北  野  天  神

北野天神古絵図ならびに古記録

宝治元年(1247)大納言ニ品局被供養北野塔也・・(百練抄)

◆北野天神社頭古絵図など

北野曼荼羅図:
 北野天満宮社頭古絵図:左図拡大図
室町末期、北野天神蔵、126.4×72.7cm、絹本着色
 

2010/10/11追加:「社寺参詣曼荼羅」(目録)大阪市立博物館、1987 より
 北野参詣曼荼羅:上記の写本、北野天神蔵、紙本着色、
大正10年(1582)模写。127×73cm。

※この間、
  文安6年・1449)北野天満宮社頭炎上・・・多宝塔朝日寺炎上了。・・・
  慶長に再建せし。

○2003/5/18追加:屏風絵
 洛外洛中図・勝興寺本:推定慶長(1596-)末期の作品
 洛中洛中図(紙本金地着色)無名:元和(1615-)初頭の景観
 北野社頭図屏風絵:推定寛永(1624-)期
○2014/12/13追加:
2014/12/05:京都国立博物館報道発表
狩野山楽と狩野孝信の屏風絵を発見。
狩野孝信の屏風絵は「北野社頭遊楽図屏風」(六曲一隻、縦81cm、横271cm)で、京都府内の個人が所有していたという。
元亀2年(1571年) - 元和4年(1618)。狩野永徳の次男、兄は狩野光信。狩野探幽、狩野尚信、狩野安信は子息。
法名は円大院孝信日養。京都妙覚寺及び池上本門寺南之院及び京都妙覚寺に墓所がある。
 北野社頭遊楽図屏風1     北野社頭遊楽図屏風2 :左上が北野天神社殿で多宝塔が描かれる。

2003/07/22追加:
◆北野社堂舎絵図:元禄14年(1701)

北野社堂舎絵図:左図拡大図

建物の色分は(下左の説明:右から)
屋根檜皮葺、屋根栩葺・木賊葺、屋根瓦葺、落縁、新造之願
で区分けされる。
社殿・堂塔の正確な配置図とされる。

 

○京洛細見図:寳永(1704-)版
 北野天満宮(京洛細見図)
  :(宝塔の位置はほぼ合致するが、
    塔婆は三重塔として描かれる。絵としては少々雑であろう。)

◆都名所圖繪など絵図

○天明年間(1781-)刊「都名所圖會」巻6・・・北野天満宮
    多宝塔(御文庫の南にあり。本尊大日如来。脇士四天王)
 都名所圖會・北野天満宮: 左図拡大図

○2003/7/22追加:
 北野天満宮境内之図:寛政 (1789-)年間刊
 北野天満宮御社之図:安政 (1854-)年間刻

北野天満宮社頭図:天保10年(1839)

◆大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(上京第五學區之部)本文より
 中原康富記云。嘉吉4年(1444/文安6年・1449)4月13日・・・北野天満宮社頭炎上・・・
多宝塔朝日寺炎上了。・・・
 多宝塔址:
今畔蔵のある所西面ありしと。文安焼失後慶長に再建せしか。明治維新の際破壊せり。
本尊大日如来脇士四天王の像を安置す。其後いかになりしを知らず。
  →本尊は付近の浄土宗親縁寺に遷座し現存する。(下に掲載)

2003/07/22
北野社建築図(江戸期)
○いずれも「なにが分かるか、社寺境内図」国立歴史民俗博物館編、2001.10 より転載

1.多宝塔

北野社多宝塔建築図(右拡大)
北野社多宝塔木割

檜作り、丹塗、下中之間6尺7寸計、繁垂木、中ノ間14枝、脇ノ間12枝、柱太さ中間1寸8分計、丸柱。頭貫8分計、下は4分計、大輪太さ頭貫と同じ、長押6分計、半長押3分計、接物2手先集輪在、大斗太さ柱と同じ、桁の下は大斗5分計タテ2分増す、縁ノ間木負の外の面を受けて高欄ノ間に定、エンイタ厚さ垂木下はホト縁鎌手○とも7分計、階は柱8分計、亀腹高さ柱を1本半土台より出端、柱2本土台土台タテ・・・
 

 

2.鐘楼
 ○北野社鐘楼建築図     ○北野社鐘楼木割
   ※鐘楼は明治の神仏分離で四条寺町貞安大雲院に移建され、さらに祇園に移転にし、現存する。(後述)

