山 城 與 杼 大 明 神 多 宝 塔

山城與杼大明神多宝塔(淀姫社多宝塔)

山城与杼大明神(水垂明神、与杼神社、淀姫社)に幕末あるいは明治維新まで、多宝塔が存在する。

絵図類に見る淀姫社

2013/02/09追加:
「雍州府志」黒川道祐、貞享3年(1686)の「巻頭」絵図
 鴨川以西図・4及び5:「雍州府志」巻頭図の鴨川以西図 の4及び5図である。
向かって右の図の左端中央に水垂明神の多宝塔が描かれる。
ただし、本図の塔婆の描写には正確性に問題がある。即ち、右の図の東寺五重塔は三重、安楽壽院多宝塔は三重、左の図の宝寺三重塔が四重、離宮八幡多宝塔が四重、石清水八幡宮塔婆が四重のように描かれていることである。

京大絵図に見る水垂(与杼大明神・水垂宮)

2008/05/20追加:
・京大絵図:享保3年(1688)版

 享保3年版京大絵図:部分図・年記部を合成 :左図拡大図

・京大絵図:元禄4年(1691)版・・・・元禄版は享保3年(1688)版の再販と云う。

 京大絵図・元禄版(部分)
 京大絵図・水垂附近拡大

享保3年(1688)版及び元禄4年版の水垂には多宝塔と思われる絵が描かれる。
多宝塔棟札写では、元禄2年に多宝塔が「造立」と解釈されるが、享保3年版の絵図には多宝塔が描かれている。
享保3年以前に多宝塔は造立されていたかあるいは元禄2年に再営されたものと解釈される。

2005/06/26追加:
紀井郡圖:山城名勝志図:正徳元年(1711);全12枚のうちの紀井郡圖(2005/06/26追加)
 紀 伊 郡 圖:南西部に水垂・淀明神が描かれる。
 紀伊郡圖(部分図):淀明神鳥居の左手に多宝塔が描かれる。

「都名所圖會」
 安永9年初版本「都名所圖會」に見る淀姫社:1780年
桂川に面して、浜街道があり、水垂の集落に鳥居があり、その傍らに多宝塔がある。

記事:淀姫の社は小橋の西にあり、祭る神は三坐にして、中央は淀姫神。〔東の間千観内供、西の間天神〕
若宮は本社の西にあり、多宝塔には大日如来を安置す
当社は千観法師の勧請なり。此所の産沙神とす。例祭は九月二十三日神輿一基あり。
〔宮の渡しは、当社の鳥居前より桂川の落合を小橋の北詰への舟わたしをいふ。唐人鴈木といふは朝鮮人来朝のとき、大阪より河舟にて登り、此所より陸地を行なり〕
天神口〔菅神筑紫へおもむき給ふとき、此所より舟に乗給ふとぞ、天満宮の社あり〕

 都名所圖會の淀姫社(部分)・・・左図拡大図
不動堂(図中中央):社僧(別当)大徳寺のこと。
現在の大徳寺も不動明王を祀る方形堂が本堂と思われる。
天満宮の社も小祠として現存する。
 (但し、大徳寺・天満宮も明治30年代に若干西方に移動しているとされる。)

○多宝塔部分拡大図

淀姫の社:

多宝塔部分の拡大図 ・・・左図拡大図

社伝では応和年中(961-963)僧千観内供が
肥前佐賀郡河上神(與度日女神)を勧請したと云う。
あるいは延喜式小社であったとも云われ、であるならば、実際の創建はもっと古いものとも思われる。
 ※但し、その論拠は分からない。所詮復古神道の付会とも思われる。

東海道分間延絵図:大津追分,伏見,淀,」・・・・・文化3年(1806)

 淀姫大明神(部分)・・・・左図拡大図

御朱印地淀姫大明神:鳥居・拝殿・舞殿・本殿と拝殿東に多宝塔、本殿左右に若宮・炎神、西に社家河原崎伊予・社家河原崎若狭、炎神背後に地蔵堂・不動堂・大徳寺が描かれる。

