利  生  塔

利生塔一覧

利生塔一覧・・・()で示す寺院は未見もしくは未調査につき、実態は良く分からない。

2010/12/22追加:
◇「日本佛教史 第4巻」辻善之助、岩波書店、昭和35年 より
 利生塔は建武5年(1338)和泉久米田寺を初見とし、次いで備後浄土寺、その後順次矢継ぎ早に、伊賀樂音寺、薩摩泰平寺、能登永光寺、但馬金剛寺、日向宝満寺、筑後浄土寺、下総大慈恩寺、筑前景福寺、豊前興国寺、土佐最御崎寺に塔の建立・修造などが六十六基の一基として実施されたことが記録に残る。かくして利生塔は各国に指定されていったものと推測される。
 但し、現在では記録上、安国寺と利生塔が別個に設置されたと分かる国は山城、相模、下総、能登、備後、周防、阿波、筑後、日向、薩摩の10ヶ国であり、利生塔のみの国は和泉、伊豆、讃岐、土佐の4ヶ国である。
爾余の国は安国寺のみの記事しかなく、その内常陸、上野は不確実で、大和、河内、尾張、武蔵、越中、紀伊の6ヶ国は安国寺及び利生塔の両者とも詳らかでない。
2015/06/15追加:
◇「安国寺・利生塔の設立」今枝愛真(「中世禅宗史の研究」今枝著、東京大学出版会、1970 所収) より
 ▽印:下記の国別の利生塔一覧の中で、▽印は、当論文で挙げられる利生塔である。
66ヶ国の内、27ヶ国に利生塔の存在が認められるのである。
 利生塔は元弘以来の敵味方の一切の戦没者の慰霊のため」と戦災の悪因から逃れて天下泰平を願うため、足利尊氏・直義によって発願されたものである。そしてその事業は主として直義によって推進されたのである。
 利生塔の新設・重補:
判明している27国の塔婆について、新造・再建(造立・再興)は和泉、伊賀、相模、能登、備後、薩摩の7ヶ国、修補は山城、下総、阿波、肥前、日向の5ヶ国、その他の国は不詳である。意外に新造も多い感じではある。
2015/08/02追加:
◇「安国寺・利生塔再考」松尾剛次(「山形大学紀要(人文科学)第14巻第3号」2000 所収) より
及び
◇「中世叡尊教団の薩摩国・日向国・大隅国への展開」松尾剛次(「山形大学人文学部研究年報 第9号」2012.2 所収) より
辻説及び今枝説を発展的に継承する。


利生塔一覧

2015/08/02:
は「安国寺・利生塔再考」松尾剛次で整理された29ヶ寺である。これが現在の最新の利生塔情報であろう。
 若狭神宮寺三重塔も利生塔に設定された史料が存在し、若狭神宮寺利生塔を加えれば、利生塔の存在が明らかな国の寺院は30ヶ寺となる。
は利生塔との説もあるが、疑わしいもの・裏付けを欠くものである。


下野醫王山安国寺(薬師寺)▽:下野市薬師寺、智山派 ・・・・・・「安国寺・利生塔の設立」今枝愛真 では利生塔と云う。

鎌倉期、古代下野薬師寺は律僧である慈猛上人(蜜厳律師)により再興される。その後、足利尊氏が下野安国寺に指定改称したという。
 →2011/09/17訪問:下野薬師寺跡
  ※下野薬師寺跡に下野安国寺が現存する。古代下野薬師寺が下野安国寺とされる。下野薬師寺趾には、創建塔跡及び再建塔跡がある。
しかし、これらの塔と利生塔と関係がある史料は存在しないようである。
2015/08/02追加:
○「安国寺・利生塔再考」松尾剛次 より
「日本佛教史 第4巻」辻善之助 では 「下野国志 六」に「(下野薬師寺)戒壇の跡には安国寺と云ふ寺たてり」とあることから、下野薬師寺が安国寺であろうという。
「安国寺・利生塔の設立」今枝愛真 では、今枝氏が安国寺は全て五山派禅刹であるという立場から、薬師寺には既に利生塔が指定されていて、後に利生塔が安国寺と誤伝されたのではないだろうかという。 → 下野薬師寺跡
しかし、この今枝説は、今枝氏が安国寺は全て五山派禅刹ということに拘泥するからであり、史料を素直に読めば、律宗の薬師寺が安国寺とされたということ以上のことは導き得ない。(下野安国寺/薬師寺が安国寺ではなく、利生塔であることは疑わしいと思われる。)
 なお、大和においては、当時興福寺の一国支配で安国寺は設置されなかったという今枝説であるが、宝暦7年(1757)の「招堤千歳伝記」には「支院編 肥前観世音寺、野州薬師寺 開祖命如宝令住持之、蜜厳律師中興也、・・・安国寺 高田、・・・・・」とあり、律宗の安国寺が大和高田にあった可能性がある。
 さらに、明徳2年(1391)の「西大寺末寺帳」には「尾張国 ・・・・・・ 山田安国寺 近代改之 ・・・・」とあり、中世には律宗山田安国寺であったと推測される。
 さらに、上総安国寺も史料的に律宗に改宗したことが裏付けられるのである。
要するに、安国寺は全て五山派禅刹という命題は必ずしも成り立たないのである。


下総大慈恩寺

明治35年暴風により倒壊と伝える、つまり明治35年頃まで利生塔は残存と云い、現在、塔跡には土壇及び礎石を残す。

●大慈恩寺利生塔跡:「X」氏ご提供画像。<2001年12月撮影>

大慈恩寺利生塔跡1:下記拡大画像

大慈恩寺利生塔跡2:下記拡大画像

大慈恩寺概要:
雲富山と号す。真言宗智山派。
鑑真和上の創建と伝えられる。あるいは鎌倉中期に(千葉氏一族)大須賀胤氏の創建とも云う。当初は慈恩寺と号す。
その後、大和西大寺真源(叡尊の弟子)が中興。
歴応4年(1341)足利直義によって祈願所となり、次いで光厳上皇の院宣によって料所をよせ、興隆せしめる。
応永28年(1421)火災で焼失。
江戸期には朱印地20石を受ける。
利生塔は明治35年(1902)ころまで存在したと云い、土壇と礎石が14個残存する。
なお、宝物館には利生塔模型と称する模型が残り、その模型は多宝塔に似せた形式を採ると云う。
現伽藍のほか、利生塔跡、多宝院跡、釈迦堂跡、地蔵堂跡などもあると云うも、塔跡以外は未見。
●2006/09/01撮影画像:

下総大慈恩寺塔跡1:写真中央、台下平地が塔跡
 同         2:やや亀腹状の高まりを残すと推定される。
 同 塔跡西側礎石1:左列4個、右列4個の礎石が 残る。
 同 塔跡西側礎石2:同上
 同 塔跡西側礎石列
 同    塔跡礎石
 同     塔礎石:左図拡大図:
 礎石は、花崗岩製と思われ、四角形に加工する。
 大きさは45×45cm(一部は50×50cmの平面を持つ礎石もある)
 高さは不明。
 なを大雑把に観察した限りでは縁の束石の残存は無いと思われる。


下総大慈恩寺利生塔礎石見取図:下図拡大図

中央間(芯芯)は約165cm(5尺5寸)
両脇間(芯芯)は約105cm(3尺5寸)を測る
凡そ塔一辺は約375cm(12尺5寸)と思われる。
多宝塔とすれば、中小型塔と思われる。
礎石は45×45cm(一部は50×50cm)の大きさで
14個が現存する。
 


下総名勝圖會雲富山:現地説明板より
下記拡大図


下総名勝圖會は初見、江戸末期と云う。
3間四方・縁を廻らす多宝塔のように描かれる。

明治35年暴風により倒壊した利生塔が多宝塔かどうかは不明。(ただし、江戸末の下総名勝圖會の絵では多宝塔のように描かれる。)
また明治35年倒壊という利生塔の履歴も不明。
通常利生塔は層塔が想定されるが、下記の多宝塔模型も含め、検討を要する。
2014/09/30追加:塔跡は成田市の史跡である、成田市ではこの塔は「元禄16年(1703)再建」という。

大慈恩寺利生塔模型:歴史の足跡」(久保田氏)ご提供

「歴史の足跡」様ご提供画像

宝物館(通常は非公開?)に足利直義書状などとともにあると云う。

詳細情報は サイト「歴史の足跡」>「下総大慈恩寺」にある。
 ※本サイトは安国寺・利生塔などの総合サイトである。

現在、以上の外に塔婆情報は持ち合わせず。

写真で見る限り、建築模型ではなくて、工芸品と思われる。
特に初重平面は3間四方の形式を採らないなど多宝塔形式ではなく、二重宝塔とでもいうべき形式であろうか。
年代は不明。

大慈恩寺現況
2006/09/01撮影:
 下総大慈恩寺門前:山門のかなり奥に本堂がある。
   同     本堂:近年の建立と思われる。(RC造)
   同  本堂参道:写真左手、中央よりやや手前の木立の中が利生塔跡。


(上総長柄山眼藏寺<胎蔵寺>▽:長生郡長柄村、長柄山、臨済宗妙心寺派)

現在は無住。利生塔跡は「塔根」と呼ばれる場所があり、ここに利生塔があったと伝承すると云う。但し地表には何の遺構も残らないと云う。
2015/06/15追加:「安国寺・利生塔の設立」 より
胎蔵寺は近世以後に眼蔵寺と称するようになる。「五山群緇考」には同寺の境地に利生塔があったという。

(安房高藏山大山寺:鴨川市平塚)

2018/08/02追加:
「安国寺・利生塔再考」松尾剛次 では自ら(松尾氏)が見出すという。
その根拠は「角川日本地名大辞典12千葉県」鴨川市大山の項にあるという。

(相模廃醫王山東光寺▽:鎌倉市二階堂)

東光寺は南北朝期、関東十刹の一となる。
承和3年(1347)足利直義は当寺住持月山友桂をして護良親王の供養と衆生利益のために利生塔を造立と云う。(「鶴岡八幡宮寺 鎌倉の廃寺」貫達人、有隣新書)
東光寺は既に廃寺(廃寺になった時期は不詳)であるが、驚くべきくことは、廃寺跡には国家神道鎌倉宮(官幣中社、祭神大塔宮護良親王、明治2年明治天皇の勅により建立、宗派は国家神道)が建立されていると云うことである。東光寺の遺構は全く残らないと云う。

