常 陸 筑 波 山 中 禅 寺 三 重 塔

常陸筑波山中禅寺三重塔

筑波山中禅寺古絵図

木曽路名所図会:文化2年(1805)刊に見る「常陸筑波山中禅寺」

筑波山中禅寺部分図:左図拡大図

大御堂・三重塔(大日如来を安ず)・開山塔・薬師堂・太子堂・求聞持堂・聖天尊・釣鐘堂・男体鳥居・女体鳥居
・・・・
江府の宿坊を護持院と号し、真言宗にして寺領1700石。

2003/8/5追加
宝暦5年(1755)筑波山下絵図

筑波山下絵図:左図拡大図

「何が分かるか 寺社境内図」より
 筑波山下絵図2:左図と同一図
左下に描かれる石垣上の御殿が本坊知足院である。
宝暦5年(1755)写図とある。

2005/12/09追加:
「慶応義塾図書館所蔵江戸時代の寺社境内絵図 下」より
 筑波山絵図:江戸後期

2007/09/17追加:参考文献
「筑波山麓の仏教-その中世的世界-」真壁町歴史民俗資料館、京成5年(開館15周年紀念企画展) より

筑波山は古代から、その秀麗な山容などから、「神の山」として崇敬され、祭祀されていたとされる。

延暦元年(782)徳一上人が筑波山頂二社(神体は筑波山の西峰と東峰とする)を再建、筑波山大権現と称し、中腹に堂宇を建立して、本尊千手観音を安置、知足院中禅寺と号したという。
 ※徳一上人:筑波山は徳一の開基とされるが、筑波山での活動は殆ど伝説的でしかない。(勿論徳一は平安初期に明確な足跡のある法相僧である。また最澄・空海との論争は有名であり、両名の書簡などで、徳一の活動<特に会津地方での活動>は裏づけられる。)
「私聚百因果集」では、徳一は大同元年(806)陸奥会津の石梯(いあわはし)山に登り、清水寺(会津大寺・恵日寺)を建立し、その後常陸に出て、中禅寺を建てるとする。会津での活動は最澄・空海の同時代史料が証明するが、常陸での活動を裏付ける信頼性の高い史料は皆無というのが現状である。同時代史料にはないが、徳一の筑波山来山は後世の「私聚百因果集」(正嘉元年1257頃)、最古の筑波山関係縁起である「筑波山流記」(天正18年1590)が語る。また筑波山一帯の寺院に徳一伝承があり、徳一像(月山寺)の残存、かっては筑波山中に徳一開山堂や廟所の存在が知られ、徳一の来山を全く否定することもできない。

弘仁年中(810-24)弘法大師によって真言密教の霊場となったともいう。
 ※関東北部から東北一帯には、徳一・空海・円仁・行基の開基とする古寺が多いが、空海・行基は実際にはこの地に活動していない。

鎌倉期には常陸の守護八田知家(小田氏)の子、為氏(法名:明玄)が筑波氏を称し、筑波山中禅寺別当に就任、以降その子孫の別当職世襲となり、中禅寺は大いに興隆したと推測される。おそらく筑波氏は中禅寺衆徒も組織したと考えられる。
応永五年(1398)落雷により堂塔を焼失。
「知足院世代旧記」などの記録によれば、開山は徳一上人、中興は応永元年(1394)元海上人、明応元年(1492)知足院第1世法印宥玄、7世宥俊は慶長7年寺領500石を賜り、血脈法流1世とする。 第2世は光誉。左記によれば、筑波氏明玄から元海までは天台宗であり、明応元年から慶長まで真言宗の法脈が続き、慶長7年幕府によりこの法脈が公認されたと云える。
また、中世には日光山・相模大山・伊豆走湯などとともに修験の道場でもあった。
 ※例えば、文明18年(1486)天台宗修験聖護院道興が登拝する。道興の登山は決して趣味ではなくて、天台修験の最高責任者としての統帥のための入山であった。
天正年中(1573-)後北条氏が小田領内に侵入し、「筑波乱入、知息(足)院放火」、おそらく多くの記録・什宝が散逸したと思われる。

江戸期に至り、宥俊(大和長谷寺梅心院より入山)が中興の祖として別当に補任され、慶長7年、徳川家康より朱印五百石を賜う。(上述)
2世光誉(秀忠の乳母の子息と云う)は江戸別院として建立されていた護摩堂(知足院)の経営にあたり、江戸在府となる。
 (以降江戸知足院が筑波山には院代を置き、寺務を執行させることになる。)

筑波山中禅寺絵図

寛永3年から、家光により筑波山造営が開始される。
(筑波山上の両神社、大御堂(本堂)、三重塔、鐘楼、楼門、神橋、境内摂社などが再興・造立)

