妙見大菩薩・妙見信仰

本ページの事例は仏塔や木造塔婆遺跡を廻る過程や、Webサイトの閲覧でたまたま偶然に眼にした事例が殆どである。
「妙見菩薩」は日本の津々浦々に数知れず安置・信仰され、従って到底その全貌を示すことはできない。
なお、妙見菩薩あるいは妙見信仰については色々な系譜・形態などがあり、その本質は未だ良く分からない。
さらに明治の神仏分離の処置で寺院は神社に、祭神も国家神道の神に改竄され、一層その本質が見え難くなっているのが現状である。

参考文献:
【A】「相馬地方の妙見信仰」(−千葉氏から相馬氏へ−)野馬追の里原町市立博物館企画展図録 第21集、千葉市立郷土博物館特別展図録、平成15年刊
【B】「千葉氏とその時代」(新世紀。市制施行80周年記念特別展)、千葉氏フォーラム実行委員会、平成13年
【C】「日本の美術 bR77」(妙見菩薩と星曼荼羅)林温・丸井啓司、至文堂、1977
以下の【A】、【B】、【C】は上記からの出典を示す。

陸奥湧谷妙見社 伊達家一門の湧谷伊達氏は千葉氏の流れを汲むと云う。
伊達宗元:元禄10年(1697)湧谷妙見社修理造営。(現存)
伊達村常:享和2年(1802)妙見社奥院を造営。
明治の神仏分離で神明社と改称したと思われる。
陸奥(磐城)
 相馬妙見

2012/09/15加筆・修正:
相馬三妙見とは、中村妙見山歓喜寺、小高金室山金性寺、大甕山尊星院医徳寺の三ヶ寺に祀られる妙見菩薩を云う。

現在の相馬太田神社、相馬小高神社、相馬中村神社と称する「明治官立国家神道神社」は、社地及び社殿の全てを、明治の神仏分離以前の妙見社から収奪し成立する。つまり、その実態は、寺院である妙見社を廃し、本尊妙見菩薩を毀釈し、祭神を天之御中主に 捏造する所謂「神仏分離の処置」で、 教義を国家神道に改め新しく国家によって明治初頭に創建された神社である。
 ※相馬三妙見を上記の三神社とする表記がある。これが明治の神仏分離以前の妙見社を意味するのであれば、それは「正しい」が、国策によって創建された現在の神社を意味するならば、それは「間違い」である。さらに明治維新前後の妙見社の歴史の経過を知りつつ 意図的に云うのであれば、それは「歴史の歪曲」と云わざるを得ない。


相馬太田妙見:南相馬市原町区中太田舘腰143
元亨3年(1323)千葉氏一族の相馬重胤が下総相馬郡より妙見菩薩を奉持し、行方郡太田に移転し館を構え、この地に千葉妙見を祀ったと伝える。
【A】別当は当初は長命寺であったが、のち歓喜寺が別当となる。(小高に移転の後と思われるが)新寺を建て星蔵院と名づけ別当とする。星蔵院は歓喜寺末寺。(江戸期には真言宗亀岡山妙見寺星蔵院が別当であった。)
別当星蔵院は太田神社東南の祈祷殿と改竄され、現存する。
 この地は、現在相馬太田神社と称し、天之御中主を祭神とする。
明治の神仏分離で太田妙見は相馬相馬太田神社と改竄され、妙見社は相馬太田神社と改号、妙見菩薩は尊星院に遷され、アメノミナカヌシへの祭神変更が行われる。

大甕山尊星院医徳寺:大甕村(南相馬市原町区大甕)
医徳寺は、岡田氏(相馬氏一族、岡田次郎胤次が下総から、大甕村に居舘、後には中村城の西・岡田舘に居舘、相馬藩の重鎮であった。)の祈願寺であり、妙見宮の別当であった。
「奥相志」:大亀山尊星院医徳寺、古来岡田氏在館の時、祈願寺たりといふ。寺田12石。
寛政13年(1791)田中山慈眼院観音寺(岡田氏の菩提寺)を合併。
明治維新の神仏分離の処置で、太田妙見本尊妙見菩薩が遷座する。
※この妙見菩薩は下総より遷座した可能性が高いと思われる。
妙見菩薩は相馬氏の移転とともに、その居所に遷座したとも伝えられるが、嘉暦元年の相馬氏小高移転に際し 妙見菩薩も遷そうとしたが、重くなっていて動かすこと能わず、小高には新規に妙見菩薩を勧請したと伝える。

赤木山長命寺:
元亨3年(,323)に相馬重胤と共に下総国から行方郡太田へ移転し、さらに行方郡小高に移転したと伝える。
要するに、妙見菩薩を下総より供奉してきた寺院(僧)が、長命寺と思われる。
慶長4年(1599)火沢(その後水沢と改める。相馬市)の東泉院跡に移る。
元禄8年(,695)相馬昌胤が涼ヶ岡八幡宮の大造営を行い、長命寺は宇多郡坪田村に移り、八幡宮別当として方生山長命院八幡寺 となる。(八幡寺号は京都三宝院より下賜)
明治五年宇多郡岩ノ子村竜泉寺跡に移り、元の赤木山長命寺と再び改号する。


相馬小高妙見:南相馬市小高区小高字古城
嘉暦元年(1326)相馬重胤は本拠を行方郡太田より小高に移す。
一般的には相馬氏移転とともに、妙見菩薩も遷されたと云われるが、小高への妙見菩薩遷座にあたって、妙見菩薩像が重くて遷すこと能わず、小高には新しく妙見菩薩を勧請したと伝える。
この地は、現在相馬小高神社と称し、天之御中主を祭神とする「明治創建の国家神道神社」となる。
 ※明治4年の神仏分離の処置で、小高妙見の祭神変更と改号が強行される。
本尊妙見菩薩は金性寺が奉持し、この地から移転する。

金室山金性寺:
明治維新前までは現在の小高神社参道を登りつめた所の右にあったと云う。
また北斗山浄光院もあったという。
明治の神仏分離の処置で、小高妙見社は小高神社と改号され、金性寺は妙見菩薩を奉じて行方郡金房村小屋木の天王寺跡に移転する。移転後、金性寺跡には、しばら く堂宇が残り、子弟教育の場などに使われるも、その後焼失したという。浄光院は金性寺の移転の折、廃寺となる。
その後まもなく、金性寺は小屋木から小高町関場に移り現在に至 る。
金性寺は片草山観音院如意輪寺を合併(時期不明)。
寛政13年(1801)の寺社整理で平地山光明寺千手院を合併。
明治3年(,870)12月福岡観音院行音寺を合併。
明治(年号不詳)延命山観音寺地蔵院を合併。


相馬中村妙見:相馬市中村
慶長16年(1611)相馬氏17代利胤、小高城より中村に移り、相馬6万石の居城となし、馬陵城(中村城)西側(妙見郭)に妙見菩薩を勧請する。
この妙見菩薩は小高から遷座したものと記録されていると云う。
寛永20年(1643)、現存する本殿・幤殿・拝殿(いずれも重文)が、相馬18代義胤により造営される。
 ※本殿は寛永20年(1643)の一間社流造(重文)である。拝殿幣殿本殿を結合した権現造に似た形式である。
明治5年神仏分離の処置で、中村妙見社は中村神社(明治28年には相馬中村神社)と改竄され、天之御中主を祭神とする国家神道の神社となる。
社務所は歓喜寺末寺「北斗山妙光院」を転用すると云う。
妙見菩薩は正別当歓喜寺が奉持し、歓喜寺本堂内宮殿に遷座する。
 ※中村妙見菩薩の像容は中国風の服装で、亀の上に立ち、切っ先を下にした劒を持つと云う。

妙見山歓喜寺:現在は豊山派。
   「妙見山歓喜寺」
相馬妙見別当であった。当時は岩迫山歓喜寺と号す。
はじめ太田妙見別当として太田村にあり、次に小高に移り、慶長年中に中村城下に移る。
明治3年神仏分離の処置により、歡喜寺は妙見社から分離され、本尊妙見菩薩は国家神道の祭神である天之御中主に変更される。
明治3年歡喜寺は「田中の観音堂」(田中山観音院・歓喜寺と同様相馬領真言3ケ寺の安養寺跡)という古刹に移され、観音堂は歓喜寺となり、後に山号を「妙見山」と改号する。
現在本堂、妙見堂、観音堂(奥相33観音巡礼の4番札所)などをはじめとする十数宇の堂宇を有する。

相馬氏:
文治5年(1189)源頼朝が奥州藤原泰衡追討の兵を起こし、千葉常胤はこれに参戦。
千葉常胤の次子、師常<将門12代目>は恩賞として、陸奥(磐城)行方郡(相馬地方)を受領。
これにより、師常は下総相馬郡と陸奥(磐城)行方郡とを領有する。
元亨3年(1323)相馬重胤(師常より6代後)は鎌倉幕府内の権力闘争で、下総守谷の居城を後に、陸奥(磐城)太田の地に移る。太田村別所(現太田妙見)の三浦左近国清の館の明け渡しを受け、捧持してきた妙見菩薩を館の内の仮宮に祀る。

上野
七星山息災寺
現在は天台宗三鈷山妙見寺と称する。
神亀6年(728)河内天白山妙見寺より妙見菩薩が上野国花園に勧請され、天台宗七星山息災寺と称したことに始まる。但し異伝もあるとされる。
「千葉伝考記」の「平良文の事」:承平元年(931)、常陸大掾国香と平良兼・良文・将門が争い、良兼・良文はたびたび国香の軍勢に敗退する。7月染谷川の戦いで は、息災寺妙見菩薩が良兼・良文を助けたと伝える。
良兼は妙見の尊体を求めるために、息災寺を訪れ、尊像を持ち去って、良文の館(武蔵平井<群馬県藤岡市西平井>)に祀ると云う。
その後、良文は妙見菩薩を平井から大宮神社(大宮郷妙見社)に遷座するという。(現秩父神社)
【A】:「源平闘諍記」では花園村の寺、「千葉妙見大縁起絵巻」「下総国千葉郷妙見寺大縁起絵巻」などでは七星山息災寺と云う。平良文・将門が国香と争った時、敗退した良文らを息災寺の妙見菩薩が助けたとされる。
2005/08/28撮影:
三鈷山妙見寺はその境内の西に妙見宮・東に本堂を並立して配し、明治の神仏分離以前の姿を今に伝える。
(但し、現在の配置が明治の神仏分離以前の形なのかは不明です。しかしながら息災寺という仏閣に妙見菩薩を祀り信仰した一つの形とはこのようなものかという雰囲気を色濃く残す。神仏分離の措置である神社と寺院との判然とは、いかに理不尽な処置であったかと実感でき る。)


