紀 伊 天 野 社 (丹 生 四 所 明 神 ・ 天 野 四 社 明 神) 多 宝 塔

紀伊天野社(丹生四社明神・天野四社明神)多宝塔

天野四社明神景観図

○紀伊国名所図会 三編巻之4:高野山・天野社


高野山惣図:下図拡大図、高野山を北から俯瞰

東塔・金輪塔・瑜祇塔・大塔・西塔・天野社多宝塔部分図:下図拡大図
(図左端中央:金剛三昧院多宝塔、左端上:金輪塔、中央部分:東塔・瑜祇塔・大塔・西塔、右端下:天野社多宝塔

○紀伊国名所図会 三編巻之4:天野社
 
記事:「天野社(丹生四所明神と称す。高野一山の鎮守なり)
    多宝塔(御影堂の北にあり。本尊五智如来なり。」

天野社全図:下図拡大図
左から御影堂、多宝塔、護摩堂、山王社、天野大社、不動堂、拝殿、長床、楼門、行者堂、カカミ池、大庵室、ニッ鳥居など

天野社多宝塔:下図拡大図


天野社全図2:下図拡大図


天野社多宝塔2:下図拡大図

社殿は右から十二王子社(廃)、丹生明神社、高野明神社、気比明神社、厳島明神社(以上4殿存続)、十二王子社(廃)、若宮社(廃)、エビス社(廃)が並ぶ。(廃)は明治の神仏分離で破却される。
2017/09/02追加:
 高野山鎮守天野社:上図と同一のものである。

2003/7/6追加
○丹生都比売神社社頭図(金剛峰寺蔵、旧国宝)

 丹生都比売神社社頭図: 左図拡大図

2017/07/28追加:
○「特別展 高野山開創と丹生都比売神社」和歌山県立博物館、2015 より
 丹生都比売神社社頭図2:左図と同一の絵図:カラー

2008/01/26追加:
○「天野の歴史と芸能」和歌山県立博物館/編集、和歌山県立博物館、2003 等から転載

 ◇天野村絵図:正保2年(1645)、下天野村八幡宮蔵
  天野村絵図(天野社部分図)
   ※裏書;絵図奉行は高野山東光院長伊・高野山五明院朝誉、絵師は洛陽(京都)東海喜兵衛

 ◇天野社絵図

天野社絵図:寛政5年(1793)墨書、高野山金剛峰寺蔵
 (左図拡大図)

天野社社地総坪数:1476坪8分

 ◇高野山参詣案内図:推定江戸期:高野山大学図書館蔵
  高野山参詣案内図
  ※天野社は中段右にある(四社明神、多宝塔、さんのうどう、太皷橋・・)、下段中央は慈尊院(多宝塔、七社明神・・・)、
   上段中央は高野山伽藍が描かれる。

 ◇天野社境内配置図:神仏分離で仏堂などが棄却される直前の絵図
 当時の宮司丹生珍彦が記録のため作成したと云われる。境内諸堂の詳細情報が記録される。
 但し、引用図書の図版が小さく、判読不能な文字等が多い。
  天野社境内配置図(明治初頭):天野社蔵
  天野社境内配置図(部分):左(東)端部分図:上(北)より光明真言石碑、御影堂、多宝塔、護摩堂が並ぶ。

 ◇天野社社家・供僧など屋敷配置
 近世の天野社の職掌:
 一殿から四殿に対応した4人の祝と高野山からの下向僧である社務・院主・天野供僧・両壇行法師・郷供僧および
 神社側の社家・宮仕・神楽男などで構成されていた。これ等の関係者は社の周囲に屋敷を構える。
  祝家:惣神主(一の祝)、ニの祝、三の祝、四の祝
  宮仕:杉本坊、安養坊、花之坊、上之坊、三宝院?、里之坊
  郷(さと)供僧:桜本坊、奥之坊、玉本坊、澤之坊、幣之坊、柳之坊、社家:森山など12家
   天野社屋敷配置図
 ○「中世高野山における神仏関係-天野社・御社の造営を通じて-」太田直之
   (「日本文化と神道 3」国学院大学、平成18年 所収) より
 「高野明神の導きを得ることで高野の地を知った空海は、弘仁7年高野山に入定処を作り、その際丹生明神の示現を受け、
 高野山を中心とする紀伊南部の広大な地を譲渡され」
 このことによって「丹生・高野両明神は高野山の鎮守として永くその仏法を守護する存在となった」という。

