東  海  諸  国  の  塔  跡

東海諸国(伊豆・駿河・遠江・三河・尾張・飛騨・美濃・伊勢・志摩・伊賀)の塔跡

伊豆玉沢妙法華寺(経王山)

 玉澤妙法華寺

伊豆塔ノ森廃寺

 伊豆三嶋大明神中の塔ノ森廃寺の項を参照

伊豆三嶋明神三重塔

 伊豆三嶋大明神

伊豆市ケ原廃寺 (大興寺・代用伊豆国尼寺跡):三島市

祐泉寺境内に小屋掛けして保存される。心礎の大きさは1.6m×1.2mで、径91cmの柱座があり、その中央に径30cm、深さ15cmの円形の孔を穿つ。昭和7年祐泉寺西側の下田街道橋梁工事現場より発見され、町内の川島兼助により、現在位置に置かれたという。その旨を標した石碑が心礎脇にある。(写真石碑の背面)
市ヶ原廃寺は白鳳期の建立とされ、昭和28年の発掘により金堂、西塔、回廊跡の一部を検出し、この結果薬師寺式伽藍配置と推定されている。また当寺は、承和3年(836)伊豆国分尼寺焼失 、代用国分尼寺となったとされる。
「幻の塔を求めて西東」:心礎は三重円孔式、170×130×90、径88×3cmの円柱座を造り出し、径30×15cmと径13,6×9cmの孔を穿つ。相塔式の東塔。白鳳。
 伊豆市ヶ原廃寺心礎1     同       2     同       3     同       4     同       5     同     石碑
○2006/08/13追加:「柴田常恵写真資料」より
昭和7年撮影
 伊豆国分尼寺1  伊豆国分尼寺2
○2008/08/12追加:「天武・持統朝の寺院経営」より
 伊豆市ケ原廃寺心礎実測図
○2009/05/06追加:「新修国分寺の研究」 より
「三代実録」元慶8年(884)4月21日の条:国分法華寺承和3年(836)失火焼亡、其後定額寺を以って、法華寺と為す・・・
「文徳実録」斉衡2年(855)9月の条;伊豆國大興寺を以て、定額に預かる、海印寺別院と為す、・・・
とあり、伊豆国分尼寺は承和3年(836)焼失し、定額寺である大興寺が代用されたと云う。
現曹洞宗法華寺は国分尼寺の法灯を受け継いだ寺院で、法華寺から祐泉寺にかけての廃寺跡(市ケ原廃寺)が国分尼寺であるとされたが、当廃寺は出土瓦や心礎の形式から白鳳期の創建と 判断され、それ故国分尼寺ではなく大興寺跡であろうというのが現在では定説となる。
 伊豆市ケ原廃寺心礎実測図2:「三島市誌」

伊豆願成就院(史跡)

史跡:昭和45年の発掘調査で、大御堂、南新御堂、南の塔などの遺構を発見。
文治元年(1185)北条時政が建立し、その後50年の間に南の塔、北条御堂、南新御堂(義時による)、北の塔(泰時による)などが建立されたと伝えられる。
 ※時政が文治年(1189)に大御堂、承元元年(1207)に南塔、息子の義時が建保3年(1215)に南新御堂、孫の泰時が嘉禎元年(1235)に北塔を建立と記録される。
現在南の塔跡では基壇が復元整備されている。発掘された状態なのか復元基壇なのかは不明。
南の塔:承元元年(1207)時政塔婆供養。
北の塔:嘉禎2年(1236)北条泰時が父義時13回忌のため建立。
 伊豆願成就院南塔跡1   同         2   同         3   同         4   同         5

駿河岡宮光長寺:沼津市岡宮

「(文明)17乙巳、・・・・光長寺大坊宅玉フ。同多宝造立。」(「妙法寺記」及び「勝山記」)とある。(富士吉田市史 資料編 2 所収)
但しこの多宝塔の詳細は全く不明。
建治2年(1276)創建、法華宗本門流大本山。南之坊、西之坊、辻之坊、東之坊、山本坊からなる。

駿河日吉廃寺:沼津市

○「沼津市HP(沼津の史跡)」 より要約転載:
 沼津駅東北約1qの東海道本線の線路沿いに山神社と称する少祀があり、この付近が寺院址中心とされる。
神社の境内には17個の礎石が移され 、礎石は完存する。
以前は適当な置き方だったといわれるが、現在は史跡整備に伴い、原位置ではないが、復元配置されている。
 大正6年東海道熱海線敷設工事に先立ち、柴田常恵・三島通良の両氏により簡単な調査がなされ、その結果、奈良期の寺院跡であるとされた。その際、塔礎石17個のうち、北側の10個が南方の山神社境内地に移されたという。寺院は白鳳期(7世紀後半)から平安初期(9世紀)にかけて存続していたとされ、寺域は東西1町南北2町とされる。
 昭和30年代の数次の発掘調査により、地表の塔の礎石の下から更に古い形式の瓦が発見され、その他柱穴・基壇等も発見された。
以上により(調査にあたった軽部慈恩氏の推論 )、伽藍配置については当初は飛鳥寺式であったが、奈良期に焼失し、まもなく法起寺式新金堂が再建されたが、これも焼失し、奈良期末から平安初期かけて、規模を縮小した法起寺式伽藍となっていったのではないかと推定されている。
○「幻の塔を求めて西東」:
心礎は出枘式、165×150cm、27.5×14cmの出枘を持つ、創建時のものではない、白鳳.。
心礎以外の礎石は2重の柱座を造出す手の込んだ礎石を用いる。
 駿河日吉廃寺塔跡1    駿河日吉廃寺塔跡2    駿河日吉廃寺塔跡3
 駿河日吉廃寺心礎1    駿河日吉廃寺心礎2    駿河日吉廃寺礎石
 日吉廃寺創建伽藍図    日吉廃寺再建伽藍図    日吉廃寺礎石配置図:伽藍図・礎石配置図は現地案内板より
2008/08/30追加:
○「柴田常恵写真資料」:大正12年
 日吉塔跡1    日吉塔跡2    日吉塔跡3    日吉塔跡4    日吉塔跡5
 日吉塔跡6    日吉塔跡7    日吉塔跡8    日吉塔跡9    日吉塔跡10
2022/12/29追加:
○「柴田常恵写真資料」 より
 日吉塔阯全景;静岡、駿東郡大岡村日吉塔阯全景、遠景
 日吉塔阯近景:静岡、駿河日吉塔阯、近景
 日吉塔阯礎石:静岡、駿河日吉塔阯、礎石

駿河重須本門寺五重塔跡

 重須(北山)本門寺

駿河富士山本宮:富士宮市

 甲斐北口本宮・駿河富士山本宮・駿河富士新宮

駿河清見寺:【駿河利生塔】

 奈良期、この地に清見関が設置され、その傍らに仏堂が祀られ、この仏堂が後の清見寺の草創と云う。
鎌倉期、禪僧関聖上人 (無伝聖禅禅師) により再興される。
室町期初頭、足利尊氏、当寺に利生塔を建立する。その後の利生塔の興亡は情報がなく良く分からない。
江戸中期には五重塔再興が企図されたという。
利生塔跡が現存するも未見。(但し遺物は何も現存しないと思われる。)
東海道名所記:
 「東海道名所記」の清見寺:万治3年(1660)刊行
塔婆が描かれるが、この当時は何がしの塔が存在していたのであろうか。
 検討史料として以下が知られる。(要検討)
「東海道分間延絵図」の興津:元禄3年(1690)、「富士三保清見寺図」伝雪舟筆、「朝鮮通信使使行録」、「琉球使節」関係史料など
「東海道名所図会」:寛政9年(1797)の絵図には「塔」は描かれていない。しかし清見寺十景の一つとして利生塔は詠われている。
2008/01/04追加:甲斐身延山 より
駿河奥津附近の塔婆:
「身延山図経」寛保元(1741)より
 身延山図経奥津附近:三重塔と推定される塔婆が描かれる。
この塔婆については、全く不明であるが、以下とも推測される。(乞う、ご教示)
興津清見寺の利生塔の興亡は全く不明で、見当違いの恐れはあるが、以下と推測。
 富士川を渡り、岩淵に至る。富士川西岸から分岐する身延道が松野(次の図に描画されている)の東を通り北方へ向かう。
 さらに、東海道が蒲原から奥津に入り、奥津から別の見延道が分岐し完原(次の図に描画されている)を経由して北方へ向かう。
 (※完原とは駿河国庵原郡宍原と解釈される。)
 その奥津背後(北か西方向)に三重塔がある。
 奥津からの見延道の分岐は完原(次の図に描画されている)を経由しているため、この分岐は奥津清見寺の西南にあると考えられる。
  ※一般的には奥津から分岐する身延道は奥津中町(清見寺の東北・ここには題目石が残存)から分岐するようであるが、
  完原(駿河国庵原郡宍原)経由ということであれば、庵原川附近(清見寺の西南)から分岐すると思われる。
 以上の位置関係から、この三重塔は、奥津清見寺塔婆と推定される。(と云うより、奥津に塔婆のある寺院は寡聞にして知らず。)
2010/09/30追加:
拙ページ「甲斐北口本宮・駿河富士山本宮・駿河富士新宮」からピックアップする。
 富士参詣曼荼羅図:重文、富士山本宮蔵、狩野元信(印)、紙本着色、180×117cm、狩野元信は文明8年(1476)? - 永禄2年(1559)
  (「富士山」富士山世界文化遺産登録推進静岡・山梨両県合同会議・その他1、小学館2009 より)
最下段は三保の松原・清見寺、その上の段は富士山本宮・湧玉池、順次上に村山興法寺(村山三坊)、室堂、行者堂が描かれる。
 ※清見寺には三重塔が描かれる。従って中世末期には三重塔があった可能性が高い。
2015/03/05追加:
「日本の美術72 古絵図」難波田徹編、至文堂、昭和47年 より
上掲載の富士参詣曼荼羅図より、清見寺部分部
 富士参詣曼荼羅図・清見寺部分図
2010/10/11追加:「社寺参詣曼荼羅」(目録)大阪市立博物館、1987 より
 東海道往来図屏風:(部分)、6曲1雙、166×383cm、奈良県立美術館蔵
遠景に富士山を描く、左端中央は清見寺で三重塔が描かれる。
2020/03/18追加:
○「東海道分間絵図」遠近道印作、菱河吉兵衛<菱川師宣>画、元禄3年(1690) より
 東海道分間絵図・清見寺部分図
元禄3年のこの繪圖の清見寺には塔婆は描かれていない。
なお、向かって左下の松原は三保松原で、清見寺に右に「不動」とある。
2020/03/06撮影:
利生塔の興亡は明らかにできず。
現在は裏山に利生塔跡の石碑と平坦地を残すのみである。
 清見寺利生塔跡1     清見寺利生塔跡2     清見寺利生塔跡3     清見寺利生塔跡4
清見寺現況
 清見寺総門     清見寺伽藍     清見寺山門:慶安4年(1651)建立     清見寺仏殿:天保13年(1842)再建
 清見寺大玄関:元和2年(1616)徳川家康3女正清院の寄進     清見寺大方丈:文政8年(1825)改築
 清見寺伽藍2     清見寺鐘楼     清見寺伽藍3     五百羅漢像1     五百羅漢像2     五百羅漢像3

駿河尾羽廃寺:静岡市清水区尾羽寺前

かって石造露盤が出土し、静岡市埋蔵文化財センターに展示される。しかしその出土の経緯、出土の年代などは情報がなく不明。
石造露盤とは別に、
2019/12月の発掘調査で、塔跡想定地とは別の地点で、「遺棄」された状態で心礎が発見される。
これで、尾羽廃寺には石造露盤と心礎が揃い、両者とも、現在、静岡市埋蔵文化財センターにおいて展示される。
  →石造露盤については駿河尾羽廃寺石造露盤を参照
2012/04/28追加:2020/01/29追加・修正
○「高部山遺跡・尾羽廃寺発掘調査報告書」清水市教育委員会、1991 より
 この報告書の冒頭「1.調査に至る経緯」の項で、1991年までの調査のあらましが述べられている。
本廃寺の存在は江戸末期にその存在が知られている。
弘化3年(1846)松本道雄の「駿河国新風土記」では尾羽村寺崎から古瓦が出土する故に国分寺の可能性を考えている。
文久元年(1861)中村高平の「駿河志料」では尾羽廃寺は古寺の跡で、寺号伝説が伝わっていないことを述べている。
明治以降では、明治45年頃の「庵原郡庵原郡誌」や昭和6年の「静岡縣史 第2巻」で記載される。
戦後尾羽廃寺の発掘調査は今回までに3回行われる。
1回目は昭和25年であり、茶畑から数個の礎石が発見され、発掘調査が行われる。
この調査で12個の礎石が発見され、礎石の位置から三間四方の建物が発見される。この遺構は「庵原村の遺跡」として<「社会教育」庵原村教育委員会、昭和27年 所収される。>
 ※この調査については、最近の発掘調査区を示した図には表示されず、その位置は分からない。
 ※併せて、「社会教育」庵原村教育委員会、昭和27年 は未見。
2回目は昭和27年で、1回目の西200mの地点であり、石組と数枚の瓦が出土する。これは「ふうど」第4号、清水東高校歴史郷土部、昭和27に記載されている。
3回目は昭和46年で、バイパス建設に基ずく発掘が、4カ所で実施される。第1地点では礎石1個が発見され、第3地点で掘立柱建物が発掘され、第4地点では、間口3間、奥行2間のの掘立柱建物跡が発掘される。
 ※本論考には石製露盤への言及はない。
○「尾羽廃寺跡(金堂跡)確認調査報告書」
 <「清水市内遺跡群発掘調査報告書(平成13年度)」2002 所収> に掲載される図より転載。(奈文研のWebサイト より)
  尾羽廃寺跡調査区配置図
駿河尾羽廃寺心礎
○2020/01/06静岡市が尾羽廃寺で心礎を発見と報道発表
概要(新聞報道)は次の通り。
 市は静岡市清水区にある県内最古級の古代寺院跡「尾羽廃寺跡」の発掘調査で、「心礎」を発見したと発表する。
発見された心礎は約90cm四方で厚さ56cmほど、推定重量は950kg。中央部分には仏舎利を入れるための直径36cm、深さ10cmの穴がある。
市は2019年10月末に発掘調査を開始し、心礎は同年12月、同寺跡の西端で捨てられたような状態で見つかる。塔が立っていたと推定される場所から数十m離れた所で発見されたため、市の担当者は「塔の位置について議論が起きそうだ」と語る。
 尾羽廃寺心礎0:静岡新聞 より転載
○2020年1月11日現地説明会
 ◇「尾羽廃寺跡発掘調査現地説明会資料」 より
尾羽廃寺は白鳳期に創建された寺院跡である。
北側から延びる低い丘陵の南西の傾斜地から小河川の尾羽川までの間を伽藍地し、金堂や講堂の堂宇のほか中門跡と推定される版築のほか石造露盤が今までに発見されている。そしてその伽藍配置は西に金堂、東に塔がある伽藍配置と推定されている。
 2019年の発掘調査:
市道の拡幅整備にともない、その拡幅部分の発掘調査を2019年から実施する。
現在の地表の下には中世〜現近代の整地土が続き、その整地土の中から中・近代の土器・磁器とともに尾羽廃寺で使われた多くの瓦が出土する。
さらにその下の土層を調査したところ、調査区の南端から2石、そのやや北から1石、礎石と思われる大石を発見する。
特に南端から発見された大石は心礎と考えられる。
 発掘調査区図:図中で「今回の発掘調査区」と示されているのが、2019年度調査区である。
 発掘調査区概要     発見された礎石と心礎
 ※入手した現説会の資料には「資料の写真・図の無断使用・転載を禁じます。」と明示されているが、なぜ単なる行政機構に使用を禁止されるのかその理由が分からないので、無断使用・転載を行うものである。
心礎の大きさは85cm×90cm×56cmで、表面中央に径36cm深さ10cmの孔を穿つ。
 ※この孔が枘孔なのか舎利孔なのかは分からないが、報道発表のように舎利孔とする根拠はないと思われる。心礎の形態や孔の大きさから舎利孔というより、枘孔とする方が妥当であろう。
 心礎は山茶碗と呼ばれる12世紀頃の土器を含む土層から、やや斜めに傾いた状態で出土する。
おそらく12世紀以前に塔は退転し、ここに捨てられたものと推定される。
 推定される尾羽廃寺の伽藍地は、周囲より小高く、比較的安定した地であるが、丘陵が北からせり出しているため、伽藍を立てるには平坦地が少ないという特徴がある。その中で金堂の北に講堂、金堂の東に塔という伽藍を想定しているが、塔推定地は石製露盤が発見された場所で、発掘調査によって塔の遺構が確認された場所ではない。
今般の心礎発掘のよって、塔推定地の見直しや尾羽廃寺の変遷などの再検討が必要とも思われる。
2020/01/11「X」氏撮影画像
 尾羽廃寺心礎1     尾羽廃寺心礎2     尾羽廃寺心礎3
2020/03/06撮影:
 石質は石造露盤と同じ砂岩であろう。
 この孔の周囲には、確かに、この孔を縁取る僅かな高まり(椽)が見られるようである。
しかし、通常柱座を設ける場合、上面に凸面を造り出しその凸面中央に枘孔を穿つか、または上面を凹部に穿ち、さらにその凹面の中央に枘孔もしくは舎利孔を穿つのが一般的と思われるが、本心礎の場合、明示的に柱座を設けたかどうかは不明である。確かに中心孔の周りは僅かに窪み(「柱当て」)があると思われるが、しかし、それが果たして「柱当て」のような機能を持たせる意図で僅かに彫り窪められたのかどうかは疑問である。
 尾羽廃寺心礎11     尾羽廃寺心礎12     尾羽廃寺心礎13     尾羽廃寺心礎14     尾羽廃寺心礎15
 尾羽廃寺心礎16     尾羽廃寺心礎17     尾羽廃寺心礎18     尾羽廃寺心礎19     尾羽廃寺心礎20
 尾羽廃寺心礎21     尾羽廃寺心礎22
 出土複弁蓮華紋軒丸瓦1     出土複弁蓮華紋軒丸瓦2     複弁蓮華紋軒丸瓦・四重弧文軒平瓦
 以下、展示パネルを撮影
 尾羽廃寺イメージ図     尾羽廃寺金堂基壇:発掘     民家に残る礎石