 淀姫大明神及淀城下(部分)

「東海道分間延絵図」は寛政年中(1789〜1801)に作成が命ぜられ、
文化3年(1806)に完成したとされる。

棟札(写し)に見る多宝塔
「重要文化財 与杼神社拝殿修理工事報告書」京都府教育委員会、昭和58年 より

別当大徳寺に淀姫大明神社内宝塔並びに鐘楼堂棟札写書が現存する。(棟札そのものはおそらく亡失)
多宝塔造立及び修理を伝える唯一の資料と思われる。

元禄2年棟札写(左): 左図拡大図

「是は淀姫社内在之□多宝塔棟札也、寛政8年・・宝塔地揚修理成就之上本尊大日如来塗替修□開眼供養仕□具節此棟札拝見仕而写取申候向後他見無用、可致者也、大徳寺住隆寛書之なり」

寛政8年棟札写(右):1796年 :左図拡大図

「奉淀姫大明神宝塔鐘楼堂地揚平均五尺・・・」

棟札写書包書
上記の寛政8年棟札写の包紙と思われる。
「淀姫大明神社内宝塔並び鐘楼堂 棟札写書 別当大徳寺・・・」

以上の資料では、多宝塔は元禄2年(1689)に「造立」、寛政8年には五尺の地揚と本尊大日如来の修理が行われたと知れる。

淀川両岸一覧

「淀川両岸一覧」暁晴翁編著、松川半山画図、発行:山城屋佐兵衛・俵屋清兵衛・河内屋喜兵衛、文久元年(1861)

 淀川両岸一覧の淀姫社記事・・・右拡大図

「水垂村にあり。祭神三座中央淀姫神、東間千観内供、西間天神。当社は千観法師の勧請なりと云。若宮 本社の西にあり。多宝塔 鳥居の東にあり、大日如来を安置。火大神祠。地蔵堂 本社の東にあり。例祭9月23火神輿一基あり。」

 淀川両岸一覧の淀姫社

淀小橋と淀姫社の図があるが、淀姫社は鳥居が見えるだけで、
多宝塔やその全貌を窺うことはできない。

その他の文献に見る淀姫社

◆山城志:
「在水足村、有正殿礼殿舞殿小祠二地蔵堂多宝塔鐘楼、・・・」
<「山城志」の原文は未見。出所:「式内社調査報告 第1巻 宮中・京中・山城国」>

◆「山州名跡志 巻之十三」元禄12年(1699):
○淀姫社 ・・鳥居(南向石柱)拝殿同社同所祭る今三座也。根本は一座 淀姫神(今祭る中間)千観内供霊神(東間)天神西間。
○若宮 ・・・ ○火大神 ・・・
○地蔵堂 火大神東南向に在り
塔 多宝塔 拝殿東西向に在り 本尊 大日如来(坐像尺余)作不詳 当社記末考、伝へ云ふ
当社は千観法師肥前国佐賀郡川上、与止女神を勧請奉る処なり云々、或書に曰く肥前州佐賀郡淀姫大明神は欽明天皇の甲甲冬に鎮座したてまつる処なり、一名豊姫云々、  (後略)

◆「淀姫大明神旧記常式会合帳」寛政2年、7頁(水垂大徳寺蔵):
◆「淀姫大明神云々慶長12年御再興之棟札可有処相見江不申其後・・・」
 <出所:「式内社調査報告 第1巻 宮中・京中・山城国」「与杼神社拝殿修理工事報告書」>

◆「口上」年代不詳(天明元年以降)水垂大徳寺蔵:
一、当社御造栄者慶長十二歳 卯月ニ十二日 秀吉公御造栄也相見江中候 
  得共棟札之儀は無之趣神主 若狭方之日記二有之候
一、唯今有之候棟札之写別紙 申上候通
    天保六辛丑年十一月吉日
    宝暦五亥年八月吉日
    天明元丑年五月吉日  (中略)
                     普元
  般若寺様
  ・・・出所:「与杼神社拝殿修理工事報告書」

