大  和  内  山  永  久  寺  多  宝  塔  ・ 西  谷  薬  師  院  三 重 塔

大和内山永久寺多宝塔・西谷薬師院三重塔

主たる参考文献:
「内山永久寺の歴史と美術−調査研究報告書内山永久寺置文」東京国立博物館編、1994
「近世内山永久寺復元」平井良朋、ビブリアVol,100、1993 を要約。

内山永久寺多宝塔

「置文」:保延3年(1137)建立。釈迦・薬師・弥陀・弥勒の4仏を安置。建長7年(1255)屋根(桧皮)葺替 。

「内山之記」:興福寺禅定院(大乗院)の塔と同じという。・・・下の( 参考:興福寺禅定院多宝塔)を参照

「内山永久寺縁起」慶長5年(1600):
 「大塔:南面八角二重、保延2年6月14日建立する處、本尊聖観音、恵心僧都の作

「享保絵図」:5丈3尺(約16m)、八角、但し一角1丈2尺(約3.6m)
  ※以上でいう「享保絵図」とは以下の通りである。

2007/03/12追加:
「安楽寺塔婆」天沼俊一
(「佛教美術」大正15年5月号 所収) より

享保15庚戌3月「内山永久寺金剛乗院絵図」:
上記絵図の「八角多宝塔」部分図
  塔5丈3尺八角 但し一角1丈2尺 とある。

なお 右図の拝殿(8尺間・・・)は「鎮守拝殿」で
現在、石上神宮摂社・出雲建雄神社拝殿
  (国宝・文永<1264-75>頃の建立と推定)
として、現存する。
これは内山永久寺の唯一の古伽藍遺構である。

なお、本「享保絵図」とは下に掲載の
内山永久寺享保図の部分図と推測される。

正保図<正保2年/1645>、内山永久寺享保絵図2//享保図<享保15年/1730>、明和図<明和6年/1768>に多宝塔の描画あり。
 ※享保図は八角二重塔が描かれるが、正保図・明和図では多宝塔の形式は判然とはしない。

「大和名所圖會:寛政3年(1791)刊」:「永  久 寺」:上下層とも八角と思われる多宝塔が描かれる。

「伽 藍 図」:八角多宝塔:南を正面とする八角の平面が描かれる。

以上を総合すると、内山永久寺多宝塔は今日遺構例の残っていない「八角多宝塔」であった。
さらに、創建当時の塔が明治維新まで残っていたとすると、平安末期の古塔が近世末まで伝えられていたことになる。

但し、多宝塔は明治維新の廃仏毀釈で完全に破壊、塔跡と思われる地表には何の痕跡もなく、辛うじて凡その跡地の推定のみが可能である。

推定多宝塔跡地

2003/05/28撮影:
 永久寺多宝塔跡推定地(西方から撮影 ・・・左図拡大図)
   同    多宝塔跡2(多宝塔東の開山上人廟塔があった丘)
   同    多宝塔跡3
  同    多宝塔跡4(小角之坊前から撮影、北東方向から撮影。
 (多宝塔跡4の写真:中央大きな土壇は御影堂などの土壇、左端の丘は開山上人廟塔があった丘、左のバラックの向うに多宝塔があり、バラックの右に御影堂があったと推定される。手前の空地は上乗院跡・生産神社があった場所と思われる。)
2014/06/15撮影:
 内山永久寺多宝塔跡:ビニールハウス下の畑地が多宝塔跡であろうか。
上に掲載の2003/05/28撮影画像の多宝塔跡は若干丘の麓に近づきすぎを思われ、本写真の方が多宝塔跡を正確に推定していると 、今は判断する。
 

 参考:興福寺禅定院多宝塔は天福元年(1233)建立、同院焼失ののち、興福寺勧学院に移されたという。
    「勧学院:二層塔 東西南北2間3尺8寸、八角、一方1間7寸、高3間6寸5尺5寸」(興福寺濫觴記)とあると云う。
    禅定院は元興寺別院であったが、大乗院門跡頼実が整備したという。
    治承4年(1180)大乗院が被災した後、大乗院は治承の兵火を免れた禅定院に移転、大乗院門跡は明治維新までこの地に存続する。
    享徳4年(1455)大乗院(禅定院)八角多宝塔を勧学院に移建する。
    勧学院八角多宝塔は明治維新まで存続したと思われる。
     興福寺中院屋には六角多宝塔があった。(六角というのは錯誤で八角多宝塔である。中院屋とは勧学院を指す。)
    → 詳細は「大和興福寺」の「勧学院」の項を参照。


内山永久寺西谷薬師院三重塔

西門を入り、坊舎の間の通路を進み、通路北の薬師院があった地点にあったと推定される。通路南は威徳院。
創建時期は不明。「西谷薬師院という僧坊に三重塔あり」<「和州寺社記」寛文6年(1666)>が初出とされる。
 ※「和州寺社記」は後出、「一、西谷薬師院と云僧坊に三重の塔あり、本尊は薬師如来」とある。
正保図<正保2年 (1645)>、享保図<享保15年 (1730)>、明和図<明和6年 (1768)>に三重塔の描画あり。
大和名所図會<寛政3年(1791)>の「永久寺門前」の図には描画されていないが、 同圖會の「永  久 寺」の図の左最下段に(正体がやや不明の)八角多宝塔と同一と思われる塔が描かれる。
この多角形の塔は、三重塔があったと想定される位置としては、やや池に近すぎると思われるが、西南方向からの斜め上からの俯瞰とすれば、この多角形の塔は三重塔 を描画したものとも思われる。蓋し、塔の形を八角多宝塔と思われる形にしているのは不審であるが、多宝塔との混同・混乱とも思われ、であるとすれば江戸期末にも三重塔はまだ存在していたとも思われる。
内山永久寺伽藍図(三重塔部分図)にも「塔」として明示される。<なおこの伽藍図北(薬師院南)に「上乗院家廟所」の書き込みがある。>
 ※三重塔について、近世の存在は確実であるが、明治維新時まで存続していたかどうかは明らかな記録に遭遇せず、不詳。
  (現状では、三重塔は幕末頃退転したか、明治維新の廃仏で破壊されたかのどちらかであろうと想像するしかない。)

内山永久寺西谷薬師院三重塔跡

現状塔土壇と推定される高まりがある。
しかしこの場所は、2003年6月4日現在では、背丈ほどの雑草と茨が繁茂しさらにそれらに蔓草が絡まり、通常の装備で足を踏み入れるのは相当困難な状況である。
とはいえ、この場所は内山永久寺の建物遺構が明確に残る 殆ど唯一の区画である。この区画のみは土壇様の様相を呈し、古の三重塔の姿を彷彿とされる場所なのである。

三重塔跡

2003/05/28撮影:
 永久寺三重塔跡1(惣持院跡より撮影、南東方面より)
 永久寺三重塔跡2(蓮乗院跡より撮影、北東方向より)
 永久寺三重塔跡3(惣持院跡より撮影、南東方面より)
 永久寺三重塔跡4(蔓草中に1基のみ供養塔が見える)
2005/01/03撮影:
 永久寺三重塔跡5(安楽院跡附近より撮影、西方向より)
 永久寺三重塔跡6(蓮乗院跡より撮影、北東方向より)
2012/02/18撮影:
 永久寺三重塔跡7
 永久寺三重塔跡8

2014/06/15撮影:
本年(平成26年/2014年)は内山永久寺創建900周年・天理市制60周年ということで、それの記念事業の一環なのであろうか、茨が繁茂していた内山永久寺三重塔跡/末期の歴代 供養塔群が整備される。
茨などは刈られ、砂利が散かれ、墓石の一部の移動が行われ、また倒壊していたと推定される4号無縫塔が復原される。
以上によって、茨の繁茂に隠れていた全容が明らかとなる。
しかし三重塔遺構については、相変わらず不詳であるが、供養塔群の南の平坦地に建っていたことが明確にイメージできる景観となる。

内山三重塔跡/歴代供養塔1
内山三重塔跡/歴代供養碑2;左図拡大図
内山三重塔跡/歴代供養碑3
内山三重塔跡/歴代供養碑4
内山三重塔跡/歴代供養碑5
内山三重塔跡/歴代供養碑6


内山永久寺絵図

内山永久寺正保絵図<正保2年(1645)>に見る永久寺 :天理図書館蔵:
  「内山永久寺の歴史と美術−調査研究報告書内山永久寺置文」より転載(「中世庭園文化史 : 大乗院庭園の研究」にも掲載あり)

正保図: 左図拡大図 :(2012/03/25画像入替)
 

「南都名所集」(延宝3年・1675)の巻第8の「内山」の項では「八角の宝塔には弥勒菩薩」 との記事がある。

内山永久寺享保絵図<享保15年(1730)>に見る永久寺:天理図書館蔵:

○現地説明板を2014/06/15撮影
 内山永久寺享保絵図2:左図拡大図
本写真は現地説明板に掲載の絵図を撮影したものである。

○「内山永久寺の歴史と美術−調査研究報告書内山永久寺置文」より転載(「中世庭園文化史 : 大乗院庭園の研究」にも掲載あり)
 享保図:(2012/03/25画像入替)

なお、冒頭に掲載の
享保15庚戌3月「内山永久寺金剛乗院絵図」:
八角多宝塔」部分図」は本図の部分図と推定される。

内山永久寺明和絵図<明和6年(1768)>に見る永久寺 :
  「内山永久寺の歴史と美術−調査研究報告書内山永久寺置文」より転載(「中世庭園文化史 : 大乗院庭園の研究」にも掲載あり)

明和図:下図拡大図 ;(2012/03/25画像入替)

大和名所図會<寛政3年(1791)>に見る永久寺 (2012/03/25画像入替)

巻之4: 永  久 寺:左図拡大図
内山永久寺多宝塔
「鳥羽院の御願にして、開山は釈亮慧(真言伝法の人)。永久年中の草創なれば「永久寺」と名付たり。」
「観音堂・千躰佛堂・三層塔・大師堂・真言堂・・・・その外諸堂巍巍として子院47坊・・・」「醍醐金剛院の法流にして、当山派の法頭なり。」
 ※三重塔は多宝塔とは別に存在したことは確かであるが、上の三重塔との記事はおそらく単純な誤りで、多宝塔のことと思われる。
 →本図の左下に塔が描かれるが、これが薬師院三重塔であろうか。
しかし、薬師院三重塔とすれば、形がそのように見えず、また建つ位置も大亀池に近すぎ、正確性を欠くものと思われる。

 大和名所圖會★永久寺門前の図

内山永久寺伽藍図に見る永久寺

   八角多宝塔(平面は八角に表現される。) ・・・上に掲載

  三重塔(塔の北に「上乗院家廟所」の書き込みがある。)

和州内山永久寺之図:奈良県立図書館蔵

 和州内山永久寺之図:左図拡大図 :(2012/03/25画像入替)
  ※画像容量大
堀田里席の筆になる。
堀田里席は京都の浮世絵師、
作画期は享和年中(1801‐)初期から文化年中(‐1818)末期と云われる。

2014/07/12撮影:
 和州内山永久寺之図2:天理市文化センター掲示:上図の複製

内山永久寺明治絵図<明治22年(1889)>に見る永久寺:
  「内山永久寺の歴史と美術−調査研究報告書内山永久寺置文」より転載(「中世庭園文化史 : 大乗院庭園の研究」にも掲載あり)

 明治図全図:左図拡大図 :(2012/03/25画像入替)
(この絵図は江戸期のものを明治に書写したものと思われる。)

和州内山永久寺之図写本:昭和55年写本

昭和55年和州内山永久寺之図写本
 和州内山永久寺之図写本;左図拡大図
写本筆者の落款があるも、判読できず。
布留社回廊に掲示される。
田井庄町矢追宗一氏奉納とある。

2012/03/29追加:
「中世庭園文化史 : 大乗院庭園の研究 」森蘊、奈良国立文化財研究所、吉川弘文館、1959 より
 内山永久寺庭園跡地実測図:多宝塔跡・本堂跡・鎮守社跡 ・真言堂などの位置が示される。

2014/07/11追加:
「改訂天理市史(本編・上巻)」1976 より
 内山永久寺跡地形実測図

2014/07/12撮影:
「天理市制60周年記念 内山永久寺の残像」展示
内山永久寺復元模型:天理大学歴史研究会制作、建物その他の造作は稚拙であるが、永久寺の全容を俯瞰できる模型である。
 内山永久寺復元模型1     内山永久寺復元模型2     内山永久寺復元模型3     内山永久寺復元模型4


