した。それが、先に示した逸文との関連付けであり、
除疫・防疫の神である祇園社祭神という新たな神格の付与だといえよう。これにより、スサノヲは新たに国家的課題である防疫・除疫を担う神として位置付けられたといえる。」
 なお、室町期以降の祇園牛頭天王縁起は次のように語られる。
「祇園社記」所収、年次不明の「祇園牛頭天王縁起」を例にとり、プロットを簡単に抜き出すと次のようになる。
〔a〕異国に住む牛頭天王が沙竭羅龍王の娘・婆梨采女を妻として娶るため、旅に出る。
〔b〕旅の途中、日が暮れてきたため、長者の巨旦将来に宿を求めたが断られる。
〔c〕一方、貧しい蘇民将来は牛頭天王の宿の求めに応じ、粟柄を敷き、粟飯などで、出来る限りのもてなしをした。
〔d〕無事、龍王の城に到着し、龍王の娘と結婚。八人(柱)の王子を得る。
〔e〕妻や八王子を連れ本国に戻る途中、蘇民将来の家に立ち寄り、巨旦将来を滅ぼす決意を伝える。
〔f〕巨旦将来宅に蘇民将来の娘がいるため、蘇民将来の懇願により「茅の輪」と「蘇民将来之子孫」と 記された札を持たせて、巨旦一族滅亡から逃れるように計らった。
〔g〕一方、巨旦は牛頭天王襲来を予期し、千人の法師による読経で牛頭天王襲来を防ごうとした。
〔h〕牛頭天王の指示により春属たちが法師たちが張った結界が弱まっている箇所を探し遂に片目の法師が経文の一宇を読み落としたことを発見し、そこから牛頭天王及び春属たちが雪崩れ込み、巨日一族を滅ぼした。


2023/06/27追加:
上記に続き、鈴木耕太郎氏の論考である。
◎ブログ:「疫病を制御する最強の神 牛頭天王とは何者か ‐ 鈴木耕太郎氏の連載コラム」-2020-2021 より
 鈴木氏は群馬県大胡町出身、高崎経済大学地域政策学部講師、近著に『牛頭天王信仰の中世』(法藏館、2019年7月)がある。

プロローグ
 江戸期では「てんのう」といえば、牛頭天王のことを指し、明治の国家神道でいう皇国日本を統べる万世一系の「天皇」を指す意味では全くなかった。
ところが、王政復古により、「禁裏様」「内裏様」と読んでいた人物を「天皇」と呼ばせるようにし現人神としての天皇信仰を布教しようと考えた明治政府の神道家にとって牛頭天王は紛らわしい邪神で目障りとなる。それほど「天皇」とは近代の言葉であり、それほど新しい言葉であったのである。
よって、(神仏判然令)で特に名指しで攻撃され、表舞台から消去されることとなる。
しかし、庶民の長年の信仰を完全に無くすことはできず、全国各地に牛頭天王の信仰は形や名前を変えて残る。
現在でも、神社の名称あるいは、祭神は改竄されるが『牛頭天王を祀る神社数は祭神種類で7番目』の数を誇る結果となっている。
  →祭神種類ランク

第1回:牛頭天王とは何者か?
 「辟邪絵」(国宝・現在は奈良博物館蔵・旧は益田鈍翁所蔵「地獄草紙益田家乙本」と呼ばれていた・平安末期〜鎌倉初期)という絵が残されている。
『この絵画には、疫病を引き起こすあらゆる疫鬼が乾闥婆、神虫、鍾馗、毘沙門天王などによって退治されている様子が描かれており、文字通り「邪(=疫鬼)を辟する(=罰する)」絵ということになる』のであるが、『そのうちの一幅に「天刑星」と呼ばれる神を描いたもの』がある。
  辟邪絵・天刑星
この絵には「かみに天形星となつくるほしまします 牛頭天王およびその部類ならびにもろもろの疫鬼をとりてすにさしてこれを食とす」とあり、牛頭天王は疫病神として認識・描画される。
 この絵から読み取れることは何か、それは牛頭天王は疫病神であるが、同時にこのことは、牛頭天王を崇め奉りことで”善神”となすことができるということを示しているのではないか。

第2回:牛頭天王と食
 現在、牛頭天王と粗食、この2つを結びつける話(物語・通常云う「牛頭天王縁起」)が各地に残る。
それらに共通する骨子・粗筋は次の通りである。
1.牛頭天王は天竺のとある国の皇子であるが、生まれながらにして恐ろしい容貌であったため、后となる相手がいなかった。
2.牛頭天王はとある日、沙竭羅龍王(しゃかつらりゅうおう)が三女・婆利采女(はりさいじょ・頗梨采女)が后として相応という託宣を受ける。
3.牛頭天王は家臣・眷属たちを引き連れ、婆利采女のもとへと出立する。途中、長者の巨旦将来(古端将来・古単将来)に一宿を願う。
しかし、巨旦将来は牛頭天王らを邪険に扱い、拒否する。
4.拒否されたので、今度は近くに住む貧者の蘇民将来に宿を乞う。蘇民将来は恐縮するも、宿を貸す。加えて粗末ながらも敷物をつくり、またなけなしの粟飯を炊いて饗応する。
5.天王は、沙竭羅龍王のもとにたどり着き、龍王は牛頭天王と娘・婆利采女との婚姻を許可する。
牛頭天王は数年の歳月をそこで過ごし、八人の皇子(八王子)を授かる。初期の目的を達した牛頭天王は、妻・子を連れて自国へ帰還する運びとなる。
6.牛頭天王は、帰路の途中で蘇民将来を再度訪問し、宿を拒否した巨旦将来一族を滅ぼすと宣告する。
蘇民将来は、自分の娘が巨旦将来のもとへと嫁いでいる故に、娘だけは助けてほしいと乞う。そこで牛頭天王は、「茅の輪」と「蘇民将来子孫也」と記した札を蘇民将来の娘に持たせておくよう命じる。
7.ここで、牛頭天王の襲撃を予感した巨旦将来は、いろいろな防護をするも、一瞬の間隙を突き、牛頭天王・八王子・多くの眷属は巨旦将来の邸宅へとなだれ込み、一族をみな殺しとする。ただ一人、蘇民将来の娘は「茅の輪」と「蘇民将来子孫也」と書かれた札を身に着けていたので、生き残る結末を迎える。
 ところで、「釈日本紀」(鎌倉中期)には、現在確認できる最古の「蘇民将来譚」が掲載されているが、ここに「粟飯」の話が記される。
即ち、「御霊会の時、四条京極に於いて粟御飯を奉るの由、伝承す。是れ蘇民将来の因縁なり。」
 ※上記の御霊会とは祇園感神院(祇園社)の祇園御霊会(いわゆる祇園祭)をいう。
ただ、四条京極とは現在の祇園社御旅所付近であり、この御旅所は天正19年(1591)豊臣秀吉による京の都市改造により、複数あった祇園社御旅所を統合して、この四条京極の地に移転させたという。
つまり、この「粟飯」奉納は祇園御霊会において重要な意味を持つ神事といえる。但し、この「粟飯」奉納は江戸末期まで継続するも、現在は廃絶という。