(伊豆肖盧山修禅寺▽:伊豆市修善寺、曹洞宗)

資料もなく、寺院側にも利生塔建立の認識はないという、利生塔建立は不確実なのであろうか。
○2010/12/22追加:「日本佛教史 第4巻」辻善之助、岩波書店、昭和35年 では
「神田孝平所蔵文書、妙楽寺文書、鳳閣寺所蔵文書」で利生塔があったとする。(文書の具体的内容は不詳)
○2015/06/15追加:「安国寺・利生塔の設立」 より
「鎌倉市立図書館文書」では貞和元年(1345)足利直義は院宣によって修善寺塔婆を利生塔とすべき御教書を出していることが知られる。
また同文書に
「伊豆国利生塔<在修善寺>・・・・
 観応2年(1351)       恵源(足利直義)(花押)
  鎌倉殿(足利基氏)                   」とある。
当寺は空海の創建と伝える真言の古刹であったが、利生塔建立の頃は臨済宗であり、戦国期には曹洞宗に転宗という。

駿河C見寺▽:巨鼇山求王院、臨済宗妙心寺派

諸絵図などから、中世末・近世初頭まで当寺の利生塔(三重塔)は存続していたものと推測される。
 → 駿河清見寺

(三河集雲山長興寺▽:豊田市長興町、臨済宗東福寺派)

2015/06/15追加:「安国寺・利生塔の設立」 より
「扶桑五山記」には当寺十境に利生塔があるので、当寺に利生塔が建立されたのであろう。

(美濃廃瑞雲山定林寺▽:土岐市定林寺):廃寺

2015/06/15追加:「安国寺・利生塔の設立」 より
当寺は土岐氏の菩提寺である。
「扶桑五山記」では境地の中に利生塔があり、利生塔のあったことが知れる。

越中国泰寺:護國摩頂巨山、臨済宗国泰寺派
  当寺には、利生塔と称する三重塔が造立されたが、国泰寺に利生塔があった史料的裏付けを欠く。

越中の安国寺・利生塔については、全国安国寺会編「安国寺風土記」では国泰寺説と布市興国寺の2説を挙げる。
要するに、現状では越中安国寺及び利生塔に関しては不明もしくは推定の域を出ないということであろう。
現在、越中国泰寺には昭和59年に竣工・落慶した「利生塔の再興」と称する三重塔がある。
 → 越中国泰寺


能登永光寺

利生塔跡を残す。
 洞谷山と号す。曹洞宗。正和元年(1312)曹洞宗太祖瑩山紹瑾によって創建されると伝える。
能登国の利生塔建立は当寺とされ、暦応3年(1340)仏舎利2粒が安置される。
 ※利生塔跡は庫裏・書院の背後・右側台上に残存し、土壇・礎石を残す。
南北朝期には僧堂、廊下、山門、土地堂、浴室、衆寮、東司、祖師堂などがあり伝燈院(開山堂)も建立されると云う。
我山派と明峰派の争いもあり、また戦火で荒廃し一時は無住であったとも云う。
現伽藍は明治16年の再建であり、山門、法堂、庫裏、書院、方丈、浴室、僧堂、東司を配し廊下で結ぶ。
 能登永光寺利生塔跡1       同         2(2002年11月 「X」氏撮影画像)
2008/07/16追加:
●「石川県史蹟名勝調査報告 第2輯」石川県編、大正13年 より
利生塔婆旧址:
正和元年(1312)栄山紹瑾の創建に係る。暦応2年光巌上皇の発願にて宝塔を建立す。上皇は院宣を給ひ、66基の随一となす。
能登の安国寺については扶桑五山記に万松山安国禅寺と見ゆるも現今同名の寺院を発見せず、然るに利生塔婆に関する古文書は永光寺に存しその旧跡亦旧寺の一部に発見されたる。
古文書:以下の利生塔関係の古文書が永光寺に残る。
光巌上皇院宣を以て能登国をして一国一基の塔婆を造立せしめ給ひ尋て足利直義仏舎利を納め尊氏又同国若部保地頭職を寄せて塔婆料と充てしめたり即ち
○能登国永光寺塔婆事為勅願之功殊可奉祈天下泰平者 院宣如此仍執達如件
暦応2年(1339)12月13日  按察使常顕
 智洪上人御房
○能登国永光寺塔婆事 院宣如此為六十六基之随一寄料所可造立状如件
暦応2年12月13日  左兵衛督 直義・花押
 永光寺長老
 永光寺蔵足利直義古文書
○その他の永光寺蔵古文書
 永光寺利生塔関係古文書:足利直義、足利尊氏、吉見頼隆古文書
○塔 婆 址:

永光寺利生塔跡礎石実測図:左図拡大図

遺跡は現今の本堂の東方に位し、北方の丘陵の南に垂れたる山脚を削平して建立す。
塔跡は実測の結果東西13尺余南北また之に等しき、北より4列の礎石あり。
北列の西端の礎石は取除かれ、第3列は東西両端の礎石は残存す。(礎石は多くは花崗岩で、焼損の跡あり)
礎石の外側約5尺を隔てて溝跡あり、礎石の間隔は約4尺3寸を有す。
塔の建築は普済録に「三重塔外月明々」の句あるに依て知らる。遺物は足利氏が東寺に申請して奉納せる仏舎利1粒あり、往年塔跡より発見せる鉄製風鐸(高さ1尺1寸、径約6寸)を保存し、また左右2枚に折れたる塔の扉は今猶僧堂前に存在せり。

●2010/10/19追加:○2010/10/12撮影画像:
 能登永光寺配置図:現地案内板を撮影

永光寺利生塔跡概要

永光寺利生塔跡概要図:左図拡大図

 上記「石川県史蹟名勝調査報告」の実測図及び状況は大正期のものである。
今般の表面観察の結果、上記とは若干違う点がある。
即ち、北第3列の両端の礎石は残存すると云うも、西端の礎石《図の注1》は表面観察では遺存しない。《図の注2》に小さい石があるが大きさから見て礎石ではなく、また礎石配列から外れる位置にある。
礎石の間隔は約4尺3寸とあるが、各間は等間ではなく、中央間は約150cm(5尺)、両脇間は約120cm(4尺)を測る。(実測)
また溝跡ありとあるが、必ずしも現在、溝跡は明確ではない。

 塔跡は丘の斜面を削平した平坦地で、北及び西面は切り崩した崖、東面は緩やかな斜面の平坦地、南面は削平した土砂で覆った崖をなす。
塔土壇は東西及び南面に土盛をし、南面中央間に相当する部分には3段の石階を設け、その両脇の土壇斜面には葺石を施す。



利生塔跡礎石・北東から: 左図拡大図
北東から撮影、土壇上の残存礎石が全て写る。
利生塔跡礎石・東から:東から撮影、右から北側礎石列・・・
利生塔跡・土壇南面1
利生塔跡・土壇南面2:3段の石階、土壇斜面葺石が見える。
利生塔跡・土壇南石階:上部には南列礎石が写る。
利生塔跡・土壇南葺石
利生塔跡土壇・西から
 :手前は土壇西側、右は土壇南側、その右手(右端)は石階に至る参道
利生塔跡南列礎石:以下東から撮影・4個
利生塔跡北3列礎石:1個      利生塔跡北2列礎石:4個
利生塔跡北1列礎石:3個

 利生塔跡礎石1     利生塔跡礎石2     利生塔跡礎石3     利生塔跡礎石4
 利生塔跡推定礎石:土壇下には転落礎石と推定される石が2個ほどある。

 能登永光寺山門     能登永光寺本堂ほか     永光寺本堂西側堂宇    能登永光寺観音堂跡

○水晶舎利容器
永光寺発行パンフレットより:
水晶舎利容器
足利尊氏・直義が永光寺利生塔に納めたものと云う。蓋裏朱銘「三乗(ママ)殿寄進」とある。
 ※三乗殿とは三条殿か、足利直義は三条殿と号す。
2015/06/15追加:「安国寺・利生塔の設立」 より
仏舎利は1.5cmほどの茄子型の水晶製舎利器に納められ、さらに三脚付鼎型の青色瑠璃製容器の中に入っている。


越前別印山日圓寺▽:所在未詳→現在の越前市別印にあったと想定される。

2014/09/30追加:
○「福井県史 通史編2 中世」平成6年 より
第六章 中世後期の宗教と文化>第一節 中世後期の神仏信仰>一 宗教秩序の変容>安国寺・利生塔 の項 では次の一文がある。
「越前国利生塔は今立郡日円寺とされるが、確実なことはわからない。」
2015/06/15追加:
○「安国寺・利生塔の設立」今枝愛真(「中世禅宗史の研究」今枝著、東京大学出版会、1970 所収) より
越前の利生塔の所在は明らかでない。ただ、「扶桑五山記」には日円寺を安国寺としているが、越前安国寺は長楽寺が指定され、後には永徳寺が定められるので、日円寺は安国寺ではなく、利生塔が設置されていたのではないだろうか。このような誤伝は近江や下野と同様と思われる。「蔭涼軒日録」嘉吉元年(1441)6月17日の条では、同寺に塔婆が造営され、幕府はこれに5000疋を寄進といい、つまり日円寺には利生塔が設けられたのではないかと推測される。
なお日円寺は所在不明である。