内山永久寺略暦

創建に係る史料は以下がある。
「内山寺置文」:文保元年(1317)成立か、登場する年紀の下限は正安4年(1302):東京国立博物館蔵
「内山之記」:登場する年紀の下限は文保元年(1317)、この頃成立か:御茶の水図書館蔵
 ※上記二書では創建された年紀の明記はないが、僧都頼実が本願として頻繁に記される。
「雑事記」康正3年(1457)4月29日条:尋尊「興福寺大乗院寺社雑事記」
 大乗院家末寺自然ノ所用ヲ仰付寺事
 長谷寺、菩提山寺、内山永久寺、信貴山、安倍寺、釜口長岡寺、萱尾円楽寺、三輪平等寺、東小田原随願寺、橘寺、中山(興法寺)が
 挙げられ、内山永久寺の項では「本願二人アリ、尋尊大僧正、頼實僧都・・・」とある。
  ※2014/07/12天理市平成26年度夏の文化財展講演「内山永久寺について」天理大学教授吉井敏幸 より
  内山の創建は永久年中ではあるが、伽藍は保延年中以降に整備され、それも真言堂(灌頂堂)の真言密教の堂宇が
  本堂に先行して整備される。当初は真言密教の影響が強かったものと思われる。
  しかし、中世内山は興福寺の支配下に入り、そのため大乗院系の史料では興福寺の関与が強調されたものと思われる。
「内山永久寺之縁起」:慶長5年(1600)
 ※開基を亮恵とする。これは後世の「和州旧跡幽考」「和州寺社記」なども同様である。
 亮恵は元興寺出身で、尋範の真言の師である。永久寺に真言堂などが建立され、真言の勢力が強かったからであろうか。

永久寺は鳥羽天皇の勅願により、興福寺大乗院第2世頼実が永久2年(1134)に創建したと伝える。
 <大乗院日記目録><諸寺縁起集><興福寺略年代記>
永久寺はその後頼実から尋範に伝えられ、尋範は承安3年の多武峯火災の責任を問われ、永久寺に隠退したという。
以降永久寺は興福寺大乗院の支配するところとなる。
 ※2014/07/12天理市平成26年度夏の文化財展講演「内山永久寺について」天理大学教授吉井敏幸 より
 中世には、大和の主要寺院は別格である東大寺と叡山末寺である多武峰を除き、興福寺の末寺・支配となる。
 当初は真言密教の道場という性格であったが、中世興福寺大乗院の支配下に入るということであろう。
 なお、内山上乗院は真言密教系の筆頭(院家)であり、中院は大乗院系の頭目(院家式)であった。
 興福寺の末寺化は興福寺の圧倒的力には抗し得ないということであるが、経済的にも内山の寺領は小規模な田畑からなる領地は散在する
 だけであり、また政治的にも検断権も在地の領主が握り、中世領主としての地位は弱小であったことが諸史料に見える。

創建時伽藍(置文)
本堂:保延4年(1138)創建、真言堂:保延2年創建、吉祥堂;洛陽より移す、観音堂;結崎辺より移す、御影堂:文永4年(1276)建立・高野山御影堂模写、多宝塔:保延3年建立、経蔵:永仁2年(1294)普賢寺殿経蔵買入、鐘楼、鎮守4社:南河内明神・中央春日明神・北岩上布留明神・別社白山権現、拝殿1宇:古は3間、正安2年(1300)5間に作る、玉賀喜社:弘安3年(1288)造営、温室:承安3年(1173)造作、常在院、大喜院、智恵光院・・・

鎌倉時代末期の本堂は山を背にして西面し、藤原期の本堂の規模を拡大するため、建保7年(1219)丈六の阿弥陀如来像と共に広瀬の金剛寺の堂宇を移したものとされる。 その時の、本堂はおそらく7間×7間の大堂であったようである。
真言堂(本堂西北に建つ)は保延2年(1136)に落慶し、導師は小田原寺(浄瑠璃寺)の現観房上人であるという。7間×7間の大堂。
吉祥堂(本堂東南に建つ)本尊は釈迦三尊で、吉祥天は康慶の作とし、堂と共に、おそらく京都から移築されたものとされる。
観音堂は本堂の北西前方に建ち、鐘楼は本堂の前面やや南よりに建ち、多宝塔は北西よりに建っていた。
多宝塔は、興福寺大乗院の塔と共に頼実の本願といわれ、またその外観も同様型式(八角多宝塔)であったと伝えられる。
伽藍背後の小丘の南端には大河明神(牛頭天王)、中央春日権現大明神、北端岩上に布留大明神、南向別社白山妙理権現の鎮守四社明神が祀られていた。明神前方に拝殿一宇があった。
 ※この永久寺四所明神拝殿は各種絵図に描かれる。例えば、
  享保15庚戌3月「内山永久寺金剛乗院絵図」中の「八角多宝塔」部分図」:
      この絵図では本堂東に鎮守三社・白山権現とあり、割拝殿が描かれる。
  「和州内山永久寺ノ図:多宝塔部分」:鎮守(四社明神)と割拝殿が描かれる。
なおこの拝殿は石上神宮の摂社出雲建雄神社割拝殿として移築され現存する。
 下に掲載:
 永久寺鎮守社拝殿01  永久寺鎮守社拝殿02  永久寺鎮守社拝殿03  永久寺鎮守社拝殿04  永久寺鎮守社拝殿05
 永久寺鎮守社拝殿06  永久寺鎮守社拝殿07  永久寺鎮守社拝殿08  永久寺鎮守社拝殿09  永久寺鎮守社拝殿10

大坊(大喜院);承安3年(1173)造作開始、寝殿および雑舎一宇。尋範の隠居の地という。康元2年(1258)釣殿を造作。
智恵光院:延慶3年(1310)寝殿・堂・廊・雑舎・雑屋など造営。南の智恵光院山が古の場所という。

○2014/07/12天理市平成26年度夏の文化財展講演「内山永久寺について」天理大学教授吉井敏幸 より
修験と永久寺
永久寺東の山中に奥之院、行場が存在した。
中世、当山派修験は興福寺金堂衆を中心とする興福寺末寺で構成する寺院の山伏で組織される。中世後期には内山修験(上乗院)は当山派修験の中で重きをなす。

○慶長5年(1600)「内山永久寺縁起(写)」常盤木家文書
灌頂堂以下永久寺堂塔の詳細が記される。
 ※例えば : 大塔:南面八角二重塔、保延2年6月14日建立する處、本尊正観音、恵心僧都の作
寺院の数50余坊、但し享禄2年(1559)5月火災有之、寺家ハ委焼亡しぬれは、夫より後の造作なれとも、伽藍は不思議に類焼をまぬかれたる故、皆保延の頃のままに存在せり。
  ・・・・おそらく明治の神仏分離の処置まで、主要堂塔は創建時(保延年中)の伽藍が残っていたものと推定される。

2014/07/11追加:
「改訂天理市史(本編・上巻)」1976 より
天正13年(1585)「内山惣寺寺家当知行分」には以下の56の坊舎及び石高があげられる。
 (石以下切捨)
上乗院(194石)、中院(48石)、威徳院(26石)、蓮華院(4石)、釈迦院(49石)、蓮乗院(4石)、薬師院(10石)、徳蔵院(31石)、水分坊(浄心院の前身)(5石)、円光院(21石)、角院(15石)、明王院(16石)、西院(24石)、乾坊(福恩院の前身)(9石)、観音院(13石)、持明院(7石)、唯心院(9石)、安楽院(4石)、西養院(17石)、金蔵院(1石)・・・以上の院坊は延享3年(1746)「永久寺御朱印配当」に記載あり・・、
西峰上坊(13石)、西威徳院(4石)、円禅坊(2石)、浄願院(2石)、智光坊(1石)、宗光坊(1石)、賢陽坊(23石)、善陽坊(7石)、新蔵院(13石)、学賢坊(1石)、脇防(14石)、峯上坊(28石)、聖忍坊(1石)、善慶坊(1石)、大喜院(3石)、東中坊(8石)、東西養院(6石)、奥西養院(13石)、乗仙坊(1石)、良忍坊(3石)、順光坊(1石)、洞院(1石)、興禅坊(7石)、仏生院(5石)、仏教院(12石)、北東院(33石)、同新院(7石)、龍蔵院(17石)、成福院(6石)、春陽坊(1石)、坂上坊(15石)、湯屋坊(3石)、先達坊(13石)、舜覚坊(5石)、阿弥陀院(5石)

2009/03/08追加:
「和州寺社記」<寛文6年(1666)>(「大和志」 所収)
  内山永久寺(寺領970石、坊舎72軒)
内山永久寺は鳥羽院の御願にて、御受戒の師亮恵上人開基し給ふ霊場なり、永久年中草創しし給ひ宣旨を下し賜る故に年号を以て寺号とす。其の地五胡のすがたにして内に一つの山有因茲内山と云ひ、当寛文6年までは564年に成本堂の本尊は阿弥陀如来此後かたに同弥陀の三体まします。中尊の前に多門持國の二天有傍に役行者の像普賢大黒、後堂には釈迦文珠普賢十六羅漢あり、後の庭に閼伽の井有、傍に鐘楼
あり、南の方には十一面観音堂其脇に御供所内に経堂あり、傍に十三層の石塔有、本堂坤の方に千鉢の地蔵堂、これより酉に智恵光院といふ護摩堂有り、本尊は不動明王八大童子傍に鐘楼太鼓有、潅頂堂の本尊は大日如来中間の両方には、八祖大師の檜像本尊、うしろの張付西のかたには十二天、裏には四天王、いづれも金岡が書たるよし、堂内乾の方には開山亮恵上人の御影有、此後に寳主蔵有、一切経潅頂の道具諸色有巽のかたに閼伽井有、傍に弘法大師の御影堂八角の寳塔にはいにしへ五智如来安置せしがヽいつのころか盗人とりて其後弥勒の像を安置せり、傍に丹生明紳の御社有、此山上には開山亮恵上人十三層の石塔有鎮守三社まします、春日熊野布留明紳の御社なり、傍に白山権現の社拝殿有、潅頂堂後のかたに座主上乗院の御寺あり、此内に正座の本尊とて観音堂あり此観音の開山亮恵上人男山八幡宮に參龍し給ひ、奇異の霊夢をかふむり感得し、帝へ奏聞したまふ尊像なり、帝叡感ましゝゝ七重の唐櫃に納尊秘せられ、勅符をなし下し給はり、此堂に安置し給ふとなり、上一人より下萬民にいたるまで、子孫を生する事道の常なりといへども、懐胎よりおそれなさざるは生産に及び、邪魔せうけをなして安からす、あるひは母をくるしめ、或は生る子も平かならす此尊像に信心をつくし守りをかけ尊崇し奉らば必平産うたがひあらじとの霊夢なり
一、潅頂堂下の壇の廻り百廿間餘の池有中に嶋あり、北のかたに如法経堂あり。
一、西谷薬師院と云僧坊に三重の塔あり、本尊は薬師如来乾のかたに如法経堂有。
一、東の惣門より八町程上の山に不動堂あり、是より北のかたに能堂あり。
一、惣門の外二町程束の山に玉垣大明紳の御社あり。
一、境内は方四町餘、東・南・北の谷に惣門の内に寺有、宗旨は真言坊舎五十二軒、醍醐金剛王院の法流にて當山かた山伏の法頭なり、いにしえ後醍醐天皇大塔の宮入御し給ひし御寺なり。

内山永久寺伽藍復元図

近世内山永久寺伽藍復元図:左図拡大図
  :(画像容量やや大)

堂宇については当然、時代とともに変遷がある。

また以下の坊舎については、位置が特定できないと云う。
無量寿院、北東院、西威徳院、同新坊、西安楽院、成福院、東西養院、春陽坊、奥西養院、坂上坊、円禅坊、湯屋坊、賢光坊、瞬覚坊、宗光院、阿弥陀坊、賢陽坊、善陽坊、千手院、学賢坊、南門坊、聖忍坊、龍猛院(辰巳谷奥に龍猛院池の小字が残るという)、善慶坊、吉浄院、東中坊、住心院、乗仙坊、文殊院、良忍坊、安養院、順光坊、成就院、興禅坊、浴室院、佛教院など
坊舎についても時代とともに興廃がかなりある。
辰巳谷(柴門のある谷)および東門の奥もかなりの平坦地が見られ、この付近にも坊舎が存在した可能性がある。また現在智恵光院山へは通常の装備では踏み込むことは困難と思われ、西門からの道も立入禁止?で道が封鎖されているが、この山にも地形的に見て、坊舎が存在した可能性がある。