第3回:牛頭天王の謎
 『伊呂波字類抄』(鎌倉初期編纂の古辞書・十巻本)中に「祇園」という項目があり、その中では牛頭天王について次のようにいう。
「牛頭天王の因縁は、天竺より北方に国有り。其の名を九相と曰ふ。其の中に国有り。名を吉祥と曰ふ。其の国の中に城有り。其の城に王有り。牛頭天王、又の名を曰く武答天神と云ふ。・・・・」
つまり、ここでは、牛頭天王は日本古来の神ではなく、インド北方がその出自であり言い換えると渡来神と考えられていたことが分かる。
では、牛頭天王は渡来神として、一体どこからは渡来して来たのか?・・・・実はこれがまったく分からないのである。
 それは仕方ないとして、では、牛頭天王なる神の初出はどんな資料なのか。
現時点で確認できる最古の資料は、承徳元年(1097)に済暹(仁和寺僧)が著した『般若心経秘鍵開門訣』(般若心経の注釈書)のようである。
ここでは、古代中国の高僧であった羅什により「仏説薬師如来牛頭天王経」なる経典が作られていたことが記されている。
残念ながら、この経典は現在伝えられていないが、しかし、羅什が作成した経典にその名が記されているならば、当然、古代中国でも牛頭天王は信仰されていたと考えるのが普通ではある。
 しかし、以上の見解は通用しない。というのも、この経典は現存しないものの「仏説薬師如来牛頭天王経」の内容からして、この経典は羅什が作成した体裁を取りつつ、実際は日本で作成されたいわゆる「偽経」だったのではないかと推察できるからである。
 以上をまとめるとどうなるか。
1.天王は渡来神だといわれてきた(少なくとも鎌倉初期にはそのように認識されていた)。
2.しかし、インドや中国、朝鮮半島などでは「牛頭天王」なる存在が信仰の対象とされていた足跡を見出すことができない。
3.「般若心教の注釈書」(平安後期)には、「牛頭天王」の名を確認することができる。
 しかし、結局牛頭天王がどこの出自であり、誰が祀り始めたのかなどは不明である。
ではあるが、平安後期以降、いくつかの資料には祇園社の祭神に関する言説がいくつか見られる(「伊呂波字類抄」などもその一つ)。
その中でも、『扶桑略記』(平安後期)および『本朝世紀』(平安後期、「扶桑略記」の100年後ほどの成立)である。
『扶桑略期』延久2年(1191)10月14日条
  感神院の大回廊、舞殿、鐘楼、皆悉く焼亡す。但し天神御体は取り出し奉りて……(後略)
『本朝世紀』久安4年(1148)3月29日条
  延久二年十月十四日(中略)火出で来りて宝殿焼失す。(中略)牛頭天皇の御足焼損す。・・・・・(後略)
『扶桑略記』には「天神御体取り出し」たとあり、「御体」とは神像と表す。
 事実『類聚符宣抄』(平安後期)では、「祇園天神堂」なる表記を確認することが出来る。
まったく同じこと(祇園社の火災)について書かれているので、内容も当然重なる。
 一方、『本朝世紀』には、「天神」なる祭神の存在はなく、「牛頭天皇(表記は原表記)」が祭神と推測される記述が見える。
さらに、九条道家の日記『玉蕊』(鎌倉初期)にも、延久2年のものが取り上げられ、ここには「大壁に五頭天玉並びに婆利女の御体、埋められて御座す。(中略)但し左右の御足、焼損し給ひて(後略)」と書かれている。
 『扶桑略記』も『本朝世紀』も、延久2年の祇園社での火災について記しているも、片方では「天神」、片方では「牛頭天王」とあって祭神の名前が一致しない。