2017/07/28追加:
○「特別展 高野山開創と丹生都比売神社」和歌山県立博物館、2015 より
天野社周辺絵図:江戸期、丹生都比売神社蔵
 天野社周辺絵図     天野社周辺絵図・部分図:天野社部分図

神仏分離

●「丹生都比売神社の神仏分離につき達」:明治5年
 「是月、伊都郡天野村丹生都比売神社ノ両部混祭ヲ改正シ、・・・・・
 其祀ル所ノ仏像ヲ悉ク之ヲ廃シ、・・・・其摂祀スル所ノ山王堂ヲ日枝神社ト改称シ、其他仏観規画ニ係ル祀殿、十二社王子ニ社・百二十蕃神一社、荒神社一社、堂御影堂、不動堂、塔多宝塔、経蔵等数宇ヲ毀撤シ、以テ社境ヲ一新セリ、・・・・ 」

境内の仏像の多くは高野山に運ばれたという。しかし、今も不明な像も多いという。
明治7年上記の達に挙げられる堂塔は競売される。しかし全部は売却できず、売れ残った堂宇は取り壊され木炭とされるという。
要するに、堂塔は悉く棄却され、天野四所明神は丹生都比売神社と改号される。

多宝塔跡

社殿東に各仏堂跡と思われる平坦地及び若干の仏教的な遺物があり、それらを手がかりにおおよその堂塔の推測は可能である。
特に多宝塔跡と思われる平坦地はよく手入れされて残る。

推定多宝塔跡及び光明真言石碑・里石造五輪卒塔婆など:下図拡大図
(北より南方を撮影)

推定多宝塔跡2(北より南方を撮影)        推定多宝塔跡3(南より北方を撮影)

多宝塔:一辺2間3尺(4.55m)余、周縁付き、本尊胎蔵界大日如来、建立は10世紀中葉、天野検校雅真僧都と云う。
 雅真僧都:高野山初代検校・高野山龍光院住職、高野山復興に尽力する。長保元年(999)寂。

略 歴

祭神:第一殿・丹生都比売大神(丹生明神)、第二殿・高野御子大神(狩場明神)、第三殿・大食都比売大神(気比明神)、第四殿・市杵島比売大神(厳島明神)を祀る。ただし第三殿・第四殿は承元2年行勝上人により気比神宮と厳島神社より勧請したものと云う。
弘仁6年弘法大師は高雄山から参籠して境内に曼陀羅庵を建立、白・黒の犬の導きで高野山に至り、曼陀羅庵を移し山王院と号して高野山を開いたと云う。