筑波山中禅寺絵図:左図拡大図:「筑波山麓の仏教-その中世的世界-」より
 (杉田家蔵:作成年代不詳)
作成年代不詳も、寛永度造営以降の中禅寺の様子が描かれる。
 

貞享3年(1686)隆光は、綱吉の命をうけ筑波山知足院の住職に就任。
元禄元年(1688)隆光大僧正は、知足院を江戸神田橋外に移し護持院と改め、大僧正、新義真言宗総緑となる。
元禄3年、中禅寺は寺領に500石の加増をうけて計1500石となる。
その後、護持院は新義真言宗僧緑寺院となり、智積院・小池坊の両本山を凌ぐ権勢となる。
この頃筑波山は隆盛を極め、日輪院、月輪院、東光院など18ヶ坊、300の住僧を数えたという。
なお江戸護持院は享保2年(1717)焼失し、幕命により跡地は火除地とされ元地の再興は許されず、護持院は護国寺の境内に移され、本坊方を護持院、本堂方を護国寺と称し、護国寺が護持院を兼務することとなる。

明治の神仏分離で、筑波山中禅寺は廃され(破壊され)、筑波山神社が捏造される。
「有範日記」では、そのときの様子が挿絵とともに記録される。
 ※神仏分離での破壊が「絵」で残されている稀有の例と思われる。

「有範日記」(塚本勇吉<文化8年1811生れ・屋根葺職人親方):塚本家蔵

(「筑波山麓の仏教-その中世的世界-」より)
「有範日記」明治5年申之8月27日の条:左図拡大図
右文章:
明治5年申ノ27日、とう(塔?)の上之寮の本尊仏大日尊をはじめよして諸仏を右りやうのをもで(表)へ持出しやき(焼)はらいけり、・・・此時分とうの上ニ頼ミ置きし仏成しがむざん(無残)成けるしだへ(次第)也、・・・時之いせへ(威勢)にまかせやき捨しが末々よかず

「とうの上ニて諸仏をやくづ(焼図)」の挿絵があり、仏像を焼き捨てる「野郎」は東山の役人で、その服装は既に西洋式の洋服とも思われる。

焼く図の説明:
明治5年申之8月27日、とうの上ニて諸仏をやくづ(焼図)
尤東山十王堂の大日如来右之所に頼置しが、此時ニやきすてられる処お勇吉飛行、持来り置候、右やきすてニ行候やらふ(野郎)共ハ東山之役人トいわれし野郎共也


廃筑波山中禅寺現況

廃筑波山中禅寺現況
  無印は2007/09/26撮影、△印は2013/05/09撮影

◎つくば道:山麓北条仲町から中禅寺神橋まで
○北条つくば道道標
 道標は高さ約3m、寛政10年(1798)再建。
2013/05/08撮影:
 北条つくば道道標1    北条つくば道道標2    北条つくば道道標3    北条つくば道道標4
「これより つくば道」「にし いちのや おにかね(?) 江戸」「東 左 きよたき つちうら かしま」
 「正徳五(?)乙未年五月十七日 中町■町■中 願主山口■■■ 寛政十戊午年■■・・・」などと刻される。
また「再建願主 野澤惣兵衛」「同 山口卯兵衛」なども刻まれる。
○北条から黒門跡
 現在の白滝橋東20mに旧橋が架かっていたと云う。旧橋の南には△廿三夜石橋供養塔、北には文禄2年(1593)の日待碑(未見)が残る。
さらに北上し、新道と旧道が合流する地点に文政6年(1824)銘の△馬頭観音板碑がある。
 △旧道・新道合流・筑波山遠望:中央が旧道
ここを過ぎ、さらに北上すれば、筑波山裾に至り、石鳥居・黒門跡に至る。
○黒門跡・仁王像台石
石鳥居(一の鳥居)のすぐ上に黒門跡と仁王像台石が残る。
 △筑波山一の鳥居:宝暦9年(1759)建立、この脇に「筑波の一王」と云われた青銅製仁王像1躯が建っていた。
青銅製仁王像1躯は明治の神仏分離の処置で廃棄、現在は大塚護国寺に遷され現存する。黒門については情報が無いが、常識的には明治の神仏分離でとりこわされたものと推測される。
 △筑波山黒門跡1    △筑波山黒門跡2    △筑波山黒門跡3    △筑波山黒門跡4
 △筑波山一王台石1   △筑波山一王台石2   △筑波山一王台石3   △筑波山一王台石4
石鳥居から中禅寺までは石階が続いていたが、昭和40年年代に(石階の上にコンクリートを流し、つまり石階の破壊)舗装されると云う。
 △筑波山参道残存石階:今は中禅寺真近の僅かな区間に石階が残る。

