大  山  崎  の  遺  構  ・  遺  物  ・  塔  婆

大山崎の遺構・遺物・塔婆<(山城離宮八幡宮多宝塔跡・山城推定相應寺心礎・山城寶積寺三重塔・攝津西観音寺(廃寺)>

参考文献;「大山崎史叢考」(吉川一郎、1953年刊、創元社)
 当ページの大部は本書に負うものである。
本著は「京都府乙訓郡の1寒村の歴史書」と謙遜するが、482ページに及ぶ大著である。
著者については「この寒村」に在住する人物であること以外には全く不明であるが、資料を渉猟し、古代から明治維新前後までの大山崎の「歴史」に関する詳細な著述をなす。
山崎の地は中世、油座の経済力を背景に、離宮八幡宮・男山・宝積寺等々の多くの神社寺院が営まれたこと、また京の都の南の要衝の地であり、それゆえ南北朝争乱・応仁文明の大乱・天王山・元治の兵乱の関係地であったことなど、この 「寒村」の歴史そのものがまさに日本の歴史の縮図であったことが見事に描かれる。

山崎の地

都名所圖會に見る山崎の図:下図拡大図

東は木津・桂・加茂の三川が合流し、西は山塊(天王山)が迫る狭隘の地であり現在も狭いこの地にJR線・新幹線・阪急線・名神高速道・西国街道が犇 く。
対岸は男山で、石清水八幡宮が鎮座し、ここには国道1号線・京阪線が貫く。

要するに都に近い狭隘の地である故に、古くからの要衝の地であり、南北朝期の京都争奪戦・応仁文明の大乱の京都争奪戦では長期にわたり戦場となる。

近世初頭には「天王山」の合戦(秀吉の光秀討伐戦)の舞台となり、また幕末には元治元年の禁門の変(蛤御門の変)での掃討戦の地となる。
 (最後の禁門の変では、離宮八幡・神宮寺・大念寺・観音寺・安養院等を焼失する。)


山崎牛頭天王

天王山は古くは山崎山と呼ばれ、文献で天王山の名称が現れるのは室町期という。山頂近くに牛頭天王を祀る天神八王子社があったからである。(現在は例の如く復古神道家の付会で酒解神社などという。)
○「新撰京都名所圖繪」竹村俊則、昭和38年 より
古来、この地には山崎神が祀られ、その社山崎社は延喜の制では名神大社となる。
然し、行教が男山に八幡神を勧請し、山崎にも離宮八幡が創始され、山崎社(酒解社)は天王山上に遷ることとなる。(実際は遷ったのではなく、廃絶したのであろう。)
中世、天王山上にあったのは山崎天王社で、祭神は天神八王子(牛頭天王と8人の王子)であった。(その由緒は明らかでないが、南山城の何れかの牛頭天王もしくは祇園社が勧請されtあものであろう。)
明治になって種々検討された結果、山崎牛頭天王社は式内酒解神社と指定される。
○次のように推定される。
式内山崎社(山崎神・自玉手祭来酒解神社)は今の離宮八幡宮の地に祀られていたが、離宮八幡宮の創始により、この地を追われる。
その後、山崎社の祭祀は絶え、廃社となる。
何時の頃かは不明であるが、天王山の頂上付近には中世頃に勧請されたと思われる天神八王子神(牛頭天王)が祀られていた。
それ故、山崎山は山崎天王社に因み、天王山と呼ばれるようになる。
明治10年6月山崎天王社が式内自玉手祭来酒解神社であるとされ、自玉手祭来酒解神社に付会される。

山城相應寺および推定相應寺心礎

古代山崎には関戸院・河陽離宮・山崎駅の他、その域内に相應寺があった。
相應寺は権僧正壱演が貞観8年(866)に開基と伝える。(日本三代実録)
平安末期まではその面影を残していたと伝える(今昔物語)も、漸次衰微し、近世初頭には一宇の草堂となり、幕末頃には廃絶したようである。
現在、離宮八幡宮境内に「扇形石・塔心礎」が残される。
高さ1m・長径3m超で、中央に径80×14cmの円形の彫り込みがあり、その中央にさらに別の深さ45cmの扇形の彫り込みがある。
天明年間刊「都名所圖會」では、離宮八幡宮の門前に「かしき石」の名で描かれているのがこの心礎とされる。
「かしき」とは発見された場所が「河原敷」であったもしくは加工された部分つまり円と扇の組み合わせが、能面小喝食に似ているためであろうと云う。
この「石」については「京都府史蹟勝地調査報告」では「古塔の心礎」であり、もともと深さ45cmの舎利孔があり、のち現在のように加工されたものであろうという。 また、孔の様式は相應寺以前の様式が認められ、それ故、この心礎は相應寺以前の寺院心礎が相應寺塔婆に転用され、さらに三度、八幡宮の「水鉢」に転用されたもの だろうという。

