京  都  六  条  本  圀  寺 (本文)

京都六条本圀寺(大光山本圀寺)/本文

大 光 山 本 圀 寺六条本圀寺西門跡に残る題目・大本山碑

六条本圀寺塔頭       六条の地に於ける終竟の本圀寺

古記録に見る六条本圀寺

京洛細見図(寶永版)本圀寺
           (五重塔が描かれる。宝永は1704-)

「都名所圖會」:天明の大火以前の景観

天明年間刊「都名所圖會」巻2の本圀寺から  (2007/08/02画像入替)
天明の大火まで、五重塔が存在していた。  ※天明の大火
広大な伽藍を誇ったこの六条本圀寺の地は現在、西本願寺門徒会館と駐車場などと化し、往時を偲ぶにはある程度の予備知識が必要である。

本圀寺伽藍図:下図拡大図

本圀寺五重塔部分図:左図拡大図



 

2007/06/13追加;
寛政3年(1791)本圀寺境内図:
  「重要文化財本圀寺経蔵(輪蔵)移築工事報告書」建築研究協会編集、本圀寺、1979 より

寛政3年本圀寺境内図3(五重塔部分):
 高さ 拾九間半(35.5m)
 方 3間半(6.37m)   とある。

寛政3年本圀寺境内図: 寛政3年(1791)境内図であるが、
 天明8年(1788)の大火以前の景観と思われる。

寛政3年本圀寺境内図2(五重塔附近部分図):
 五重塔は祖師堂の北側附近にある。

2009/05/22追加:
【寛政3年(1791)本圀寺境内廻り内地坪数諸建物間数坪数書附図】 :
 ※「洛中本圀寺の子院(塔頭)の構成について」櫻井敏雄、長池秀崇、青柳慶賢
 (「日本建築学会近畿支部研究報告集・計画系」Vol41、2001 所収)より転載
 ※上図を写したものである。

2007/06/18追加
本圀寺古図:「本圀寺史料」(正嫡付法 中巻)伊藤瑞叡編、冒柏寺華林山文庫求法院学室、平成3年 より

本圀寺古図:左図拡大図
作成年代不詳、天明8年の大火以前の本圀寺景観

※佐倉昌柏寺華林山文庫などの蔵印があり、佐倉昌柏寺に伝来した絵図を書写したものと思われる。
※佐倉昌柏寺:華林山と号す、日像上人京洛開基寺院の一つで、寛文年中昌柏院(佐倉松平乗久室・徳川家綱養母)により佐倉に地に再興、開山は三浦大明寺18世是勝院日慈上人。

2008/03/20追加
「本圀寺小誌」光山学院/編、光山学院:出版、大正8年 より
・五重塔:(室町期)
至徳2年(1385)乙丑釿始め翌年(京都に移後41年)4月8日開堂、釈迦多宝四天王を安置す、本堂の東南、祖堂の東北に当る地なり。
因に大客殿三十番神及五重塔は五祖日伝上人の時成る今は序でに列ぬ。
・五重塔:(近世初頭)
天文16年より百九年にして明暦元年(1655)落成5間半四方高サ19間半なり。
・天明の災厄:
天明8年(1788)・・・僅かに形のみ残れるは、番神拝殿・浴室・尊仏拝殿・経蔵輪・塔頭には栄長院一宇のみと云ふ・・・

2014/08/15追加:
本圀寺「寺地画圖」原本:明治4年
寺地画図:明治3年5月、上地令の準備として、京都府が作成を命じたもので、この命は寺社地を管理すべきものという太政官達を受けたものである。
上記のように本図は明治3年頃の提出命令によるものであり、従って天明の大火後、順次再建・復興した明治初頭の本圀寺の様子を描くものである。
本堂と五重塔は天明の焼失後再興されず、本堂跡・五重塔跡として描かれる。


本圀寺「寺地画圖」は「六条本圀寺」、「諸堂地所」、「方丈」の3圖から構成される。
 六条本圀寺寺地画圖
 六条本圀寺寺地画圖(文字入)
 本圀寺諸堂画圖:左図拡大図
 本圀寺方丈画圖

なお檀林(求法院)がかなり広い区画を占拠していることが分かるが、「寺地画圖」には具体的な配置は全く示されない。


本圀寺略暦

大光山と号する。現在は日蓮宗一致派大本山。
本堂に法華経・釈迦、多宝2佛と雲上4菩薩・四天王像を安置。
日蓮上人が鎌倉松葉ヶ谷に法華堂を草創、弘長3年(1263)配所(伊東)より放免、上人は棄却された法華堂を再建する、再興法華堂を大光山本国寺と号する。
文永8年(1272)再び破却され、日蓮上人は佐渡に配流。
同11年鎌倉に帰り、寺は日朗上人に付託・のち再興。
その後日印上人・日靜上人と受け継がれ、鎌倉将軍家の祈願所となる。
 ※鎌倉松葉ヶ谷小庵(法華堂)の地は名越妙法寺とも材木座長勝寺とも云う。
    → 比企谷妙本寺及び鎌倉日蓮諸寺 の該当項を参照