第4回:牛頭天王とスサノヲノミコト
 前回での2つの資料における祭神名称(天神と牛頭天王)は相違していたが、その理由は良く分らない。
この相違については、次の2つの学説がある。
(1)最初から祇園天神=牛頭天王という認識が浸透していた。
 「祇園社の創祀と牛頭天王」中井真孝(『法然上人絵伝の研究』思文閣出版、2013 所収)
(2)当初は祇園天神という別の神が祀られていたが、次第に牛頭天王なる新たな神が祇園社に入り込み、いつからか祇園天神=牛頭天王となる。
 「牛頭天王と蘇民将来の子孫」今堀太逸(『本地垂迹信仰と念仏』法藏館、1999 所収)を参照。
それはともかく、『本朝世紀』が成立した以降(11世紀以降)は祇園天神=牛頭天王という関係で理解されていただろうとは推察ができる。
 さて、11世紀頃には祇園天神=牛頭天王という図式ができあがっているわけであるが、さらに祇園社の祭神は複雑な経路を辿る。
まず「第3回:牛頭天王の謎」で見たように、『伊呂波字類抄』の「祇園」では以下のようにいう、
「牛頭天王の因縁は、天竺より北方に国有り。其の名を九相と曰ふ。其の中に国有り。名を吉祥と曰ふ。其の国の中に城有り。其の城に王有り。牛頭天王、又の名を曰く武答天神と云ふ・・・・」
ここでは牛頭天王は祇園天神ではなく、「武答天神」なる名称でも呼ばれている。
では、この武答天神とはどのような神なのであろうか。
 『釈日本紀』の中の「蘇民将来譚」(『備後国風土記』の逸文)では次のように云う。
『備後国風土記』によると、疫隅国社の祭神とは北海にいた武塔神である。
この神が南海の神の娘と結婚しようと旅に出た。途中で日が暮れる。そこに「蘇民将来」と名乗る兄と弟がいた。兄の蘇民将来は大変貧しく、弟の方は裕福だった。
武塔神は最初、弟に一宿を頼むも断られ、次に兄に一宿を頼んだところ快諾され、加えて貧しいながらも、精一杯の歓待を受ける。
その後、武塔神は無事、南海神の娘と結婚し、八人の皇子たちを引き連れて、再度、兄の蘇民将来のもとへと帰ってくる。
牛頭天王は兄の蘇民将来に弟の殺害を予告し、兄の蘇民将来の子孫が弟の家にいたりはしないか」と尋ねる。
蘇民将来は「妻と娘が弟のもとにいる」と返答する。
すると武塔神は「茅の輪を作り腰につけさせよ」と述べる。
その日の晩に兄・蘇民将来の娘1人を残し、弟・蘇民将来の家の者はみな滅ぼされてる。
そこで武塔神は、蘇民将来の娘に「余はスサノヲノミコトである。今後、この世に疫病がはやった時、「蘇民将来の子孫」と書いて茅の輪を腰につけていれば、疫病の災厄から逃れることができるだろう」と告げる。
 以上が『釈日本紀』に記されている蘇民将来譚(『備後国風土記』の逸文)である。
以上から、武塔神という神は
 ・北の海の神である。
 ・南海神の娘と結婚し、八柱の皇子を設ける。
 ・一夜にして、多くの人間を殺害する鬼神であるが、反面、善人の子孫は疫病から庇護する。
 ・スサノヲノミコトと同体である。
  と分かる。
つまり、ぼんやりとは、武塔神/武塔天神=牛頭天王=祇園社祭神という図式が想定できる。
ただ、依然として、次のような疑問が氷解する訳ではない。
 ・そもそも『釈日本紀』のこの「蘇民将来譚」は備後国が舞台であり、山城の祇園社の話ではない。
 ・武塔神(武答天神)は出てくるけど、牛頭天王は登場しない。
 ・牛頭天王は登場せず、スサノヲ(アマテラスの弟)のみ登場する。つまり武塔神=スサノヲという図式でしかない。
仮に武塔神=武答天神という図式が成り立つとしても、この話と祇園社や牛頭天王との直接的なつながりは全くない。
 しかしながら、こうした一見すると「無関係」に思える『釈日本紀』の話と山城祇園社とを直接結びつける言説が出現する。
その言説を述べているのが、『釈日本紀』編者・卜部兼方の父にあたる卜部兼文という神道家・研究者である。

第5回:祇園社祭神としてのスサノヲ(前篇)

 まず、卜部氏と『日本書記』の基本的知識であるが、
『釈日本紀』という書物は「日本紀」、すなわち日本最古の歴史書にして神話集でもある『日本書紀』の注釈書である。
この編纂者が卜部兼方である。
卜部氏は代々、卜占(占い)を独占した一族で、神祇官を務めてきた。後には山城平野社神職も兼務していた平野卜部家と、山城吉田社の神職も兼務していた吉田卜部家と分かれる。この卜部氏は神祇全般の知識を代々継承し、当然「日本書紀」の知識も、とりわけ平野卜部家が、継承してきた。
ということあるので、全28巻にも及ぶ『釈日本紀』は平野卜部家が代々蓄積してきた『日本書紀』知識の集大成的なものと評価できる。
 ところで、『釈日本紀』の編纂者は勿論、兼方なのであるが、その記述の多くは、兼方の父・卜部兼文が行った日本書紀の講義をもとにしている。つまり、『釈日本紀』は兼文の講義録的な側面を持ち合わせていることになる。従って、『釈日本紀』に示される『日本書紀』解釈の多くは、編者の父・兼文によるものといる。
 当然、卜部兼文には聴講者がいて、その代表格として一条実経(前の関白、五摂家一条家の始祖)がいた。
一条実経は摂関家のトップでもあり且博学でもあり、『釈日本紀』の中には、しばしば兼文と実経との問答のようなやり取りがそのまま掲載されている場合もある。
 祇園社に関する問答は次の如くである。
 兼文:「この話(逸文)は、京の祇園社の由来となっている」
 実経:「祇園社に祀られている三柱の祭神とはどのような神なのか?」
 兼文:「この話では、武塔天神とはスサノヲを指す。少将井は本御前といい、(スサノヲの妻)クシナダヒメのことでしょうか。南海神の娘は今御前のことでしょうか。」
 実経:「祇園というのだから、その神は異国神ではないのか?」
 兼文:「スサノヲは初め新羅国に降りたってから日本にやってきたと『日本書紀』にも記されている。そのため、異国神だという説があるのではないか。祇園の神は疫病を広める行疫神で、(その祭神である)武塔天神の名前は世の中に広く知られるところであるが、この話によると「武塔天神はスサノヲである」とある。真のことであろう。祇園御霊会の際、四条京極の御旅所で粟飯を神に供御するが、それもこの話にある蘇民将来の因縁なのである・・・・・」
 (注釈)「逸文」でいう備後国の疫隅国社は、備後福山新市町にある素戔嗚神社(旧・江熊天王社)、または広島県福山鞆浦町にある沼名前神社(旧・鞆祇園宮)のいずれかがその後身と云われている。どちらも中世には牛頭天王を祀っていたと考えられ、その意味では山城祇園社ともつながりがあったとも推定できる。
ただ、通称「延喜式神名帳」には備後国深津郡(今の福山市付近)に「須佐能衰(すさのを)神社」なる神社名も確認でき、古くから牛頭天王ではなくスサノヲそのものを祭神として祀っていた神社が存在していたとも考えられる。