3.輪蔵
 ○北野社輪蔵建築図
 


北野天神多宝塔遺物・遺構

北野天満宮多宝塔安置仏・須弥檀・華鬘 : 浄土宗寿盛院竜公山親縁寺蔵


北野天満宮多宝塔安置大日如来像
親縁寺蔵(非公開)

 

  北野多宝塔安置金剛界大日如来は親縁寺に遷座し現存する。

移転の経緯(親縁寺様談):
 当時親縁寺檀家総代が天満宮の社僧もしくは社家と関係があり、神仏分離の際、譲り受けて親縁寺に安置したという。

近年、親縁寺は本堂を新築し、本堂二階に客仏として安置される。
なお本堂新築に合せ、当像の修理を実施したと云う。

 北野多宝塔大日如来1
 北野多宝塔大日如来2
 北野多宝塔大日如来3(左の拡大画像)

 親縁寺本堂:1階の用途は不明であるが、
  2階が本堂の形式をとり、内外陣に分かつ。

次項の「伝多宝塔須弥檀」が多宝塔須弥檀であるとすれば、この尊像の総高<台座・向背を含む>は目測150cm内外で、須弥檀の大きさと不釣合と思われる。この像以外に4仏があった可能性があると思われる。
都名所図會では脇侍四天王とするが、これは良く分からない。

2003/9/15:京都坊目誌
親縁寺:浄土宗知恩院に属す。僧頓與(宇治上林氏)慶長12年創建す。
享保15年類焼し、天明の大火に災を免る。塔中に朝松院あり、維新の際本寺に合す。境内725坪。

 


親縁寺須弥檀(伝北野多宝塔須弥檀):非公開

 

親縁寺須弥檀は北野天満宮多宝塔からの伝来という。
 (大日如来像と同時に伝来と云う)
北野天満宮関係のものとして、須弥檀の金具には「梅鉢」が刻印される。 
 <親縁寺談>

近年修理を実施し、金具の一部は再現して取り替えたと云う。

※親縁寺の宗旨は浄土宗である故に、現在、この須弥檀上には本尊の阿弥陀如来三尊が祀られる。
北野天神多宝塔本尊大日如来坐像は本須彌壇向かって左の脇檀に客仏として祀られる。

 伝多宝塔須弥檀1:左図拡大図
 伝多宝塔須弥檀2
 伝多宝塔須弥檀3

 伝多宝塔須弥檀金具:梅鉢が刻印される

2003/7/22:
 伝多宝塔須弥檀


華鬘:
本堂に懸かる華鬘も北野天満宮伝来と云う。<親縁寺談>

 伝北野天満宮華鬘:写真が不鮮明であるが、梅鉢が刻印される。

※親縁寺は本堂・仏像などを一般に公開しているいわゆる観光寺院ではない。
今般の見学は寺院側の格別なご配慮によるものである。

北野天満宮多宝塔擬宝珠 :地主神社擬宝珠として転用して現存
本殿裏に北野天満宮創建以前から鎮座していたという「地主神社」がある。現社殿は豊臣秀頼の造営という。
 

◆北野多宝塔擬宝珠

○2003/06/26撮影:
地主神社擬宝珠は銘文に見られるように多宝塔からの転用である。
 北野地主神社1
 北野地主神社2
 北野多宝塔擬宝珠1:左図拡大図
 北野多宝塔擬宝珠2
 北野多宝塔擬宝珠3
 北野多宝塔擬宝珠4
 北野多宝塔擬宝珠5
次のように刻む。
山城国 葛野郡 北野 天満 天神之 寶塔

右大臣 豊臣朝臣 秀頼公 御■■(真?)■(之?)
鈞名
 片桐 主膳正 豊臣 貞隆 奉行 焉

 慶長12年 丁未 ■(季?)11月
※慶長12年豊臣秀頼が片桐貞隆を奉行にして北野寶塔を奉納した物証である。
※片桐貞隆は且元の弟で大和小泉藩祖である。

○2009/05/09撮影
 北野地主神社木階擬宝珠1
 北野地主神社木階擬宝珠2

○2014/05/28撮影:
 北野地主神社3
 北野地主神社4
 北野地主神社5
 北野地主神社6
 北野地主神社擬宝珠11
 北野地主神社擬宝珠12
 北野地主神社擬宝珠13
 北野地主神社擬宝珠14
 北野地主神社擬宝珠15
 北野地主神社擬宝珠16