2017/07/13追加:
日圓寺もしくは日圓寺が立地したであろう別印(別院)には、次の3基の塔婆の存在が知られる。
第1は永平寺開基檀越の一人である覺念の建立塔婆
 道元は建長5年(1253)示寂するが、その後、道元の俗弟子であり、大仏寺(永平寺)の壇越の一人であった覺念によって、所領月尾山の麓(別印)に道元の供養塔が建立される。道元が妙法蓮華経庵と揮毫した柱を心柱にして塔婆を建立というから、鎌倉前期には木造塔婆が建立されたと思われる。 →覺念について
しかしこの塔婆は別印に建立はされるも、日圓寺に建立されたあるいはその当時日圓寺が確実に存在していたかどうかは不明である。
第2は室町前期に存在した多宝塔
 室町前期には日圓寺に多宝塔が存在したことが文献上知られる。しかし、その建立時期や由来などは全く不明である。
ただ、この多宝塔が利生塔であることを示唆する記述は存在せず、利生塔ではないものと推定される。
第3は嘉吉元年造営塔婆
 嘉吉元年(1441)塔婆が造営される。丁重な祝意が示される様子が見て取れ、この造営はおそらく利生塔の再営であろうと推定される。
 今枝説である。
2017/07/13追加:
○「福井県史 通史編2」1994 より
 (第六章 中世後期の宗教と文化 第二節 仏教各宗派の形成と動向 二 禅宗諸派の展開 諸山の日円寺)
 日圓寺の開山は元翁本元であるが、元翁は高峰顕日の門弟で、無学祖元の孫弟子にあたる。元翁は夢窓と兄弟弟子であり夢窓と行動をともにした人物で、京都十刹第二位で京都嵯峨大堰川の臨川寺開創に関わった人物として知られる。日圓寺は現在は廃寺であるが別院山の山号が示すように、今立町別印にあったことが類推される。
別印の地名は道元の弟子覺念が建立した寺院が永平寺の別院的存在であったところからそう称されるようになったといわれており、覺念が月尾山の下の同地に塔婆を建立したという伝承をもつ地である(「永平開山道元禅師行状 建撕記」)。
 ※覺念が建立した寺院とはどのような寺院であるかは不明、仮にその寺院があったとしても、永平寺の別院的存在であったかどうかも不明、また仮にそうだとしても、地名の「別印」に結びつくかどうかは不明であろう。
日円寺の前身は覚念の開いた寺院であったとも考えられる。通称法界門のあたり一帯が寺跡であると考えられており、近くの教徳寺裏の山道からは至徳三年(1386)の銘文がある八角石塔が出ており(「今立町誌」)、文永八年(1271)の銘文をもつ五輪塔もあったとされている(「岡本村史」)。元翁の没年が正慶元年(1332)なのでそれ以前の成立であろう。
 五山・十刹・諸山を記した「扶桑五山記」には越前国の安国寺と付されているが、安国寺となったのは永徳寺であるから、日円寺が安国寺とされるのは越前の利生塔が存在したがゆえの誤記ではないかとされる。「扶桑五山記」にも「多宝塔」の存在が記されているが、五山派を統制した鹿苑院僧録のもとで実務を担当した蔭凉軒の記録である「蔭凉軒日録」の嘉吉元年(1441)六月十七日条によれば、同寺に塔婆が造営され、これに対して幕府は五〇〇〇疋(五〇貫文)を寄進している。これが以前からあった利生塔の再建なのか、別の所にあった塔が破損したので同寺に建立したのかは不明であるが、何の記載もないので、以前から存在した可能性が高いといえよう。
 安国寺・利生塔とは、足利尊氏と直義兄弟が夢窓疎石の勧めもあって、元弘年間(1331〜34)以来の戦乱における戦没者の供養のために各国に一寺一塔を建立したものであり、建武四年(1337)に計画され、同五年ごろから貞和年間(1345〜50)にかけて設置されたものであると一応いうことができる。
2017/07/13追加:
○「室町期越前の五山派寺院について」池田正男(「若越郷土研究 49巻2号」福井県郷土誌懇談会、2004 所収) より
 日圓寺の創立については、八ツ杉権現が深く関わっていると考えられるが、では八ツ杉権現とはどのような権現であったのか。
八ツ杉権現の旧跡の所在地は別印の南方の山塊上にあり、山塊の北側の谷を月尾谷といい、別印はその谷の東奥に位置する。また南側の谷は鞍谷という。八ツ杉権現の旧跡のある山塊の西方のさらに北側の山塊には大滝神社(大滝寺)がある。つまり当地一円は白山系修験の活動領域と考えられるのである。
さて、八杉権現の発祥は、簡単にいえば、「越前國神名帳」に登記され、また八杉所在の伝承のある仏像が平安期のものであるから、少なくとも平安末期までには存在していたと考えられる。
「政午紀行」では
 八杉ト名ク地、山上ニアリ、堂祉ナリ。寺山ニ往古妙理権現堂アリ。日円寺ノ支配ナリ。
 或夜其堂江州滋ケ谷寒(菅)山寺カ岳ニ飛フ。神職ノ家モ共ニウツル。
 古老ノ口碑ニアリ。今ニ厳ニ存在ス。奇異ト云フヘシ。八杉ノ坊ノ本尊仏ハ今此山ノ南ノ蓑脇村開源寺ニアリ。(後略)
   文政壬午三月六日<文政壬午は文政5年(1822)>
 ※江州寒山寺とはあの近江管山寺である。
とある。
「その堂江州滋ケ谷寒山寺カ岳に飛ふ。」とは要するに八ツ杉権現が退転し、近江管山寺に移住したということである。その時期は管山寺などの諸文献から近世初頭と思われる。
◇別印山日圓寺の概要
1.日圓寺の所在地
次のような連署状がある。
   府中両奉行人連署状
 当郷用水難得ニ付市、別印之河水可落下候由雄申候、
 (中略)日園寺ヘ申定候上者、於向後不可有相違之状如件
   享禄弐八月十二日     美次
                    景康
     月尾郷百姓中
とあるから、月尾郷別印(今立町別印/現越前市別印)が日圓寺の旧地であることは疑いがない。
2.創世記(日圓寺の草創・概要)
「扶桑五山記」には
   越前州
 別印山安国寺日円寺 開山元翁(本元)禾上仏徳禅師、寺■有多宝搭、
「東山歴代」では
 ・・・日圓者北翁之寺也。・・・とあり、
日圓寺は北翁の寺という、北翁の法兄が元翁であるから、おそらく北翁から元翁に勧請開山を要請したのかも知れない。
なお、別印から、至徳3年(1386)銘の石塔が発見されているので、この頃までには、禅宗寺院としての日圓寺が開かれていたことは確かである。
 次に日円寺の元翁本元の勧請開山以前の状況はどうであったであろうか。
まず第一に日圓寺の寺號であるが、禅宗のそれではないと思われ、つまり禅宗以前の歴史があることが推測される。
 ところで、石徹白の中居白山神社は美濃馬場長瀧寺から白山山頂への中居り、つまり中間地点の意であるという。また中居とは白山女神の託宣や霊告を受ける意であるとの説もある。
また中宮や中院も同義であろう。
 以上であるとすれば、鞍谷の中居も恐らく正一位剣東院羽咋村岡大明神から八ツ杉権現の中居の意であろう。
月尾谷には中印と別印の村落がある。従一位大瀧大明神から八ツ杉権現へ向かい、八ツ杉の遥拝に好適な法界門(別院の小字として残る)あたりに中院(中印)が創建され、中院の別院として創建されたのが、この日円寺ではあるまいか。そして後年になって利便性からか、大瀧寺の奥の院が権現山山上に設けられたため、大瀧寺に従属していた中院が用済みとなり消滅する。
 一方、八ツ杉権現の里宮となっていた別院は八ツ杉修験の夏季の先達たちの拠点として、冬季は退避所として必然であったため存続し、大瀧寺と別院は本末関係を解消したと筆者は推測する。
以上のように元翁開山以前の別院たる日円寺は白山系寺院であり、八ツ杉権現の里宮として発展を遂げたものと考えられるのである。
 (中世、越前の商工業と流通を押さえていたのは平泉寺・大瀧寺・大谷寺などであり、美濃の商工業・流通を押さえていた長瀧寺などの白山系社寺であった。)
3.日圓寺利生塔
前出の「扶桑五山記」暦応5年(1342)では
 別印山安園寺日円寺 開山元翁禾上仏徳禅師、寺■有多宝搭、
とあり、また
「惟肖厳禅師疏」には
 誓首座住日円寺諸山疏 正幢乃師塔、寺有多宝塔
 (前略)脱略年輩之問、超居父兄之処、隻臂扶正幢建立、弾指現多宝荘厳、(後略)
とあり、少なくとも中世室町前期には多宝塔の存在が知られる。
惟肖徳厳は永享9年(1437)に寂するから、多宝塔はそれ以前の建立であろう。
また、「正幢乃師塔」「隻臂扶正幢建立」とあるから、この多宝塔は覺念に関わるものでも、利生塔でもないのであろう。但し、正幢とは人名であるが、その人物については不明である。
「陰涼軒日禄」嘉吉元年(1441)6月17日条には
 越前日圓寺有章和尚。為塔婆御造営御礼。被献五千疋。即奉懸御目。五千疋即被寄子塔婆。寺家請取奉懸御目。
とある。
この塔婆造営は前出の多宝塔ではないと思われる。
今枝氏はこの文言から日圓寺に利生塔があったのではないだろうかと指摘している。
(備後浄土寺では多宝塔と五重塔を有し、五重塔が利生塔ということであったが、この類例を匂わせる。)
4.覺念建立塔婆:覺念は永平寺開基檀越
  →覺念について
「建撕記瑞長本」には
 其後チ、覺念、妙法蓮華経庵ト書付マシマス、柱ヲエリヌイテ以テ、越前ノ国今南東ノ郡月ノ尾山ノ下ニ、始テ搭婆ヲ建立シ此柱ヲ、則チ、中心ト〆、日々奉ル供養シ、ト云々。
とある。
このことより、覺念が塔婆を建てた地が日圓寺の前身という説がある。
しかし、より積極的な仮説を提示しよう。
それは、日圓寺は白山系の密教として少なくとも平安後期には存立していたが、永平寺開基檀越の一人である覺念及びその一派が日圓寺に禅宗を徐々に浸透させていき、南北朝期の利生塔建立を契機に日圓寺として正式の禅宗に転じた、というものである。
最後に日圓寺の終末については、直接的な史料はないが、中世末期、一向一揆は真言・天台・禅の諸宗及び神社をその標的にしたようであるから、日圓寺もその時焼き払われ、以降再建されることは無かったと推測される。
2017/07/13追加:
○「越前の禅宗草創期について」池田正男(「若越郷土研究 53巻1号」福井県郷土誌懇談会、2008 所収) より
◇日圓寺について
覺念建立塔婆
建撕記によれば、道元禅師が帰洛の後、京の覺念の居宅で示寂した。その後、覺念は示寂地たる自宅の部屋の柱を越前別印に持ち帰り、塔婆とした、と記す。
◇日圓寺の草創について
 日圓寺は越前市別印町にあった五山派の諸山で、越前の利生塔があったとされる寺院である。
前記の通り、覺念が道元の塔婆を建てた地でもあった。日圓寺の草創についてはほとんど不明であるが、覚念の塔婆設立が日圓寺の草創であるとの説もある。しかし日円寺の寺号からみて、その前身は密教系であるとみられる。また別印の小字・法界門には八杉権現の一ノ鳥居があったとの伝承などからみて、妥当な説とは認め難い。
筆者は前稿で山上にある八杉権現の所在との関連を指摘し、八杉権現関連寺院が禅宗化されたのであろうという立場を採る。
◇日圓寺遺跡(越前市別印町)
 至徳三年銘の重制無縫塔の八画柱状の竿が残っている。その碑文は「■田弥■禅門」「至徳三年八月二十日」とある。
これは日圓寺に僧籍を置く人物の塔婆と見られる。至徳三年には日圓寺は既に諸山位を得ていた時期とみられるので、日圓寺草創期のものではないが、貴重な遺物である。
なお、この出土地は教徳寺の墓地であったという。
また大正年代に教徳寺北側の民家の新築整地作業中に、層塔か宝陸印塔の塔身とみられる角形の四面に仏を浮彫したのものが出土する。
よってこの出土地近傍一帯が日圓寺の寺域であったと思われる。
 ※教徳寺は別印に現存する。