第6回:祇園社祭神としてのスサノヲ(後篇)

 今回の主役は(前回に引き続き)スサノヲとなる。
室町期以降、牛頭天王とスサノヲとは同体視されていた。
だからこそ、明治の神仏判然令により、各地の牛頭天王社は名称を改竄させられ、祭神から牛頭天王は姿を消し、その代りに(牛頭天王と同体であった)スサノヲが祭神であると付会される。
では、なぜ、異国神である牛頭天王と日本神話に由来するスサノヲとは同体視されたのか。
これは明治以降、いまに続く旧牛頭天王祭神社をひもとく鍵となる事項である。
 『日本書紀』におけるスサノヲ追放譚
 第5回、『釈日本紀』の中に収載されている『備後国風土記』の「逸文」の後に、講師役である卜部兼文と受講生側である一条実経との間で、祇園社祭神をめぐる問答紹介した。
何よりここで着目すべきは、兼文が備後国の疫隅国社の縁起である「逸文」を、京の祇園社の由来譚であると断じたことであろう。
「逸文」には、京の祇園社のことなど一切触れられていないのにもかかわらず、なぜこのような断言ができたのか。
その謎を解くヒントは、『日本書紀』におけるスサノヲという神の存在にある。
 そもそも、『釈日本紀』は『日本書紀』の注釈書である。つまり、「逸文」もまた、『日本書紀』について深く掘り下げるために引用されていることになる。
具体的には、『日本書紀』巻第1第7段の一書第3の場面に対する解説/補足説明に用いられている。
その場面は
 アマテラスはその弟スサノヲの粗暴さに耐えかね、岩戸に隠れる。神々はアマテラスを岩戸から外に引き出し、この世は陽光を取り戻す。
一方、スサノヲに対して神々は手足の爪を剥ぎ取った上で、天上世界や葦原中国(地上世界)から、底根之国へと追放する。
追放されたスサノヲは青草を束ねて笠・蓑を作り、道中で宿を貸してくれる神を探し歩く。
しかし、罪多き穢れた存在であるスサノヲを泊めようとする神々はいるはずもなかった
・・・・という場面である。
 この場面は『釈日本紀』の「逸文」において武塔天神が妻問いの旅に出た際の描写と重なるのである。
但し、重なるのはこの一点だけであるが、おそらく、兼文はこの共通する一点を捉え、『日本書紀』の当該場面の解説/補足説明に「逸文」を引用したのであろうと思われる。
しかし、それでもまだ謎なのが、この「逸文」を用いることで、兼文は何を伝えたかったのかということが分からない。
 祇園社祭神・スサノヲの誕生
 『釈日本紀』が編纂された鎌倉時代中期において、祇園社はすでに「二十二社」と称される有力な神社であった。
しかし、その起源については不明な点が多い。ただ、確実にいえることは、その起源をたどっても、『日本書紀』や『古事記』あるいは『風土記』といった日本神話にはたどりつかない(日本神話を起源としない)神社であることは間違いない。
 (注釈)二十二社:
 平安中期の醍醐天皇の代に、伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日・大原野・大神・石上・大和・広瀬・龍田・住吉・丹生・貴布禰の16社に対して朝廷から定期的に祈願のための幣帛が奉られるようになる。
その後、吉田・広田・北野の3社が加わり19社に、さらに梅宮が加えられ20社、次いで祇園が加わり21社となって、12世紀はじめに日吉が加わり、制度は完成し、以後室町中期まで朝廷による定期的な幣帛が続く。
 兼文はこの「逸文」の存在を知ったとき、祇園社もまた、『日本書紀』に起源を持つ神社だったのかと推定したのだと思われる。
 まず、祇園社の祭神は牛頭天王であるが、その異名として武答神というものがあった。
一方、この『釈日本紀』に収められている「逸文」も武塔天神なる神が登場し、さらにその神はスサノヲであるとも記されてる。
つまり、
 祇園社祭神=武答神=武塔天神=スサノヲ という図式が成り立つ。
こうして祇園社祭神はスサノヲである、という図式が成り立つ。
さらに加えて、「逸文」には蘇民将来による武塔天神(スサノヲ)への粟飯の献上が記されている。
祇園祭の前身・祇園御霊会では四条京極にて粟飯を供御する神事が執り行われていた。
兼文はまさにその起源をこの「逸文」に見たのではないか。
武塔天神(武塔神)が登場し、祇園御霊会の粟飯供御も見られる――つまり、「逸文」こそが祇園社の由来譚ではないのか――兼文はそのように考えたと推察されるである。
そうであるならば、祇園社の祭神である武答神/武塔天神はスサノヲということになる。
つまり、祇園社も『日本書紀』に由来する神が祭神であるということになるわけである。
 しかし、何処まで行っても、「逸文」はあくまで備後国の神社の話であって、祇園社とは関係ない話ではないかという疑問は残る。
であるけれども、兼文は『日本書紀』の注釈という学術行為を通して、『日本書紀』と「逸文」、「逸文」と祇園社、そして『日本書紀』と祇園社という「つながり」を見出すことが出来たことに大きな意義があるのではないか。つまり祇園社の祭神はスサノヲであり、祇園社は『日本書紀』に連なる神社なのだ、という兼文なりに「真実」を発見したことにあるのではないかと思えるのである。
 兼文の言説以降、長い時間をかけて祇園社祭神=スサノヲという言説は定着していくことにる。
たとえば、室町中期の一条兼良(摂政・関白であり、当代一流の知識人)は、兼文が言及しなかった牛頭天王とスサノヲとの関係性を説きつつ、祇園社祭神としてのスサノヲを強化するし、室町後期の吉田兼倶(吉田兼俱・・・俱は異字体)は牛頭天王をはじめ、日本で祀られている異国神はみな、スサノヲの化身だとまで言及する。
 異国神を祀っていたはずの祇園社は、いつの間にか日本古来の神を祀る場へと変貌し、スサノヲという神もまた、疫病を広め、あるいは抑える神に変貌していったのである。 
 (注釈)中世のスサノヲについての参考文献は次がある。
「荒ぶるスサノヲ、七変化」斎藤英喜、吉川弘文館、2012
「スサノヲの変貌」権東祐、佛教大学[制作販売・法藏館]、2013
「スサノヲの「悪」をめぐって」鈴木耕太郎(山下久夫・斎藤英喜編「日本書紀1300年史を問う」思文閣出版、2020 所収)
 (注釈)中世日本紀
 中世における『日本書紀』注釈、乃至あらゆるものを『日本書紀』を通して説明しようとする際に出てくる独特な言説(『日本書紀』にはこう記されている、と説明しながらも実際には『日本書紀』に一切記されていないような言説なども含む)について、伊藤正義氏は「中世日本紀」と名付る(伊藤「中世日本紀の輪郭」『文学』第40巻第10号、1972)。
この時代の信仰や神事を考える上では非常に重要な言説群である。もちろん、『釈日本紀』もまた、「中世日本紀」として位置づけることができる。


