和 泉 大 寺(念仏寺・大念仏寺・開口大明神・三村大明神) 三 重 塔

和泉大寺(念仏寺・大念仏寺・開口大明神・三村大明神)三重塔

古図に見る大寺

2007/05/13追加:「開口神社史料」開口神社社務所編集、開口神社、1975 より
 「堺大絵図」(大寺部分図):元禄年中と推定

2010/06/25追加:「堺と三都」堺市博物館、1995 より
 大 寺 図:元禄4年の年紀
 ※三重塔:塚氏人再興、2間半四面 とある。 なお本堂規模は5間2尺四面、1間の御拝付設(基本的には方3間の建築) とある。

和泉名所圖會:寛政7年(1795)刊 秋里籬島著・竹原春朝斎画

巻之1:開口大明神社

記事:「開口大明神社(三村明神とも号す)、念仏寺といふ。(また大寺ともいふ)
三層塔:(大日如来・聖徳太子・四天王を安ず。
     寛文3年(1663)の建立なり)
金堂:中央薬師如来、明暦元年(1655)の建立。
鐘楼、食堂などあり。

開口大明神全図・・・左図拡大図

開口大明神部分図・・・三重塔部分図

住吉名勝圖會

巻之5

記事:「・・・聖武天皇代、行基上人に勅して、この地(三村大明神)に道場を建立したまひ、蜜乗山大念仏寺と号す。俗呼んで大寺と称す。金堂、三重宝塔(本尊大日如来・聖徳太子御作の四天王)、鐘楼、食堂、
・・・・・・・・薬師堂衆徒6坊・・・」

三村大明神大念仏寺:(右図拡大図)

紀州往還見取絵図:寛政年中(1789-1801)編修

念仏寺(大寺):大阪の陣で全焼したが、明暦元年(1655)社殿を復興、
寛文2年(1662)三重塔が竣工。
多聞院、五大院、遍照院、虚空蔵院、明王院、宝生院などの諸院が存在する。

紀州往還見取絵図(大寺部分図):左図拡大図

大念仏寺境内図(江戸後期)

大念仏寺境内図:江戸後期と推定、大阪歴史博物館

大寺と三村明神は一体であり、三村明神を含めて大寺と称する。

大念仏寺境内図・・・左図拡大図

開口神社境内図(明治35年)

明治維新の神仏分離の破壊を免れた三重塔が描かれる。

2010/06/25追加:「堺と三都」堺市博物館、1995 より
明治35年開口神社境内図3:左図拡大図

明治35年開口神社境内図:上図のモノクロ版

2007/05/13追加:「都市の信仰史」より
明治35年開口神社境内図:左図と同一であるが、画質は不良

なお明治35年は国家神道府社に昇格した歳である。

大 寺 三 重 塔:寛文元年<1661>復興塔・昭和20年焼失

2012/05/14追加:□
「Y」氏ご提供画像:絵葉書

タイトル:
 (堺名所)開口神社:左図拡大図
明治40年〜大正6年の作成と推定。(「Y」氏による)
堺鈴木書店発行

※入手できた堺大寺三重塔写真でもっともクリアなものである。

2012/05/14追加:
絵葉書:タイトル
 (堺名所)開口神社(大寺)

2006/09/24追加:
「焼失した堺市の三重塔」天岸正男 より転載
 (「摂河泉文化資料 9」摂河泉文化資料編集委員会編、1978 所収)

大  寺 三 重 塔:左図拡大図
 屋根本瓦葺き。各重の逓減率は程良い。
 中央間は桟唐戸、両脇間は連子窓、初重は二重繁垂木、小天井付きで
 板支輪には雲水文様の彫刻がある。尾垂木全てに象鼻の丸彫りとする。
 高欄;初重は擬宝珠、ニ三重は組勾欄。
 四面に石階を設置する。相輪は完備。

大寺三重塔細部
 初重各間の中備には蟇股を置き、これに十二支の彫刻を彫る。
 二重目の蟇股には花鳥山水草木の彫刻を入れる。
 二重目腰組は板壁で、中央に平三斗を二個置き、中間に彫刻がある。
 三重目は不明。

