巻之4:中野塔(中野宝仙寺三重塔跡・三重塔)

中野寶仙寺三重塔(中野塔)・中野成願寺三重塔など

江戸名所図會に見る中野塔(中野三重塔)

新訂 江戸名所図会(ちくま学芸文庫版)市古夏生・鈴木健一校訂から

中野塔・江戸名所図会:左図拡大図

巻之4:
中野の七塔:いまその所在をしるべからず。
ある人いふ、三所ばかりはしれてありとぞ。
俚諺に、中野長者昌蓮、仏に供養のため、高田より大窪(大久保)までの間に、百八員の塚を築くといひ伝ふ。
(・・中略・・)
ここに七塔といへるもその類のものならんか。
また中野の通りの右側、叢林のうちに三層の塔あり。
七塔の一ならんか。
伝へいふ、中野長者鈴木九郎正蓮が建つるところにして、昔は成願寺の境にありしを、後世いまの地に移すといへり。
いま大日如来を本尊とす。(昔の本尊は釈迦如来なり。後世、成願寺の本尊とす)。
中に長者鈴木氏夫婦の肖像と称するものを安ぜり。

明王山宝仙寺:・・・古義の真言宗・・・ 良弁僧都開基なりと云い伝ふ。・・・往古は大刹にして、此地より20町ばかり北の方、阿佐ヶ谷の地にありしを、足利の代に至り、今の地に遷すとなり。・・・

2007/06/27追加:
中野塔中に「長者鈴木氏夫婦の肖像」を安置とあるが、焼失前には寛永13年(1636)飯塚惣兵衛の施入した木造を安置と云う。
中野長者鈴木九郎の寂年は永享12年・1440(成願寺縁起)であるから、江戸名所圖會では中野長者鈴木氏建立の七塔と飯塚氏を混同しているあるいは著名な中野長者の伝説に無理に結び付けたものと推測される。
また塔の建築様式からこの塔の建立を寛永以前には溯らせることは出来ないことからも、この塔の建立を中野長者鈴木九郎正蓮とすることは無理であろう。


2017/01/16追加:
事情や由来は不明であるが、近代、中野塔(三重塔)は中野宝仙寺所蔵であったようで、中野塔は宝仙寺三重塔として、焼失までは取り扱われていたようである。
中野塔のあった付近も宝仙寺の境内であったともいう。

2008/06/27追加:
国会電子図書館より:江戸名勝図会
 ○江戸名勝圖會中野寶仙寺


宝仙寺焼失三重塔

2008/06/27追加:
「府下に於ける佛塔建築」東京府 , 昭和7年(1932) より

 武蔵宝仙寺三重塔;左図拡大図
   同   初重軒廻1
   同   初重軒廻2

基壇は設けない。正面に4級の木階を付設。各重の廻縁を設ける。
廻縁は切目縁で、組勾欄を廻す。
初重:縁高:3尺7寸(1.12m)、縁板厚1寸5分(4.5cm)、縁巾6尺6寸(2.0m)
初重一辺:14尺6寸4分(4.44m)、
  中央間5尺6寸(1.7m)、両脇間4尺5分(1.4m)
外部軒廻・組物とも弁柄塗、柱は欅材・他の部材は杉材を使用(寛永寺・浅草寺より粗末)、概ね和様の意匠で統一。組物は三手先、中備は各重各間とも間斗束を使用。
内陣天井は鏡天井、外陣天井は棹縁天井(候補か)で粗末である。
来迎壁は板張で、その表裏および他の内壁は胡粉を塗りその上に簡単は絵模様を描くも現在は殆ど剥落する。
屋根:
現在はスレート葺(大正元年修理取替)であるが、宝仙寺資料によれば、享保13年の修理で、檜皮葺を瓦葺に変更と云う。