2003/09/16追加:
◎「京都坊目誌」 より
 徳川時代・・社務執行宝寿院(世襲なり)にして、社僧は宝光院、神福院、松ノ坊、竹ノ坊、東梅ノ坊、西梅ノ坊、新ノ坊、(以上僧形妻帯なり)、成就院(清僧なり)の八坊、・・・明治維新に際し、神仏混淆を許さざるを以って之を分離し、社僧各坊を廃し、・・・・各坊は今の公園地大桜の西、及境内南側神幸通の北側に散在せしなり。
2018/06/05追加:
○宝寿院等祇園社の社家(Wikipedia より要約)
1)創祀から平安期まで
 祇園社の創祀については必ずしも明確ではない。
社伝では、斉明天皇の時代、来朝した高句麗人・伊利之が現在の東山八坂郷一帯の土地を与えられ八坂造家となり、その地に朝鮮半島由来の祖神を祀ったことに淵源を有するという。
久保田収の「祇園社の創祀について」<「神道史研究 10(6)」1962 所収>では、その祖神を祀る社が後に当地に建立された仏教寺院と習合し、漸次の発展と変容を遂げながら、最終的には、牛頭天王・スサノヲ・武答天神・薬師如来等を同一の存在として祀る神仏習合の寺社となったものという。
この高句麗人・伊利之の子孫が八坂造として八坂郷及び祖先神の祭祀を継承してきたが、これを紀百継が婿養子として継承し、紀姓を名乗るようになるという。
 ※紀氏は孝元天皇の曾孫である武内宿称を祖とするという。
 ※以上は一つの物語の部類であろう。
2)平安期から室町初期まで
 明確に祇園社の長官である執行家が紀姓の一家系に属するようになったのは平安期の紀行圓の時代からである。
行圓は紀長谷雄(紀百継とも)の子孫であり、祀官であると同時に延暦寺に属する天台僧であった。当時、祇園社は延暦寺の末寺であり、別当は天台座主が兼ねる慣習であった。勿論、祇園社の名目上の長官は別当・長吏ではあるが、実際は徐々に執行が実権を握り、執行家が事実上の長官となり、祇園社を管理運営した。
やがて、祇園社は二十二社に加えられる。
かくして、以後、行圓の子孫の紀氏が明治に至るまで、祇園社の実質の長官である執行職を代々世襲することになる。
しかし、世襲には大きな問題がある。
執行職などを務める紀氏の祀職は同時に社僧であり、そして、この社僧の特異性は、行圓以降、妻帯の社僧として血縁により世襲を行ったということである。否、僧侶であるということであれば、特異性というより、破戒ということであろうか。
ただし、形式上は実子や血縁者を「弟子」として、「師子相続」すなわち師匠から弟子への相続との形態をとっていたという。
南北朝の騒乱と宝寿院家の成立
 その後、行圓から枝分かれした紀姓の数家が執行職を持ち回りをする。
やがて、南北朝の時代、祇園社も北朝・南朝と別れ、紀姓の数家も覇権を争うこととなる。
結果は北朝方の勝利となり、紀氏は顕詮が生き残り、顕詮は寶壽院の院号を名乗り、祇園社は寶壽院家が長官となる体制が確立する。この頃、足利義満の御教書により、伝統的に祇園社の社領とされてきた「北は三条、南は五条、西は四条堤、東は東山」とする広大な区域を宝寿院家が血縁相続することを認められることとなる。
以後、祇園社は比叡山からの独立も果たし、宝寿院家は世襲により、足利将軍家の「御師」として室町幕府滅亡まで歴代の足利将軍に仕えることとなる。
3)近世以降
室町幕府の滅亡後は、豊臣秀吉による一万石の寄進や北政所の寄進を受けるなど、時の政権からの庇護を受け続ける。
中世末期から近世初期にかけて寶壽院から執行代として宝光院・神福院の紀姓庶流が生じ、幕末にはこれに竹坊・松坊・東梅坊・西梅坊・新坊の坊舎を合わせ、「祇園の三院五坊」と称する。
最後の執行である宝寿院尊福(還俗して建内繁継を名乗る)の時代に幕末を迎え、神仏分離により、社僧は還俗を命ぜられる。
祇園社に属する社僧(三院五坊)は全員還俗し、これらの院坊舎は神仏分離により全て破却される。
4)津島牛頭天王社祀職
 尾張津島牛頭天王社(津島神社)祀職の氷室氏や堀田氏はこの祇園社の社家の一流が津島に赴き世襲の祀職となったものであり、本姓を紀姓とする。家紋も紀氏がよく用いる木瓜紋を使用するという。 