都名所圖會に見る「かしき石」:都名所図絵かしき石

2004/3/13追加:
山崎通分間延絵図に見る「手水石」:山崎通分間延絵図「手水石」
  ※図下に「手水石」して描かれているのが、推定相応寺塔心礎と思われる。

2006/11/23追加:
「史迹と美術 118巻」所収「行基建立の四十九院」田中重久、昭和14年 より
 推定相応寺心礎実測図
この心礎については、以下ように論考する。(大意)
心礎の大きさは8尺8寸(2・67m)×7尺6寸(2.3m)×3尺(0.91m)、凹柱座径3尺6寸5分(111cm)×3寸(9cm)。
「京都府史跡調査報告書」は平安期建立の相応寺の心礎とするが、形式上奈良期のものであり、行基開基という山崎院心礎とするのが相応しい。また「京都府史跡調査報告書」では凹柱座を正円形とするが、これは誤認で、柱座は一辺略1尺4寸位の八角形である。後世無学なる茶人が扇形の水溜を彫ったとき、八角形を円形にしようとしたものである。精査すると八角形の4辺だけは僅かに残り存している。これは心柱の下方が八角形であることを示す。(凸座では西大寺東塔心礎にこの例がある。)
但し、凹座が八角形であっても、必ずしも心柱が八角形であるとは限らぬらしく、醍醐寺の現状では、心柱は床下の見えない部分が八角で、見えない部分は八角を円柱に加工する手間を省いたものと考えられる。

推定相應寺塔心礎

2001/04/15撮影:
 推定相応寺心礎1    推定相応寺心礎2
2005/01/22撮影:
 推定相応寺塔心礎1   推定相応寺塔心礎2    推定相応寺塔心礎3    推定相応寺塔心礎4
 推定相応寺塔心礎5   推定相応寺塔心礎6    推定相応寺塔心礎7
2016/01/23撮影:

推定相応寺心礎11
推定相応寺心礎12
推定相応寺心礎13
推定相応寺心礎14:左図拡大図
推定相応寺心礎15
推定相応寺心礎16
推定相応寺心礎17
推定相応寺心礎18
推定相応寺心礎19


山城離宮八幡多宝塔跡

男山に先行する行教の事跡はさておき、もともと現境内地は地蔵寺の境内の一部と推定され、室町末期に男山に対抗する形で神社の形態を整備するようになったと考えられる。
当然その造営・維持の背景には山崎油座の経済力があったと推定される。
寛永11年(1634)徳川家光は京畿に幕威を顕示するため、大兵を率いて上洛する。
その前年、幕威の顕示の先触れとして比叡山・高野山・多賀大社・離宮八幡等の造営を命ずる。
離宮八幡宮多宝塔造営もこの時なされるという。

山城離宮八幡宮古図(寛永12年徳川家光造営古図)

2005/02/12追加:「大山崎町史」
寛永12年(1635)の社殿造営:
寛永10年社殿修理の申請が幕府に提出
同年7月老中より所司代板倉重宗、永井尚政、永井直清に破損検分と修理規模見積の命。
同年8月奉行に永井直清を任じ、修理規模が決定される。
 修理規模は本社・拝殿・御門・護摩堂・宝蔵・御供所・斉垣・築地の新造とされる。
寛永11年3月宝塔・鐘楼の新造が追加される。
同年11月工事竣工、遷宮。

寛永の社殿造営の構成と規模
本社:屋根檜皮・2間×8尺・御拝2間×6尺5寸、本社廻玉垣、
拝殿:屋根瓦・2間四方、末社:3ケ所、諸堂:4ケ所、
鐘楼:屋根瓦・1丈6寸×1丈4寸2分、平唐門、向唐門、四脚門、鳥居:3ケ所
多宝塔:屋根瓦・2間半四方、穴門・同番所