北野天満宮多宝塔扉 :地蔵院地蔵堂堂裏扉
 浄土宗昆陽山地蔵院(椿寺)地蔵堂の堂裏に北野多宝塔扉が現存する。
 

北野多宝塔扉

地蔵堂背後に2枚接ぎの四隅に金具を打った扉が嵌められ保存される。
 ※板扉;高さ約182cm、巾約140cmを測る。
神仏分離史料では、扉には四天王の図があると云う。

2003/6/26撮影:
 北野多宝塔扉外1:左図拡大図
 北野多宝塔扉外2
 地蔵院地蔵堂
 地蔵院(椿寺)説明板:文面中央に「堂背後の板扉・・・多宝塔遺構・・」とある。)

2003/7/22追加:
 北野多宝塔扉内部:四天王絵図が残されていると思われる。

2009/05/09撮影:
 北野天神多宝塔扉11
   同        12
   同        13
   同        14
 北野天神多宝塔扉内部11:地蔵堂裏に掲示の写真を撮影した写真 である。

2014/05/28撮影:
北野多宝塔板扉絵:通常は非公開である。某氏の紹介で特別に開扉をお願いする。

北野多宝塔右扉絵1
 :左図拡大図
北野多宝塔右扉絵2
北野多宝塔右扉絵3
北野多宝塔右扉絵4
北野多宝塔右扉絵5
北野多宝塔右扉絵6
北野多宝塔左扉絵1
 :左図拡大図
北野多宝塔左扉絵2
北野多宝塔左扉絵3
北野多宝塔左扉絵4
北野多宝塔左扉絵5
北野多宝塔左扉絵6



扉実測値;扉高さ185cm(6尺1寸)、巾138cm(4尺5寸5分)
       立の閂巾9.5cm、厚さ6.5cmを測る。

 北野天神多宝塔扉21:左図拡大図
 北野天神多宝塔扉22
 北野天神多宝塔扉23
 北野天神多宝塔扉24
 北野天神多宝塔扉25
 北野天神多宝塔扉26

住職談によれば、扉絵の剥落などが進み、近々修理を考えているとのことである。そして修理が完工した場合、扉は地蔵堂背面から外し、本堂などの何れかの堂内に保存する意向のようである。

○地蔵院(椿寺)現況:
椿寺は毘陽山地蔵院と号し、浄土宗知恩院末(寛文11年より)である。
創建は神亀3年(726)行基の建立といい、毘陽池の辺に建立される。(恐らく地蔵堂のような一宇であったのであろうか)
その後、平安期に衣笠山麓に遷されるも、明徳2年(1391)兵火により焼失、足利義満が地蔵菩薩を奉安し、再建する。
天正17年(1589)豊臣秀吉の命で現在地に移る。
 地蔵院山門
 地蔵院本堂:本堂(本尊阿弥陀如来坐像)向かって左が観音堂(本尊十一面観音立像)、本堂前面の樹木が高名な椿である。
  この椿は五色八重散椿と称し、白・赤・ピンク・絞りなどに咲き分け、花弁は一片一片散るという。 加藤清正が豊臣秀吉に献上したものを、
  北野大茶会の縁で秀吉が地蔵院に寄進したもの。但しこの一世は枯れ死し、現在のは樹齢120年の2世という。
 地蔵院地蔵堂     地蔵堂地蔵菩薩立像:高さ6尺、乾漆像。      地蔵菩薩脇侍1     地蔵菩薩脇侍2

北野多宝塔跡

1)北野多宝塔跡については全くその遺構を留めない。・・・但し下記のように「畦倉」の建つ場所は注視する必要がある。

おそらく鉄筋コンクリート製の宝物館が建設され、その時永久に破壊されたと思われる。
(但し宝物館建設前の状況は不明ではある。)
 ※現宝物館は約80年前の建立と云う。
  北野多宝塔跡(北野神社宝物館)

2009/05/22追加:
2)以下に注目すべき記事がある。・・・多宝塔跡は残存する可能性がある(要調査)

○大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(上京第五學區之部)本文より
 中原康富記云。嘉吉4年(1444/文安6年・1449)4月13日・・・北野天満宮社頭炎上・・・
多宝塔朝日寺炎上了。・・・
 多宝塔址:
今畔蔵のある所西面ありしと。文安(1444-)焼失後慶長に再建せしか。明治維新の際破壊せり。
本尊大日如来脇士四天王の像を安置す。其後いかになりしを知らず。
  →本尊は付近の浄土宗親縁寺に遷座し現存する。(上に掲載)

