上  野  松  井  田  不  動  寺  多  宝  塔

上野松井田不動寺多宝塔

松井田多宝塔概要

・「佛教考古学論攷」石田茂作、戦前の著作と思われる:
 「不動寺宝塔、群馬碓井(氷)郡松井田町、豊山派、寛文6、現存」とある

・「日本社寺大観 寺院篇」昭和8年:
 「瀧本山と号す。豊山派。寛元元年慈猛の開創。徳川秀忠、家光、家綱の信任を得る。
 寛文6年(1666)堂宇回禄の災に遭しが、幕府支援で宝塔、仁王門等を造営す。」とある。

以上により、上野松井田不動寺に「宝塔」があり、またこの宝塔は明治維新後も存在したと推定される。
 (下記「Y」氏ご提供情報を入手するまで、その現存・退転の有無、形状などは不明であった。)

2006/11/28:「Y」氏ご提供
「大日本名蹟図誌 第八編 上野國之部」 (明治34年12月発行)
  ※この図誌は「大日本宝鑑 上野名蹟図誌」(復刻版?)とも称すると思われるも不詳。
「不動寺之景」(「大日本名蹟図誌」所収):「Y」氏ご提供画像

不動寺の景(部分):下図拡大図

「大日本名蹟図誌 第八編 上野國之部」明治34年 より:
不動寺之景(全体):全図

「多宝塔」の絵が正確とすれば、この建築は「多宝塔」ではなく、「ニ層塔」であり、初重平面が3間であるかどうかも不明と云わざるを得ない。但し、相輪の描写はまさに多宝塔の相輪と思われる。
しかしながら、江戸前期の塔建築であること、幕府も多少関係したとも思われること、真言宗寺院の塔であることなどから、「多宝塔」であった可能性は非常に高いと思われる。
逆に正規の多宝塔が建立されていたとすると、絵が「稚拙」であり、作者の認識が「この程度」でしかなかったということになる。

図中には
上州安中城主堀田備中守紀正俊(ママ)が建立したる多宝塔」とある。

◆「Y」氏ご提供情報(「Y」氏の問合せ、不動寺様ご回答内容):
 「多宝塔は大正6年の落雷により焼失、その後再建はならず。多宝塔跡は現存する。」

◆「上州安中城主堀田備中守紀正俊(ママ)が建立したる多宝塔」

堀田正俊略歴:
寛文7年(1667)堀田正俊2万石で安中に入府。延宝7年(1679)正俊老中に昇進、2万石の加増(4万石)。
天和元年(1681)正俊は下総国古河藩13万石に加増移封。
以上の堀田正俊が安中城主であったことと、不動寺は寛文6年回禄・「幕府支援で宝塔・仁王門造営」と云われ、
これらから「多宝塔」は寛文年中もしくはその直後の建立と思われる。
しかし、大正6年雷火により焼失する。

寺伝では、不動寺は寛元元年(1243)僧・慈猛の開山で、元亀、天正の頃は武田信玄から寺領を得る。
江戸期には徳川家光より朱印89石を安堵、末寺17ヶ寺があったと伝える。
元禄9年(1696)十五世秀算、徳川綱吉より二百両を下賜、仁王門(切妻造り・現存)を建立と云う。
 現在、寺宝として仁王門参道沿いにある三基の石塔婆と不動明王像を有する。

◆2009/07/09追加:
現住職の談(2009/06/26):「多宝塔は綱吉の寄進による。大正9年に雷火で焼失」と云う。
 ※焼失が大正6年なのか9年なのかは混乱していると思われる。(どちらが正しいのかは現段階では判断できない)
 ※徳川綱吉略歴
  寛文元年(1661)8月、上野国館林藩25万石を領有、延宝8年(1680)5月、江戸城二の丸に入り、将軍宣下を受ける。
  堀田正俊を大老に任ずる。宝永6年(1709)逝去。
  ◎多宝塔は「堀田正俊の建立」であり、また「綱吉が二百両を寄進・仁王門建立」と伝え、なおかつ、綱吉は正俊を大老に任ずるなどから
  実質的には時の幕府(綱吉・正俊など)が檀越となって建立されたと見て大過ないであろう。