祇園社現況:

○古写真
 祇園社西門古写真1:石階が拡幅前であり、神社石碑の建立前である。
 祇園社西門古写真2:石階が拡幅され、官幣大社の石碑がある。大正2年付設と云う翼廊はまだない。

2018/06/04
○「牛頭天王と蘇民将来伝説の真相」長井博、文芸社、2011 より
本殿:
本殿は祇園造と云われる建築様式であり、母屋の四囲に庇を廻らし本殿とする。その前面に別棟で礼堂がある。
本殿と礼堂を加えて本屋とする。本殿と礼堂を一つの屋根で覆い、その正面に向拝を付け、屋根の他の三方方向の面には孫庇を加える複雑な様式の建物である。
疫神社:
摂社疫神社の祭神は蘇民将来である。
 →蘇民将来符(2022/09/06追加)
悪王子社:
摂社悪王子社:スサノヲの荒御霊を祀る。荒御霊は現実に姿を現す霊験あらたかな神の意である。
元は東洞院四条下る(元悪王子町)にあったが、天正年中烏丸万寿寺下る(悪王子町)に移り、慶長元年(1596)に四条京極に遷る。
そして、明治10年祇園社境内に遷される。

2022/04/13追加:
○「神社とは何か」新谷尚紀、講談社現代新書2646、2021 より
祇園社の成立
 園社の創立については、同時代の記録が乏しく、不明の部分が多い。
確実な史料の初見は藤原忠平「貞信公記」延喜20年(920)閏6月22日の条である。忠平が亥病の治癒を祈願して幣帛と走馬を祇園社に奉納するという。
後世の記録であるが社伝「祇園社本縁録」では貞観元年(869)祇園御霊会の創始についての由来が述べられる。
また、鎌倉末期の社伝「社家条々記録」では貞観18年(876)南都興福寺圓如が神宮寺である観慶寺を建立したという。
祭神についても、次のように変化し、特に初期の実態はよく分からない。
「日本略記」延長4年(926)では祇園天神堂とある。但し、祇園天神の神格とは殆ど明確ではない。
「本朝世紀」藤原通憲・天慶5年(941)では祇園感神院とある。
「芙蓉略記」(1094-1107成立)延久2年(1070)祇園感神院火災で祇園天神御体は取り出されるとある。
ただ、この延久2年の火災の記事で「本朝世紀」は祭神は牛頭天王と記す。
つまりこの頃から祇園社の祭神は祇園天神から牛頭天王に変化したものと思われる。
「色葉字類」(院政期1144-65頃補正)祇園社祭神は牛頭天王またの名は武塔天神という。
牛頭天王とは平安末期の「辟邪絵」に登場するが、その神格は天刑星によって喰われる疫鬼であったが、しかし、疫鬼であるゆえ、いつしか疫鬼や疫神を圧倒し退治する強力な力を持つ神とされ信仰されるに至る。
「梁塵秘抄」1180年頃、大梵天王ともされていた。
「釈日本紀」鎌倉後期には武塔天王がスサノヲであるとみなされるようになっていたようである。
 ※以上に関しては、上に掲載の
 2018/06/05追加:
 ○「スサノヲと祇園社祭神--『備後国風土記』逸文に端を発して」鈴木耕太郎(「論究日本文学 (92)」2010 所収)
 の参照を乞う。
祇園感神院社殿
 古代、基本的には、神社建築は切妻造で、仏堂建築は寄棟造であったが、切妻造の妻を切り落した両側に屋根がつけられる入母屋造の建築が現れてくる。
神仏習合が進むと神社本殿の中にも、入母屋造の建築が現れ、その代表的な神社建築が祇園感神院の本殿である。
この本殿は日本で最大規模の神社本殿であり、正面7間(下屋を含めれば9間)側面6間の入母屋造であり、正面には3間の向拝をつけ、更に側面と背面に下屋を付ける。
最大規模となるのは、神の専有空間である小宝殿と人が礼拝する礼堂を含んでいるからである。これは密教本堂の形式と似る。
但し、この神社本殿は密教本堂と似ているが、平安後期に成立した特に有力な神社の本殿の形式という。
つまり、小宝殿は3間であり、伊勢・賀茂別雷・宇佐などと同じであり、その小宝殿を取り巻く庇が四方に廻る四面廂の構造は北野・吉備津・厳島・気比・気多などと構造であるということである。おそらくは、密教本堂も大社の本殿構造も佛や神の専有空間と人々の礼拝空間の一体化という時代の要請があり、成立したものであろうと思われる。
2022/04/13追加:
○「八坂神社」サイト より
 祇園社本殿西外面図     祇園社本殿側面断面図
 祇園社本殿空撮1       祇園社本殿空撮2
なお、本殿の建築様式の影響を受けた境内摂末社として次があるという。
八坂神社独自の建築である「又庇」。この造りは境内の摂末社にも見られ、本殿の様式の影響を受けて建てられたことが分かる。
いずれも、重文に指定される。
祇園社美御前社:天正19年(1591)建立
祇園社北向蛭子社:正保3年(1646)建立
祇園社日吉社:19世紀中期建立
祇園社疫神社:文政6(1823)頃建立
2022/04/13追加:
○「神社と霊廟 原色日本の美術 第16巻」稲垣栄三、小学館、昭和43年 より
現本殿は承応3年(1654)徳川幕府によって再建されたものである。
※2020年、本殿は国宝に指定される。
 祇園社本殿断面図・平面図