※「京都坊目誌」の云う通りであれば、今畔蔵(校倉)のある所に西面してあったという。
今宝物殿すぐ南に畦倉が残存し、基壇らしきものも残存する。
 北野天神畦倉:この基壇については精査を要する。(2009/05/09撮影)
2011/04/02撮影:
 北野天神畦倉2     北野天神畦倉礎石
2014/05/28撮影:
校倉・絵馬堂・神楽殿・地主神社も、北野拝殿・本殿などと同時期(慶長期)の建造物という。
上に掲載の都名所圖會・北野天満宮などの絵図には多宝塔の北東に校倉造で屋根入母屋造と思われる宝蔵が描かれる。
この校倉(宝蔵)が、多宝塔が毀却された後に、多宝塔土壇上に移建されたのであろうか。
なを、校倉の礎石は多宝塔礎石の平面ではなく、多宝塔礎石は撤去され、校倉礎石も同時に移されたものであろう。
また、正面の石階と石橋はその佇まいから、多宝塔のものとも思われるが、確証はない。
 北野天神校倉11     北野天神校倉12     北野天神校倉13     北野天神校倉14     北野天神校倉15
 北野天神校倉16     北野天神校倉17     北野天神校倉18     北野天神校倉19
 


北野天神に於ける神仏分離

◆「北野神社神仏分離調査報告」明治維新神仏分離資料中、鷲尾順敬、大正11年 より(写真は2003/6/26撮影)

1.幕府時代の状況及び仏教関係の建築物

本社内陣:幢幡・御正体十一面観音懸仏・脇侍不動明王懸仏があった。北面では仏舎利(御襟懸舎利)が尊崇された。
本社拝殿:鰐口が懸かり、大なる香炉があった。本社の勤行は社僧が出仕し、天台宗の儀式に依ったものであった。
幕府時代の所領は600石余で、他に御祈祷料の収入が多かった。
江戸時代本社の諸職
別当職:天台宗曼殊院門跡
祠官三家:松梅院、徳勝院、妙蔵院
目代:春林坊
宮仕:円観坊、梅恭坊、松栄坊、神光坊、梅椿坊、上乗坊、俊乗坊、松向軒坊、楊柳坊、光乗坊、一行坊、乗良坊、梅林坊、
寿徳坊、長生坊、梅深坊、玉泉坊、慶延坊、鳥居坊、玉林坊、祐松坊、林静坊、玉鳳坊、延乗坊、照孝坊、林清坊、豊春坊、
松園坊、吉城坊、観学坊、成就坊、玉庭坊 *9
社人:西京に住す。七保と称し、各々寺号があった。*1
神子:世襲で代々襲名した。
別当、祠官、目代、宮仕は大いに威勢を張った、殊に宮仕の諸坊の社僧が社人すなわち神人を侮辱した。

仏教関係の建物は以下のとおり
夏堂:本社内陣の西・南面。朝日観音堂:本社の西、南面、3間四方、本尊十一面観音、別当が徳勝院。
毘沙門堂:観音堂の南、3間四方。輪蔵:南門入る西、大報恩寺支配。弁天堂:輪蔵の西。法華三昧堂:東門入る南。
鐘楼:南門入る北。多宝塔:東門入り北、大日如来などが安置、大報恩寺支配。伴氏石塔:忌明の塔・五輪塔 *8

 

北野天満宮古図: 下図拡大図
宝暦7年、北野天満宮所蔵

2.維新時代の状況及び仏教関係の図像堂舎の処置

慶応4年別当曼殊院門跡の事務取扱停止。祠官三家、目代、宮仕(当時住僧49人という)が皆一時に復飾する。
祠官三家は正神主、社人は禰宜、宮仕は祝となる。
諸坊に仏像仏画などが多くあったが、住持には仏教の信仰がなかったので、各自ら意に任せて売却する。
仏教に関係のあるものは先祖の位牌まで他所に持ち出し、後に紛失したと云う。
むしろ西京の社人の方が法体の社僧に比べて信仰があり、俗体の社人で各家の仏壇を破壊したものはなかったとも云う。