紀伊續風土記 巻之48・伊都郡第7天野荘・上天野村より:記事抜粋:天保10年(1839)
丹生四所明神社
 一宮:丹生津比ノ大神、二宮:丹生高野御子ノ神、三宮:笥飯ノ神、四宮:嚴島ノ神
以上四社檜皮葺千木堅魚木あり 大宮作極彩色梁行一間四尺餘桁行一間四尺毎社小異あり 右四所明神の内一宮二宮は丹生高野二柱の神にして往古より此地に鎭まり坐せり 三宮四宮は中世以後加へ祀る所にて合せて四所明神と稱ふはいと々々後の事なり 祝部丹生氏は紀國造と同家にて往古より當社に奉仕して今に至る 中世以来高野山社務を兼職し一山最尊崇を極るを以て諸殿雑舎大に備わり最壮麗を盡し祭祀神事怠慢ある事なし
 長宮:梁行5尺桁行2間2尺 本社の左にあり 祀神五座 皮張神 皮付神 土公神 大将軍 八王子
 長宮:梁行5尺桁行2間6尺1寸 本社の右にあり 祀神六座 八幡 熊野 金峯 白山 住吉 信田
 衣比須宮:梁行5尺桁行3尺3寸 右の長宮の次ぎあり 祀神十二王子之一合祀百廿伴神
     以上三社十二座の神を十二王子といふ 舊は高野明神の社に合祭せしを承元3年(1209)行勝上人分ち祭る所といふ
 若宮:梁行6尺8寸桁行6尺6寸 衣比須宮の東にあり
     行勝上人建保5年(1217)5月7日遷化の後當社を造りて其霊を祭る故に行勝社ともいふ
 内鳥居:四社の中央にあり 高さ2間2尺幅1間3尺 格子の扉あり
 瑞籬:内鳥居の左右本社末社を圍繞して東西長さ17間餘
 中門:梁行2間2尺桁行3間6尺二階造 高さ1丈2尺 内の鳥居の正面にあり
 右前殿:中門の西に接す 桁行13間5尺梁行3間7尺 車寄透廊太鞁部屋大般若蔵承仕部屋別あり 東北隅御馬屋芝といふあり
     古の厩の趾といふ
 左前殿:桁行11間餘梁行3間1尺 中門の東に接す 拜殿神人廳神楽所神子部屋の別あり
 御供所:桁行9間3尺梁行4間2尺5寸 右前殿の坤にあり 西の端に竈門明神を祀る
 舞臺:方3間餘 右前殿の前にあり
 樂屋:桁行5間4尺梁行2間5尺 舞臺の西にあり 中間に橋を架す
 鐘樓:方1丈1尺 舞臺の西にあり 洪鐘に應仁3年(1496)の銘あり
 持所:桁行7尺間4間梁間同3餘 本社の西にあり 本尊兩頭愛染明王大師42歳の作といふ
     外に愛染明王一區覚鑁上人の作といふ 大壇の裏に正和年中文あり
 護摩所:方3間 本社の東にあり 一に壇所ともいふ 本尊不動明王智證の作といふ
    天野口傳鈔に行勝上人の遺跡也とあり 持所護摩所を天野兩僧といふ
 御影堂:方3間 護摩所の東にあり 二位禅尼の草創といふ 本尊弘法太師は舊北院御室の本尊なりといふ
 多寳塔:方2間3尺餘御影堂の北にあり本尊大日如來
 神輿堂:梁行2間5尺桁行2間6尺 多寳塔の北にあり 神輿二乗を納む
 山王堂:7尺間方6間4尺 神輿堂の西北にあり 又は本地堂とも曼陀羅院ともいふ或は大師の草創ともいふ
    又東三條院御願の堂ともいふ 四社明神の本地佛胎蔵界大日如來金剛界大日如來千手觀音辨財天女を安置す
 不動堂:梁行3間餘桁行3間4尺餘山王堂の西北にあり 6月10日此堂にて社家に月俸を輿ふ依りて御蔵ともいふ
 荒神社:方2尺6寸 不動堂の北にあり 瑞籬鳥居あり社の前に石地蔵あり
 長床:桁行25間餘梁行4間 不動堂の西北にあり 西の端に行者堂あり 方2間2尺 中央役行者像左に義覺の像を安置す
   東の端に小庵室あり 長床の後に芝あり三角芝といふ 葛城先達の行所なり
 寳蔵:2間に3間 行者堂の南池ノ中にあり 前に土橋を架す 行人方神事の具を蔵む
 一切經蔵:2間に3間 寳蔵の西池ノ中に並へり 前に板橋を架す
    仁和寺道法親王御灌頂の時行勝上人命を奉し止雨の法を行ひ即験あり 其賞として此經蔵を造り宋本の一切經を蔵む
 鳥居2基:中門の北輪橋の南北にあり 南にあるを中の鳥居といふ 高さ2丈4尺餘 北にあるを外の鳥居といふ 高さ1丈7尺
    扁額に正一位勲八等丹生大明神正一位勲八等高野大明神と書す 宮法印道守の筆なり
    外の鳥居の内に螺籟石といふあり 4月10日螺を此石上に吹きて明神の神幸を送る故に名とす
 輪橋:長さ10間餘幅2間餘 本社の正面50間許池に架す 池中に小丘あり 相傳ふ往古八百比丘尼神鏡を納めし所といふ
 石碑4基:中の鳥居と輪橋との間にありて左右に列建す修験者の建る所なり
 大庵室:東西16間餘南北11間 輪橋の西にあり 上下の門及長屋あり 大師曼茶院を此地に草創し後山上に移す
    雅眞僧都其舊跡に山王院を草創せし舊地なりといふ 學侶方以下大衆の宿所とす
 祝詞棚:外の鳥居の西北にあり 神輿渡御の時海部郡和歌浦玉津島明神へ濱降(ハマクダリ)の神幸の式をなして祝詞を捧くる所なり