さらに後醍醐天皇の勅願所となり、貞和元年(1345)日靜上人、光明天皇の勅命により、堀川小路西、六条坊門小路南、大宮大路東、七条大路北の12町に寺地を賜り、寺を都に移転する。
 ※日靜上人は足利尊氏の叔父であり、同上人を開基とする。(鎌倉期の寺伝には異説あり)
 2011/11/20追加:
 ※鎌倉から法華堂京都移転に伴い、猿畠山法性寺、四大坊(東大坊松林院、西大坊勧持院、北大坊持珠院、南大坊戒善院)
  も日静上人に従い移転すると伝える。
 ※猿畠山法性寺は左京区田中下柳町27に現存する。近世では本圀寺末頭(筆頭)の地位にあったと思われる。
  2011/11/01撮影:
  京都猿畠山法性寺題目碑     猿畠山法性寺山門     猿畠山法性寺本堂     猿畠山法性寺鐘楼か
  但し、猿畠山法性寺は鎌倉(逗子)にも現存する。 → 比企谷妙本寺及び鎌倉日蓮諸寺 の該当項を参照
 2013/02/01追加;「雍州府志」黒川道祐撰、天和2年(1682)草稿、貞享3年(1686)刊 より
  ※武蔵寺:田中村の東にあり。・・・元、天台宗なり。相伝う、武蔵坊弁慶、時々来たりて遊ぶ。之によりて武蔵寺と号す。
  今、日蓮宗の僧之れを守る。京極今出川の南、本国寺の末派、法性寺に属す。
   貞享3年京大絵図
    上部が京極今出川であるが、今出川北に立本寺・本満寺があり、今出川少し南に法性寺・本禅寺が描かれる。
    →「雍州府志」では田中村には本国寺末法性寺に属する日蓮宗の僧の守る武蔵寺があり、法性寺は京極今出川に
     あると云う。確かに「京大絵図」によれば、法性寺は京極今出川下がるに存在する。
     これらから推測するに、法性寺は秀吉の都の改造で京極今出川に移されるも、宝永(1708)の大火で類焼、
     法性寺は本禅寺北側には再興されず、田中村の武蔵寺に移り、寺号を法性寺に改めたものと思われる。
  → 山城法華宗諸寺中に猿畠山法性寺あり

以降、妙本寺(妙顕寺)と京洛法華宗の双璧となり、六条門流と称される。
応永16年(1369)関白近衛道嗣の子息・日秀上人は本満寺を建立する等公卿・武家との権門と深く癒合して、勢力を拡大する。
この頃寺地は他の法華宗本山と同様に要害化される。
天文5年(1536)天文法華の法難で灰燼に帰し、堺の末寺成就寺に逃れる。
同11年勅許により、帰洛し、再建に着手する。同16年に以前の寺地に再建・本尊遷座。
天正18年(1581)寺地のうち南2町を本願寺造立の為割譲。
近世初頭には徳川家・日秀尼・加藤清正等の庇護を受け伽藍を拡充。
水戸光圀の帰依も受け、寺名を本圀寺と改称。
天明8年(1788)の大火で経蔵など僅かな堂宇を残し、類焼。
  ※天明の大火
その後順次再建されたが、五重塔・本堂は再建されず。
戦後、本圀寺は乱脈と荒廃を極め、終に鎌倉から移転し寺院を構えたこの六条の地を離れ、昭和46年山科に移転・現在の伽藍(京都山科本圀寺)を建立する。    →→→京都六条本圀寺

2001/05/25撮影:
京都六条本圀寺(旧伽藍地)の現況
 (西側現況・・駐車場東側現況・・門徒会館
広大な旧伽藍の跡地は西本願寺門徒会館(4階建・鉄筋コンクリート)が建てられ、残りは西本願寺の駐車場になる。
旧地から立退きの経緯・売却先が本願寺であったのかどうかは情報が無く不明であるが、時代の変遷・無常を見る。
なお、無残にも、本寺山科移転後も、諸塔頭は旧地に残存する。

総墓地も旧地に残る。
この墓地は元松永弾正久秀の屋敷跡といい、弾正が本国寺塔頭戒善院の檀徒であった関係上、松永家の供養のため天正年間(1573-91)戒善院墓地として寄進したもので、以来400余年塔頭の輪番で維持されてきたと云う。
大正11年塔頭で「妙恵会」が組織され、現在はその会で管理維持される。加盟塔頭は18ヶ院と思われる。
総墓地に残る歴代供養墓