全    図 :下図拡大図

本社前庭部:下図拡大図

多宝塔部分図:下図拡大図

寛文10年(1670)の台風で大破?。元禄の造営(大修理)が行われる。

都名所圖會に見る塔婆

離宮八幡部分図:下図拡大図

多宝塔部分図:下図拡大図

離宮八幡宮多宝塔は元治の兵火で焼失したものと思われる。(但し、元治の兵火で焼失との明確な焼失記録は寡聞にして聞かず。)

2005/2/11追加:
「宝積寺絵図」(元禄宝永ころの作と推定?):「天王山(山麓と街の移りかわり)」
 「宝積寺絵図」(全図)
 「宝積寺絵図」(離宮八幡部分図)

2005/2/11追加:
「山崎寺院略図」:「天王山(山麓と街の移りかわり)」・「大山崎史叢考」
 この図は明治24年廣小路嘯山70歳の時の作で、当時すでに廃絶した部分も往時の記憶を蘇らせて描画したと伝える。
 「山崎寺院略図」(離宮八幡部分図)

2004/3/13追加:
山崎通分間延絵図の離宮八幡宮

山崎通分間延絵図の離宮八幡宮

離宮八幡:本殿左は上高良?、右は若宮
拝殿左(西)に多宝塔・護摩堂、さらに鐘楼なども造営される。
道を隔てて(図下)手水石がある。

山城離宮八幡宮の現況

多宝塔を含め社殿・伽藍は元治の兵火で焼失したと推定される。
元治元年(1864)6月24日:真木保臣ら八幡宮、宝積寺、天王山に着陣。
6月25日:長州藩天王山、八幡宮、大念寺、観音寺等に着陣。
7月19日:長州藩京洛禁門の変で敗北、山崎に退く。
7月21日:会津ら諸藩・新撰組らの兵が天王山・山崎を攻撃。
      離宮八幡、神宮寺、大念寺、観音寺、安養院および民家が兵火に罹る。
その後、明治8年の東海道本線の敷設等で北半分の境内が割譲され、規模を縮小し、盛時の面影を失う。
なお現在の社殿は主に昭和4年以降の再建と云う。

多宝塔跡及び礎石

離宮八幡宮多宝塔跡図
(下記の拡大図)

寛永造営時の多宝塔規模:多宝塔:屋根瓦・2間半四方とされる。
「京都御大工頭中井家文書」

多宝塔礎石(16個)は原位置に完存する。
縁礎石も16個(4個欠)が原位置に残る。
2005/1/22実測:
中央間:185cm(約6尺):芯−芯
両脇間:135cm(約4尺5寸):芯−芯
縁の出:115cm(約3尺8寸):芯−芯 を測る。
(おそらく縁の出は約4尺と思われる。)
従って、初重1辺:約4.55m(約15尺):芯−芯間 と推定される。
上記の「中井家記録」の一辺2間半=15尺と一致する。

礎石は平面80×80cm〜70×70cmに切り出した直方体の礎石を用いる。
現在、多少の破壊の跡を残こす2個を除き、ほとんどの礎石は、上面の四方の角は明らかに破壊を受け四方の角は欠ける。
椽束石:ほぼ同寸の四角形に加工され、丸い枘穴を有し、精巧に加工される。
縁礎石の北側(東)の4個は亡失と思われ、附近にも見当たらない。

2004/04/15撮影:
 多宝塔跡1(西側から撮影)  多宝塔跡2(東北から撮影)

2005/01/22撮影:

離宮八幡宮多宝塔跡1
  同         2(左図拡大)
  同         3
  同         4
  同  多宝塔礎石1
  同  多宝塔礎石2
  同 多宝塔縁礎石1
  同 多宝塔縁礎石2
  同 多宝塔縁礎石3
その他の礎石:
離宮八幡宮礎石1
  同    礎石2

附近には数個の礎石と思われるもが 散在するも、実態は不明である。

2016/01/23撮影:  