大寺三重塔初重平面図
 中央間5.95尺、両脇間5.05尺、一辺16.05尺(4.86m)
 四天柱と後壁がある。
 本尊大日と四天王が安置(堺市史)という。

「堺市の100年」 より転載

明治の神仏分離で、神宮寺(念仏寺)は廃寺となる。
しかし三重塔は神仏分離・廃仏の難を逃れ、健在であったが、
惜しくも、昭和20年の空襲で焼失する。

大寺三重塔・・・・左図拡大図:昭和10年代の撮影とされる。
 

「日本塔総鑑」:寛文2年(1662)建立、一辺4.86m。

2005/10/14追加:「堺市の100年」山中永之佑  より転載

大寺念仏寺:左図拡大図:大正中期撮影画像

2007/05/13追加:「開口神社史料」開口神社社務所編集、開口神社、1975 より
 昭和六年頃の社頭風景(全図)
 昭和六年頃の社頭風景(部分図)
   ※但し、この写真は下に掲載の「堺市史」より転載「大寺の景観」と同一の写真と思われる。

2014/07/25追加:「南海の栞」村上義久編、成巧社、大正元年 より
 大正元年頃の大寺

2003/10/04追加:
三重塔跡

まったく古の面影はなく、また三重塔や仏教関係を偲ぶものはほぼ皆無となる。
年輩の女性の方の談:三重塔跡 は、微かに覚えている。しかし、戦後の道路開通などで、本社との位置関係ははっきり覚えているが、現在の境内地のどの附近であったかは、不明確になっている。

年輩の女性の方の談による塔跡想定地

大寺三重塔跡1:西鳥居から東鳥居方向を撮影。
東鳥居前あたりに塔婆はあったと云う。
大寺三重塔跡2:本殿を撮影、写真の右下のさらに右あたりに塔婆はあった と云う。
大寺三重塔跡3:(左図拡大図)
写真中央やや右あたりに塔婆はあったと云う。

※戦災前には東鳥居などはなく、戦後の復興で境内東側は道路などに転用され、三重塔があった附近まで境内は縮小されているものと思われる。

西鳥居を入ったところに一対の石灯篭が建つ。辛うじて古を偲ぶ「三村大明神」「住吉奥院」の陰刻がある。

   大寺石灯篭1    同       2

大 寺 略 歴

鎮座地は和泉大鳥郡塩穴村南荘といい、開口・原・木戸の三ヶ村があった。
開口村は塩土老翁神(住吉大神)、 原村 (今の仁徳陵附近) に素盞鳴神、 木戸村には生国魂神をそれぞれ祀る。
天永3年((1112)、三社を合同し、開口三村大明神(三村社・三村宮)が成立したという。
一方念仏寺は天平年中聖武天皇の勅願により行基菩薩が 薬師如来を刻み、建立したと伝え、
弘法大師が入唐求法の際に参篭し、大師の帰朝後宝塔1基を建立したとも伝える。
いずれにしろ三村社と念仏寺は一体であり、平安期には住吉社の別宮とされていたと云う。
承久元年(1219)念仏寺堂塔供養。
中世初頭は住吉社の支配を受けていたが、堺の経済力の向上とともに独立、強大な力を保持していたものと思われる。
慶長20年(1615)大阪夏の陣で罹災する。
ただちに復興され、梵鐘、本殿、三重塔(寛文元年<1661>が復興した。
元禄期には多門院、五大院、遍照院、明王院、虚空蔵院などの坊舎があった。
その後宝永5年、亨和3年、文政3年大修理が行われるという。
明治維新の神仏分離で念仏寺は廃寺、社僧は還俗、明治6年に開口神社と改竄・改号する。
昭和20年7月10日未明の空襲により堂塔悉く焼失、社殿は昭和36年再建なる。

2005/11/19追加;「堺市史 第7巻 別編」堺市役所編纂、1930:より
天平18年聖武天皇御願にて行基が大寺を開基、後に空海参籠して真言宗となる。
承安4年(1174)経蔵建立、建保7年(1219)塔供養あり。・・・元和の兵火に灰燼に帰す。
明暦元年徳川家綱社殿を再興、寛文元年三重塔再興に着手、文化5年絵馬堂建立、文政5年本堂、鐘楼、表門、南北両門、薬師堂などを造営。
江戸期東西61間、南北62間の境内を有す。
 元禄2年の塔頭:南側に多聞、五大、遍照、虚空蔵、明王院の5院、北側に宝生院、長縄坊、賢昌坊、空玄坊の4坊あり。
寛政11年、文化2年の絵図で は2坊の名を欠く。
明治の神仏分離で虚空蔵院、明王院、五大院の住僧は悉く還俗し神職となる。末寺三宝寺は分離した。
旧毘沙門堂は明治6年引接寺廃寺の折、同寺松風社が当社に遷座し社殿に転用、旧薬師堂は白髭明神社殿に転用し棄却は遁れる。
三重塔の処置については下記の「神仏分離資料」の通り。