◎筑波山中禅寺残存礎石
○推定三重塔礎石
一辺60〜63cmの方形礎石の中央に、一辺約9cmの方形の枘孔を穿つ礎石が13個残存する。
   <拝殿前に10個、春日明神・山王権現拝殿横(右)に3個、枘孔はモルタルを詰める。>
 推定三重塔礎石1(拝殿前)    推定三重塔礎石1-1(拝殿前)  推定三重塔礎石2(拝殿前)  推定三重塔礎石3(拝殿前)
 推定三重塔礎石6(拝殿前) :写真下方に礎石列が写る。
 推定三重塔礎石4(春日横)    推定三重塔礎石5(春日横)
2013/05/09の状況:
 拝殿前にあった10個の礎石は全て掘り出されたのであろうか、以前にあった礎石はなく、跡は整地されたのであろうか全く痕跡がない。
「筑波山神社」に照会すると、「平成19年よりの境内整備事業の一環である敷石工事の為、礎石を境内の一角に移」したということであった。
「境内の一角」とは場所が不明であるが、少なくとも、下の推定大御堂礎石の項で述べる”社務所東側の庭園付近に仮置されている”礎石群中にはなく、どこに「移された」のかは不明である。
 さらに、本坊知足院「南面石垣が半壊」したので、「石垣修復のためこの礎石を使用しており、現在工事中」であるとのことであるので、どこかに仮置されているとは思われるが、不明である。
 なお、春日明神・山王権現拝殿横(右)にある3個はそのまま健在である。
  △推定三重塔礎石11     △推定三重塔礎石12     △推定三重塔礎石13     △推定三重塔礎石14
   (何れも春日明神横の3個の礎石)

江戸初期徳川氏造営の塔婆礎石の遺例
以上の中禅寺に残る13個の礎石は
上野貫前社三重塔(江戸初期徳川氏造営と推定・枘孔は円孔)、山城離宮八幡宮多宝塔(江戸初期徳川氏造営・枘孔なし)、
久能山東照大権現五重塔(江戸初期徳川氏造営・枘孔は円孔)などの塔礎石の類似性(形状・大きさ)から、中禅寺三重塔脇柱・四天柱礎石である可能性が高いと思われる。
 推定三重塔跡:写真中央は社務所?で、この附近に三重塔があったと推定される。 右は拝殿でその前に推定三重塔礎石列が写る。
2013/05/28追加:
 上記の推定三重塔残存礎石及び下の推定大御堂残存礎石の「由来」について、「筑波山神社」に照会、その回答は両「礎石とも知足院中禅寺の本堂千手観音堂の伽藍礎石」であるとのことである。
 この見解に従えば、上の推定三重塔礎石は下に述べる礎石とともに本堂の礎石(伽藍石)ということになる。
しかし、明らかに両礎石の形状・大きさが別系列であること及び江戸初期の徳川氏造営の塔礎石の遺例との類似性から、現在のところ、拝殿前に10個、春日明神・山王権現拝殿横(右)に3個残存した礎石は三重塔礎石である判断を変更するつもりはない。
「筑波山神社」の見解は常識的・一般論的な見解でしかなく、確たる裏付けがあるとは思えないからである。尤も、推定三重塔礎石が本堂の椽束石であり、下の推定大御堂礎石が堂舎の柱礎石ということであれば、両者とも本堂礎石という見解は成り立つことにはなる。

○推定大御堂残存礎石
拝殿・社務所の前方石垣上手摺に沿って、10個内外の大方礎石が並ぶ。
大きさは凡そ100×100cm内外で、薄く柱座を造出、枘孔を穿つ形式が多く見られる。
 推定大御堂礎石1    推定大御堂礎石2
 推定大御堂礎石3    推定大御堂礎石4    推定大御堂礎石5
その大きさあるいは造りの丁寧さから判断して主要堂宇(大御堂)の礎石の可能性が高いと思われる。
2013/05/09の状況:
拝殿・社務所の前方石垣上手摺に沿って置かれていた10個内外の大型礎石は、推定三重塔礎石と同様に、全て掘り出されたのであろうか、そこにはなく、跡は整地され 全く痕跡がない。
 「筑波山神社」への照会では、「平成19年よりの境内整備事業の一環である敷石工事の為、礎石を境内の一角に移」したということであり
確かに、この推定大御堂礎石は掘り出され、現在社務所東側の庭園付近に仮置されている礎石がこれに該当する。
推定大御堂礎石の仮置き状況は以下の通りである。
 △推定大御堂礎石11   △推定大御堂礎石12   △推定大御堂礎石13   △推定大御堂礎石14   △推定大御堂礎石15
 △推定大御堂礎石16   △推定大御堂礎石17   △推定大御堂礎石18   △推定大御堂礎石19   △推定大御堂礎石20
 △推定大御堂礎石21   △推定大御堂礎石22