駿河長谷寺心礎(伝駿河国分寺心礎):静岡市沓谷

2004/08/01撮影:
 静岡市指定文化財(考古資料)では伝駿河国分寺の塔心礎とする。
あるいは長谷寺心礎とも称される。長谷とは現在駿河国分寺の寺号を名乗る寺院のある一帯の古くからの地名と思われる。
現在この心礎は沓谷の
菩提樹院にある。
心礎は粗面岩(安山岩)製で、大きさは約2.02×1.42×約1mで、径約1m×20cmの柱座を造り、その柱座に現状47/35cmの楕円形の穴を彫る。本来、穴は鑿の跡から径34cmの円穴と推定される。
石に陰刻があり、それによると「明和8年(1771)駿府城代武田信村により駿府城三之丸駿府城代屋敷内の社に手水鉢として奉納された」という。その後、昭和5年駿府城内にあった日本赤十字社静岡支部の庭にあるのが発見され、昭和28年駿河国分尼寺の後身との伝承のある菩提樹院に寄進されたと云う。<現地説明板より>
菩提樹院(正覚山):もとは寺町4丁目(現常盤公園)にあったが戦後まもなくの区画整理で現地に移転。開山は多田(源氏)に関係するとも、養老5年定額寺に列するとも、古えは安倍川北辺にあったともいう。 なお由比正雪の首塚が当寺にあると云う。
 伝駿河国分寺心礎1     伝駿河国分寺心礎2     伝駿河国分寺心礎3     伝駿河国分寺心礎4
 伝駿河国分寺心礎5・・・現地説明板より(実測図)
2020/03/07撮影:
○「現地説明板」 より:
菩提樹院
 もと寺町4丁目にあったが、昭和21年区画整理により現在地に移転する。
往古は養老5年(721)元正天皇の勅命で泰澄が北川辺に建立した法相宗の定額寺四天王寺の末寺であった。
神亀3年(726)聖武天皇、諸国に国分寺・国分尼寺を置く。
応和2年(791)頃、多田摂津守源満仲、東門院の御願により、再建する。その後盛衰を繰り返す。
天正年中、徳川家康、駿府城を築城、寺町に移す。
寛永年中、臨済宗に改宗。
安政2年堂宇崩壊、その後静岡大火、静岡大空襲にて焼失再建する。
 ※近世の菩提樹院の位置は下に掲載の「古図による城代屋敷と城下寺町」の項を参照。
なお由比正雪の首塚がある。
○「現地説明板」 より
心礎
 長径2.02m、短径1.42m、高さ1.0m、石種は粗面岩(火山岩の一種)。
上面には径1m前後、高さ約20cmの柱座状の高まりがある。
そのほぼ中央に長径46.4cm、短径35cmの楕円形の孔が彫られている。しかし、元は直径34cmの円形であったことが、孔を穿った鑿の痕跡から分かる。
これは本来は心礎であったもので、中央の孔は舎利孔であったと考えられる。この舎利孔は甲斐や伊豆の国分寺のものとほぼ同じ大きさである。
 ※中央の孔というのが径34cmの円形の孔を意味するなら、この孔は舎利孔というより枘孔と考えられる。
石の表面にはいくつかの銘文が刻される。
それによれば、この手水石は明和8年(1771)武田信村(越前守、駿府城三ノ丸城代)によって城代屋敷の社に奉納されたことが分かる。
 ※城代屋敷の社に奉納されたとこが分かるとあるが、その根拠は分からない。
昭和5年、当時駿府城内にあった日本赤十字社静岡支部の庭(現在の県総合福祉会館)のあるのが発見され、昭和28年駿河国分尼寺との伝承を持つ菩提樹院へ寄進される。
 ※県総合福祉会館の位置は下に掲載の「古図による城代屋敷と城下寺町」の項を参照。
 ※武田信村は旗本であり、武田信玄の弟信実の系譜に連なる。明和5年(1768)から安永7年(1778)まで駿府城代であった。
享保7年(1722)〜天明元年(1781)。享保21年家督を継ぎ、明和2年大番頭、明和5年(1768)駿府城代となる。
 伝駿河国分寺心礎11     伝駿河国分寺心礎12     伝駿河国分寺心礎13     伝駿河国分寺心礎14
 伝駿河国分寺心礎15     伝駿河国分寺心礎16:刻銘は殆ど読み取れない。
 伝駿河国分寺心礎17:刻銘(実測図)     伝駿河国分寺心礎18:断面図(実測図)
 由比正雪首塚
○「塔の中心礎石の研究」石田茂作、昭和7年(「考古學雑誌」22-2・3 所収)
 駿河国分寺(駿河長谷寺心礎を想定と思われる)心礎は礎石表面に唯圓形の刳込を造った心礎で、刳込の径が小さい故に枘入れ式として分類される。
但し、刳込の径は17.5寸(53cm)、深さ9.5寸(29cm)と記載されているので、別の心礎を云っているのかも知れない。(計測は「縣報告書」とある。)

古図による城代屋敷と城下寺町
城代屋敷は駿府城三ノ丸にあり、駿府城の南東の位置を占めていた。
 ※しかし、明和8年(1771)に城代屋敷の社に奉納されたというが、その社はいずれの繪圖にも描かれてはいない。如何なる社に奉納されたのであろうか。
城下寺町は駿府城南方にあった。しかし、戦後、感應寺・宝台院を除き、全寺院は沓谷の寺院街に遷る。
菩提樹院も寺町の中にその名が見える。
 以下、何れも静岡県立中央図書館蔵(駿府城下町絵図のみ富士市立図書館蔵)
「駿府名勝一覧之図」
 駿府名勝一覧之図・全図:江戸・大和屋喜兵衛、江戸後期:この全図は久能山東照宮のページに掲載した図である。
 駿府名勝一覧之図(寺町部分)
「静岡古図」
 静岡古図(駿府城西南部分):明治31年(1898)に田形安兵衛が改め写したものを出版したものと思われる。原図の年紀は不明。
 静岡古図(寺町部分)
「駿府城下町絵図」
 駿府城下町絵図・全図:年代不詳、年紀は不明。
 駿府城下町絵図(城代屋敷・寺町部分):向かって右端中央に御城代とあり、中央は寺町である。なお、この繪圖は左に90度回転させたものである。
「駿府御城繪圖」
 駿府御城繪圖・全図:出版は明治21年であるが、「この図は、安政七年三月、駿府城在番天野大助、藤原政好がみずから画き、坪数間尺等は、その父天野大膳、藤原政譽が、御破損奉行在勤の時調べておいたものである。」とある。
 駿府御城繪圖(城代屋敷部分)
「駿河國御城図」
 駿河國御城圖・全図:出版は明治21年であるが、「安政年間駿府在番天野大助、藤原政好が写し持っていたものの、写しである。『此図者安政年間駿府城在番天野大助 藤原政好ヵ所写蔵ノモノナリ 明治二十一年一月写之』とある。」とある。
 駿河國御城圖(城代屋敷部分)
参考:
 駿府城三の丸跡発掘調査現場:本図は「駿河駿府城三の丸跡出土石(駿府城三ノ丸出土心礎)」(下に掲載)の項に掲載した図である。
本図中の三ノ丸東側に「静岡県総合社会福祉会館」(県総合福祉会館)が図示されるが、ここが長谷寺心礎が昭和5年に再発見された場所という「日本赤十字社静岡支部」の場所である。

駿河片山廃寺

近年(平成20年)伽藍地の東南で堀込地業が出土し、これは塔跡の可能性が高いと判断される。
もしこの遺構が塔跡であるならば、片山廃寺が駿河国分寺跡であることの難点であった「塔跡が発見されていない」という点が解消されたこととなり、駿河片山廃寺が創建時の駿河国分寺である見方が急速に高まったと云える。
 → 駿河片山廃寺は駿河国分寺>駿河片山廃寺 を参照。

駿河駿府城三の丸跡出土石(駿府城三ノ丸出土心礎)
    ・・・・・「心礎」と推定される、「手水石」という見解もあるが、元来は「心礎」であろう。

2019/10/09追加:
〇過日(3ヶ月ほど前)某氏より次の連絡を頂く。
 駿河府中城(駿府城)の三の丸発掘調査現地説明会に行った方のツイッターで年代不明の手水鉢が地中に埋められていたという。
そのツイッターの発信者曰く芯礎にしては窪みが深すぎた。
〇7月の駿府城三の丸発掘調査現地説明会のWeb情報を探ると次の2件がある。
〇「駿府城三ノ丸跡(歴史文化施設予定地)発掘調査現場説明会(2019年7月20日)」 より(関連個所の転載)
 駿府城三の丸跡発掘調査説明書     駿府城三の丸跡発掘調査現場     駿府城三の丸跡発掘調査区
江戸時代の城代屋敷跡:
 今回発見された遺構は、根固め石で、礎石は残存しない。
根石は幅1間または半間の等間隔で並ぶが、ごくわずかしか残っていないため、屋敷復元は難しいという。
城代屋敷跡の根石が見つかった場所の東奥の方には、大きな石が埋められているのも見つかる。
一瞬、柱穴がある礎石かなと思いますが、手水鉢という説明であった。
 駿府城三の丸跡手水石1     駿府城三の丸跡手水石2
〇Twitter「寺井 半兵衛《お城探検記》」 より(転載)
 駿府城三の丸跡手水石3
駿府城三の丸発掘調査現地説明会C《その他》
手水鉢は年代不明。深さは25〜26cmで地中に埋められていた。
◆私見(s_minaga)
 三の丸発掘現場は駿府城城代屋敷跡であり、この現場から手水石が発掘される。
この手水石は、現地説明会では手水というも、その形状から心礎である可能性は否定できないであろう。
 勿論、未見であり、大きさの情報もなく、情報は上記の3点の小さい写真だけであるので、何とも判断のしようがない。
しかし、形状を見る限り、手水石である前に心礎であった可能性があると思われる。
 心礎が個人邸や神社などに運ばれ手水石に転用される例は、拙サイトの塔跡のページにある通り、多く見られる。
奇しくも、直上の項:「駿河長谷寺心礎(伝駿河国分寺心礎):静岡市沓谷」に掲載した心礎は「明和8年(1771)駿府城代武田信村により駿府城三之丸駿府城代屋敷内の社に手水鉢として奉納された」(心礎の印刻)という。
2020/03/06撮影:
◆駿府城三の丸「出土石」の見学の経緯
 上記の「手水」と判断される出土石が心礎である可能性は全く無いのかどうか確かめるべく、静岡市教委に、現地説明会の終了後であるが、見学を希望する。
 (現地説明会は2019/07/20(土)に実施済であるが、見学希望の申出は2020年3月初頭であった。)
現場はすでに発掘調査を終えていたため、市教委は難色を示す。しかし、出土品は公共財であること及び市教委発表の「手水石」は心礎の可能性があり是非確認させて欲しいとの要望を伝える。
では特別に許可しようということで、市教委に「特別見学・閲覧許可願」を出し、「特別見学・閲覧許可書」の発行を受け、2020/03/06(金)に見学の機会を得る。特別許可として4条件の順守を求められる。
 なぜ、3月6日(金)という日程が設定されたかといえば、翌週3月9日(月)は「手水」とされる「出土石」などが現地から搬出される予定であったからで、3月6日(金)は「出土石」が処分される来週の月曜日からみて、最後の日であったがらである。(土日は役所は休み)
 ※市教委では「手水」という見解であるが、「心礎」である可能性が捨てきれず、「心礎」か否かの確認のため、「搬出」前に実見させてほしいということで、強引に見学を希望したということであった。
 ともあれ、当日、現地にて「出土石」を実見。
「出土石」は横倒しに置かれ、かつ表面には他の大石が合わさるように置かれ、見学には悪条件であったが、表面や円孔は曲がりなりにも観察は可能であった。
◆「出土石」の実見
 実見の結果、まず「心礎」であろうと確信をする。
大きさは110×60cm、高さ65cm(いずれも測りづらく概数である。)
短径の60cmは4割ほどは割られているので、少なくとも100cmはあったと思われる。
上面は削平されていて、柱座などの造作はないと思われる。
中央(現状は端)の孔はおよそ25cm×深さ20cmであるが、手探りで計測のためこれも概数である。
手探で観察した感じでは孔はほぼ正円、円筒形の孔と思われる。枘孔と推定される。
石質は礫岩(堆積岩)である。砂岩とも思われるが明らかに石中に礫を含む。
◆静岡市教委の見解
一方、静岡市教委の見解は次の通りである。
大きさは約100×70cm×○○cm、径28cm×深さ20cmの円孔
上面は削平されている。
心礎でない根拠は上面に心柱の当たった形跡がない。(尾羽廃寺の廃棄心礎は上面に心柱の当たった形跡がくっきりと残る。)
 ※主張することは意味が不明な部分もあるが、おそらく尾羽廃寺の心礎は柱座があり、今回の出土石には柱座がないということであろう。
廃棄された場所の土砂は近代のものであった。
 ※つまり、古代の地層から出土していないということであろうが、しかし、礎石は移動させられるのである。
なお、「手水」石であるという見解は外部の専門家の見解を踏まえたものであるとのことであった。
◆雑感
 今般の「出土石」の性格について、手水石であるのか心礎であるのか、あるいは何か(鳥居など)の台石であるのかを確定するのは現段階では難しいだろう。
形状や大きさなどから判断すれば、心礎である可能性は高いと思われるも、塔跡の中心地点から出土したとか、何かの伝承があるなどのことがない限り、心礎と断定することは難しいだろう。
尤も、心礎が寺社・庭園などで手水石に転用される例は数多あるので、今般も心礎がそのままつまり円孔を彫り広げるようなことをせずに手水石に転用されたことは十分有り得ることと思われる。
 行政というのは、江戸期や大日本帝国の時代と同じく、お上である意識が抜けないようである。
パブリックであるはずの「出土石」の見学に際し、「許可願」を出し、「許可書」を発行するという発想は、例えば大日本帝国のお上が臣民を統治するという構図と一歩も変わらないのではないかと思う。
◆「出土石」の公開
「出土石」は3月末あるいは4月初めに「静岡市埋蔵文化財センター」に搬入される。
4月15日「静岡市埋蔵文化財センター」の庭園に設置され、一般公開される。
◆現地での写真
但し、出土した状態ではなく、取り出され発掘現場の隅に並べ置かれた「出土石」の写真である。
駿府城三ノ丸出土推定心礎(以下「駿府城出土推定心礎」)
 駿府城出土推定心礎1     駿府城出土推定心礎2     駿府城出土推定心礎3
 駿府城出土推定心礎4     駿府城出土推定心礎5     駿府城出土推定心礎6
 三ノ丸発掘現場:手前が発掘現場から取り出され、並べ置かれた「出土石」で、大部は廃棄とする予定という。
2020/05/21撮影:
○「静岡市埋蔵文化財センター」にて
 「出土石」は予定通り、「静岡市埋蔵文化財センター」に搬入されるも、据付の時、「出土石」の天地が逆になる事故が発生する。
後日、礎石の天地は正常に戻されるも、新型コロナウイルスに関する外出を避ける要請がなされ、出土石の実見が遅れる。
○出土石の実測値
残存する大きさは114cm×76cm×見える高さは約62cm
表面は削平されるが、そこに径24.5cn×深さ14cmの円孔を穿つ。
 ※出土石は側面及び底面が割られ、長径短径ともに110cmほどの石であったと思われる。
石質は礫岩(堆積岩)であり、かなり脆弱な石質を思われる。
 外観を観察すると、かなり正確な円筒形の円孔が穿たれる。この孔は枘孔であろう。これは手水石の穿ち方では有り得ない。心礎が手水鉢に転用されたとしても、円孔は何の加工もされず、転用されたものと思われる。
大きさは小型の部類に属するものである。
表面は平に削平される。一部削平面は剥落するも、削平面は径75cm内外の心柱を据えるには十分な広さであると思われる。

駿府城出土推定心礎11
駿府城出土推定心礎12
駿府城出土推定心礎13
駿府城出土推定心礎14
駿府城出土推定心礎15
駿府城出土推定心礎16
駿府城出土推定心礎17
駿府城出土推定心礎18:左図拡大図
駿府城出土推定心礎19
駿府城出土推定心礎20
駿府城出土推定心礎21
駿府城出土推定心礎22
駿府城出土推定心礎23
駿府城出土推定心礎24
駿府城出土推定心礎25
駿府城出土推定心礎26

 ここは駿府であり、駿河の府中であった。
この地に、古代には国分寺などを初め、幾つかの古代寺院が建立されたことは十分考えられる。
この地に、今は発見されてはいない古代寺院があり、その古代寺院の心礎が、近世初頭駿府城の普請の時、三ノ丸に手水石として転用されたことは大いに有り得ることである。現に江戸中期ではあるが、伝国分寺心礎が三の丸に手水として転用されている。
 つい最近では、少し位置は東になるが、尾羽廃寺の心礎(「静岡市埋蔵文化財センター」に展示)と推定される心礎が廃棄された状態で発見される。尾羽廃寺から発掘された石は「心礎」と認定し、駿府城三の丸から出土した石は「手水石」と認定し、「心礎」と認定しないのは、妥当な判断とは思えない。
 駿府城北すぐに富士新宮(現在は静岡浅間神社というらしい)がある。
近世初頭には富士新宮に三重塔があったと思われるが、この塔の創建や退転がはっきりしないので、何とも言えないが、もしこの新宮三重塔が古代の創建に関わるものであるならば、今般出土した推定心礎は新宮の三重塔心礎である可能性は低いが、それも否定できないであろう。

久能山東照宮五重塔

 久能山五重塔

駿河富士新宮(現在は静岡浅間神社と称する)

 甲斐北口本宮・駿河富士山本宮・駿河富士新宮、 富士新宮

駿河建穂寺跡静岡市葵区建穂

2009/06/13追加:
○「静岡県の古代寺院・官衙遺跡」静岡県教育委員会、2003 より
昭和3年「静岡県史蹟名勝天然記念物調査報告書第4集」には「観音堂」跡中心に心礎の存在が記録されるも、現在その心礎は確認できないと云う。
 駿河建穂寺報告心礎:法量が必ずしも明確でないが、大きさは1尺2寸(36cm)の方形で高さは推測で4寸(12cm)位、径9寸5分(29cm)の円形造出を造り、その中央に径2寸5分(7.5cm)・深さ2分5厘(7.5mm)の円孔を穿つと読める。
この推測に近い法量であれば、明らかに「塔心礎」ではありえないだろう。何かの台石などの類と考えるのが妥当であろう。
しかし、明らかに「心礎」とは思えないものを「心礎」と報告するからには何らかの根拠があったものと思われるもそれは不明。
 建穂寺跡範囲図:山腹 (山頂付近)に平坦地と観音堂礎石建物、山麓に馬鳴明神とその参道脇に坊舎跡区画が残る。
          但し坊舎跡は現状住宅地となる。
 瑞祥山建穂寺の図:「駿国雑誌」より 。後方山中に観音堂、山麓に馬鳴明神・本坊?と参道脇に坊舎が描かれる。坊舎名も記される。
          上掲の範囲図とほぼ合致し、図が正確と思われる。
 観音堂庭地:「調査報告書第4集」より 。現状池は確認できないと云う。
 観音堂復元平面図:「調査報告書第4集」より 。7間×6間で復原され、中心に「心礎」が置かれ、心礎実測図(心柱)が掲載されている。
しかし、現状では心礎は確認できず、さらに観音堂も現存する原位置を保つ礎石からは5間×4間の建物としか復原できず、真相は発掘調査を待つしなないと云う。
○建穂寺は白鳳年中法相宗法興寺道昭の開基、養老年中(717〜723)行基中興と伝える。
あるいは弘法大師創建とも伝える。中世平安後期と鎌倉期には最盛期を迎えたとされる。
近世には徳川幕府の庇護を受ける。「和漢三才図会 巻第六十九」には真言、寺領400石とある。
「駿府巡見帳」:元禄16年(1703)幕臣三嶋静左衛門:では仁王門内に18の塔頭(21坊とも)が参道両脇にあるとの記述がある。
 ※21坊:慶南院(浅間社社僧を兼ねると云う)・青蓮坊・花應院・法幢院・慈前坊・心福院・圓道院・荘厳院・中性院・大正院・満蔵院・圓祐院・青花院・歓喜坊・義道坊・蓮花院・顯法院・義運坊・皆成坊・南滝院・唯心院とある。
明治の神仏分離で
馬鳴(まなり)大明神あるいは馬鳴(めみょう)大菩薩は建穂神社とされ、建穂寺は廃寺、明治3年山腹の観音堂・21坊は悉く焼失と云う。(焼失とは神仏分離の破壊なのか単なる災害なのかは判然とはしない。)また「建穂神社」とは「延喜式神名帳」にその名があると云うも所詮復古神道による捏造の類であろう。因みに祭神は保食神、天照皇大御神 と云うが、復古神道の押し付けであろう。(馬鳴明神あるいは十二所権現などが本来の祭神と思われる。)
 ※承元四年(1210)・・・駿河國建福(穂)寺鎭守馬鳴大明神・・・とある。(「吾妻鏡 巻19」)
現在50〜60体余の仏像と徳川将軍の位牌が後に村人によって再建された観音堂に残ると云う。
 ※仏像は大日如来像、銅製阿弥陀如来像(鎌倉期)、不動明王像(藤原期)、二十八部衆、仁王像などと云う。
2010/12/12追加:
○「国幣小社神部・浅間・大歳御祖神社誌」神部神社浅間神社大歳御祖神社社務所、昭和12年 より
駿河浅間社社僧として建穂寺と久能寺が存立する。
建穂寺は僧道昭の開基、始め天台宗で後に新義真言宗となる。夙に建穂神社の別当で、近世には荘厳坊・慶南院以下は駿河浅間社の供僧であった。