◆安政5年寺社明細帳(水垂大徳寺蔵):1858年
「建物として本殿・舞殿・拝殿・若宮殿・日大臣社・地蔵堂・多宝塔・鐘楼など」
<出所:「式内社調査報告 第1巻 宮中・京中・山城国」>
 安政5年寺社明細帳(表紙・先頭部分)
 安政5年寺社明細帳(上記拡大図)
   ・・・・図の出所:「与杼神社拝殿修理工事報告書」
「安政5年寺社明細帳」は29紙綴であり、上記画像の続き(後段)には多宝塔などの寸法・略平面図などが存在していると思われるも未見。

◆狛犬体内銘:「淀ノ宮狛犬 秀頼公御再興、奉行・片桐市正、慶長12年・・・」
<出所:「式内社調査報告 第1巻 宮中・京中・山城国」>
 狛犬体内銘
   ・・・・図の出所:「与杼神社拝殿修理工事報告書」
この狛犬は本殿・拝殿の附として重文指定であったが本殿の焼失の折一体は焼傷しその割れた体内の銘。
もう1体は焼傷したが割れなかった狛犬にも、同趣旨の銘があると云う。

以上により、本殿・拝殿・狛犬は慶長12年豊臣秀吉によって再興されたものであるとされる。
多宝塔については、ほとんど記録がないが、上記に掲載した「棟札写」により、元禄2年に造営(あるいは慶長12年の造営の可能性もあるが)され、寛政8年5尺の地揚がなされたものと推定される。

2005/06/26追加:
「淀明細之抜書」(寛永年中):「山城国淀下津町記録」所収
1 御朱印33石並境内  淀姫大明神社領 水垂
「元禄年間淀下津町古記録之写」:「山城国淀下津町記録」所収
1 水垂村ひかへ之覚
  1 寺数 6ヶ寺 常難念寺 称名寺 阿弥陀寺 大徳寺 薬師寺 清浄庵
1 淀姫大明神3座 御社領33石
  村上天皇御宇応和元年酉年、千観内供御勧請、即村上天皇御造立也。応和元年より元禄5年迄731年御座候。
  境内 東西65間、南北60間、此内に19石之高少御座候。
1 本社、 1 舞殿、 1 若宮殿、 1 日大臣社、 1 地蔵堂、 1 多宝塔、 1 鐘撞堂
1 神拝 中淀姫 西天神 東千観内供
1 西の方若宮は八幡の皇子早総別皇子也
右之外御旅所2ヶ所
1 大下津御旅所境内 東西5間半、南北9間
1 新町柳御旅所境内 東西23間半、南北23間余
  社料
1 14石大明神御供料、御代々様御朱印御座候
1 19石並境内社家知行右同断
 都合33石伊予出雲大徳寺。御朱印両通頂戴仕罷在候。

明治期の神社資料

以下:出所:「与杼神社拝殿修理工事報告書」

 ※ここでは、多宝塔の退転時期・理由についての記録の言及がない(資料がない)。

1)明治16年調 紀伊郡神社明細帳:
 明治16年与杼神社境内図( 神社明細帳の付図)京都府総合資料館蔵
祭神・由緒に続けて、社殿(7×4間)、仮殿(3×2間)、拝殿(2間1尺×2間1尺)、掖門、井戸家形、末社日大臣社の建物の明細が挙げられる。・・・当然ながら、既に明治16年段階で多宝塔地蔵堂などの佛教施設は描かれてはいない。

2011/03/31追加:
2-1)「古社寺調査書 社ノ分」(「乙訓郡役所文書4」)京都府立総合資料館蔵
明治28年京都府古社寺調査の報告書綴、報告書は神社から提出と云う。
明治28年頃の与杼姫社の様子を知ることが出来る。
 与杼神社古社取調書     附:与杼神社境内図     与杼神社現況届

2-2)明治29年社蔵由来書:京都府総合資料館蔵
 社寺境内外区別図1(部分)
   同    区別図2(部分)・・・・右上には別当大徳寺が描かれる。
  なおこの図の貼紙には「水度神社ハ与杼神社ト改称ス・・・」とあると思われる。