上野七星山息災寺妙見宮
(三鈷山妙見寺妙見宮);下図拡大図


上野七星山息災寺本堂
(三鈷山妙見寺本堂);下図拡大図

下総妙見寺
(千葉妙見)
本尊妙見菩薩は承平元年(931)平良文(千葉氏遠祖)・平将門が平国香と染谷川で合戦したとき、上野花園村七星山息災寺妙見菩薩が出現し、勝利したと云う。以来。妙見菩薩は一族の守護本尊とされる。
長保2年(1000)年に千葉忠常(平忠常・良文の孫)次男・覚算大僧正が北斗山金剛授寺尊光院を創建・開山。但し、長元2年(1029)とも云われる。
大治元年(1126)千葉常重が上総大椎から猪鼻(現在地)に移り、妙見菩薩も遷座する。
康正元年(1455)猪鼻城落城、妙見宮焼失。妙見菩薩は尊光院客殿に遷座。
天文19年(1550)妙見宮再建。本尊は仮宮より遷座。
天正19年(1591)徳川家康が寺領200石を安堵。北斗山妙見寺と改号される。
明治の神仏分離で妙見寺は廃寺の措置となり、千葉神社とされる。祭神は天之御中主と変更される。
明治6年妙見堂を残し、焼失。
明治37年神主千葉良胤が焼死するも、右手には妙見菩薩の剣を握っていたとされる。
(妙見菩薩は神仏分離での祭神変更後も、密かに護持されていたと云われる。)
大正4年再建、昭20年空襲により焼失、昭和29年再建、平成2年重層本殿新築。

【C】「妙見信仰と武士団形成」(千葉氏の場合)丸山啓司
関東での妙見信仰は武士団の弓箭神(戦勝神)として、越後(平氏)城氏、下総千葉氏、武蔵秩父氏に見られるように、武士団の団結の象徴として信仰された。
千葉氏では忠常が千葉荘に妙見菩薩を勧請し、尊光院を創建した。尊光院には座主が置かれ、座主には総領家の子弟が入院し、分家六家にはそれぞれ子院を建立(六子院)を建立させ、各々分家の子弟を入院させた。この六子院は各地に勧請された妙見及び別当を統制する目的で建立された。
やがて千葉氏及びその武士団の再編の中で、新しく武士団として認知された六氏には、尊光院中に六坊を建立させ、総領家は十二院坊を通じて、宗教的に一族・家臣団を統制した。
尊光院大院家(座主・総領家)、第一院(直系)、第二院(相馬氏)、第三院(武石氏)、第四院(大須賀氏)、第五院(国分氏)、第六院(東氏)、第一坊(原氏)、第二坊(円城寺氏)、第三坊(粟飯原氏)、第四坊(椎名氏)、第五坊(鐸木氏)、第六坊(三谷氏)であったとされる。
 尊光院六子院;千葉妙見大縁起絵巻(栄福寺蔵)
覚実:北斗山金剛授寺の第11代座主(千葉胤直の甥)
範覺:1499?-1543.1.25佐倉城内で没、第12代座主(原越後守胤隆三男、千葉宗家ではなくて、原氏出身)

関東檀林 次にあげる関東檀林に鎮守として、妙見が祀られたことが記録上に残る。
下総飯高檀林(飯高寺・法輪寺)、上総小西檀林(正法寺)、下総中村檀林(日本寺)、身延山西谷檀林、池上南谷檀林
武蔵大宮妙見社
(秩父神社)
2012/09/15加筆・修正:
大宮妙見社(現秩父神社)については、実像の把握が困難であるが、以下にその断片を掲載。
秩父神社由緒(大意)は以下の通り。
 ※神社側の云う由緒であるので、基本的に国家神道に毒され、歴史が歪曲されていることは否めない。
崇神天皇代、八意思兼命を祖とする知知夫彦命(10世孫)が、知知夫国の初代国造に任命され大神(祖神)を祀ったことに始まるとされる。:「先代旧事紀−国造本紀−」(※定説では偽書であるとされる。)による。
允恭天皇代、知知夫彦命九世孫の知知夫狭手男が知知夫彦を合祀するという。
元慶2年(878)神階正四位下に昇叙。「延喜式・神名帳」に記載。
中世以降は関東武士団の源流、秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し長く「秩父妙見宮」として隆盛を極める。
永禄12年(1569)武田信玄の兵火で焼亡、後北条氏が再建に着手。
天正20年(1592)徳川家康が社殿(現存・権現造)を造営。
 ※本殿は天正20年(1592)徳川家康の寄進により天和2年(1682)の改修と云う。本殿は三間社流造であり、拝殿幣殿を結合した権現造に似た形式である。
明治の神仏分離の処置により秩父神社の旧社名に復す。
 ※中世には知知夫社の実態ほぼ無く、大宮妙見大菩薩が本尊であった。
 近世には妙見社と取り巻く社の一つである神宮司社(知知夫彦)が知知夫社の痕跡と云う評価もあったようである。
現在の祭神は凡そ、八意思兼命、知知夫彦命、天下春命(思兼命の子)、大己貴命、秩父大神と云う。
それに国家神道の象徴としての天之御中主、秩父宮雍仁親王が加わると云う。
伝承によれば
平良文は妙見菩薩を上野七星山息災寺から平井館に遷し、さらに平井から大宮神社(大宮郷妙見社)に遷すと云う。 上記と同意と思われるが、将門の乱のとき、秩父平氏の村岡良文が上野国花園村の妙見菩薩を勧請したと伝える。
あるいは、嘉禎元年(1235)、社殿に落雷、その再建時に、平将常(良文孫・秩父氏祖)が妙見菩薩を祀ったとも云う。< 「秩父妙見宮造営次第」正和2年(1313)>
 ※大宮妙見菩薩は中国風の服装で、亀の上に立ち、切っ先を下にした劒を持つ像容と云う。
武蔵
神王山妙見寺
稲城市百村。天台宗。神王山観王院と号す。
延宝5年(1677)、妙見宮別当修験東光院から、観音院に名跡を変更。(「妙見寺記録」)
宝永年中(1704〜11)観音院から寺号に改め、妙見寺と号す。(「寺院明細帳」)
本尊は阿弥陀如来坐像。妙見山頂の妙見尊を同寺が別当として管理。
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※「武州多東郡妙見寺縁起」天正19年(1591)によると
妙見寺は「大炊天皇(淳仁天皇)の御願により道忠禅師が本尊に定光仏、脇士に星王同体の妙見大菩薩を安置した」ことに始まるという。
天長3年(826)焼失、武蔵国守藤原信高が勅願により新寺を建立する。
鳥羽院の御宇、大破、武蔵国守高階敏信が修復、四至を定めるという。
治承6年(1182)炎上、本尊は猛火の中を飛び移り難を逃れる。
以上の霊験を知り、源頼朝は伽藍の造営を命じ、平家討伐の成果は妙見大菩薩崇拝によると云う。
※「妙見寺記録」によれば、妙見宮は天平宝字4年(760)の創建で、当麻真人村継が妙見寺に安置したものという。その後稲毛三郎重成が領主のとき、国が乱れて以来修復もなかったが、滝山城主北条氏直が諸堂を修復したという。江戸初期、妙見宮は修験東光院の管理にあったが、子息民部の代に観音院に譲ったという。
※東光院は権大僧都源春(寛文元年二月寂)と称し、「当寺退転之節山伏二相成」(妙見寺過去帳)と云う。
江戸初頭、妙見寺は退転し、修験(山伏)となった源春は妙見宮のみは守り抜いてきたものと解釈される。
延宝5年(1577)、子息民部は観音院に譲り渡すという。
※寺院明細帳(明治初頭)
「当寺開基年月不詳 宝永年中晃傳代 観音院を寺格に引直し妙見寺と号す・・・」「妙見寺には五間四面の妙見堂」があり、「本尊妙見 天平宝字4年(760)・・当山に安置・・・」云々
 なお、ここには、「蛇より」という行事が伝わるという。毎年8月7日、北斗七星にちなんで百村旧村民から七人を選抜し、萱場から萱を刈り出し、村民が集まって50〜100mの大蛇の形に捩 り、妙見宮の階段にそって置き、その頭は山下の二十三夜塔の前に、尾は山上の社殿を巻くように置く。その後、妙見宮別当妙見寺僧侶の読経が行われ、完成した大蛇の開眼供養をするという。ここでは月待講(二十三夜講)と妙見信仰が習合する形態が伝承されているという。
池上本門寺
 南谷檀林妙見
2009/10/23追加:
◇妙見堂:寛文4年(1664)瑶林院(加藤清正娘・徳川頼宣室)が建立、慶応2年の再建。南谷檀林妙見堂。
 妙見菩薩立像は寛文4年銘があり、南谷檀琳開設の時その守護として移管されたと云う。
  池上妙見堂     瑶林院妙見菩薩立像
  △池上妙見坂     △池上妙見堂1     △池上妙見堂2:△は2011/02/19撮影
(参考)
 照栄院:朗慶山、本門寺3院家の一院。「南谷檀林立善講寺」あるいは「向林庵」と称す。日朗上人開基。
 南谷檀林:元禄元年(1688)本門寺第22世日玄上人開創、明治維新で廃檀。
  現在の池上小学校、池上会館、照栄院の一帯が南谷檀林であった。
  講堂、方丈玄頭寮、板頭寮、首座寮、所化寮、玄文両談合場、食堂、総門、妙見堂などを具備。
  板頭寮(天保7年<1836>再建)のみ照栄院書院として残存する。妙見堂も坂上に現存する。
  池上照栄院     池上照栄院本堂
信濃
武石山妙見寺
鎌倉期、武石村に千葉一族の武石氏の居館があったという伝承があり、その館跡にあるという。
千葉一族の居所には妙見菩薩を勧請するという例証の一つであろう。
千葉胤盛(常胤三男)は千葉郡武石郷の所領を分与され、また陸奥国伊具・亘理・宇多郡など地頭職となる。おそらく信濃のこの地にも、武石氏の支配下にあったものと考えられる のであろう。
信濃武石村子壇嶺神社に石碑(おそらく供養塔)が残され、その正面には「武石平胤盛」の文字と月星紋(千葉氏一族紋章)が刻まれているという。
近江日蓮宗諸寺 大津長等本要寺
大津札の辻本長寺
大津逢坂妙光寺   → 以上いずれも近江の日蓮宗諸寺
近江園城寺
(三井寺)
【A】:妙見菩薩の伝来当初は帰化人の多く住む畿内で信仰される。
仁寿3年(853)円珍(智証大師)入唐、帰国の際、尊星王(妙見)像1躯を持ち帰り、中院に安置したとされる。
寺門派では妙見菩薩を尊星王と尊称し、「尊星王法」を確立させた。尊星王は北辰(北極星)を神格化したものという。
一方真言宗では北斗信仰を受け継ぎ、北斗七星を妙見菩薩とする。
近江園城寺の中院の項を参照。
  中世の園城寺中院伽藍  近江園城寺中院2(・・・少々画像容量大)
 大門を過ぎ、次の楼門を入ってすぐ左(南)に中院五重塔、普賢堂、五大堂、右に講堂、尊星王堂がある。
※尊星王堂は現在退転(その歴史は不詳)し、妙見像のその後も不詳。但し、園城寺法明院にて、尊星王星祭(2月節分)に修法されるという。この本尊は尊星王像(画像・重文・鎌倉期・絹本著色)と云う。また園城寺金堂には尊星王像(仏像・一見して江戸期か?)が安置される。しかし何れもその由緒については現段階では不明。
伊勢妙見 伊勢妙見は伊勢外宮渡会氏の外護を得て維持されると伝える。
しかし明治の廃仏毀釈で廃絶する。その後、妙見堂は諏訪の森に移建される。妙見菩薩像(重文)は東京よみうりランドの妙見堂に安置。
 → 「播磨無量寿院(よみうりランド)多宝塔」の「妙見菩薩」の項を参照。
山城北山霊厳寺 北山霊厳寺は既に廃寺、多くの文献にその名が見えるが、今はその跡も明確でないと云われる。
 → 「星田妙見」のページの「北山霊巖寺」の項
また直下の「山城鷹峯岩戸妙見」を参照
山城鷹峯岩戸妙見(鷹峯円成寺) 鷹峯に岩戸妙見宮と称する日蓮宗清雲山円成寺がある。ここに「鷹峯岩戸妙見」が祀られる。
上記の北山妙見が中世には廃れるも、近世初期に北山妙見が復興されると云う。即ち、寛永7年(1630)京都本満寺日松任上人が一條家の援助を得て「北山妙見 」を再興する。現円成寺はこの再興「北山妙見」と云う。
鷹峯岩戸妙見大菩薩は円成寺境内の古墳状の石窟の中に祀られ、その姿は大亀の上に乗り、宝剣・蛇を握り、頭上に北斗七星を戴くものであると云う。
 山城岩戸妙見1   山城岩戸妙見2   山城岩戸妙見3   山城岩戸妙見4
円成寺には岩戸妙見のほか、円成寺本堂、地主神常富殿、巖戸の瀧行場、庫裏、参集所などが広い境内に配置される。
現在、昭和61年再興洛陽十二支妙見の一である。
秋山自雲霊神が祀られるというも未見。
山城大塚妙見寺 山科大塚妙見寺。平安遷都に際し、都の四方を守護する意味で、東西南北に妙見尊が安置されたとされる。北は霊巌寺、東は山科大塚妙見寺とされる。
 → 「星田妙見」のページの【霊符縁起】の項
洛陽十二支妙見 近世、御所紫宸殿を中心に十二支の方角に祀られた妙見菩薩をお参りする洛陽十二支妙見があったと云う。
江戸中期の開設と云うも、明治の神仏分離で多くが失われたと思われる。
昭和61年洛陽十二支妙見が再興され、現代版洛陽十二支妙見として以下に定められる。
霊鑑寺を除き、全て日蓮宗である。