遠江竹林寺廃寺(竹林寺遺跡):島田市南原 (大井川西)

発掘調査により、5×4間の金堂、金堂北の講堂、金堂東南に塔跡を確認と云う。奈良期の創建で、平安中期まで存続とされる。
2009/06/13追加;
○「静岡県の古代寺院・官衙遺跡」静岡県教育委員会、2003 より
 1975〜79年に発掘調査。金堂跡、講堂跡、塔跡など発掘される。
遺構建物主軸方位の違いがあり、伽藍は創建期と再建期の2期に分類される。
 第1期:8世紀前半-9世紀初頭:塔跡がある。一辺約6.8m、中央間9尺、両脇間7尺と推定される。基壇上面は削平が著しく礎石は勿論地覆石・雨落溝なども検出されなかった。但し基壇中央部には心礎抜取穴と思われる不整形な土坑がある。
 第2期:9世紀前半-10世紀後半:再建と思われる金堂跡(規模15.5×13.5m、礎石の据付穴から5×4間の建築と推定)、講堂跡(削平が著しく全容不明)などを発掘。塔は再建されなかったと推定される。遺物として布目瓦、陶器類、墨書土器、硯、瓦塔などが出土と云う。
 遠江竹林寺廃寺発掘図:部分図
  ※現状遺構は埋め戻され、地上には何も見ることはできないと思われる。
2014/10/20追加:
○「静岡県史蹟名勝天然紀念物調査報告. 第1集」静岡県、大正14年 より
 榛原郡初倉村舟木南原字中原に多数の布目瓦の散布地があり土人伝えて竹林寺址と称す。大正12年現地を踏査しその現形について図せり。
 廃竹林寺址
金堂址と塔址とは一段高くして明瞭なれど講堂址は僅かにその迹を彷彿とするに過ぎず。礎石は全く他に移し堂塔の平面を推し難し・・・
2020/03/06撮影:
○静岡市埋蔵文化財センター展示を撮影。
 竹林寺廃寺跡発掘平面図

遠江岩室廃寺心礎

 遠江岩室廃寺

推定遠江国分寺東塔心礎

遠江国分寺から運んだと伝える東塔心礎の記録があるが、亡失。但し、国分寺に東塔の遺構が出土した訳ではないので、真偽の程は不明。
 遠江国分寺跡の【推定遠江国分寺東塔心礎 】の項

遠江秋葉山多宝塔

 遠江秋葉山多宝塔跡

遠江木船廃寺:浜松市東区和田町字木舟

現地に1個の礎石が残り、その形状からこの礎石は塔心礎の可能性を秘める。
しかし、木船廃寺の伽藍配置は全く不明であり、従って塔の存在自体が不明である。さらに塔に関する遺物などの存在も知られず、この礎石が心礎はどうかは分からない。
◆2011/12/23追加:
○「木船廃寺跡」2010年現地説明会資料、浜松市 より
昭和29年の区画整理で白鳳期に属すると推定される古瓦が大量に出土し、寺院跡と認識される。
更に、正確な出土年は不明であるが、排水路の工事中に礎石が発見され、この礎石は木船薬師堂前に移され現存する。
平成22年(2010)保育園の建替で大量に廃棄された古瓦が出土する。これらは西側の微高地から東側の低地に捨てられていた状況から、この地点は伽藍の東端と推定される。また奈良後期の瓦も今回は出土し、寺院はこの頃まで存続していたものと推定される。
◆2012/01/13追加:
○「図説ふるさとの歴史シリーズ1 浜松・浜名湖周辺 上巻」郷土出版社、1992 より
木舟神社の北80mに薬師堂があり、80cm四方で高さ50cmの礎石があ り、この礎石は木舟神社北西100mほどの小川の縁にあったのを移したものと云う。
 木船廃寺礎石01
○「木船廃寺跡2次」浜松市教育委員会、2011.3 より
 木船遺跡付近地形図:A及びaの地点が木舟神社(実態は小宇)、k地点が木舟薬師堂及び礎石がある位置である。
 木船廃寺礎石02:木舟薬師堂境内手水鉢(礎石)とある。付近は人家が建て混み、急速に住宅化しているようである。 礎石は本写真のような状況にはない。
○2012/01/08撮影: 
礎石実測値:大きさは差渡し約70〜75cm、高さ36cm(見える高さであるがほぼ全高と思われる)を測る。礎石表面は平に削平され、その中央に径33cm深さ約3cmほどの円孔を穿つ。排水溝のようなものが一条あるが、乱雑なものでおそらく後世に乱暴に破壊されたものであろう。
心礎かどうかの確証はないが、心礎とすればごく小型であり、形状からは小型塔の心礎である可能性を秘めるものと思われる。
なお、木舟薬師の本尊は小さな石仏のようであり、特別な「歴史」を誇るものではないと思われる。
 遠江木舟薬師堂
 遠江木船廃寺礎石11     遠江木船廃寺礎石12     遠江木船廃寺礎石13     遠江木船廃寺礎石14
 遠江木船廃寺礎石15     遠江木船廃寺礎石16     遠江木船廃寺礎石17     木船廃寺跡木船神社

遠江頭陀寺三重塔

 遠江頭陀寺三重塔

遠江甲江山鴨江寺

記事:「古儀真言宗。高野山宝性院末。
本尊聖観音 本堂に安ず。そのほか御影堂、経堂、鐘楼、塔の跡は本堂の東にあり。牛頭天王、行者堂、太子堂、妙見堂、宝蔵、33所観音堂、・・弁財天、閻魔堂・・仁王門、・・・」多くの坊舎もあったと伝える。

三河鳳来寺三重塔

 三河鳳来寺

三河正宗寺旧境内跡:豊橋市嵩山町

2012/03/15追加:中世の塔跡と推定される基壇を残す。
「X」氏より、以下の「佛教藝術 315号」の資料提供を受ける。
○「佛教藝術 315号(特集山岳寺院の考古学的研究 東日本編)」佛教藝術學會、2011.3
現正宗寺境内背後の丘陵上で、山岳寺院遺構が発見される。遺構は古代の遺物を伴う平場群と中世の遺物を伴う平場群に別けられる。
古代遺物を伴う平場群は尾根上にあり、比較的小規模なものである。中世の遺物を伴う平場群のうち尾根上にあるものは比較的規模が大きく、一辺5mの塔跡と推定される方形基壇などを含む。
 三河正宗寺旧境内跡
 ※正宗寺は永仁年中(1293〜1299)日顔禅師(宋から渡来)の創建とし、長澤蘆雪、狩野元信、狩野正信、円山応挙などの絵画を所蔵と云う。
  現正宗寺との関係は良く分からない。

三河医王寺:小坂井町

○「幻の塔を求めて西東」:出枘式、203×130×50cmで、50×8/12cmの柱座(と思われる)を造り、出枘は欠損という。
○「三河国宝飯郡誌」(明治24年、早川彦右衛門著):「当寺ノ縁起ニ曰ク、文武天皇御悩ノ節陰陽師奏問シ奉ルハ、三河国勝岳山ニ仙人アリ。・・・・仙人ノ加持力ニテ御悩御平癒シ給フ。・・御悦アリテ伽藍ヲ建立、薬師如来ヲ安置シ、天牛山医王寺ト号スベシト。則チ大宝年中ノコト也。其ノ後延暦年中伽藍悉ク焼失セシリ。然ルニ霊場ナレバトテ、桓武天皇御再建、弘法大師作仏開眼ノ本尊を安置ス。其ノ後、白河院御造営。又長寛年中焼失ノ後、堂宇ヲ建立。・・・」
現医王寺は、天文17年(1548)豊川松鷲山花井寺二世東厳文菊和尚により開山されたという。
境内から奈良期の布目瓦が出土したとされる。
○「佛教考古學論攷 四 佛塔編」:三河医王寺心礎・・・ この当時は立てて置かれていたようである。
○実測値:大きさはほぼ前出のとおりで、柱座径は約50cm。出枘の痕跡は現状では確認不能。 (安山岩のような石質のため随分とし磯はあれている。)心礎の凸はその大きさから柱座というより、枘とすべきとも思われる。
 三河医王寺心礎1   同       2   同       3   同       4   同       5

三河高隆寺塔跡

男川小学校郷土誌のページ4(1)道根往還と高隆寺のページより
現高隆寺本堂(観音堂・恵定坊と号す)の西の岡上の平坦地に根本中堂礎石群とその南西に塔跡と推定される礎石群が残る。山下には幸泉坊(現高隆寺)が残る。
掲載の「礎石図」では、不明確ではあるが、本堂(根本中堂)跡は正面70尺で8間×7間(6間?)と思われる礎石 (一部は欠と思われる)が残る。塔跡は一辺18尺で9、10個くらいの礎石が残る。 心礎は存在しない。寺伝では聖徳太子・秦河勝が創建に関わるといい、あるいは平安期には三河五山(鳳来寺、桜井寺、滝山寺、真福寺、高隆寺)の一つとして栄えたともいう。平安終期 瓦が出土する。戦国期の戦乱で12坊とともに伽藍は灰燼に帰したという。
○2003/7/18追加:「X」氏ご提供画像(2002/9/15撮影画像)
 三河高隆寺塔跡1       同        2      同        3
○2007/12/14追加:
「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
塔跡は金堂跡の西南約21mにある。四天柱礎一辺は約2.58m、塔婆一辺は6m余を測定し得る。心礎はなく、四天柱礎の間隔から心礎を据えるのは困難と思われる。(多宝塔跡か?)
子細に見ると、塔跡のすぐ西に溝幅7.5cmの環状排水溝を有する心礎らしい(?)巨石が埋没し、1/3許り露出している。(※心礎の有無については多少混乱し不明。 )
2009/01/22追加:2009/01/16撮影
寺伝では聖徳太子の創建、行基の中興、弘法大師の開基とする。境内からは白鳳期と平安末期の瓦が出土する。中世には足利氏による伽藍造営を伝える。弘治元年(1555)奥平氏により焼亡。慶長8年(1603)徳川家康により朱印35石を受ける。
7間×7間と推定される礎石群(根本中堂跡と推定)と3間×3間と推定される礎石群(塔跡と推定)が残る。 但し、この1間四面堂跡が塔跡である文献資料や出土遺物などが存在するかかどうかは不明、従ってこの堂跡が塔跡であるかどうかの判断は留保せざるを得ない。
 三河高隆寺跡測量図       同       塔跡1       同       塔跡2       同       塔跡3
   同       塔跡4      同       塔跡5
  同 根本中堂跡礎石1     同           2       同    現本堂       同    幸泉坊

三河丸山廃寺心礎 :岡崎市丸山町

心礎は加良須神社(春日神社)境内の小祠の前に置かれる。台石あるいは手水鉢へのような転用ではなく、何かの信仰対象であると思われる。 (イボコロリと云う)
心礎に関する考証は数少ないと思われるが、以下に情報がある。
 男川小学校郷土誌のページ3(3)仏教と丸山廃寺のページより
「からす神社の東の畑の中に礎石はあった、明治末か大正元年青年団がその礎石を神社の中に移し社を祀った。」、「美川中学校校舎建築工事で多量の瓦が出土し、文様から7世紀後半に建立された寺院があった。」   
 ※美川中学は加良須神社の北に接する。丸山廃寺は十分な発掘がなされたわけでは無く、詳細は不詳。
○「幻の塔を求めて西東」(手書き資料):
形式は一重円孔式、大きさ:90×75×30cm(見える高さ)、円孔:20/21×15cm、白鳳期,、表面が著しく風化。
「X」氏ご提供画像
 三河丸山廃寺心礎1      同        2       同        3
○2009/01/16撮影
 三河丸山廃寺心礎1      同        2      同        3      同        4      同        5

三河足助八幡宮多宝塔

○「日本塔総鑑」:「明治維新まで多宝塔があった。今その址は何も残さず位置ははっきりしない。」とある。
 ※しかし、現在のところ、多宝塔についての詳細は全く不明(多宝塔情報は皆無)であり、詳しくは分からない
 ※足助八幡宮多宝塔情報があれば、連絡を乞う。
神宮寺については断片的に以下が知れる。
明治の神仏分離まで、神宮寺・教寿院(修験)などがあった。十王寺に神宮寺本尊・木造薬師如来坐像(鎌倉期末)が残存する。
なお十王寺(十王堂)は山号を神宮山と称する。現在八幡宮境内には鐘楼のみ現存する。
本殿は文正元年<1466>再建、桧皮葺三間社流造、重文と云う。
 蛇足:隣接する足助神社は足助次郎重範を祭神とし、明治35年の創建と云う。要するに国家神道の典型の一つであり醜悪そのものである。
ちなみに祭神足助次郎重範は元弘の変(1331)で後醍醐天皇に与力し、笠置山篭城軍の総大将となる。戦闘の後、捕縛され京都六条河原で斬首される。(太平記)
○「足助町誌」足助町誌編集委員会、1975 より
 薬師如来坐像:足助宮平十王寺蔵
○「足助八幡宮」太田正弘、足助八幡宮社務所、1990 より
 旧神宮寺本尊薬師如来:明治の神仏分離で十王寺に遷座、鎌倉末か室町初頭の作と推定される。
鐘楼のみは残される。梵鐘は放出され、明治12年伊勢来迎寺にある。鐘銘は永禄11年(1568)越前八王子殿山王大権現に奉納されたもので、天正12年(1584)足助八幡宮に寄進されたものと云う。
明治44年の「県社昇格願書」には「境内に神宮寺本尊薬師如来ありしに、維新の際、本尊仏は境外十王堂に移し、堂宇を廃毀、その跡に末社金刀比羅神社を遷し、境内の梵鐘を廃棄す。社僧は・・・明治4年まで一寺あり、・・・真言宗にて教寿院と構え来る・・・明治4年廃寺帰俗す」とある。
 足助八幡境内図      足助八幡鐘楼:壁板は後補

三河北野廃寺(史蹟)

北野廃寺跡史跡公園として整備さる。
心礎は,径2m余で、上面に径84cmの孔を穿つ。あるいは一辺2,5m程の不整形な四角形で、径82cmのおそらく円柱孔と思われる孔が穿たれる。孔から一 条の幅4p弱の水抜溝がある。
 塔跡はほとんど削平されていたが、一辺10.6mとされる。発掘時には心礎は露出していたと云う。
現状は塔基壇がおそらく当初の高さ(何が根拠なのかは不明)に復元整備され、かなりの深さに地下式心礎が据付されるように復原される。
基壇の内側は4面とも、心礎のレベルまで、コンクリートの階段で整備され心礎まで降りることが可能である。
しかし心礎の上面と同一の高さで砂利(おそらく雑草防止とか水掃けのためと思われる>が散布され、心礎が通常は埋もれている状態である。見学の便宜性 や心礎の保護の観点から改善が望ましいと思われる。
 廃寺は矢作川西岸約2qの洪積台地に位置し,境内は土塁(東西120数m、南北140数m)が廻り、四天王寺式伽藍であった。
出土瓦などから飛鳥後期・白鳳期の建立と推定。平安時代初めに焼失したと推定される。
この地の豪族物部真福(まさち)の建立ともいわれ、北方の真福寺は当廃寺から移転したとも云われる。(真福寺拾葉集・宝暦2年)
 三河北野廃寺跡 1     同    塔跡1       同    塔跡2      同    塔跡3
   同    心礎1      同    心礎2       同    金堂跡       同    講堂跡
○2008/08/30追加:柴田常恵写真資料:大正12年撮影
 三河北野廃寺心礎1  三河北野廃寺心礎2
○2007/12/14追加:
「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
「私註抄」(法隆寺俊厳):「真福寺、守屋之孫立之 在三河国矢矯北一里許。」
「真福寺拾葉集」:「当国加茂郡北野村ニ真福寺跡トイフ古キ石ズヱアリ・・・是コソ真福寺ノ跡ナリト云フ」
「太子伝私記」(顕真):「三河国額田郡在寺、名真福寺、此寺者、物部大連守屋之子息 物部真福之、為父大臣、所建立寺院也、推古天皇御宇、即聖徳王随喜讃嘆・・・・・」
 ※以上、文献上この寺跡は「真福寺」跡であることは明瞭であろう。(現真福寺の旧地であること)
 しかし創建については、出土瓦からは推古朝とは認められず、8世紀の寺院とみるのが妥当であろう。
心礎は地中に埋まっている。面は南北2.42m、東西1.97m、柱座径83cm深さ7cmの凹一段式である。東北面に長さ30cm幅4cm深さ2.3cmの排水溝を持つ。
心礎は昭和2年に地下60cmのところで発見され、原位置を動いていない。北には金堂・講堂跡、南に中門跡が存し、四天王寺式伽藍配置を採ることが明瞭である。
 北野廃寺心礎実測図
○2011/05/29追加:「佛教考古學論攷」 より
 三河北野廃寺心礎     三河北野廃寺心礎実測図

三河猿投大明神三重塔跡

 三河猿投大明神

三河白鳳寺心礎(想定)(三河猿投大明神境内)

 三河猿投神社

三河舞木廃寺(史蹟)

○なだらかな微高地の畑地の中に不明瞭な塔土壇および心礎と3個の礎石を残す。
寺院の規模・伽藍配置はまったく不明と云う。創建は奈良前期とされる。
心礎:径約1.6mの円形の花崗岩からなる。中央に径15cm・深さ4cmの孔を穿ち、周囲に幅35cmの柱座を持ち、
さらにその外周に幅17cm・深さ9cmの環状溝を持つ。 加工としてはかなり複雑である。
 心        礎 ・・・ (「X」氏ご提供画像)
2002/01/10撮影:
 三河舞木廃寺心礎1   三河舞木廃寺心礎2   三河舞木廃寺心礎3   三河舞木廃寺心礎4
 三河舞木廃寺心礎5
2008/08/30追加:
○柴田常恵写真資料
 三河舞木廃寺心礎:大正末期から昭和初期の撮影
22022/12/28追加:
○柴田常恵写真資料
 三河舞木廃寺心礎:小栗鉄次郎氏ヨリ、撮影時期不明
2022/12/28追加:
 三河舞木廃寺心礎6:2019/02撮影(Wikipedia より)
○「日本の木造塔跡」:心礎の大きさは1.5×1.8m、表面に外周径87cm内周径51cm溝幅18cm深さ9cmの環状溝を彫る。幅9cm深さ0.6cmの溝も彫る。内径51cmの中央に径13cm深さ6cmの舎利孔がある。
この環状溝は心柱の下部をここに嵌め込むものでいわば「枘溝」であろう。排水は全くされないので排水溝では有り得ない。
この形式(舞木廃寺式、環状溝が広く深く枘溝として機能する心礎)の心礎は以下が知られる。
 三河舞木廃寺、三河白鳳寺(周囲破壊/現在は猿投三社大明神帰境内にあり) 、三河推定寺領廃寺東塔尾張大山廃寺
 近江新庄馬場廃寺出雲神門寺阿波国分寺豊前菩提廃寺肥後正法寺跡(不確定・保留)
 肥前寺浦廃寺(現状は円孔式であるが、中心の凸部が削平されたという伝承がある。事実とすれば舞木廃寺式の可能性がある 。)
2007/12/14追加:
○「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 舞木廃寺心礎実測図