○本坊知足院跡
現状知足院跡はほぼ駐車場となるも、東面と南面には近世城郭を思わせる石垣が残り、さらに南面には正面石階も残す。
 △知足院跡正面石階
 △知足院跡東面石垣1   △知足院跡東面石垣2   △知足院跡東面石垣3   △知足院跡東面石垣4
 △知足院跡正面石階上
2013/05/09現在、知足院南面の石垣は積直途中(工事中)であり、その中に3個の礎石が組み込まれているのを目撃する。
この工事に関して、「筑波山神社」へ照会した結果、以下の回答を得る。
 『2011/03/11の東日本大震災では南面石垣が半壊する。現在(2013/05)修復中である。
修復にあたり、石垣を積み直す必要があるが、「境内整備事業の一環で」「礎石を境内の一角に移し」たが、その「知足院中禅寺の本堂千手観音堂の伽藍礎石」を使用している。 』
工事の様子は以下の通りである。
 知足院南面修復工事1:右端は知足院正面石階。
 知足院南面修復工事2:中央に伽藍石が転用されているのが見える。奥は知足院正面石階。
 3個の転用伽藍石1     3個の転用伽藍石2     3個の転用伽藍石3     3個の転用伽藍石4
 転用伽藍石その1      転用伽藍石その2      転用伽藍石その3
 知足院跡平面:石垣上の平面には、南面石垣に使われていたと思われる石がほぼ全面に置かれる。
 写真撮影時は3個の転用伽藍石が認められるが、この伽藍石は表面を削平しその中央に円孔(丸い枘孔)を穿つものである。
 上に掲載した推定三重塔礎石・推定本堂礎石には該当するものが無いと思われる。
 従って、この伽藍石の「出所」は不明である。
 上に掲載した推定三重塔礎石・推定本堂礎石以外にも、どこかに礎石があったのであろうか。これも不明である。
 2013/06/06追加:
 「筑波山神社」に再度照会した結果以下の「見解」を得る。
  礎石は「すべて石垣に組み込予定」である。
 この言によれば、上述の推定三重塔礎石が10個、推定大御堂礎石が10個内外、既に組み込み済礎石が3個であり、
 これ等が全て組み込まれるということなので、23個内外の廃中禅寺礎石が組み込まれるはずである。

○昭和36年再興大御堂
 昭和36年再興大御堂
 △再興大御堂鐘楼

○神橋:寛永10年(1633)徳川家光寄進、元禄15年(1703)徳川綱吉改修
 筑波山中禅寺神橋1     筑波山中禅寺神橋2     筑波山中禅寺神橋3
 △中禅寺神橋11    △中禅寺神橋12    △中禅寺神橋13    △中禅寺神橋14    △中禅寺神橋15
 △中禅寺神橋16    △中禅寺神橋17    △中禅寺神橋18    △中禅寺神橋19    △中禅寺神橋20

○筑波山中禅寺仁王門:
八脚楼門(5間2尺×3間)、寛永10年(1633)徳川家光寄進、宝暦4年(1757)焼失・再興、明和4年(1767)焼失、文化8年(1811)再興
 筑波山中禅寺仁王門1     筑波山中禅寺仁王門2
 △中禅寺仁王門11    △中禅寺仁王門12    △中禅寺仁王門13    △中禅寺仁王門14
 △中禅寺仁王門15    △中禅寺仁王門16    △中禅寺仁王門17

○光誉上人五輪塔
光誉上人慶長16年(1611)大和長谷寺梅心院より本坊知足院に入院。徳川家康に従い、信任を得る。
後常在府を命ぜられ、芝白金に護摩堂を造立する。
中禅寺中興とされ、明治の神仏分離に処置を逃れ、現在に伝えられる。
 △光誉上人五輪塔

○弁財天社:寛永10年(1633)徳川家光寄進、間口1間半、奥行10尺
 中禅寺弁財天社
 △中禅寺弁財天社11    △中禅寺弁財天社12    △中禅寺弁財天社13    △中禅寺弁財天社14
 △中禅寺弁財天社15    △中禅寺弁財天社16    △中禅寺弁財天社17    △中禅寺弁財天社18

○日吉社(東、三間社流造)・春日社(西、三間社流造)・割拝殿(入母屋造 正・背面中央軒唐破風):
   寛永10年(1633)徳川家光寄進
  中禅寺山王権現・春日明神:山王権現が右
  中禅寺山王権現1     中禅寺山王権現2     中禅寺山王権現3     中禅寺日吉権現社4
  中禅寺春日明神1     中禅寺春日明神2     中禅寺春日明神3     山王権現/春日明神拝殿
 △中禅寺割拝殿11    △中禅寺割拝殿12
 △春日明神/山王権現    △中禅寺山王権現11    △中禅寺山王権現12    △中禅寺山王権現13
 △中禅寺山王権現14    △中禅寺山王権現15    △中禅寺山王権現16    △中禅寺山王権現17
 △中禅寺春日明神11    △中禅寺春日明神12    △中禅寺春日明神13    △中禅寺春日明神14