寺院名

善行院 大本山妙顕寺寺中:2004/10/11撮影:
 善行院妙見     善行院題目碑     善行院扁額      大本山妙顕寺妙見
本満寺 本山本満寺
 本満寺妙見社
道入寺 修学院茶屋ノ前町
霊鑑寺 鹿ヶ谷
満願寺 岡崎、示現山と号する。
満願寺縁起では、天慶3年(940)右京七条二坊十三町に住していた巫女であり菅公の乳母とも云う多治比文子は菅公の霊告を受け、邸内に祠を祭祀するという。その後天暦元年(947)北野朝日寺最珍を開基として、西ノ京に一宇を建立し、菅公自作の天満大自在天像を安置したのが北野天神の始まりという。
満願寺の創建は良く分からないが、北野天神成立の後、北野天神七保の一つである五ノ保社として創建され、近世前期まで機能する。 → 北野天神
満願寺の山号の「示現山」は「菅公の霊の示現」の意という。
元禄10年(1697)住持宗遍は妙傳寺遠沾院日享に帰依し、日蓮宗に改宗。
元禄15年(1702)現在地へ移転、現存する本堂、表門、文子天神拝殿・本殿、鐘楼、手水舎は移転時に建立のものという。
明治3年の「寺院本末一覧」では「無本寺-満願寺/塔中:境妙院、清順院(退転)、圓通院(退転)」とある。明治5年身延末となる。
満願寺現況:2014/05/01撮影:
本堂:三間四面堂(桁行5間・梁間3間)であるが、背面に内陣部を突き出し、さらにその後方に土蔵造の奥陣を付設する。
本堂には法華首題牌と釈迦・多宝両如来像及び妙見菩薩を祀り、さらには堀之内妙法寺分身(「新撰京都名所圖繪」では本妙寺というも妙法寺であろう)の日蓮像を安置する。(本堂奥陣に安置か?)
なお境内・鐘楼前付近に岡崎法勝寺(平安末期俊寛僧都が法勝寺執行であった)の井戸と伝える閼伽井があるというも未見。満願寺はまさに法勝寺の跡地の一部なのである。
また、この地は日蓮上人が吉田の神道伝授のとき寄宿した場所と伝えられるも、不案内にして詳細は不明。
 満願寺表門     満願寺題目碑
 満願寺本堂1     満願寺本堂2     満願寺本堂3     満願寺本堂4
 満願寺文子天神1   満願寺文子天神2   満願寺手水舎
 満願寺鐘楼1      満願寺鐘楼2      満願寺書院・玄関     満願寺庫裡
洛陽十二支妙見:
満願寺妙見菩薩像は、もともと法勝寺旧跡にあった本光寺に祀られていたが、安永3年(1774)大火により本光寺は類焼、そのため満願寺に移された尊像であるという。 またこの像は約1尺の小像で、亀に乗り、右手に剣、左手に蛇を持つという。
日體寺 東山清水、常照山と号する。
当初は浄土宗観音寺であったが、常照院日體上人の折伏により享保6年(1721)日蓮宗に改宗、日體上人を開山とする。
あるいは享保13年(1732)日忍が創建し師の日體を開基にするとも云う。六条本圀寺末。
(「京都府地誌」)
2012/03/22撮影:
 日體寺山門日體寺全容日體寺本堂日體寺庫裏か
当日は閉門、境内の様子が不明。但し妙見大菩薩は本堂に安置と云う。
2013/07/09修正:
○ページ「日體寺 (東山区」では、
「鳥辺山 妙見堂(日體寺) 本尊・妙見大菩薩 日蓮宗。
当初は浄土宗観音寺と称するも,常照院日體上人により享保6年(1721)に日蓮宗に改宗。 ・・・・初めは祇園石段下の妙見宮に祀られていたが 地所取り払いになり末吉町の老妓藤井四十吉が自宅で祀るようになる。死後この日体寺墓地に葬られると妙見さんもここに移る。」とある。
日體寺(清水の鎮宅妙見宮)妙見大菩薩の由来はおよそ、以上のようなものと思われる。
本教寺 伏見東大手:大手筋商店街の雑踏の中にある。
福昌山、本法寺派。(山城本法寺末)
文禄3年(1594)本法寺久遠成院日親上人法孫日受上人により創建。
良正院督姫(徳川家康二女・池田輝政室)の帰依を受け、西浜町から現在地に移転。妙見堂は、元禄年中(1688〜1703)の建築といわれ、本尊妙見菩薩は池田輝政及び督姫により、池田家伏見上屋敷から遷座したものと伝えられる。
2009/01/30撮影:伏見本教寺妙見堂
2013/01/13撮影:伏見本教寺妙見堂2
  本教寺山門1     本教寺山門2     本教寺鐘楼     本教寺本堂
 秋山自雲霊神が祀られるというも未見。
  秋山自雲霊神:鐘楼写真中にたまたま写っていたものを掲載。但し灌木が被る。
2016/03/07撮影:
 伏見本教寺山門3     伏見本教寺本堂2     伏見本教寺妙見堂3
 本教寺妙見宮石灯篭:おそらく境内が狭められた結果、狭い場所に押し込められた状態にあるが、古はどのような配置であったのであろうか。
 本教寺秋山自雲祠     本教寺秋山自雲墓碑
法華寺 下京区西新屋敷中之町108
成就山と号する。本寺は不明。(六条本圀寺との関係が散見されるので、本寺は六条本圀寺か。)
京洛では貴重な日蓮上人(蓮長)ゆかりの寺である。
平安初期・弘仁4年(813)あるいは弘仁14年(823)教王護国寺北門附近に建立された法華堂が前身という。
建長3年(1251)あるいは宝治年中(1247-1248)日蓮上人は東寺に遊学し、法華堂道場に止宿し、法華堂別当・真広法印に教えを乞い、東密を修めるという。
弘安4年(1281)もしくはその翌年弘安5年、真広は身延山に日蓮上人を訪ね、日蓮上人の弟子になり、本尊(若宮本尊あるいは竹筒本尊)を授かる。
 ※日蓮上人より授かった本尊(若宮本尊あるいは竹筒本尊)は今六条本圀寺が所蔵という。
その後帰洛し、住坊を法華道場とし、日蓮上人を開山とし、自らは2世となる。これが、現在の法華寺の開山である。
法華堂は日像上人の「三黜三赦の法難」(徳治2年/1307、延慶元年/1308、元亨元年/1321)では、おそらく破却されると推測される。
さらに、法華堂は天文5年(1536)の「天文法華の乱」(天文の法難)により焼亡する。
昭和38年(1963)東海道新幹線敷設工事に伴い、ついに、東寺北門北より現在地に移転する。
2017/04/29撮影:
 島原法華寺入口     島原法華寺本堂     島原法華寺庫裡
 島原法華寺妙見堂:妙見大菩薩は能勢型と思われる。      妙見堂扁額:法華堂とある
 硯水の井戸1     硯水の井戸2:日蓮上人手掘の井という。移設。
 硯水の井戸傍題目碑:日蓮大菩薩      本堂前題目碑:日蓮宗教会所、大光山51世日雄と刻む。
 大乗妙典一石一字謹書供■塔:一石は一后であるかもしれない。
参考:附近には島原の大門がある。
 島原大門:慶応3年(1867)建立
慈雲寺 ○十二支妙見会ルーフレット:真田庵と九度三の旅 より
松屋町五条下ル藪之内:島原の妙見さんとして知られる。
寛正5年(1464)六条本圀寺第10世日圓上人、台密両宗の中堂寺を改宗し法喜山吉祥寺としたのが草創である。
天文法難の後、第5世吉祥院日喜上人が堂宇を再興し、慈雲寺と改号する。
妙見大菩薩は村雲瑞龍寺の祈祷所として知られていた。
2017/03/12撮影:
○「角川日本地名大辞典 京都府」1982 より
法喜山と号する。六条本圀寺末。
寛正5年(1464)成就院日圓上人の開基で、本圀寺寺中にあった。
初め吉祥寺と称し、天文5年の法難で焼亡、江戸期吉祥院日喜上人が再興、慈雲寺と改号する。
島原の妙見さんとして知られる。
 慈雲寺門前     慈雲寺山門     慈雲寺本堂・玄関     慈雲寺本堂
 曼荼羅本尊・本堂扁額     慈雲寺玄関・庫裡
 慈雲寺妙見堂     慈雲寺妙見大菩薩:能勢型妙見である。
 慈雲寺歴代墓碑     慈雲寺歴代墓誌
常寂光寺 嵯峨小倉:本堂横に妙見宮がある。 →山城嵯峨常寂光寺
2013/01/13追加:
享和年中 (1801-03)22世日報上人代、境内に妙見菩薩が遷される。本妙見菩薩は元々慶長年中の保津川洪水のとき、上流から流れ着いたと伝え、船頭が拾い上げ、祀っていたものと云う。以降、江戸後期から昭和初期まで、「酉の妙見菩薩」・「小倉の妙見」として広く信仰を集めると伝える。
なお、妙見堂内には鬼子母神、十羅刹女、大黒天も祀ると云う。
 常寂光寺妙見大菩薩1     常寂光寺妙見大菩薩2     常寂光寺妙見大菩薩3
三宝寺 鳴滝:ある種の流行仏と思われる。
円成寺 鷹峰北鷹峰:岩戸妙見宮(上掲)