・塔は大正年中に焼失するが、その少し前に多宝塔屋根の修理が行われたと思われ、その時の記録が残る。
この記録によれば、屋根は檜皮葺。
下重は平面3間で、基壇は設けず柱は礎石上に建て、床を造る。
下重には切目縁を廻らす。縁の束は、側柱の礎石周囲に側柱礎石とほぼ同じ大きさの束石が置かれ、その上に立つ。
正面中央間は桟唐戸、両脇間は連子窓、長押を用いる、組物の形式は不明。
上重は忠実に多宝塔の形式を採り、平面は円形に造り、下重屋根上に白い漆喰の亀腹を置く。周囲には円形の縁を設ける。
組物の形式は不明、屋根四隅には風鐸を吊る。
相輪は多宝塔風の相輪を載せ、四隅に鎖を垂らす。
多宝塔は東向きで、その前に簡素な棟門(杮葺)があり、この棟門の前には8段の石階がある。
 ※この当時の棟門は戦後(?)の庫裏の改築の時撤去したと云う。
  今、この門は同じ位置あるいはやや北寄の位置に藥医門(銅板葺)として造替されていると思われる。
 ※8段の石階は10段の石階に積み直されて旧状から少し変更されていると思われる。
 ※石階横には今も鐘楼基壇と鐘楼があるが、鐘楼基壇は当時のまま残り、鐘楼自体も当時の鐘楼が残ると思われる。
  (屋根は杮葺から銅板葺に変更されたものと思われる。)
   松井田不動寺多宝塔跡11:下に再掲:写真中央に多宝塔があった。

松井田不動寺塔跡

◆2007/10/21「X」氏撮影

多宝塔跡は現存する。

 松井田不動寺多宝塔跡1:左図拡大図
塔跡を表示する石碑が建つ、また中央に石製十三重塔が建つ。
写真のように、かなり潅木類が繁茂し、状態は不良と思われる。
 松井田不動寺多宝塔跡2
塔跡のどの部位か不明であるが、土壇石階とも思われる。
 ※2009/07/09:これは石階ではなく、一番上の礎石は脇柱礎、
 中段の石は廻縁束石、下段の石は土壇縁石と思われる。
 松井田不動寺多宝塔跡3
はっきりは分からないが、側柱礎石と思われる。

なお、潅木類繁茂のため、正確な計測は困難であるが、凡その計測の結果「塔一辺およそ3.8mを測る」と云う。(「X」氏概略計測)

◆2009/07/09追加:2009/06/26撮影

松井田不動寺多宝塔跡11:東から撮影、多宝塔は東面する。多宝塔跡の中央に石塔がある。
 塔前右には鐘楼があり、塔前には門(当時は棟門)を構え、棟門に至る石階がある。
  同     多宝塔跡12:塔跡東側を撮影、側柱礎および束石はほぼ完存すると思われる。
 写真では塔跡を廻る上下2段の石列が写るが、上の石列は束石、下のやや乱れた石列は
 土壇縁石であろう。側柱礎石は雑草中でこの写真には写っていない。
 十三重石塔は木造塔再建を断念し、現住職が建立と流布される。
  同     多宝塔跡13:東側側柱礎石、右は石塔下部・・・・・・:左図拡大図
  同     多宝塔跡14:同上、左は石塔下部、右の一段下の礎石は束石。
  同     多宝塔跡15:東北隅側柱礎石
  同     多宝塔跡16:東北隅側柱礎石および束石
  同     多宝塔跡17:塔跡東側を撮影、多宝塔跡12と同様の礎石類が写る。

◎塔跡実測:
初重平面は3間、中央間と両脇間は等間であり、1間は約130cm(芯-芯)
側柱礎石の大きさは100cm内外×70cm内外を測る。
 ※一辺はおよそ4,3mとなり、中型もしくはやや大型の多宝塔であったと推定される。

松井田不動寺現況

2008/01/17追加:
 「O」氏ご提供画像:1996/07/14撮影:
上掲「不動寺の景」図の景観をほぼ残すと云う。(多宝塔を除く)
 松井田不動寺門前:正面は仁王門、左手屋根は本堂
   同   仁王門1:仁王門左手覆屋に3基の自然石の異形板碑。
   同   仁王門2:切妻・単層、桃山期の特徴を残す(江戸期初頭に改築とされる。)
   同     中門:「不動寺の景」にある簡素な柵門に代わって、中門が建立されているようです。
   同     本堂     同    不動堂     同     鐘楼
「不動寺の景」に関して:
次の見解を教示していただく。
この「絵」は銅版画(リトグラフ)とおもわれ、であるならば木版のように自由な曲線が描きにくかったと思われる。
縦横の線は定規を当てられるが、なだらかな曲線(亀腹など)は技術的に難しく、厳密さは若干欠くが、二重塔のように描いたとも思われる。