三河文護寺:豊田市寺部町

心礎が「随応院」境内に残存する。寺跡から出土という丸瓦・平瓦が各1点伝えられる。
○「幻の塔を求めて西東」:心礎は2重円孔式、160×150×60cmで、90/85×10cmの円穴と方11×1cmの方孔を穿つ、白鳳。
 三河文護寺心礎1     同       2     同       3     同       4     同       5
   同       6     同       7     同       8     同 心礎排水孔
勧学院文護寺は遺物の散布状況・心礎の現存・随応院所蔵の布目瓦などから、現在の随応院境内附近にあったとされる。また、創建は奈良期と推定される。
随応院縁起では、
長享2年(1488)寺部城主鈴木重時、加茂郡力石村浄土宗極楽山浄土院不遠寺<文明11年(1479)創建>を、当地の勧学院文護寺跡に移転したとする。
 ※つまりは中世随応院が現地に移転する頃まで、古代寺院勧学院文護寺の存在は知られていたと推定される。
慶長13年(1613)尾張藩付家老渡辺半蔵守綱が14,000石にて寺部城に入府、不遠寺を菩提寺とする。
承応元年(1652)三代渡辺治綱、亡母随応院殿33回忌を営み、院号を随応院と改め、極楽山随応院不遠寺と改号する。現在、江戸期の本堂、中門、経蔵 、塔頭浄土院等を残す。
 ※浄土院は大正15年塔頭受頭院(大永3年創建、合併後寺号は安城市に移す。)と浄善院(天正6年創建)とを合併して成立、長い参道東に現存する。
 三河隋應院山門     同    参道     同 寺中浄土院
○「寺部城跡・寺部城関連遺跡・勧学院文護寺跡 (豊田市埋蔵文化財発掘調査報告書)」豊田市教育委員会、2006.3 より:
「豊田市埋蔵文化財調査集報 第6集 寺院址」1978の記録;礎石は現在「イボ神様」(礎石に溜まった水でイボを洗うとイボがとれる)と呼ばれる。礎石の大きさは140×140cmのほぼ矩形をなし、礎石上面は平坦で、東西径90cm、南北径は推定85cm、深さ10cmの柱座がある。(柱穴は西側がホタテ貝式に若干膨らむ形状)また西側に偏った位置に方11cm深さ7cmの舎利孔がある。なお柱座北側に排水用の小孔を穿つも、当初からのものかどうかは不明。礎石が原位置を保つかどうかも不明。 心礎には「阿弥陀佛」名号碑が建てられている。
 三河文護寺心礎実測図

三河寺領廃寺:安城市寺領町久後、松韻寺址、桜井廃寺

○「三河松韻寺址」(大正15年12月「史跡名勝天然記念物」1−12、「佛教考古學論攷巻1 寺院編」所収)より
碧南郡桜井村寺領にあり、今真宗大谷派であるが、寺伝では聖徳太子の建立という。江戸期の木造聖徳太子馬上像を有する。
下掲「松韻寺址実測図」に見られるように、瓦の散布地が5箇所、礎石が3個残っている。
「ショウニンヅカ」▲の位置で、今道路面になっているが、足で地を打つと、他所とは違った響がする。また里人は雪もここばかりは積もらぬという。西塔址とも想定される。
観音堂という小宇のある場所は礎石があり、若干の土壇様の高まりが見られる。講堂址とも考えられる。
観音堂を軸として折り返すと、「ショウニンヅカ」と対称位置に、東には「シシヅカ」がありこれを東塔址に擬してはどうだろうか。
奈良後期から平安中期のものと思われる瓦が出土する。
 三河松韻寺址実測図:「佛教考古學論攷巻1 寺院編」より転載
○昭和32年の発掘調査で、講堂(現観音堂)の規模は東西17m,南北12m,金堂(現素戔嗚神社社前)は基壇の範囲のみ判明し、規模は東西30m,南北19mであるとされた。東塔跡は心礎抜き取り穴などが確認された。西塔跡は塔である確証は得られなかったといわれる。中門跡と南大門跡は未確認。大雑把には東大寺式伽藍配置と想定される。出土瓦は21種類を数える。
○「日本の木造塔跡」:
 西塔心礎と称するものが松韻寺の墓地にあり、これは全くの破片にすぎず、大部を復元したものであり、原形は良く分からない。
○「幻の塔を求めて西東」:
 大破心礎(西塔心礎)は1重円孔式で、径48×4cm(復元寸法)の孔がある。
○2007/04/29追加:「X」氏ご提供画像
 三河寺領廃寺西塔心礎1:心礎のおおよそ1/8以下の破片とされ、概要が復元されてい る。
   同           2:2004年本堂造替の際、本堂土台に転用されていた礎石が取り出される。
                 西塔心礎の残余の破片として保存される。
○2009/01/22追加:2009/01/16撮影:
西塔跡(発掘で確認されたわけでは無いと思われる)の現状は墓地と道路であり、地上には何の痕跡も残さない。推定西塔跡付近には残存する心礎破片から推定した復原心礎が置かれるのみである。
なお近年、西塔跡付近には2004年本堂下より発見された凡そ1/4弱と思われる割られた心礎破片2個(合わせてほぼ1/2)が置かれる。後者の実測値は以下の通り、大きさ差渡約130cm、径55cm、深さ2〜3cm の円穴を有する。
東塔跡は耕作地の一画に跡地を残すも、地上には何もない。ただ礎石跡を示すと思われるコンクリート製標識が置かれる。講堂跡は土壇と観音堂を残す。
 三河寺領廃寺西塔跡       同    西塔心礎1       同    西塔心礎2       同    瓦(嵌込)
   同    西塔心礎3       同    西塔心礎4       同    西塔心礎5       同    西塔心礎6
   同    東塔跡1         同    東塔跡2        同   伽藍配置図        同    講堂跡
 ※東塔心礎は現在西尾市桜町に移動し残るとされる。・・・・・↓直下の項参照

推定三河寺領廃寺東塔心礎

○「日本の木造塔跡」:西尾市桜町 (名鉄桜町駅近くの交差点)に寺領廃寺東塔心礎が保存されている。天正18年田中吉政が西尾城築城の時、寺領廃寺から移し、さらに昭和39年城跡から現在地に移転という。心礎は2.8×1.4mで、外周径62cm内周径36cm、溝巾13cm深さ9cmの舞木廃寺式の形式を呈する。
○「幻の塔を求めて西東」:
形式は環溝式(蛇の目式)、大きさは300×140×60cm、外周径63・内周径33cm、溝幅15cm、深さ11/16cm。
 ※環溝式(蛇の目式)とは「舞木廃寺式心礎」である。
○「佛教考古學論攷巻4」より転載
 三河寺領廃寺東塔心礎
○2009/01/22追加:
「現地説明板」では「天正18年(1590)西尾城主となった田中吉政は城郭拡張を企図し、四方に大石を求め、北方の矢作川流域の寺領廃寺からも30余の礎石を運ぶと伝える。この心礎は寺領廃寺の心礎と推定される。昭和39年この地に運び、古代の遺物として古代文化を偲ぶものとする。」但し、天正18年記事の典拠は不明。なお、この心礎については、寺領廃寺かもしくは志貴野廃寺心礎と報告する報告書もあると云う。
 ※志貴野廃寺(西尾市志貴野町)は瓦の散布を見るも、明確な伽藍遺跡が発掘されたわけではない。しかし地理的な要因などから可能性は否定できないとも思われる。
 三河寺領廃寺東塔心礎1       同           2       同           3
   同           4       同           5

尾張曽野作石心礎(作石の寺塔の礎石 )

瀬戸市曽野町作石:「作石の寺塔の礎石」もしくは「作石の礎石」と通称されると思われる。(何々廃寺等の名称は無い。)
心礎としては珍しく精美に方形に加工され、一見石製露盤を裏返しにして置いているかと思われる外形を持つ。
心礎は一段円穴式で、201×167cmのほぼ四角形に加工され、中央に径57.5cm(「X」氏計測)の穴を彫る。白鳳期 のものとされると云う(根拠不明)。法量から判断するとかなり大型の長方形の心礎と思われる。
 (計測の結果は長方形でありまた円穴は貫通してはいないため、塔の石製露盤ではない。)
2004/02/29「X」氏撮影ご提供
 尾張曽野(作石)心礎1        同         2        同         3
2011/12/23追加:
「ある郷土誌?」(「瀬戸市史」であろうか)では「塔の礎石と寺院」の項で、「瀬戸地方でも、曽野町の作石から、塔の柱の下に置く大きな石が見つかった。この石は上が平らで、四辺がそれぞれ中央部でいくらか外へ張り出されており三味線胴と呼ばれる7世紀後半(白鳳時代)のものといわれている。これは五重の塔の中心となる柱の下に使われる石と考えられる。 」と云う。
2011/12/24撮影:
心礎の大きさは190×180×55cm(見える高さ)、径57×深さ5/7cmの円穴を穿つ。
地元民の談(1名):「この石は神社の何かの台石と云われている。付近から礎石や瓦やその他の遺物出たとは聞いた事がない。この集落(作石)の字はこの石に由来するのではないか。」
この石の見た印象は心礎であることを強く示すが、付近に寺院があったことを示唆するものは皆無であり、またその伝承も無いようでもあり、断定は憚られる。仮にこの地に寺院が営まれていたとして、心礎は田圃の中の山際に接するようにあり、動かされているものと思われる。
 尾張曽野作石心礎1     尾張曽野作石心礎2     尾張曽野作石心礎3     尾張曽野作石心礎4
 尾張曽野作石心礎5     尾張曽野作石心礎6     尾張曽野作石心礎7     尾張曽野作石心礎8
 尾張曽野作石田圃1:ほぼ北やや東寄の作石集落から撮影
 尾張曽野作石田圃2:ほぼ東北方向から撮影、伽藍はこの田圃付近にあったが耕作で削平されたのであろうか。
 曽野作石心礎位置図1:西から 曽野町に入り、曽野稲荷社(かなり著名である)の鳥居などに至り、そこから更に東に入り作石の集落に至る。
 曽野作石心礎位置図2:作石の集落の下の田圃の畔に心礎はある。

尾張法海寺(尾張寺本廃寺)

・「幻の塔を求めて西東」:2重円孔式、139×84×42cm、径73×2/3cmと4.5×7.5cmの孔がある。損傷しているのを復元すると、大きさは165×160cm、白鳳期。
・「日本の木造塔跡」:大きさは1・3m×90cm×42cm、環状排水溝を持つ。溝の外側径は72cm。内側径は64cmで、巾4/3.3cm深さ約3cmの環状溝を持つ。この環状溝の内に径45cm深さ9cmの円孔がある。要するに甚目寺式心礎から舞木廃寺心礎へ移行する心礎形式と解釈するのが一番妥当性があるであろう。
 ※心礎は原位置より移動のため、塔跡は究め難い。なお寺本とはこの地の通称と云う。
・2008/08/30追加:柴田常恵写真資料:大正末期から昭和初期の撮影
 尾張寺本廃寺心礎
・2007/12/14追加:
「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 尾張法海寺心礎実測図:心礎形式は甚目寺式心礎から舞木廃寺心礎への移行形式であろうとする。この見解は「日本の木造塔跡」の見解へ引継がれる。
・法海寺は天台宗薬王山と号す。新羅国明信王の太子道行上人を開祖、靭尊和尚を開山と伝える。出土瓦では白鳳・奈良・平安期のものが出土と云う。現在は本堂(平成5年改築)、庚申堂、十王堂(慶長12年・1607建立)、弥陀堂、鐘楼堂、愛染堂、仁王門(寛文6年・1666建立)などと、 一山12坊と云われた内の大乗院、吉祥院、常光院を残す。
 尾張法海寺心礎1      同        2     同         3     同         4     同         5
  同         6     同        7     同         8
   同     仁王門     同 境内・本堂       同    吉祥院      同    大乗院      同    常光院

尾張弥勒寺:西春町

「日本の木造塔跡」:霊安寺式(自然石)。心礎かどうかは不明とする。
現在、この廃寺の情報がなく、実態は不明、白鳳期の寺院と云われる。

熱田皇太神宮:木津山神宮寺大薬師

 熱田神宮寺

尾張大須観音五重塔

真福寺宝生院と号する。文化12年(1815)五重塔建立。明治25年(1892)の大火で焼失
戦後の復興期五重塔再建の企てがあったと思われるも、現在は立ち消えと思われる。
 
尾張大須観音五重塔

尾張七つ寺三重塔

正覚院長福寺と号する。昭和20年名古屋空襲で三重塔など伽藍を焼失。
現状は跡地の一部に若干の堂宇が再建されてはいるが、狭い境内は駐車場と化し、塔のあった形跡などは皆無。
 尾張七寺三重塔

河内飛鳥寺跡心礎(名古屋城織部堂前心礎)

 河内飛鳥寺跡

摂津太田廃寺心礎(尾張白壁町個人邸)

 摂津太田廃寺

尾張萱津妙勝寺五重塔

 →尾張萱津妙勝寺:中世末期(天正期)に五重塔があったというも、その典拠が不明で、詳細も不明。

尾張甚目寺

 尾張甚目寺:心礎が残る。

尾張成願寺三重塔:絵図

2015/03/05追加:
尾張國富田荘絵図が現代に伝わる。
本絵図の上右(北東)に成願寺があり、ここには寺門、本堂、三重塔が描かれる。
さらに本絵図は嘉暦2年(1327)鎌倉幕府が東隣の一楊御厨との係争を調査した時、作成されたものと推定されるので、鎌倉期には成願寺に三重塔があったものと思われる。
 尾張國富田荘絵図:「日本の美術72 古絵図」難波田徹編、至文堂、昭和47年 より
 尾張國富田荘絵図トレース:サイト「水土の礎」>「開発の花ひらく、荘園」より転載
さて本図の描画範囲は、現在の名古屋市中川区富田町・あま市甚目寺町・海部郡大治町・蟹江町の附近である。
絵図に描かれている三本の川は、右が庄内川、中央が戸田川、左が蟹江川である。
絵図に描かれている寺社も、光明寺のほか、成願寺は自性院、比叡は日吉神社として現在も存続する。
 ※光明寺は寺地を遷して存続か、日吉神社は不明。
富田荘は、鎌倉幕府の成立により源氏方が平家領に進出する中で、北条得宗家が地頭職となる。
弘安6年(1283)北条時宗により地頭職が円覚寺に寄進される。
その意味は、円覚寺が弘安5年(1282)北条時宗によって元寇による戦死者を弔うために中国から無学祖元を招じて建立された寺院であることから、円覚寺の経営を安定させることにあった。
 ※成願寺は大宝2年(702)行基の開創と伝える。北野山常願寺と号し、自性院は常願寺の一院という。

尾張性海寺b

 尾張性海寺

尾張塔野地(伝東野寺五重塔礎石)

伝東野寺五重塔礎石:実測値:大きさは140×110×40cm。
この地・塔野地には東野寺と称する大寺院があったが、中世末織田信長の焼討ちによって焼亡する(「塔野寺縁起」)との伝承及び記録があると云う。字西中ノ切(寺山)がその伽藍地と伝える。
字西中ノ切の南西100mほどのところに、33体の石仏などと共に東野寺五重塔礎石と伝える礎石がある。
現在礎石は馬頭観音<天明4年<1784>>の台石となる。この石が礎石ましてや東野寺五重塔礎石であることを証明することは(以上の情報だけでは)出来ないが、大きさ・形状から何等かの礎石である可能性は有り得るであろう。(但し心礎である可能性はほぼ無いと思われる。)
さらに、この礎石の西方(字山王)には「山王権現」跡があり、現在は「旧跡山王大権現」石碑と山王権現の小祠がある。特筆すべきは、この小祠には「山王大権現」の石柱が建ち、明治維新前の正しい称号を掲げていることである。
この字山王には薬師寺があったと伝えるも不明、要するにこの地には中世まで天台系の東野寺及び山王権現の伽藍があったのは確実であろう。
なお、字西中ノ切の北方には附近から出土した十数基の五輪塔などが並べられる。
 尾張塔野地礎石1      同       2       同       3      同       4       同  山王権現跡

尾張大御堂寺(野間大坊・野間大御堂)

 尾張野間大御堂寺

尾張大山廃寺(史蹟)

標高200m程の山中にある山岳寺院跡で塔跡と礎石が完存する。塔跡は寺域の最高所にある。
塔跡には,17個の礎石(一部は欠損していると思われる)が残り、柱間は2.4m。現状は良く手入れされている。
中央に湿気抜きの細工が施されている。出土瓦から,7世紀から8世紀まで存続したものと考えられる。
かっては大山三千坊といわれ、児神社の参道脇など山中の各所にはかつての坊舎・堂跡と見られる平坦地が多数残る。
昭和50〜53年の発掘調査で、現在の児神社境内が寺院中心で、白鳳・奈良期の創建で伽藍は室町期まで存続したとされる。
平安期の掘立式建物跡3棟、中世の本堂(7間四方、一辺21m)と推定される礎石建物跡を発見。
心礎実測:大きさは145×100cmで、おそらく短径は欠損しているものとも思われる。
径50×6cmの円形突起を造り、周囲を巾14/15cmの溝が廻る。
「大山寺縁起」では、延暦年中に最澄が建立したとする。
○「日本の木造塔跡」:大きさは1,27×1.36mで、外周の径77cm、内周の径57cm(溝巾11cm)深さ5cmの枘溝がある。
塔一辺は7m。   (「舞木廃寺式心礎」といわれる形式である。)
 尾張大山廃寺塔跡1     同        2     同        3     同        4     同        5
    同        6    同        7     同        8
   同     心礎1      同     心礎2      同     心礎3      同     心礎4      同     心礎5
   同   四天柱礎      同   廃寺概要      同   中心遺跡      同 推定本堂礎石
2008/08/30追加:
○「柴田常恵写真資料」:昭和3年の撮影
  尾張大山廃寺塔礎石
 2022/12/29追加:上記拡大写真:「柴田常恵写真資料」
   大山寺阯塔礎石:尾張東春日井郡篠岡村大山寺阯塔礎石ノ一部三年四月七日 小栗鉄次郎氏ヨリ、礎石 とある。
2007/12/14追加:
○「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
塔の創建を示す確かな文献は無い。俚諺では延暦年中、伝教大師の建立と云う。瓦は7世紀後半の形式のものを出土するも、7世紀までこの寺院の創建を溯らせるには躊躇する。(遺構、心礎、俚諺などより、8世紀の創建ちするのが妥当であろう。
心礎は1.48m×1.33m、中央に円形凹柱座を残し、幅15cm深さ6cmの輪状排湿溝を環らし、さらに東辺・北辺に輪環溝から幅6cm深さ3cmの放射状俳湿溝をつける。一見して舞木廃寺心礎を模したものと分かる。(舎利孔はなし)
塔跡の実測(昭和12年)値:塔礎石による。南辺7.30m東辺・西辺・北辺3辺は7.18m、四天柱礎東辺・南辺2.42m西辺2.36m北辺2.45mを測る。おそらく柱間は各7.18m塔一辺7.27mの塔であったと推定できる。
  大山廃寺心礎実測図     大山廃寺塔跡実測図