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○筑波山遠望
2004/04/24撮影:
 雨引山より見る筑波山
2007/09/18追加:「O」氏ご提供画像
 真壁より見る筑波山:真壁城趾 を通して見た風景(中央の段丘状のものが城趾の一部)とのことである。
 小島草庵跡より見る筑波山:背景が筑波山、草庵は親鸞上人遺跡、草庵は筑波山の西南西方10km(下妻市)にある。
2007/09/26撮影:
 平沢官衙遺跡と筑波山:平沢官衙の背景 ・最奥の山が筑波山
 中台廃寺から見た筑波山
 中台廃寺跡と筑波山1  中台廃寺跡と筑波山2:畑地が中台廃寺跡
 酒寄附近から見た筑波山:関東鉄道廃線跡・酒寄駅北方から
2013/05/09撮影:
 旧道・新道合流・筑波山遠望:上に掲載
 △北条つくば道がら遠望
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神仏分離

一連の神仏分離令の発令の直後の明治元年、護持院隆盛は、後任の住持が決まらないまま、大和長谷寺小池坊に転出する。
つまり形の上では護持院は無住である状態に加え、寺院組織の複雑さのため多くの当事者が関係することとなる。即ち、筑波山日輪・月輪院の両役者、江戸在府の触頭4ヶ寺、在府の移転寺14ヶ寺、大和長谷寺の派遣僧との間で経済的・政治的な争いが展開され ることとなる。
さらに日輪・月輪院の両役者の服飾、あるいは大和長谷寺吉祥院・法起院などの下向、また神仏分離で勢いづいた筑波山殿輩の暗躍及び明治2年の白川資義の祭主任命・着任 (9月)などがあり、多数の関係者の暗闘の結果、中禅寺は廃寺となり、筑波2社が筑波山神社と改竄される結末となる。
本山・現地・江戸・神祇官などの動きが入り乱れ、複雑怪奇というほかには言いようのない混乱状況であったと思われる。
明治2年段階で大御堂を除き、仏堂、仏具の類は破却された模様である。
あるいは白川資義の新組織が整った後の明治5年8月27日、大御堂、三重塔、十一面観音堂など堂塔は破却、仏像・仏具・経典類は境内に積まれ焼却されたとも伝える。
 ※焼却の様子は「有範日記」の中で、生々しくその一端を垣間見ることが出来る。
  「有範日記」明治5年申之8月27日の条:上述の「有範日記」の項を参照
明治5年10月筑波山神社として、大御堂跡地に「筑波山」拝殿建立の起工があり、明治8年完成したと云う。
明治6年県社となり、国家神道の社に堕落する。

本尊千手観音のみは、地元町民の嘆願により仮堂に安置され焼却は免れる。
昭和5年、仮堂は護国寺持仏堂として維持することになるも、昭和13年豪雨によって倒壊。
しかし本尊千手観音は、再び難をのがれ、民家に安置されることとなる。
昭和15年、筑波神社の左側に本堂・庫裡・山門・鐘楼堂を建立する計画が立案されるが、時局の悪化のため、この再興計画は頓挫すると云う。
昭和34年、再び大御堂再建計画が立てられ、藤代町の民家を買受け、仏堂に改修し、昭和36年現在の大御堂が完成する。
  ※昭和36年再興大御堂

筑波山中禅寺遺構及び遺物

◎現地に残存する建造物・遺物:何れも写真は上に掲載
神橋(寛永10年家光造営)
仁王門(八脚楼門・文化8年(1811)再建門)
弁財天社(寛永10年造立・厳島神社と称する・正面蟇股は蛇を彫る)
山王権現社(寛永10年造立・日枝神社と称する)
春日明神社(寛永10年造立・春日神社と称する・蟇股は鹿を彫る)
歴代墓碑:歴代中禅寺僧侶の墓碑が中禅寺の上に並んでいたが、それらは神仏分離の時、全部谷に蹴落としたと云う。ケーブル軌道、鳥居附近に散在するという。但し光誉上人(2世)五輪塔のみは 元地に残されていると云う。
 2007/09/26撮影:上述の散乱するという光景には遭遇せず、しかし若干の遺物(散乱五輪塔など)が点在する。