山城本満寺  本満寺妙見社     ▽本満寺妙見大菩薩2     ▽本満寺妙見大菩薩3
  → 山城本満寺
山城本法寺 摩利支天堂(写真摩利支天堂拝殿)の向かって右に北辰殿と称する小宇があり、ここに妙見大菩薩、鬼子母神、七面大天女、大黒天の4体が祀られる。 鬼子母神については、昭和時代(戦後)には仁王門横に鬼子母神堂があり、現在この堂が退転しているならば(未確認)、この鬼子母神はかっての鬼子母神堂に祀られていた像とも思われる。
 摩利支天堂     本法寺北辰殿      同 妙見菩薩1      同 妙見菩薩2      同 妙見菩薩3
 → 山城本法寺
山城頂妙寺 頂妙寺境内に妙見堂がある。 聞法山頂妙寺頂妙寺妙見大菩薩頂妙寺妙見堂
 → 山城頂妙寺
山城通妙寺別所
鳥辺山妙見大菩薩
妙見菩薩境内は通妙寺の東、本寿寺(本法寺菩提寺・日親上人廟)を隔てて、在る。
妙見堂・絵馬堂(舞台造)・堂名不詳の堂・十三重石塔(南北朝期)・秋山自雲墓(下掲)などを有する。
2009/11/05撮影:妙見大菩薩石碑     鳥辺野妙見堂     妙見堂絵馬堂     堂名不詳の堂
2015/03/15撮影:妙見大菩薩碑2     妙見宮扁額/門:左は庫裏      妙見大菩薩扁額/妙見堂
 鳥辺山妙見堂     鳥辺山妙見絵馬堂     鳥辺山妙見堂宇:堂名不詳、右は庫裡
2009/11/05撮影:通妙寺門前石碑      通妙寺堂宇
2013/04/09撮影:鳥辺野通妙寺遠望;庫裏、山門、本堂が写る。
2012/04/19追加:通妙寺塀/山門/庫裡     通妙寺山門     通妙寺本堂
秋山自雲神霊:
2009/11/05撮影:秋山自雲神霊
○「新撰京都名所圖會」昭和33年 では「日蓮宗通妙寺の別所」「鳥辺山の妙見」と云う。
○「路 東山と東大路通」昭和48年 では「日蓮宗鳥辺山智積院 本尊妙見大菩薩」とある。
2013/07/09追加:
◇サイト:「京都風光」のページ「通妙寺」では以下のように述べる。
創建や寺歴は不明。通妙寺山内に鳥辺山帝釈天王を祀る。これは明暦年中(1655-57)柴又帝釈天王を勧請と云う。
享保6年(1721)鳥辺山妙見大菩薩妙見堂は通妙寺の別所になるとも云う。(※これの典拠は不明)
2015/01/18追加:
○「東山名勝圖會」(「再撰花洛名勝圖會 東山之部」)木村明啓・川喜多真彦/著、松川安信ほか/画、元治元年(1864)より
巻7;東山名勝圖會妙見堂
記事;
通妙寺:法華宗妙傳寺に属す。開基は日惣上人、寛永年中の草創なり。
 妙見宮:通妙寺東にあり、・・通妙寺の別所なり、近年追々修造なるも舞台絵馬舎茶所休息所を備え・・・
  ※ここでは通妙寺の別所という。
山城北野法華寺 妙見堂があり、妙見大菩薩を祀る。 →北野法華寺(山城の日蓮宗諸寺中)
山城上京本瑞寺 妙見堂があり、妙見大菩薩を祀る。 →山城の日蓮宗諸寺中にあり。
山城上京燈明寺 妙見堂があり、妙見大菩薩を祀る。 →山城の日蓮宗諸寺中にあり。
山城西陣妙徳寺 妙見堂がある。 →山城の日蓮宗諸寺中にあり。
山城深草宝塔寺 深草宝塔寺七面山上、七面堂横に妙見菩薩(宝塔寺妙見社)を祀る。
 → 深草宝塔寺
山城大住法華寺 本堂脇陣に能勢型妙見菩薩を祀る。由緒は未調査。 → 大住法華寺
山城大原野灰方日正寺 「妙見さん」と通称される。山下の題目碑には「妙見道」と刻む。しかし、本寺の妙見については情報が皆無であり、不詳。
 →山城の日蓮宗諸寺中にあり。
山城八幡本妙寺 妙見宮があるも、由来は未調査。
 山城八幡本妙寺
京都檀林 次にあげる京都檀林に鎮守として、妙見が祀られたことが記録上に残る。
京都松ヶ崎檀林(本涌寺)、六条本圀寺求法院檀林(六条檀林)、京都東山檀林(妙恵山善正寺)、京都鷹峯檀林(常照寺)、山科檀林(竹ヶ鼻護国寺)
鶏冠井檀林には現在、妙見堂があるが、近年の建立と思われる。
2014/11/12追加:
六条本圀寺求法院檀林の妙見は現在、信正山本栖寺に遷座、現存すると推定される。
大和法輪寺 平安後期の妙見菩薩像を伝える。
【A】:現存する日本最古の妙見菩薩立像を伝える。秘仏。11世紀頃の作とされ、檜一本造・四臂を持つ。像容は「別尊雑記」「図像抄」にほぼ一致するという。
 大和法輪寺
攝津能勢妙見 日蓮宗系の妙見菩薩の例である。
2013/02/03追加修正:
妙見山上にあり、眞如寺の飛び地境内といい、「無漏山眞如寺境外仏堂能勢妙見山」と称する。
慶長5年(1600)関が原の戦で、家康与力である能勢頼次は東軍に組し、その戦功で、旧地を安堵され、旧知を回復する。
頼次は、この能勢氏再興を契機に、身延日乾上人に帰依し、寺地を寄進し、真如寺が創建される。
慶長8年(1603)日乾上人は能勢氏の家鎮である「鎮宅霊符神」を法華経の守護神「妙見大菩薩」とし、武運長久の意味で武具甲冑を纏い剣を持つ妙見大菩薩像を刻み、為楽山の山頂に祀り、ここに能勢妙見山が始まると云う。
その後、能勢頼次は備前松田氏、戸川氏などのように能勢一帯を日蓮宗に強制改宗し、能勢法華が成立する。
明和3年(1766)15世日通は京都に出開帳を行い、能勢妙見信仰の広まりの鏑矢とする。さらに女人禁制を解く。
安永3年(1774)能勢頼直は幕府から江戸本所に邸宅を賜り、ここに能勢妙見東京別院を開創する。
明和9年(1772)初めて大阪に講社ができ、年を追って各地に講社ができ、一般項社の参詣で妙見山は空前の賑わいを見せるようになる。
 →攝津能勢法華・日蓮宗諸寺
【A】:能勢妙見は行基開基と云う為楽山大空寺跡に立地する。日乾は道教の鎮宅霊符神を妙見菩薩とし、像容は日乾が工夫したものと云う。
2005/12/28撮影:
 能勢妙見山北参道入口:亀岡曽我部町法貴、摂丹街道分岐点、能勢妙見より北東約10km の地点の碑。
2012/10/30撮影:
 能勢妙見山下鳥居:新滝道鳥居
 能勢妙見山下石碑:新滝道鳥居脇石碑、年紀は不鮮明であるが明治期と思われる。
 能勢妙見新滝道丁石:新滝道には数個の丁石が確認できる。
 能勢妙見山門:万延2年(1861)丸栄講社の寄進      能勢妙見山頂店舗
妙見堂(妙見本殿)は慶長10年(1605)能勢頼次によって草創、寛文年中に能勢頼宗が再営、明治28年再建。正面3間側面2間の外陣の後に間口2間奥行3間の内陣からなる平面形式である。
 能勢妙見本殿1     能勢妙見本殿2     能勢妙見本殿3     能勢妙見本殿4
 能勢妙見本殿5     能勢妙見本殿6     能勢妙見祖師堂     能勢妙見寺務所
能勢妙見成形層塔
 能勢妙見銅製五重塔1     能勢妙見銅製五重塔2
摂津の諸寺 摂津山手法照寺、摂津高槻大手町本行寺、摂津古曽部乾性寺に妙見堂あり →摂津の日蓮宗諸寺を参照
攝津
久々知広済寺

久々知妙見堂縁起:
天徳元年(957)多田満仲が矢文を放ち、それが矢文石に当たり、その地に北辰星(妙見宮)を祀ったことに由来する。
元弘3年(1333)赤松圓心と六波羅勢が久々知で対陣し、兵火を受け荒廃する。
正徳4年(1714)日蓮宗僧侶・如意珠院日昌上人はたまたま久々知妙見尊の示現をこうむり、広済寺を再興。多田満仲勧請の妙見宮をまつる妙見堂・本堂・庫裡などを再興。
近松門左衛門と当寺との縁は尼崎屋吉右衛門(日昌上人の父)と近松門左衛門が知人であったことに所以するという。(通称「近松寺」と云われる。)
明治の神仏分離で妙見菩薩の祭祀は廃止され、旧妙見宮安置の妙見菩薩、牛頭天王、諏訪大明神は「開山堂」に移され、日昌上人尊像とともに安置される。
元の妙見宮は須佐男神社と改号される。
平成7年阪神大震災:本堂・庫裏・妙見堂(開山堂)山門・鳥居などが損壊する。
平成11年:全壊の妙見堂が再興される。
※広済寺は日蓮宗系寺院であるが、おそらく新寺創建の困難な時代背景もあり、古くからの妙見菩薩の名跡を引継いだ側面と日蓮宗系の信仰とを結合したものと思われ る。
「攝津名所圖會」に見る久々地妙見:
 ○
久々地妙見:記事:
<近年妙見尊を信ずる事多く、特に久々知の妙見、能勢の妙見とて、詣人多く霊験日々に新し、これを時行神という>
なお、この圖會の妙見社は明治の神仏分離で、仏像・神像は広済寺に遷座し、妙見祠は須佐男神社と改号され、素性不明な祭神が祀られていると云う。