 西門跡には題目碑・本山碑が場違いのように残る。 (本圀寺裏門):大宮通に面する。

2009/05/09撮影:
 六条本圀寺跡西築地:この築地は当然西本願寺による新造あるいは修復による。 (推定)
 六条本圀寺跡南築地:この築地内は西本願寺門徒会館 が建立され、本圀寺を偲ぶものは一切ない。
 六条本圀寺跡門:ここに本圀寺仁王門があった。この門は本圀寺の遺構ではなく、西本願寺の手になると思われる。 (推定)
 2014/05/01撮影:
  この門を良く観察すると、六条本圀寺が潰えた昭和46年以降の新造の門では無いと思われる。
  従って、昭和46年以降に西本願寺が新造した門では無く、それ以前の門の移設であろう。
  つまりこの門は西本願寺がどこからか門を移設したか、六条本圀寺のいずれかの門を移建した可能性が高いであろう。
  もし、本圀寺の遺構であるとすれば、それは現在入手出来ている資料からは、方丈門であろうか。
  方丈門の明瞭な古写真がないので、断定はできない。しかし、門の形式が藥医門であることから、この門であるかも知れない。
  但し、本瓦葺の葺方は明らかに異なる、これは現在の門の瓦は新しく葺替られたのであり、
  そのため葺方に差異が生じたのであろうか。    → 方丈門の写真は「京都六条本圀寺」に掲載する、
   六条本圀寺跡門2        六条本圀寺跡門3
 六条本圀寺西門跡題目碑:大正8年建立の銘
 六条本圀寺総墓地歴代供養墓
 六条本圀寺東門跡題目碑:昭和5年建立
2014/05/01撮影:
○六条本圀寺跡井戸枠
旧地(聞法会館)の西北隅(猪熊通の東に接する、本圀寺旧本堂の西側、現松陽院の南側)に南北に長い林地が残る。
その中に「井戸枠」と思われる遺物と石灯篭がある。この遺物「井戸枠」は単に井戸枠を置いただけなのか、あるいは本来井戸がありその井戸枠がそのまま残っているのかどうかは不明。
もし、本来井戸がありその場所に残る井戸枠であれは、これは「亀井」である可能性が高いと思われる。
「拾遺名所図絵一巻」では以下のように記す。
即ち「亀井:本堂の西にあり、上古は田面清水(たのものしみず)といふ。」
この亀井であろう。
一般的にいえば、六条本圀寺は堀川流路に位置し、沢山の名水が湧出していたようである。
亀井もその一つでその他に「松蔭井」(本圀寺持珠院内)、「真如水」(本圀寺旧地の真如院内)である。
 六条本圀寺跡南北林地:2001年の林地の状況は上に掲載の写真「西側現況・・駐車場」の中央付近に写るとおりである。
 六条本圀寺跡井戸枠
○六条本圀寺楠
今改めて、本圀寺本寺跡を眺めれば、数本の楠の大木が残る。恐らくはその大きさから六条本圀寺境内の楠はそのまま残ったもjのと推定される。
 六条本圀寺跡楠:南北林地付近から撮影、聞法会館をバックに2本の楠の巨木が写る。
奥に写る楠は、大正8年「大本山本圀寺紀念写真帖」に掲載される本   堂」写真(「京都六条本圀寺」にある)に写る本堂向かって左手の4本立ちした巨木と思われるが、どうであろうか。

大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(下京第十七學區之部)
旧境内東西2町南北6町あり。天正以来南2町を本願寺に割譲する。
現在の柿本町は元本圀寺境内たり。明治4年境内の道路を上地する。五條通りは通せざりしを、大宮まで新に開き、明治15年西本願寺・本圀寺間を190間東西に貫通し、花屋町通りに接続す。猪熊を北に開通し、松原よりの通路を拓く。
明治4年まで43,483坪あり。今21,275坪となる。
◇東総門:東面す。天明以降の建築(以下同じ)。
◇西総門:西面す。
◇仁王門:中筋通りに西面す。
◇出陣門:仁王門の北にあり。西面す。
◇本堂:西面す。元客殿にて、近江安土城より移す所なり。天明8年焼失し、天保3年再建す。妙法華院の扁額は水戸光圀の筆なり。
◇祖師堂:本堂の南にあり。西面す。日蓮・日朗・日印・日靜・日傳上人像を安置。元戒光寺薬師堂を移築。天明8年類焼。文政元年再建。
◇釈迦堂:本堂南・西面す。天明8年類焼。中立売千本西入るの大黒庵本堂を移築。明治15年今の地に再遷す。
◇刹堂:祖師堂の西東面にあり。天文17年細川晴元の建立。天明8年類焼。その後再建。
◇番神堂:祖師堂の南にあり。太田道灌の建立で加藤清正の再建。天明8年類焼。その後再建。
◇経蔵:仁王門の南東面にあり。旧蔵は太田資高の建立。一切経は足利義政の寄附なり。
  ※本書では天明8年焼失その後の再建とするが、これは間違いであろう。
◇清正堂:本堂の南にあり。西面す。紀州徳川頼宣室揺林夫人は加藤清正の息女なるを以って、父母追善のため石碑を建つ。堂宇は天明8年類焼し、安政6年再建せり。
◇毘沙門堂:本堂の向かいにあり。東面す。安政元年の建立なり。
◇鐘楼:仁王門を入りて北方にあり。鐘は天明火災に無事なりしと。

慶長年中諸堂を修め、元禄16年本堂を新築。其の頃寺門旺盛を極め、塔中は百一ヶ坊ありしと言う。
天明の大火で寺門悉く烏有に帰す。その後漸時旧観に復せしも、多宝塔(?)のみ再建に至らず。
明治維新で境内の幾分を上知・壇林求法院廃絶・多くの塔頭維持立たず、多くが合併廃絶した。