3)明治29年乙訓郡長宛書類:与杼神社蔵
 乙訓郡長宛付図1
   同    付図2・・・上図とともに移転直前の境内図

以上のように明治16年段階及び移転直前の図には多宝塔地蔵堂などの建物は既に存在しない。
おそらく多宝塔などは幕末頃に退転したか、明治維新の神仏分離で取壊された可能性が高いと思われる。
 (現状、この間の記録を全く眼にすることが出来ない。また聞き取りの範囲でも皆目分からない。)
本殿・拝殿・鳥居・摂社などの神道施設のみ残り、幕末頃まで存在したことが確かな多宝塔・地蔵堂などの佛堂のみが失われている状況から判断すると、多宝塔などの退転理由は火災・洪水などではなくて、明治維新の神仏分離・廃仏毀釈であった可能性が高いと思われる。

「新撰京都名所圖會 第5巻」昭和33年〜40年 の記事:

淀姫社・水垂社・大荒木神社とも云われた。明治初年式内水度神社と改め、同10年與杼神社と改める。
本殿:5間社、流造、檜皮葺きの大建築で、慶安2年(1649)の建築。向拝・その奥の斗栱間に花鳥動物の蟇股を配し、向拝見返しには牡丹彫刻の大手挟を付す。側面縁先の脇障子には桐と鳳凰の彫刻を嵌めこむ。
あるいは本殿・拝殿とも慶長12年再造ともいう。
  ※残念ながら本殿(重文)は昭和50年子供の花火遊びから焼失。本殿外4棟焼失、本殿はその後再建。
大荒木の森:與杼神社の旧鎮座地を云う。明治末年の淀川改修工事に際し、桂川の水底となる。

出所:「紀伊郡村誌」
 社 与杼神社:元淀姫社と称する。式内郷社。大荒木の社と称す。村の南方にあり。
          社地東西1丁5間南北1丁。面積3900坪。除地。・・・・
 寺 大徳寺:東西15間南北30間。面積450坪。除地。真言宗御室真乗院末。・・・・・

現  状

与杼神社は現在、淀城跡に鎮座する。
旧地は西へ桂川の宮前橋を渡った大下津町(乙訓郡水垂村)という。
 「都名所圖會」に見る淀姫社後方の常念寺は現存する。社僧大徳寺も常念寺に隣接して現存する。
 旧淀姫社(従って多宝塔跡)は以上にみられるように、桂川改修工事で、水底となる。
水垂から新淀城跡への神社移転は明治33年で35年に移建完了という。

近世末期まで、与杼神社の鎮座地であった水垂の地には、現在流れている宇治川の流路は無く(琵琶湖を源流とする宇治川は巨椋池に注ぐ)、その巨椋池の最大のはけ口の正面が水垂で あった。そこに北方から桂川が落ち込み、東南部から木津川が流入していた地であった。
 ※巨椋池・木津川・桂川はこの地点で合流し淀川となる。
以上のような、「水」に深く関係したこの地に海・港・川の神が祀られるのは極めて自然なことであったであろう。
千観内供(注)は与杼姫を勧請し、境内に一宇を建て、観音像を祀る。これが現在の大徳寺という。
観音像は大きな厨子の中にあり秘仏であったと云う。・・・・・「淀納所の歴史」中村富三郎、汐文社、1972
  (注)千観内供:延喜17年<917>−永観元年<983>
 近江園城寺の内供奉であった千観は、洛中四条河原で、空也に出会い、空也に触発され、その場から攝津箕面山の篭り、念仏門に入る。
その後攝津安満成合山の廃寺安満寺を復興し、金龍寺と改号しここを拠点に活動した。
なお金龍寺は明治以降衰退し、無住となり、昭和58年ハイカーの火の不始末で焼失したと云う。
また千観内供は山城愛宕念仏寺も再興と伝える。

