鞍 馬 寺

鞍馬寺絵図
 

2011/10/09追加:
鞍馬寺絵図:中井家文書、年代不明(元禄期前後の江戸中期か)
 鞍馬寺絵図
 鞍馬寺絵図多宝塔部分図:左図拡大図 :多宝塔平面図

鞍馬寺堂舎惣絵図:中井家文書・元禄9年(1696)作成
 鞍馬寺堂舎惣絵図
 堂舎惣絵図多宝塔部分図:多宝塔平面図
当絵図では、山門から本堂に向かって、歓喜院、松圓坊、圓光院、妙学坊、大蔵院、梅本坊、乗圓坊、吉祥院、本住坊、蔵之坊、實相坊、普門坊、薬師坊、實積院、戒光院、月性院、福生院、妙壽院 及び真勝院の坊舎の書き込みがある。

天明年間刊「都名所圖會」巻6の鞍馬寺  から

近世、多宝塔は本堂横裏手にあった。

山城鞍馬寺:左図拡大図

※近世には本堂横手裏付近に多宝塔があったものと推定される。
この多宝塔の由緒・消息については未解明な部分を残すが、
多宝塔は文化11年(1814)の一山火災で焼失すると推定され、その後本堂は明治維新までに2度ほど再興されるも、多宝塔は以降再興はされなかったものと推測される。
昭和35年、多宝塔は別の場所に再興される。

2009/02/02追加:「幕末明治 京都名所案内」 より
 鞍  馬  圖:本堂横裏手に多宝塔は描かれる。
※当図は宇治市歴史資料館蔵と思われるが、この図の年紀など全く不明。10院9坊などは全て描かれる。
江戸初期のものかあるいは後世のもので最盛期の寺観を描いたものであるとも推測される。

2010/06/25追加:
○「鞍馬山小史」鞍馬寺教務部、鞍馬弘教総本山鞍馬寺出版部、1995 より
平安後期念仏信仰が各地に広まり、鞍馬寺でも念仏が盛んに修せられるという。
天台僧良忍はこの頃融通念仏を始め、鞍馬山の毘沙門天から念仏の結縁者の守護を得るという。(「融通念仏縁起絵巻」)
 融通念仏縁起絵巻1:鞍馬寺に多宝塔が描かれる。平安後期には多宝塔が建立されていたと推定される。
※融通念仏縁起絵巻:鎌倉期の成立とされるが、南北朝期・室町期の写本が多く出回ると云う。

2010/06/25追加:
○「鞍馬寺史」橋川 正、鞍馬山開扉事務局出版部、1916 より
 融通念仏縁起絵巻2:多宝塔相輪が描かれるも、不詳。
近世初期の鞍馬山の組織:10院9坊より成り立つ。10院は衆徒、9院は中方と称する。
寺務は執行及び権別当が当る。その補任は当初は京都青蓮院門跡、その後は東叡山輪王寺門跡の補任を受ける。
10院は宝積院、大蔵院、吉祥院、月性院、妙寿院、戒光院、歓喜院、円光院、福生院、真勝院、9坊は普門坊、松円坊、妙覚坊、薬師坊、蔵之坊、本住坊、乗円坊、梅本坊、実相坊を云う。
 鞍馬寺并堂社之絵図下絵:寛政3年(1791)
この絵図により近世後期の境内の形勢が分かる。まず入母屋造重層の楼門がある。楼門を入り右手の円光院・大蔵院、左手に歓喜院、これに並ぶ正円・明覚・梅本の3院は退転、進んで石橋を渡れば右側に吉祥院・乗円坊があり、本住・実相・実住は跡のみ存す。靱大明神・地蔵堂(現存)あり、右の阿弥陀堂・普門坊・左の薬師坊等は既にない。さらに登れば、左に宝積院・戒光院があり、右に月性院あり、その上には福生院(現寺務所・本坊)がある。本堂に登る石階の右に妙寿院あり。
石階を登ると本堂(入母屋造)がある、その右には多宝塔がある。
多宝塔は方2間3尺(4.54m)、四方に3尺7寸の廻縁を付ける。屋根檜皮葺。この多宝塔は応永の「融通念仏縁起絵巻」に描かれしものと同じである。
本堂背後には護法善神社、左には観音堂、これに隣て薬師堂・八所明神・真正院あり。また本堂前左に鐘楼などある。
 「山城国寺社改覚」:文化2年(1805)では以下が書上げられる。
本堂・多宝塔・観音堂・薬師堂・常行堂・阿弥陀堂・地蔵堂・不動堂・・・・由岐大明神・八所大明神・・・・鐘楼・・・
月性院・妙寿院・大蔵院・吉祥院・円光院・戒光院・福生院・歓喜院・宝積院、中方9坊:普門坊・乗円坊・薬師坊、梅本・蔵之・松円・妙覚・本住・実相の6坊は未建立、・・・以下略・・・
 修理造営記録として以下が知られる。
慶長11年・同14年に修理・修営、寛文8年(1668)及び元禄14年(1701)修復。
文化11年(1814)一山火災、本堂以下烏有に帰す。
文政2年(1819)再興を出願・翌3年より再興に着手するも遅々として進捗せず。
しかし一山の努力により天保14年(1843)漸く「本堂諸堂社并寺中建物絵図」悉く成れるに至れり。
 ※「本堂諸堂社并寺中建物絵図」なるものが不明であり、多宝塔が再興されたかどうかは分からない。
 何れにしろ、多宝塔は中世には建立されていたものと推定される。(「融通念仏縁起絵巻」)
  そしてその多宝塔は近世を通じて維持されていたものとも推定される。(「鞍馬寺并堂社之絵図下絵」、「山城国寺社改覚」)
  しかし、その多宝塔は文化11年の一山火災で焼失すると推定され、その後本堂は明治維新までに2度ほど再興されるも、
  多宝塔は幕末・明治期には再興されなかったものと推測される。
嘉永3年(1850)9月烈風大雨により堂舎の被害少なからず。元治元年(1864)漸く本堂再建に着手する。
 ※この被害及びその再興の状況は良く分からない。
昭和29年本堂焼失。
2011/10/09追加:「鞍馬寺」中野玄三、中央公論美術出版、昭和47年
金剛寿命院、歓喜院の2塔頭を残す。