尾張音楽寺跡:江南市村久野町寺町

塔土壇が現存する。
前身は大乗院と云う。村国男依(壬申の乱<672年>の功労者)との関係があるとも、元暦元年(1184)源詠法師の開基とも伝える。
境内から奈良末期・平安初期の瓦が出土。平成4年発掘調査(薬師堂・観音堂の再建に伴う)で軒丸瓦、塼仏(6.7〜7.1cm)、風招(10.1〜16.7cm)などを出土。
「琴聲山と号する。西山浄土宗。円空作十二神将像を有する。
2018/03/27追加:
○「江南市音楽寺遺跡出土の美濃須衛窯型瓦塔」永井邦仁 より(愛知県埋蔵文化財センター「研究紀要」第13号 2012.5 所収)
 平成4年に発掘調査、多数の瓦、瓦塔片、塼仏、風招などが出土し、古代の音楽寺の存在が裏付けられる。
音楽寺のある場所は「村久野」であり、古代豪族村国氏に関係すると思われる村国郷の分流の地であった可能性が語られている。
具体的な遺構については次のように述べる。
 「音楽寺遺跡の発掘調査では、境内に設定したトレンチで基壇建物遺構の一部を検出しているが、その具体像はまだ不明な点が多い(音楽寺遺跡の調査)。 観音堂西側で検出された基壇遺構が金堂の西・南縁、そこから東方のトレンチで検出された版築の土層が塔と推定されているが、規模や礎石は明確になっていない。これら堂・塔の北側にも根石や床面といった基壇遺構があるといい、報告では講堂跡と推定されている。概ね法起寺式伽藍配置を想定してのことと思われるが、梶原義実によると、金堂跡の南北長から推定する とこれが東面する川原寺式伽藍配置の可能性もあるという(梶原2010)。そしてこれら伽藍遺構の周囲からは瓦溜まりが検出され多量の瓦が出土している。」
 ※梶原義実 2010:「音楽寺跡」(「愛知県史資料編考古4 飛鳥〜平安時代」愛知県 所収)
 音楽寺遺跡の調査
2018/03/11撮影:
音楽寺前身は元暦元年(1184)源詠法師が大乗院という名称で創建したという。(「尾張荘地鈔」)
 ※さらにその前身が古音楽寺ということであろう。
近世初期には「薬師堂一宇」とある。(「寛文覚書」)
延宝4年(1676)円空45歳のころ、薬師堂に立ち寄り鉈彫り薬師如来・日光/月光菩薩・十二神将・荒神・大護法神像を造立する。
元禄2年(1689)映譽和尚中興開山し金聲山音楽寺と称す。
大正期山号を琴聲山と改める。西山浄土宗、曼荼羅寺末。
現在、住職は常駐せず、春のアジサイ祭などで、僅かに「歴史資料館」が開扉されるようである。
 尾張音楽寺推定塔跡1:南から撮影      尾張音楽寺推定塔跡2:北から撮影
 尾張音楽寺推定塔跡3:北西から撮影     尾張音楽寺推定塔跡4:西から撮影
 音楽寺推定金堂跡1:観音堂土壇と堂宇    音楽寺推定金堂跡2
 音楽寺本堂     音楽寺薬師堂     村久野区歴史資料館
 音楽寺銅製五重塔1     音楽寺銅製五重塔2

尾張福寿院多宝塔跡

 尾張福寿院多宝塔

尾張長福寺廃寺(加納馬場廃寺):一宮市

昭和12年軒丸瓦と2個の心礎(原位置ではない)が発見され、14年の発掘で根固石や基壇石段があったという。
このため東西両塔を備えた寺院跡と推測された。
しかし昭和45年の発掘では根固石や基壇は発見されず、寺院遺構らしき痕跡は無かったとされる。
現在法光寺本堂横にある礎石は形状から見て、紛れもない心礎であるが、もう一方の東塔心礎と云われた礎石(個人邸の沓脱石)は本尊安置の台座であろうとされているようです。
「日本の木造塔跡」:法光寺(一宮市千秋町加納馬場)本堂横の心礎が名鉄犬山線石仏駅付近から、大正末期に運ばれたとされる。
心礎は2.24×1.8×82cmで、径86×8/3cmの円穴を持つ。長福寺の陰刻(後世のもの?)がある。
しかし現法光寺の地が元の寺域であるらしい。
一方長福寺東塔心礎と言われる石が近隣の後藤文夫氏邸に靴脱ぎ石としてある。
この石は2方が欠けているが、大きさは1.18×1.06mで、径11×5.2cmの孔がある。
しかし 法光寺心礎と不釣合いで、また西塔跡といわれた場所も単に地山の礫層であることが分かり、長福寺とは別の心礎であろう。
長福寺の創建は飛鳥もしくは白鳳初期の創建とされる。
法光寺境内にあるのは多少荒れてはいるが堂々たる心礎です。
一方後藤氏邸の石は心礎であるのかどうかは形状からの判断は困難ですが、心礎である可能性は高いと思われます。
但し、心礎であったとしても大きさや形式から法光寺境内心礎とは全く別の系統のもので、同時期に建立された東西両塔の心礎でないことは確かと思われる。
上面は平に削平され、(心礎とすると)この地方では類例を見ない小円孔を持つ。また小円孔から一条の溝が刻まれているが、途中で途切れ、何のためのものかは不明。現状心礎は二方を楔で割られ 大きさを損ねている。
なお後藤氏邸は建替られたらしく、現在、靴脱石には新しい石が据えられ、心礎はその傍らの中庭に放置されている。
□法光寺所在心礎:
 尾張長福寺廃寺心礎1     同         2     同         3     同         4     同         5
   同         6      同         7:長福寺陰刻
□東塔心礎:
 尾張長福寺廃寺心礎11     同        12     同        13     同        14     同        15
2007/12/14追加:
「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
昭和12年長福寺瓦を見出す。寺域は今藪地となるも、以前真中に穴のあいた大きな土台石などがあり、法光寺に現存する。しかし法光寺にある土台石は面が伏せられていて、顚倒した石には苔がはえ、人々はその苔の美しさを愛でている。筆者は住職に幾度か心礎の文化財としての貴重さを説き、強く復興を願った。ついに昭和13年3月7日庭師数人による復旧工事がなった。遂に面を覗き得た。面は凹一段式であった。
長径205cm短径182cm高さ88cm、面に径88cm深さ6cmの柱座を刳ったものであった。円穴の側に「長福寺」との陰刻がある。これは江戸期の偽刻であるが、長福寺の名を伝える最古の史料であろう。
寺地である「藪地」では7世紀後期の瓦を出土する。また心礎を掘り出した窪地もある。四天柱礎と考えられる礎石もこの地から掘り出すとも云う。この「藪地」は後藤あさ宅に存する。
 加納馬場廃寺心礎実測図
2011/05/29追加:「佛教考古學論攷」 より
 尾張長福寺心礎31:上記(たなかしげひさ)の昭和13年復旧工事の時の写真と推定される。

飛騨杉崎廃寺b: 吉城郡古川町(現飛騨市)杉崎<宮谷寺跡、岡前廃寺>

○「岐阜県史 通史編 原始」:塔心礎は不正の長方形で、径70cmの円穴と径32×12cmの円孔を穿つ。また放射状排水溝を持つ。
心礎北西20mには身舎3間×2間で、四面庇の建物礎石が遺存する。さらに東に転移した礎石が約10個ある。
○「日本の木造塔跡」:金堂跡東南に塔跡があり心礎1個が残る。心礎は1.2×0.9mで、径70cm(磨耗のため極めて浅い)と径32×10cmの円孔を穿つ。昭和5年の犬塚行蔵氏の観察では排水溝は波形に7本外に出ていたという。
(現在では痕跡のみではっきりとは確認できないとされる。)中世末まで空谷寺と称し文献で確認される。岡前は「御構え」を意味すると云う。
 (「岐阜県史」及び「日本の木造塔跡」の記載は発掘調査前の状況のものであろう。)
○「岐阜県吉城郡古川町杉崎廃寺跡発掘調査報告書」古川町教育委員会、1998 より
昭和6年大字名から杉崎廃寺と命名されるも、地元では宮谷寺跡と伝えられる。
平成4年から7年まで発掘調査(土地改良事業計画が端緒)、
調査前塔心礎:心礎は農道の傍らにあった(石碑も設置)が、ここには基壇が無く、移動していたことが確認される。心礎は花崗岩製で、大きさは130×97cm高さは約50cmを測り、上面に径70cmの柱座があり、さらに中央に径33×深さ10cmほどの円孔がある。柱座穴の周囲には幅5cmほどの浅い溝を彫り、そこから放射状に小溝を6本出す。
塔跡の礎石発掘状況から一辺は4.2m(14尺)であり、柱間寸法は14尺の三つ割、もしくは中央間は5尺両脇間は4.5尺ともとれる。これから判断すると、塔の規模は小型ではあるが、極端に小さいものではない。瓦の出土は金堂跡と同様に極端に少なく、また軒丸瓦の出土はなく、恐らく檜皮葺の屋根の棟だけを瓦で覆った構造と推測される。
 杉崎廃寺金堂・塔発掘遺構     杉崎廃寺塔発掘遺構
 杉崎廃寺塔発掘図     杉崎廃寺心礎図     杉崎廃寺塔復元基壇     発掘前心礎写真
○2009/11/21追加:写真は2009/11/11撮影
小規模な伽藍である。金堂の東に塔を配し、中門・金堂・講堂が南北直前上に並ぶ類例のない伽藍である 。また伽藍中心部の全面に玉石が敷き詰められ、見事な荘厳を見せ、これも寺院遺構では類例を見ない。さらに金堂遺構なども稀に見る良好な残存状況で今日に残る。
寺院は白鳳期の創建で、礎石の焼失痕から、8世紀に全部が焼け落ちたと推定される。瓦の出土書状況から、瓦は金堂・塔に一部使用されたが、屋根は檜皮葺と思われると云う。
 飛騨杉崎廃寺主要部1(中門・金堂・塔・石敷)        同     主要部2
   同     塔跡1       同     塔跡2       同     塔跡3       同     塔跡4       同     塔跡5
   同    塔礎石1       同    塔礎石2       同    塔礎石3
   同     心礎1        同     心礎2        同     心礎3
   同     金堂跡1       同     金堂跡2       同     金堂跡3
   同     講堂跡1       同     講堂跡2       同     中門跡       同     鐘楼跡
   同    伽藍配置図       同    伽藍復元図        同    宮谷寺跡碑       同  心礎旧位置石碑

飛騨上町塔の腰廃寺c:吉城郡古川町 上町塔の腰 (セリ田・鶴巣)

 飛騨上町塔の腰廃寺 飛騨円光寺に移転現存

飛騨沢廃寺c:吉城郡古川町上気多字沢

 飛騨沢廃寺 飛騨円光寺に移転現存

飛騨石橋廃寺b:吉城郡(現高山市)国府町広瀬町石橋

○「岐阜県史 通史編 原始」:石橋廃寺の遺構は明らかでないが、水田区画整備事業中に多くの瓦の出土と、築地跡・礎石の遺存を見た。
※但し上記の整理事業で寺跡は殆ど破壊を受けたものと思われる。近年は付近は宅地化しつつある。
なお光寿庵跡(上広瀬・伽藍配置は不明)が石橋廃寺東側山中にある。光寿庵跡と石橋廃寺の両廃寺の出土瓦は同范と云う。地理的にもほぼ同一地域であり、おそらく石橋廃寺と同一氏族によって建立されたとみるべきであろう との見解が有力である。
○「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、148×80×64.8cmの大きさで、26×12cmの円孔を持つ。国府町役場隣の庭にある。白鳳末。※心礎は広瀬古墳(円墳)の東すぐに置かれる。当然設置場所から見て、現位置ではない。
○現地説明板:奈良時代前期の寺院である。伽藍配置は分からない。東山中にある光寿庵とは上寺・下寺の関係にあった。心礎は明治12年に出土。花崗岩製。
 飛騨石橋廃寺心礎1       同        2       同        3       同        4
   同        5       同        6
国府広瀬古墳:横穴式石室を残す。平野部の耕作地にありながら、今日まで墳丘・石室が伝えられる。(下記の同様)
○なお東約100mにこう峠口古墳があり今も往時の面影を残す。蓋し古代地方権力の中心地であったのであろうか。この古墳は横穴式石室で、玄室の高さ3m、羨道を含む長さは13,5mを測る。
 こう峠口古墳1     こう峠口古墳2:こう峠は国府峠であろう。

飛騨大威徳寺跡

大威徳寺は鳳慈尾山と号する。下呂から中津川に抜ける街道の途中(下呂の南東方向)に舞台峠があり、それに続く台地(標高740m前後)に寺跡はある。二王堂(門)礎石、本堂礎石、 伝鐘楼堂跡、伝三重塔跡等が残り、五輪塔・長寿の泉なども残存する。
 ※但し、伝三重塔跡及び伝鐘楼跡と伝える地は発掘調査により、礎石配列がほぼ確認され、それにより前者は拝殿跡・後者は鎮守であろうと推定されるに至る。(未だ、三重塔跡は発見されていないと思われる。)
仁王門・本堂間には坊舎跡の平坦地が多数ある。附近には西観音平、馬場、茶の木畑、鎮守尾、般若谷等の地名を残すという。
現在唯一残る資料という「大威徳寺略記」(高山宗猷寺11世北州和尚筆<文化8年(1811)遷化>)には、
「本堂丈間五間四方、地蔵堂、大黒堂、講堂、鎮守、拝殿、鐘楼堂、三重塔、二王堂、坊数12坊、東坊、多聞坊、南坊、竹林坊、西坊、聖林坊、吉祥坊、北坊、宝光坊、池坊、満月坊、福成寺と、又、本尊は大威徳明王、塔は大日如来、鎮守は伊豆、箱根、熊野、白山四所なり。」
と記されていると云う。
また、大威徳寺関連寺院坊舎として、中津原萬福寺第三世良玄は宝光坊に住したと云い、御厩野には西坊跡(明治初年迄「阿弥陀寺」があったが移転した)、宮地には福成寺跡(福来寺)、小郷には多聞坊(文覚上人入寂の地との伝承を持つ)跡、桑原には極楽寺跡、万賀には道照坊跡が残るという。
末寺では東白川村神土常楽寺大沢蟠竜寺(いずれも明治初年苗木藩の廃佛毀釈で破壊)、佐見吉田大蔵寺などが 知られる。
創建についての伝説:源頼朝の願旨により永雅上人(一説に文覚上人)が大威徳明王を祀り、伽藍を建立したという。
「益田見聞書留」:「鎌倉殿以勅意建立開山永賀上人と云、叡山の末寺なり」
「戦国期の兵火で焼失、また天正13年(1585)の大地震でほとんどの堂宇が倒壊した」という。
大威徳寺の遺品は現地などから出土あるいは付近には数多くの遺品が伝来する。
◆詳しくはサイト「下呂散策」中の
 史跡大威徳寺の最新事情 および 史跡大威徳寺の案内 などのページを参照
2007/05/30追加:
平成15年度から発掘調査:
寺域は伝本堂跡を中心に、南北約200m東西150mと想定される。本堂正面は16.3m
発掘調査により、伝本堂跡などの建物跡や石段・築地塀・排水溝などの遺構や約3千点の遺物が発見される。
1)伝本堂跡の平坦面の周囲から、石積(石列)・側溝・石段などを発掘。
2)伝本堂西側すぐに8.8m×8.3m程の礎石建物を発掘、伝本堂跡との「渡廊下」と考えられる施設の礎石も発掘された。
 (本堂は五間四方と伝えられ、西側に渡廊下で繫がった堂を付設することが発見された。)
3)伝本堂跡基壇東側の石列から、直角に曲がる形で東に延びる石列を確認、これは東の伝三重塔跡・鐘楼跡などへの「参道」と推定される。
4)伝三重塔跡・伝鐘楼跡礎石配列がほぼ明らかになり、これは「拝殿」「鎮守」である可能性が高いと思われる。
 (三重塔は伝三重塔跡とは別の区画にあったものと思われる。三重塔遺構は未発見であろう。)
※南端の山門から本堂に続く幅10m近い参道の存在も以前に確認されている。
 飛騨大威徳寺跡概要1:「市政だより げろ」2005年3月号より:但し一部改変、左上本堂の絵は差替え、
                右下山門跡は大威徳寺の案内より転載。
 飛騨大威徳寺跡概要2:「市政だより げろ」2006年3月号より:但し一部改変
2009/10/31追加:
「文覚上人と大威徳寺」相原精次、彩流社、2008 より
「竹原鳳慈尾山大威徳寺略記」高山宗猷寺11世北州和尚 には「創建は永雅上人<伝未詳・或は文覚上人とも云へり・・・」とあり、永雅上人は全く未詳であり、あるいは文覚上人であったとも伝える。
 ※文覚上人は源頼朝の挙兵を促し、初期の頼朝を背後から支えた人物であり、いわば鎌倉幕府=武家政権誕生の契機となった人物であろうと評価できる。

美濃正家廃寺跡(史跡) :恵那市長島町正家字寺平32−5他

塔跡はかなりの程度原形が保たれていたのであろうか、今に土壇と殆どの礎石を残す。
 美濃正家廃寺塔土壇1:東から撮影    同      塔土壇2:南から 撮影   同      塔土壇3;東南から 撮影
  同 塔土壇・金堂土壇:手前は塔土壇、奥が金堂土壇、西より撮影
心礎(花崗岩製)は地上式で、現状は二つに割れているが、東側は原位置を保つ。心礎は一辺1.2m(4尺)の正方形で、高さ65cm、中央に径72cm(2尺4寸)の円穴を彫る。
当初心礎表面は削平され、そこに円穴が彫られてと思われるも、残念ながら、心礎表面はほぼ全面にわたり、割られているようで、円穴の深さは不明。
塔の規模は一辺6m(20尺)。礎石上面に焼失時に残された柱の痕跡があり、直径48cm(1尺6寸)程度の柱と推測されたようです。
心礎の割れている理由は、少々疑問ですが、舎利容器目的の盗掘のためと推定されるとの見解もあるようです。いずれにしろ、現状、心礎の周囲は乱掘され、特に西側は二つの四天柱を外した後に心礎の厚さの深さまで掘り込 まれ、出来た空間に半裁した心礎の西側部分を動かして、二つの心礎の間に隙間をつくったものと推定されている。
 美濃正家廃寺塔跡:北側から撮影、礎石残存状況が明確に分か る。
  同  心礎1・南から   同  心礎2・西から   同  心礎3・北から   同  心礎4・東部分
  同  心礎5・東部分   同  心礎6・西部分   同 心礎・四天柱礎石
側柱はすべて残存し、1個(立木により動く)を除き、すべて原位置を保つ。
四天柱礎は北東の1個は原位置、南側の2個は動かされて、北西のものは亡失。塔基壇は一辺10.2m(34尺)で、版築により築かれ、乱石積の化粧をする。外側は幅約90cm(3尺)の犬走りがめぐり、その外側には雨落溝がある。
但し、発掘調査後、金堂土壇の修復が行われた模様で、周囲に盛土がされ、礎石の据付・亡失礎石の位置表示ブロックの設置がされたと思われるも、土壇の周囲の盛土が 不完全で、崩落が進行し、土壇が荒れているのが気がかりです。(「金堂土壇状況」の写真を参照)
  同  塔西側柱礎石   同  塔中央西礎石   同  塔中央東礎石   同  塔東側柱礎石
伽藍配置は東に塔、西に金堂、北に講堂(表面では不明)を配する。
金堂基壇は11.1m(37尺)×9.9m(33尺)で、乱石積基壇であった。礎石は、身舎の10個がすべて原位置を保ち、廂は1個を除きすべて移動・亡失していたが、根石・礎石抜取穴が確認された。身舎と廂の間隔は1.5m(5尺)。大きさは身舎:桁行3間、梁行2間で、柱間は1.5m(5尺)の等間であり、廂は桁行3間、梁行3間で、桁行中央間は2.7m(9尺)、両脇間は2.4m(8尺)、梁行中央2.1m(7尺)両脇間1.95m(6尺5寸)であった。礎石に残る柱痕跡から柱の径は45cm(1尺5寸)前後と推定された。
なお,金堂の建築様式は,廂の柱が身舎の柱に対して放射線状に位置する特異な様式である。類似の建築として、伊賀夏見廃寺金堂、近江穴太廃寺再建金堂、伯耆上淀廃寺などがある。
  同     金堂土壇:南西より 撮影   同   金堂礎石1   同   金堂礎石2   同 金堂土壇状況
寺跡は東西約110m、南北約70mと云う。創建は奈良期で、平安期9世紀後半ごろに火事で焼失したとされる。 廃寺は小高い河岸段丘上に立地し、おそらく退転後は山林化し、そのため良く遺跡は残されたと思われる。
 美濃正家廃寺位置
○2008/08/12追加:「天武・持統朝の寺院経営」より
 正家廃寺遺構全体図
2009/12/12追加:
○「正家廃寺金堂の発掘調査 : 放射状の柱配置をもつ建物」島田敏男(「学術講演梗概集. F-2, 建築歴史・意匠」,1998 所収) より
 美濃正家廃寺金堂平面図