六条本圀寺本寺は山科に移転するも、塔頭及び墓地は今なお広大な旧伽藍地に残る。
塔頭として京洛移転以前からの勧持院(天文法華の乱と天明の大火で類焼し、現建物はその後の再建・加藤清正の本国寺参詣の折の宿坊)・戒善院・松林院を始め、円龍院(応永14年日伝上人)・智光院(永享5年日心上人)・智了院(永正元年日受上人)・林昌院(亨禄3年日実上人)・真如院(天文4年日映上人創建・翌天文5年焼失・永禄3年(1560)頃再建)、天文法華の乱後の多門院・詮量院(すでに勧持院内に寺務所があるのみで院は駐車場になっていると思われる)了光院・常証院・松陽院了円院本実院本妙院・本栖院・英鏡院・智妙院久成院一音院・一妙院・瑞雲院・信正院・本立院があった。
現在の塔頭は、戦時中の五条通りの強制疎開(拡張)等々で減少し、旧地に現存する塔頭は名称を「緑色」で表示した15前後の院となる。
  参考:京都六条本圀寺寺中

和漢三才図会・記事より
東西2町・南北6町
本堂(東西17間・南北間)、祖師堂(方11間)、宝塔(高さ19間半・方5間半)、位牌堂(東西10間・南北8間)、壇林(東西134間余・南北47間半)・・・寺中におよそ100坊ある・・・
 


京都山科本圀寺概要図) :無印の写真は2001/05/25撮影、概要図は目測をメモしたもので必ずしも正確ではない。
                   △印の写真は2011/03/08撮影、山科本圀寺概要図2:山科本圀寺リーフレットより
                   ▽印の写真は2015/05/10撮影、
                   ▽印の文章は「大本山六条門流山科本圀寺史要寫眞帖」平成25年 より(2015/06/11)
                   ○印の写真は2019/04/26撮影

▽昭和44年伊藤日瑞上人代務住職に特選、僅かに清正公堂、旧書院、執事寮、経蔵のみ残存せり。
▽同年、山科本圀寺再建地鎮式奉行。
昭和46年、六条本圀寺は山科の地へ移転する。

山科本圀寺納骨堂(昭和46年の移転にて建立、篋塔のスタイルに見えるが、塔を意識して建立というより、納骨堂に相輪<不完全である>を載せる意匠であろう。そのため「篋塔」ではなく「擬製塔婆」に分類する。)
六条本圀寺に納骨堂があり、その写真が残る。ただし六条本圀寺のどの場所にあったのかは良く分からない。
六条本圀寺に納めてあったお骨は全て山科に移転と云う
  △山科本圀寺納骨堂1     △山科本圀寺納骨堂2     △山科本圀寺納骨堂3

◎山科本圀寺総門
  ○門前題目石:平成23年(2011)建立<銘による>
  ○日蓮宗教院と総門
  ▽山科本圀寺総門:この門と「日蓮宗教院」石碑は近年建立と思わ れる。
   日蓮宗教院とは平成19年学道求法講院(光山学院)が再興され、石碑はおそらくこれに関連して建てられたものであろう。
  ○本圀寺総門
清正門
文禄の征韓時、清正が出陣したと伝える。天明以降の再建。赤門、出陣門、▽平成8年 (1996)移築再建
移建にあたり脚は少し切り詰めると云う、開運門ともいう。
  ○清正公石灯篭:繪圖・写真などから旧地の清正堂にいくつかの石灯篭があることが分かるが、その内の1基が山科に
  移建されたのであろう。2011/03/08の訪問では、旧執筆寮の東裏側に放置されていた記憶がある。
  その写真が「2011/03/08撮影清正公石燈籠」である。
  いつしか旧執筆寮の東裏側から総門と清正門の間の参道沿いに移設されたものと思われる。
  なお石灯篭には銘があるが判読できない。(今後の課題とする。)
  ○求法講院石碑:新しいものと思われるが、おそらく古の「求法院檀林」を偲ぶ意図があるのであろうか。
   あるいは客殿に「求法講院」の表札が掲げられるので、「求法講院」が「再興」されたのであろうか。
  △清正門2     △清正門3
  ▽清正門11     ▽清正門12     ▽清正門13     ▽清正門14     ▽清正門15
  ▽清正門16     ▽清正門17
  ○清正門と鐘楼:鐘楼は客殿の手前附近に再建されたが、近年、清正門を入って右手に移建されたようである。
  ○清正門