若狭神宮寺・・・・・若狭神宮寺に利生塔が存在していた史料的根拠は不明である。

当初は上述のように「史料的根拠は不明」と記載したが、若狭神宮寺三重塔は利生塔であった史料は存在するようである。
従って、若狭神宮寺三重塔は利生塔であったのであろう。
但し、2004年に発掘された塔跡は古代神宮寺の塔跡で、中世にこれとは別の位置に建立された三重塔が利生塔であろう。
 →若狭神宮寺>若狭利生塔の項を参照。
 ※若狭神宮寺に利生塔が建立された史料は、2014/09/30追加及び2015/08/02追加記事のように
 「神宮寺文書」10号文書(「福井県史資料編9」所収))がある。
 また、「当寺古図再興」および「寛文11年・神宮寺一山総見取図」の古絵図が残るが、
 これらの古絵図では古代神願寺塔跡とは違う位置に三重塔が描かれていることもその傍証となるであろう。
2014/09/30追加:
○「福井県史 通史編2 中世」平成6年 より
第六章 中世後期の宗教と文化>第一節 中世後期の神仏信仰>一 宗教秩序の変容>安国寺・利生塔 の項
 以下のように述べる。
『若狭国利生塔はこれまで不明とされてきた。
 ところが遠敷郡明通寺に興味深い史料がある。明通寺は暦応二年正月、勤行目録・寺絵図や守護斯波家兼(時家)の書下を添えて、「御願塔婆」を明通寺に建立するよう要請している(明通寺文書二七号)。一般に利生塔の設立は寺院側からの申請によっており、備後国浄土寺や伊賀国楽音寺の申状が残されているし、播磨国清水寺の場合は申請を却下されている。時期からいっても、内容からみても、この明通寺申状が利生塔建立の申請であったのは間違いないであろう。(中略)
 建武三年八月の三方郡能登野での戦では明通寺は足利方として奮戦し三名の死者まで出しており(同二六号)、軍忠という点からみても、利生塔が設立される十分な条件を 備えていた。しかし明通寺の申請は却下され、代わって遠敷郡神宮寺が若狭国利生塔に選ばれる」。
 暦応二年十二月十三日に仏舎利二粒を神宮寺三重塔に奉納するとの院宣が出され、翌三年正月一日に奉納されている(神宮寺文書一〇号)。能登国利生塔の永光寺の場合も、暦応二年十二月十三日に塔婆修造の光厳院の院宣が出され、翌三年正月一日に足利直義の仏舎利奉納状が出ており、若狭神宮寺と日付が完全に一致する。神宮寺に奉納された仏舎利二粒のうち一粒が東寺仏舎利であった点も、諸国利生塔と一致している。神宮寺三重塔が若狭国利生塔に選ばれたことは疑いあるまい。』
2015/08/02追加:
「中世叡尊教団の薩摩国・日向国・大隅国への展開」松尾剛次 より
若狭神宮寺利生塔については「暦応3年正月一日、仏舎利2粒、一粒は東寺、当寺の三重塔婆に奉納す」(「神宮寺文書」10号文書(「福井県史資料編9」所収))との史料がある。
本史料によれば、若狭神宮寺利生塔は三重塔であったということになる。

(伊賀廃樂音寺▽:上野市佐那具(上野市坂之下?)

○2010/12/22追加:「日本佛教史 第4巻」辻善之助
建武5年(1338)樂音寺僧徒は一国一基の塔を寺内に建てられん事を幕府に願うと云う。(「樂音寺縁起」)
○2015/06/15追加:「安国寺・利生塔の設立」 より
元の府中である府中村(現在の佐那具)にあった。慈覚大師円仁創建の天台の古刹であった。
建武4年以降、利生塔建立の風潮が聞こえ、当国守護二木氏は楽音寺の守護に任ずる、
暦応2年楽音寺宗徒は利生塔設置を幕府に申請する。
以上の経緯から間もなく当寺に利生塔が建立されたものと思われる。

近江大慈山芦浦観音寺▽:天台宗 ・・・・・今枝説:門前に安国寺がありこれは全国66基の一つの塔婆であったという。
 近江観音寺門前寺名不詳寺院・・・・・松尾説:観音寺ではなく門前の名称不詳の寺院に利生塔があったのであろう。

2015/06/15追加:
○「安国寺・利生塔の設立」今枝愛真 より
天台宗の古刹である。
「蔭涼軒日録」長享元年十月十日の条、及び「近江輿地史略」四十三 によれば、観音寺門前に安国寺がありこれは全国66基の一つの塔婆であったという。辻善之助はこれは近江安国寺天寧金剛寺であり、まさに安国寺であろうとするが、天寧安国寺は近江八幡市金剛寺にあった金剛寺(現在は廃寺)であろう。安国寺というは実は利生塔のことであり、一寺一塔の関係であった安国寺と利生塔の関係が後世に混同されたため、利生塔を安国寺と呼ぶようになったのであろう。
2015/08/02追加:
○「安国寺・利生塔再考」松尾剛次 より
以上の今枝説を認める訳であるが、正確にいえば、利生塔があったのは芦浦観音寺ではなく、門前の別の寺であろう。

山城法観寺▽:靈應山、臨済宗建仁寺派

現存する法觀寺五重塔は永亨12年(1440)足利義教再建塔であるが、現存する唯一の層塔形式の利生塔である。
 → 山城法観寺

(丹波醫王山長安寺▽:福知山市奥野部、臨済宗南禅寺派)

2015/06/15追加:「安国寺・利生塔の設立」 より
当寺は初め金剛山善光寺と称する真言寺院であったが、後に臨済宗に改められる。
「蔭涼軒日録」寛正2年(1461)10月14日の条には「丹波国長安寺・・・六十六基塔婆之随一被書之・・・」とあり、利生塔があったと知れる。

(河内獅子吼山三昧院教興寺:八尾市教興寺、真言律宗)

2014/09/30追加:
○八尾市史 (前近代) 本文編,1988(昭和63)年発行,(23/43)
教興寺は摂津四天王寺と同時期、秦川勝によって、高安の地に建立せられる。
その後教興寺は荒廃するも、鎌倉期西大寺叡尊によって再興され、堂塔が再営される。
歴応2年(1339)足利尊氏は教興寺に利生塔を建立したと思われる。足利直義による寺領寄進や貞和2年(1346)の教興寺内利生塔雑衆了賢の訴えなどもあり、そのことを裏付ける。
永禄5年(1562)教興寺合戦の戦火に罹り焼亡する。
延宝5年(171677)本堂、祖師堂、鐘楼が再建される。
明治18年暴風雨で本堂、祖師堂などが倒壊、現在は仮本堂(客殿を転用)の状態であるという。
しかし、周囲に現存する堂宇として大道寺、梅岩寺、意満寺、薬師堂があり、明治期までは半胴寺、松林寺、橙田庵があったという。周囲には重塔、大門池、龍燈田、本浄坊、忍浄坊などの字を残し、広大な構えであったことが伺える。

和泉久米田寺▽:龍臥山隆池院、高野山真言宗

2010/12/22追加:「日本佛教史 第4巻」辻善之助、岩波書店、昭和35年 より
・建武5年(1338)久米田寺文書
「和泉国久米多寺塔婆事、為六十六基之随一、早寄料足可造畢也、可被存知其旨之状如件
  建武5年5月17日  左馬頭(足利直義)<花押>
    長老」(「久米田寺文書」)・・・・この文書が一国一基の塔婆建立に触れた初見である。
・暦応2年(1339)久米田寺文書

足利直義仏舎利奉納状:左図拡大図

「奉納安 和泉国久米多寺塔婆
  仏舎利二粒 一粒東寺
右於六十六州之寺社 建一国一基之塔婆 添任申請 既為勅願 仍奉請東寺仏舎利
各奉納之 伏冀皇祚悠久 衆心悦怡 仏法紹隆 利益平等 安置之儀旨趣如件
  暦応2年8月18日
       左兵衛督源朝臣直義(花押)」

2015/06/15追加:「安国寺・利生塔の設立」 より
暦応2年(1339)久米田寺文書
「和泉国久米田寺塔婆事、為勅願之儀、殊可奉る祈天下泰平者、院宣如此、仍執達如件、
  暦応2年六月廿九日     按察使(勧修寺)経顕
    明智上人御房                                          」
院宣の文言は不明ながら、光厳上皇の院宣が発せられたことが分かる。

平成15年多宝塔が落慶する。(特に利生塔との関連は説かれないようである。)
 → 和泉久米田寺

(但馬智光山金剛寺▽:豊岡市金剛寺、高野山真言宗)