美濃長滝寺三重塔跡

白山の「三馬場」の一つ「美濃の長滝寺白山本地中宮」には三重塔があり、塔跡が現存する。
 美濃白山長滝寺三重塔

美濃弥勒寺跡(史蹟)

弥勒寺は壬申の乱で功績のあったこの地の牟義都氏が朝廷の援助を受けて建立されたと考えられている。
昭和28年の発掘調査で法起寺式の伽藍配置であることが確認される。
なお元禄2年(1689)円空によって現弥勒寺は再興され、円空入定屈が近くに現存します。なお現在も発掘調査が継続中で、近年弥勒寺(天台宗寺門派)は遺跡地の東に新築して移転したと思われる。
塔跡:基壇および心礎と側柱礎石4個が残存する。
心礎は1.7m×90cm?、二段孔(外孔径93cm・深さ1.5cm、内孔径79cm・深さ1,5cm)を穿ち、孔中央に径13cm・深さ9cmの小孔を穿つ。ただし心礎の一部には欠損があります。側柱礎は自然石に近いもので、南西部2個、北部1個、南東部1個残存す。塔基壇(瓦積み)は一辺11.5m、塔一辺は6.4mとされる。
金堂跡は礎石9もしくは10個が残存し、4間3間の建築のようです。そのほか中門、回廊、講堂、経蔵、鐘楼?跡などが検出され、各々石柱で表示されている。
 美濃弥勒寺跡     弥勒寺塔跡1     弥勒寺塔跡2     弥勒寺塔跡3     弥勒寺塔跡8
 弥勒寺心礎4      弥勒寺心礎5     弥勒寺心礎6     弥勒寺心礎7
 弥勒寺門跡     弥勒寺金堂跡礎石     弥勒寺講堂跡     弥勒寺経蔵跡     弥勒寺廻廊跡
 弥勒寺円空上人塚
○「佛教考古学論攷 1 寺院編」石田茂作 より
 美濃弥勒寺跡実測図:なお現弥勒寺は東方すぐに移転している。
○「岐阜県史 通史編 原始」 より
塔は石積基壇、心礎は1.9×1.7mで、径約80×1.5cmの円穴と径13.5×10.5cmの舎利孔がある。
側柱礎4個遺存し、柱間は2.1mを測る。
 弥勒寺塔心礎実測図     弥勒寺塔跡実測図     弥勒寺金堂跡実測図
2006/11/23追加:
○「史迹と美術 118巻」所収「行基建立の四十九院」田中重久、昭和14年 より
 美濃弥勒寺心礎実測図

美濃宝蔵庵心礎:鵜沼大安寺町1丁目11

実測:120×100×高さ50cm(見える高さ)、柱座径50cm深さ5/4cm、小孔径11×3cm を有す。
礎石も柱座もかなり小さく、かなりの小型心礎と思われる。小孔は舎利孔なのか枘孔なのかは不明。
現在心礎は大安寺(臨済宗)にある。元は北東約600mの丘陵にあり、その地が宝蔵庵の地と云う。
室町期の記録によると、宝蔵庵は美濃揖斐郡谷汲村横蔵寺末と云う。
 ※情報は以上で、詳細は不詳。但し心礎は小型でがあるが、紛れもなく、心礎の形状を有すると思われる。
現位置の北東の丘陵中に古代寺院があり、中世には 谷汲横蔵寺末宝蔵庵として存続するも、いつしか寺院は退転し、心礎のみが大安寺に遷されたものと推測される。心礎が現存するのでこの古代寺院は平安初頭までには創建されていたと思われる。
美濃宝蔵庵心礎1   同       2   同       3   同       4   同       5
  同       6   同       7   同       8   同     現況

美濃平蔵寺跡b:各務原市蘇原熊田町2丁目20・・・心礎 とするのは疑問がある(経蔵礎石であろう)。

・寺伝では古の平蔵寺の経蔵礎石と伝える。附近から白鳳期の瓦を出土と云う。
・「幻の塔を求めて西東」:心礎とする。(根拠は不明)
心礎は一重円孔式、130×105×45cm(復元)、55×20cmの円穴を持つ、白鳳後期、半分に割れている。
・「岐阜県史 通史編 原始」:心礎とする。(根拠は不明)
山田寺東約800mに平蔵寺(黄檗宗・戦災により本堂焼失)がある。
心礎は硬砂岩製、心礎上面径90cm(半壊)、径30×20cmの円孔がある。この周辺には若干の礎石が散在したと云うが現在は散逸と云う。その他の遺構は全く不明。
・各務原市は「平蔵寺心礎」として市文に指定するも、心礎とする根拠は不明。
 ※情報は以上で、古瓦を出土と云うから古代寺院があったと推定できる。しかし現状の心礎の形状及び上記情報からだけでは、心礎と断定するのは無理で、仮に心礎としても、後世の転用(寺伝によれば経蔵礎石)によって、かなり原形は損なわれていると思われる。
 美濃平蔵寺礎石実測図:「天武持統朝の寺院経営・東日本」より
 美濃平蔵寺現況  美濃平蔵寺心礎1    同       2    同       3    同       4    同       5
・2008/04/09追加;
※陸奥龍宝寺に「法宝蔵礎石」が現存する。
形状(一重円穴式心礎に類似)・大きさから小型の塔心礎にも見える。 しかしこれは塔心礎ではなく(「法宝蔵」とは不明ながら)例えば経蔵の回転軸柱を受けるなどの「礎石」なのであろう。
以上の例と、平蔵寺のこの遺物(礎石)の現状の形状から、心礎とするよりは寺伝で云う「経蔵礎石」とするべきと思われる。
 陸奥龍宝寺法宝蔵礎石

美濃山田寺跡:蘇原寺島町2-18

現在は臨済宗無染寺境内に心礎を残す。
心礎は明治期に現在地から西50mのところから出土したと云う。(藪の中の地蔵尊の台石であったが明治初年に現地に移されるという。)
その際、舎利孔から金銅製の舎利容器(銅壷)が完全な形で発見された。無染寺南にある神明社に6個の礎石があるが、これは塔の礎石と推定される。
付近の山田寺境内に礎石群を残す。現山田寺はかなり荒廃し、粗末な堂宇を残すのみであるが、西側北西側を始め境内に多くの大型礎石が散乱する。しかし明確な伽藍配置は良く分からない状態である。
伝承では山田寺は大化5年(649)蘇我倉山田石川麻呂によって建立と伝えるも、このあたりは各牟勝(かがむのすぐり)氏の本拠地で、また村国男依(壬申の役の立役者)の本拠地に隣接するから、実際はこれ等の豪族によって建立されたと推測される。
 美濃山田寺心礎1   美濃山田寺心礎2   美濃山田寺心礎3   美濃山田寺心礎4   美濃山田寺心礎5
 美濃山田寺心礎6   美濃山田寺心礎7   美濃山田寺心礎   美濃山田寺心礎   美濃山田寺心礎10
 美濃山田寺心礎11   美濃山田寺現況
 美濃山田寺礎石1    美濃山田寺礎石2    美濃山田寺礎石3
○「幻の塔を求めて西東」:
心礎は二重円孔式、181×130×100cm、85×6cmと16×15cmの孔を穿つ、白鳳l後期。
「岐阜県史 通史編 原始」:
現山田寺(臨済宗妙心寺派)本堂西北及び西南に礎石群が遺存する。この礎石群は4群からなるとされるが、出土遺物が無く年代・性格は不明とする。
本堂東北約200mの無禅庵に塔心礎が残る。かっては現位置の西側に埋没していたと云う。大きさは1.5×1.2mで、径80×4/7cmの円穴と径16cm(底径6cm)×15cmの舎利孔を穿つ。塔心礎北西の地点で鴟尾や瓦類が発見されている 。
佐波理蓋鋺合子(山田寺蔵)はこの舎利孔に納められていたという。
  佐波理蓋鋺合子実測図
○「日本の木造塔跡」:心礎大きさは1.4×1.2×0.75cm、径82×5cmの円穴と中心より少しずれて径16書ける15cmの円孔を穿つ。
もとは山田寺よりの藪の中にあり、明治初年に現地に移す。地蔵尊の台石であったが、今地蔵尊は取除かれている。
山田寺は中世まで存続したが、永禄年中、織田信長の兵火で焼失、元文2年(1737)に再興される。
2007/01/10追加:
○「大和の古塔」黒田f義、天理時報社、昭和18年 より
舎利容器は今、外函の沙張合子(高さ4寸3分、径3寸4分5厘)しか残されていないが、内に銀・金の容器があったことは容易に想像される。
 美濃山田廃寺舎利容器  美濃山田廃寺舎利容器安置状況図  美濃山田寺心礎
  Web情報:
 美濃山田寺舎利容器2  美濃山田寺舎利容器3
2007/12/24追加:
○「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 美濃山田寺舎利容器3:上記の「舎利容器」と同一写真:山田寺蔵
 心礎内舎利容器断面図:上は摂津太田廃寺、下は美濃山田寺(小林行雄製図)、上記「舎利安置状況図」と同一
    ▽出土舎利容器の一覧は「舎利容器一覧表」を参照。

美濃羽島郡旧三斗山島墓地心礎

「X」氏より、現在、各務原市川島松原町にある旧三斗山島地区から移転してきた墓地の中から、心礎が発見されたとの「報」を受ける。
「報」により、各務原市教委の報道発表の記事を読むと、周囲は多少破壊されているとしても、一見して典型的な古代寺院の心礎と分かる「奇麗な心礎」であることを知る。今の今まで、まったく「発見」されなかったのが不思議なことであった。
○2017年11月末、各務原市教委報道発表
 <出所:2017年11月30日岐阜新聞電子版、2017年12月1日毎日新聞地方版 より>
要旨:
古代に属する「心礎」が、各務原市川島松原町の旧川島町三斗山島地区から移転してきた墓地の中から発見される。
塔心礎は砂岩製で、大きさは最大長さ(縦)152cm、最大幅(横)128cm、高さ56cm。座面の直径は76〜78cm、座面中央には柱を固定するための枘穴(直径48cm、深さ13.5cm)がある。また、座面の周りには排水溝(幅2cm、深さ5mm)がある。
昨年8月、この墓地で先祖供養の墓掃除をしていた近くの住人が発見し、市教委へ連絡し、市教師が1年超調査し、心礎と断定し、今般の発表となる。
心礎が発見された墓地は「大正から昭和時代の治水工事で水没した旧川島村の三斗山島地区から移転し、整備」されたという。従って、墓地の移転に合わせて、心礎も移されたのであろうと推測される。
 但し、三斗山島地区に古代寺院が存在したかどうかは不明(遺構や遺物の出土はなし、文献上の記録もなし)であり、また当地区は木曽川の中州にあった地区であり、古代に寺院を営むような政治的あるいは経済的に安定していたのかどうかも不明であるので、「心礎」が三斗山島地区からの移転かどうかは不明であろう。さらに、三斗山島地区は木曽川の中州の地区であり、古代寺院建立の好地とも言い難いであろう。
 旧三斗山島墓地心礎0:岐阜新聞電子版
「X」氏2018/01/03撮影画像:
 旧三斗山島墓地心礎1     旧三斗山島墓地心礎2
2018/03/11撮影:
○三斗山島の略歴:
 美濃川島村は木曽川の大小様々な中州で構成される村であった。三斗山もそれらの中州の一つであった。つまり美濃川島村の中州の一邑(村落)であった。
 しかし、三斗山村落の中州には堤防がなく、木曽川の増水で、容易に浸水すると云った地域であった。
大正12年内務省による木曽川新河道形成工事が始まり、三斗山中州は全島が河床となり、中州(島)は消滅することとなる。大正14年には三斗山全戸が三斗山島(中州)から現在の場所(川島松原町)へ移転する。かくして、三斗山島(中州)は消滅する。
墓地もこの時移転し、この心礎も、中州(三斗山島)から、運ばれてきたものであろう。
 往時の三斗山は面積約550町、30戸約180人が住んでいた。2社の氏神(神明社)があり、東は「野田のお宮」、西は「岩田の宮」(岩田氏の宮という意味であろう)と呼ばれていた。
主たる生業は養蚕で、そのほか上流で丸石を採取して石問屋に売るのも大きな収入源であった。畑作は僅かであり、それは自給用であった。西の方は畑をもてず、島外に畑を持っていた。養蚕の桑も島外で摘む必要があり、全戸で川船を所有していたという。
 なお、移転当時の戸主30名は野田氏23名、稲川氏4名、岩田氏3名という。
 旧三斗山島墓地心礎11:旧三斗山墓地の片隅に記念碑があり、その土壇は大石が取り囲み、その向かって左手には心礎を含む巨石が置かれる。しかし、心礎以外には礎石と思われる石は見当たらず。
 旧三斗山島墓地記念碑:表面は斎藤道山/岩田家先祖之碑と刻み、勿論斎藤道山(道三)及び岩田家先祖の碑であるが、推測すれば、三斗山島岩田家の祖先は斎藤道山(道三)という意味も込めているものと思われる。丸に七本骨扇の家紋が描かれるが、これは岩田氏の家紋であろう。なお背面には昭和41年建立の銘がある。
 旧三斗山島墓地心礎12     旧三斗山島墓地心礎13     旧三斗山島墓地心礎14     旧三斗山島墓地心礎15
 旧三斗山島墓地心礎16     旧三斗山島墓地心礎17     旧三斗山島墓地心礎18     旧三斗山島墓地心礎19
 旧三斗山島墓地心礎20     旧三斗山島墓地心礎21     旧三斗山島墓地心礎22     旧三斗山島墓地心礎23
 旧三斗山島墓地心礎24     旧三斗山島墓地心礎25     旧三斗山島墓地心礎26     旧三斗山島墓地心礎27
 旧三斗山島墓地心礎28     旧三斗山島墓地心礎29     旧三斗山島墓地心礎30
心礎は脆い砂岩を使用している。外辺は多少欠けている部分もあるものと推定される。
柱座は平滑に削平し、その径は76〜78cmを測る。そして柱座中央に径48cmの枘孔を穿つ。この枘孔の底はフラットではなく椀状に彫り窪められているが、おそらくは、墓地の手水鉢などに転用した時、丸く彫り窪めたのであろう。従って本来、枘孔の深さは13.5cmよりもう少し浅かったものと思われる。
柱座の周りには巾2cmほどの浅い排水溝が廻る、そして、そこから外に向かって、ほぼ確実に確認できるもので7本の排水溝(巾は2cm程度)が放射状に彫られる。この放射状溝は表面の割れなどで確認できないものがあり、おそらくは確認できる7本に加えて、プラス5本程度の溝があったものと推定される。
この石は形状として古代寺院の心礎のそれを備え、また法量も心礎の法量に合致するものであり、教委の断定のとおり、心礎であることは間違いないであろう。
 では、心礎に間違いないとすれば、この心礎は如何なる寺院の心礎なのであろうか。
 蘇原地域古代寺院遺跡:○リーフレット「野口廃寺」各務原市教育委員会、平成17年 より
木曽川右岸にある各務原台地の中央北部にある蘇原地区には、南北約2.2kmの狭い範囲に、北から伊吹廃寺、山田寺跡、平蔵寺跡、野口廃寺、長者屋敷廃寺の5ヶ寺の古代寺院跡が知られる。山田寺跡には心礎が現地に現存、平蔵寺跡にも心礎が現存するというもこれは心礎である可能性はほぼない、山田寺以外に塔が建立されていたことは確認はされていないが、これらの廃寺の何れかから、三斗山島(中州)に運ばれた可能性は十分にあると思われる。何しろ、舟を操り「上流で丸石を採取して石問屋に売るのも大きな収入源」であったというから、心礎を三斗山島に搬入するのは、難しいことではなかったであろうと考えられるからである。
 ※三斗山島と蘇原地域は直線で2里前後離れている。
勿論、蘇原地区以外の、あるいは木曽川左岸の何れかの古代寺院から搬入されたことも十分ありうるであろう。
2018/05/08追加:
○「川島町史  通史編」岐阜県羽島郡川島町編、1981 より
享保12年(1727)木曽川通繪圖とその文字起し圖がある。
 享保12年木曽川通繪圖:絵図向かって左から1/3附近に三斗山(島)が描かれる。
 木曽川通繪圖文字起し圖
 「尾張地名考」曰
  笠田島の内に三斗山(サンド)、小屋場といふ所あり・・・

美濃厚見寺心礎

厚見寺塔心礎は、岐阜瑞龍寺(臨済宗妙心寺派)山門を入ってすぐの左手、瑞龍寺開山悟渓国師墓に向かって左手にある。
厚見寺は瑞龍寺一帯に伽藍が展開していたと考えられるが、心礎は元は現位置より少し南の方にあったとされる。
なお伽藍配置は不明と云う。
出土瓦に「厚見寺瓦」「中林寺」などの文字瓦がある。(「厚見寺瓦」の文字瓦は広くこの地に散布すると云う。)
寺院は白鳳期の創建とされる。
心礎は芋状の細長い形状で、大きさは2.7m×1.5m、高さ90cm。三段孔心礎とされる。径84cm深さ11cmの孔があり、その中心に径11cm深さ9cmの小孔、その周辺に径16cm深さ1.2cmの蓋受孔を穿孔する。<心礎6を参照>
境内にはほかの礎石も数個あると云うも、不詳。
 美濃厚見廃寺心礎1     同        2      同        3       同        4       同        5
   同  瑞龍寺境内      同      心礎6
2007/12/15撮影:
心礎は柵内にあり、心理的に立入が困難である。柱穴には通常は水があり、舎利孔や蓋受孔の様子を確認することが出来ない。
本日もやや水は濁り、風のため水面は波打ち、また廟所の築地塀の瓦等が水面に映り、写真にも舎利孔などの様子を捉えることが出来ない。
 美濃厚見寺心礎1       同       2       同       3
 瑞龍寺は禅の大刹でいまなお塔中6院を有し、境内は清浄に維持される。寺は土岐成頼・斉藤利藤によって創建され、悟渓国師を開山とする。 塔中は三門を入って参道東に瑞雲院、鶴棲院、臥雲院、西に天沢院、開善院、雲龍院と並ぶ。
 ※なお美濃厚見寺復元模型塔が岐阜市歴史博物館 にある(展示)。
2011/05/29追加:「佛教考古學論攷」 より
 美濃厚見廃寺心礎