移建された鐘楼

◎仁王門(三解脱門):平成15年新築される。仁王像は本堂両脇に安置していたものを移安する。
移転前の写真に残存仁王像が写るが、おそらくはこの写真の仁王像が修復されて安置されているものと推察する。
  △仁王門1     △仁王門2
  ▽仁王門11    ▽仁王門12    ▽仁王門13
  ○仁王門14    ○仁王門15
本  堂(昭和48年建立、鉄筋コンクリート桁行5間梁間5間、入母屋造り、本瓦葺)
  △本 堂2     △本 堂3
  ▽本堂11     ▽本堂12     ▽本堂13
  ○日蓮上人立像    ○本堂14    ○本堂15
釈迦堂(昭和48年建立、本師堂、祖師堂) :日蓮上人念持仏であった釈迦立像を祀る。
  △本師堂2     △本師堂3
  ▽本師堂11    ▽本師堂12    ▽本師堂13    ▽本師堂14     ▽本師堂15
  ▽本師堂16    ▽本師堂17    ▽本師堂18
  ▽本師堂は新築、昭和486年落慶
  ○本師堂21    ○本師堂22    ○本師堂前・本尊釈迦立像石碑
◎客殿(旧書院):昭和46年移築再建
  △客 殿:求法講院の表札を掲げる。
  ▽客殿11    ▽客殿12
  ▽六条に残存せる旧書院(黒書院)を移建、玄関は新築。
  ○客殿13    ○客殿14
◎堂名称不詳・新堂宇
  ▽新堂宇(名称不明)
  ○安国院・生御影堂・小書院1
  ○安国院・生御影堂・小書院2:説明板では安国院・生御影堂・小書院とあるが、各々がどの建築か不明
   (今後の課題とする。)
◎玉房稲荷大明神:六条にありし時は玉房本殿及び拝殿があった。
  ▽玉房稲荷大明神
  ○玉房稲荷大明神2
  玉房稲荷横に
  ○銭洗弁財天が祀られる。
◎経蔵:昭和51年移転再興。
  経 蔵  経蔵細部(重文。 寛正6年/1464足利義政の寄進によって創建される。慶長12年<1607>再建、天明の大火を逃れた唯一の堂である。3間4間、単層、宝形造り、正面に1間の庇付き、山科移転後も長く六条本圀寺旧地に残っていたが、やっと移建される。
  △経蔵2     △経蔵3     △経蔵4     △経蔵5     △経蔵6
  ▽経蔵11    ▽経蔵12    ▽経蔵13    ▽経蔵14    ▽経蔵15    ▽経蔵16
  ▽経蔵17    ▽経蔵18    ▽経蔵19    ▽経蔵20    ▽経蔵21    ▽経蔵22
 2015/05/11追加:
  本圀寺輪蔵1:平成27年春季京都非公開文化財特別公開リーフレットより
  本圀寺輪蔵2:2015/04朝日新聞より
  ○経蔵31    ○経蔵32    ○経蔵33    ○経蔵34    ○経蔵35    ○経蔵36
清正堂(宮あるいは廟、加藤清正の女(瑶林院)が建立したと伝え、旧地から移建されたと思われる)
  ▽昭和51年移築再建。
  △清正堂2     △清正堂3:左手前は石造石造清浄院・瑶林院廟
  △清正堂4     △清正堂5     △清正堂6
  ▽清正公廟11   ▽清正公廟12   ▽清正公廟13   ▽清正公廟14   ▽清正公廟15
  ▽清正公廟16   ▽清正公廟17   ▽清正公廟18
  ▽清正公廟19:清正大尊像の扁額を掲げる。
  ▽清正公廟20:清正廟裏扉には加藤家家紋の桔梗紋及び蛇の目紋がある。
  △清正公銘石燈籠:六条本圀寺から運搬と思われる。但し庫裏横に殆ど放置された状態である。
   六条本圀寺清正公廟の写真に石燈籠が写るが、その内の一つであろうか。
  ○清正公廟21    ○清正公廟22    ○清正公廟23    ○清正公廟24
  ○清正公廟25    ○清正公廟26    ○清正公廟27
◎石造清浄院・瑤林院廟(石造廟及び墓碑は六条本圀寺から移転すると思われる。)
六条本圀寺では浄池院廟所(清正廟)の北側に同型と思われる2基の石造清浄院廟と石造瑤林院廟が並んでいた。
この様子は六条本圀寺の残された絵図や写真で窺うことが出来る。しかしながら、山科本圀寺では石造廟は1基となり、清浄院と瑶林院は合祀された形となる。現存する石造廟はどちらの廟であったのかは分からない。
  △石造清浄院・瑤林院廟1     △石造清浄院・瑤林院廟2
  △清浄院・瑤林院墓碑:左「瑤林院殿浄秀日芳」、右「明暦二丙申稔 清浄院殿妙忠日壽大姉 九月十有七日」
 ※寛文元年(1661)瑤林院が父母(加藤清正・清浄院)の追善供養と自らの逆修として六条本圀寺に建立したものである。
  ▽清正公/清浄院・瑶林院廟11    ▽清浄院・瑶林院廟11
  ▽清浄院・瑶林院墓碑11       ▽清浄院・瑶林院墓碑12
  ○石造清浄院・瑤林院廟13     ○石造清浄院・瑤林院廟14     ○清浄院・瑶林院墓碑13
鐘  楼(昭和48年新築。また基壇の内部は何かの仏堂の形式を採る)
  △鐘 楼2
  ▽鐘楼11 ▽平成8年 (1996)新築
  ○鐘楼跡:以前はここに九名大尊神などを祀る基壇があり、その基壇上に鐘楼が建立されていた。
  しかし、鐘楼はいつしか清正門を入った右手に移建され、基壇も撤去されたようである。
◎九名大尊神(鐘楼基壇は刳りぬかれ、中に鬼子母神・十羅刹女と九名皐諦女<くみょうさま>を祀る。
六条本圀寺の境内図では清正公廟の南、祖師堂の北(両堂宇の中間付近)に九名皐諦尊女神堂とあり、ここに祀られていたのであろうか。
  △九名大尊神
  九名大尊神が祀られた鐘楼基壇は取壊され、鐘楼は移建され、九名大尊神は仁王門西側に移される。
  九名大尊神に並んで手水舎が建てられる。
  ○手水舎・九名大尊神    ○本圀寺手水石    ○九名大尊神堂    ○九名大尊神
◎庫裏・寺務所(旧地より移建 と云う)等が現在整備されている。 昭和48〜51年移築
  △寺務所2     △寺務所3     △寺務所4
  ▽庫裡寺務所拝殿11   ▽庫裡寺務所拝殿12   ▽庫裡寺務所拝殿13
  ▽庫裡・寺務所・拝殿は昭和48〜51年、六条に残存せる清正公堂拝殿を移築増改築せるものなり。
  ○清正公堂拝殿遺構:庫裡・寺務所・拝殿。
   旧の姿は「清正公堂」<昭和37年「新撰京都名所圖會 4巻」>などで見ることができる。
◎旧執筆寮 ▽昭和48〜51年六条に残存する執事寮を移築再建す。
  ▽旧執筆寮
◎毘沙門天石燈籠1対:六条本圀寺から運搬と思われる。但し庫裏横に殆ど放置された状態である。
毘沙門天については不詳、明治42年;「大本山本圀寺略縁記」に鐘楼と毘沙門堂の写真があり、ここに1対の石燈籠が写る。
この石燈籠がこの放置された石燈籠であろうか。
  △毘沙門天石燈籠1対
◎境内景観
  境内景観(左から本堂の右端・釈迦堂・客殿・鐘楼・庫裏の左端)
◎新書院:平成14年新築される。
◎二天門・勅使門
近年二天門・勅使門などが新造されたようである。
  ○二天門・勅使門    ○二天門    ○勅使門2