松梅院家来堀井伊織、稲波啓太郎らが主となり仏像仏画堂塔の撤去のことにあたった。
本社内陣の御正体(十一面観音懸仏)は木綿商人藤原源作が古物商より買受、破壊せんとしたが、奇徴が起こり、大いに恐れ
小堂を建て安置した。後、因幡薬師堂に寄付・安置・現存する。脇侍不動毘沙門は古物商を転々し知恩院大方丈に安置。*2
仏舎利は丹波常照皇寺の前住持魯山に稲波啓太郎が商人を介して売却。当時の関係文書とともに常照皇寺に伝わる。*3
朝日観音堂は破壊、本尊十一面観音は売却し、浄土宗西願寺(大和大路三条下ル)に伝わる。*4
輪蔵は破壊し、一切経は大報恩寺に持ち込み現存する。*5
鐘楼は売却し、大雲院(当時は寺町四条下ル)に移築・現存。なお祇園社の鐘(島津忠広寄進)も同院に買い取られ、
北野社の鐘楼に祇園社の鐘が懸けられている。*旧北野天神鐘楼の項を参照。
多宝塔は破壊して売却。擬宝珠は本社地主神社の階段の欄干に転用、扉(四天王の図あり)は地蔵院(椿寺・梅ヶ畑村・真言宗)地蔵堂の後扉に転用、大日如来は親縁寺(浄土宗・六軒町今出川上ル)に伝わる。 *6
松梅院安置十一面観音は妙心寺塔頭金台寺に売却・現存。*7

*1:もっとも七保については、江戸期には社殿は残ったものの、かなり退転・売却される。
一ノ保:安楽寺天満宮という、明治維新の時、社殿・宝物を本社に移す。旧跡は有志の手で保存される。
菅公に随従した人たちが菅公の没後、筑紫より帰京し菅公自作の像を祀った最初の地という。故に安楽寺天満宮と称する。その後右京一条から二条の間に7個所の御供所を建て七保と称し北野神人の称を得る。
二ノ保:文政9年(1826)社殿取払い、本社へ合祀。
三ノ保:明治6年本社に遷宮。
四ノ保:新長谷寺という、元文5年(1740)廃社。旧地には椿井が残る。
五ノ保:満願寺という、元禄15年(1702)日蓮宗に売却、元禄16年岡崎に移転。 → 岡崎満願寺
六ノ保:阿弥陀寺という、寛保3年(1743)真言宗に売却。今は民有地となる。
七ノ保:成願寺という、元和2年(1616)日蓮宗に売却。今に存続。
 なお成願寺は2002年多宝塔を建立。 → 成願寺
*2:因幡薬師・知恩院とも現存については未確認。
2014/06/08追加:「京都ことこと観音めぐり」京都新聞出版センター、2006 より
因幡薬師(平等寺)観音堂(洛陽三十三所観音27番札所)には2躯の十一面観音坐像が安置され、この像は北野天神に祀られていたもので、明治の神仏分離の処置で東寺寺中観智院を経て平等寺に招来されたらしい。坐像は何れも像高約50cmで、青銅製である。現在は蓮華座に坐すが、もともとは懸仏であり、前面だけの半身像である。時代は室町期と江戸末期のものと推定される。毎月8日開帳される。
知恩院大方丈安置像については情報がなく、不明。
*3:常照皇寺に現存すると云う。
2003/7/22:明治4年に移すという。
 北野社舎利塔(江戸期、高78.1cm、台座は木製で本体は金銅製と思われる)
 北野社襟掛舎利容器(江戸期、宝珠形の前後はガラスが嵌められ中に舎利がある、下には竿と台が付属)
 北野社舎利収容器1(外箱、明治10年作)
 北野社舎利収容器2(外箱、内箱)
  2009/06/19追加 → 更に詳細はこの項最後の「北野舎利信仰」を参照
*4:朝日観音堂と今現存する東向観音とは無関係と思われる。西願寺は三条京阪駅東に現存すると思われる。
2003/7/22:
*5転輪経蔵
伊予瑞応寺長泉堂に現存すると云う。足利義満が山名氏の菩提のため奉納したものと伝える。黄檗版2000余冊の一切経が納められる。明治4年住友家が中心になって売りに出されていたものを購入して、伊予瑞応寺に奉納したとされる。別子銅山殉職者の鎮魂の意味もあったとも言われる。
*6:新撰京都名所図會、3、地主神社:「現在の社殿は桃山建築で、高欄擬宝珠は北野神宮寺の多宝塔のものを流用したものといわれ、慶長12年の銘がある。」
新撰京都名所図會、3、地蔵院(椿寺):北野白梅町に現存。
「地蔵堂背後の二枚開き板扉(室町)はもと北野の多宝塔の遺構と伝える。」
親縁寺は六軒町今出川上ルに現存。金剛界大日如来像現存。また多宝塔須弥檀及び華鬘も北野天満宮からの伝来という。
*7:妙心寺塔頭金台寺は不明。
*8:伴氏石塔:忌明の塔は明治維新で東向観音寺本堂南に移設され、現存。
*9;参道には大きな石灯篭が並ぶ。その多くは宮仕の坊舎の名前が刻まれ、神仏習合の頃の雰囲気を唯一伝える。
   松栄坊     梅深坊     北野天神慶延坊