攝津有馬妙見寺 落葉山城(有馬城、南北朝期〜戦国期)跡に落葉山妙見寺がある。
明治39年余田左橘右衛門(詳細不詳)が妙見堂を建立という。本尊は廃金剛寺(明治6年廃寺・詳細不詳)のもので足利義満の寄進したものと云う。おそらく日蓮宗系寺院と思われる。
河内星田妙見 創建は弘仁年中(810-823)、弘法大師と伝える。大師が獅子窟寺吉祥院の獅子の窟に入り、仏眼仏母尊の秘法を修すると、天上より七曜の星(北斗七星)が降臨したと 伝える。ここに、「三光清岩正岩の妙見」として、祀られたことを起源とする。妙見山龍隆院(仏閣)として成立。
「嘉承元年(1106)9月23日 星田神禅寺」(河内天野山金剛寺文書)とあり、平安期には神禅寺と称するとも云う。
「采女迄三代妙見の別当ショクニシテお供燈明捧御山守護致由候緒也」(「東和久田系譜」、延宝六年(1678)) とあり、和田安直、安道、采女安国まで3代に渡り、別当職であったとされる。
「小松大明神」(神名帳、天文四年(1535))とあり、小松大明神と称したと推定される。
明治の神仏分離の処置で、「小松神社」と改号、祭神を天之御中主に改める。
 →「星田妙見」
河内
天白山妙見寺
続日本紀:「宝亀2年(777)上野国、美作国・・各々50烟を給す妙見寺」 とは天白山妙見寺を指す。
日本霊異紀:下巻第5「河内国安宿の郡の山寺に妙見菩薩があり燈明を献げる」
日本での妙見菩薩信仰の初源の一つとされる。
2005/09/18:追加
江戸後期には河内石川郡春日村に現存する。(この地に今も残ると思われる。・・・現地未訪問)
 河内名所圖會:享和元年(1801)刊 秋里籬島著・丹羽桃蹊画
  巻の2:春日村妙見寺
 妙見寺(春日村艮の山中にあり。禅宗。天白山と号す。本尊十一面観音、・・・中興鎌田氏末裔尊星院殿喜雲浄悦居士。)
  春日村妙見寺全図
   →「河内名所圖會」のページ
また「現在この地にある妙見寺は、もと東南方の妙見山西麓にあったと言われている。」との情報もあり、これが真ならば、現在地の妙見寺は後世に移転された のであろう。
「河内名所圖會」の記事では、中興の戒名以外には妙見信仰の繫がりは希薄になっていたと思われる。
2007/07/31追加:「河内飛鳥を訪ねてみよう」石部正志、松籟社、1989.7 より
もと真言宗天白山と号する、・・・南北朝期に戦火により焼失。
寛文年中、僧浄悦によって再興、曹洞宗となる。
明治6年廃寺、明治13年妙見寺は現地に移される。
旧寺は現在地より東南約1km天白山(妙見山)の中腹にあり、山頂には「霊山碑」の碑文が建つと云う。
2008/05/13:創建は春日皇子とする。
正保2年(1645)に再興、真言宗から曹洞宗に改宗、再び衰退、明治13年、現在地に再興される。
紀伊
七曜山妙見寺
名草郡、妙見菩薩が初期に祀られる霊場と思われるも、現在退転か、不詳。
2015/10/08撮影:
七曜山圓福院妙見寺<現在は寺院の合併によって清涼山慈光圓福院(妙見寺)と称する>
「紀伊國名所圖繪」;
真言宗古義・・本尊妙見大菩薩(長さ3尺作つまびらかならず)
大師堂(弘法大師)、薬師堂、太子堂(聖徳太子)
当山は近江國茅萱圓福院長善阿闍梨の開基にして元和年中岡領町に移り、さらに享保年中この地に移る。
 鈴丸橋、龍源禅寺、法運寺、萬精院、お伊勢橋、圓福院、崇堅院、夏川、・・」の図
萬精寺の北西から北に「お伊勢橋」が架かり、渡った北東に円福院がある。「紀伊國名所圖繪」には妙見とあり、記事には妙見大菩薩とある。圓福院には妙見菩薩が祀られていたのである。

現在は当地にあった圓福院と慈光寺が戦後合併し、慈光圓福院と称する。

圓福院は昭和20年の戦災で全焼。さらに戦後の区画整理で寺域の3分の1を失う。
慈光寺は養老7年(723)役小角(修験道開祖)が下和佐の地に開基し、元は八幡宮別當で和佐山観音寺(下和佐観音)として隆盛するも、元弘・建武の兵乱で衰微する。寛文年間(1661〜72)高野山快円阿闍梨が寺を再興し、清涼山慈光寺と改号する。
明治維新の神仏分離で荒廃しさらに戦後の農地解放で維持困難となる。
昭和27年、戦災焼失の圓福院と、維持困難の慈光寺とが合併する。この時慈光寺から本尊や本堂を現在地に移し、慈光圓福院となり今日に至る。本尊十一面観音立像(重文・檜材一本彫)は10世紀頃の作と推定され、貴重な貞観風彫刻である。
つまり、現慈光圓福院本尊は旧慈光寺本尊なのである。
では旧圓福院本尊妙見大菩薩はどうなったのであろうか。
以下推測ではあるが、妙見大菩薩は昭和20年の戦災で焼失し、再興はされなかったのであろう。
代りに合併することとなった旧慈光寺本尊(十一面観音立像)を本堂とともに引き移し慈光圓福院の本尊としたのであろうと思われる。
ついでに、七曜山の山号も捨てられ、慈光寺の山号清涼山に改められたようである。従って、寺号は不明であるが、現在は清涼山慈光圓福院妙見寺と称すると思われる。
2015/10/08撮影: 紀伊圓福院山門     紀伊圓福院本堂
紀伊中之島安楽寺 妙見堂あり → 紀伊日蓮宗諸寺にあり
紀伊吹上蓮光寺 妙見堂あり → 紀伊日蓮宗諸寺にあり
紀伊須本妙宣寺 妙見堂あり → 紀伊日蓮宗諸寺にあり
紀伊本久寺 妙見堂あり<未見> → 紀伊日蓮宗諸寺にあり
紀伊養珠寺妙見堂 和歌浦妙見山妙見堂/妹背山養珠寺妙見堂 →紀伊養珠寺
但馬妙見
   日光院
→「但馬妙見日光院ホームページ」(但馬妙見公式ページ)
→「但馬妙見三重塔」のページ 及びその関連ページを参照


但馬妙見本殿:下図拡大図

但馬妙見三重塔:下図拡大図


但馬妙見拝殿:下図拡大図

播磨諸寺中の諸妙見 播磨本松寺:谷の妙見と云われる
播磨本立寺:浜の妙見と云われる →いずれも播磨の日蓮宗諸寺中にあり。
播磨赤穂妙見寺 8世紀中頃に行基が開山したと伝えられ、かつて16坊9庵を有していたと伝える。
伯耆日蓮宗諸寺 米子/日蓮宗本栄山妙善寺 → 伯耆の日蓮宗諸寺
美作日蓮宗諸寺 美作久世興善寺 → 美作の日蓮宗諸寺
備前瑜伽大権現
奥院妙見祠
詳細は不詳、瑜伽大権現奥院として、妙見宮が祀られる。 特に著名なわけではないが、偶然に遭遇した妙見である。あるいは民間信仰として土着した例とも思われる。
 →「瑜伽山」のページの「瑜伽山蓮台寺妙見 」を参照
備中吉備郡所在の諸妙見 備中名越真城寺(板倉妙見):社殿倒壊し、実体は廃寺である。
備中星友寺妙見
備中高松清涼閣
備中惣爪信教庵
備中津寺黒住妙見宮
備中平野了性寺     → 以上いずれも備中の日蓮宗諸寺中にあり。
備中諸寺中の諸妙見 備中羽島妙忍寺 → 備中妹尾近辺諸寺中にあり。
備中倉敷本栄寺
備中片島妙任寺 → 三十番神と相殿か
備中
北斗山宝積院
     妙見宮
(倉敷観龍寺妙見宮)
寛和元年(985)北斗山宝積院(現在は宝寿山観龍寺と号する)が西岡山西安寺の塔頭として創建されたと伝える。
室町期に、北斗山宝積院は現在地の附近(観龍寺駐車場附近と云うも不明)に移転する。
倉敷村の黎明の頃、妙見菩薩が村の鎮守として祀られる。
あるいは、倉敷村の成立に伴い、西安寺塔頭北斗山宝積院が西岡から倉敷村に移転し、宝積院にはその山号で推測されるように妙見菩薩が祀られ、その妙見菩薩が村の鎮守として崇敬されたとも推測される。
文禄3年(1594)妙見宮は宝積院から妙見山(現在の鶴形山)の東峰に遷座する。
寛永元年(1624)宝積院、現在地に再移転し、宝寿山観龍寺と改号する。
寛永5年(1628)観龍寺は妙見宮別当に任ぜられる。
その後、江戸期に2度伽藍を焼失するも、その都度復興し、現在、本堂・大師堂・山門・客殿・庫裏・位牌堂・淡島堂・妙見宮などを有する。真言宗御室派。
明治2年、神仏分離の処置によって、妙見宮は観龍寺境内に再び遷座する。
2015/09/17追加:
「倉敷美観地区(岡山文庫273)」吉原睦、日本文教出版、2011 より
明治2年神仏分離の処置として倉敷県は観龍寺から妙見宮を分離し、倉敷村の旧家小野太宰に妙見宮の神主を命ずる。かくして妙見宮は一度は分離されたのである。しかしその後県役所は鳥居を外し、仏堂「妙見堂」として妙見大菩薩を再安置して、観龍寺が守護する許可を与える。以降「妙見堂」は観龍寺の仏堂として現在に至ることとなる。
 ●Web情報によれば、妙見宮本尊は、「京都の絵師が描いたという妙見菩薩の掛軸」であり、「鏡や剣では」無かったと云う。「妙見山で神仏分離を果した妙見宮ですが、御神体(本尊)であった菩薩は観龍寺に妙見堂として納められ、妙見がないのに妙見宮という名前、さらにお祭りする神様がないという事体(まま)に陥ります。村人は協議の末、神社の名前を地名を採って「阿知」と決め、さらに古くから舟乗りの守り神とされた宗像三女神を福岡県の宗像神社から来ていただき、主祭神にしたのです。明治7年頃のことです。」
「明治40年頃、国はひとつの町にひとつの神社を打ち出します。倉敷町では阿智神社ひとつにまとめられ、○○大明神などの中小お社は合祠されたのち解体、競売にかけられたのです。」
2008/01/31撮影:
 備中観龍寺妙見宮1    備中観龍寺妙見宮2:現観龍寺境内に妙見宮は遷座
 備中観龍寺山門:山門右の潜り戸を入ると妙見宮の鳥居と妙見宮がある。
 備中観龍寺本堂      備中観龍寺境内:西から撮影、石畳突き当たりが山門・その左松の木の後に妙見宮がある。
2015/09/03撮影:
現在、山門・妙見堂・本堂・大師堂・玄関・客殿・庫裏・位牌堂(未見、大師堂の西背後すぐにある)・淡島堂・鐘楼(昭和末期再建)などを有する。
 観龍寺妙見堂拝殿1     観龍寺妙見堂拝殿2     観龍寺妙見堂1     観龍寺妙見堂2
 観龍寺見上げ     観龍寺山門     観龍寺本堂大師堂     観龍寺本堂1     観龍寺本堂2
 観龍寺大師堂     観龍寺淡島堂・稲荷堂     観龍寺鐘楼     倉敷市鶴形山鐘楼
 観龍寺諸堂宇      観龍寺客殿・庫裡     観龍寺玄関     観龍寺客殿     観龍寺庫裡