離宮八幡宮多宝塔跡
 東側より撮影
 北東より撮影
 北側より撮影:左図拡大図
 北西より撮影
 西側束石/北側より
 礎石群/北西より
 礎石郡/北東より
以下北側より撮影
 西側束石
 西側礎石
 西より2列目礎石
 西より3列目礎石
 東側礎石及束石
 北側束石:2個残存
 南側束石:完存

 菅原道真腰掛石
延喜元年(901)右大臣菅原道真大宰権帥に左遷され、その道中、西国街道脇のこの石に坐して休憩し、「君がすむ宿のこずゑのゆくゆくと隠るるまでにかへりみしやは」(拾遺351)と詠んだという。
 残存する礎石
如何なる堂宇の礎石かは不明、おそらく鐘楼や護摩堂などの堂宇の礎石であるとも思われる。


山城宝積寺および三重塔

起源については、山崎院(神亀4年<727>行基の開基するところと伝える)を前身とすると考えることも可能という説もある。
即ち、現宝積寺参道右の御霊山の北方に古瓦が出土し、地形は寺院(山崎院)の存在が推定できるからである。
鎌倉期に宝積寺は山崎院の名を継ぎ、現位置に移転してきたものと推測される。
中世、文献上あるいは伝来する寺宝等から推測して、相当の規模を有すると推定されるが、治承の兵乱・貞永の火災等で興亡を繰り返す。
南北朝期には、一山64坊といわれ、多くの寺領もあったといい、最盛期を向かえるに至る。
天正の頃:閼伽井坊・東光坊・覚昇坊・極楽坊・仙凛坊・円隆坊・法喜坊・実相坊・雲坊・塔坊・東坊・松坊の12坊を有す。
天正の山崎合戦では、秀吉の天王山築城があり、寺中の自性院東坊・無量壽院極楽坊・多門院円隆坊・大仙院仙凛坊・覚昇坊等が武将の宿舎に当てられたという。
三重塔前の石灯篭には天正12年井尻則定寄進の文字があり、三重塔は個人の寄進のように推測される。
元禄の頃、山崎の衰退とともに自性院・無量壽院・多門院・大仙院・覚昇坊・松之坊の4院2坊に減少する。
また近世は西観音寺と交互に社僧として離宮八幡宮に勤仕する。
幕末にかけては困窮し、寺宝の散逸があり、寺領の切り売りが再三行われたと伝える。
明治5年すでに無住となっていた本寂院(おそらく覚昇坊のこと)・自性院・多門院・大仙院・浄地坊・松之坊・惣坊の4院3坊は無量壽院に合併し、もはや院坊の名称は不要となる。現在の庫裏の地が無量壽院なのであろう。

2005/02/11追加:「大山崎町史」より
覚昇坊:長保4年(1002)中興幸盛開基、自性院:寛弘元年(1004)中興乗源開基、大仙院:寛弘5年(1008)中興乗静開基
多門院:長保2年(1000)中興栄通開基、無量壽院:長徳元年(995)中興源栄開基、松之坊:正暦4年(993)中興栄俊開基
2013/01/26追加:「雍州府史」より
古え、真言宗の僧、十二坊有り。所謂、閼伽井の坊、東光坊、覚昇坊、極楽坊、仙凉坊、円隆坊、法喜坊、実相坊、雲の坊、塔の坊、東の坊、松の坊、是なり。今閼伽井の坊、東光坊、法喜坊、実相坊、雲の坊、塔の坊は絶ゆ。覚昇坊、極楽坊、円隆坊、仙凉坊、東の坊、松の坊存す。

2011/03/31追加
「四百年前社寺建物取調書」明治15年社寺調査 より
 山崎宝積寺見取図

山崎通分間延絵図の宝積寺

山崎通分間延絵図の宝積寺(左拡大図)

大仙院、多聞院、無量寿院、弁天、聖武帝陵、十九社権現、松之坊、宝塔、本寂院、自性院などがある。

都名所圖會 に見る宝積寺
     都名所圖會に見る宝積寺

2005/2/11追加:
「宝積寺絵図」(元禄宝永ころの作と推定?):「天王山(山麓と街の移りかわり)」
 「宝積寺絵図」(全図)
 「宝積寺絵図」(宝積寺部分図)・・・・不審なことに三重塔跡が現在と違い、西方の山腹に描かれる。 この意味は不明。