2009/06/19追加:
◎北野舎利信仰
「北野天満宮本殿と舎利信仰」黒田龍ニ(「日本建築学会論文報告集 第336号」昭和59年 所収) より
 北野天神本殿の現在の平面は三間四面庇、平入入母屋造である。しかし草創期の本殿は三間三面庇とされる。
この三面庇に前庇あるいは背面庇が付設され、現在の四面庇となったのであるが、前あるいは後のどちらに庇が付設されたかは別にして、背面には庇が必要であったことは揺るがない。
 さて背面庇には、中央に仏舎利を納めた舎利塔が祀られ、正面の参拝の後背面に廻り仏舎利に対して参拝するのを常とした。
この舎利信仰の要諦は以下の通りであろう。
 天神は無実の罪に遭ったので特に妄語を戒めるにも関わらず人々は不実の態度で参詣する、だから天神は北方(背後)を向いている。社檀の後門には舎利塔があって天神は常にそこに居る。そこでは舎利と天神は一体となっている。

 仏舎利及び舎利塔は明治2年11月常照皇寺に移管、仏舎利塔のあった場所には天穂日命などを祀る。
舎利塔は黄銅製四角宝塔で、細部は建築的に造られている。総高79.5cm。塔を納入する木箱底面には「北野宮内陣/舎利殿之箱/元禄十四辛巳年/三月十二日造之/神事奉行法眼禪覺」とある。


◆旧北野天神鐘楼

○「新撰京都名所図會、4」の大雲院:寺町四条の寺地に大雲院があった。
 ※大雲院開山浄土宗貞安上人は、安土宗論の信長方当事者である。
 ※大雲院は織田信忠の法名に因む院号である。
「本堂前にある鐘楼(桃山)は北野天満宮より移したもので、銅鐘(室町)は延徳2年(1490)在銘の祇園感神院の旧物で、明治初年に島津家が・・寄進」 とある。
 大雲院北野天神鐘楼
 寺町四条時代の大雲院(本堂前に鐘楼が 描かれるが、これが北野からの移築の鐘楼と思われる。)
2014/09/10追加:
○梵鐘は祇園感神院にあったもので、延徳2年(1490)の銘を有する。明治3年佐土原藩主島津家より藩士の菩提のため寺町四条大雲院に寄進される。
○鐘楼は北野天神のもので、慶長17年(1607)豊臣秀頼が寄進したものである。経緯は良く分からないが、明治の神仏分離で取り除かれることになったものを寺町四条大雲院が譲り受けたものであろう。(梵鐘と同じく島津家寄進かどうかは不明)
 昭和48年大雲院本坊が寺町四条から移転されると同時に、梵鐘・鐘楼も現地真葛ヶ原に移転される。
○寺町四条の旧地は現在高島屋の増床部分となり、近年まで旧地にはいくつかの寺中が残っていた記憶があるが、それもいつしか消滅したようである。
但し、明治の神仏分離以前は大雲院の鎮守であった火除天満宮のみは今なお、寺町四条に残存する。火除天満宮は天明8年の大火には類焼するも、元治元年のどんどん焼けには奇跡的に類焼を免れるという。
○開山貞安は相模三浦郡の産である。天正3年(1575)能登西光寺に住す。天正4年安土圓通寺に入寺、信長の知遇を得、安土に西光寺を建立す。
天正7年(1579)信長の命で安土浄厳寺での安土宗論が行われ、その当事者となる。浄土宗側では安土宗論で法華宗を論破するという見解をとる。浄土宗が勝者となり、信長から軍配団扇と朱印の感状を下付され、それは今なお寺宝として伝えられる。

昭和48年寺町四条から祇園真葛ヶ原に移転。鐘楼/梵鐘も祇園に移転する。
(境内は自由に立ち入り出来ないため、詳細は不明である。)
2003/07/02追加:真葛ヶ原(移転後)の大雲院・・ ・北野の鐘楼も移建される。祇園社梵鐘も同時に移される。
 ※梵鐘は延徳2年(1490)の銘があり、祇園感神院の梵鐘であった。
 明治3年、神仏分離に際し(子細は不詳)、佐土原島津家が佐土原藩士の菩提のため、大雲院に寄進と云う。
2003/10/29撮影画像:

 旧北野天神鐘楼1:左記拡大図
   同       2       同       3
   同       4       同       5
境内には自由に立ち入り出来ないと思われ、塀外から撮影。
華やかな彫刻、蟇股などを覗うことが出来る。
2012/01/12撮影:
 北野天神鐘楼6      北野天神鐘楼7
 北野天神鐘楼8:上掲2003年撮影写真と比すると
  蟇股彫刻が欠損しているものと思われる。
 北野天神鐘楼9
2012/04/24撮影:
 北野天神鐘楼10     北野天神鐘楼11
2013/01/31撮影:
 北野天神鐘楼12     北野天神鐘楼13     北野天神鐘楼14

2013/02/13追加:
○「龍池山大雲院」龍池山大雲院、1994.9 より
鐘楼は梁間2間桁行3間、入母屋造、屋根桟瓦葺(元は檜皮葺)、椽勾欄を四周する。軒は二軒疎垂木。下重の柱は2尺ほど切り詰められ多少上下のバランスを欠く。
正背面の中央間長押上欄間には彩色彫刻を入れ、他の柱間には彫刻蟇股を置く。中央の花頭窓周囲の彫刻は候補である。
 北野天神鐘楼0:「慶長12年(1607)豊臣氏が北野天神に寄進、明治5年5月北野神社より移建」との解説がある。
 北野天神鐘楼上重1     北野天神鐘楼上重2     北野天神鐘楼蟇股
 北野天神鐘楼絵図:「洛中洛外図」部分(京都・山岡氏蔵)、この絵図では柱間ごとに花頭窓を配するように描かれる。現在は中央間のみ花頭窓であるので、後に改変されたのであろうか。
2014/08/28撮影:
北野天神鐘楼(真葛ヶ原大雲院鐘楼)
 北野天神鐘楼21     北野天神鐘楼22     北野天神鐘楼23     北野天神鐘楼24     北野天神鐘楼25
 北野天神鐘楼26     北野天神鐘楼27     北野天神鐘楼28     北野天神鐘楼29     北野天神鐘楼30
 北野天神鐘楼31     北野天神鐘楼32     北野天神鐘楼33     北野天神鐘楼34     北野天神鐘楼35
 北野天神鐘楼36     北野天神鐘楼37     北野天神鐘楼38     北野天神鐘楼39     北野天神鐘楼40
真葛ヶ原大雲院伽藍
 大雲院総門:東京から旧宮家の門を移建という。
 大雲院南門1     大雲院南門2;江戸期、旧寺町四条から移建
 大雲院本堂1     大雲院本堂2
祇園閣:昭和3年大倉喜八郎が別邸「真葛荘」に御大典記念に建立という。伊藤忠太の設計。昭和48年大雲院は大倉喜八郎別邸を買収して移転する。高さ36m。
 大雲院祇園閣1     大雲院祇園閣2     大雲院祇園閣3     大雲院祇園閣4     大雲院祇園閣5     大雲院祇園閣6
天正15年(1587)大雲院は、正親町天皇の勅命により、織田信長(惣見院殿)・信忠(大雲院殿)父子の菩提のため御池御所(烏丸二条)に創建される。開山は貞安。のち、秀吉により寺町四条に移転する。
 大雲院信長信忠墓碑1     大雲院信長信忠墓碑2
日向佐土原島津家と大雲院
日向佐土原初代藩主島津以久は天正15年伏見にて逝去、大雲院に葬られる。以来、佐土原島津家は大雲院を菩提寺とし、檀越であったようである。
明治維新の時、佐土原藩は戊辰戦争に参戦し、寺町四条大雲院に本営を置く。明治元年各地を転戦し、大雲院に帰還した佐土原藩は戦没者の慰霊祭を執行する。その時、豊烈曜後之碑 を大雲院境内に建立する。さらに、明治3年上述のように祇園社梵鐘(及び北野天神鐘楼もか)を大雲院に寄進する。
昭和48年大雲院が故地をはなれたこともあるのであろうか、豊烈曜後之碑 は相当に荒れ、それゆえ佐土原町は本碑を譲り受け、佐土原高月院境内に移建されることとなる。つまり明治初年に建立された「豊烈曜後之碑 」は佐土原にあり、真葛ヶ原大雲院にあるのは複製品である。
 佐土原藩戦没者招魂塚および豐烈曜後之碑:「戦没者招魂塚」と刻む石碑は「右は、9代室 随真院が明治2年9月に建立」したもので、この碑も佐土原高月院に昭和58年移建されるという。
参考:「戦没者招魂塚」の情報及び佐土原高月院に移建された石碑の写真はページ「佐土原城跡、鶴松館(花菖蒲祭り)、高月院、鬼子母神(吉祥寺)、天昌寺跡」にある。
 佐土原高月院移建石碑:上記ページより転載