※やや南に下がった→備中倉敷本栄寺にも妙見堂が在る。

★阿智神社の由緒を神社のWebページで要約すると以下のようになる。
応神朝、漢の霊帝の曾孫・阿知使主一族は朝鮮半島より渡来した。
鶴形山の頂上に鎮座する当社は、阿知使主一族の大いなる功績を称え、明治時代に現社名になる。
社伝によると神功皇后がこの付近を航行の折、嵐に遭い祈願したところ、三振の剣がこの山に天下ったため、「明剣宮」として、宗像三女神をお祀りしたとされる。
中世、仏説と混同し、明治までは「妙見宮」と称され、旧倉敷総鎮守の宮として近郷近在の人々の尊崇を集めてきた。
宗像三女神は皇祖神、天照大御神と素盞鳴尊の娘神で、海の守護神である。その他、応神天皇などを祭祀する。
 ※以上のように阿智神社とは復古神道(国家神道)による明治期の捏造で、復古神道の典型であることがよく表れている。
★鶴形山とは近代の命名で、中世・近世は妙見山と呼ばれていた。鶴形山とは明治22年頃林孚一の命名という。またこの鶴形山という名称が一般的に定着したのは昭和に入ってからとも云われる。
なお「妙見山には明治維新前、数ヶ寺の寺院があったと云う。曰く、玉泉寺・観音院・清鏡寺そして花蔵院(山伏・修験)。
花蔵院は妙見宮の祭礼に関ったと云う。これ等は今全て廃寺となる。(この項Web情報)
★西岡山西安寺(倉敷市西岡)
天平勝宝6年(754)鑑真和上の開基と云う。
往時は、本坊慈照院の他、来迎院、義燈院、大智院、宝積院(今の倉敷観龍寺)、善勝院、長福寺、多宝院、福樹院、十乗院、持国院、財善院(今の行願院・現存)、龍昌院(現存)の12坊があったと伝える。
室町期、兵火等により焼失、財善院、龍昌院の2坊となる。
備中服部本住寺 妙見堂あり、能勢型妙見菩薩を祀る。 → 備中服部本住寺
備中玉島玉谷
宣妙院
宣明院(妙見庵):倉敷市玉島玉谷公会堂奥にある。
黒崎妙立寺末、享保年間の設立という。(以上が唯一の情報である。)
現在は無住、堂宇・庫裡の内外は荒廃し、境内の一部は菜園と化す。現在は一般信者も含め、誰かが祭祀をしている気配もなし。庫裡の屋根も落ちこのままでは崩壊するのを待つばかりの状態である。
2015/12/20撮影:
 宣妙院入口     宣妙院題目碑三基     宣妙院境内1     宣妙院境内2     宣妙院境内3
 宣妙院妙見堂1   宣妙院妙見堂2   宣妙院妙見堂4   宣妙院妙見堂内部:妙見大菩薩の扁額が掲げられる。
 宣妙院稲荷大明神     宣妙院庫裡1     宣妙院庫裡2
片山(貴山)妙見神社(祠) 岡山県倉敷市玉島柏島片山、片山公会堂の北の山にある。そしてこの北の山には現在、「貴船様」(地図では貴船神社などというべらぼうな名称がつけられているが)と妙見祠が祀られる。但し、妙見社の現状は神社というには値せず、民家の中にある畑の一隅の小祠に祀られる。妙見祠には能勢型妙見大菩薩(刀剣は欠)を祀る。
 ところで、この片山の地は柏島の一画であるが、古代柏島は瀬戸内海の島であり、現在山陽線や旧国道2号線の走る低地は海であり、海峡であった。そして古代この海峡は内海の航路であった。この地には、飛鳥期、唐の國から来た船がこの地で難破遭難したとの伝承があり、故にこの附近の地名は「唐船」という。さらに、この難破した船には「貴人の姫」が乗船していて、犠牲になったといい、貴人の乗船していた船つまり貴船という意味で、その貴人の姫を「唐船」の南にある柏島の一画である片山(貴山)に「貴船様」として祀ったという。この「貴船様」は今に片山(貴山)に祀られている。
 なお、この妙見は「真備町の柳井原の妙見を勧請」というも、真備町柳井原とは不明、隣接する船穂町の柳井原か、しかし船穂町柳井原には多くの社・祠があるようであり、どこの社・祠から勧請されたかは特定できない。
 さらに片山の南の山の中腹には観音堂があり、観音堂小宇と3つの小詞と石仏などがある。
2016/01/02撮影:
 片山妙見祠     片山妙見大菩薩:向かって右の木札には妙見神社とある。左は意味不明。
 片山貴船様     片山観音堂     観音堂如意輪観音:片山観音堂本尊
備後福山長正寺 妙見堂がある。但し由緒は不詳。 →日蓮宗備後の諸寺