◎他所に流出し残存する遺構・遺物
仏具・法具の一部は万蔵院(猿島町)に、鐘楼は慶龍寺(筑波町)に、銅製大仏は霞ヶ浦の地に捨てられるも今は護国寺(東京)に残るという。仁王門仁王像は松塚東福寺に遷されるという。
 2007/09/17追加:「筑波山麓の仏教-その中世的世界-」より
  筑波山中禅寺扁額:中禅寺山門額。寛永10年(1633)仁和寺後南御堂覚深揮毫 :万蔵院(猿島町)蔵
茨城県立歴史館蔵・木造阿弥陀如来坐像(鎌倉);筑波山中禅寺に伝来した仏と推定される。
 (膝前部の墨書銘「筑波山中禅寺伝来と云 明治初年廃仏時代流出と伝」とあると云う)

2011/11/17追加:
○江戸音羽護国寺所在
 銅製宝塔・銅造大仏・銅造金剛力士像・銅造地藏菩薩立像:
武蔵音羽護国寺には「銅製宝塔(銅製忠霊塔)」、「銅像大仏1躯」、「銅製金剛力士1躯」、「銅像地蔵菩薩立像1躯」が筑波山から移転され、現存すると云う。 (大本山護国寺様ご教示による、但しそのご教示に典拠・根拠などの明示はなく、確証として示せるものは無い。)
上述の「銅製大仏は霞ヶ浦の地に捨てられるも今は護国寺(東京)に残る」と云う記述に該当するものであろう。
 ※「銅製金剛力士1躯」の台座は当地筑波山黒門跡に残る。(2013/05/09撮影、上に掲載)
 → 武蔵音羽護国寺の「◆筑波山中禅寺遺物 」の項を参照。
 音羽護国寺に残る遺物:(上記「武蔵護国寺」のページより)
  2013/05/09護国寺にて撮影:
   筑波山銅製宝塔1    筑波山銅製宝塔2    筑波山銅製宝塔3    筑波山銅製宝塔4
   筑波山銅製宝塔5    筑波山銅製宝塔6    筑波山銅製宝塔7    筑波山銅製宝塔8    筑波山銅製宝塔9
  2011/10/29護国寺にて撮影:筑波山大仏1     筑波山大仏2     筑波山大仏3
  2013/05/09護国寺にて撮影:筑波山大仏4
  2013/05/09護国寺にて撮影:
   筑波山銅造金剛力士1   筑波山銅造金剛力士2   筑波山銅造金剛力士3   筑波山銅造金剛力士4   筑波山銅造金剛力士5
   筑波山銅造地蔵菩薩1   筑波山銅造地蔵菩薩2
2011/12/08追加:
○筑波山鐘楼:
鐘楼は慶龍寺(つくば市泉2348)に現存する。明治6年上棟、翌7年鐘供養と記録されると云う。
 慶龍寺筑波山鐘楼遺構1     慶龍寺筑波山鐘楼遺構2:何れも、サイト 「慶龍寺(泉子育観音)」  より 転載
 慶龍寺筑波山鐘楼遺構3:サイト「つくば電波新聞」 >「筑波の文化財」  より 転載
  ※近世の筑波山各種絵図には袴付の鐘楼の絵が描かれる。この鐘楼が遷されたものと思われる。
○筑波山仁王門仁王像:松塚東福寺蔵
上述の仁王門仁王像は松塚東福寺(つくば市松塚665)に現存すると思われる。
 東福寺筑波山仁王像1:サイト「輝け!第1回キング・ニオウソン発表」  より転載
 東福寺筑波山仁王像2:サイト「なべたけの全国仁王行脚!」 より転載
  参考:東福寺山門:仁王像が安置される。:サイト「つくば新聞」>「つくば市の寺院」 より転載
 ※作蔵山延命院東福寺:真言宗豊山派。建長4年(1253)忍性の開山。本尊延命地蔵尊。近世は常陸・下総に多くの末寺を持つ。明治維新の時、筑波山護持院慧海僧正が当寺を兼帯、その縁により、仁王門仁王像を当寺に遷すと云う。
○筑波山仁王門仁王像その2:
大倉集古館(港区虎ノ門2-10-3(ホテルオークラ東京本館正面玄関前))にも筑波山仁王像とする仁王像がある。
写真で見る限る東福寺所在像と本像は違うので、筑波山由来の仁王像は東福寺所蔵と大倉集古館の2組あることになる。
なお、大倉集古館像は筑波山春日社より遷すとするWebサイトがあるが、その真偽は分からない。さらに春日社(現存する春日社か)の仁王像というのも詳らかではない。そもそも春日明神の仁王像とはどこに安置されていたのであろうか。
何れにしろ、筑波山仁王門から遷した東福寺像とは別の筑波山由来と称する仁王像があることだけは確かである。
 大倉集古館仁王像1:サイト「京の昼寝〜♪」>「大倉集古館」 より転載
 大倉集古館仁王像2:サイト「狛犬と石仏と そして・・・。」>「大倉集古館で」 より転載:但し吽形像のみの写真である。