◆東向観音寺:東向観音寺が現存する。
 東向観音はもと北野社の神宮寺といわれる。なぜ神仏分離で破壊されなかったのかについては情報がない。
本堂は慶長元年の再興とされ、礼堂は元禄7年の増設・本堂と結合されたという。管公自作と伝える十一面観音を安置。
あるいは朝日観音は明治の神仏分離で東向観音寺に合併されたともいう。
2014/05/28撮影:
 東向観音寺山門     東向観音寺山門内     東向観音寺本堂
 東向観音寺伴氏廟:菅公の生母大伴氏の墓所という。 明治維新後境内に移転される。

◆能登滝谷妙成寺番神堂:2010/10/19追加:
妙成寺三十番神堂は北野天神より移建との情報がある。(但し、如何なる文献や史料によるものなのかは不明)。
 →能登滝谷妙成寺の三十番神堂の項を参照
 


筑前安楽寺天満宮絵馬
 筑紫大宰府天満宮絵馬   絵馬拡大図 : 北野天神絵馬堂に掲額
  絵馬では多宝塔と思われる塔婆が描かれる。(安楽寺には、古は十三重塔・五重塔も存在したとされる。)
   ※絵馬堂は明治の神仏分離の後、経蔵跡に移建されたと思われる。
2009/05/09撮影:
 太宰府天満宮社境内図:明治12年 奉納額
2011/04/02撮影:上記と同一図---容量大
 太宰府天満宮社境内図2     太宰府天満宮社境内図3:部分図

北野天満宮現況
○印は2009/05/09撮影、△印は2011/04/02撮影、◇印は2014/05/28撮影:
 ◇北野天神楼門
中門:三光門・重文・慶長12年(1607)豊臣秀頼の寄進
 ○北野天神中門1     ○北野天神中門2
 △北野天神中門3
 ◇北野天神中門11     ◇北野天神中門12     ◇北野天神中門13     ◇北野天神中門14
拝殿:国宝・慶長12年(1607)豊臣秀頼の寄進
 ○北野天神拝殿1     ○北野天神拝殿2     ○北野天神拝殿3     ○北野天神拝殿4
 ○北野天神拝殿5     ○北野天神拝殿6
 △北野天神拝殿7     △北野天神拝殿8
 ◇北野天神拝殿11    ◇北野天神拝殿12    ◇北野天神拝殿13    ◇北野天神拝殿14    ◇北野天神拝殿15
 ◇北野天神拝殿16    ◇北野天神拝殿17    ◇北野天神拝殿18    ◇北野天神拝殿19    ◇北野天神拝殿20
 ◇北野天神拝殿21    ◇北野天神拝殿22    ◇北野天神拝殿23    ◇北野天神拝殿24    ◇北野天神拝殿25
本殿等:国宝・慶長12年(1607)豊臣秀頼の寄進
 ○北野天神本殿
 △北野天神本殿2     △北野天神本殿3     △北野天神本殿4
 ◇北野天神本殿11    ◇北野天神本殿12    ◇北野天神本殿13    ◇北野天神本殿14
 ◇北野天神本殿15    ◇北野天神中門16
 ◇北野天神文子天満宮

山城大報恩寺(千本釈迦堂)
 北野天満宮東に千本釈迦堂がある。
 「神仏分離資料」によれば、多宝塔・毘沙門堂は大報恩寺支配とある。(実態は不明)
 大報恩寺は洛中最古といわれる本堂を残す。国宝・安貞元年(1227)建立、梁行5間桁行6間入母屋造檜皮葺。
 周囲を圧する大堂である。
2009/05/09撮影:
 大報恩寺本堂1     大報恩寺本堂2     大報恩寺本堂3     大報恩寺本堂4
 大報恩寺本堂5     大報恩寺本堂6     大報恩寺本堂7     大報恩寺本堂8
2014/05/28撮影:
 千本釈迦堂11      千本釈迦堂12      千本釈迦堂13      千本釈迦堂14
 千本釈迦堂15      千本釈迦堂16      千本釈迦堂17      千本釈迦堂18
 


2006年以前作成:2014/12/13更新:ホームページ日本の塔婆