2006/01/22追加:
本圀寺の腐敗
戦後、本圀寺は腐敗・荒廃し、その結果、京都での草創の地を捨て、山科の地に移転する。
なお移転の経緯の中、本圀寺本寺の土地売却にあたっては、西本願寺等の間でスキャンダルや訴訟の類があった。

●「西本願寺スキャンダルの真相」別冊宝島Real025号、一ノ宮美成・グループK21、宝島社、2001/12/24 所収
  「あの大物政治家が関与? 京都の”奇怪”な土地取引に不正はあったのか?」より
「昭和の30年代に入ると、一部の僧侶達により荒らされてしまった。国宝級の仏像や美術品が勝手に売却され、境内地が借金の担保になったのだ。最後は国会公務員共済組合(大蔵省管轄)に売り飛ばされた。(昭和40年・価格は時価の1/3、4億3千万円・6300坪)」
「買収した途端に、ニ重売りの訴訟が起こされ」「暴力団」の関与が言われ、「共済組合は・・・再度売却をする」ことになる。
土地ブローカーが暗躍したが、結局、昭和61年「共済組合は坪166万円、総額108億5千万円で」西本願寺(随時契約)に売却した。
当時竹下元首相は蔵相で「本願寺門徒総代」であり、当時の坪単価は200万は下らない(600万という人もいる)ということで、竹下氏の関与が言われた。(真偽については不明。)
 →以上が、本圀寺境内地売却の概要であるが、これだけではことの本質はよく分からない。
●本件について「本圀寺」のサイトは以下のように記す。
「しかし昭和初期の本末解体による六百旧末寺の離散、度重なる不祥事のもと、多数の訴訟と借財とにより、絢爛たる宗門史を築いた六条門流の根源本圀寺は、この地に廃亡しました。昭和四十年代のことであります。それは永年にわたる宗門の煩悩業苦を引き受けた懺悔滅罪の行相でありました。拙著『本圀寺史料』を往見して下さい。」 云々。
●「京都本圀寺の宗宝紛失盗難問題」とか「曼陀羅紛失ミステリー」などがあったといわれる。
本圀寺所蔵曼陀羅(日蓮上人真筆とされる「若宮御本尊」、「切箔御本尊」、 「夕顔御本尊」の3点)が紛失・盗難といわれる。

※なお、上掲の「別冊宝島」は丸々1冊が西本願寺のスキャンダルで埋まる。
但し、スキャンダルと本圀寺とは直接の関係はない。
しかしながら、以下の光景が何かを物語る気がしてならない。
 西本願寺境内北側に宗務総合庁舎がある。この出入口は旧本圀寺跡に面する。
夕刻、この辺りに立つと、宗務総合庁舎からネクタイ・スーツ姿の多くの職員が退庁する風景が見られる。その姿は一般のサラリーマンの姿と変らない。
続々と退庁する職員の姿から推測できることは、本来経済活動とは無縁であるはずの教団が巨大な経済組織・官僚組織になっている様が、推測できる。
繰り返しになるが、スキャンダルの真偽の程は不明である。しかし、「組織論」一般からいえば、外部から隔絶された組織は、必ず宗教(本来の目的)とは無縁の「欲望の集団」に「堕落」し、腐敗していく のが常である。どんな組織であってもである。


明徳商業高校
本圀寺寺中に明徳商業高校跡がある。学校はすでに移転し、跡地は廃墟のまま残される。
 (2009/05/09:跡地は宅地分譲され今は民家が立ち並び、何も残らない。)

◇明徳のあゆみ
大正10年4月 宗祖日蓮聖人誕生700年を記念し社団法人明徳学園並びに大本山本國寺により「明徳女学校」を創立
昭和23年4月 「明徳女子高等学校」となる
昭和27年4月 「明徳女子商業高等学校」を設置
昭和29年1月 女子商業高校と夜間高校を合併し「明徳商業高等学校」と改称
昭和61年4月 明徳総合グラウンド・体育館完成(西京区現在地)
昭和61年4月 「京都成章高等学校」開校
平成 4年4月 「明徳商業高等学校」全面移転(西京区現在地)
平成 5年4月 「京都経済短期大学」開学
平成 9年4月 普通科設置にともない「京都明徳高等学校」と改称、
 時の流れというべきか、現在は本山の故地をすて、郊外に移転する。
  (以上 http://www.meitoku.ac.jp/history/ayumi.html  からの抜粋)