2010/12/22追加:
○「日本佛教史 第4巻」辻善之助、岩波書店、昭和35年 より
建武5年(1338)足利尊氏、地を寄せ塔婆料所に充てしむと云う。
2014/09/30追加:
○「広報とよおか 2010.6.25」>「歴史|探訪〜文化財を巡る〜12」 より
足利尊氏寄進状
 金剛寺足利尊氏寄進状;金剛寺文書、暦応2年(1339)の年紀、花押は足利尊氏。
2018/08/02追加:
○「安国寺・利生塔再考」 より
奉寄 但馬国常住金剛寺
    同国池内村并押坂社事
右為当国塔婆料所、々寄進成。可致沙汰之状如件
    歴応ニ年十二月廿六日  (足利尊氏)花押


播磨金華山法雲寺(法雲昌国禪寺)▽:上郡町苔縄、臨済宗相国寺派

2014/01/31追加:
○「峯相記の考古学」たつの市立埋蔵文化財センター、平成24年 より
貞和元年(1345)播磨利生塔が金華山法雲寺に建立され、現在、現堂宇の背後の山麓部に推定利生塔跡土壇が残る。
法雲寺略歴;
延元2年(1337)/建武4年赤松則村、法雲寺創建、京都嵯峨西禪寺の雪村友梅を招じ開山とする。赤松氏菩提寺となす。
 ※赤松則村(円心)その子息、栖雲寺等については →播磨赤松栖雲寺跡に記載。
暦応2年(1339)十刹次位に列せられる。
貞和元年(1345)播磨利生塔が建立される。
応永23年(1416)十刹に列する。
嘉吉の乱により、赤松氏は没落、山名氏の播磨入国により、兵火で堂宇は焼失と伝える。
宝永年中(1704-)赤松氏末裔である久留米藩主有馬氏により堂宇を整備。
○「兵庫県史跡名勝天然記念物調査報告書 第6輯」兵庫県、昭和4年 より
但し、本著では利生塔についてはまったく論及がない。
江戸末期の木版画の図版があり、以下のような解説がある。
幕末時代のものと覚ゆる木版絵図に拠るには、ただ堂宇1宇と五輪塔1基の存するを見るのみ。
この五輪塔は恐らく圓心の塔婆ならむも、現今の寺域に存するものはその様式足利時代のものに時代のものに属せず。
 法雲寺付近絵図:堂宇の背後の山麓に利生塔跡及び礎石か石組遺構らしきものが描かれる。
○上郡町のページ「『上郡町史』の舞台をめぐる(6) 赤松氏ゆかりの法雲寺、宝林寺」に「峯相記の考古学」に掲載と同一の以下の図版がある。
以下は上記ページより転載:
 法雲寺遺構現況図     法雲寺推定利生塔跡
○2015/06/15追加:「安国寺・利生塔の設立」 より
「大雄雑記」によれば、法雲寺の十境に利生塔の名が見える。
なお、播磨の利生塔については、播磨清水寺の衆徒が利生塔を同寺に建立するよう強く望む。しかし建武3年同寺の堂塔が焼失したため、赤松則村の推挙によって利生塔は法雲寺に設定されるという経緯がある。
2014/02/01撮影:
○推定播磨利生塔跡:
利生塔跡(推定)は円心堂横の径を少し登れば、本堂背後の崖上にある。かなり広い平坦地に土壇を残す。
土壇上の表面には、目検した限りでは、礎石などの遺物は見当たらない。

推定播磨利生塔跡1:東から撮影
推定播磨利生塔跡2:北東から
推定播磨利生塔跡3:南東から
推定播磨利生塔跡4:南から
推定播磨利生塔跡5:南西から:左図拡大図
推定播磨利生塔跡6:西から
推定播磨利生塔跡7:北西から
推定播磨利生塔跡8:北から
推定播磨利生塔跡9:北東から

法雲寺現況:
 法雲寺構え      法雲寺本堂      法雲寺禅堂
 法雲寺円心堂1     法雲寺円心堂2(円心廟所)     円心堂内部     赤松円心供養塔
2023/07/04追加:
摂津有馬氏の初代・重則から数えて8代目・久留米藩主有馬則維の援助で建てられた法雲寺の円心堂には、赤松円心と有馬則維の木像が置かれ、堂の脇には円心・則祐・満祐と、則祐の娘・千種姫の供養塔が並び、堂正面には「忠臣塚」が天保14年(1843)に建立される。

2023/03/11撮影:
利生塔跡へのアクセス:
以前、円心堂の裏側あるいは法雲寺庫裡の西側から直登することができたが、現在は猪除けの柵があり不可能である。
法雲寺からは旧赤松小学校の南から西側をぐりっと大廻りし、小学校校舎裏に出ると、そこには裏山(城跡など)に入れる柵門があるので、それを開けて入るべし。
(現地説明板):
臨済集相国寺派、金華山と号す。
建武4年(1337)赤松則村(圓心)が本拠地(苔縄城)に建立、開山は雪村友梅。
暦應3年(1340)開山雪村の寿搭として大竜庵を建立。
境内には利生塔も建立され、暦應2年には諸山に列する。
応永23年(1416)十刹に列する。
正徳元年(1711)赤松氏後裔・久留米藩主有馬氏が再建、嘉永2年(1849)にも再建。
昭和58年本堂再建、禪道場として一般に開放される。
(近隣での聞取り):ごく近年に住職が遷化、禪道場としての活動は停止している。
 推定播磨利生塔跡11     推定播磨利生塔跡12     推定播磨利生塔跡13     推定播磨利生塔跡14
 推定播磨利生塔跡15     利生塔跡の墓碑:江戸後期の年紀、俗人(在家)の墓である。
 法雲寺本堂     法雲寺円心堂3     法雲寺円心堂4     赤穂郡88所71・72番札所
 法雲寺庫裡


(備前廃吉祥寺▽:熊山町):廃寺

2015/06/15追加:「安国寺・利生塔の設立」 より
「蔭涼軒日録」寛正2年(1461)8月4日の条には「備前国吉祥寺塔婆料奉行之事・・・」とあるので、利生塔は同寺にあったと推定される。

備後淨土寺▽:轉法輪山大乘院、真言宗泉涌寺派

正中2年(1325)に塔など灰燼に帰す。
足利尊氏・直義は備後利生塔として浄土寺五重塔を指定し、塔は貞和3年(1347)再興される。
正保年中(1644頃)五重塔焼失と云う。 ※近世初頭まで利生塔は存在した。
 → 備後浄土寺

周防御堀乘福寺▽:南明山、臨済宗南禅寺派

大内重弘の建立。後醍醐天皇の勅願寺となる。足利幕府が利生塔制定の折に、当寺塔婆が利生塔に充られるという。
古には利生塔(三重塔)の存在が知られる。
○「佛教考古学論攷」石田茂作 では
 乗福寺三重塔、山口吉敷郡大内村御掘、臨済宗、室町亡(安国寺塔)とある。
○2015/06/15追加:
○「安国寺・利生塔の設立」 より
 「長防風土記」では「等持院尊氏公一州一宇の三重塔を建て、(今塔の藪といふ所ありて、近き比まではその礎存せり。永正之末、回禄の為に殿堂廊■悉く烏有なりしかば、塔婆もこの時に焚蕩せり。さしも香木を輯てつくりたりし塔婆なりしかば、三日の間その燻絶えずして四方にみちたりしといへり)」永正の末(1521)頃まで存在していたことが知られる。
2022/11/25撮影:
 寺伝によると正和元年(1312)大内重弘の建立、臨済宗の寺である。
永正(1504-1521)末年の火災により伽藍のほとんどを焼失。その後、復興もなく荒廃する。
享禄3年(1530)頃大内義隆が再建する。
大内氏滅亡後は衰退し、寛文8年(1668)近火により類焼する。そこで塔頭の正寿院を本寺とし、元禄4年(1691)本堂を再建する。
昭和55年現本堂を造替する。
本堂裏手には、琳聖太子の九重供養塔、大内重弘、大内弘世の墓がある。
現在はすっかり衰微し、三重塔(利生塔)などを偲ばせるものは一切ないと思われる。
 周防乗福寺景観1     周防乗福寺景観2     周防乗福寺景観3     周防乗福寺景観4
 周防乗福寺山門1     周防乗福寺山門2     周防乗福寺本堂      周防乗福寺玄関庫裡
 乗福寺大内家墓所     琳聖太子供養塔
 大内重弘墓碑:22代当主、元応2年(1320)没、法名は乗福寺殿道山浄恵大禅定門
 大内広世墓碑:24代当主、天授2年(1380)没、法名は正壽院殿玄峯道階、塔頭正壽院の葬られる。

●周防大内氏略歴

周防大内氏は百済の聖王(聖明王)の第3王子・琳聖太子の後裔と称する。
琳聖太子が渡来、周防国多々良浜に着岸したことから「多々良」氏と名乗り、後に周防国大内村を本拠にしたことから大内氏と名乗るとする。
しかし琳聖太子の記録は古代にはなく、大内氏が琳聖太子後裔を名乗るのは14世紀以降とされる。
古代・中世には周防国府・在庁官人から守護大名へと成長し、周防・長門、石見、豊前、筑前各国の守護職に補任されたほか、最盛期の大内義隆の代には山陽・山陰と北九州の6か国を実効支配する。