2009/07/09追加:2009/06/26撮影:
 松井田不動寺仁王門3     松井田不動寺本堂2     松井田不動寺不動堂2


★参考:白雲山石塔寺(妙義権現)・・・・松井田不動寺西5〜6kmに妙義権現がある。

・妙義山の主峰白雲山の中腹にある。
 上野妙義山:中央山塊が白雲山
・「三代実録」貞観元年(859)の条:「授上野国正六位上波己曽神従五位下」とあるのが初見。
 (妙義山に波己曽神が祭祀されていたのであろう。)
・「上野国交替実録帳」(長元3年・1030頃の記録)には社殿の記載がなく、「勲十二等波己曽神社、美豆垣壱廻、荒垣壱廻、外垣壱廻」とあるという。これは神の依代である巌に三重の垣を廻らしていたと解釈される。この依代の巌は、現在の妙義社本殿北の影向巌と推測される。そしてかっての波己曽社の社殿はこの巌に接してあったと云う。
・その後中世の詳しい事情は不明ながら、この巌の神の本地は大日如来などと解釈され、妙義権現として転化していったものと思われる。
・近世には東叡山寛永寺元光院の兼帯となる。
寛永13年(1636)以降寛永寺座主輪王寺宮の隠居所となり、妙義権現としての社殿の荘厳を増す。(宝暦6年妙義権現社殿造替)
近世末期の様子はある程度、
「白雲山記」板倉節山(第15代安中藩主板倉伊予守勝明)で窺うことが出来る。(以下概要)
 天保7年(1836)4月妙義登山。
 黒門を潜り、石磴(石段)を登り、二王門を過ぎると、右は殿閣(御殿)である。石階(石段)を凡そ三層挙がると、妙義権現の祠がある。
 右には波古曽神の祠があり、延喜式に云う白雲山の祠がこれである。しかし今は衰えて、妙義権現の祠だけが盛んである。
 その傍に小さい祠が数多ある。階を数十段降りると、護摩堂・千手観音堂がある。・・・以下山中の記録のため略・・・。
・由緒として以下のように云うが、神仏分離の処置あるいは国家神道による破壊の跡が歴然であろう。
「ここには、日本武尊をはじめ、豊受大神・菅原道真公・権大納言長親卿らが奉られています。」

現在以下のような堂舎を残す。
仁王門:重文、安永2年(1772)・・・明治維新後は総門と云う。
 三間一戸八脚門、切妻造、銅瓦葺(近年の修理で檜皮葺から変更)、東面、石塔寺は高顕院と号す。
  上野妙義権現仁王門1         同     仁王門2
本殿・幣殿・拝殿・附神饌所・附透塀:重文、宝暦6年(1756)大改修(「遷宮宝暦六丙子年十二月朔日」銘の棟札残存)
 〈本殿〉桁行3間、梁間2間、一重、入母屋造、銅瓦葺、東面
 〈幣殿〉桁行3間、梁間1間、一重、両下造、銅瓦葺、東面
 〈拝殿〉桁行3間、梁間2間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝一間、軒唐破風付、銅瓦葺、東面
 〈附神饌所〉桁行5間、梁間1間、一重、唐破風造、妻入、銅板葺、背面幣殿・拝殿に接続、北面
 〈附透塀〉折曲り延長28間、天狗社一所を含む、板葺 と云うも未見。
  妙義権現本社石階:先年の台風で土砂災害があり、今も修復中につき、立ち入り禁止であり、本社など は未見。
唐門:重文、宝暦6年(1756)大改修
 平唐門、銅瓦葺、東面 と云うも未見。
随神門:3間×2間、単層切妻造、寛文期の建立と推定。(未見)
波己曽社殿(旧本殿及び旧神楽殿):
 明暦2年(1656)の建立と云われる。宝暦6年現在の本社が造営されたとき、この社は分断され波己曽社および神楽殿とされた。
以降相当腐朽していたが、昭和44年波己曽社および神楽殿を現位置に移築し、合の間(幣殿)を復元し、拝殿・幣殿・本殿からなる社殿として復原されると云う。
  妙義権現波己曽社1       同        2       同        3       同        4
    同        5       同        6       同        7
輪王寺宮兼帯所:
 嘉永6年(1853)の再建と云う、現在は社務所などに転用と云う。
  妙義権現輪王寺宮兼帯所1         同        兼帯所2
妙義権現の明治維新前の姿の情報は無いが、仁王門参道脇には堂舎跡と思われる地形がある。
  推定妙義権現堂舎跡1         同     堂舎跡2
 本山派修験の神力院、三明院の名があるが、全く不詳。


2006年以前作成:2009/07/09更新:ホームページ日本の塔婆