2012/11/07追加:
六条門流本圀寺末寺

2016/03/06追加:K.G氏情報
「日蓮宗寺院大鑑」昭和56年などの資料から判明している現存する末寺(孫末寺なども含む)数は次の通りである。
身延山 915寺、京都六条本圀寺 559寺、京都四条妙顕寺 320寺、中山法華経寺 316寺、池上本門寺 273寺、小湊誕生寺 174寺

本圀寺は近世では末寺・孫末寺475を数えると云う。(典拠は失念)
その一端を以下に示す。

1)六条門流本圀寺有力末寺

 (以下Wikipediaより情報転載)
村雲御所瑞龍寺 →瑞竜寺(村雲御所):昭和38年近江八幡市へ移転する。
本山広布山本満寺(京都) →京都本満寺
六条門流三本:
 大光山本圀寺(六条門流祖山)
 高照山本傳寺(攝津大阪)
 萬歳山本経寺(肥前大村)
六条門流三長:
 向嶋山長源寺(若狭小浜)
 誉師山長満寺(伊予幸田)
 大尭山長遠寺(攝津尼崎)  →攝津尼崎長遠寺
本圀寺末頭:猿畠山法性寺(京お猿畠) →山城日蓮宗諸寺中にあり
                           鎌倉日蓮諸寺中 「逗子御猿畠法性寺」に記載あり。
                           同じ記載は本ページの上に掲載している「本圀寺略歴」中にもある。
九州総導師:発星山本妙寺(肥後熊本、加藤清正廟所) →肥後本妙寺
江戸触頭:
 平河山法恩寺(本所法恩寺) →本所(押上)法恩寺
 妙祐山幸龍寺(浅草田甫幸龍寺、現在は世田谷に移転)
 妙祐山宗林寺(谷中宗林寺)
三浦本山:金谷山大明寺(相模横須賀) →相模衣笠大明寺
鎌倉本山:楞厳山妙法寺(鎌倉、苔寺) →鎌倉名越妙法寺
呉東本山:海秀山大法寺(越中富山)
呉西本山:海秀山大法寺(越中高岡)
丹後本山:本城山経王寺(丹後宮津) →宮津経王寺(当ページ内「丹後における日蓮宗寺院」中にあり)
播磨本山:大乗山法華寺(播磨姫路) →「西国諸国の日蓮宗寺院」>「播磨姫路日蓮宗諸寺」中にあり
熱田法華堂:妙光山本遠寺(尾張名古屋)
坂東総本寺:長生山妙勝寺(尾張萱津) →萱津妙勝寺

◇山城嵯峨常寂光寺:2013/01/13追加
本國寺16世 日ワ辮lの隠遁所を寺院に改める。
日ワ辮lの隠遁は文禄5年 (1596)であり、これは秀吉の方広寺大仏開眼千僧供養会に京都諸本山が出仕した直後のことである。
 →山城嵯峨常寂光寺

2)相模三浦郡の日蓮宗寺院一覧

K.G氏調査作成「三浦郡日蓮宗寺院一覧(Excel)」2012/11/06版 より 転載

  → 相模三浦郡日蓮宗諸寺:一覧表がある。

   ※三浦郡日蓮宗寺院については京都六条本圀寺直末及び孫末(衣笠太明寺末など)が圧倒する。

2012/11/07追加:
3)丹後における日蓮宗寺院・・・京都本圀寺及び妙顕寺などの末寺

「丹後日蓮教団の考察 : 本圀寺門流の展開を中心に」高野聡顕(「日蓮教学研究所紀要 33」2006 所収) より
 丹後日蓮宗は宝徳年中(1449-51)京都学養寺開山(身延山9世日学)弟子実教院日養の宮津開教を始まりとする。
従って中世には身延門流の勢力下にあったが、近世になると元和年中に妙立寺が京都妙顕寺に本寺を変更するなど京都妙顕寺及び京都本圀寺の勢力が比肩するかの如く、拡大する。
 丹後における日蓮宗寺院は現在32ヶ寺があるが、その概要を「丹後日蓮宗寺院一覧」として示す。
  → 丹後日蓮宗寺院一覧:一覧表がある。近世では四条門流妙顕寺と六条門流本圀寺の末寺が拮抗する。