 ▽大内重弘(元応2年/1320没):
大内氏22代当主、この頃大内氏は鎌倉幕府の御家人であり、実質的に周防の支配し、重弘は六波羅探題の評定衆となる。
 ▽大内弘世:
正平5年/観応元年(1350)大内弘幸は子の大内弘世とともに周防での覇権を確立し、南朝から周防守護職に任じられる。
正平13年/延文3年(1358)には長門を制圧し、勢力を周防・長門の2カ国に拡大する。足利尊氏は弘世を防長二国の守護職に任じ、弘世は上洛して、将軍足利義詮に謁する。弘世は本拠地を山口に移し、正平18年/貞治2年(1363)に北朝の室町幕府に再び帰服する。
 ▽大内義弘:
弘世嫡男。大内義弘は九州制圧に従軍し、南朝との南北朝合一でも仲介を務め、元中8年/明徳2年(1391)には山名氏の反乱である明徳の乱の鎮圧に貢献する。
その結果、和泉・紀伊・周防・長門・豊前・石見の6カ国を領する守護大名となり、李氏朝鮮とも貿易を行い大内氏の最盛期を築き上げる。
しかし3代将軍足利義満と対立し、鎌倉公方・足利満兼と共謀して応永6年(1399)に堺で挙兵するも敗死する(応永の乱)。
義弘の死後、周防・長門2ヶ国の守護職は義弘の弟である大内弘茂に安堵され、大内家の勢力は一時的に衰退する。
 ▽大内盛見:
しかし、義弘のもう1人の弟・大内盛見がこの裁定に反逆、弘茂は盛見に弑され、幕府は盛見の家督を追認する。
盛見は義弘時代の栄華を取り戻すため、北九州方面に進出し豊前国守護にも任命されるも、少弐満貞・大友持直との戦いに敗れ、永享3年(1431年)に敗死する。
 ▽大内持世・教弘・政弘:
しかし、跡を継いだ甥の大内持世(義弘の遺児)は、6代将軍足利義教もより筑前守護に任じられ、少弐氏・大友氏を征伐す、大内氏の北九州における覇権を確立する。
その後、大内持世は嘉吉元年(1441)嘉吉の乱に関与し、非業の死を遂げるも、いとこで養子の大内教弘(盛見の子)が勢力を引継ぐ。
次いで、教弘の跡を継いだ教弘の子政弘は、代々多発した家督相続爭いに鑑み、「百済の子孫」という主張を一歩進めて「琳聖太子の子孫」であるという先祖説話を強調することになる。
そして、大内政弘は、応仁元年(1467)からの応仁の乱で西軍に属し、山名宗全の没、西軍の事実上の総大将になる。
 ▽大内義興:
世は戦国期に突入、政弘の後を継いだ大内義興は、北九州・中国地方の覇権を確立し、京都を追われた放浪将軍足利義稙を保護し、永正5年(1508)に細川高国と協力し、足利義稙を擁して上洛を果たす。上洛後は管領代として室町幕政を執行するも、国元では武田元繁や尼子経久らにより大内領が浸食され、国元に帰国し、尼子氏や安芸武田氏と戦う。
 ▽大内義隆:
享禄元年(1528)義興が死去、嫡子の大内義隆が家督を継ぐ。この時代には周防・長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領するなど、名実共に西国随一の戦国大名となり、大内家は全盛期を迎える。独特の山口文化(大内文化)が花開く時代となる。
ただ、領内各地で出雲尼子氏・安芸毛利氏・筑前少弐氏が台頭し、戦いを余儀なくされる。
天文10年(1541)出雲遠征に敗北し、陶隆房ら武断派と相良武任ら文治派の対立も激化し、天文20年(1551)義隆は武断派の陶隆房の謀反に遭って義隆は自害する(大寧寺の変)。
これにより大内氏は急速に衰退あるいは事実的に滅亡することとなる。
義隆の死後、大内氏を傀儡として実権を握るも、毛利元就などが反旗を翻し、ついに弘治元年(1555)安芸国宮島で晴賢は元就に敗れ、自害する(厳島の戦い)。
かくして、山口を本拠とした大内氏は滅び、毛利氏が西中国・北九州の覇者となる。

長門利生塔跡参考地
      長門厚狭洞玄寺

洞玄寺サイトでは洞玄寺に長門国利生塔跡があると記載する。
しかし、仔細に見ると、同時代史料の裏付けを欠くこと、塔跡とする遺構の考古学的知見が皆無であることなどから、洞玄寺に長門国利生塔があったと判断するには少々困難である。したがって「参考情報」として掲載をする。
洞玄寺のサイトでは以下のように云う。(大意)
 洞玄寺の歴史:洞玄寺は曹洞宗、宝珠山と号する。
長州藩「寺社由来」によれば、舒明天皇7年(635)物部守屋の三男で厚東氏の祖となった辰孤連(たつこのむらじ)が長門守に任ぜられ、この地に推古天皇の持尊仏(一光三尊阿弥陀仏)を祀り、「新善光寺」を創建したとする。
中世には箱田氏が菩提寺とし、長光寺となる。この長光寺には「足利尊氏の命により一国一基の大塔が長門国の利生塔として現在の石字経王塔の場所に建」てられる。
関ヶ原の戦後、毛利家は防府・長門に封じられたが、寛永2年(1625)毛利家一門で長州藩家老毛利元宣は6000石でこの地に封じられ、厚狭毛利家と称される。元宣は長光寺を菩提寺とし、父元康の法号(洞玄寺殿石心玄也大居士)に因んで洞玄寺と称する。
明治2年「長州藩を震駭した脱退騒動にあたり、時の住職実音が反乱軍に加担脱走したことにより洞玄寺は、形式上は廃寺となり、正福寺(大津郡より引寺)と名前を変えさせられた。その後、昭和44年、再び洞玄寺に復する。
 さらに「長門国利生塔跡」として次の説明がある。
当寺に残るのは「足利尊氏発願、日本国六十六基の中の一塔、長門国利生塔跡。尊氏は、国ごとに安国寺と利生塔(五重塔か三重塔)を、各国守護と関係が深い菩提寺などに建てた(興国6年/12345ごろ、当時は長光寺)。」
「文明12年(1480)には、有名な連歌師宗祇が、大内政弘の招きに応じて山口に下向し、更に豊浦・赤間関・若松を経て太宰府・博多方面を歴遊しているが、その時の紀行「筑紫道記」にも、「今宿とかいひて、左に塔婆のなかばみゆる寺有り」と、この塔の記述がある。」
◎以下の理由で洞玄寺サイトのいうように、この遺構を軽々に利生塔跡と判断することは困難である。
 ※当寺に利生塔が建てられたことを示す同時代史料の存在には言及がない。例えば、足利直義文書であるとか院宣の存在、また日誌などで、洞玄寺に利生塔が建立されたことを示す直接的史料の存在に言及がない。
 ※根拠とされる「筑紫道記」は確かに「塔婆」の存在は示唆するが、これが利生塔を示唆するものとは言えない。原資料は未見ではあるが、さらに言えば、「今宿とかいひて・・・」とは、少々不明な表現であり、ましてやこれが「洞玄寺」を指すことも不明ではなかろうか。
 ■連歌師宗祇:山口から大宰府への紀行文「筑紫道記」の文明12年9月8日(1480)の項に、利生塔に触れている。
  (「筑紫道記」:「群書類従」 第18輯 336巻 にあるはず?)
 ※写真を見ると、利生塔跡と称する場所には、石積基壇があり、その上に切石で厳重に積み上げた5段の基礎が載り、その基礎の上に「石字経王塔」(石造)がある。この「石字経王塔」は安永9年(1780)に建立されたものである。
即ちこの利生塔跡の考古学的な知見が皆無であり、この遺構が塔跡ましてや利生塔跡であるのかどうかは定かではない。
なお利生塔とは関係ないが、当寺は厚狭毛利家菩提寺であり、従って厚狭毛利家歴代墓所もあり、そこには、2代元康以後14代までの厚狭毛利家歴代42基の五輪塔、笠塔などある。
2022/11/26撮影:
長門国利生塔現地説明板
洞玄寺;
興国6年/康永4年(1345)頃、足利尊氏が国ごとに、各国守護と関係が深い菩提寺を選定し、安国寺と利生塔を建てる。
長門国ではそれは当時長光寺が該当した。この利生塔跡に石字経王石塔が建てられる。
石字経王石塔:
厚狭毛利家7代就盈(なりみつ)の奥方・芳菊院が、亡父・元連の7回忌の供養のため、安永9年(1780)建立する。
5段の方形石積基壇の上部に2層の石塔を載せ、横7m・縦8m・高さ5mの経塚である。
中央正面には「石字経王塔」の5字、方形基壇4段目の外側に618字の漢字文が刻まれ、5段基壇内部の空洞内には1石に1字の経文字を記した川原石が埋納される。
山門:
明和7年(1771)建立されるも、老朽化の為、取壊し、平成16年前の山門と極力同一の仕様で造替される。
 長門厚狭洞玄寺
 洞玄寺利生塔跡1    洞玄寺利生塔跡2    洞玄寺利生塔跡3    洞玄寺利生塔跡4    洞玄寺利生塔跡5
 洞玄寺山門     洞玄寺本堂     洞玄寺鐘楼     洞玄寺毘沙門天     洞玄寺納骨堂
 厚狭毛利家墓所1    厚狭毛利家墓所2    厚狭毛利家墓所3    厚狭毛利家墓所4

阿波切幡寺▽:得度山灌頂院、高野山真言宗

 → 住吉神宮寺・ 阿波切幡寺中の「阿波切幡寺」の項及び「阿波利生塔」の項を参照。
利生塔は文献から現在の切幡寺本堂などがある場所が利生塔のあった場所のようである。(今の寺はむかしの塔の跡なり。)
切幡寺では、明治初頭に利生塔の再建を図るため、摂津住吉神宮寺西塔を買い受け、境内北側の斜面を造成し、移建する。
○2015/06/15追加:「安国寺・利生塔の設立」 より
暦応5年(1342)※暦応5年は存在しない・・・真言僧宥範導師として同寺利生塔の落慶法要がおこなわれたことが知られる。

讃岐善通寺▽:五嶽山誕生院、真言宗善通寺派

常識的には、利生塔は観応3年(1352)宥範により再興された木造五重塔(現在の五重塔は明治17年再興塔)と解釈される(されてきた)が、この塔は利生塔とは別の系統の塔で、利生塔は現存する石造「足利尊氏利生塔」であると云う説が説得力を持つ。
○2015/06/15追加:「安国寺・利生塔の設立」 より
「続左丞抄」には、康永年中(1342-44)一国一基の利生塔の随一として当寺の塔婆供養が行われたことが知られる。
戦国期に焼亡したと伝える木造五重塔が当寺にはあり、これであろう。
なお、現在当寺には利生塔と呼ばれる五重石塔があるが、これは前記の五重塔の焼跡に建てられたものであろう。
 ※善通寺利生塔を木造五重塔とする見解には有力な批判がある。
 → 讃岐善通寺>讃岐国利生塔の項を参照。