2022/07/08追加:
鞍馬寺略歴
寺伝である「鞍馬蓋寺縁起」(あんばがいじ)が草創縁起を伝えており、鑑真の高弟・鑑禎が宝亀元年(770)に草庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりという。
しかし、これは信憑性に乏しいという。
「今昔物語集」「扶桑略記」などでは、延暦15年(796)藤原南家の出身で造東寺長官を務めた藤原伊勢人の創建という。
「日本後紀」延暦15年(796)の条では東寺の造営の任に当たっていた藤原伊勢人の夢に貴船大明神が現れ鞍馬寺を建立するよう託宣したと記されている。
こちらの方が真実味があるのではないかとされる。
天慶3年(940)鞍馬山の麓に宮中から由岐大明神が移され、由岐大明神が建立され、鞍馬寺の鎮守となる。
保延年間(1135〜40)延暦寺の僧・重怡(じゅうい)が入寺し、に真言宗から天台宗に改宗、以後は青蓮院の支配下になる。
寛喜元年(1229)青蓮院門跡座主が鞍馬寺検校職を兼務する。これ以来、鞍馬寺は正式に青蓮院の末寺となる。
さらに享保15年(1730)には青蓮院の他、日光輪王寺の末寺ともなる。
この頃、鞍馬寺には塔頭が十院(真勝院・月性院・妙寿院・宝積院・大蔵院・吉祥院・戒光院・歓喜院・円光院・福生院)と九坊(普門坊・松円坊・妙覚坊・薬師坊・本住坊・乗円坊・梅本坊・実相坊・蔵之坊)が存在したという。
鞍馬寺は数多く被災するが、就中、文化11年(1814)には一山炎上し、壊滅的な打撃を受ける。
昭和22年、鞍馬弘教を開宗。昭和24年には天台宗から独立して鞍馬弘教の総本山となる。

鞍馬寺多宝塔(昭和再興)

昭和35年建立。鉄筋コンクリート。一辺4.13m、総高15.8m。
現在は本堂のはるか下のケーブル多宝塔駅すぐにある。近世には本堂すぐ横にあったが、再興は現在地にて行われる。
2001/02/10撮影:
 山城鞍馬寺多宝塔1     山城鞍馬寺多宝塔2
2022/03/07撮影;
 鞍馬寺多宝塔11     鞍馬寺多宝塔12     鞍馬寺多宝塔13     鞍馬寺多宝塔14     鞍馬寺多宝塔15
 鞍馬寺多宝塔16     鞍馬寺多宝塔17     鞍馬寺仁王門1      鞍馬寺仁王門2
由岐大明神(靫明神)は慶長12年(1607)豊臣秀頼によって再建。拝殿は重文。
 由岐大明神拝殿1    由岐大明神拝殿2    由岐大明神拝殿3    由岐大明神拝殿4    由岐大明神拝殿5
 鞍馬寺金堂1       鞍馬寺金堂2       鞍馬寺金堂3

付録:
貴船大明神
2022/03/07撮影;
○「神社とは何か」新谷尚紀、講談社現代新書、2021 より
貴船大明神は水を祀る社という。
賀茂川上流の貴船川沿いに奥宮があり、そこには磐座祭祀の鏡岩がある。
日吉山王権現(八王子山金大磐)、桂川流域の山城松尾社(松尾山大磐座)、豊前宇佐八幡宮(御許山の巨石)、出雲須賀社(八雲山奥宮巨石)なども磐座祭祀が原初的にあったと考えられる例で、枚挙にいとまがない。
さらに注目すべきはこれらの磐座祭祀には泉水信仰を伴っていることである。
貴船大明神においては、奥宮の鏡岩から地下水脈として流れ出て、拝殿の御神水として信仰を集めている。
杵築大社の眞名井遺跡、日吉山王権現の小禅師(樹下神社)の神座の霊泉の湧出、松尾社の霊亀や亀の井などが然りである。
 貴船大明神1     貴船大明神2


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