延享3年(1746)「永久寺御朱印配当」によると(石以下切捨)
朱印高971石。内、諸伽藍修理料(120石)、塔頭52宇。
院家:上乗院(229石)、院家式:中院(33石)、
以下学侶方:威徳院(26石)、無量寿院(37石)、蓮華院(20石)、釈迦院(42石)、
以下行人方:宝幢院(30石)、蓮乗院(27石)、薬師院(16石)、慈眼院(9石)、惣持院(16石)、徳蔵院(34石)、浄心院(5石)、金剛院(22石)、円光院(21石)、龍蔵院(14石)、世尊院(33石)、普門院(7石)、知足院(17石)、延寿院(15石)、花蔵院(6石)、金寿院(42石)、角之院(15石)、明王院(16石)、西之院(8石)、福恩院(9石)、遍照院(5石)、観音院(14石)、持明院(7石)、唯心院(40石)、宝光院(7石)、多門院(1石)、
以下下僧方:良林(旧名常瞑院、1石)、十輪院(2石)、脇之坊(3石)、潮海(旧名吉祥院、4石)、仏性院(4石)、円良(旧名福寿院、2石)、
以下無高・安楽院、西養院、地蔵院、中之坊、少仁、中将、慈海、小角之坊、宝蔵院、新蔵院、東岸院、成願院、窪之院
以上の計971石となっている。
 ※江戸期大和の寺社の石高では興福寺15,033石、多武峰3,000石、東大寺2,211石、興福寺一乗院1,491石、法隆寺1,000石、吉野蔵王堂1,000石に次ぎ、 興福寺大乗院914石より多く、比較論でいえば、恵まれた石高と云える。
勿論寺院の基盤は朱印高だけではなくて、有力外護者の有無、庶民信仰の有無などの要素も大きいと思われるが、たとえば正暦寺は近世には寺領は300石に減ぜられ、 そのため80ヶ坊を超える坊舎の維持は困難で、江戸末期までにはほとんど全ての坊舎が退転したことを思えば、永久寺は優遇されていたと思われる。


内山永久寺における明治維新

神仏分離資料:
「堂取払願上書案」(鈴木家文書)
「当山内衆僧明治元辰年復飾後諸堂取払被仰付、大塔并地蔵堂等取毀候得共、其余諸堂今以存在之處、無用之廃物勿論自立堂宇ニ付、此度取払御趣意ニ基、左ニ分配仕度見込ニ御座候
 真言堂(桁梁行7間宛、屋根檜皮葺、代価見積金20円)
 本堂  (桁梁行6間宛、屋根檜皮葺、代価見積金15円)
 観音堂(桁梁行5間宛、屋根檜皮葺、代価見積金30円)
 不動堂(桁梁行3間宛、屋根檜皮葺、代価見積金5円)
 大師堂(桁梁行3間宛、屋根檜皮葺、代価見積金3円)
  合計金73円(内20円道橋営繕手当、53円戸数に配当仕・・
           内山惣代前田民夫 戸長岡田六郎
    奈良県令                             」とある。
明治初年に復飾が行われ、大塔ならびに地蔵堂など堂宇が破壊される。
まだ残った「無用之廃物」として次の堂宇の売却願いが出される。
真言堂、本堂、観音堂、不動堂、大師堂
 (以上の堂宇はしばらくは残存していたと思われる。)

明治維新の神仏分離の処置で永久寺僧侶は全員還俗し、堂塔坊舎の建造物は打ち毀され、付近住民の建築材や燃料となり、仏像・仏具・経典・文書の類はほとんどは焼かれたと云う。石垣、石段の石材も多くは運び出されたと云う。
明治7、8年頃には三社および拝殿、生産神社、玉垣弁財天社を除き、まったくの廃墟と化し、堂塔伽藍跡・坊舎跡は付近農民によって開墾され、全て農地となる。
 (※最後まで残っていた三社の拝殿は大正3年石上神宮摂社出雲建雄神社拝殿として移築。つまり、三社および拝殿は大正初頭まで「村社」として存続したと考えられる。また生産神社、玉垣弁財天社も大正初頭まで存在したことが知られる。)

2014/06/23追加:
「近世内山永久寺復元」平井良朋 より
<聞くところによると、神仏判然令を契機として、寺院の建造物は打ち壊され、付近村落住民の建築材や燃料となり、仏像も経典も焼かれ、或は持ち去れ、文書記録の類も焼却散逸の厄をうけ、維新後20年にして同地は一物も残らね廃墟と化し、本堂以下堂塔伽藍・塔頭の跡地は耕されて、地元農民の畑地となってしまった。 >

内山永久寺最後と最後から二番目の座主については以下のように記録される。(明治8年書上「内山永久寺家系」)
  ※明治8年書上「内山永久寺家系」(「近世内山永久寺復元」平井良朋 所収):
     元祖亮恵より29代の亮慎までの書上、天理図書館蔵、亮慎の書上と推定される。
・内山永久寺第28代大僧正亮珎:鷹司関白政熙息、明治元年復飾、石上神宮神勤、明治4年4月免職
・内山永久寺第29代(元法眼)亮慎:花山院右大臣家厚息、明治元年8月復飾、当時石上神宮神官

一般僧侶も最寄の神社などに身を寄せたが、所詮余剰人員であり、そのほとんどは数年のうちに、教職・官吏・警察官などに転職したと云う。
経済的基盤が崩壊したという事情は同情できるとしても、この体たらくは如何に解釈すべきであろうか。
そして、その後の僧侶の行方を示す文書は残されていないと云う。

江戸末期まで巨大な勢力と伽藍を誇った永久寺が、明治維新と云うほんの数年で、破壊し尽くされ、ほぼその姿を消し、耕地に変貌するなど、その破壊のエネルギーと僧侶の堕落は想像を超えるものがあり、如何に大きな時代の変革であったにせよ、未だに良く理解できないところである。

東京美術学校校長正木直彦は次のように記しているという。(十三松堂閑話録)
 内山永久寺は布留石上明神の神宮寺であった。永久寺廃寺の検分に役が出向くと寺僧は還俗した証拠として、役人の眼前で薪割りを以って本尊の文殊菩薩を頭から割ってしまった。さすがに廃仏毀釈の人もこの坊主の無慚な所業を憎みて坊主を放逐した。そのあとは村人が寺に闖入して、衣類調度から米塩醤鼓まで奪い去った。しかし仏像仏具は誰も持っていかず、役人は庄屋中山平八郎に命じ、中山の困惑にも関わらず、預賃料年15円で預からせた。年月とともに、これ等は中山の個人所有になっていった。今藤田家で所有する藤原期の仏像仏画の多くは中山の蔵から運んだものである。古仏・仏画は何でも二束三文であった。金泥の経巻を焼きその灰から金を採る商売が起こった。

2014/07/11追加:
○「改訂天理市史(本編・上巻)」1976 より
 永久寺及び龍福寺の僧侶は慶応4年8月復飾、布留社神宮寺の立場は廃止され、布留社の新神司(あるいは宮人)となり、神勤する。
(永久寺上乗院々主内山亮珍は神官の「社務」となる。)
 永久寺寺録は江戸期971石余が明治元年412石余、明治2年317石余、明治3年280石と漸減し明治4年には250石以下となり、それ以降3年は給付されたようである。
明治7年3月永久寺は廃寺、堂塔伽藍・諸具は入札で売却、取り払われる。
約7町歩の境内地のうち、宅地(2町2反余)は旧僧侶の居住地として半額払下げ、畑(1町9反余)の内の私費開墾地は無償払下げ、鎮守の社地及び池は官有地、藪 (1反余)・山林(2反)・荒地(1町5反余)は入札で処分される。旧僧侶達は明治20年までには何れも立ち去り、旧境内地一円は田畑に帰す。
 明治3年8月に神祇官に提出された永久寺の交名は以下の通りである。
上乗院内山亮珍・亮慎、寶幢院成瀬真治、世尊院前田民夫、内光院槙島俊雄、唯心院水野忠雄、知足院中村健治、釈迦院三浦慶治、徳蔵院徳岡環、金壽院藤井堯雄、金剛院成瀬速見、西院永井浩、梅能木計尾、蓮華院牧野民治、惣持院木村栄治、宮崎勝江、威徳院芳木倉治、角院鈴木豊治、北艮治、佛性院松井勇治、福思院福岡廣悦、三浦萬治、蓮華院宮崎勝治、前田常夫、浄心院小野義雄、牧野喜幸(以上26名)
 明治2年布留社は神祇官直接支配となり、明治4年布留社は官幣大社となる。ところが官幣大社となるということは組織が変わるということである。布留社では復飾者の内山亮珍が他の復飾者の上に立ち社人を務めていたが、官幣社となると宮司は政府の任命するところとなる。
布留社初代宮司は今園国映であり、明治6年就任する。職員は国の制度で定められ、その後多くの復飾者は神職の座を追われたものと思われる。

○2014/07/12天理市平成26年度夏の文化財展講演「内山永久寺について」天理大学教授吉井敏幸 より
永久寺が完全に廃寺となった原因は以下の通りである。
・寺組織が上乗院をトップとした上意下達の組織であったため、上乗院の還俗神勤に全寺家が従い、反対する僧侶は皆無であった。
・僧侶は貴族的性格であり、国学や尊王倒幕に傾いていた。貴族的つまり世俗的打算もあり、王政復古・廃仏神道復古の時流にわれ先に乗ったのであろう。
・地域性が欠如し、地域住民の信仰はほぼ皆無であった。寺院そのものが地域にとって無縁の存在であった。安産の神である生産神社(安産神社)ですら、貴族の安産の為 の存在であるから、神社は地域に信仰があれば通常存続が図られるはずであるが、神社ですら存続ができなかった。

内山永久寺の現状

永久寺跡地は、現状変更については法で規制されている地域と思われる。
しかしながら、西門から北門(分断)を経て、西谷・東谷の坊舎跡を掠めて2車線の道路が新設されている。
歴史的景観の保全とか、文化の発信とか云いながら、税金を投入して、史跡の破壊あるいは歴史的景観の破壊を平然と行う政治・行政というものは一体何なのだろうか。 というより、そういう行政を許す日本人とは一体何なのだろうか。

神仏分離の破壊の後、伽藍・坊舎の敷地のあとは、 ほとんど開墾され、階段状の田畑となり、段状に高低のある畦畔には、伽藍、坊舎の敷地を形成すべく盛土した際に築かれた石垣が、多く残存する。
残念なことにおそらく高度成長期のころと推定されるが、主要伽藍・主要坊舎跡の敷地は果樹園のビニールハウス化し、景観を損ねているのが現状である。

東海道自然歩道が北門−大亀池−南門を貫く。しかし、西門付近は今は耕作も放棄され、ほとんど人が寄り付かない土地と化し荒れている。
智恵光院山は、放置され、通常の装備では踏み込むのは無理と思われるほど荒れている。(私有地か?)
2012/02/18追加:東から西門に至る道は全く放棄され、以前に比しても竹林の侵食が激しくなり、通常の歩行はほぼ困難と化す。

◆現在の景観:

左の写真;西養院跡北から:中央の谷筋が東谷、中央右が多宝塔・御影堂のあった地点、下ビニールハウスは普門院跡。

下左写真:西養院跡北から:中央が智恵光院山、その麓は大亀池、中央左奥は南門に続く谷筋、手前ビニールハウスは西養院跡。

下の写真:西養院跡北から:上方は智恵光院山尾根、その麓ビニールハウスは徳蔵院・惣持院など跡地、その右やや下の繁みが三重塔跡、手前ビニールハウスは西養院跡。

現在、伽藍坊舎跡以外に地上に残る遺構で以下がある。
○大亀池・中島
2003/05/28撮影:
 大  亀 池(約3000平方m)、その池中の中島(約1200平方m)
(なお中島の水辺には、昔の庭石と思われる大きな自然石が二個、半ば水面に姿を現わし、あとの数個は水面下1m程の所に横たわっているといわれる。)
中島には「内山永久寺記念碑」が侘しく建つ。
2014/06/15撮影:
 内山永久寺西門跡
 内山永久寺本堂/鎮守跡:中央果樹園付近が本堂跡であろうか。中央やや左の丘の麓が鎮守であろうか。
 内山永久寺跡:中央農道を上がり軽トラの右の農道を進めば右に鐘楼、正面に本堂、中央丘の麓に鎮守社・同拝殿、軽トラの左方向に多宝塔があったものと推定される。
 大亀池/中島2     大亀池/中島3
 鐘楼付近出土瓦1     鐘楼付近出土瓦2:天理市観光物産センター展示(期間限定)、鐘楼附近で出土という。瓦は中世のものが出土し、近世のものはほとんど出土しないところから、明治維新の破壊かで中世の建物が残っていた可能性が強いという。

◆三重塔跡・歴代供養石塔
三重塔跡土壇北側に永久寺歴代住職の供養塔が8基残存する。
蔓草と茨などで通常の服装では踏み込むのは困難である。
 (2003年6月初旬では土壇の外からは辛うじてその内の1基の頭が見えるだけであった。)
 (2005/正月の冬場でも、草刈などは行われれず、跡地の観察は相当困難であった。)
 (2012/02/18:西面及び北面の縁は苅込が行われるも、墓碑正面の銘確認は出来ず、墓碑正面の苅込を実施して撮影する。
  運良く西面・北面の縁の苅込が行われれていたのは、隣接する畑に猪避けの柵を設置するために、畑所有者が行ったものと思われる。)
内山永久寺伽藍図(三重塔部分図)には 「塔」の北に「上乗院家廟所」の書き込みがあり、これに相当する。