2017/07/28追加:
○「特別展 高野山開創と丹生都比売神社」和歌山県立博物館、2015 より

紀伊続風土記高野山部惣分方 巻14

紀伊続風土記は紀伊藩により文化3年(1806)に編纂が始められ、天保10年(1839)に完成する。
 紀伊続風土記高野山部惣分方:左図拡大図

社殿は左から丹生・高野・気比・厳島が並び、その左右に十二王子、左端に百二十番、若宮が並ぶ。社殿前方に楼門、右は透廊、左は神人庁となり、さらに右に侍所、左は護摩所となる。楼門右前方に舞台と楽屋、鐘楼、御供所が並ぶ。楼門に対峙して先達碑が4基、池と太鼓橋、池内の中島に経蔵と宝蔵、池の右に大庵室がある。
鳥居の左に長床・行者堂、荒神、不動堂、山王堂(本地堂)、神輿堂、多宝塔、御影堂が取り囲む。

以上のように天野社はごく普通に見られた神仏習合の社であり、中世には高野山が検校社務を兼務し、大きな権勢を振る うという。
天野社は旧高野山参詣道の途中で分岐し、およそ海抜500mの天野盆地に位置する。
弘法大師が高野山を開くにあたり、高野山あるいは真言密教守護のため「高野明神」を勧請して成立したとされる。
高野神道では丹生都比売大神(丹生明神)を胎蔵界大日如来、高野御子大神(狩場明神)を金剛界大日如来の本地仏とする。

神仏分離後の現状:本殿が4棟(何れも室町期・一軒社春日造・重文)並ぶ。何れも荘厳なつまり仏教的な装飾が施されている。 

本殿1(重文) :下図拡大図

本殿2(重文):下図拡大図

本殿3(重文):下図拡大図

本  殿  4  (重文)

 

 

 

 

 

輪  橋:下図拡大図

輪  橋 その2

輪橋を渡ると正面に楼門(室町)がある。

完全に仏堂様式の建築である。

 楼  門(重文): 左図拡大図

 楼 門  その2

現存する丹生都比売神社の仏教遺物

  ※この項:「久遠の祈り 紀伊国神々の考古学 2」菅原正明、清文堂出版、2002 を要約。

神仏分離で仏教色のあるものは毀損されるが、いくつかの仏教遺物が境内に辛うじて残存する。

光明真言石碑と里石造
五輪卒塔婆4基と柱状碑1


光明真言石碑と里石造
五輪卒塔婆4基と柱状碑2
五輪卒塔婆
左:文保3年(1319)、高さ357cm、中央左:正応6年(1293)、高さ312cm、
中央右:西安4年(1302)、高さ244cm、水輪以上は欠、右:延元元年(1336)、高さ300cmであり、
「中の鳥居と輪橋の間にあり修験者の建てる」ものとされる。神仏分離で現在地に移設したと思われる。
板状碑:元禄2年(1689)の銘。高さ158cm。高野山大善院長意造立。
光明真言板碑 多宝塔奥の「梵字石」として描かれているものと思われる。地上部高さ242cm、幅146cm。
下辺から右回りに光明真言の梵字、背面には多くの僧名が刻まれる。
寛文2年(1662)の銘。願主は高野山勝鬘院快勢。
護摩鉢1基 光明真言板碑の左手前に放置されている。径86cm。名所圖會では一の鳥居の内側に一対として描かれているもので、明治の神仏分離で現在地に移されたものとされる。
役行者石祠 光明真言板碑の左手背後に役行者を祀った石祠がある。寛政2年(1790)の銘。
高野山西方院□□が造立。
一切経蔵跡 カカミ池西の池中にあったという。
宝蔵跡 カカミ池東(南)の池中にあったという。


近世の景観(神仏分離で取壊された堂宇など)

○1:丹生都比売神社(勿論明治の神仏分離で 改号された国家神道の名称である)のサイトに
「神仏分離以前の丹生都比売神社を3D CGで再現!!」という動画(9.4M)がある。動画自体は大したものでは無い。(私見)
※作成の動機は「「紀伊山地の霊場と参詣道」の丹生都比売神社境内として世界遺産へ登録」されたということであろうと推測する。その精神が、神仏分離を端緒としてもたらされた国家神道の犯罪の反省に立つというのであれば喜ばしいことで あるが、単に「世界資産」という箔付けを得た「集客」目的という「さもしい」ものであるならば、明治維新の時の「ご都合主義」と大差はない と知るべきである。
○2:高野山大学>藤吉トップ>デジタルアーカイブ別館>「丹生都比売神社(伊都郡かつらぎ町)仮想再建」のページがある。
ここに、上記◇1「神仏分離以前の丹生都比売神社を3D CGで再現!!」中と同一の画像がある。
  →但しリンク切れ→Youtubeに同一動画があるので転用する。
  →このページからの転用画像はB:を表示
○3:上記○2のページ中に
「仮想再建動画CG(マルチメディア祭で公開された動画CG)<155MB>」が掲載されている。
※155MBの大容量ではあっても、残念ながら期待はずれと思われる。(私見)
私見では155MBもの大容量動画を掲載しても「大したもので無い」のであれば、静止画であっても上記の例えば「天野社絵図:寛政5年(1793)」や「天野社境内配置図:明治初頭」の高精細画像を掲載した方がはるかにリアリティがあると思われる。
  →この動画からの転用画像はC:を表示
○4:「天野社絵図:寛政5年(1793)」からの切取画像
  →A:を表示

