備  前  弘  法  寺  多  宝  塔

備前弘法寺多宝塔

千手山弘法寺の伽藍

邑久郡千手山絵図:2003/8/10追加

江戸中期の千手弘法寺

 千手山絵図:左図拡大図

当絵図は池田継政の参詣時に作成と伝える。
 ※継政:元禄15年(1702)生〜安永5年(1776)没
焼失した多宝塔、本堂(観音堂)、大師堂、鐘楼などが描かれる。

2009/04/04追加:「千手山弘法寺踟供養」関信子、千手山弘法寺踟供養推進協議会、2004 より
○「邑久郡千手山之絵」

邑久郡千手山之絵:江戸期、岡山池田家文庫蔵:左図拡大図
 (製作時期は元禄年中と推定)

山門(重層門・現存)を入り、坊舎の間の石段の参道を登った山腹の平坦地に本堂・如法経堂(普賢堂)・多宝塔・鐘楼があった。
 ※本堂・如法経堂(普賢堂)・多宝塔・鐘楼は昭和42年の火災で焼失し、これらは未だ再建に至らず。
本堂西南の一段上に常行堂・御影堂・一切経蔵、本堂西には鎮守である千次社・山王権現(何れも天明4年1784再興)が残る。

近世弘法寺(昭和42年焼失前)の姿がよく表されている。

2009/04/04追加:「千手山弘法寺踟供養」関信子、千手山弘法寺踟供養推進協議会、2004 より
○「備前国邑久郡豊原庄千手山弘法寺図略来由記」:宝永7年(1710)

「備前国邑久郡豊原庄千手山弘法寺図略来由記」
 弘法寺図略来由記:左図拡大図

弘法寺の伽藍全貌が表され、由来・堂塔の概要が述べられる。
「多宝塔ニ間半四面、本堂より古し、故に大破に及び■■再造し助成を乞、(以下判読できず)・・・」

○昭和42年焼失前弘法寺伽藍配置

 弘法寺伽藍配置図:「千手山弘法寺踟供養」より

弘法寺多宝塔

多宝塔は昭和42年本堂・普賢堂・鐘楼・坊舎等の主要伽藍とともに焼失。
宝永8年(1711)の再建塔と伝える。

:「日本の塔総観 中」より転載
焼失前塔婆(昭和40年撮影)
:下図拡大図

焼失前塔婆a(撮影時期不明)
:下図拡大図

焼失前塔婆b(撮影時期不明)
:下図拡大図

「岡山の多層塔」、「岡山の建築」 より:
多宝塔は一辺4.9m(16尺1寸)。本瓦葺き。木部は丹塗り。
下層は四天柱を立て、内外陣を区別し内陣は唐様の須弥壇を置く、天井は折上格天井、外陣は格天井とする。
中心柱は珍しく床下礎石から立ち、相輪に達していたとされる。五智如来を本尊とする。

2009/04/04追加: 「千手山弘法寺踟供養」関信子、千手山弘法寺踟供養推進協議会、2004 より

備前弘法寺多宝塔:左図拡大図

備前弘法寺本堂:昭和42年焼失

備前弘法寺如法経堂(普賢堂):昭和42年焼失
  元禄3年再建、その後焼失、明和5年(1768)再建

弘法寺概要

当寺は報恩大師開基と伝える。
弘長2年(1262)には衆徒25名、文永元年(1264)には衆徒55名、元亨2年(1322)には衆徒14名、元徳元年(1329)には衆徒・久住者75名の連署した文書が残ると云う。
「弘法寺衆徒等申状案」では元亨3年(1323)、本堂・三重廟塔・鐘楼・楽屋・僧坊・山王拝殿・法花堂が焼失、残った伽藍は常行堂・勧進所・山王社檀であった。(中世には弘法寺は諸資料より山門系の寺院であったことは疑いがないと云う。)
近世初頭には岡山藩主池田氏の庇護で堂宇が再興・改修される。
寛文5年(1665)池田光政の寺院淘汰の時、真言宗に改宗したものと推測される。この時15坊と末寺1寺と記録される。
宝暦8年(1758)には15院3坊という。
明治8年4院に合併。
昭和42年、主要伽藍焼失時、善集院類焼(元は延寿院と称する、元禄年中根生院、竜樹院と合併したと伝える。)
現在は仁王門と本堂跡上段の常行堂・山王社と遍明院・東寿院の2坊を残すのみに衰微する。

※報恩大師の入寂地には諸説がある。
千手北方の永倉山(報恩山)も入寂地とされ、報恩大師供養塔があると云う。
 千手永倉山図;江戸期か、所在は不詳。左山上に報恩大師塚がある、右下の仁王門は弘法寺仁王門か。 :「千手山弘法寺踟供養」より

弘法寺現況:2001/12/29撮影

本堂跡・塔婆跡の現状は薮の中に基壇・礎石を残す。本堂は東面し、塔婆は本堂北東にあり、南面していたと思われる。
 (基壇・礎石の藪は定期的に刈り込みが行われているようで、現状では「林に還る」などと言うことは無いと思われる。)
一方、坊舎は、その高い石垣は組み直され、建物も立派に新築され(一部工事中)たようである。
本堂より一段高いところにある御影堂、常行堂、一切経蔵、鎮守社などは火災の被害を免れ、往時の雰囲気を残すも、その荒廃の激しさに世の無常を思い知らされる。
山下には千手山大門(仁王門)が残存する。
遍明院:五智如来坐像(重文)、阿弥陀二十五菩薩来迎図(重文)、仏涅槃図(重文)、藍革肩白腹巻(重文)を伝える。
東寿院:阿弥陀如来立像(建暦元年1211・法眼快慶の銘、重文)を残す。

 備前弘法寺多宝塔跡1:(正面が本堂跡・右が塔跡)
   同         2:(塔 跡)      同         3:(塔石段)       同         4:塔南東隅礎石)
   同         5:(塔南東隅礎石)     同         6:(塔西側基壇)     同          7:(塔跡礎石)

 本堂跡至る参道(石段);(本堂跡から見下ろし)
   同        伽藍:(本堂等上段の焼失を免れた諸堂)
   同     阿弥陀堂       同        経蔵
   同        大門1      同       大門2
  ※千手山大門(弘法寺仁王門);主要堂塔焼失後、盛時を偲ぶ残された唯一の大建築となる。
   享保8年(1723)再建、大工・上山田村尾形久兵衛。

2005/05/22追加:
本堂は建武2年(1335)に再建され、文禄2年(1593)背後を改築、寛延元年(1748)全部を改築した建築であったという。
規模は5×4間
内陣の厨子と須弥檀は建武2年再興時のものとされる。
 弘法寺本堂厨子・須弥檀  弘法寺本堂厨子正面蟇股

2012/05/18追加:弘法寺踟供養
 昭和42年主要伽藍焼失し、踟供養は途絶する。1997年踟供養が復活する。
復活した踟供養は東寿院から遍明院までの約300mを行列する。
大和當麻寺、美作誕生寺の練供養とともに三大練供養と云われる。行列は阿弥陀如来像の被仏(かぶりほとけ)が向えるが、この被仏には人が入り、この人の入る形式は唯一のものと云う。


2006年以前作成:2012/05/18更新:ホームページ日本の塔婆