    ↑北    
7号 6号 5号 4号 3号
8号       2号
8号南       1号
    塔跡
平面
   
        亮珍墓
         
文献によると西面3基(1〜3号)、南面4基(4〜7号)、東面1基(8号)の計8基が「コ」字形に配置されていると云う。
おおよそ左のような配置と思われる。

1号:無縫塔(塔身高90cm)、當山第廿■世前大僧正法印亮維大和尚位
2号:高さ約28cmの直方体石材(地輪)の上に五輪塔の円球(水輪)を積む:無銘
3号;高さ約25cmの直方体(地輪)に五輪塔の半球(風輪)宝珠(空輪)を積む:無銘
4号:上部に蓮華座を持つ直方体石材の上に高さ約127cmの蓮華座を積む:無銘
5号:無縫塔(塔身高86cm)、當山第二十四世大僧都法印亮賢大和尚位
6号:無縫塔(塔身高85cm)、■■■世大僧都法印寛恕大和尚位
7号:無縫塔(塔身高90cm)、當山第二十六世権僧正亮運大和尚位
8号:無縫塔(塔身高92cm)、當山第二十七世僧正亮観大和尚位
別途以下がある。
亮珍墓:石碑
8号南:散在石碑を積んだもの:この存在は不確実

2012/02/18撮影:
 歴代供養塔群1:手前8号、奥左から7号、6号、5号      歴代供養塔群2:左から7号、6号、5号
 歴代供養塔群3:左から5号、6号、7号              歴代供養塔群4:左から6号、7号

2014/06/15撮影:
本年(平成26年/2014年)は内山永久寺創建900周年・天理市制60周年ということで、それの記念事業の一環なのであろうか、茨が繁茂していた内山永久寺三重塔跡/末期の歴代 供養塔群が整備される。
茨などは刈られ、砂利が散かれ、墓石の一部の移動が行われ、また倒壊していたと推定される4号無縫塔が復原される。
以上によって、茨の繁茂に隠れていた全容が明らかとなる。
整備の過程で墓石は、上図のような配置から、次のように配置が変更されたものと思われる。
2014/07/19追加;
この墓地について以下のことが判明する。
1)この墓地(土地)は常盤木家の所有である。
2)常盤木家としては、墓地が荒れ放題であることは気にかかっていたが、整備の機会を逸し、本年(2014)春に墓地の整備を終える。従って、特に永久寺900周年などを意識したものではない。
3)倒壊していた墓石1基(23世無縫塔)は起こし、北側角にある2基は法面が迫り、危険であるので、南方面に設置替を実施する。
4)永久寺最後の住職である(常盤木)亮慎氏から現在まで、常盤木家は和泉大願寺(浄土宗/阪南市下出)住職を務める。現住は常盤木慈友師であり、亮慎氏から数えて5世という。勿論内山永久寺と大願寺とは何の関係もない。
5)現住・慈友師の談によれば、祖父から常盤木家は内山永久寺の末裔と聞いているだけで、墓所の詳細や常盤木家の詳細については全く承知していない。ただ祖父は東京生まれであり、これは花山院家が華族であったからである。
    ↑北    
  6号 5号    
8号     3号
2号
 
8号南     1号  
7号     4号  
  塔跡
平面
  亮珍墓
         
配置の変更:
1)4号(上下に蓮華座を積んだもの)を1号の南に移設し、さらにその上に新たに無縫塔を載せる形に変更する。
4号無縫塔はその存在が知られていなく、今般の整備で蓮華座から転倒し地面に落ちてたのが発見されたものと推定される。転倒の時に欠けたのであろうか、無縫塔の上部側面と下部を多少欠く状態である。
新しく発見された4号無縫塔は以下のように刻む。

4号:當山二十三世前大僧正亮忠大和[尚位]【大炊御門左大臣経孝息】

2)7号を「8号南の石碑」の南に移設する。

2014/06/15撮影:

 歴代供養塔群11:左から時計回りに7号、8号南(ごく一部が写る)、8号、6号、5号、3号、2号、1号、4号
 歴代供養塔群12:左から時計回りに7号、8号南、8号、6号、5号、3号、2号、1号、4号、亮珍墓
 歴代供養塔群13;左図拡大図:
左から時計回りに7号、8号、6号、5号、3号、2号、1号、4号
 歴代供養塔群14:左から時計回りに7号、8号南(ごく一部が写る)、8号、6号、5号、2号、1号、4号
 歴代供養塔群15:左から3号、2号、1号、4号
 歴代供養塔群16:左から時計回りに8号南、8号、6号、5号、3号、2号
 歴代供養塔群17:左から時計回りに7号、8号南、8号、6号、5号
 歴代供養塔群18:左から6号、5号
 歴代供養塔群19:左から7号、8号南、8号

1号:無縫塔(塔身高90cm)、當山第廿■世前大僧正法印亮維大和尚位【法印亮維は法印亮雄か、四辻大納言秀継息】
    2003/06/04撮影:1号無縫塔01
    2014/06/14撮影:1号無縫塔10;■は二か三と判読可能という。4号の碑文が二十三世であることが判明したので、二十二世と確定。
2号:高さ約28cmの直方体石材(地輪)の上に五輪塔の円球(水輪)を積む:無銘
    2003/06/04撮影:2号無銘墳墓01
    2014/06/14撮影:2号無銘墳墓10
3号;高さ約25cmの直方体(地輪)に五輪塔の半球(風輪)宝珠(空輪)を積む:無銘
    2014/06/14撮影:3号無銘墳墓10
4号:上部に蓮華座を持つ直方体石材の上に高さ約127cmの蓮華座を積む:無銘
    2012/02/18撮影:4号無銘墳墓01    4号無銘墳墓02
    2014/06/14撮影:4号無縫塔10
                4号無縫塔裏面:寶永三丙戌年八月(日は剥落):宝永3年は1706年
   新たに無縫塔を載せる:當山二十三世前大僧正亮忠大和[尚位]【大炊御門左大臣経孝息】
5号:無縫塔(塔身高86cm)、當山第二十四世大僧都法印亮賢大和尚位【大炊御門左大臣経光息】
    2003/06/04撮影:5号無縫塔01     5号無縫塔02
    2012/02/18撮影:5号無縫塔03     5号無縫塔04     5号無縫塔05     5号無縫塔06
    2014/06/14撮影:5号無縫塔10:年紀はあるも判読できず
6号:無縫塔(塔身高85cm)、■■■世大僧都法印寛恕大和尚位【法印寛恕は法印實恕か、三条権大納言公充息】
     ※おそらく25世と思われるも、確定はできない。(少僧都亮榮が25世の可能性あり)
    2012/02/18撮影:6号無縫塔01     6号無縫塔02
    2014/06/14撮影:6号無縫塔10:年紀はあるも判読できず
7号:無縫塔(塔身高90cm)、當山第二十六世権僧正亮運大和尚位【三条右大臣實顕息】
    2012/02/18撮影:7号無縫塔01     7号無縫塔02     7号無縫塔03     7号無縫塔04
    2014/06/14撮影:7号無縫塔10;天明3癸卯年・・・:天明3年は1783年
8号:無縫塔(塔身高92cm)、當山第二十七世僧正亮観大和尚位【六条御門右大臣家孝息】
    2003/06/04撮影:8号無縫塔01     8号無縫塔02
    2012/02/18撮影:8号無縫塔03
    2014/06/14撮影:8号無縫塔10:年紀の刻銘はなしと思われる。
      ※【】内は明治8年書上「内山永久寺家系」(「近世内山永久寺復元」平井良朋 所収):
           元祖亮恵より29代の亮慎までの書上、天理図書館蔵、亮慎の書上と推定される。 より転載。

以上のほかに次の墓碑一基がある。
亮珍墓:石碑に銘を刻んだもの
    2005/01/03撮影:藤原亮珍墓01     藤原亮珍墓02
    2014/06/15撮影:藤原亮珍墓10
     亮珍墓:以下の銘が刻まれる。
      「明治5年10月3日死
        常盤木藤原亮珍墓
        (享年67歳3ケ月)か?」
      ※藤原亮珍:神仏分離資料によると、
       「内山永久寺第28代大僧正亮珎:鷹司関白政熙息、明治元年復飾、石上神宮神勤、明治4年4月免職 」とあり、
       藤原亮珍とは最後から二番目の内山永久寺貫主大僧正亮珎(「珎」は「珍」の俗字・藤原氏出身)であろう。
       明治4年石上神社神主免職の翌年おそらく失意の内に亡くなったと推測される。
       おそらく、歿後何らかの縁故者が、歴代住職の眠るこの地に墓碑を建てたものと推定される。
8号南:散在石碑を積んだもの:この存在は不確実
    2012/02/18撮影:8号南遺物?:台石と角石柱の寄せ集めか?、銘があると思われるも全く読めない。
    2014/06/15撮影:8号南石碑10;次の銘文を刻む。
                 寶永三丙戌年八月■■
                奉 ■■■     一基
                 上乗院亮■(賢か)造處之
                  ※「奉 ■■■     一基」の肝心の部分が判読できず、この石碑の性格を特定できない。

以上のように、三重塔の北側は院家上乗院廟所であったとされ、供養塔が現存する。
 (内山永久寺の歴史と美術」ではこの供養塔が置かれた経緯は不明とする。)
しかし、現在の供養塔の配置では平面積上、三重塔と供養塔が並存していたとは考え難く、明治維新後供養塔が多少移設されたことも考えられる。(推測)
最後から二番目の住職の墓(藤原亮珍墓)については、建立年代も不詳でかつ刻銘も「素っ気」なく、どのような縁故者の建立なのかも不明であるが、ともかく 、亮珍の歿後「上乗院廟所・・二十世代の住持の供養塔の並ぶ一角」に亮珍は埋葬され、墓碑が建立されたと思われる。

閑話休題:(2012/03/25追加)
上述のように、内山永久寺最後の座主(住職)は(元法眼)亮慎と知れる。
亮慎の略歴は
「内山永久寺第29代(元法眼)亮慎:花山院右大臣家厚息、明治元年8月復飾、当時石上神宮神官」
とされる。
 これに従えば、亮慎は花山院家(藤原北家師実流の嫡流。清華家。江戸期の家禄は概ね715石)の出身と云う。
以上を花山院家譜で見ると以下の通りである。・・・<「Miyamoto」氏ご教示>
  花山院愛徳 ―家厚 ┬女子(梅。飛鳥井雅典妻。華族家系大成では、天保2年(1831)5月12日生-明治7年(1874)1月22没)
    ├家正(正四位下。侍従。天保5年(1834)生。天保11年(1840)2月卒)
    ├家理 ┬家長(改家威。家厚養子)
    ├貞丸(高野山大乗院弟子)
    ├忠丸(諏訪社別当神宮寺弟子。後神職。神原家養子)
    └三代丸(東寺観智院大僧正弟子。難波宗礼養子)
    ├男子(助丸。山門。早世)
    ├男子(実家理男。上乗院大僧正亮珍附弟。後神職。常盤木亮慎)
    └家威(元家長。母家女房。実家理男。正四位下。右少将。安政4年(1857)8月1日生)

 ◇花山院家譜:東京大学資料編纂所>所蔵史料目録データベース より

※愛徳(通斎山人)は「河内名所圖會」及び「和泉名所圖會」の「序」を書く。
※家厚養子(家理息)の常盤木亮慎が上乗院大僧正亮珍附弟と知れる。つまり亮慎は内山永久寺最後の座主(上乗院住職)・永久寺第29世である。慶応4年還俗し、布留社神官となるも、その後の消息は管見にして不明。
 →2014/07/19追加:上述のように、常盤木亮慎の後裔の談によれば、
  亮慎はその経緯は不明であるが、和泉大願寺の住持に転身したという。
※忠丸は「諏訪社別当神宮寺弟子。後神職。神原家養子。」とある。諏訪別当とは信濃諏訪明神なのか、信濃諏訪明神であるならば上社神宮寺なのか下社神宮寺なのかこれも未調査で不明。常識的には下諏訪神宮寺と推測されるが、現段階では推測である。