土佐最御崎寺▽:室戸山明星院、真言宗豊山派

2010/12/22追加:「日本佛教史 第4巻」辻善之助、岩波書店、昭和35年 より
建武5年(1338)六十六基の一として料所を寄せられる。

 → 土佐室戸山最御崎寺:再興多宝塔あり

(筑後酒見廃淨土寺▽:福岡県大川市酒見):現在廃寺

2010/12/22追加:「日本佛教史 第4巻」辻善之助、岩波書店、昭和35年 より
建武5年(1338)六十六基の一基に選定される。
○2015/06/15追加:「安国寺・利生塔の設立」 より
歴応3年(1339)足利直義利生塔建立の為、料所を同寺に姫新、歴応34年仏舎利2粒を寄進。
貞和3年院宣の如く、当寺塔婆を利生塔と称すべく御教書を下す。


肥前寶珠山東妙寺▽:三田川町田手、真言律宗:神埼郡吉野ヶ里町田手1728

当寺には、創建時もしくは南北朝期の東妙寺の壮観を描く「東妙寺并妙法寺境内絵図(重文)」が伝来する。
そして、「東妙寺并妙法寺境内絵図」の東妙寺部分には五重塔が描かれる。

●「東妙寺并妙法寺境内絵図」東妙寺五重塔部分図1

左図は「東妙寺并妙法寺境内絵図」東妙寺五重塔部分図1である。

 東妙寺は弘安年中(1278-88)宇多天皇の勅願により西大寺唯円上人(西大寺叡尊の高弟)が下向して創建と伝え、東妙寺文書によれば 、蒙古掃壌を祈願し、14世紀初頭には同寺の造営が幕府の援助をうけ本格的に行われていたことが判明する。
(なお、律宗寺院の規模を示す絵図としては金沢称名寺結界図(重文、称名寺蔵)が知られる 。)

当寺の塔は、寺伝では足利氏により利生塔に指定されたと云う。
 確かに、当寺の塔が利生塔に指定されたことをはっきりと示す史料は判然とはしないが、南北朝期には当寺と後醍醐天皇、後村上天皇、懐良親王、足利尊氏、直義、義満、鎮西探題である少弐・今川・一色各氏と密接な関係があったことは 古文書で知られる。
さらに、上述のように、当寺には五重塔があり、この塔婆が足利氏により、全国66ヶ国の利生塔の一つとされた蓋然性は非常に高いと推測される。
 以上の推測が正しいとすれば、この絵図の五重塔は肥前の利生塔の姿を具体的に伝える貴重なものと言える。

 東妙寺并妙法寺境内絵図:縦89.2cm、横139.2cm、九紙を貼り継ぐ。
 東妙寺并妙法寺境内絵図・五重塔部分図2
 東妙寺并妙法寺境内絵図・東妙寺部分図

本絵図は以下のように解説される。
 本境内絵図は真言律宗西大寺末寺東妙寺(僧寺)と妙法寺(尼寺・現在は廃寺)の伽藍を描いた鎌倉時代後期と推定される絵図である。
上が北であり中央は田手川の流域で左岸(向かって右)は東妙寺の伽藍と寺域の在家、右岸は妙法寺の伽藍と門前の在家を描く。
現状は剥落が著しいが、
 東妙寺は、東西に走る大路に接して堀を廻らせ、伽藍の正面に瓦葺朱塗の二重門、中央に瓦葺朱塗の本堂、前庭左右に鐘楼、五重塔(後 に室町幕府より利生塔に指定される)、鎮守などを置く。妙法寺は、板葺の本堂を中心に伽藍を配し、上土塀にて門前の一般在家とを区切り、他は生垣と山をもって結界する。図中には堺を示す朱線や、「護摩堂」などの墨書注記がある。また、僧寺南側の寺域には同寺に付属した律宗集団に関わる建物を描いたと思われるものもある。

なお、東妙寺は木造聖観音立像(平安前期、重文、もと妙法寺本尊)、木造釈迦如来坐像(鎌倉、重文)の古仏を残す。

 ※「東妙寺并妙法寺境内絵図」:「日本荘園絵図聚影 五下 西日本二・補遺」東京大学史料編纂所/編纂、東京大学出版会、2001 より転載

○2015/06/15追加:「安国寺・利生塔の設立」 より
鍋島氏所蔵「東妙寺古文書」:暦応2年一国一基の塔婆を勅願として修造すべき旨の院宣が下される。
つまり、利生塔は当寺に設置されたことが知れる。
○2013/09/22撮影:
寳珠山東妙寺現況
戦国期には衰微し、近世には鍋島藩の庇護で命脈を保つも、明治維新の廃仏で全く衰退する。
昭和中期、真言律宗(大和西大寺)別格本山玉名蓮華院誕生寺の助力によって寺門再興すると云うから、現在の堂宇は蓮華院誕生寺によって再興されたものであろう。
現地の地上には利生塔などを偲ぶなにものもない。
 肥前東妙寺堂宇     肥前東妙寺本堂     肥前東妙寺鐘楼


肥後三日山如来寺:宇土市岩古曽町、曹洞宗

2013/09/18追加修正:
◆肥後利生塔:三日山如来寺
如来寺は、文永6年(1269)頃、現花園町三日の地に、曹洞宗寒巌義尹によって開山される。
寒巌義尹は博多聖福寺から、宇土郡古保里越前守の娘素妙尼の請願により肥後に住し、如来寺を開山すると云う。(「国郡一統志」)
暦応3年(1340)足利直義から仏舎利二粒を奉納され、住持智勝禅師に利生塔修理の院宣が下される。
貞和3年(1347)再び利生塔通号の院宣が下される。
貞和6年(1350)足利直冬によって如来寺利生塔領が安堵される。
永正元年(1504)如来寺は現在地である岩古曽町上古閑へ移転する。
その後漸次衰退し、現在本堂は退転したままで、本尊以下の諸像は、境内にある地区公民館内に安置される状態であると云う。
2015/08/02追加:
○「安国寺・利生塔再考」松尾剛次 より
近年、本尊釈迦如来像の解体修理があり、内部より銘文が発見される。
 如来院本尊 釈迦如来 正元2年(1260)庚申正月十日建立 同ニ月九日収之 開山住持比丘義尹 同開山尼修寧
以上は表面銘文であるが、裏面銘文もほぼ同一である。開山の時期・上人などが分かる。
さらに「国郡一統志」(寛文7年/1667)では前項で記述した暦応3年から貞和6年までの記述がある。
おそらくは、今は伝えられないが、当時は見ることのできた文章によって記載されたものと推定される。

参考資料:肥後安国寺は以下の様相を呈する。
2013/09/18追加修正:
参考:◆肥後足利氏安国寺:菊池郡泗水町豊水字久米
「覚兼日記」:天正14年(1586)2月14日条に「伊集院広済寺雪岑和尚、肥州合志之安国寺被給」とある。
「国郡一統志」:「久米安国寺者草創当寺院贈従一位行左大臣仁山義居士也」とあり、草創は足利尊氏(等持院殿仁山妙義大居士長寿寺殿)と云う。
「肥後国誌」には「安国寺護法山天台宗叡山正覚院末寺初号青原山寿勝寺開山東明慧日和尚」とあり、元応年中(1319〜1321)肥後に来往した慧日が合志郡久米庄に寿勝寺を開山、歴応2年(1339)足利尊氏・義直が寿勝安国寺として再興したという。
「肥後名勝略記」は「安国禅寺は青原山寿勝安国禅寺と云、この安国禅寺の寺跡未詳其所、一説に久米の安国寺を歴応の時一州一寺の安国禅寺に改めらるると云、この説には不審あり」とする。
現状は久米の地に安国寺釈迦堂と称する小堂(本尊釈迦如来坐像)が残るだけのようである。
なお、辻善之助「日本仏教史」では肥後安国寺は菊池郡泗水の寿勝寺とする。(「肥後国誌」、「肥後名勝略記」、「白雲東明語録」)

2013/09/18追加修正:
参考:◆肥後細川氏安国禅寺:熊本市横手
以下「歴史の足跡」の番外「泰平山安国寺」より抜粋。
熊本市横手に泰平山安国寺がある。寺暦は「加藤清正が建立した弘真寺が忠広時代に退転荒廃。細川氏の小倉時代に建立された安国寺の住僧梵徹が、細川氏とともに肥後に入国し、弘真寺に住居し祈祷所とし、安国寺と改称した」と云う。
 ※従って、本来の意味での肥後安国寺では無い。
  それ故、横手の安国寺に寺号は近世の細川氏の改号に起因するため、「肥後細川氏安国寺」と称すべきであろう。
 ※「安国寺風土記」(全国安国寺会編)では横手の安国寺を「肥後安国寺」として紹介し、
  後段で久米と宇土(宇土市花園佐野)の安国寺跡を取上げる。
  久米の安国寺跡には釈迦堂が残る。
  仁寿元年(852)天台宗円觀僧都により青原山壽勝寺が創建、室町初頭に東明慧日が再興し、安国寺に指定されると伝える。
  佐野にが天台宗佐野寺が存在していたが、壽勝寺として再興され、安国寺となると云う。
  現在薬師堂及び本尊薬師如来・十二神将が残ると云う。
「境内には数多くの石造物がある」が、そのうちの一つに「本堂裏の墓地に巨大な有角五輪塔の『蒲生秀行供養塔』(石造)がある」。
高さは3mを越すものと云う。
2013/09/21撮影:
上述のように、肥後利生塔とは無関係であり、かつ本来の肥後足利氏安国寺とも無関係である。
 肥後細川氏安国寺     肥後細川氏安国寺本堂
「肥後国誌」では「安国寺泰平山 高麗門外 ・・・寺領50石 清正公の時建立之青龍山弘真寺と号す、忠廣の時住持間断す、(細川忠利が安国寺の改称をなす)・・・」とする。
ただし、弘真寺を清正の建立とするのは誤りであり、本当は忠廣の建立であろう。
 加藤忠廣の正室は崇法院であるが、その崇法院は会津藩主蒲生秀行の息女(依姫、崇法院、母は徳川家康三女振姫)であり、慶長18年徳川秀忠養女となり、慶長19年忠広に嫁す。
 蒲生秀行は慶長17年逝去するが、そのときに、弘真寺が創建され、秀行の供養塔が建立されたものと推定される。
加藤清正は慶長16年逝去であり、これは秀行逝去の1年前のことで、清正が秀行(法号:弘真寺殿覚山浄雲)の法号を冠した弘真寺を創建し、しかも供養塔を建立するようなことはあり得ないからである。
 蒲生秀行供養塔は未見。以下転載する。
蒲生秀行供養塔1:ページ「戦国期の人々の墓(供養塔)その3」 より     蒲生秀行供養塔2:ページ「安国寺 蒲生秀行の供養塔」 より
 