 「堺市史」より転載

大寺の景観:左図拡大図

大寺三重塔(上図部分図)

大寺境内図

2005/11/19追加;「堺旧市雑史録」山中金治、1979より
北門天井には彩色の龍が画かれていて印象的であった。東門は比較的小さくて・・・。西門すぐに海会寺金竜井があった。
戦後に於ける境内は広い道路に縦断されて、往時をかたるよすがも無くなっている・・・・・・・・・。
三重塔の建立をみたのは建保年中と云われ、その後、応永33年に再興され、大阪夏の陣(元和の兵火)で焼失。
寛文元年に再興に着手し、2年に竣工の約を結ぶ。その7大工の一人藪長兵衛義政の子孫が昭和の戦災まで大工町に永住し、設計図・見積書を蔵していたと云われる。(6間四方瓦葺)
瓦は瓦師高志朝臣丹治権左衛門持次の記銘が知られる。塔本尊は大日如来で四天王が祀られていた。
塔は「みすみ」の塔とも云われた。「みずみ」とは東南の棟瓦1枚だけが龍の瓦で鬼門除けとしたことに由来する。
明治元年太政官布告により塔は解体の憂き目をみるに至った。時の権県令(税所篤)塔の入札の一時見合せを通達し、これを知った中之町木綿商兼回船問屋河盛仁平氏が金300円での購入を申し入れたところ、明治6年認可され、購入の後、改めて神社に寄進する。

「堺旧市雑史録」より転載

大寺念仏寺:左図拡大図

大寺念仏寺略図

堺に於ける神仏分離並関係資料」明治維新神仏分離資料、中井伊与太氏報

1.念仏寺(旧三村宮現開口神社)、常楽寺(旧天神現菅原神社)、向泉寺(方違神社)、慈眼院(恵比寿神社)、安楽院(旧天満宮現船待神社)などは・・・本地仏仏像仏具類を撤廃し、これを同宗派の寺院・講中に預け入れ、或は形式上売却、或は金銭借用の抵当物件の如く粧い、之を社内に留め置かず、或は仏殿を神殿のように修繕・改築を加え、神殿として使用しているものもあり、これは没収を恐れた所業であろう、住職は悉く復飾・神職となって、仏寺は廃寺となった。

2.本地仏仏像仏具類は悉く之を他所に搬出・・・、神殿としての建築物・その装飾物はそのまま保存せられ、文書記録類もおおくはそのまま神社に保存された。

3.仏寺の祭礼行事の今日に残存するもの : 略

4.社人社僧の状況・・・
真言宗無本寺 80石 蜜乗山三村宮別当大寺念仏寺 当時人数20名位
天台宗延暦寺末 120石 清浄観院天神別当常楽寺 当時人数78人
真言宗無本寺 90石 三国山遍照光院方違宮別当向泉寺
真言宗東寺宝輪院末 亀霊山戎島戎宮別当慈眼院
真言宗(所属不明) 湊村天満宮別当安楽院

5.仏堂鐘楼等は悉く之を棄却。しかし念仏寺の如きは薬師堂・毘沙門堂に改修を加え、神殿と使用している。
三重塔は当地の河盛仁平が購入し、県係より移転の命令があるも、富豪にして権勢のある同人は、言を左右にし、期限の延期に延期を重ね、容易に実行せず、県係は如何とも出来ず、世の移ろいとともに、その撤廃の必要性が希薄になり、同人は三重塔を神社に寄附し、境内に現存する。
・・・仏像仏具経巻等は念仏寺は末寺の堺三宝寺へ・・・搬入・・・念仏寺梵鐘は市内西本願寺別院の鐘楼に懸かっている・・

6.略

7.堺の神仏分離当時の当局者は何れも熱烈なる敬神家であった。・・・
明治6年に至り、社僧の還俗神職の多くは転任あるいは罷免に会い、後任者として官選神官の任命によって残存の建築物又は器具は売却あるいは棄却されてその処分の完結を見るに至った。

2010/06/25追加:
○念仏寺本尊薬師如来像:行基自作と伝える。明治の神仏分離で社内に秘匿されていたと云う。近年薬師社なる堂宇が建立され、ここに祀られるという。非公開。
○念仏寺梵鐘:今も本願寺堺別院の鐘樓に懸かると云う。この梵鐘は慶長20年大阪夏の陣で焼失した梵鐘を堺奉行長谷川藤広が再鋳したものと云う。(梵鐘銘)


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