花山院家理こと:情報提供を乞う(2012/03/25追加)
 <以下「Miyamoto」氏ご提供>
家理は家威(家長)、常盤木亮慎の実父。
復古記」(王政復古関係史料集・東京帝国大学蔵版か)では (勿論「官軍」の論理で)
「初め花山院家理「前左中将○家威の父」罪あり、河内に屏居す、客臘、西海道鎮撫の内旨を受くると称し、浪徒を率いて、周防室積港に至る、其党の赤馬関「長門」に在る者、肥後天草、豊前四日市を鹵掠し、遂に馬城峯「豊前に在り」に拠り、旁近の諸藩に移檄して、家理の義兵を挙くるを報す、是日、長門藩、吏を室積に遣り、家理を拘留す、長崎会議所も亦、兵「二小隊」を天草に遣り、之を鎮す。」と 云う。
 要するに
「慶應四年正月に、筑前浪士、九州各地の社人・豪農子弟(いわゆる草莽層)などが、「花山院家理」を盟主として御許山に挙兵し、日田幕領西国郡代支配下の四日市陣屋を襲撃する。」
盟主花山院家理は「河内から周防国室積」まで到達するも「そこで長州藩吏に拘束され、京都送還、挙兵は長州正規軍」によって鎮圧される。
 家理の行動・人物像は以上の通りであり、拘束前は「河内に屏居す」ということであるが、その河内の「屏居」地が現在のところ不明である。
 河内と云ってもある程度は広い。淀川左岸(枚方・四条繩手・寝屋川など)なのか、大和川流域(松原・藤井寺・八尾など)なのか、金剛山西側(羽曳野・河内長野など)なのか皆目情報がなく見当もつかない。

 → 花山院家理は幕末頃の河内国に「屏居」と云う。
   花山院家理の河内における「屏居」などの「足跡情報」をお持ちの方のご一報を乞う。

(2014/07/19追加)内山永久寺上乗院最後の住職(常盤木氏)の末裔
1)常盤木氏の末裔は和泉大願寺住職を務め、現住は亮慎氏から数えて5世という。(上述)
2)花山院家理について大願寺現住の談は以下のとおり。
花山院家理の名前は承知している。しかし詳しい事績については不案内である。従って家理の河内における「足跡」などは全く承知をしていない。

(2014/09/03追加)<「Miyamoto」氏ご提供情報>
「国事鞅掌報効志士人名録 上・下」史談会、明治42年・44年 所収 「兵庫縣の部」→「児島長年」の項 に花山院家理の消息がある。
以下その抜粋である。
 ・・・・慶応2年(1866)児島長年、大阪上本町地蔵坂に家塾を開き、諸生を教え、傍ら諸藩の有志と交友する。この間花山院家厚(故従一位)長年の家に遇して交を結べり。・・・・
  ※慶応2年花山院家厚が児島長年の家塾に遇するとあるが、「Miyamoto」氏の見解は次のようである。
  家厚の身分・年齢・性格を考 えたら、浮浪に近い児島長年とひと月もあばら家(?)に同居することなどあり得ないから、
  これは家理のことであろう。また、慶応2年8月に家厚は逝去している。
 ・・・・慶応3年(1867)京に上り・・・曾々時運大に動く。長年花山院家理(故従二位)を擁し兵を九州の挙げんと期す。・・・長年・・・奔走一貴紳の下向を請ふ。朝廷家理を推す。長年乃ち家理を伴い覺法寺(周防大島郡久賀村・東本願寺派、当時は大洲鐵然が住職であった)に至る。・・・・
 ※なお、家理は篠山藩御預けのあと明治35年まで生きていたようである。
→遇した長年の家が大阪上本町地蔵坂とは微妙な位置で、ここは摂津の東端に近い位置であり、河内の西端に近い場所である。
 

 □石塔残欠?(三重塔南の威徳院跡地には石塔残欠と思われる遺物が放置される。更に付近には石製九輪も散乱する。)
 2012/02/18撮影:
  石塔残欠?2: 上記の写真の台石に燈籠の上部が載せられたようである。

以上の他には(足を入れることが困難な場所は未確認であるが)
例えば本堂など伽藍主要部坊舎跡敷地(写真は南谷)西門跡(想定地)に見られるように、地上には何の標識もなく、かつ特に特徴的な遺物もなく、ほとんどは田畑もしくは荒地があるのみで、ここにかって大伽藍があり、その伽藍をイメージするには「相当な知識」が必要であるというのも頷ける情景である。

2014/09/22追加:
未確認情報「杣之内峯堂/内山永久寺歴代住職無縫塔」
天理市文化財課より次の情報を得る。
内山永久寺跡にある住職の無縫塔とは別に歴代永久寺住職の無縫塔がある。
 「その場所は天理峯塚古墳(天理市杣之内町峯堂)近くから北側に登ったところの墓地にある。」
場所を整理すると、
杣之内薬師堂の北方あるいは杣之内白山権現の西方の岡に中腹に墓地がある。その位置はいずれも直線距離で、杣之内薬師堂の北方約200m、杣之内白山権現の西方約200mの所にある。
最も分かり易いのは天理の峯塚古墳への分岐である六地蔵に至り、六地蔵から北側に坂を上ればすぐ墓地に至る。
峯塚古墳は六地蔵から東に入ればすぐに古墳はある。
 杣之内峯堂六地蔵:墓地入口であるので六地蔵を祀るのであろうか。六地蔵向かって右(東)・六地蔵横に入れば、峯塚古墳に至る。右・六地蔵前を通り、坂を登ればすぐに墓地に至る。
 杣之内峯塚古墳1     杣之内峯塚古墳2     杣之内峯塚古墳3
2014/09/13撮影:
 現地は東西に長いかなり広大な墓地で数百基の一般人の墓碑に混ざり、僧侶の墓碑とみられる墓碑が点在する。
僧侶とみられる墓碑は、船形五輪塔(舟形光背に彫られた五輪塔)、船形宝篋印塔(舟形光背に彫られた宝篋印塔)、船形宝塔(舟形光背に彫られた宝塔)、船形墓碑(舟形光背に戒名あるいは僧位及び僧名などを刻した墓碑)であり、おそらくは数十基はあると思われる。年紀は確認したものではすべて江戸後期のものである。
 しかし、しかし残念ならが無縫塔はなく、また探した限りでは寺院名の判明する墓碑はなく、僧侶の墓碑の僧位及び僧名からでは、果たして永久寺の住職あるいは寺中の住職であるのかどうかは全く判断することはできない。
唯一、墓地の西端の一画は布留社物部連の墓碑と思われる「異様」な墓碑が30基前後並ぶ。ここには通常の長方形の墓碑が少数あるが、大部は「異様」な墓碑である。「異様」という意味は五輪塔の基礎(基礎としては小さいので五輪塔の基礎ではないかもしれない)と思われる上に五輪塔の空輪(宝珠)あるいは五輪塔空輪と風輪(半丸)あるいは五輪塔の蓮華座と空輪をのせた思われる墓標である。そして空輪(宝珠)には梵字もしくは戒名を刻むものである。
神職を仏式で弔らえばそのような形式になるのはどうかは知らないが、近世の布留社の神職(物部氏)は五輪塔の墓碑で埋葬されるも、明治の神仏分離の処置で五輪塔は撤去され、遺骨の上に基礎を置き、その上に撤去破壊した五輪塔の空輪(宝珠)を載せる「改造」を行ったのであろうか。
 推定僧侶の墓石1    推定僧侶の墓石2    推定僧侶の墓石3    推定布留社神官の墓石1    推定布留社神官の墓石2

内山永久寺の残存什宝

建築
◆永久寺鎮守四所明神拝殿
現在は布留社(石上神宮)摂社・出雲建雄神社拝殿(国宝・文永<1264-75>頃の建立と推定)として現存する。
2003/05/28撮影:
 出雲建雄神社拝殿
四所明神は明治43年石上神宮末社猿田彦神社に合祀されるまで、現地に存在したと云われる。
 (大正3年の移建とも云う。)
石上神宮蔵宝物写真帖には、明治初年頃の、永久寺の他の建物がすべて失われていたにもかかわらず、この拝殿だけが間口七間の姿で畑地の真中に取残されていた頃の写真が残されているという。
その他護摩堂(江戸期)、坊舎の建物・山門がわずかに近辺の寺院に残ると云う。
2012/02/18撮影:
 永久寺鎮守社拝殿01  永久寺鎮守社拝殿02  永久寺鎮守社拝殿03  永久寺鎮守社拝殿04  永久寺鎮守社拝殿05
 永久寺鎮守社拝殿06  永久寺鎮守社拝殿07  永久寺鎮守社拝殿08  永久寺鎮守社拝殿09  永久寺鎮守社拝殿10
  ※内山永久寺拝殿写真はいずれも下のある「附録:石上神宮(布留社)」に掲載