日向廃寶滿寺▽:志布志市志布志町志布志) :現在廃寺

2010/12/22追加:「日本佛教史 第4巻」辻善之助、岩波書店、昭和35年 より
建武5年(1338)六十六基の一基に選定される。
2014/09/30追加:
○「中世叡尊教団の薩摩国・日向国・大隅国への展開」松尾剛次(「山形大学人文学部研究年報 第9号」2012.2 所収) より
 日向志布志宝満寺の項
宝満寺は「大宰管内志(下)」には、「志布志記略」を引用して、「ゥ縣郡志布志密教院宝満寺者花園院之勅願所也,鎌倉極楽寺ノ開山忍性菩薩之弟子信仙上人英基和尚,正和五年開此寺,為開山,此寺律宗而南都ノ西大寺京都ノ泉涌寺両山ノ末寺也,寺領三十一石五斗六升」31 とある。
そして、往時には、宝満寺内の支院として光明院、吉祥院、妙特院、観音院、弥勒院、小塔院の6院があり
また
暦応3年(1340)年には、足利直義によって舎利が奉納され利生塔寺院に設定される程で隆盛であった。
以後も、西大寺末寺であったが,明治の廃仏毀釈によって廃寺となったという。
 ※明治初頭の廃寺の後、明治19年大慈寺の説教所が跡地に建てられるが、この説教所も昭和7年に廃止となる。昭和11年地元の宝満寺の信者により宝満寺観音堂が再建され、現存する。その他遺物として庭園だった池と仁王像、歴代住職の墓などが残る。近年では室町期の様式の池泉式庭園が復元される。
 さて、日向利生塔関連文書として次が現存する。
「南北朝遺文 九州編二」瀬野精一郎編、東京堂出版,1981 の 1464 号文書 では
  奉安置日向国宝満寺塔□
     仏舎利二粒 一粒東寺
  右,於六十六州之寺社,□□国一基之塔婆,忝任申請,既為勅願,仍奉請東寺仏舎利,各奉納之,
  伏冀皇祚悠久,衆心悦怡,仏法紹隆,利益平等,□置之儀旨趣如件
    暦応三年正月一日 左兵衛督源朝臣直義(花押)
また「宝満寺文書」には次の2通がある。
  日向国島津庄内宝満寺塔婆事,為六十六基□随一,寄料所可令興隆也,可被存其旨之状如件
    暦応三年三月廿七日   左兵衛督源朝臣直義
    当寺長老
  日向国宝満□□□事,為勅願之□□修造之功,殊可□□天下泰平者,院宣如此,仍□□□□
    暦応三年四月八日    
    舜律上人御□
以上のように、本寺には利生塔が建立されたことが分かる。
利生塔仏舎利:
 宝満寺利生塔仏舎利:奉納された仏舎利は、現在田中家に伝わるという。

(大隅正国寺):霧島市隼人町内山田宇都山

2015/08/02追加:
○「中世叡尊教団の薩摩国・日向国・大隅国への展開」松尾剛次(「山形大学人文学部研究年報 第9号」2012.2 所収) より
現在は廃寺。大隅正八幡宮(現在は鹿児島神宮)神宮寺3ヶ寺(正高寺、正興寺、正国寺)の一つであった。大和西大寺末の律寺であった。
 ※詳細な論及は標記論文を参照。
薩摩泰平寺も日向寶満寺も有力な大和西大寺末の寺院であり、何れも利生塔寺院であった。とすれば、日向で同じような律宗の有力寺院である正国寺を利生塔寺院であった可能性が指摘できるであろう。

薩摩廃泰平寺▽:川内市大小路町

以下はサイト:「歴史の足跡」の医王山泰平寺より抜粋。
江戸期の「三国名勝圖會」からの絵が転載される。(上記URLを参照)
利生塔は石造五輪塔であり(残念ながらこの五輪塔は現存しないと云う)、
その銘文は
 「奉造立五輪塔一基
  (略)歴応三年二月時正、勧進、沙弥成道、大檀那善行
        (三国名勝図会から引用)」 というものであり
「利生塔=五輪塔は三国名勝図会の説明文の塔婆銘文から歴応3年(1340)に作成されたもので、足利尊氏の指令により作られたものである。利生塔は一般的には五重塔又は三重塔と考えられているが、薩摩の場合五輪塔が建てられたという貴重な証拠である。」
確かに利生塔とは木造の層塔であるというのは「思い込み」で石造の塔婆も有り得るということなのであろう。
○「日本仏教史」辻善之助では、薩摩利生塔は薩摩郡東水引村泰平寺とする。
2011/02/01追加:
利生塔とは木造の層塔だけではなく、石造の塔婆も有り得るということの証左として、説の段階ではあるが、讃岐利生塔の例がある。
即ち、讃岐国利生塔は木造(善通寺五重塔)ではなく、別途善通寺に現存する石造「足利尊氏利生塔」であるとも云う。
つまり、この石造塔説が真とすれば、石造五重塔が利生塔とされたと同じように、石造五輪塔が利生塔というのもあながち荒唐無稽な説ではないのであろう。
 ※ → 讃岐善通寺の讃岐国利生塔の項を参照。
2014/09/30追加:
○「中世叡尊教団の薩摩国・日向国・大隅国への展開」松尾剛次(「山形大学人文学部研究年報 第9号」2012.2 所収) より
 ※本論考では、泰平寺利生塔が石造五輪塔であるという説(「三国名勝図会」、「川内市史」など)に対して、五輪塔は律宗大和西大寺叡尊教団の造立したものであり、利生塔とは考え難いとする。
 薩摩泰平寺は川内にある。川内は古代薩摩の中心で国分寺・一宮が存在する。
「三国名勝図会」天保14年(1843)編集では泰平寺の略歴を以下のようにいう。
和銅元年(708)元明天皇の勅願で創建される。当時は4宗兼学であった、
中世足利直義によって利生塔が設定され所領の寄進を見る。その時は律宗であった。
利生塔は歴応3年(1340)建立され9尺5寸の五輪塔で境内東に現存する。
中世末真言僧宥海によって復興され、真言宗となる。
「三国名勝図会 巻13」では以下の利生塔に関しての史料が次のように引用される。
  1)舎利奉納文曰
     奉安置泰平寺塔婆  仏舎利二粒
    右於六十六州之寺社建一国一基之塔婆,恭任申請,為勅願,仍奉請東寺仏舎利各奉納之
      伏翼,皇祚悠久,衆心悦怡,仏法紹隆,利益平等,安置之儀,旨趣如件
         暦応二年(1339)八月十八日  左兵衛督源朝臣直義花押
  2)院宣曰
     薩摩国泰平寺塔婆事,為勅願之儀,遂修造之功,可奉祈天下泰平者,院宣如件,仍執達如件
       暦応二年十月十一日  按察使維顧
       行円上人御房
  3)院宣曰
     寺領興行事,任代々奉寄候,可有沙汰,甲乙人押領之所々以下,相尋在庁官人等,委可注進由,被仰下也,
  4)足利直義副書曰
     薩摩国泰平寺塔婆事,院宣如件,為六十六基之随一,寄料所,可造立,可被存其旨之状如件,
      暦応二年十月十四日 左兵衛督花押
      泰平寺長老
そして、「三国名勝図会」は、前述のように、泰平寺利生塔は五輪塔であったとする。
  薩摩泰平寺:三国名勝図会 巻13 より
しかし、泰平寺利生塔は本当に五輪塔であったのであろうか。
この五輪塔の銘は「三国名勝図会」では以下のように記載する。
  塔婆銘文曰
   奉造立五輪塔一基
  右志趣者、法界衆生殊一結講衆等菩提記也、仍所修如件、暦応三年二月時正、勧進、沙弥成道、
    大檀那善行
確かに、五輪塔は歴応3年、利生塔は歴応2年の造立で造立された時代は似ている。
しかし五輪塔は銘によれば、一結講衆の菩提のための建立とはっきり刻銘されている。
また、通常利生塔は三重塔や五重塔が充当されることを思えば、五輪塔を利生塔に当てたのは江戸後期の編集である「三国名勝図会」の誤認であろう。
特に泰平寺が律宗大和西大寺(叡尊教団)の有力末寺であったことや叡尊教団有力末寺には巨大五輪塔が建立されたことを思えば、この五輪塔は叡尊教団の五輪塔であったことは一層明白であろう。決して利生塔ではない のである。
 ※泰平寺は明治の廃仏稀釈などで今は衰微し、本堂一宇のほか若干の堂宇及び礎石などを残すのみで、この五輪塔も現存しない。現在廃寺。
2021/04/11撮影:
泰平寺の概要については、重複するが、以下のようである。
 創建は和銅元年(708)というも、その根拠(「三国名勝図会」なのであろうか)は不明、その後の興亡も不明、現在の寺の周辺に礎石などが残っているともいうが、具体的な情報がない。
 暦応2年(1339)足利直義により「利生塔」が泰平寺に建立される。利生塔の具体像については全く不明であるが、「三国名勝図会」の記事の内容に従えば、常識的には木造塔とすべきであろう。
 天正15年(1587)豊臣秀吉が九州征伐、島津氏を追いつめ、島津義久は降伏を決断、この泰平寺が島津氏の降伏の舞台となる。
江戸期には島津氏の庇護を受け伽藍を維持するも、寛政7年(1795)の火災で焼失、明治初頭の廃仏毀釈で全山破壊される。
大正12年現在の本堂は地元の有志の寄付によって再建されたものという。しかしこれも老朽が進む。
 薩摩泰平寺本堂1     薩摩泰平寺本堂2     薩摩泰平寺庫裡     薩摩泰平寺和睦石
 泰平寺歴代住持墓碑     泰平寺宥印法印墓碑:宥印法印は豊臣・島津両氏和睦の時の住持であった。


2010/10/19作成:2023/02/26更新:ホームページ日本の塔婆