2003/7/2追加
筑波山に於ける神仏分離」明治維新神仏分離資料、竹岡勝也氏稿、大正11年

明治元年2月:護持院隆盛は小池坊に転住。(形式的には護持院は無住となる。)
先住快照は市谷薬王寺に隠居の身であった。
明治元年11月:別当大塚護持院の執頭日輪院鏡寿(杉本右京)・月輪院賢応(秦民部)が復飾願いを提出、神祇官は直ちに許可。但しこの両人は護持院の役僧として5年交代で本山小池坊から派遣されているという役回りでしかなく、しかも復飾に当たっては護持院に何の相談もなく (筑波山衆徒には勿論何の通知も無く)、翌年も東京に留まったままであった。
明治2年2月:先住護持院(薬王寺)快照が両名の復飾を咎め、この両院を撤去することを画策、現地山内の衆徒殿輩、神郡村々の役人等が参集し不穏な動きがあった。神祇官は快照に干渉を厳禁 する。
秦民部と瀬尾豊四郎(惣取締役を拝命した)の両名が遂に現地に発向し、本地堂はじめ仏像仏器の始末に着手。
明治2年3月:寺中大聖院、寿命院復飾、衆徒実幢院、宣揚院、大慈院、不動院、龍泉院は退山を願い出る。
明治2年3月:殿輩8名連名で、護持院復飾僧侶の支配の不当性と殿輩の神主取立を訴えるも、神祇官は不許可とする。
明治2年7月:普門寺から建言が出される。復飾両人は護持院奪取の野望があり、そもそも両人は何の正統性も持たない。護持院住職を決めそれを復飾させて祭主を決めてほしいと。これには豊山小池坊、湯島根生坊が 連携していた模様である。
一方殿輩からは祭主の決定の願いが出される。さらに百姓名主の連名、大塚護持院代官、殿輩の連名などでしばしば、民部・右京両人の横暴・奸悪・不正などの訴えと解職の訴えが頻発する。
加えて、殿輩からの更なる「普門寺は護持院末寺河内通法寺と結託して一山奪取の姦計である云々」との概要の訴えも提出される。
訴状ではないが、瀬尾豊四郎(筑波山惣取締役)の建白では「護持院役僧復飾の奸計は明白で、普門寺また奸僧である云々」とも主張される。
しかし、その瀬尾豊四郎に対する訴状も出され、「突如惣取締役になり、一山奪取の悪計があり、神領の農民を煽動しあるいは威嚇して右京、民部を追うとしている」と。
以上のほかに、あれやこれやの愁訴嘆願も百出し、神祇官もその正邪を判定する由がなかった。

事態は大変錯綜し良く分からないが、以下の暗闘があったのであろう。
一つは復飾した右京、民部の画策で、当時の悪評の表現を借りれば、元来護持院の法脈には何の関係もない、単に本山小池坊からの派遣役僧でしか過ぎないこの者たちが、一山奪取の野望を抱いて、私に復飾し、いち早く神祇官に取り入ったということ は事実であろう。
ニつは右京、民部に対抗する江戸護持院・普門寺の立場で、右京、民部の専横に対する反発とやはり彼等にも一山を支配の野心があったのであろう。
三つは筑波の郷士即ち殿輩とその黒幕である瀬尾豊四郎の立場で、右京、民部の専横に対する反発と一山から護持院の勢力を一掃し、社僧からその実権を奪取して自らが一山を支配しようと 画策する。
要するに1500石の筑波山社領を巡る、還俗社僧と機会到来と捉えた神人との勢力争いで、この間堂塔伽藍は破壊され、それを悲しむ神領の村人などは策謀の 所詮「つまみ」でしかなかったようである。

明治2年10月:朝廷により、筑波山祭主に白川千代麿(白川神祇大副の実弟)が任命される。
以上の3つの勢力から祭主については、それぞれの希望が申しだされていたが、白川については、右京、民部の裏での策謀がありその工作が実現した様相を呈する。
これに対し、瀬尾豊四郎ら殿輩・村役人総代は右京・民部の陰謀・悪計を数え上げ、訴状を提出する。
明治3年2月:瀬尾豊四郎ら殿輩・村役人総代は訴状を取り下げる。その理由は一山混乱し、祭主の入山も出来ない。この際祭主の入山を願い、それから両人の黒白をつけて欲しい云々のものだったようである。
その裏には明治3年3月神領筑波の百姓総代から瀬尾に対する訴状が出される。その内容は瀬尾は自らの奸計のため、百姓を欺き、それが暴露されると様々の暴行を働いた・・・・。堂塔破壊による一山の衰微を嘆き、伽藍をそのまま差し置く嘆願のための連判と称し、連判させたが、 実は瀬尾は改竄し、復飾僧侶に対する不帰依に関する嘆願にすり替えた云々  と。