2012/03/25追加:
◆内山永久寺参詣道:上街道(浄国寺北側)から西門まで約20町の参詣道には石畳が敷設されていたと伝える。
 ※昭和6年生まれという地元の古老の談:永久寺という立派な伽藍があり、参道は石畳であったと聞いてはいるが、戦前にも既に石畳は無かったと記憶している。
2014/06/15撮影:
 内山永久寺参道:上街道、浄國寺前から内山西門方面を臨む。 参詣道の雰囲気は残すものの、石畳は望むべくもない。
2014/07/12撮影:
 内山永久寺参道2
◆天理市勾田浄国寺山門:内山永久寺から移されると云う。
しかし、浄国寺山門とする安永4年(1775)の棟札が残ると云い、であるならばこの山門は永久寺からの移建ではないとするしかない。
2014/06/15撮影:
勾田町浄國寺は天正19年(1591)良脱上人が草堂を建てたのが草創といい、当初は絵仏を本尊としていたので「絵堂」と呼ばれる。
上街道と内山永久寺への参道が交差する辻に位置し、絵堂辻ともいわれる。
 勾田浄國寺山門1     勾田浄國寺山門2     勾田浄國寺山門3     勾田浄國寺山門4     勾田浄國寺山門5
2014/07/12撮影:
 勾田浄國寺     勾田浄國寺山門7     勾田浄國寺山門8     勾田浄國寺山門9
◆天理市六条光明寺山門:天理市六条町南垣内(南六条町504):融通念仏宗
一間棟門・本瓦葺の小規模山門がある。寺伝には何も伝承はない。しかし総代吉田氏は子供の頃から永久寺から移したと聞いていたと云う。「天理市史」では永久寺北門とする。しかし北門であった確証はない。(北門を「大和名所圖會」の「永久寺門前の図」などで見ると大規模な門とは思われない。) 何れにせよはっきりとはしないが、しかしこの山門が永久寺の何れかの子院の門であったことは十分に考えられる。
2014/06/15撮影;
 六条光明寺山門1     六条光明寺山門2
 六条光明寺山門3:内山という大寺の寺門 (永久寺北門)としては少々簡素な門でありすぎると思われるが、いかがであろうか。
 2014/06/15撮影;
 ○参考:小路町八幡宮(永久寺とはほとんど無関係である)
  光明寺の南東数町に小路町八幡宮がある。鳥居は北面し道路を挟んで北側に弥勒堂があり、本尊は石造弥勒菩薩という。
  本八幡宮と本弥勒堂との関係は情報がなく不詳であるが、八幡宮の本地堂あるいは宮寺の遺構とも思われる位置関係にある。
  後日の情報に俟つ。
   小路町八幡宮:一間春日造の社殿は2棟並ぶようであるが、その意味は不明。
   小路町弥勒堂:八幡宮と関係あるとして、なぜ弥勒堂なのかは不明、宇佐宮八幡と弥勒寺との関係を表したものなのであろうか。
2014/06/11追加;
「内山永久寺の歴史と美術−調査研究報告書内山永久寺置文」 より
◆天理市九条浄福寺本堂;天理市九条町126、真宗興正寺派、天文年中創建、現在無住。
桁行4間、梁間3間、寄棟造、妻入り本瓦葺。永久寺護摩堂を移建したと伝える。しかし内部はほとんど煤けた様子はないという。
明治2年7月年紀の「本堂再建奇進」の木札が外陣に打ち付けてあるので、その時の移建であろう。また明確な移建の痕跡はないが、永久寺から移建されたとしても良いであろう。但し構造手法は簡素な堂である。
2014/06/15撮影;
浄福寺は現在無住で廃寺同然の様相を呈する。境内は狭く、山門もなく、恐らくは庫裡を兼ねる本堂一宇のみの寺院である。
無住になって久しいようで境内は荒れ、堂は破れ、永久寺の遺構の可能性の高い建築として何とか修理・保存を願うものである。
 九条浄福寺本堂1     九条浄福寺本堂2     九条浄福寺本堂3
 九条浄福寺本堂4     九条浄福寺本堂5     九条浄福寺本堂6
 2014/06/15撮影;
 ○参考:井戸堂妙観寺(白山大権現妙観寺)・・・(永久寺とはほとんど無関係である)
 現在は観音堂及び本尊十一面観音立像(重文)、鐘楼、十三重石塔、石仏などを残す。
 本尊十一面観音立像は天平期の塑像の木芯を用い、平安後期に寄木造で製作した像高245cmの巨像であり、重文指定。
 「日本の神々4」では以下のように述べるという。
 1)布留社古文書に「白山大権現両井戸堂村」とあり、更に「中社・氏神白山大権現一社 弁才天一社 拝殿一カ所 観音堂一カ所
  十一面観音脇立二体 釣鐘堂 行者堂」とある。
 2)山辺郡誌に記されている社寺取調書上書の絵図では、南の鳥居を入った正面に観音堂が北面し、西側に大日堂・薬師堂・行者堂、
 東側に釣鐘堂、境内東北隅に妙観寺が配されている。
 観音堂の本尊・十一面観音は白山権現の本地とされるが、その観音像の制作年代から推して、かなり古い時代に白山権現が勧請された
 ものと想像され、道長の金峰山詣での際には、すでに多くの社寺が並び建っていたものと思われる。
 ※「御堂関白記」寛弘4年(1007)8月4日条に、「藤原道長が金峰山詣での途次、井外堂(井戸堂)に一泊す」とある。
 道長は3月2日丑の刻京を発ち、男山八幡、奈良大安寺等に参籠祈願、三日目の3月4日井戸堂に参籠終日誦経祈願、
 翌朝多く供物して八木軽寺に向かって出発す。
 ※井外堂(井戸堂)とは井戸の上に観音像を祀る故の謂いであるという。
 ※現在白山権現は山辺御縣座神社の論社(もう一社は別所町)という。もとより復古神道家や国学者の付会でしかなく、
 論ずる必要もないが、妙観寺の鎮守もしくは白山権現が妙観寺と号したものであったのであろう。
 ※妙観寺は植福山と号し、江戸期には豊山小池坊末寺であったといい、明治の神仏分離の処置で廃寺となる。
  妙観寺観音堂1     妙観寺観音堂2     妙観寺観音堂内部
  妙観寺鐘楼        妙観寺十三重石塔
◆杣之内薬師堂:永久寺西の都■(示す編におおざとの文字)山口神社の西の一段高い丘上にある。
元は永久寺唯心院に属するという。唯心院は南門から続く参道の途中東側にある。行人方に属し、延享3年では40石を受ける。
桁行3間、梁間2間、切妻造、屋根桟瓦葺。外部は桁から上が失われ切妻屋根が架けられるも、本来は優れた意匠であったと推測される。内部の造作は丁重である。移築された痕跡が残り、永久寺のどの建物なのかは分からないが、子院の持仏堂のような建物が移築されたと推測される。建立年代も不明であるが、意匠類から推測すれば江戸初期のものであろう。
2014/06/15撮影:
 杣之内薬師堂11     杣之内薬師堂12     杣之内薬師堂13     杣之内薬師堂14     杣之内薬師堂15
 杣之内薬師堂16     杣之内薬師堂17     杣之内薬師堂18     杣之内薬師堂19     杣之内薬師堂20
 杣之内薬師堂21     杣之内薬師堂22     杣之内薬師堂23
本尊薬師如来は藤原期のものと推定され、もとヤケド塚の上にあったが火災に罹り、明治初年に今の地に遷される。
◆天理市勾田善福寺山門:天理市勾田町(史跡西山古墳北)、浄土宗知恩院末。
欅造の一間棟門。寺では永久寺通用門の一つであったと伝える。記録等は無いが、永久寺寺中の表門であった可能性は少なくないと考えられる。(「天理市史」)
 勾田善福寺山門・・・撤去前の山門写真である。次に示すように現在この門は撤去され現存しない。
2014/06/15撮影:
内山永久寺の何れかの子院の山門である可能性のある山門は近年(10年ほど前であろうか)新たに欅材で造替され、残念ながら内山永久寺の遺構の可能性のある門は撤去される。寺院側の説明では部材はすべて廃棄する という。但し大きさや形状は旧軌とほぼ同一という。
 勾田善福寺造替山門1     勾田善福寺造替山門2     勾田善福寺造替山門3
 ○参考:杣之内西山古墳
 2014/06/15撮影(永久寺とはほとんど無関係であるが、永久寺参道が古墳の南辺を通る。):
  杣之内西山古墳:3段構築で1段目は前方後方墳、2、3段目は前方後円墳の形状を持つ。前方後方墳では全国第一位の墳丘長を有する。
◆浄国寺山門:天理市勾田町147
上に記述。(「天理市史」) 
◆光明寺山門;天理市南六条町504
上に記述。(「天理市史」)
2014/07/12撮影:
「天理市制60周年記念 内山永久寺の残像」展示
◆奈良市杏町光楽寺本堂:内山永久寺智恵光院観音堂(寛政3年/1791年建立)を明治8年本堂として移建したものという。
おそらく競売によって購入したものであろう。永久寺の現存する堂宇の内で唯一の大堂である。この意味で近世末期のものではあるが貴重である。
 ※光楽寺は明和2年(1756)開基、高龍山と号し、真宗本願寺派に属する。奈良市杏町111。
 杏町光楽寺本堂(展示写真を2014/07/12撮影)
なお本堂には本尊とともに、内山永久寺伝来と伝える大日如来坐像を安置する。また永久寺からの伝来という香炉も所有する。
 ※智恵光院観音堂の情報は殆ど無いが、僅かに次の絵図(既出)に描かれる。
 和州内山永久寺之図和州内山永久寺之図2)、明治図全図和州内山永久寺之図写本
 なお、展示解説では智恵光院観音堂を寛政3年(1791)建立とするが、その根拠は不明。
 大和名所圖繪以前の繪圖には描かれないと思われるので、江戸後期に建立された堂宇であろうか。
 そうであるならば、寛政3年建立という解説の年紀は妥当であろう。
2014/07/19撮影:
 門徒宗光楽寺は町中に<不釣り合い>な本堂を構える。<不釣り合い>とは境内が狭く、その狭い境内いっぱいに本堂が建ち寺院の構えとしてはおよそバランスを欠くからである。
聞けば、もともと光楽寺は門徒が集い念仏を唱える会所のような存在であったが、いつしか手狭となり、その解消の「ため、内山の堂宇を本堂として購入する。購入資金は、当時の信徒衆が資金を出し合い、作ったという。
 杏町光楽寺:全容、向かって右の門は門徒宗常蓮寺山門

杏町光楽寺本堂11
杏町光楽寺本堂12;左図拡大図
杏町光楽寺本堂13
杏町光楽寺本堂14
杏町光楽寺本堂15
杏町光楽寺本堂16
杏町光楽寺本堂17
杏町光楽寺本堂18
杏町光楽寺本堂19
杏町光楽寺本堂20
杏町光楽寺本堂21
杏町光楽寺本堂22
杏町光楽寺本堂23
杏町光楽寺本堂24
杏町光楽寺本堂25
杏町光楽寺本堂26
光楽寺不動明王石仏
 ※天文12年(1543)の年紀がある。
もとより光楽寺のものではなく、信徒が寄進したものという。(内山とは勿論無関係である。)

 本堂の正面は5間(側面は見えないので不明)であるが、脇間の1間がかなり広く、中央3間は脇間に比して極端に狭い類例のない造りである。また中央3間に1間の向拝を付設する。向拝の梁上には2組(合計4個)の組物(出三斗)と中央に龍の彫刻の蟇股を置く。これも類例のない造りである。江戸後期ではあるが、なか々々の大堂で現在知られる永久寺遺構のなかで唯一の大型建物である。
柱・梁などの大材は欅材を用いる。近年床下など白蟻の害が目立つ為、修理を行うという。さらに平成22年屋根葺替工事を実施する。
 智恵光院観音堂が描かれる繪圖の原図と思われる和州内山永久寺之図では 、智恵光院観音堂を入母屋造、5×5、広縁付設、向拝はなく、正面屋根は唐破風として描く。勿論。この繪圖に描かれる堂宇の姿の正確性は不明であるが、現本堂と繪圖の観音堂の比較では、入母屋造や広縁は合致するが唐破風は合致しない。柱間は意識して正面5間に描いたかどうか分からないため、判断不能とするしかないであろう。
 解説や光楽寺様談では本堂は125円で落札という。この125円での落札という話はおそらく「大和古物拾遺」岡本彰夫(興福寺春日明神権宮司)、ペリカン社、2010 が出所であろうと思われる。
 ※明治8年内山永久寺の伽藍が競売にかけられ、観音堂(本堂)は125円で落札、杏村光楽寺に現存する。(未見)

◆天理市兵庫町神護寺山門:
兵庫町神護寺は大和神社の神宮寺の一つで、観源坊、南之坊とも称する。
大和神社の拝殿の南北に南の坊、北の坊があったというが詳細不明、南の坊とはこの神宮寺(神護寺)のことであろう。 (但し現在の拝殿から見れば北側にある。)
山門は内山永久寺から移建という。元真言宗で、現在は融通念仏宗。南には牛頭天王があり、薬師堂の薬師如来は明治の神仏分離の処置で神護寺に遷座という。
 兵庫町神護寺山門(展示写真を2014/07/12撮影)
2014/09/13撮影:
内山永久寺から移建というからそうなのであろう。但し風格のある寺門ではなく、永久寺本寺の寺門ではなく、いずれかの寺中の山門が移建されてのであろう。
 大和社神護寺山門1     大和社神護寺山門2     大和社神護寺山門3     大和社神護寺山門4
 大和社神護寺山門5     大和社神護寺山門6     大和社神護寺山門7     大和社神護寺山門8     大和社神護寺本堂
 兵庫町牛頭天王社:神護寺南にあり、神護寺と一体のものであったとも思われる。
 大和大和社:朝和宮と称したという。社殿は明治維新後造替されたといい、境内には見事に見るべきものが全くない。

彫刻、絵画、工芸品など
平安・鎌倉・南北朝期の什宝が各地に散逸して残存する。
幸いなことに、これらの多くは国宝・重文に指定され、往時の永久寺を偲ぶことが出来る。

2003/11/24追加
◆「廃仏毀釈の行方」由水常雄(「廃仏毀釈の行方」藝術新潮、1973.3 所収)
かって永久寺の所蔵と確認できている什宝(古文書・現存品の銘記など)は以下のとおりと云う。
彫刻:
阿弥陀如来像(不明)、不動明王像(須磨井植家蔵=旧藤田家別荘)、千躰地蔵尊(不明)、伝定朝大日如来像(不明)、
大威徳明王像(不明)、頼実上人像(不明)、像容不明の金銅像(不明)、小野小町像(藤田美術館)、
四天王像4体(東大寺蔵 ・持国天・多聞天)、康円作四天王眷属像4体(静嘉堂文庫と熱海美術館に分蔵)、
康円作不動八大童子像(世田谷観音寺)
絵画:
頼円及び霊山房筆両界曼荼羅図(藤田美術館)、伝真然筆・藤原定信讃真言八祖像(ベルリン民俗学博物館に流出・第二次大戦で焼失)、
伝土佐光信筆真言八祖行状記(現存)、藤原宗広筆密教両部大経感得図(藤田美術館)、
僧光賢筆亮恵上人画像(昭和16年沼津粟田家蔵)、僧尊蓮筆四天王画像(不明)、僧尊蓮筆十二天画像(不明)
その他:
嵯峨帝絵詞空海阿字義1巻(藤田美術館)、伝行成筆倭漢朗詠集4巻(不明)
藤田美術館蔵品には藤井孝雄(永久寺院家光澄の還俗名)からの購入と明記されているものもあり、また堺県令であったかの悪名高い税所篤を経て購入と推定されると云われる。
2014/06/11追加;
◆「内山永久寺の歴史と美術−調査研究報告書内山永久寺置文」 より
○木造持国天立像(重文・大和東大寺蔵)/木造多聞天立像(重文・東大寺蔵)
明治の廃仏毀釈の時、大和西大寺住職・大和興福寺を管理した佐伯泓澄氏の斡旋により、永久寺から東大寺二月堂に寄進される。
2014/07/12撮影:「天理市制60周年記念 内山永久寺の残像」展示
東大寺二月堂持国天立像/東大寺二月堂多聞天立像:阿弥陀如来を本尊とする内山永久寺の二天脇侍といわれる。
 東大寺二月堂持国天立像:像高201cm       東大寺二月堂多聞天立像:像高187cm
○木造不動明王坐像(重文、山城宇治田原正寿院蔵)
寛正3年(1462)の修理銘により五大院旧蔵の快慶作の可能性が非常に高いと考えられるという。かつては五大院とは興福寺寺中(学侶)とされていたが、三宅久雄氏により、内山永久寺五大院と訂正される。
2014/07/12撮影:「天理市制60周年記念 内山永久寺の残像」展示
 山城宇治田原正寿院木造不動明王坐像
内山永久寺五大院護摩堂安置であったとされる。
○木造聖観音菩薩立像(重文、東大寺蔵)
近年まで二月堂に安置、明治24年の「諸伽藍仏体取調書」には「北面聖観音は内山永久寺有之、維新の際、佐伯泓澄より佐保山普円へ付属、同晋円より当堂へ奉納」とある。
2014/07/12撮影:「天理市制60周年記念 内山永久寺の残像」展示
 東大寺二月堂聖観音立像:像高193cm
○木造四天王眷属立像(重文、東方天・南方天眷属は東京国立博物館、西方天眷属は東京静嘉堂文庫美術館、北方天眷属は静岡MOA美術館蔵)
墨書銘より本像は大仏師康円の製作になり、文永4年(1267)真言堂に安置されたと知れる。
○木造不動明王及び八大童子像(重文、世田谷区世田谷山観音寺蔵)
 八大童子:指徳童子、阿耨多童子、烏倶婆童子、制多伽童子、矜羯羅童子、清浄比丘、恵喜童子、恵光童子という。
観音寺は昭和14年から25年にかけて創建された新しい単立寺院である。寺伝では昭和25年実業家であった大僧正睦賢和尚が私財によって建立という。天台系。
この9体は不動堂(六角堂)に安置される。本9体は昭和12年新潟県中野忠太郎の所有の時重文に指定され、後に観音寺に遷されたものである。そのうちの1体である清浄比丘像内の造像願文かのこの9体に一具は大仏師康円と絵仏師重命によって造られたとある。本像は「置文」の「観音堂一宇・・・不動并八大童子」に当たり、「内山之記」にも同様の記事がある。
○木造持国天立像・木造増長天立像(出光美術館蔵)
各像の台座銘により内山西之院の伝来像と知れる。昭和初期には松田福一郎の所蔵であったという。
○不動明王及び二童子像(天理市内の旧家・堀家蔵)
台座銘から貞享5年(1688)の製作で内山水分坊の伝来と知れる。
また堀家には内山水分坊伝来の弘法大師像(宝永8年<1711>の作)、内山伝来の弁財天及び眷属像(江戸期)も所有する。
○石造不動明王踏下像(井植山荘蔵)
内山永久寺正保絵図(上に掲載正保図)には伽藍東方の山中に石造らしきものが描かれ、内山永久寺享保絵図
(上に掲載内山永久寺享保絵図2//享保図)では正保図と同じ位置に「口之不動石」と書き込みがある。
これが本像であり、本像は大正5年に破壊されたという。その後本石像は藤田家の所有となり、藤田家の須磨別邸に移され、さらにその後宝塚の別荘に移される。この別荘とともに石像も井植家に譲渡され現在に至るという。
像は花崗岩製で、製作年代の決め手はないが室町前期のものと推定される。
 ※この石造は阪急宝塚線雲雀丘花屋敷駅から満願寺を経て井植山荘を目指すとその手前の分岐にある。
 2002年に実見はするも、内山永久寺の遺物とは知らず写真は撮影せず。
 しかし、縁あって拙サイトに「再興」した「再興」井植山荘ページに本石造の写真 の掲載あり、それは次のとおりである。
  ・大日十天不動明王2     ・大日十天不動明王3
 また、井植山荘庭園MAP60写真が「石造不動明王踏下像」のある位置である。
○木造小野小町像(卒塔婆小町像):大阪藤田美術館蔵
藤田美術館蔵品台帳には永久寺伝来の旨の記載があり、その他多くの史料に永久寺伝来との記載があるという。
○毘沙門天立像(現在は所在不明)
明治13年東京上野公園で開催された第1回観古美術会に内山永久寺伝来とする本像が出品される。その像容は美術会写真帳に焼付写真が残り、知ることができる。
2014/07/19追加:
○愛染明王坐像(重文、鎌倉期、像高64cm、東京国立博物勧蔵)
 e国宝(東京国立博物館) より
内山永久寺薬師院に伝来したと伝える。厨子とともに残る。厨子は閻魔天曼荼羅厨子と称する。
 愛染明王坐像1     愛染明王坐像2     愛染明王坐像厨子     愛染明王坐像厨子絵1     愛染明王坐像厨子絵2

