備  前  千  手  弘  法  寺  多  宝  塔

備前千手弘法寺多宝塔

千手山弘法寺の伽藍

何れも、昭和42年焼失した多宝塔、本堂(観音堂)、大師堂、鐘楼などが描かれ、往時の伽藍を偲ぶことができる。

絵図の年代であるが、山王・地主権現が建立されたのは綱政時代の元禄10年(1697)という。
何れの絵図も両権現が描かれるので、江戸中期の初期・元禄10年以降のものであろう。
さらに、江戸中期の絵図には描かれない御影堂・経蔵・蔵・浴室が描かれる絵図も存在する。おそらくは御影堂・経蔵・蔵・浴室は江戸後期に建立された建物と推測され、これらの絵図は江戸後期のものと推定される。

2021/09/13追加:
○岡山大学池田家文庫蔵
邑久郡千手山之絵図:部分図:年代不詳(推定元禄10年(1697)頃か)
 ※上の「邑久郡千手山絵図」と同一の繪圖である。
邑久郡千手山之絵図:全図:左図拡大図

邑久郡千手山之絵図:部分図:文字入れ

池田光政によって61石余が寄進。
池田綱政は元禄10年(1697)山王・地主権現に100石を寄進。
この図は山王・地主権現が建立された元禄10年頃描かれたものと推定される。

◇御影堂・経蔵・蔵・浴室は描かれず。

邑久郡千手山絵図:2003/8/10追加

江戸中期の千手弘法寺
 千手山絵図:左図拡大図

当絵図は池田継政の参詣時に作成と伝える。
 ※継政:元禄15年(1702)生〜安永5年(1776)没
備前岡山藩の第3代藩主。天城池田家5代当主、岡山藩池田家宗家5代。第2代藩主・池田綱政の十七男(公式には四男)。
正徳4年(1714)、父綱政の死去により岡山藩主となる。以後およそ40年の長きにわたって藩政をみた。継政が藩主にあった享保(1716-)〜明和(1772)年中。なお、宝暦2年(1752)隠居。
 ※池田綱政の参詣が何時かは、不明であるが、享保・宝暦・明和のころであり、何れに江戸中期の絵図であろう。

◇御影堂・経蔵・蔵・浴室は描かれず。

2009/04/04追加:
○「千手山弘法寺踟供養」関信子、千手山弘法寺踟供養推進協議会、2004 より
「邑久郡千手山之図」

邑久郡千手山之絵:江戸期、岡山池田家文庫蔵:左図拡大図
 (製作時期は江戸後期と推定される。)

山門(重層門・現存)を入り、坊舎の間の石段の参道を登った山腹の平坦地に本堂・如法経堂(普賢堂)・多宝塔・鐘楼があった。
 ※本堂・如法経堂(普賢堂)・多宝塔・鐘楼は昭和42年の火災で焼失し、これらは未だ再建に至らず。
本堂西南の一段上に常行堂・御影堂・一切経蔵、本堂西には鎮守である千次社・山王権現(何れも天明4年1784再興)が残る。

近世弘法寺(昭和42年焼失前)の姿がよく表されている。

◇御影堂・経蔵・蔵・浴室が描かれる。

2021/09/13追加:
○岡山大学池田家文庫蔵
邑久郡千手山之絵図:全図:年代不詳
 ※上の「邑久郡千手山之図」と同一の繪圖である。
邑久郡千手山之絵図:全図:左図拡大図

邑久郡千手山之絵図:部分図

◇御影堂・経蔵・蔵・浴室が描かれる。
次は上図に文字入れしたものである。
 邑久郡千手山之絵図:全図:文字入れ
 御影堂左手の堂宇の名称、および地主宮上の堂宇の名称は抹消されている。
 さらに、地主宮上の堂宇の上は六万□□とあるが一部判読できす、左手の小社の名称も判読できず。
 寺中遍明院の上の坊舎名、及び福壽院斜め下の坊舎名は 判読できず。
 遍明院対面の坊舎の名称はなし、その下の坊舎名は抹消されている。
 青林院対面の坊舎名も記載なし。

 邑久郡千手山之絵図:部分図:文字入れ

2009/04/04追加:
○「千手山弘法寺踟供養」関信子、千手山弘法寺踟供養推進協議会、2004 より
◆「備前国邑久郡豊原庄千手山弘法寺図略来由記」:宝永7年(1710)

「備前国邑久郡豊原庄千手山弘法寺図略来由記」
 弘法寺図略来由記:左図拡大図

弘法寺の伽藍全貌が表され、由来・堂塔の概要が述べられる。
「多宝塔ニ間半四面、本堂より古し、故に大破に及び■■再造し助成を乞、(以下判読できず)・・・」


◆昭和42年焼失前弘法寺伽藍配置

 弘法寺伽藍配置図:「千手山弘法寺踟供養」 より

  ◇御影堂・経蔵・蔵・浴室が描かれる。

弘法寺多宝塔

多宝塔は昭和42年本堂・普賢堂・鐘楼・坊舎等の主要伽藍とともに焼失。
宝永8年(1711)の再建塔と伝える。

:「日本の塔総観 中」より転載
焼失前塔婆(昭和40年撮影)
:下図拡大図

焼失前塔婆a(撮影時期不明)
:下図拡大図

焼失前塔婆b(撮影時期不明)
:下図拡大図

○「岡山の多層塔」・
○「岡山の建築」 より:
多宝塔は一辺4.9m(16尺1寸)。本瓦葺き。木部は丹塗り。
下層は四天柱を立て、内外陣を区別し内陣は唐様の須弥壇を置く、天井は折上格天井、外陣は格天井とする。
中心柱は珍しく床下礎石から立ち、相輪に達していたとされる。五智如来を本尊とする。