山城宝積寺三重塔

2007/08/08追加:「京都府写真帖」京都府、明41年 より
 山城宝積寺三重塔

慶長9年(1604)頃建立。高さ19.5m。内部には大日如来を安置という。
昭和43年解体修理。塔前には天正2年(1584)銘/井尻則定寄進の石灯篭2基がある。

2001/04/15撮影:
 山城宝積寺三重塔1
   同        2
   同        3
   同        4
   同        5
2005/01/22撮影:
 山城宝積寺三重塔1
   同        2
   同        3(左図拡大図)
   同        4
   同        5
   同        6
   同        7
   同        8
   同        9
   同       10
   同       11


2016/01/23撮影:
 山城宝積寺三重塔51
 山城宝積寺三重塔52:左図拡大図
 山城宝積寺三重塔53
 山城宝積寺三重塔54
 山城宝積寺三重塔55
 山城宝積寺三重塔56
 山城宝積寺三重塔57
 山城宝積寺三重塔58
 山城宝積寺三重塔59
 山城宝積寺三重塔60
 山城宝積寺三重塔61
 山城宝積寺三重塔62
 山城宝積寺三重塔63
 山城宝積寺三重塔63
 山城宝積寺三重塔65
 山城宝積寺三重塔66
 山城宝積寺三重塔67
 山城宝積寺三重塔68
 山城宝積寺三重塔69
 山城宝積寺三重塔70
 山城宝積寺三重塔71
 山城宝積寺三重塔72
 山城宝積寺三重塔73
 山城宝積寺三重塔相輪

2020/04/21追加:
2020/04/17朝日新聞より転載。
 山城宝積寺三重塔:安土桃山期の建築、瓦の一部は大坂城の当時の瓦と同笵という。また秀吉が茶会を開いた伝承もあり、豊臣氏の保護をうけた寺であった可能性が高い。

山城宝積寺現況

2005/01/22撮影時記述:
現在は天王山麓に三重塔・仁王門・本堂・小槌宮(宝寺といわれる)・閻魔堂等を有するにすぎない。
また寺院経営?のため?とはいえ、三重塔周りの院坊跡と思われる区画一帯が石材屋と組んで、墓地として分譲される。
惜しむべきことと思われる。
2016/01/23撮影:
 仁王門前石階:仁王門に至るカギ形の石階であるが、山内が明治維新後頽廃し、唯一維新前を偲ばせる景観であろう。
 宝積寺仁王門:桃山期あるいは室町末期の建築か     宝積寺仁王像1    宝積寺仁王像2:仁王像2躯は鎌倉期・重文、寄木造。
 宝積寺鐘楼:RC造、寺中大仙院があったと推定される場所に近年再建される。
 宝積寺不動堂:RC造、寺中多聞院があったと推定される場所に近年再建される。
 寺中無量寿院1     寺中無量寿院2     宝積寺本堂:慶長11年(1605)改築。
 宝積寺閻魔堂:RC造、安置する閻魔堂安置の諸仏(閻魔王・司録・司命・闇黒童子・倶生神)は鎌倉期の作品であり、重文。
  明治の神仏分離の処置で廃寺とされた西観音寺から遷座したものである。
 宝積寺大黒天


攝津西観音寺

近世の山崎は油神人の活動もあり、多くの寺社が存在する。
元禄の神社仏閣改帳では諸宗門47ヶ寺・草堂等をあわせると50数箇所の存在が知られる。
社家(山崎の場合、実態は一種の武士とも云われる)も百軒を越え、多くの社僧も存在したと推測される。
近世の山崎は、石清水八幡宮との関係を絶ち、離宮八幡を中心とした朱印地九百五十余石を有し、自立していたと云う。
即ち、山崎の寺社として酒解神社・観音寺・地蔵寺(廃絶)・成恩寺(廃絶)・妙喜庵(現国宝)等が知られるが、西観音寺も明治維新前までは、かなりの寺観 を整え山崎の有力寺院であった。
しかしながら、天台宗西観音寺は明治の神仏分離の処置で、椎尾社と称する神社に改竄され、西観音寺は廃寺(破壊)される。

摂津名所圖會に見る 西観音寺:
        西観音寺全図(部分図)

記事:「慈悲尾山信善谷という。天台宗。本尊十一面千手観音(・・・当山に大谷・中谷・閼伽谷の三つの谷あり。ゆえに世に谷の観音と称す)、鎮守・・・。閻魔堂(当寺の入口にあり。・・・)」