2006/06/26追加:
◇「正暦寺一千年の歴史」、1992 より
内山永久寺より菩提山正暦寺へ:正暦寺に現存
◆菩提山五代力明王明王像
 五大力明王像:内山徳蔵院安置像 、毘沙門天立像:徳蔵院持仏堂、弘法大師像:徳蔵院安置像・・・徳蔵院は大亀池西にあり、持仏堂あり。
◆阿弥陀如来立像:北東院持仏堂安置像・・・北東院持仏堂とは不明、あるいは北門脇の持仏堂か。
◆十一面観音像:普門院安置像・・・普門院は北門南西方向すぐにあり。
   →菩提山正暦寺
2013/03/11追加:
○「明治十二年七月調 大和国添上郡寺院明細帳」 より
添上郡奈良中町(中町は消去し、西木辻 と書入)/本山延暦寺末/天台宗 玉泉院
本尊 孔雀明王
由緒 ・・往古より修験・・・文政年中聖護院末となり・・・明治7年修験道を廃せられ天台に帰入す。
伽藍: 仮本堂 庫裏 門 境内148坪。
境内仏堂 聖天堂一宇(但仮堂) 名受人 福井忠良
 本尊 大聖歓喜天 由緒 当國内山永久寺廃寺後同塔中上乗院より明治元年当院に安置す。仏堂桁行3間3尺5寸、梁間1間1尺3寸
※以上より、上乗院大聖歓喜天は(京終村西木辻)の修験(天台)玉泉院に遷座したことが分かる。
※但し、Webで確認する限り、現在では西木辻に玉泉院の存在を確認することができない。その後玉泉院は廃寺か移転かあるいは修験は停止し、単なる民家(福井家?)となったのであろうか。

◆杏町光楽寺大日如来坐像(「天理市制60周年記念 内山永久寺の残像」現物展示)
2014/07/12撮影:
 光楽寺大日如来坐像1     光楽寺大日如来坐像2
 ※大日如来坐像:両肘から先は作り直される。おそらく本来は智拳印を結んでいたものと思われる。また宝冠や首飾などからも元来は大日如来像であったと推定される。
2014/07/19天理市夏の文化財展「内山永久寺の残像」展示作品解説、松岡久美子 より
松岡氏は今般の展示に先立ち、本坐像を調査、膝部分を除き基本的に一木から彫り出した像である。宝冠も彫り出したもので本格的な彫像である。像高は約60cm。造立年代は総合的に見ておそらく1000年ほど前と推定される。これが正しいとすれば、永久寺創建前に造立され、いつしか永久寺に遷されたものと推定される。
なお、顔面の一部、両手肘、両膝が黒く変色しているのは後世の修理による古色に擬した塗りが黒変しているものである。
2014/07/19撮影:
 光楽寺大日如来坐像3     光楽寺大日如来坐像4     光楽寺大日如来坐像5
◆杏子町光楽寺白磁絵香炉:高さ約30cm
2014/07/12撮影:
 光楽寺白磁絵香炉(展示写真を2014/07/12撮影)
 →光楽寺には上述のように、内山永久寺知恵光院観音堂を移建したという本堂を有する。
◆三輪山白磁香炉:永久寺本堂にあったと伝える。高さ58cm。三輪山平等寺蔵。
2014/07/12撮影:
 三輪山白磁香炉(展示写真を2014/07/12撮影)
◆川西町下永教願寺手水鉢;永久寺の刻銘がある。和州内山永久寺之図などには手水舎が描かれ、おそらくはこの手水舎にあったものと推測される。
2014/07/12撮影:
 川西町教願寺手水鉢(展示写真を2014/07/12撮影)
2014/09/13撮影:
表面に「本堂寶前」裏面に「永久寺」とダイナミックに刻する。
 下永教願寺手水舎
 下永教願寺手水鉢1     下永教願寺手水鉢2     下永教願寺手水鉢3     下永教願寺手水鉢4     下永教願寺本堂
 ※教願寺(磯城郡川西町下永東方/大和川右岸)は浄土真宗本願寺派。元来は白米密寺↓の一院であったと云うも、宝永5年(1708) に浄土真宗に改宗し創建される。当初は村所有の「惣道場」であったが、宝暦5年(1755)本山より寺号{教願寺」を許可され寺院となる。
なお、庫裡の前には鎌倉期の石造物(残欠)が残る。(写真撮影を失念)
 ※白米密寺(白米寺)は、もと大和川右岸高堂八幡神社付近に在り、現在は廃寺、仏像は下永八幡社境内の収蔵庫に収納される。
白米寺は下永高堂の高堂八幡社の神宮寺であったと伝えられる。
2001年京奈和自動車道の事前発掘調査が実施され、下永東方遺跡から奈良期や平安期の瓦が出土する。これらの瓦は白米密寺 のものと推定され、ここに白米蜜寺があったと推定される。
 しかし、白米蜜寺は享保9年(1724)の「御領郷鑑」には記録されず、それ故それ以前におそらく退転し、白米蜜寺は下永八幡社 (磯城郡川西町下永東城/大和川左岸)に遷されたものと推定される。
現在下永八幡社に建立された収蔵庫のある場所が阿弥陀堂跡で、神社参道東に地蔵堂(未見)が現存する。
収蔵庫は昭和38年(43年とも)に建立され、阿弥陀堂本尊阿弥陀如来坐像(重文、平安後期)不動明王立像(鎌倉初期)及び地蔵堂本尊地蔵菩薩立像(重文、平安中期) 、勢至菩薩立像(鎌倉)、地蔵菩薩立像(江戸)、弘法大師坐像2躯(江戸)などが遷される。いずれも白米蜜寺の伝来の仏像である。
 下永八幡社収蔵庫:白米寺阿弥陀堂跡      下永八幡社本殿     下永八幡社拝殿・収蔵庫
 ※高堂八幡社は小社として現存するようである。(下永教願寺より西へ約100m、京奈和自動車道の手前を北に約50上がった付近にある。)
 下永高堂八幡社:未見、Googleストリートビューを転載。
◎以上の状況から推測・整理するに、奈良期、白米蜜寺が高堂八幡社の西隣付近に建立される。
その当時の白米蜜寺の伽藍は全く不明であるが、早い時期に八幡神が鎮守として勧請され、その八幡社が高堂八幡社として現存するものと思われる。この意味で白米蜜寺は高堂八幡社の神宮寺というより、白米蜜寺の鎮守が高堂八幡であったのであろう。
そしてその後の寺歴も全く不明であるが、平安期の優れた仏像を残すので、白米蜜寺は平安期までは寺勢を維持したものと思われる。さらに鎌倉期の仏像も残すので、中世も存続し一定の寺観があったものと思われる。現在の下永東方教願寺は白米蜜寺の寺中/一院であったのであろう。
中世あるいは近世初期であろうか少なくとも享保以前には、戦乱なのか水害なのか理由は不明であるが、白米蜜寺は大和川右岸の創建の地を離れ、大和川左岸の下永東城の現下永八幡社の地に移転あるいは再興される。移転・再興後は少なくとも阿弥陀堂(本堂であろうか)地蔵堂などと八幡社を構え、近世末まで存続したものと思われる。
そして明確な資料の裏付けはないが、おそらく明治の神仏分離の処置で、白米蜜寺は廃寺、八幡社が下永八幡社として換骨奪胎されたものと思われる。
一方右岸に残った白米蜜寺の一院である現教願寺は宝永5年に浄土真宗の惣堂として改宗し、宝暦5年に教願寺の寺号を得て現存する。
明治の初頭、神仏分離の処置及び廃仏毀釈により内山永久寺は惣滅し、恐らく熱心な門徒衆の力があったのであろうか、永久寺「本堂寶前」にあった手水鉢が教願寺にもたらされたものと思われる。

◆布留社竜吐水:「内山」及び「永久寺」名がある。布留社蔵、江戸期のものと推定される。 明治の廃仏毀釈の時、永久寺から布留社に持ち込まれたものであろう。
2014/07/12撮影:
 布留社竜吐水1     布留社竜吐水2

両部大経感得図(国宝、藤田美術館蔵)
2008/05/13追加:
◇○藤原宗広筆「密教両部大経感得図」の「善無畏金粟王塔下感得図」五重塔は播磨金剛寺五重塔(2008/4月落慶、金属製)のモデルとなる。
2014/07/19追加:
内山永久寺真言堂の障子絵であったとされる。国宝 保延2年(1136)の製作と推定される。
「国宝」芸術新潮 より
 両部大経感得図:右は「竜猛南天鉄塔内相承図 」、左は「善無畏金粟王塔下感得図」
2014/07/12撮影:
「天理市制60周年記念 内山永久寺の残像」展示
岡山県立博物館大威徳明王像(絹本着色、軸装、内山永久寺無量寿院にあったとされる。)
 岡山県立博物館大威徳明王像