2022/04/13追加:
建造物として、西楼門・蛭子社社殿・石鳥居に加え、2020年26棟が重文に指定され、その結果、重文29棟の建造物を有することとなる。
重文の建造物は次のとおりである。
 祇園社境内図:八坂神社サイト より
西楼門
蛭子社社殿:正保3年(1646)建立、祭神:事代主神
石鳥居:正面(南)鳥居、正保3年(1646)建立、寛文2年(1662)地震倒壊、同6年(1666)補修再建。
西楼門翼廊(2棟)
南楼門
舞殿
神饌所
透塀
神馬舎
神輿庫
絵馬堂
西手水舎
南手水舎
疫神社本殿:文政6年(1823)頃建立、祭神:蘇民将来
悪王子社本殿:明治11年建立、もとは四条東洞院下ル元悪王子町にありしが、天正年中に烏丸万寿寺下ル悪王子町に遷される。
慶長元年(1596)四条寺町の御旅所、さらに四条大和大路角を経て、明治10年現在地に遷される。祭神:素戔嗚荒魂
美御前社本殿:天正19年(1591)建立、祭神:多岐理毘売・多岐津比売・市杵島比売
大国主社本殿:明治10年建立、祭神・大国主・少彦名・事代主
玉光稲荷社本殿:文化14年(1817)建立、素戔嗚尊の子神である、社務執行・宝寿院の邸内社であった。
 文政7年(1824)境内に遷される。祭神:宇迦之御魂
日吉社本殿:19世紀中期建立、祭神:大山咋、大物主
太田社本殿:大正2年建立、祭神:猿田彦、宇受女
大年社本殿:承応3年(1654)頃建立、祭神:大年神、巷社(ちまたやしろ)
十社本殿::明治10年建立、
 祭神:多賀社(伊邪那岐)、熊野社(伊邪那美)、白山社(白山比刀j、愛宕社(伊邪那美・火産霊)、金峰社(金山彦・磐長比売)、春日社(天児屋根・武甕槌・斎主・比売)、香取社(経津主)、諏訪社(健御名方)、松尾社(大山咋)、阿蘇社(健磐龍・阿蘇都比刀E速甕玉・速甕玉命)
五社本殿:昭和2年建立、
 祭神:八幡社(応神天皇)、竈神社(奥津日子・奥津比売)、風神社(天御柱・国御柱)、天神社(少彦名)、水神社(高龗・罔象女/みづはのめのかみ)
冠者殿社本殿:寺町貞安前之町所在、四条旅所本殿(2棟):寺町貞安前之町所在
大政所社本殿:烏丸通仏光寺下る大政所町所在
又旅社本殿:三条通猪熊西入御供町所在

現況写真:
無印は2009/11/10追加:○印は2012/01/12撮影;▽印は2012/04/24撮影:□印は2014/01/23撮影:■印は2014/08/30撮影:
◇印は2022/01/07撮影:
西楼門:明応6年(1497)建立、重文
 祇園社西楼門     ▽祇園社西門2     ▽祇園社西門3     ■祇園社西門4
 ◇祇園社西楼門5    ◇祇園社西楼門6
本殿:承応3年(1654)建立、重文
 祇園社本殿1       祇園社本殿2       祇園社本殿3
 ○祇園社本殿4     ○祇園社本殿5     ○祇園社本殿6
 □祇園社本殿11     □祇園社本殿12     □祇園社本殿13     □祇園社本殿14     □祇園社本殿15
 □祇園社本殿16     □祇園社本殿17     □祇園社本殿18     □祇園社本殿19
 ◇祇園社本殿20     ◇祇園社本殿21     ◇祇園社本殿22     ◇祇園社本殿23     ◇祇園社本殿24
 ◇祇園社本殿25     ◇祇園社本殿26
南楼門:慶応2年焼失、明治12年再建
 ○祇園社南楼門     □祇園社南楼門2    □祇園社南楼門3    □祇園社西楼門4     □祇園社西楼門5
 ◇祇園社南楼門7
その他
 祇園社本地堂跡:写真中央木立の中が本地堂跡と思われる。現地は立入困難、周囲から観察するも、特に遺構・遺物は残らない。
 祇園社石燈籠:延享3年(1746)松之坊の存在が知られる。
 ■祇園社遠望:南楼門及び本殿の屋根が写る。
 ◇祇園社疫神社1     ◇祇園社疫神社2
 ◇祇園社大国主社1     ◇祇園社大国主社2     ◇祇園社大国主社3
 ◇祇園社悪王子社1     ◇祇園社悪王子社2
 ◇祇園社美御前社1     ◇祇園社美御前社2
 ◇祇園社日吉社1     ◇祇園社日吉社2     ◇祇園社日吉社3
 ◇祇園社五社1     ◇祇園社五社2     ◇祇園社五社3
 ◇祇園社十社:奥に写る社殿は大年社(重文)である。
 厳島社:2018年修復、祭神:市杵島比売