明治23年地図:陸地測量部 1/20000地図
 明治維新前までは、宇治川は巨椋池に流入し、新淀城の北方を巨椋池放水路が流れ、その放水路に淀小橋が架かり、
木津川は新淀城の南西を流れ、淀川に流入し、淀大橋が架橋していた。つまり新淀城は四方をほぼ川と池に囲まれた天然の要害であった。
慶応4年には淀川水系では洪水が相次ぎ、その復旧の過程で明治初年〜明治3年にかけて、木津川の川違えが行われ、木津川は現在のように石清水八幡宮の北方で淀川に合流するようになった。
明治23年のこの地図では旧木津川流路跡がはっきりと残る。
 ※なお当ページとは無関係であるが、秀吉・淀君の時代の淀城は納所町附近とされる。

現在の地図
 その後の巨椋池干拓事業などで、新淀城北方を流れていた宇治川が新淀城の南方に付け替えられ、京阪本線や京阪国道(旧1号線)の開通などで、淀小橋の跡など消滅し、全く旧宇治川流路を偲ぶことさえ困難になっている。
ご覧のように、明治維新までは四方を水に囲まれていた新淀城は全くの陸続きになる。
明治33年には桂川・淀川合流地点の改修が行われ、淀姫社の旧鎮座地は地図にある宮前橋の中央から西部分の川原地になる。
 (従って旧鎮座地を偲ぶものは全く何も残っていない。
  但し附近の住民の話では宮前橋西詰の南の一画は地番が違い、その地番の違う場所は旧淀姫社の一部であろうと云う。)
  →宮前橋から西詰を望む・・・・想定旧鎮座地

□拝殿:本殿は失火で焼失したが、拝殿(重文、慶長12年〔1607〕建立) は残存する。
 与杼神社拝殿1    同     2    同     3
  同    割拝殿・・・現在は神輿舎として参道脇に曳屋されて存在する。(天明2年<1782>の鬼瓦銘)

 与杼神社拝殿立面図:「淀の歴史と文化」より

 □旧社僧大徳寺1
 □  同     2・・・・後方の屋根は常念寺本堂屋根。

※大徳寺は水垂に現存する。但し明治33年の桂川改修工事にあたり、旧地は水底になり、旧地より若干西の堤防下に移建されたという。
不動明王を祀るようで、都名所圖會に見る「不動堂」がそれと思われる。(本地仏かどうかは不明)
また西には綱敷天満宮の小祠も残る。
「淀納所の歴史」によれば、肥前佐賀郡河上神(與度日女神)を勧請した千観内供が一宇を建立したものと云う。
「慶長18年御室御所より寺号大徳寺院号福寿院より被下」(「千観内供奉渡舟由来」頭書「大徳寺開山千観上人由来」)という。
2009/06/24:
桂川引堤により、大徳寺などは明治33年の桂川改修により旧地を離れたが、再び移転を余儀なくされる。
 (上記情報は2009/06与杼神社宮司<奥村氏>から入手。)
大徳寺は既にこの地を離れ、山科区大石神社北西すぐの位置に民家を買収して移転と云う。
 平成の桂川改修・水垂引堤:宮前橋西詰付近を中心にして、現堤を西に引き新しく堤防を築く。
 大徳寺立退前航空写真:北側から綱敷天神・常念寺・大徳寺と並ぶ。Mapfan写真。
 大徳寺立退後航空写真;綱敷天神・常念寺は残るも、大徳寺は立退更地となる。Google写真。

上記大徳寺写真更新、以下の写真(何れも2005/01/22撮影)を追加
 水垂引堤工事1:今にして思えば、この写真奥の新しい土手は引堤のための新堤防と思われる。
 与杼神社推定旧地;宮前橋から与杼神社の推定社地を望む。
 水垂引堤工事2;宮前橋上から撮影、写真中央左右に新しい住宅が立つが、これは引堤工事に伴う移転住宅と推定される。
 大徳寺・常念寺:手前宝形造の大徳寺は既に移転し、その右の常念寺の立退きも時間の問題と思われる。
  ※今はこのスナップを撮ることは出来ない。