武蔵宝仙寺三重塔立断面図:心柱 は初重天上の梁から建つ。
初重内部四天柱内に須弥壇がを設置。




飯塚惣兵衛夫妻像:木彫彩色
 飯塚惣兵衛像:高さ1尺2寸5分、肩幅8尺、頭部は後補。
 飯塚氏夫人像:高さ1尺2寸4分、肩幅8尺
現在は中野高等女学校に保存するも、銘文により塔内に安置されていたと知れる。

この像裏に以下の刻銘がある。
※宝仙寺塔に関する考証資料は乏しいが、この刻銘は貴重な中野塔の史料である。




 

飯塚惣兵衛像裏面刻銘

願主 塔院 開山
 法印権大僧都 賢海
  施入院塔場居士像
  俗名 飯塚惣兵衛
寛永十一年甲戌十月吉日
 開眼師 大僧都秀雄
 

飯塚氏夫人像裏面刻銘

願主 塔院 開山
 法印権大僧都 賢海
  施心院妙塔大姉影像
  飯塚惣兵衛内
寛永十三年丙子七月七日
 開眼供養導師
     法印大僧都秀雄上人
飯塚惣兵衛像裏面刻銘

飯塚氏夫人像裏面刻銘

以上により、この像は飯塚夫妻の像であり、各々寛永11年と寛永13年に開眼されたことが知られる。
飯塚夫妻は「塔院」の開山であり、その法名にもそのことを示す。塔場(塔婆)を寺に施入したことも疑いがない。またこの像は近年まで塔内に安置されていた。
但し、塔の建築については一言もなく、塔がいつ完成したかは分からない。(宝仙寺史によれば、塔の完成は寛永13年と云う)
なお
各々の像の台座裏にも享保10年(1725)の墨書があり、凡そ次の意味のことが記される。
 この肖像両躯は当所上宿飯塚甚兵衛5代の先祖である。東塔院境池を寄附した施主でありそれ故この肖像を塔中に納める。
飯塚氏は先祖の冥福及び子孫繁栄を祈願す。今また千光前畑7反7畝を当寺に寄進す。・・・・・・享保10年(1725)

○来迎壁裏の漆書銘
 ●来迎壁裏の漆書銘;以下の記がある。
「安永9子歳 7月8日入仏仕候 明王山36世」
 ※以上だけでは意味不明であるが、あるいは享保13年に次ぐ修理の銘の可能性も考えられる。

2006/02/03追加:
昭和9年12月30日撮影:寶仙寺(塔の山)三重塔

2006/02/03追加:
「日本建築史図録・桃山江戸」 より
 寶仙寺三重塔:左図拡大図

「解説」の要旨は以下のとおり 。
東京市中野区塔の山町・中野公園内にある。
塔の山といっても平地で、附近に墓のようなものがあったり、中野公園といいながら、少しばかりあたりは美しくない。
高さ53尺(16m)という。
寛永年間の建造に係るという。
上野東照宮五重塔は寛永寺管理になっているが、その五重塔が寛永8年の建造というから、東京では古さにおいて一、二を争う。


 

昭和20年中野塔(宝仙寺三重塔)は焼失。

三重塔は宝仙寺境内の東、今の区立第十中学校校庭あたりに建っていた。(旧地名を塔山という)
寛永年間、中野村飯塚惣兵衛夫妻の願により建立され、高さ約24m、檜皮葺きであったと伝える。
明治末頃には木立の中にあり、屋根は半ば落下し、廃塔の様相だったと伝える。
塔内には大日如来および飯塚夫妻木造が安置されていたと云う。
 ※次の写真は現地説明板の写真であると思われるが、上掲の「府下に於ける佛塔建築」の写真の転用であろう。

サイト「歴史の足跡」 (久保田氏)/「真言宗 明王山 宝仙寺」のページより転載
(2017/01/16:本ページはリンク切れのようである。)

なお標記のページに宝仙寺三重塔画
(成願寺蔵、大正4年、成願寺28世住職筆、彩色画)の掲載もある。


2005/04/29追加:
 武蔵宝仙寺三重塔:左図拡大図:大正期の撮影とされる。

 