備後草戸半坂妙見社
◆以下備後の妙見大菩薩
備後草戸半坂三十番神ノ社<備後の日蓮宗諸寺中>の南側丘の山頂にある。
水呑金鶏山妙見から分祀されたものと考えられる。現在の建物は昭和中期に再建されたもの。
拝殿内には北辰妙見大菩薩縁起と明治35年の絵馬が懸けられる。
2016/01/01撮影:
 半坂妙見社社殿     半坂妙見社社殿内部
備後水呑宝山妙見山(金鶏山妙見教会) 元和8年(1622)水野勝成、常興寺山に築城する。
築城を終えると、勝成は藩財政の強化を図るため、領内の鉱山の調査・試掘を開始する。
当時、妙見山の所在する洗谷は中世の鉱山として知られていて、土地の者はこの山を宝山と呼んでいた。しかしこの金山(かなやま)は、近世初頭には閉山をしていたが、勝成の政策によって、寛永後期から正保にかけて、宝山の採掘(銅)が再開される。
勝成は銅の産出を喜び、新しく建設した城下町を、銅の出る宝山に対比して、福山と名付けたともいう。
ところで、中世の金山(鉱山)には多く妙見大菩薩が祀られていたという。これは周防の大内弘幸が氷上山の妙見大菩薩の託宣により石見銀山を発見したという故事に基づくものという。
宝暦元年(1751)宝山に妙見大菩薩が祀られ、これが近世の宝山妙見山である。
安政5年(1858)3尺×4尺の堂を建立。(この堂が何を指すのかはよく分からない。)
明治元年本堂再建。
明治5年神仏分離の処置で祭神をアメノミナカヌシに変更して明見神社と改号する。
明治14年地元の信者の運動の結果、仏斎に戻り、本尊が妙見大菩薩に復する。この年現在の祖師堂を建立する。
明治41年東南傾斜に石垣を築きはじめるも、これは未完。
今次大戦で梵鐘供出、昭和22年新梵鐘鋳造。
昭和27年金鶏山妙見教会と号し、日蓮宗に属する。
 ※洗谷銅山跡:江戸初期に野々口主国が『草戸記』で触れた「かな山」の跡をいうのであろう。従来、主国のいう「かな山」は、宝山(妙見山)に存在したと考えられてきたが、現在では、その跡は南側の谷筋に存在することが判明している。縦坑二ヶ所が存在するという。
2016/01/01撮影:
 宝山妙見遠望     宝山妙見参道石階     宝山妙見伽藍1:本堂及び祖師堂      宝山妙見伽藍2
 宝山妙見本堂1     宝山妙見本堂2     宝山妙見本堂内部
 本堂妙見大菩薩1     本堂妙見大菩薩2     本堂妙見大菩薩3:いわゆる能勢型の妙見大菩薩であろう。
 宝山妙見祖師堂:祖師堂内部は未見      宝山妙見庫裡1     宝山妙見庫裡2
 宝山妙見鐘楼1     宝山妙見鐘楼2     宝山妙見梵鐘1     宝山妙見梵鐘2
○備後水呑妙顕寺境内図
 備後水呑妙顕寺境内図:ページ「水呑町の六ヶ寺」から転載 、金鶏山が描かれる。
宝山妙見山は、水呑妙顕寺によって管理運営された日蓮宗の霊場という。あるいは金鶏山は水呑妙顕寺の末寺とも云う。
2016/01/25追加:
 備後國金鶏山朱印1     備後國金鶏山朱印2
備後水呑小水呑妙見 現地説明板より:
摂津能勢妙見より勧請。元禄13年(1700)以前の創祀である。本殿は一間社入母屋造、妻入、本瓦葺。
(但し本殿の現状は一間社流造、屋根銅板葺である。)
明治5年神仏分離の処置で祭神をアメノミナカヌシに変更し、妙見神社と改号する。現在も妙見神社のままである。
2016/01/01撮影:
 小水呑妙見1:鳥居の年紀は安政6年(1859) 、扁額は妙見大菩薩とある。
 小水呑妙見拝殿     小水呑妙見本殿1     小水呑妙見本殿2
備後水呑妙見大菩薩 ページ「水呑町ー山之神」では
元和2年(1682)当地の信者が摂津能勢妙見大菩薩を勧請、開眼が水呑妙顕寺17世日円(?)上人。
元禄12年(16999)水呑村山藪寺社改帳では本尊妙見大菩薩、別当は水呑妙顕寺とある。
文化元年(1804)堂宇改築。
明治5年神仏分離の処置で祭神をアメノミナカヌシに変更し、明見神社と改号する。
明治41年社殿焼失、仮堂再建。
大正4年水呑妙顕寺より妙見像を遷座、社殿再建。
昭和27年妙見神社となる。
2016/01/01撮影:
 水呑妙見     水呑妙見内部     水呑妙見題目碑:大正8年年紀
鳥居:弘化2年(1845)建立。常夜燈:弘化3年奉納。
備後水呑妙見川 水呑町ー山之神
山沿の街道沿には多くの泉があり、これが水呑の地名の由来と考えられる。
※この泉もその内の一つで、明見川の源であろう。因みに明見川とは、この泉が水呑妙見大菩薩の社の傍らに、湧くからであろう。
2016/01/01撮影:
 水呑妙見川源泉
周防降松妙見
 (桂木山)
敏達7年(578)都濃郡鷲頭庄青柳浦の松樹に大星が降臨し7昼夜輝き、「吾が霊をこの地に鎮祭せよ」との託宣があり、北辰尊星妙見大菩薩として祀ったという。あるいは推古3年のこととも 云う。
託宣には「百済国皇子琳聖太子を招請せよ」ともあり、推古5年琳聖太子が来朝、星供を修す。琳聖太子は大内氏の太祖と云う。(中世・近世にはそのように流布する。)
推古3年(595)青柳浦桂木山に遷座する。青柳浦を降松(下松)と改められる。
推古11年(603)高座垣山頂に社殿を建立し北辰妙見社と称する。同十七年(609)鷲頭山の山上に上宮、中宮を建立する。
和銅2年(709)大内正恒が高鹿垣に上宮を建立との伝説あり。
中世には大内茂村が、山口氷上山(清上山)に北辰妙見社を勧請。(試みるも果たさずとの異説もあり。)
大内広世は下宮を造営し7坊を置く。広世文和(北朝)元年(1352)鷲頭氏を攻略して周防国を制圧。
大内義弘は、応永元年(1394)中宮に五重塔、仁王門を建立、七州(防・長・石・豊・泉・和)の各地に北辰妙見を勧請し、鷲頭山は妙見本宮とされる。
毛利元就は永禄年中に社殿を修造。
慶長13年(1608)大火により社殿を焼失。中宮本殿(大永3年(1523)大内義興再建)は焼失を免れる。
元和年中毛利就隆(徳山藩主)下宮を現在の地に移し若宮とした。
明和4年(1767)毛利就馴若宮再建、文化4年(1807)山門再建(氏子中)
明治3年神仏分離の処置で降松神社と改称、祭神は天御中主とされ、妙見菩薩は7坊の内の閼伽井坊に遷座。(事情は不明ですが、閼伽井坊は鷲頭寺と号する)
明治12年鷲頭寺(真言宗御室派)は現在地に移転。降松神社は県社となる。(時期不詳)
周防興隆寺
 (氷上山)
琳聖太子(大内氏の祖と云う)の創建と伝える。妙見菩薩は周防降松妙見を勧請するとされる。
「名草神社三重塔と出雲大社」所収「但馬妙見社について」谷本進:
山口、氷上山興隆寺。
創建は天長4年(827)天台宗という。文献的には大内弘世が文和3年(1354)、延文2年(1357)に妙見社の祭祀や修復を命じるのが初見という。大内氏の「守護神」として、妙見菩薩を信仰したものと考えられる。
文明18年(1484)の縁起では本堂及び廻廊、楼門、塔、鐘楼、輪蔵などがあり、100余坊があったとされる。
文禄4年(1594)1104石の寺領。
明治維新後衰微し、明治16年本堂売却、現在は本堂、釈迦堂、北辰妙見社、鐘楼だけを残す。
※売却本堂(釈迦堂)は龍福寺(大内氏館跡)に現存する。大永元年(1521)の建築・重文。
讃岐
平木妙徳寺
妙見宮があるも、由来は未調査
 讃岐平木妙徳寺
伊予
亀臺山妙見寺
松山市平田町794。久遠寺末。
享保19年(1732)年、松山法華寺第8世日応上人が凶作と飢饉による餓死者供養の妙経一字一石首題の供養塔を建立。
延享元年(1744)年、法華寺第9世日修上人が、天下泰平と五穀豊穣を祈願し妙見大菩薩を勧請。
安永7年(1778)年、日順上人が、開基、堂塔を建立。
明治5年、法華寺妙見堂を移建、同11年、寺号を公称。平成6年本堂改修。
肥後八代妙見
(白木山妙見大菩薩)
○2012/09/15加筆・修正:
◇推古19年(611)琳聖太子、肥後の白木山に来りて、妙見菩薩を伝へり。これ即ち本朝における妙見尊最古の霊跡(神宮寺)である。(<「密教占星法 上巻」)
◇延暦14年(795)妙見上宮創建(国誌)、あるいは「妙見菩薩堂、俗に上宮と云」(地志略)。
 三室山横嶽山頂一帯がその跡とされる。
◇永暦元年(1160)二条天皇勅願により、肥後守平貞能妙見中宮を創建。
 跡地は三室山横嶽山麓と云う。
◇文治2年(1186)後鳥羽天皇勅願により、検校散位大江高房妙見下宮を創建。
白木社妙見宮・白木山妙見宮と呼ばれた。(肥後国誌、白木山妙見大菩薩援縁起・・元禄12年奥書)
◇天正16年小西行長により社領没収・退転。その後復興。細川忠興など社殿造営。
 「100石 八代妙見寺 外米20石・・・」(肥集録)
周囲には天台・真言の15坊が配置されていたと伝える。しかし江戸中期には12坊廃絶と云う。
 ※元禄12年奥書「白木山妙見大菩薩援縁起」は白木山妙見宮執行神宮寺現住の筆になる。
  慶応4年奥書「白木妙見大菩薩之由来」は妙見宮執行神宮寺、社僧院主、社僧一乗坊の奥書である。
 ※本殿は元禄12年、寛延2年の改築であり、近年にも改造が行われる。
  本殿は桁行3間梁間2間の入母屋造である。拝殿幣殿を繋ぎ権現造に類似する。
○2013/09/18加筆修正:
近世の白木山妙見大菩薩
◇「八代妙見祭:八代市文化財調査報告書:第43集」八代市教育委員会(文化課)編、2010.3 より

 元禄6年(1693)「妙見宮知行宛行社山絵図」:全図 :
松井直之の時代、細川綱利による神領寄進に関係する絵図である。左下が下宮、中段右端が中宮、上段中央が上宮。
(八代妙見宮蔵)

 妙見宮知行宛行社山絵図2:左図拡大図:下宮部分
今は存在しない多宝塔、方形造堂宇(本地・阿弥陀堂か)などが描かれる。

 妙見社山之図:(画像入替)
上記の「妙見宮知行宛行社山絵図」を安永5年(1776)に複写したものである。本図には「元禄の絵図」に書き漏らしていたと思われる鳥居前の石造仁王像、鐘楼堂などが追記されると云う。
(八代市立博物館蔵)
 →石造仁王像は袋町医王寺に遷座現存する。