2009/04/04追加:
○「千手山弘法寺踟供養」関信子、千手山弘法寺踟供養推進協議会、2004 より

備前弘法寺多宝塔:左図拡大図

備前弘法寺本堂:昭和42年焼失

備前弘法寺如法経堂(普賢堂):昭和42年焼失
  元禄3年再建、その後焼失、明和5年(1768)再建

2022/10/15追加:
○動画「千手山弘法寺の踟供養」 より
平成9年に約30年振りに、踟供養が再興され、毎年5月5日に行われる。
昭和42年の諸堂焼失前には、普賢堂で読経、本堂から踟供養が出立、多宝塔に向かい、中将姫を掬い取り、常行堂へ向かう。常行堂では阿弥陀如来に迎え入れられ、供養は終了する。
諸堂の再興が果たせていない現状では、再興の踟供養は遍明院を出発、途中中将姫を掬い取り、東壽院にむかう。東壽院を極楽浄土に見立て、阿弥陀如来に迎えられる。翌年は、逆のコースを採り、東壽院を出発し、遍明院へ向かう。出発・終りは毎年これを繰り返す。

 ◎在りし日の多宝塔;下図拡大図

 


 ◎在りし日の本堂

2005/05/22追加:
○「岡山の建築」岡山文庫13、巖津政右衛門、昭和42年 より
本堂は建武2年(1335)に再建され、文禄2年(1593)背後を改築、寛延元年(1748)全部を改築した建築であったという。
規模は5×4間の大建築という。
内陣の厨子と須弥檀は建武2年再興時のものとされる。
 弘法寺本堂厨子・須弥檀     弘法寺本堂厨子正面蟇股

弘法寺概要

当寺は報恩大師開基と伝える。
弘長2年(1262)には衆徒25名、文永元年(1264)には衆徒55名、元亨2年(1322)には衆徒14名、元徳元年(1329)には衆徒・久住者75名の連署した文書が残ると云う。
「弘法寺衆徒等申状案」では元亨3年(1323)、本堂・三重廟塔・鐘楼・楽屋・僧坊・山王拝殿・法花堂が焼失、残った伽藍は常行堂・勧進所・山王社檀であった。(中世には弘法寺は諸資料より山門系の寺院であったことは疑いがないと云う。)
近世初頭には岡山藩主池田氏の庇護で堂宇が再興・改修される。
寛文5年(1665)池田光政の寺院淘汰の時、真言宗に改宗したものと推測される。この時15坊と末寺1寺と記録される。
宝暦8年(1758)には15院3坊という。
明治8年4院に合併。
昭和42年、主要伽藍焼失時、善集院類焼(元は延寿院と称する、元禄年中根生院、竜樹院と合併したと伝える。)
現在は仁王門と本堂跡上段の常行堂・山王社と遍明院・東寿院の2坊を残すのみに衰微する。

※報恩大師の入寂地には諸説がある。
千手北方の永倉山(報恩山)も入寂地とされ、報恩大師供養塔があると云う。
 千手永倉山図;江戸期か、所在は不詳。左山上に報恩大師塚がある、右下の仁王門は弘法寺仁王門か。 :「千手山弘法寺踟供養」より

弘法寺現況

2012/05/18追加:弘法寺踟供養
 昭和42年主要伽藍焼失し、踟供養は途絶する。1997年踟供養が復活する。
復活した踟供養は東寿院から遍明院までの約300mを行列する。
大和當麻寺、美作誕生寺の練供養とともに三大練供養と云われる。行列は阿弥陀如来像の被仏(かぶりほとけ)が迎えるが、この被仏には人が入り、この人の入る形式は唯一のものと云う。(大和當麻寺、美作誕生寺では既に阿弥陀如来像の被仏のお迎えは廃絶し、堂内に安置された阿弥陀如来像がお迎えする形式になっているという。)

2001/12/29撮影
本堂跡・塔婆跡の現状は空地の中に基壇・礎石を残す。本堂は東面し、塔婆は本堂北東にあり、南面していたと思われる。
 (基壇・礎石のある空地は定期的に雑草の刈り込みが行われているようで、現状では「林に還る」などと言うことは無いと思われる。)
一方、残った坊舎は、その高い石垣は組み直され、建物も立派に新築され(一部工事中)たようである。
本堂より一段高いところにある御影堂、常行堂、一切経蔵、鎮守社などは火災の被害を免れ、往時の雰囲気を残すも、その荒廃の激しさに世の無常を思い知らされる。
山下には千手山大門(仁王門)が残存する。
現在は次の2坊のみ残る。
遍明院:五智如来坐像(重文)、阿弥陀二十五菩薩来迎図(重文)、仏涅槃図(重文)、藍革肩白腹巻(重文)を伝える。
東寿院:阿弥陀如来立像(建暦元年1211・法眼快慶の銘あり、重文)を残す。