かくして白川祭主は入山。白川は殿輩を社籍に入れ、従来の訴状の件は示談内済として一応の決着をつける。
しかしながら殿輩は社籍に入っただけでは、当然満足出来ず、再び右京、民部一派の復飾僧侶と衝突、4人の復飾神職の隠居退出という成果を上げる。
その後は、殿輩と白川との新たな暗闘が開始される。
白川:4人の神職を独断で選任、元来殿輩は祭祀などに関係できる身分ではない。
殿輩:社殿は荒れ、未だ造営も出来ないときに4人の新任神職は無用である。彼等は暗愚であり、また一山の金穀及び堂塔仏具などの売却代金を散財した犯罪人である。
若森県は裁定できず、民部省に裁定を仰ぐ。

明治4年正月、寺社領の上地令、5月神職世襲の廃止、8月神祇省の設置などの中央政界の動きがある。
民部省弁官と神祇官は最終の裁定を下す、即ち白川以下一社一同に対して解任申しつけであった。
明治6年県社に列する。明治41年祭神が筑波男神・筑波女神と決定される。

以上は神祇官の記録によるもので、立場を変えれば、別の見方があるとも思われる。


筑波山麓の北条付近・・・・但し、筑波山中禅寺とは直接の関係はない。

筑波山麓の北条は古くからこの地方の政治・経済の中心地の役割を担い、多くの歴史的遺産が存在する。
中台廃寺や平沢官衙遺跡もそうであるし、そのほかに多気日向廃寺などの遺構も残す。
近世になり、この北条は一層の発展を遂げる。
その契機は、寛永3年(1626)徳川家光が、北条を中継点とする筑波山中禅寺堂社再建のための資材運搬路を整備したことである。
この北条仲町を起点にした運搬路は後に「つくば道」と称され、中禅寺への参詣道として多くの人々で賑わうこととなる。
そのため北条は物資の一大集積地として、多くの商家などが立ち並び、殷賑を極めると云う。

北条付近の数多い遺跡・遺物の幾つかを今般取上げよう。

○多気日向廃寺
建物土壇及び礎石を残す。仏堂は宇治平等院阿弥陀堂に似た両翼に翼楼を持つ阿弥陀堂建築である。
中堂は桁行(東西)3間梁間(南北)4間堂であり、そこから複廊が東西に伸び、その先端から単廊が南に突き出る堂である。
中堂の礎石には花崗岩製の柱座を造り出すものが混在する。
創建は平安末期で鎌倉期まで存続したと思われる。この堂は火災焼失と思われるが、焼失後、規模を縮小した桁行3間梁間4間の堂が再建された形跡が認められる と云う。
この廃寺は、当時、常陸南部に勢力を持ち北条に根拠を置いた多気氏の造営になるものと推測される。
 多気日向廃寺空撮
2013/05/08撮影:
 多気日向廃寺中堂跡1    多気日向廃寺中堂跡2    日向廃寺中堂・西廊跡:左から西単廊、西複廊、中堂跡
 日向廃寺西複廊跡:奥は中堂跡     日向廃寺西単廊跡    日向廃寺東複廊跡:手前礎石は中堂礎石
 日向廃寺中堂礎石     柱座造出礎石1     柱座造出礎石2
○北条牛頭天王社五輪石塔
 (以下、:2013/05/09撮影)
明治維新までは牛頭天王別当吉祥院(詳細は不明)にあったが、明治の神仏分離で現在地に遷されると云う。
五輪石塔は高さ201cm、花崗岩製。地輪上部に孔が彫られ、ここに天文6年(1537)銘の経筒が収められていた。
牛頭天王社は天喜年中(1053-57)源義家の創建と云う。本殿は天保18年(1733)の再建、鳥居も同年建立と云う。
 北条牛頭天王社五輪石塔     北条牛頭天王社
○北条毘沙門天種子板碑
鎌倉期のものと推定される。高さ170cm幅84cm厚さ14cm。上部に宝塔を刻み、下に毘沙門天種子(梵字)を刻する。
 北条毘沙門天種子板碑1     北条毘沙門天種子板碑2
○北条熊野権現
至徳元年(1381)後小松天皇の勅願で建立と伝える。別当熊野山全宗寺は西隣に現存する。
本殿は江戸後期の建築、参道入口の石鳥居は寛永13年(1636)の建立である。
 北条熊野権現石階     北条熊野権現参道     北条熊野権現本殿
 別当全宗寺1        別当全宗寺2:右から不動堂、本堂


2006年以前作成:2013/06/06更新:ホームページ日本の塔婆