2005/05/14追加:
 武蔵宝仙寺三重塔:昭和7年の写真とされる。
   中野区資料冊子に掲載されていたとされる。
   「昔の”塔の山”」より転載
   (2017/01/16:本ページはリンク切れのようである。)

2017/01/16追加:
s_mimaga蔵絵葉書

 中野三重塔(東京郊外中野附近名勝):左図拡大図
通信欄の罫線が2分の1であること、また「きかは便郵」とあることから、大正7年4月から昭和8年2月までの間の絵葉書であろう。
上に掲載の「武蔵宝仙寺三重塔」(大正期の撮影とされる)と同一の写真と思われる。 上の写真が大正期の撮影であるとしても、絵葉書の形式からの年代との矛盾を生じない。

 


焼失中野塔模型

「山崎記念 中野区立歴史民俗資料館」の常設展示に旧宝仙寺三重塔模型がある。

2006/05/14撮影:
材質は不明。工芸品として製作した訳ではないので、造作として一級品とは思われないが、ともかく復元模型があることは喜ばしい。
 (スケール 1/12)
  中野宝仙寺三重塔模型1    同        2    同        3    同        4    同        5


宝仙寺三重塔跡

現状、第十中学校の隅の一角に、フェンスに囲まれて、三重塔記念碑が建つ。
長四角柱の切石を四隅突出形に二段に積み、「三重塔記念碑」の石碑を建てる。
 (この記念碑の場所が塔の建立場所なのかどうかは未確認であるが、おそらく塔の建立場所と思われる。)
さらに、記念碑の前<西>に自然石の礎石らしき石が3個<小を入れれば4個>残る。
ただし塔礎石かどうかは確認はしていない。また記念碑の土台の長四角柱の切石も新しいものなのかどうか・・・・は確認していない。

※塔跡の配置図
 中野宝仙寺三重塔跡碑
   同        跡1
   同        跡2
   同       礎石1(礎石?2,3)
   同       礎石2(礎石?1)

なお左図の「礎石??」は「礎石?1、2、3」と比べて小さく礎石かどうかは疑問。

2006/05/14撮影:
 中野宝仙寺塔跡推定礎石1
   同            2


再建宝仙寺三重塔

 ●宝仙寺三重塔画像:「江戸歴史散歩」様ご提供画像:この画像は「江戸歴史散歩」の作者の方のご好意で直接 リンクをしている。

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平成4年(興教大師覚鑁850年遠忌記念)再興。
大和法起寺三重塔をモデルにした飛鳥様の塔婆と云う。
それゆえ新造塔婆であるが何もコメントすることはなし。
高さ約20m、木造建築。本尊胎蔵界大日如来五仏。

2003/3/28撮影画像
 中野宝仙寺三重塔1:左図拡大
   同        2
   同        3
 中野宝仙寺三重塔4
   同        6
   同        7
   同        8
   同      境内

 


2006/05//14撮影:
 中野宝仙寺三重塔1
   同        2
   同        3
   同        4

 

 

宝仙寺概要

寺伝によると、寛治年間源義家の創建という。本尊:不動明王。
山門(仁大門)、本堂、御影堂、大師堂、大書院などの同塔が再興される。
なお当寺は戦前から「宝仙学園」(幼稚園、小・中・高等学校、短大)の経営を行い、おそらくはかっての境内と思われる現伽藍の東一帯に校舎が展開される。
 


武蔵成願寺三重塔

2004/01/17追加:
サイト「歴史の足跡」 (久保田氏)/「真言宗 明王山 宝仙寺」のページが ある。
 ※このページで、中野塔の混乱・不明確な部分に言及、解明がなされる。