山崎通分間延絵図に見る西観音寺

山崎通分間延絵図に見る西観音寺:左図拡大図

2004/3/13追加:
橋園院?、円徳院、明王院、宝泉院、(南光院、真成院)などの存在が知られる。また門前には閻魔堂がある。

2005/02/11追加:「大山崎町史」
元禄期の子院は、誠乗坊(賢祐開基)、北之坊(豪祐開基)、実泉坊(慶開基)、真蔵坊(慶覚開基)で、いずれも仁平4年(1154)河内八戸重忠の再興時に建立と云う。

2005/2/11追加:
「山崎寺院略図」:「天王山(山麓と街の移りかわり)」・「大山崎史叢考」
 この図は明治24年廣小路嘯山70歳の時の作で、当時すでに廃絶した部分も往時の記憶を蘇らせて描画したと伝える。
 「山崎寺院略図」(西観音寺 部分図)

西観音寺の跡地は、現在サントリーの工場敷地となり、僅かに本堂があった場所が椎尾神社として、明治維新前の面影を残す。

西観音寺(宝積寺=宝寺に対して西寺とも呼ばれる。)
天平18年(746)行基の開基と伝える。
寛弘年中(1004-12)全山焼失。仁平4年(1154)再興。
元和2年(1616)には本堂(7間四面)・五社明神・拝殿・鐘堂・経蔵・常行堂・三重塔・閻魔堂他東實坊・喜多坊・誠乗坊・真蔵坊・實成坊・實泉坊・南坊・實執坊・西坊・中坊・正行坊・實光坊の12坊が存在 する。
その後漸次衰微し、元禄頃には経蔵・常行堂・三重塔の記載は無く、坊舎も誠乗坊・北坊・實泉坊・真蔵坊の4坊に減ずる。
近世は天台宗比叡山正覚院末であり、また離宮八幡宮の社僧でもあったと云う。

西観音寺に於ける神仏分離の処置(廃仏毀釈)
慶応4年神仏分離令。
4月13日:離宮八幡宮から西観音寺役僧の呼び出しがあり、八幡宮への立入禁止の申渡しがある。
4月16日:再度呼び出しがり、別当社僧の還俗及び神勤もしくは立ち退きを申し渡す。
橘園院は谷司馬、園修院は谷東、宝仙院は谷古仙、明王院は谷靭負と改名・還俗。
6月18日:西京弁事務所より椎尾大明神の称号下附。
仏像仏器を撤去し、本堂は観音寺へ、閻魔堂は宝積寺へ、十王像は大念寺へ、鐘(康暦元年銘)は摂津正宣寺へ移管される。
ここに天台宗西観音寺は完全に消滅し、想像も出来ない椎尾社という神社に変質する。
何も抵抗せず還俗した社僧や本山正覚院に対し、門前の農家18戸は抵抗したと伝える。
「(社僧達は)自元仏恩を忘却致し、自己口腹之為め方斗第一に心掛居候不当人に候」
「本寺(正覚院)に於いては今日迄も御出願(京都府へ)之御様子もこれ無くは恐れながら御等閑之儀と存じ奉り候」
と京都府や本山に存続を提訴したと伝える。
しかし明治5年椎尾神社は村社に列する。つまり西観音寺の存続は認められない結果となる。西観音寺は廃寺。

西観音寺跡現況:2005/1/22撮影
 攝津西観音寺跡(閻魔堂跡附近から本堂方面を望む)
   ・・・閻魔堂から本堂に至る参道の両側はサントリーの山崎工場に変貌している。中央鳥居が旧本堂に至る入口である。
 攝津西観音寺本堂跡・・・ 現在は神社として整備されるも、石段・石垣が現地に残る西観音寺唯一の遺構である。
   本堂跡地には本殿・拝殿が建つ。
 攝津西観音寺石垣・・・本堂東側石垣 が残る。
 攝津西観音寺閻魔堂跡・・・工場入り口附近が閻魔堂跡で、記念碑と十数体の石仏が残される。
 ※なお閻魔堂安置の諸仏(閻魔王・司録・司命・闇黒童子・倶生神)は鎌倉期の作品とされ、重文指定。
 


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