2018/02/08撮影:
延喜元年(601)菅原道真、大宰府に左遷、途中水垂の岸で休息し、その時石の上に艫綱を丸く敷き、坐すという。後年その坐したところに祠を作り、道真を祀るという。京都から大宰府の間の瀬戸内に点在する綱敷天神の一社である。
    →摂津須磨綱敷天満宮三重小塔<屋外小塔中>
 新引堤に移転した綱敷天神:風情を失し醜悪な構えであろう。
 同・綱敷天神社号碑:明治26年年紀、天満宮神社とあり、国家神道の押し付けを歴然と残す。
 水垂綱敷天神跡地1:旧引堤から石階下り、今は道路に分断されるが、写真中央フェンス内に綱敷天神の社殿があった。
 水垂綱敷天神下り石階:社殿跡から旧引堤を見上げる。     下り石階開始位置の石碑:天満(宮)とある。
 開始位置の石碑側面:嘉永元年(1848)戊申とあるように読める。
 水垂綱敷天神社殿跡1     水垂綱敷天神社殿跡2     水垂綱敷天神社殿跡3
 新引堤に移転した常念寺

焼失した本殿(重文解除)の記録:出所:「与杼神社拝殿修理工事報告書」

水垂に鎮座する與杼姫社
 移転前全景写真・・・ 現存する唯一の移転前の写真と云う。
水垂から淀城跡に遷座した本殿:昭和50年花火の火による焼失前の本殿
 本殿正面  本殿正側面  本殿向拝南斗栱  本殿向拝拝  本殿北側脇障子
 本殿南妻  本殿身舎前面蟇股  本殿向拝手挟  本殿狛犬1  本殿狛犬2
 本殿南妻中央木鼻  本殿身舎東南隅斗栱  本殿身舎前面斗栱

 与杼神社本殿正面・側面図  与杼神社本殿平面図:「淀の歴史と文化」より
2018/07/03追加:
○「京都の社寺文化」(財)京都府文化財保護基金、昭和46年 より
淀姫社
 現在社地には本殿のほか、拝殿・摂社と末社・石鳥居・社務所等がある。なかんずく本殿は桃山様式の流れを留める江戸初期の優れた社殿である。
 本殿は五間社流造、屋根檜皮葺の壮麗な建築で、境内の最奥に東面して建つ。向拝も主屋と同じ5間である。
建築年代については確実な記録を見ないが、慶長12年(1607)という記録があったと聞く。しかるに現在の本殿の内外にある勾欄・親柱・擬宝珠には縦書きにて次の刻銘がある。
 「奉寄進御宝前 正一位淀姫大明神 慶安二天八月吉日 願主 築山兵庫一宅」
これによると慶安2年(1649)に擬宝珠が寄進されたことになる。そして本建築の細部を他の江戸初期の建築と照らし合わせると、江戸初期と考えた方がより合理的と判断できる。
 正面は5間の向拝に南より、獅子・竹に虎・雲龍・竹に虎・獅子の彫刻ある蟇股を飾り、軒下見返しには流麗な線様の牡丹彫刻の手挟を入れる。この辺承応の建築である祇園社本殿のとよく似る。木階5級を上って椽となり、身舎正面に向かう。両端板壁、中央3間板扉(祭神が3神であり、中央3間が神座として使われ、両端は物置のように使われる。)で、その内部深さ1間が外陣、それから内陣が奥に続く。外陣正面も南から順に松に梅・尾長鳥に夾竹桃?・尾長鳥に椿・芙蓉・桃の彫刻ある蟇股を飾る。この辺向拝周りとともに極彩色。
 外周り妻飾りは二重虹梁大瓶束に蟇股を用いた壮麗なものであり、拝みと脇懸魚も古いものが残っている。勾欄の擬宝珠は桃山様式そのままの蝶化した牡丹(醍醐寺五大堂に見られたのと同種のもの)の線刻があり、その中のあるものに慶安云々の文字がある。・・・
 何れにしてもこの本殿は規模大にして、細部様式優れ、擬宝珠に年号のある等、十分な貫禄を備えた古建築である。


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