 備前弘法寺多宝塔跡1:(正面が本堂跡・右が塔跡)
 備前弘法寺多宝塔跡2:(塔 跡)    備前弘法寺多宝塔跡3:(塔石段)     備前弘法寺多宝塔跡4:塔南東隅礎石)
 備前弘法寺多宝塔跡5:(塔南東隅礎石)   備前弘法寺多宝塔跡6:(塔西側基壇)   備前弘法寺多宝塔跡7:(塔跡礎石)

千手山山門(弘法寺仁王門):
主要堂塔焼失後、現今では盛時を偲ぶ残された唯一の大建築となる。
享保8年(1723)再建、大工・上山田村尾形久兵衛。
正面3間側面2間三間一戸の門で構造は入母屋造、屋根本瓦葺きの重層門、軒は二重繁垂木であり、初重は平行垂木、上重は扇垂木と変化をつける。
主要堂塔伽藍および多くの塔頭を失い衰微するも、山下街道に厳然と建ち、その姿はかつての大寺の片鱗を示す。
 備前弘法寺山門1        備前弘法寺山門2
 本堂跡に至る参道(石段);(本堂跡から見下ろし)
 備前弘法寺残存伽藍:(本堂等上段の焼失を免れた諸堂)     備前弘法寺阿弥陀堂      備前弘法寺経蔵

2022/05/06撮影:
 備前弘法寺山門3    備前弘法寺山門4    備前弘法寺山門5    備前弘法寺山門6    備前弘法寺山門7
 備前弘法寺十王堂

 本堂跡に至る石階(見上げ)
 弘法寺本堂跡1     弘法寺本堂跡2     弘法寺本堂跡3     弘法寺本堂跡4
 弘法寺本堂跡5     弘法寺本堂跡6     弘法寺本堂跡7
 弘法寺墓碑1:御影堂裏     弘法寺墓碑2:本堂裏
 弘法寺普賢堂跡1     弘法寺普賢堂跡2     弘法寺普賢堂跡3
 弘法寺多宝塔跡11    弘法寺多宝塔跡12    弘法寺多宝塔跡13    弘法寺多宝塔跡14
 弘法寺多宝塔跡15    弘法寺多宝塔跡16    弘法寺多宝塔跡17    弘法寺多宝塔跡18
 弘法寺多宝塔跡19    弘法寺多宝塔跡20
 弘法寺鐘楼跡1     弘法寺鐘楼跡2
常行堂
天明元年(1781)の再建、正面3間・側面3間、重層で寄棟造、屋根本瓦葺き。軒は上下とも一軒疎垂木。斗栱・蟇股などは用いない。
構造は四本の中柱を建て、中柱は梁・貫で強固に結合され、中柱に囲まれた部分に阿弥陀如来坐像を安置する。
阿弥陀如来坐像は寄木造で像高282cm、台座は八角の台座である。
 弘法寺常行堂1     弘法寺常行堂2
 弘法寺常行堂3:阿弥陀如来     弘法寺常行堂4     弘法寺常行堂5
御影堂
詳細不明、荒廃が進み、このままでは大破・退転する懼れあり。
 弘法寺御影堂1     弘法寺御影堂2     弘法寺御影堂3     弘法寺御影堂4:荒廃が進む。
 弘法寺御影堂5     弘法寺御影堂6
 弘法寺経蔵1       弘法寺経蔵2       弘法寺蔵1      弘法寺蔵2
山王権現・千次社
何れも天明4年(1784)岡山藩主池田宗政によって再建される。三間社流造・屋根銅板葺き(本来は檜皮葺)。
江戸後期には地主宮と呼ばれていたようである。千次社とは不明。
 弘法寺山王権現鳥居    弘法寺山王権現拝殿
 弘法寺山王権現社殿
 弘法寺山王権現1     弘法寺山王権現2     弘法寺山王権現3     弘法寺山王権現4
 弘法寺千手社1       弘法寺千手社2       弘法寺千手社3
寺中遍明院:木造五智如来坐像(重文)を有する。12世紀の作という。
 寺中遍明院
 遍明院本堂1     遍明院本堂2     遍明院客殿     遍明院庫裡     遍明院堂名称不明:極楽堂?
寺中東壽院:阿弥陀如来立像(重文)を有する。本像は「巧匠 法眼快慶 建暦元年(1211)」の墨書銘を持ち、注目される。
 寺中東壽院1:奥は遍明院     寺中東壽院2     寺中東壽院3     東壽院本堂     玄関・客殿・庫裏

2022/10/15追加:
○sogensyookuのブログ>2020-03-04:千手山弘法寺 より

 本堂・普賢堂跡     本堂・普賢堂跡俯瞰:向かって右奥が多宝塔跡


2006年以前作成:2022/10/17更新:ホームページ日本の塔婆