4)その他の末寺:判明分のみを掲載

○陸奥弘前本行寺 → 弘前の社寺
 本行寺末:三森村感應寺(現弘前市独狐)
 本行寺末:飯詰村正行寺(現五所川原市妙龍寺)
 本行寺末:板屋野木村長延寺(現板柳町)
 本行寺末:木作村実相院(現木造町実相寺)
 本行寺末:梅田村(現五所川原市)妙光院(現板柳町妙光寺)
○能登七尾法性山妙圀寺 → 能登の日蓮宗諸寺
○能登七尾本源山實相寺 → 能登の日蓮宗諸寺
○加賀金澤卯辰妙應寺 →卯辰山麓の諸寺
○加賀金澤寺町妙典寺 →金沢寺町の諸寺
○加賀金澤寺町高岸寺     → 同上
○【廃寺】加賀金澤寺町法蓮寺 → 同上
○加賀金澤寺町法光寺     → 同上
○加賀金澤寺町妙法寺     → 同上
越前小倉澤田山蓮蔵寺 →越前鯖江の諸寺
越前敦賀本泉山大乗寺 →越前敦賀の諸寺
○鎌倉大町上行寺 → 鎌倉の諸寺
○鎌倉松葉谷妙法寺(名越) → 鎌倉松葉谷妙法寺
○鎌倉松葉谷長勝寺(材木座) → 鎌倉松葉谷長勝寺
○鎌倉材木座啓運寺 → 鎌倉の諸寺
○片瀬本蓮寺 → 片瀬龍口寺8ヶ寺輪番中にあり
○尾張日比津定徳寺 →尾張の諸寺
○尾張中村妙行寺   → 同 上
○尾張萱津妙勝寺   →萱津妙勝寺
 妙勝寺末・延壽山妙福寺:稲沢市千代町東郷37
 妙勝寺末・○尾張西今宿宝満寺 →尾張の諸寺
 妙勝寺末・○尾張萱津妙教寺   → 同 上
 妙勝寺末・○尾張本郷地福寺   → 同 上
 妙勝寺末・○尾張川部日妙寺   → 同 上
○尾張萱津實成寺           →萱津實成寺
 寺中・○正法山正善寺(現存)旧正善坊 → 同 上
 寺中・○玄中山圓行寺(現存)旧圓行坊 → 同 上
 寺中・○寶久山泉龍寺(現存)旧泉龍坊 → 同 上
 寺中・一揚院(廃寺)
 寺中・学泉院(江戸末期に廃寺)
 實成寺末・延寿山長栄寺(北名古屋市六ツ師)旧筆頭末寺
 實成寺末・慈雲山普門寺(北名古屋市六ツ師)
 實成寺末・七寶山瑞圓寺(あま市七宝町)旧沖之島番神堂
 實成寺末・○光宣寺(清須市下河原)   旧下河原番神堂 →尾張の諸寺
 實成寺末・○妙淨寺(あま市下萱津池端) 旧池端番神堂  → 同 上
○丹波綾部妙泉寺  →丹波の諸寺
○丹波福知山常照寺 → 同 上
○京都猿畠山法性寺:左京区田中下柳町27 → 山城日蓮宗諸寺
○東山清水日體寺:清水4丁目 → 山城日蓮宗諸寺
○山城中千本慧光寺:上京区笹屋町1-562  → 山城日蓮宗諸寺
○山城西京妙堯寺:七本松通り下立売通り下ル(寺町) → 山城日蓮宗諸寺
山城東堀川六条本蔵寺(吉水町)本蔵寺・・・消滅 → 山城日蓮宗諸寺
○山城島原藪内町慈雲寺 → 山城日蓮宗諸寺
○山城下鳥羽常高寺 → 山城の日蓮宗諸寺中の上鳥羽・下鳥羽の項中
○山城上久我村 受法山本清寺【現存】 →山城の日蓮宗諸寺中乙訓郡久我村の項 中
○山城下久我村 真如山妙法寺【合併し真如山妙眞寺として現存】 →  同 上
  ○妙法寺下坊 乙訓郡下久我村 直證坊【退転と推定】       →  同 上
   直證坊 は ○妙法寺末派寺眞證庵 と同一の坊庵であろうか。 →  同 上
  ○下久我春香庵:妙法寺寺中であろう。                →  同 上
○山城下久我村 仏光山真福寺【合併し真如山妙眞寺として現存】 →  同 上
○山城下久我村 灯明山本照寺【合併し銭司妙見山本照寺として現存】 →  同 上 
○山城下久我村 栄長山福生寺【合併?し現存】              →  同 上
○山城下久我村 下久我南照寺【おそらく現存せず】            →  同 上
○山城伏見妙福寺:伏見区風呂屋町262 → 山城の日蓮宗諸寺中の山科・伏見・宇治の項 中
○山城大住瑞應山法華寺 → 山城大住法華寺
○山城加茂燈明寺 → 加茂燈明寺
○大和蓮長寺 → 大和の諸寺中にあり。
○摂津幸松寺 → 摂津の諸寺中にあり。大阪西寺町から明治31年大阪本庄浮田町に移転し、さらに戦後高槻に移転する。
○播磨明石法栄山本松寺 → 播磨の諸寺
○播磨明石成道山本立寺 → 播磨の諸寺
○播磨姫路長明山圓光寺 → 播磨の諸寺
 圓光寺末・妙法山園林寺 兵庫県篠山市追入149-1
 圓光寺末・一妙山圓融寺 兵庫県加西市北条町338
 圓光寺末・一乗山圓林寺 兵庫県加西市和泉町815
 圓光寺末・帰命山日啓寺 兵庫県神崎郡神河町上岩195
○播磨姫路光栄山本領寺 → 播磨の諸寺
○備前岡山妙應寺 → 備前岡山城下の諸寺
○備後福山長正寺 → 備後の諸寺


六条本圀寺塔頭       六条の地に於ける終竟の本圀寺
 


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