C:天野社頭よりの景観:左から、長床、山王堂、一切経蔵、外の鳥居、輪橋、大庵室が見える。
C:大庵室:東西16間餘南北11間輪橋の西にあり、上下の門及長屋あり、學侶方以下大衆の宿所とす 。
 A:大庵室:天野社絵図部分図
C:宝蔵・一切経蔵1:寳蔵:2間に3間行者堂の南池ノ中にあり前に土橋を架す行人方神事の具を蔵む
B:宝蔵・一切経蔵2:一切經蔵:2間に3間寳蔵の西池ノ中に並へり前に板橋を架す・・・宋本の一切經を蔵む
C:長床1:宝蔵背後の左手が長床、右手は不動堂・山王堂
B:長床2:桁行25間餘梁行4間不動堂の西北にあり 西の端に行者堂あり方2間2尺 葛城先達の行所なり
 A:長床・役行者堂・宝蔵・一切経蔵:天野社絵図部分図
C:山王堂・不動堂1:山王堂:7尺間方6間4尺  又は本地堂とも曼陀羅院ともいふ或は大師の草創ともいふ又東三條院御願の堂ともいふ
             四社明神の本地佛胎蔵界大日如來金剛界大日如來千手觀音辨財天女を安置す
B:山王堂・不動堂2:不動堂:梁行3間餘桁行3間4尺餘山王堂の西北にあり ・・依りて御蔵ともいふ
 A:不動堂・山王堂・神輿堂:天野社絵図部分図
B:多宝塔1:2間3尺餘御影堂の北にあり本尊大日如來
C:多宝塔2:川は祓川
B:御影堂:方3間 二位禅尼の草創といふ 本尊弘法太師は舊北院御室の本尊なりといふ
B:護摩所:方3間本社の東にあり一に壇所ともいふ本尊不動明王智證の作といふ
 A:神輿堂・多宝塔・御影堂:天野社絵図部分図
B:御供所:桁行9間3尺梁行4間2尺5寸右前殿の坤にあり西の端に竈門明神を祀る
 A:鐘楼・能舞台:天野社絵図部分図:方1丈1尺舞臺の西にあり 洪鐘に應仁3年(1496)の銘あり

高野山参詣道

高野山旧参詣道は慈尊院から始まる。参詣道は1町ごとに町石が建ち、また道標も完備し、かつ道も整備されて歩き易い道で ある。
慈尊院から雨引山への取り付きは急であるが、途中紀ノ川や高野山を望む絶景の場所もある。
それを過ぎると山腹を縫う山道で途中で天野社に至る道に分岐する。慈尊院から天野社まで急いで2時間から2時間半の距離。
町石は史跡指定。

参詣道町石       紀ノ川方面遠望       高野山方面遠望

2008/01/26追加--------------------------
附:下天野八幡社

下天野村に八幡社がある。
かっては本地堂・神宮寺があり、明治の神仏分離でこれ等は廃され、下記の仏像などは下天野延命寺に遷座し、現存すると云う。

阿弥陀如来坐像(平安前期):下天野八幡社本地堂旧仏と推定(「八幡寺旧蔵仏像仏具移転目録」、「本地堂古仏修復勧化帳」元禄17年)
十一面観音立像(平安前期):下天野八幡社神宮寺旧仏と推定(「八幡寺旧蔵仏像仏具移転目録」)
観音菩薩立像(平安前期):下天野八幡社神宮寺旧仏と推定(「八幡寺旧蔵仏像仏具移転目録」)
持国天・多門天立像(ニ躯、平安前期):下天野八幡社神宮寺旧仏と推定(「八幡寺旧蔵仏像仏具移転目録」)


2006年以前作成:2017/09/02更新:ホームページ日本の塔婆