2013/05/26報道発表:
◎天理市の民家の蔵から「金剛乗院」の扁額を発見。
 この民家は永久寺寺中福壽院住職を出していたらしいと云う。その関係で永久寺廃寺の時扁額を所有することになったと伝える。
扁額は「天理市史」(昭和35年)に写真の掲載があるとも云う。
 調査は2012/12より奈良文化財研究所が担当。その結果以下のような調査結果が判明する。
1)扁額の形状は「中世以前のもの」と推測される。
2)年輪年代法により部材の切り口を測定した結果、宝治2年(1248)前後に伐採した材と判定される。
3)「扁額集」(南北朝期の編纂とされる)と照合すると、ほぼ同じ字体の額字「金剛乗院」があり、添書には、書家藤原教家が宝治元年(1247)9月、永久寺真言堂の扁額として筆を執ったと記されていると云う。
 ※教家は、「平治物語絵巻」(国宝、東博所蔵)の「詞書」の作者である。
4)「内山永久寺置文」(鎌倉後期)真言堂の扁額は教家書と記される。
以上などから、この発見された扁額は鎌倉前期のもので、書は藤原教家と断定されるに至る。
 「金剛乗院」扁額:報道発表写真:扁額の大きさは長さ約84cm、幅約43cmを測る。
この内山永久寺の「金剛乗院」扁額は宝治元年(1247)藤原教家によって書されたもので、真言堂に掲額されたものであることは確実であろう。
真言堂(灌頂堂)は本堂の南西に位置したことは各種記録から知ることが出来る。但し、民家の関係したと云う寺中福壽院とは不明である。
2014/07/12撮影:
○「天理市制60周年記念 内山永久寺の残像」写真展示
 「金剛乗院」扁額

2014/07/12「平成26年夏の文化財展講演 内山永久寺跡の発掘調査」天理市教委石田大輔 より
内山永久寺跡発掘調査概要:今までに次の調査が実施される。
国道25号バイパス事業に伴う発掘で、合わせて3回の発掘調査が行われる。
 1)昭和56年:北門跡付近、顕著な遺構の出土はなし。
 2)昭和59年:北辺・西辺附近の子院跡、古院の裏庭附近と推測され、溝・井戸・石垣などが出土。
 3)昭和60年:西門付近、西門と思われる基壇遺構を発掘、また門全面の大規模な空濠跡を確認。
平成20年:鐘楼推定地の前面、中世の土器や瓦の多くを採取、近世のものは少なく、伽藍は創建時建物が残存していたという文献史料を裏付けるような結果であった。


附録:石上神宮(布留社):無印は2012/02/18撮影

石上振神宮、石上坐布都御魂神社、石上布都御魂神社、石上布都大神社、石上神社、石上社、布留社、岩上大明神、布留大明神などと称する。 拝殿及び内山永久寺鎮守拝殿の国宝建造物2棟を有する。
◇布留社拝殿:国宝、鎌倉、社伝では永保元年(1081)造立と云う。桁行7間梁間4間、一重入母屋造屋根檜皮葺、向拝1間付設。中世の寺院本堂建築と見間違える外観を持つ。
 布留社拝殿1     布留社拝殿2     布留社拝殿3     布留社拝殿4     布留社拝殿5
 2014/06/15撮影:
 布留社楼門11     布留社楼門12     布留社楼門13     布留社楼門14     布留社楼門15
 布留社拝殿11     布留社拝殿12     布留社拝殿13     布留社拝殿14     布留社拝殿15
◇内山永久寺鎮守社拝殿:鎮守四所明神(住吉明神)拝殿

2003/05/28撮影:
 石上神宮摂社・出雲建雄神社拝殿

 永久寺鎮守社拝殿01:左図拡大図
 永久寺鎮守社拝殿02
 永久寺鎮守社拝殿03
 永久寺鎮守社拝殿04
 永久寺鎮守社拝殿05
 永久寺鎮守社拝殿06
 永久寺鎮守社拝殿07
 永久寺鎮守社拝殿08
 永久寺鎮守社拝殿09
 永久寺鎮守社拝殿10

2014/06/15撮影:
 永久寺鎮守社拝殿11     永久寺鎮守社拝殿12:屋根葺替工事中である。
※この現在布留社摂社の拝殿は明治43年(大正3年とも云う)内山永久寺鎮守社拝殿を遷したものと伝える。
明治維新の神仏分離までは、内山永久寺伽藍背後の小丘の南端に大河明神(牛頭天王)、中央春日権現大明神、北端岩上に布留大明神、南向別社白山妙理権現の鎮守四社明神が祀られていた。 そして、その鎮守四社明神の前方に拝殿一宇があった。
 この永久寺四所明神拝殿は各種絵図に描かれる。例えば、
  「八角多宝塔」部分図」:この絵図では本堂東に鎮守三社・白山権現とあり、割拝殿が描かれる。
  「和州内山永久寺ノ図:多宝塔部分」:鎮守(四社明神)と割拝殿が描かれる。
 2014/06/23追加:
 「石上神宮」石上神宮、1999 より
  大正初年永久寺鎮守社拝殿:大正初年移築完了後の写真という。
  永久寺鎮守社拝殿内部

◇布留社楼門:重文、文保2年(1318)建立、明治維新までは上層に鐘を吊るすというので、鐘楼門であったのであろう。
 布留社楼門1     布留社楼門2     布留社楼門3     布留社楼門4     布留社楼門5     布留社楼門6
 2014/06/15撮影:
 布留社拝殿16     布留社拝殿17     布留社拝殿18

2014/06/23追加:
布留之図
 布留之図:奈良県立図書情報館蔵
近世(江戸期)のものと推定される。
現在の楼門は鐘楼門とあり、この門には梵鐘が懸けられていたのであろう。
本社東に神宮寺/護摩堂がある。また布留村には良因寺/薬師堂が描かれる。
中世には、布留社を中心にして52ヶ村からなる布留郷が成立していた。布留郷には32ヶ寺からなる中筋寺があり、明治の神仏分離の処置までは、中筋寺と内山永久寺及び桃尾竜福寺は、輪番で布留社の社僧を務めていたという。本図に描かれる布留村良因寺は中筋寺の一つという。
杣之内白山権現
 中筋32ヶ寺の全容は明らかにし得ないが、内山と布留社の中間にある杣之内白山権現も中筋寺の一つという。
明治の神仏分離の処置で白山権現本堂は社務所となる。(現在は公民館のようで、古い建物ではないので、建替されたのであろう。
 杣之内白山権現社務所     杣之内白山権現本殿

2014/07/11追加:
●「改訂天理市史(本編・上巻)」1976 より
 明治維新まで、内山永久寺、桃尾龍福寺、中筋諸山は三社一年交替で別當(社僧)を務める。
中筋諸山とは中筋寺と通称し、布留社氏子郷中の村々にそれぞれ神宮寺が存在した。この神宮寺は布留社神宮寺(布留社の東にあり十羅刹女を祀る・・・上掲の布留之図に神宮寺が描かれる)の支配下にあった(と推定される)。
 中筋諸山といわれた神宮寺(すべて真言宗)は32ヶ寺あり、多くは明治維新で廃寺となる。わずかに現在有住の寺院は九条町杵築の桂林寺のみであり、多くは村落の会所となる。
 断片的な情報であるが、以下の情報がある。
◇豊満寺(豊井町):元は山王権現の神宮寺で、中筋寺の一つという。明治初年廃寺となる。現在の堂は昭和29年の建立。
◇良因寺(布留町):中筋寺の一つという。 →大和良因寺跡
◇常蓮寺(田町);中筋諸山の筆頭といい、布留社神宮寺との関係が深かったという。
寺伝では草壁皇子の建立という。本尊は毘沙門天。湯屋坊、西ノ坊、宝蓮坊、南ノ坊、中ノ坊、閼伽井坊の6坊の存在を伝える。
明治初年廃寺となる。田町厳島神社およびその北側が跡地という。
 ※厳島神社とは明治初年の改号であり、承応2年(1653)の棟札には「常蓮寺鎮守一言神」、延享元年(1744)の棟札には「弁天社頭一宇成就処常連密寺住権大僧都」などと記されているというから、本来は一言神もしくは弁財天であり、常蓮寺の鎮守であったものであろう。
また明治16年頃布留社の御旅所を兼ねるようになるともいう。
 一言神(弁財天社)の参道入り口に毘沙門堂がある。明治初年に常蓮寺の諸仏を集め建立され、本尊毘沙門天(鎌倉期?)・四天王像(藤原期?)などを安置する という。
また、境内の灯篭中に、元禄12年(1699)在銘のものがあるという。さらに手水鉢には「石上社」と刻まれ、また浄蓮塔の台石といわれ、「天平勝宝云々」とあるが、後世の追刻であろう。
なお、西側に真宗本願寺派横超山法林寺があるが、これは常蓮寺の1坊であったという。
2014/07/12撮影:
常蓮寺鎮守の北側にかなりの更地を残す。常蓮寺の鎮守やかっての1坊という法林寺を含めば、近代においても常蓮寺はかなり寺地を有したものと推定される。
跡地の北側に毘沙門堂・地蔵堂(?)の小宇を残す。毘沙門堂には毘沙門天立像、不動明王立像、弘法大師象などが安置される。また境内には礎石を思われる石が散在し、かなりの量の五輪塔・層塔などの部材が集められている。(上述の浄蓮塔の台石とは不明で未見)
 田町常蓮寺跡1     田町常蓮寺跡2     田町常蓮寺跡3     田町常蓮寺跡4     田町毘沙門堂     田町毘沙門堂内部
 石上山刻銘手水鉢     常蓮寺残存礎石か     常蓮寺跡残存石造品1     常蓮寺跡残存石造品2     法林寺
文久2年(1862)2月「祭主由緒写」 より
内山の笈渡シ神事
「・・・・笈渡護摩修行も難勤相成居候処江、84代順徳天皇之御世ニいたり内山桃尾両山より毎年布留社前ニ於而転読般若奉法楽度様頼来り候ニ付、無拠任其意ニ壱ケ年ハ内山、壱ケ年ハ桃尾山、三ケ年ハ常蓮寺江相廻笈渡柴燈護供大法修行と相成候・・・・」

2009/03/15追加:
○永久寺鎮守四所明神の拝殿(出雲建雄神社拝殿)に放火。
事件の概要:2009/03/12、石上神宮摂社「出雲建雄神社」の拝殿(国宝)で、3か所から出火、消火器で消火、拝殿中央部の格子戸や土壁、敷居など計7ヶ所、計約1平方mが焦げる。放火と見られる。
 朝日新聞記事:
「国宝拝殿近くでぼや、放火の疑い 奈良・石上神宮」
石上神宮境内にある国宝の「摂社出雲建雄神社拝殿」(13世紀)付近から出火。
石上神宮は出雲大社などとともに国内最古の神社の一つとされる。古墳時代の鉄剣、七支刀(国宝、4世紀)など古代の武器を多数所有していることで知られる。
 毎日新聞記事:
「石上神宮摂社放火:教訓生かし最悪の事態回避 権祢宜が迅速な初期消火」
石上神宮で国宝の出雲建雄神社拝殿が放火された事件は、迅速な初期消火で消し止められたが、貴重な国宝建築の7カ所計約1平方mを焦がした。
【ことば】▽石上神宮▽ 「日本書紀」に唯一の神宮として記され、日本最古の神宮ともいわれる。主祭神は布都御魂大神で、神武天皇東征の際、功績があったといわれる。数々の霊剣などが納められ、朝廷の武器庫としての役割も担っていた。
▽石上神宮摂社出雲建雄神社拝殿▽ 奈良県天理市にあった永久寺の鎮守社・住吉神社の拝殿を1914年に移築したもの。奈良県教委によれば、鎌倉時代初期に建立され、1300年に現在の形式に改築されたとみられる。中央部分が開けている割拝殿では現存最古とされる。
 読売新聞記事:
「国宝拝殿に放火、一部焼く…奈良・天理の石上神宮摂社」
石上神宮の境内南側にある摂社「出雲建雄神社」の拝殿(国宝)で、火災報知機が作動した。
同神宮は日本書紀にも登場する社で、出雲建雄神社拝殿のほかに、同神宮拝殿(国宝)や楼門(重文)、4世紀に百済王が倭王に贈ったとされる「七支刀」(国宝)がある。
・出雲建雄神社
7世紀後半の創建と伝えられる。拝殿は元々、明治時代の廃仏毀釈で廃寺となった内山永久寺の鎮守住吉社のもの。平安時代の1137年(保延3年)の建立とされ、1914年(大正3年)に移築された。中央部に通路がある「割拝殿形式」で、現存では最古とされる。54年に国宝に指定された。屋根に唐破風がある。
 産経新聞記事:
「国宝拝殿に放火 7カ所燃える 天理・石上神宮摂社」
石上神宮摂社(出雲建雄神社)拝殿は石上神宮の本殿や拝殿の南側に位置し、鎌倉時代の建築とされる。もともとは明治時代の廃仏棄釈で廃寺となった近くの内山永久寺の鎮守・住吉神社の拝殿で、大正時代に移築された。格子戸をたて、軒先は唐破風。昭和29年に国宝に指定された。
 京都新聞記事:(共同通信)
「国宝の拝殿に放火か 周囲に油、奈良・石上神宮」
石上神宮にある国宝の「摂社出雲建雄神社拝殿」から出火、神宮の当直職員が「火が出ている」と119番した。
拝殿は鎌倉時代の1300年ごろ、別の神社の拝殿として建てられたものを1914年、現在の場所に移築、54年に国宝に指定された。


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