美濃護国之寺心礎

「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、大きさは140×130×45cmで、径20×15cmの円孔を穿つ。奈良後期。
実測:140×110cm、枘孔は径18cm深さ11cm。
心礎は小型で、奈良後期という観察に矛盾はない。奥の院手前にある「慈光霊廟」正面右手にある。
原位置は動いていると思われるも、塔跡・出土場所あるいは由来などは不詳。
護国之寺に以下の什宝があり、奈良期の創建を窺わせる。
金銅獅子唐草文鉢 1口(奈良期・国宝)、塑像佛頭及び残欠1箇(奈良期)
 美濃護国之寺心礎1       同        2       同        3       同        4       同        5
 ※なお江戸期の三重小塔を現存する。  参照:美濃護国之寺三重小塔

美濃大宝寺跡b:岐阜市大宝町大宝寺 (岐阜市大宮町)

 美濃大宝寺

美濃笠松連台寺(東流廃寺)塔心礎 :羽島郡笠松町

心礎は2個に割れ、半分は白髭神社境内に、残りは東本願寺派笠松別院にある。
白髭神社境内:昭和32年の土地改良事業で、長池東流の地下から多くの布目瓦とともに塔心礎の半分が出土。
寺院は奈良期のものと推定されている。現在の白髭神社が蓮台寺跡と推定され、おそらく出土地点と思われる所に蓮台寺遺跡の石碑があり、心礎が置かれている。 なを神社自体は近年の創建と思われ、正体不明です。
笠松別院:明治初めに経蔵を建立するときに、長池の信者が田中から掘り出したこの礎石を土台石にと寄進したと云う。
当時は心礎との認識は無かったようです。
昭和32年の発掘調査では、上記心礎と心礎右位置に礎石1ヶが出土。但し塔基壇など他の遺構は発見されていないようです。心礎は硬質砂岩製で円形柱座に円孔を持つ。
2002/01/26:「X」氏情報:大きい円孔の径81cm、小さい円孔の径32cm。
白髭神社所在  笠松別院所在・・・「X」氏ご提供画像
2003/6/10:「幻の塔を求めて西東」:心礎は2重円孔式。150×120cm、円孔は82,5×3cm、、中の円孔は34×8.5cm、白鳳後期。
2005/2/20撮影:
<美濃白髭神社所在>美濃蓮台寺石碑   同   心礎S1   同      S2   同      S3   同      S4
<美濃笠松別院所在>美濃蓮台寺心礎K1   同      K2   同      K3   同      K4   同    刻印

美濃大隆寺跡:大野町小衣斐

伽藍配置は双塔式とされ、現状、心礎は2箇所(小衣斐の西濃ゴム<西濃イノアック>工場敷地内 (A)及び大野町民俗資料館(B))に分かれて置かれている。
小衣斐の工場敷地が寺地という。小衣斐の工場敷地に整備されて心礎はある。
その説明板には「この地に天台宗放光山大隆寺があり、伝教大師の創建と伝えられる。金堂本堂講堂宝塔会殿方秀院を備えていた。但し出土遺物からは白鳳期の創建と思われる。この附近一帯は古瓦が散乱し、二重八弁の蓮華紋瓦・重弧紋のある唐草瓦が出土する。天正15年(1546)斉藤道三の相羽城攻撃で焼失した。塔の真木(心柱)は焼け残り、2年もそのままの状態であったと伝える。(美濃史より)
心礎は190×200cmの大きさで、径40×20cmの円孔を持つ」
・「幻の塔を求めて西東」:心礎1は186×153×74cm(復元寸法)、径40×18cmの円穴を持つ。一重円孔式、かなり損傷。白鳳。
心礎2は175×111×45cm(復元寸法)、径33×12.5cmの円孔を穿つ。一重円孔式。
・「日本の木造塔跡」:現在大きい心礎は工場正面に縦てて飾ってある。1.88×1.57m、で径40×19cmの円孔がある。小さい方は1.3×1.2mで、径33×10cmの円孔がある。鎌倉末期の「九条家攝籙渡荘目録」には法成寺末とある。
・「岐阜県史 通史編 原始」岐阜県編集、1972 より
「かっては水田中に塔心礎及び礎石が露出しており、・・・昭和43年この礎石群一帯が何等の調査・保護処置をとられることなく、工場建設用地となり、・・・地中深く掘削され、・・・大隆寺跡は完全に破壊されたと考えられる。・・・誠に文化財行政のいたらなかった点を心してほしい・・・」「現在心礎は・・工場敷地に築山の一部として縦てておかれている」
「小川榮一氏の調査によれば、塔心礎は186×153×74cmの大きさで、径40×18cmの円孔を穿つ。この心礎の西側には約20m離れ120×96×45cmの大きさで、径33×13.5cmの円孔がある礎石があった。これ等の礎石は地表面にほとんど露出していた。これらが元々原位置を保っていたかどうかは不明であるが、双塔式伽藍であった可能性が高い。他の堂宇については全く不明である。」「本寺跡から出土する瓦類は全て白鳳期のものである。」「昭和43年の工場建設で多くの遺物が出土したと聞くが、 現在は軒丸瓦・土器類数点が遺存するのみである。」「文献的には大衣斐西覚寺文書に天文15年兵火のため大隆寺が焼失とあり、また康安2年(1362)大隆寺領を大興寺に寄進とある。(大興寺文書)但し、考古学的にはこの廃寺と大隆寺が同一である可能性は極めて低いと思われる。」
 美濃大隆寺心礎 A1   同        A2   同        A3   同        A4   同        A5
   同       A6   同        A7   同        A8
 美濃大隆寺心礎B1   同        B2   同        B3   同        B4   同        B5
   同       B6   同        B7
瓦類写真:大野町民族資料館蔵(民族資料館は通常は閉館されていて、現在は大野町公民館に展示)
   同     軒丸瓦   同    軒丸瓦2   同     軒平瓦
美濃大隆寺心礎B:工場敷地にある心礎Bは以前は縦て置かれていた。「大野町の文化財」
なお、尾張一宮福寿院の「康冨記」の記事を参照。

美濃禅蔵寺三重塔跡

三重塔跡(多宝塔とも)と伝える一部石垣積みの平坦地を残す。
現在の本堂すぐ南に小さい舌状の山裾があり、その東面半部と北面とに石垣(坂本積みという)を築き、平坦面を造る。現在は小祠があるだけで、礎石などの塔の遺構を見出すことは困難で ある。また三重塔跡という根拠の資料については現在のところ入手できてはいない。
禅蔵寺は禅宗と思われるが、かっては相当な大寺であったと伝え、そうであるならば何らかの塔が建立されても不思議ではない。
当寺は延文元年(1356)土岐頼忠(美濃5代目守護)により建立される。開山は覚源禅師平心處齋。創建当時は多くの塔頭を有したと伝える。
 (現在はほぼ廃道と化した旧参道の脇には石積みの平坦地を残す。・・・塔頭跡かどうかは未確認。)
なお当寺には頼忠(応永4年・1397没)など土岐一族の墓(宝篋印塔)10基を残す。
 美濃禅蔵寺三重塔跡1     同        2     同        3     同        4
   同 土岐一族墓所
跡1及び跡2:塔跡石積、跡3及び跡4:塔跡の平面であるが、塔遺物は何もなし。

美濃円興寺伽藍跡(推定多宝塔跡)

 →美濃円興寺多宝塔跡

美濃宮処(みやこ)寺跡

 →亡失・移転心礎」の「美濃宮処寺」の項

美濃宮代廃寺塔心礎(史蹟)

南宮大社西南方500m程の所に塔跡があり、心礎が残る。
心礎は花崗岩製、大きさは1.5×2.1mで径約82cm、深さ13cmの孔を持つ。
但し現状は、後世に荒れたようで、かなり不整形な形状をしている。
金堂は現地の藤樹寺本堂の場所(現在は更地)と推定され、法起寺式であったと云う。
白鳳から平安前期の瓦が出土し、創建は白鳳期とされる。
2002/08/12撮影:
 美濃宮代廃寺心礎1      同        2      同        3      同        4       同       5
○「岐阜県史 通史編 原始」:
昭和42年塔跡東端が発掘された。塔跡は殆ど削平されているが、瓦積基壇と階段の一部が発掘された。
瓦積基壇は現在約7段・20cmほどが遺存している。なお最下段の瓦は軒平瓦を使用していて、後世にこの基壇は積み変られたものと思われる。(この軒平瓦は平安期のものとされる。)
東側塔基壇幅は10.92m、北側は12,2m、階段幅は約3.2m、基壇からの出は約1,6m。
心礎は1.7×1.2m、径60×10cmの円穴を彫る。
 宮代廃寺塔跡実測図     宮代廃寺瓦積基壇 1    宮代廃寺瓦積基壇2
○「岐阜県史蹟名勝天然紀念物調査報告書 第9輯」:
宮代廃寺心礎は古来より古塔の礎石と伝え、触るれば腹痛むと称す。それ故に礎石は今日まで遺存することを得たり。
 宮代廃寺礎石所在地図
○2011/12/24撮影:
 美濃宮代廃寺心礎1    美濃宮代廃寺心礎2    美濃宮代廃寺心礎3    美濃宮代廃寺心礎4    美濃宮代廃寺心礎5

美濃柏尾寺跡:養老町

天平宝字年中(757〜764)の創建と伝える。柏尾山柏尾寺は多芸7坊中の一寺で柏尾には24坊があったと伝える。 柏尾集落から金堂跡に至る直線の参道左右には坊舎跡と思われる段差(推定)を見ることが出来る。「濃州多芸庄柏尾寺阿弥陀堂本尊」(彦根龍潭寺蔵)の像銘は天文23年(1554)であり、神明社棟札に柏尾寺僧良舜が遷宮師を務めるとあると云う。
永禄5年(1562)織田信長の兵火で焼失すると伝える。現在は神明社のみが残る。
※多芸七坊:法相宗であり、別所寺・竜泉寺・光堂寺・柏尾寺・養老寺・光明寺・藤内寺と云う。
◆多宝塔跡:一辺は約4.9m(実測)、方形の土壇上に11個の礎石が残ると云う。しかし何を根拠に多宝塔跡とするのかは不明。土壇上に礎石が11個残ると云うも、方3間を示す配列とはかなりかけ離れた配列であり、現状では礎石配列と云うよりは基壇の縁石との可能性が強い(多宝塔跡概略図参照)と思われる。また多宝塔であるならば当然あるであろう四天柱礎(勿論亡失ということもある)も見当たらない。
 柏尾寺多宝塔跡概略図
◆金堂跡:観音堂付近に南北に6個、東西に4個の礎石が残る。柱間はすべて九尺(2.7m)と云う。
◆附近には膨大な石佛・五輪塔などが埋もれていたようで、明治後期、それを寄せ集め千躰仏と云う塚などが築かれている。
 多宝塔跡・北より撮影     同  ・北西より撮影     同  ・西より撮影     同  ・南より撮影     同  ・東より撮影
 柏尾寺金堂跡礎石1      同        2    柏尾寺跡千躰仏1       同   千躰仏2
◆参考:勢至山光堂寺跡:尾廃寺北500mにある。現在は日吉権現の境内となる。本殿背後の平坦地に光堂寺金堂(推定)跡があり、礎石が少なくとも1個が残る。多芸七坊の一坊で堂塔を具備し多くの坊舎があったと云う。詳細は不明。
 美濃光堂寺跡・日吉権現     同   推定金堂跡     同  推定金堂跡礎石

伊勢多度神宮寺

 →伊勢多度神宮寺

伊勢額田廃寺

中世には浄蓮寺と号する寺院があったが、織田信長の北勢侵攻により焼失、その後再興はされず、田畑となる。
近世には塼仏・古瓦の出土を見る。
昭和16年に県史蹟指定。昭和39年宅地開発(有吉台住宅団地造成)で指定解除、緊急発掘の後、寺院跡は破壊され、消滅と云う。
緊急発掘により 塔、金堂、講堂(瓦積基壇)などからなる法隆寺式伽藍を発掘。白鳳期の寺跡とされる。
現在、記念碑が附近の児童公園の片隅に建つのみと云う。
○2008/08/12追加:「天武・持統朝の寺院造営」 より
 額田廃寺発掘図
○2020/02/07撮影:朝日町歴史博物館展示(レプリカ)を撮影
 額田廃寺複弁八葉蓮華紋軒丸瓦
(参考)四日市智積寺跡出土瓦・・・・・智積寺跡複弁八葉蓮華紋軒丸瓦

伊勢員弁廃寺心礎(伊勢山田廃寺心礎)・・・いなべ廃寺

2019/12/07追加:
東員町文化財マップ より
員弁廃寺の礎石 (山田)
員弁寺の塔の心礎と思われる古代寺院の礎石が、山田の円光寺に残っている。
古代猪名部氏の氏寺である員弁寺が東員町内に存在したという有力な根拠の一つであるが、その所在地については不明である。
 ※圓光寺;三重県員弁郡東員町山田1026に所在。
2020/03/11追加:
○「昭和55年度県営圃場整備事業 地域埋蔵文化財発掘調査報告 三重県埋蔵文化財発掘調在報告44」三重県教育委員会、1981 より
p.15〜
「員弁郡東員町 山田廃寺
東員町山田字鐘撞他に寺跡が存在することが知られるようになった歴史は古く、すでに昭和8年の「三重県古瓦図録」(鈴木敏雄著)に紹介されている。同書では、員弁寺址として紹介されており、出上遺物として、八葉単弁軒丸瓦と扁行唐草文軒平瓦が写真図版としてのせられている。また、出土の瓦には焼けたものが多く、寺が火災にあったのではないかとも推測されている。また、士壇を予想させる方形の高まりも報告されている。
更に、「員弁史談」(近藤実著)では、山田村に大師堂員弁寺という真言宗、又は天台宗の大寺があり、天正年間に織田信長の兵火により焼失したが、その寺域は方三丁に及ぶものであったとされている。
また、同寺の礎石が、山田所在の円光寺に残されていることも紹介されている。
 この員弁寺址域は員弁寺が、今回発掘調査の対象地となった山田廃寺であることは、小字名の鐘撞等から明らかなところである。
山田廃寺は、戸上川左岸にあり、現東員町役場庁舎を含み、周囲の水田、畑をもあわせた平安時代の寺跡として登録されている。」
○2019/11/23「X」氏撮影画像
推定心礎は、本堂に向かって左手前方に一段高く整備された一画にある。
寸法はおよそ130cm×110cm、孔は一段で径18cm、深さは11cmを測る。(以上「X」氏計測)
「心礎の可能性は高い」との報告である。
 推定員弁廃寺心礎1     推定員弁廃寺心礎2     推定員弁廃寺心礎3
※小型の心礎である。写真を見る限り、表面を削平し、枘孔を穿つ心礎形式である。「心礎の可能性は高い」との「X」氏見解に同意する。
なお、員弁廃寺については未だ確たる遺構の出土は見ないようである。
○2020/02/07撮影:
 推定員弁廃寺心礎11     推定員弁廃寺心礎12     推定員弁廃寺心礎13     推定員弁廃寺心礎14
 推定員弁廃寺心礎15     推定員弁廃寺心礎16     推定員弁廃寺心礎17     推定員弁廃寺心礎18
 推定員弁廃寺心礎19     山田圓光寺:真宗大谷派、員弁山と号する。
(参考1)山田毘沙門天
圓光寺裏側(北西裏)に毘沙門堂がある。
境内の掲示板(石碑・・・下に写真掲載)には次のようにいう。
 古伝によれば、この毘沙門天はその昔、員弁寺塔頭法明寺の一宇であったが天正年中(1573-)の織田信長北勢攻めで伽藍は焼失する。
しかし、毘沙門天像は村人の手で運び出されて難を逃れるという。
像の丈は5尺余で、当初は鳥取山田社に納めてあったが、圓光寺5世が小宇を建て、弘化年中(1844-)に改築され現在に至る。
 ※真偽のほどは不明であるが、員弁寺塔頭の遺仏という。何れにしろ、員弁寺が全く不明であるなか、推定心礎とともに員弁寺を偲ばせる貴重な遺物であろう。
 山田毘沙門堂     山田毘沙門堂縁起石碑
 毘沙門堂諸仏:堂内には向かって左から釋迦三尊他、不動明王立像、阿弥陀如来立像、毘沙門天立像、観音菩薩立像を安置する。
 毘沙門天立像
(参考2)山田神明宮(現在は鳥取山田神社と称する。)
山田毘沙門堂の背後(西)に存在する。
近世は山田神明宮と称するという。
一方、延喜式内社で伊勢國員弁郡の項には鳥取田山田神社と鳥取神社が挙げられている。
ここでいう社号にある鳥取は「鳥取部」に由来し、山田は「山田郷」に由来するのであろう。
繰り返すが「鳥取」は鳥取部に通じ、古代には鳥取部の流れをくむ氏族がいたのであろう。そしておそらくこの氏族が鳥取山田神社や鳥取神社を祭祀し、古代員弁寺を造ったものと推測される。
 ※もっとも、員弁廃寺は、根拠が何であるのかは不明であるが、古代猪名部氏の氏寺という。
 ※ただ、猪名部氏という氏族も実態は良く分からない。伝えられる素性は記紀の物語であるし、
 付近の北大社の猪名部神社の社伝では、猪名部氏は攝津の猪名川周辺から移住してきたともいう。
つまり、延喜式にその名があった如く、その当時鳥取山田神社、鳥取社という社があったのは確実であろう。しかしこのことと近世の山田神明社が鳥取山田神社とイコールということではない。むしろ、その逆で、古代氏族の没落と共に鳥取山田神社は退転したと考えるのが自然であろう。
 しかしながら明治維新後、何が何でも記紀の神話の復古を企図する復古神道によって、この地にあった「山田明神宮」を、例の如く延喜式内伊勢國員弁郡鳥取山田神社に付会し、鳥取山田神社と称したのであろう。
なお、『「神鳳鈔」(鎌倉期に原本成立か)によれば、当地は伊勢の神宮(伊勢神宮)の「山田御厨」が置かれた。』というので、「山田明神宮」とはそれに関係する社であったのであろう。
 なお、
皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会と三重県神社庁教化ホームページ委員会とが共同で制作しているというサイトで「鳥取山田神社」を検索すると、次の記事が得られ、興味深いものがある。
由緒:
勧請年月不詳、
『文政10年(1826)の桑名領郷村案内帳』によれば、「稲荷、神明、八幡、天王、山神、天神、牛頭天王あり」とある。
『員弁雑誌』には、「鳥取神社 延喜式内、村の内大宮と云う所に在、神殿南向、拝殿鳥居在、祭神二座、神明宮(鳥取山田神社也)左右に春日大明神稲荷大明神を祭る。
『布留屋草紙』曰、鳥取山田神社天湯河棚命云々と。
『伊勢式内神躰考』に曰、祭神小彦根命云々。
『北勢古志』曰、祭神天湯河棚命と云然るべしと云々。当村並に北山田の産土神にして例祭九月四日、里俗所伝は稲荷大明神を猪名部神社とし、春日大明神を鳥取神社といへり如何。牛頭天王 字大坂と云う所に在。天満宮 小祠也。神明宮 大宮の北に在小祠也。稲荷大明神 字楠と云所に在。稲荷天明神 字安附政と云所に在小祠也。山神社 大宮西に在る小祠也。他に八幡宮、八工一権現あり」とある。
明治39年(1906)『神社明細帳』に、(鳥取山田神社 祭神角凝魂命、勧請年月不詳、延喜式神名帳員弁郡一〇座の内、『姓氏録』云、鳥取部連・角凝魂命の13世の孫、天湯河桁命の後なり、垂仁天皇の皇子譽津別命、年30に向るまで言語はさず、干時、飛べる鵠を見て、此は何物ぞと問ひたまひき、爰に天皇悦びたまひて、天湯河桁を遣して、尋ね求めしめたまふ、出雲国の宇夜江に詣りて、捕りて貢りき、天皇大く喜びたまひ、姓を鳥取部連と賜ひき」とある。
 鳥取山田神社由緒石碑
 ※この神社由来石碑は上記の「鳥取山田神社の由緒」と比較すれば、興味深いものがある。
明治42年及び42年に合祀された14社の内訳は総間八坂神社(牛頭天王)並びに天野天王社(スサノヲ)は元々牛頭天王で明治の神仏分離で社号が改号されてもの、下貝戸天神社並びに瀬古泉菅原神社は天神であり、浦畑田八幡神社は八幡大菩薩であり、天野八工一社は八工一権現(「北勢古志」)であろうが、そもそも八工一権現とは不明であるが、現在の祭神が若一権現であるので、若一王子であろう、以上は何れも仏教系の神々と云える。
総間及び木之倉及び瀬古泉の山神社はもともと素朴な山の神の信仰であり、楠並びに白草稲荷神社は近世の流行神であり、西畑田並びに和泉御厨神明社はおそらくは農業神であったのであろうが「伊勢神宮」の威光を借りたものというところであろうか。
それにしても、近隣の「雑社」14社を式内社と付会した「鳥取山田社」に合祀するとは、国家神道がいよいよ人民支配の道具として完成期を迎かえつつあるということであろうか。
 この合祀された14社は上記の「鳥取山田神社の由緒」に見える記事と対比させれば、殆ど一致し興味をそそられる。
※Wikipediaの「明治末期の神社合祀」の項では次のように解説する。
 「神社合祀の目的は、神社の数を減らし残った神社に経費を集中させることで一定基準以上の設備・財産を備えさせ、神社の威厳を保たせて、神社の継続的経営を確立させることにあった。」
 「神社合祀政策は1906年(明治39年)の第1次西園寺内閣において、内務大臣・原敬によって出された勅令によって進められ、当初は地域の実情に合わせかなりの幅を持たせたものであった。だが、第2次桂内閣の内務大臣平田東助がこの訓令を強固に推し進めることを厳命したため、全国で1914年(大正3年)までに約20万社あった神社の7万社が取り壊された。特に合祀政策が甚だしかったのは三重県で、県下全神社のおよそ9割が廃されることとなった。和歌山県や愛媛県もそれについで合祀政策が進められた。」
 →三重県では明治末期の神社合祀が甚だしく進められたようである。伊勢神宮なる国家神道の元締めがあった関係なのであろうか。