上記の絵図では、元禄6年段階では境内に多宝塔があることが知れるが、この多宝塔の詳細は不明である。
2013/12/13追加:
「肥後國誌」(下に掲載)では、「多寶塔(2間4面高9間、九輪塔と云、小西が時當社堂塔を毀ち取るに此塔のみを残せりと云。本尊木佛座像長1尺1寸承応元年中島町氏人等再興之)」とあり、知り得た唯一の文献である。
 ※多宝塔一辺は3.6m、高さ16.4mであり、近世以前の造営であったと知れる。
○2013/09/21撮影:
 本地堂多宝塔跡地:本地堂・多宝塔があったと指定される付近を南西より撮影、中央やや右に写るのは稲荷大明神でこの付近に多宝塔があり、その向かって左に本地堂があったのであろうか。地上には何も残らない。
 境内の案内板には「江戸期には神殿ほか本地堂、多宝塔、経蔵、仁王像などがあったが、これ等は明治の神仏分離令で失われる。 」(大意)の説明があるが、多宝塔についての神仏分離の処置がどのように行われたのかは具体的に何も分からない。
○2012/09/15加筆・修正:
◇明治4年神仏分離の処置で、祭神を復古神道丸出しの天之御中主などに変更し、神宮寺などを廃寺棄却、仏像などを他に遷し、八代神社と改称する愚行を行う。 (神仏分離廃仏毀釈の詳細は資料がなく不明)
2013/09/29追加:
◇「妙見社の神領、寺領及び十五坊についての疑問」名和達夫(「夜豆志呂 106号」八代史談会、1992.8 所収)
「肥後国誌」及び「妙見宮実記」には天台8寺真言7寺の書上げがある。
天台8寺:神宮寺、増行坊、財徳坊、楽善坊、覚音坊、長善坊、正林坊、常久坊(国誌では常久坊であるが、実記では一乗坊とある)
真言7寺:休楽坊、宝林坊、福仙坊、覚乗坊、成満坊、常楽坊、一乗坊(国誌では一乗坊であるが、実記では常久坊とある)
妙見宮実記では小西氏により社殿・15坊は悉く焼失する。その後加藤氏に治世になり、社殿復興の一環として神宮寺、一乗坊、財徳坊、院主(休楽院)が再建される。このうち財徳坊は、万治元年(1658)松崎村妙見 が勧進されたとき祭祀を務め、以降別當として松崎村妙見に移転する。
 なお、八代市史では、福正寺、護神寺、正法寺、勧行寺、洞泉寺、鳳来寺がかっての15坊の一つであったと伝えると云う。
また現在真宗本派觀妙寺は往古妙見社七社(塔)のうち天台宗白楽山觀妙寺と号すと云う。
◇「夜豆志呂 別冊 創立40周年記念号」八代史談会、1996.2 より
白木山神宮寺跡は現在宮地小学校々地となる。宮司坊とも云われ、妙見の首坊であった。叡山正覚院末。明治初頭には護摩堂、客殿、庫裏、居間、玄関、山門があったが、明治の神仏分離の処置で取壊され、仏像・仏器は袋町医王寺に遷される。
白木山一乗坊跡は八代市宮地出張所となる。叡山正覚院末。神宮寺の南にある。
院主(休楽院)跡は下掲の妙見町史跡案内図では神宮寺南、 一乗坊東の位置に表示がある。
○2013/03/09撮影:△印は2013/09/21撮影:
本殿は元和8年(1622)加藤氏により再建、脇殿・拝殿は寛永13年(1636)細川氏により再建、その後元禄12年(1699)と寛延2年(1749)に改築されると云う。
 八代妙見下宮神門1     八代妙見下宮神門2:社殿と同様の経歴と思われる。
 △八代妙見下宮神門3    △八代妙見下宮神門4
 八代妙見下宮社殿      八代妙見下宮拝殿1     八代妙見下宮拝殿2     八代妙見下宮拝殿3
 八代妙見下宮本殿11    八代妙見下宮本殿12    八代妙見下宮本殿13    八代妙見下宮本殿14
 八代妙見下宮本殿15    八代妙見下宮本殿16    八代妙見下宮本殿17    八代妙見下宮本殿18
 八代妙見下宮本殿19    八代妙見下宮本殿20
 △八代妙見下宮本殿21   △八代妙見下宮本殿22   △八代妙見下宮本殿23
 △八代妙見下宮本殿24   △八代妙見下宮本殿25
 八代妙見下宮六地蔵幢:寛文12年(1672)八代城下平河原町の寄進
 △八代妙見下宮手洗舎1   △八代妙見下宮手洗舎2   △八代妙見下宮手洗舎3
  手洗舎は安政4年(1857)頃の建立と云う。
◇妙見町史跡案内図:下宮門前に掲示されているものを撮影
 妙見町史跡案内図:図中の史跡について、以下に若干の補足を行う。
  上宮跡:三室山横嶽山頂に若干の遺構が残るというも未見。上宮跡からは布目瓦が出土し、これは平安期に創建
   された妙見菩薩堂の遺物であろうと推定される。白木山妙見の八代における最初の鎮座の地と云う。
  中宮跡:永歴元年(1160)平貞能が創建と云う。
   なお、現在中宮跡には平成7年再興の鳥居・小祠があり、興味を削がれる。
    八代妙見中宮跡1     八代妙見中宮跡2
  中宮山護神寺跡など:
   中宮山護神寺:八代妙見中宮社僧であった。天台宗。白木山15坊の一坊跡と伝える。
    現在、国家神道により荘厳されたことが一目瞭然のいかにもインチキ臭い懐良親王御陵として整備された一帯が
    中宮山護神寺跡と云う。当地には護神寺塔心礎とされる礎石を残す。 →「肥後八代妙見中宮護神寺」
  宗覚寺(加藤忠正墓所)など →<肥後本妙寺/肥後日蓮宗諸寺中にあり。
  円光院址:不詳
  護国山顕孝寺址:懐良親王が父母追善のため建立(父は後醍醐天皇)、父母追善の2基の石塔が残る。
   同寺は相良氏の時悉知院と改められ、小西氏の時廃寺となる。
   ※なお肥後興善寺廃寺の跡に顕孝寺を建立とも云うが、良く分からない。
  洞泉寺址:不詳、白木山15坊の一坊跡と伝える。
  神宮寺跡:
   八代妙見下宮神宮寺跡:現宮地小学校
○2013/03/18追加修正:
◆八代妙見の遺物として以下が知られる。
◇妙見社神宮寺護摩堂安置木造妙見菩薩立像(江戸期)は袋町医王寺に遷座する。
本像は亀の上に立つ武将像で劒を下向きに立てる像である。<未見>
◇八代妙見下宮仁王像(石造/凝灰岩製/像高2.7m)は妙見社鳥居脇にあったが袋町医王寺に遷座する。
本像は延宝3年(1675)八代城下二ノ町(本町一丁目)の寄進したものである。
 なお、明治の神仏分離の処置で、八代妙見普門院(下宮神宮寺の院号か)院主・阿度霊光が医王寺に入寺、住持となり、妙見菩薩像、石造仁王像や什物が医王寺に遷されると云う。
八代袋町医王寺:寛文5年(1665)当地に移転、八代城主松井家の菩提寺となる。真言宗高野山城福寺末。
本尊薬師如来立像(重文・南北朝期)を伝える。
 八代袋町医王寺:本堂と本堂と同形の薬師堂(RC造)がある。      八代袋町医王寺本堂
 八代妙見仁王像:延宝3年(1675)に奉納され、高さは2.7m。「妙見社山之図」では正面鳥居の脇に描かれる。
 八代妙見仁王像1    八代妙見仁王像2    八代妙見仁王像3    八代妙見仁王像4    八代妙見仁王像5
◇妙見宮本地堂本尊阿弥陀如来(藤原期は階下釈迦堂に遷座する。
八代市西宮町に正法寺跡があり、現在釈迦堂が残るが、この釈迦堂に遷座する。本像の台座の下は亀であると云う。
また銅造十一面観音懸仏(鎌倉)を蔵するが、これは本地堂厨子に懸けられていたと云う。
 正法寺跡釈迦堂      釈迦堂内部:左は白木山妙見本地仏、右は釈迦如来坐像
 亀蛇台坐の亀蛇頭部:白木山妙見本地仏は亀蛇の台座に坐す。       白木山妙見本地仏
  →なお、/正法寺跡には心礎が残ると云う。 →肥後八代正法寺跡
○2011/07/19追加:
八代には白木山妙見大菩薩(宮地村白木社)を始め、5社の妙見社がある。
 竹原妙見宮(現竹原神社)・宮地村白木社・宮原村三宮妙見(宮原三宮妙見・神蔵寺)・植柳妙見・松崎村妙見
2013/12/13追加:
○「肥後國誌」(江戸中後期/18世紀後半の編纂) より
 妙見上宮:
白木山神宮寺支配、當村横嶽にあり。・・・桓武天皇延暦14年艸創、誰人の所営か不詳、・・・本堂板葺9尺四面本尊阿弥陀木像長一尺五寸。・・・・・
 (補)陣迹誌云、上宮は中宮より登ること十八町横嶽の嶺にあり。・・・・・・
神廟(二間に三間可り)・・・・・阿弥陀佛を安んず。
 妙見縁起を考るに社僧の説(古来の縁起は退轉因茲近世良任法師所作)に往日唐土白木神目深手長足早明州の津より白鳳9年来朝し竹原の津に着岸して3年假座す、本朝妙見の始也。
 又云う妙見神は中國大内家の氏神なりと、大内家録云百濟國斎明王第3皇子来朝す。推古帝5年筑前國(イ周防國トス)多々良濱に着岸し、周防國主となりて代々武名あり中国を治め、妙見星を祀り守護神とす。是北辰星也。
 或云、妙見神は百濟國王齋明来朝又は第3皇子琳聖太子トモ云。八代郡不知火崎に着す・・・・
社家の説には北辰星は・・・・國常立尊也。・・・・・・・・・
 妙見中宮:
・・・神殿(9尺3間杮葺)・・・、拝殿。二条帝依勅願御室嶽の麓今の所に造営也・・・・
 (補)陣迹誌云、・・・永暦元年肥後守平貞能の勧請なり
 妙見下宮:
・・・・・・・後鳥羽帝文治2年散位大江朝臣宣旨を奉りて社を建つ。是を下宮と云、山を白木山と號す。・・・・・
白木社妙見宮又白木山妙見宮とも云。・・・神殿(2間半5間杮葺)本尊妙見北辰尊星王神・・、拝殿(2間5間5尺杮葺)、幣殿(9尺四方杮葺)、四足門(9尺2間瓦葺)・・、回廊左右2軒(9尺3間・・・)、末社脇殿亦見大臣・・、随身祠左右2宇・・、文殊堂(3間4間瓦葺、寛文12年3月以社領米2間四面の本地堂と共に再興す)、多寶塔(2間4面高9間、九輪塔と云、小西が時當社堂塔を毀ち取るに此塔のみを残せりと云。本尊木佛座像長1尺1寸承応元年中島町氏人等再興之)、島観音堂(1間四方・・)、荒神社・・・、太子堂(1間四方・・)、経蔵(3間四面・・)、神輿屋・・、御供屋・・、鐘楼堂・・、材木小屋・・、石鳥居・・、石仁王( 長1丈5尺、延寶3年10月二ノ町氏人中寄進・・)、地蔵堂、本地堂(2間2間半、瓦葺、本尊木像座像長2尺1寸往古の堂は6間四面なるを小西が時、毀て當村の内石原に移し耶蘇寺とす、故に中絶せるを、寛永8年4月加藤正方再興之、其後寛文12年3月以社領米再興之)、毘沙門堂・・・・
 當社山の内に6か所の堂社並庵室あり、所謂霊符祠、嶽観音、石堂、伊勢祠、山王社、石体観音堂、稲荷祠、悉地院迹草庵・・・・
 社僧15坊所謂宮司坊(神宮寺也)、常久坊、覺音坊、増行坊、財徳坊、長善坊、正林坊、楽善坊、休楽坊(今の院主なり)、寶林坊、福仙坊、覺乗坊、成満坊、一乗坊、常楽坊也。天正17年小西行長が時、各及退転、今存する處は神宮寺院主一乗坊のみ也。財徳坊は長岡氏當郡松崎村妙見社に再興あり。・・・・・・・・・・
 神宮寺白木山:
台宗叡山正覺院末寺也。寺領20石、往古より社僧15坊の第一とし上宮経始以来の宮司坊たり。後鳥羽帝文治2年下宮草創の節當寺も今の寺地に構営す。即15坊は當寺及び常久坊、楽善坊、覺音坊、増行坊、財徳坊、長善坊、正林坊此の8坊は天台宗也。休楽坊(普門院今の院主なり)、寶林坊、福仙坊、覺乗坊、成満坊、一乗坊、常楽坊此の7坊は真言宗也。妙見社衰廢に及びし時15坊も多くは断絶し、漸く今の神宮寺、一乗坊、休業坊のみ残れり。・・・・
 一乗坊白木山:
台宗叡山正覺院末寺妙見宮脇坊也。・・・
 院主普門院白木山:
真言宗高野山羽生院末寺也。・・妙見社脇坊院主役也。・・真言7坊の司にて上宮草創以来の社僧なり。・・・

肥後竹原妙見宮 この地は妙見菩薩が本邦へ初めて上陸したと云う竹原の津の跡である。
文治2年(1186)後鳥羽天皇勅願で現在の宮地妙見宮(下宮)が建立され、引き続き竹原妙見宮が建立されると伝える。
天正年中小西行長により焼亡、寛文8年(1668)細川綱利により再建される。明治維新までは修験が奉仕と云う。
明治の神仏分離の処置で竹原神社と改竄され、祭神はアメノミナカヌシに変更される。
肥後宮原三宮妙見 「肥後国史」陣迹誌曰、応保元年(1161)八月越中前司平盛俊在国ノ時、妙見ヲ勧請シ祠ヲ立三宮妙見ト称ス。
 →肥後神蔵寺塔心礎:神蔵寺は宮原三宮の六坊の一つである。
肥後植柳妙見 この地、植柳の津の跡と云われるようで、ここに妙見宮が建立されたようである。
現在は植柳神社の社殿が残るようであるが、詳細な情報なし。
松崎村妙見 明暦〜万治(1655-1661)年中、この地は八代城主長岡佐渡守興長による干拓で新地が開かれる。
万治元年(1658)長岡興長、宮地の妙見宮を勧請して成立する。明治維新前までは天台宗財徳坊が別当であった。
明治維新の神仏分離の処置で、松崎神社と改竄される。現在の社殿は昭和4年の改築と云う。

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