2009/10/31追加:
祇園社本地薬師如来:引接山大蓮寺蔵

明治4年神仏分離の処置で、祇園社薬師堂(観慶寺と号す。本地堂)本尊薬師如来立像は当時は五条にあったと思われる大蓮寺に遷座する。
そして、その大蓮寺に遷座した祇園社本地薬師如来立像は現存する。
  重文、像高192cm、延久2年(1070年)祇園社が焼失した直後に造立されたものと推定される。作者を覚助と推定する説もある。
なお上記薬師如来のほか祇園社観音堂本尊十一面観音立像、薬師堂内夜叉神明王・毘沙門天なども大蓮寺に遷座すると云う。
 ※大蓮寺:慶長5年(1600)、専蓮社深誉上人が西洞院五条に創建する。
深誉上人は祇園社に出仕、「祇園社勧進帳(牛頭天王本地堂観慶寺勧進帳)」を読み上げると伝える。その後も行事の度に「勧進帳」を携行して出仕と云う。以上の縁で、祇園社の仏像が大蓮寺に遷座と云う。
戦時中の国防方針・五条通り拡張・強制疎開により、大蓮寺は川東新寺町にあった常念寺と合併し、現在地に移転する。

2009年秋の非公開文化財特別公開で大蓮寺諸仏(祇園社諸仏)が公開される。
 大蓮寺蔵祇園社諸仏
  :左から薬師如来及び脇侍、同じく薬師如来、十一面観音、同じく十一面観音、夜叉神明王、同じく夜叉神明王
   ※仏像画像はサイト「引接山大蓮寺>祇園社」から転載
2009/11/10追加:
 引接山大蓮寺本堂
 祇園社本地堂薬師如来:大蓮寺本堂に安置する。本尊薬師如来・日光月光両脇侍・十二神将 は祇園社本地堂より遷座する。
  ※なお写真下に漆塗の勾欄が写るが、この勾欄1対も祇園社本地堂のものと伝える。
 推定法勝寺礎石;大蓮寺本堂前に「法勝寺礎石」と称する加工された石がある。
大蓮寺の檀家である「権太呂」(岡崎南御所町)の岡崎店の庭から出てきたもので、大蓮寺に譲渡されたと云う。
権太呂岡崎店は二条通北に面して土壇を残す法勝寺金堂跡土壇のすぐ西に位置する。この位置から判断して、法勝寺の遺構・遺物の出土があっても不思議はないが、建物の通常の礎石とするには形が異形であり、法勝寺の遺物としても礎石かどうかは不明であろう。

2012/01/16追加:
祇園精舎の鐘:
祇園感神院梵鐘<延徳2年(1490)の有銘>は祇園大雲院の鐘楼に現存すると云う。
明治3年、神仏分離に際し(子細は不詳)、佐土原島津家が佐土原藩士の菩提のため、大雲院に寄進と云う。
 ※大雲院は昭和48年寺町四条から祇園に移転し、その結果祇園社の近くに還ってきたこととなる。
  大雲院 → 北野天神の北野天神鐘楼(大雲院)の項を参照  

2018/12/11追加:
京都吉文字町預・牛頭天王立像
2018年06月30日「京都新聞」に「牛頭天王、わが家で預かります 祇園祭、持ち回り困難で危機」という記事が掲載される。
経緯は次のようである。
 江戸中期に祇園感神院に牛頭天王像(像高約26cm、願主などは不明)が奉納される。
明治初年の神仏分離の処置で祇園社は八坂神社と改竄され、仏像である牛頭天王像は勿論処分対象とされるが、上記の牛頭天王像は氏子である吉文字町に託されたという。
 ※吉文字町は2つあるが、下京区柳馬場通高辻下ルの吉文字町である。
託された牛頭天王像は、それ(明治初年)以来、昨年(2017年)まで町会長が持ち回りで預かり、祇園祭では奉斎してきた。
しかし、町会員住民の高齢化や入れ替わりが進み、牛頭天王の持ち回りを止め、祇園社へ帰そうという動きが出てくることとなる。
そんな中、町会最古参の上原氏夫妻が「町内の伝統を継承」しなければという使命感で、自宅で預ることを決めたという。
なお、八坂神社では約40年前に町会に対して感謝状を出したという。
 以下、記事の引用。
≪同町では祇園祭期間中の7月上旬に牛頭天王をまつる「地ノ口祭」を毎年営み、祇園信仰を続けてきた。かつては秋にも御火焚(おひたき)をしたという。だが、近年は町内の持ち回りでの負担が課題となり、今年3月の町内会会合で八坂神社へ返還する意見が出た。地元で育った紀美子さんは吉文字町の伝統行事の消失を憂慮し、夫妻が自宅で預かることにした。
 夫妻は、今年も7月8日に自宅で「地ノ口祭」を営み、像をまつると意気込む。寿明さんは「像は、明治政府によって否定された牛頭天王の信仰を町内で150年間続けてきた証し」といい、紀美子さんは「小さい頃から『牛頭さん』と慣れ親しんできた。これからも文化を継承していきたい」と話している。≫
 上原氏夫妻預・牛頭天王:京都新聞より転載、但し、Trimし少々写真は小さい。

2023/07/25追加:
○螳螂山粽
 螳螂山粽袋     螳螂山粽     螳螂山粽護符



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