伊勢縄生廃寺:朝日町縄生北谷(なおはいじ)

 朝日丘陵の狭隘な尾根上に位置する。昭和44年(1969)に発見され、昭和61−62年(1986−87)の発掘調査で地山を削平した一辺11mの塔跡(瓦積基壇)とおよそ3×2mの倒壊屋根の一部を検出。
 心礎は地下式で、舎利孔から鉛ガラス製棗形舎利容器を発掘。白鳳期創建。その後、現地は埋め戻され現状保存される。
従って、心礎などを見ることは出来ない。
○「縄生廃寺跡 発掘調査の概要」朝日町教育委員会、1987 等より
 江戸時代から「金光寺跡」として知られ、戦前には土取の際に瓦片が多量に出土したと云う。
昭和61−62年に発掘調査を実施。塔基壇は東西10m、南北10.2mで、地面を削り出し、版築で構築され、基壇化粧は瓦積であった。
瓦積基壇の残存は西側で良好であり、12段高さ43cmを確認したが、東辺では基底部のみが部分的に遺存しているのみである。
 心礎(花崗岩製)は1.5mの地下式であり、 大きさは1.7×1.3mで、柱座はなく、中央に径13.5cm/14.5cm、深さ13.5cmの舎利孔を穿つ。
心礎直上の径1.6mほどは版築が見られず、心礎上には径60/70cmで部分的に根巻状に粘土が検出され、更に中位には根巻状に瓦片が見られたと云う。
舎利孔から唐三彩椀を被せた舎利容器(重文)が発見された。容器は、約2cmの鉛ガラス製の卵形容器で、轆轤挽きの滑石製有蓋壺(外容器)内中央に直立した状態で 納められ、その上から唐三彩椀が伏せて置かれていた。
また基壇北西部で幅6m長さ3mに渡る「倒壊屋根」が発見された。白鳳期の屋根とされる。
心礎以外の礎石は全て失われているが、据付け穴の痕跡から、柱間は1.6〜2,1mであった。
倒壊屋根は基壇西穂区部で幅6m長さ3mに渡って検出された。丸瓦8列分が特に良好であった。
この下には建築部材などの痕跡が遺存している可能性があると思われ、丸・平瓦1列分を取り上げたが、今回はその痕跡は発見できなかった。
○2007/01/10追加:「縄生廃寺跡 発掘調査の概要」 より
 縄生廃寺心礎:心礎大きさは上述の通り  縄生廃寺心礎孔:(西から)写真の状況は上述の心礎根巻などの状況か?
 遺跡全景航空写真:(下掲縄生廃寺航空写真2と同一写真)  縄生廃寺塔基壇1:東から  縄生廃寺塔基壇2:北から
 塔基壇実測図       縄生廃寺塔基壇化粧1:西から      縄生廃寺塔基壇化粧2:北西から
 塔倒壊屋根1:西から     塔倒壊屋根2:北から        塔倒壊屋根3:西から
 舎利容器・唐三彩     縄生廃寺唐三彩杯     舎利容器1:上から     舎利容器2:横から、いずれも写真の状況は不明
2020/03/11追加:
○「縄生廃寺跡発掘調査報告」朝日町教育委員会、昭和63年
 塔跡平面図・断面図:断面図は一部のみ掲載     塔基壇化粧(外装)
 心柱痕跡・根巻状平瓦     心柱痕跡平面図
 舎利容器出土状況:図面     舎利容器出土状況:写真
 心礎断面図:心礎法量は上述の「縄生廃寺跡 発掘調査の概要」の通り。     縄生廃寺心礎     心礎舎利孔
○2008/08/12追加:「天武・持統朝の寺院造営」 より
 縄生廃寺舎利容器実測図
○2009/09/05追加:
「仏舎利埋納」飛鳥資料館、平成元年 より
 縄生廃寺航空写真2     縄生廃寺心礎2     縄生廃寺舎利容器3
  ※舎利容器は文化庁所蔵となる?。
   ▽出土舎利容器の一覧は「舎利容器一覧表」を参照。
2020/03/11追加:
○小冊子「みえあさひ文化財マップ」三重県三重郡朝日町、朝日町歴史博物館 より
舎利容器」:鉛ガラス製の卵型容器に直接納め、さらに轆轤挽きの滑石製有蓋壷内に直立した状態で納められていた。
滑石製有蓋壷には唐三彩椀が伏せて置かれていた。
 縄生廃寺出土舎利容器:奉安状態
2020/03/11追加:
○縄生廃寺出土舎利容器里帰展「ひと・まち・みちの今昔」朝日町歴史博物館、平成11年 より
心礎中心の舎利孔から唐三彩椀を伴う舎利容器が発見される。
舎利容器は約2cmほどの鉛ガラス製の卵型容器(内容器)で、轆轤挽きの滑石製有蓋壷(外容器)に納められ、その上には唐三彩椀が被せられていた。
 縄生廃寺出土舎利容器:内容器・外容器・唐三彩椀
2020/03/12追加:
○「縄生廃寺出土舎利容器に関する若干の考察」上原真人<「縄生廃寺跡発掘調査報告」昭和63年 所収>
 舎利容器の法量は次の通り。
  鉛ガラス製卵形容器:高さ約3cm胴径1.8cm。
  滑石製有蓋壷:身部高9cm胴径10.8cm口径7.4cm。
  唐三彩椀:高さ3.8cm口径9.8cm。
 倒壊した瓦の年代から、これらの舎利容器は7世紀後葉から8世紀のものと推定される。
2002/10/13撮影:
 伊勢縄生廃寺塔跡1     伊勢縄生廃寺塔跡2     伊勢縄生廃寺塔跡3     伊勢縄生廃寺塔跡倒壊屋根瓦
 塔跡出土唐三彩・舎利容器     伊勢縄生廃寺塔予想図
2020/02/07撮影:
 縄生廃寺塔跡11:南西から撮影、中央奥の平坦地は小堂跡     縄生廃寺塔跡12
 縄生廃寺塔跡13:左記何れも南西方向から撮影、中央奥は小堂跡
 縄生廃寺塔跡14:小堂跡(東北)から撮影     縄生廃寺塔跡15:東から撮影
 現地説明板を撮影:
 縄生廃寺塔跡全景     出土舎利容器     出土倒壊屋根     縄生廃寺伽藍図
 朝日町歴史博物館展示を撮影:
 舎利容器
 出土舎利容器一式1     出土舎利容器一式2     舎利容器唐三彩椀1     舎利容器唐三彩椀2
 舎利容器外容器1       舎利容器外容器2      舎利容器外容器3      舎利容器外容器4
 舎利容器内容器1       舎利容器内容器2      舎利容器内容器3
 出土瓦
 複弁八葉蓮華紋軒丸瓦:川原寺式
 単弁八葉蓮華紋軒丸瓦その1:山田寺式あるいは飛鳥寺13形式/飛鳥寺創建瓦ともいう。
 単弁八葉蓮華紋軒丸瓦その2:山田寺式     縄生廃寺出土軒平瓦
縄生廃寺三重塔模型
現地南西約1.5kmに朝日町歴史博物館があり、縄生廃寺三重塔模型が展示される。
かなり大きな模型。木造なのか新建材なのか材質は不明。
2002/10/13撮影:
 縄生廃寺塔模型1     縄生廃寺塔模型2     縄生廃寺塔模型3     縄生廃寺塔模型4
2020/02/07撮影:
 縄生廃寺塔模型11    縄生廃寺塔模型12    縄生廃寺塔模型13    縄生廃寺塔模型14    縄生廃寺塔模型15
 縄生廃寺塔模型16    縄生廃寺塔模型17    縄生廃寺塔模型18    縄生廃寺塔模型19    縄生廃寺塔模型20 

伊勢天花寺廃寺(天華寺廃寺・てんげいじ)

 伊勢天花寺廃寺

伊勢一志廃寺(伊勢薬師寺)

薬師寺境内周辺が廃寺跡とされる。境内に塔心礎などの礎石が残る。
倒壊寸前の薬師寺(曹洞宗)本堂前に心礎は「植木鉢」の代用として放置されている。
心礎は半分弱が残存する。半分以下なので、心礎の大きさは正確には計測不可でまた舎利孔の有無は観察できないが、径約130cm以上の円形の石に、径95cm以上深さ5cm位の 刳り込みをし、更に内側に径78cm以上深さ3cm位の孔を穿孔した形式とされる。(現状は2段彫り込み孔を持つ)
一志氏の氏寺として伽藍が建立されたものと推定され、当初は東福寺(藤福寺)と称したと伝えられと云う。本尊として平安期の木造薬師如来立像(秘仏・重文)が伝えられる。
心礎横の放置礎石は柱座(径65cm)の造り出しを持つ。
 伊勢一志廃寺心礎1     伊勢一志廃寺心礎2     伊勢一志廃寺心礎3     伊勢一志廃寺心礎4
 伊勢一志廃寺礎石

伊勢中谷廃寺

現地では基壇状の遺構や削平地を観察できると云う。(ただし塔跡などが確認されたわけではない)

伊勢朝熊山金剛證寺及び世義寺

以下の絵図により、朝熊山および世義寺には多宝塔が存在したと推測される。
1)伊勢参詣曼荼羅1:アメリカ、J.パワーズ氏蔵 ・パワーズ氏本:朝熊山及び世義寺の多宝塔が描かれる。
左上は朝熊山金剛證寺で冨士を望む。左端中央が内宮、右端中央が外宮、そのやや下(外宮下)は山田の世義寺である。
◇「社寺参詣曼荼羅」(目録)大阪市立博物館、1987 より(2010/10/06追加)
伊勢参詣曼荼羅は現在4本知られる。
1)伊勢参詣曼荼羅1:パワーズ氏本:上に掲載
2)伊勢参詣曼荼羅2:神宮徴古館本、紙本着色、100×181
 左上は朝熊山金剛證寺、左端中央が内宮、右端中央が外宮、当図の構図は1)のそれとほぼ同じであるが、世義寺多宝塔は描かれない。
3)伊勢参詣曼荼羅3:高津家本、ニ曲一雙、154×156
 当図では朝熊山はカットされ、世義寺の多宝塔は描かれていない。<従って画像は不掲載>
4)伊勢参詣曼荼羅4:紙本着色、2幅127×87cm、三井文庫蔵・三井文庫本
 伊勢参詣曼荼羅4第一幅:左上は朝熊山多宝塔。
 伊勢参詣曼荼羅4第二幅:中央右は外宮、その下方に世義寺多宝塔がある。
※なお以上の4本以外に下記に記載するように、善峰寺参詣曼荼羅B本は西山善峰寺ではなく、朝熊山及び伊勢内宮・外宮を描いた参詣曼荼羅とされる。
○「描かれた日本の中世」下坂守、法蔵館、2003 より:
山城善峰寺に「善峰寺参詣曼荼羅B本」 が伝来するが、この参詣曼荼羅はほぼ間違いなく「朝熊山参詣曼荼羅」というべきものとされる。
下段は伊勢の内宮下宮であり、寺院は朝熊山金剛證寺とされる。(従って、この「B本」は「朝熊山」の景観と云うことになる。)
  参考:山城善峰寺
・世義寺:
教王山神宮寺金剛院と号する。古義真言宗醍醐派。天平年間、聖武天皇勅願により、行基が建立したと伝える。(前山町亀谷)。
建長年中(1249-1255)圓海律師により外宮宮域西方に再興され、智證院(大神宮法楽舎)があったと云う。
寛文10年(1670)山田の大火があり、227ヶ寺が焼失する。世義寺は被災を免れるも、山田奉行(桑山丹後守)は神域と寺院の分離を命じ、世義寺も現在地 (伊勢市岡本2)に再度移転する。
近世には大峰山先達として、十余坊の坊舎があったという。明治維新後、ほぼ壊滅し、威徳院が護摩堂として現存するのみとなる。
多宝塔については情報皆無。
・朝熊山金剛證寺:
欽明朝期、暁台上人が明星堂を建てたのが初めと伝える。天長2年(825)空海が七堂伽藍を造営し中興する。
明徳3年(1392年)鎌倉建長寺5世仏地禅師東岳文cが再興する。
中世には伊勢神宮の丑寅(北東)に当るとし、伊勢信仰と結びつき、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」とされ、さらに近世では徳川幕府の庇護を受け、盛大になるも、近代に衰退する。
多宝塔については情報皆無。
 →参考:成形塔婆

伊賀夏見廃寺

醍醐寺本薬師寺縁起(長和4年<1015>)には「大来皇女、最初斎宮なり、神亀2年(725)・・・昌福寺を建立したまふ。夏見と字す。もと伊賀国名張郡に在り」と あると云う。この廃寺は上記の「昌福寺」である可能性が指摘される。
廃寺域は南面する緩やかな傾斜地に位置する。発掘調査の結果、法起寺伽藍配置と判明。
ただし講堂は中軸線左(金堂の南西)に位置する特異な配置を採る。
塔基壇は川原石の乱石積基壇で、一辺11.25m、正面高さ1.3mを測り、初重の一辺は5.9mである。心礎および礎石5個が残存する。
心礎は約4/3強が(3個に割れて)残る。計測すると約1.4m×1.0mの一隅が円形のほぼ台形の石で、中央に径29cm深さ10cmの孔を穿つ。なお発掘前の写真を見ると心礎は一隅が円形部分の3個に割れた一番大きな部分(心礎のほぼ3/1)のみ露呈していたと思われる。残りの2個は何処からか発見されたのか、現状は約4/3強が復元される。
金堂は同じく川原石の乱石積基壇で川原石の犬走り、正面階段(川原石)を付設する。礎石は19個(1個欠損)が原位置を保つ。身舎および庇とも桁行3間・梁間2間の特殊な構造を採る。(大和山田寺金堂と同様の配置)
講堂は同じく川原石の乱石積基壇で、東側に幅3.8m長さ4mの川原石敷参道が付設。礎石配置から桁行7間・梁間4間の建築で内陣に「コの字」形の須弥壇があった とされる。
また基底部幅1.8mの築地塀および掘立式堂宇も発見される。
なお多数の塼仏が出土したことで著名である。
跡地は美しく復元整備され、隣接して「展示館」を付設し、出土品の展示と実寸(平面)の推定金堂(柱配置)および正面中央の柱間の塼仏壁を復元展示する。
 伊賀夏見廃寺遠望       同 復元絵       同   配置図      同    心礎1      同       2      同       3
   同    塔跡1       同       2      同     3       同       4      同 発掘時塔跡
    同   金堂跡1      同       2      同 発掘時金堂     同  講堂跡

  ※なお、2005年出雲来美廃寺の発掘で、同様の伽藍配置を採る可能性が極めて高い遺構が発見される。
    出雲来美廃寺

伊賀鳳凰寺:旧阿山郡大山田町鳳凰寺(ぼおじ)

真言宗薬師寺一帯が伽藍地とされ、薬師寺床下にも礎石が残されていると云う。
心礎は本堂裏に保存され、心礎と一直線上に礎石が2個(或は3個)置かれているが、塔の礎石かどうかは不明。
本堂前面には本堂前面に柱座のある礎石が十数個並べられている。
出土瓦から白鳳前期の創建とされる。
地元では、天智天皇采女つまり大友皇子の母である伊賀采女宅子(やかこ) が壬申の乱後、故郷に帰り、大友皇子の菩提のために建立したのが鳳凰寺との伝承があると伝える。
「日本の木造塔跡」:心礎は1.2m×1.06mで、中央に径74cmの柱座を造る。現状では枘孔は勿論、出枘の痕跡さえも見当たらない。
元々、柱座だけで出枘のない珍しい心礎なのか、あるいは磨耗して出枘の痕跡さえ残さないのかは不明。
鳳凰寺は天正9年の兵火で焼失、慶長3年再興、薬師寺と称したという。
伊賀鳳凰寺心礎1     同       2     同       3     同       4     同    塔礎石
  同    礎石1    同    礎石2     同    礎石3    同    礎石4     同    礎石5     同    礎石6

伊賀三田廃寺

 →「亡失心礎」の「伊賀三田廃寺


2006年以前作成:2022/12/29更新:ホームページ日本の塔婆