中野塔の混乱とは
江戸名所圖會によると中野塔の建立は「中野長者鈴木九郎正蓮」であると云い、一方、中野区教育委員会の説明では「中野村飯塚惣兵衛夫妻」が施主という。
(江戸名所圖會では中野塔に「鈴木氏夫婦の肖像と称せるものを安せり」とあり、中野区教育委員会 説明では飯塚惣兵衛夫妻の木造が安置されていたという。)
不明確な点とは
江戸名所圖會では、中野塔は「昔は成願寺の境にありしを、後世いまの地に移す」という記述があり、その意味が不明であることを云う。

久保田氏は「成願寺」を調査、以上の混乱・不明確な点に回答を示す。
詳しくは久保田氏のページを参照して頂くとして、概要はおおよそ以下のとおりであろうと解釈する。

1.曹洞宗成願寺は紀州熊野の神官鈴木九郎が、この地(中野)に移住し、開発により富を得(中野長者)、
  発心し(受戒名は正蓮)建立した寺院である。成願寺には九郎長者の墓が現存する。
2.鈴木九郎正蓮は成願寺に三重塔も建立したが、この塔はしばらくして失われ、再興されることはなかった。
  (成願寺本尊釈迦如来は成願寺塔本尊と云う。)
3.成願寺塔は再興されなかったが、「中野長者伝説」の影響などで、世人は「中野長者」の建立した「成願寺三重塔」と
  (その近くの)宝仙寺三重塔とを混同することがあった。江戸名所圖會の「説」はこの混同に基ずくものであろう。
   ※成願寺北方約2〜3丁に宝仙寺が立地する。
4.焼失した三重塔内の夫婦木像には飯塚夫妻の銘があったと云う。

「江戸名所圖會」成願寺三重塔

多宝山成願禅寺:「江戸名所圖會」
「鈴木九郎、本国紀州より妻と共にこの中野の地に移り住みたりし後、幸福を得てその家富み栄えたり。されども宿因にやありなん一人の娘にわかに死して蛇形(じゃぎょう)を顕せしが、相州関本の最勝寺に住む舂屋禅師(しょうやぜんじ)の法化により畜身を解脱して上天(しょうてん)した。これより九郎は菩提心を発し授戒して自ら「正蓮」と名を改める。また、居宅を壊して精舎を建て娘の法名「正観」をもってその寺号とする。後に成願寺と改める。諸堂、三層の塔を造立する。三層の塔は今中野の通り道より右にあり、当寺境内の「塔屋敷」と称する地はその旧跡で、当寺本尊の釈迦如来の像もその塔中の本尊といえる。」
 ※要するに、成願寺には鈴木九郎正蓮によって三重塔が建立される。この塔は後に退転するも、世人は附近の宝仙寺三重塔と鈴木九郎の三重塔を混同し、江戸名所圖會の「昔は成願寺の境にありしを、後世いまの地に移す」と云う説が流布したものと推測される。

武蔵成願寺二層塔

2006/05/14撮影:
龍鳳閣 と称する開山堂である。特にニ重塔あるいは塔婆としての意識は強くは無いと思われる。
建築的にはRC造の粗雑な部類で、造形的にも優れた建築とは云い難い印象である。
堂中央には開祖川庵宗鼎大和尚、左右には道元禅師・塋山禅師を祀ると云う。
 武蔵成願寺二層塔1    同        2    同        3    同        4
 中野長者(鈴木九郎)墓

パンフレット「中野長者の寺 多宝山成願寺」より:
永享10年(1438)鈴木九郎は小田原最乗寺に参拝、春屋宗能禅師の励ましで、十二社の敷地に御堂を建立する。
これが成願寺の始まりである。

三重塔跡などについては、
明治維新、関東大震災、昭和20年の空襲による全焼、都市開発などで、今となっては古の面影を探すことは困難となるという。

なお、角筈村熊野十二所権現(※角筈村は現在の西新宿で、戦後の急激な都市化により、全く面影はない。)は
応永年間、鈴木九郎が郷里の熊野十二所権現を勧請したものと伝える。
明治維新まで、成願寺は熊野十二所権現の別当であったと云う。
 


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