甲  斐  岩  殿  山  円  通  寺  三  重  塔

甲斐岩殿山円通寺三重塔(岩殿山七社権現・七社明神・岩殿権現)

明治維新の神仏分離・修験廃止 などによる廃仏毀釈により、円通寺常樂院および大坊は廃寺、三重塔は取壊される。

参考文献:
「岩殿山の総合研究」岩殿山総合学術調査会、大月市教育委員会、1998
「公報おおつき」bT08(2000.5)〜bT11(2000.10)の「円通寺跡」

近世の岩殿山絵図:2010/05/22追加

岩殿山境内絵図・全図:時期不詳(江戸期)、北条熱実家(大坊)所蔵
 岩殿山境内絵図:左図拡大図:上図部分図
  ※モノクロでははっきりしないが、除地は黄色で色分けされると云う。
寺領・境内(除地)絵図:岩殿区有文書
 ※参道南側は大坊の所有地、北側一体広範囲が常樂院の所有地と分かる。
 大坊には母屋のほかに土蔵・隠宅がある。常樂院は石垣を組み、
 堂宇として本堂・土蔵・表門などが描かれる。
宝永2年岩殿村絵図:円通寺部分図:宝永2年(1705):岩殿区有文書
 ※観音堂・三重塔・鐘楼が描かれ、観音堂前には燈籠がある。右端の寺は真蔵院か。
 石階の左右は大坊・常樂院であろう。
延享2年岩殿村絵図:円通寺部分図:延享2年(1745):岩殿区有文書
年未詳岩殿村絵図:円通寺部分図:年代未詳:岩殿区有文書
年未詳岩殿村絵図2:円通寺部分図:年代未詳:岩殿区有文書

明治初年頃絵図残欠:円通寺観音堂・三重塔・鐘楼、大坊本堂・土蔵 、
 常樂院本堂庫裏・土蔵・門などが明治初頭まで維持されたのであろう。
 

岩殿の地割形態
明治初頭まで存在した円通寺堂宇は現在の賑岡公民館岩殿分館の西側一帯に位置した。
門前には参道となる急斜面の東西道が通され、その北側には常楽院、南側には大坊の屋敷地が並び、急斜面を石垣で造成した屋敷地が残る。
 常樂院石垣

○「甲斐名所圖會」(甲斐叢記後輯 巻9)
 岩殿山・大月橋・桂川:岩殿山麓に三重塔などが 描かれる。

円通寺三重塔跡

◇円通寺三重塔跡推定地
 円通寺三重塔推定地:○1は現在の観音堂(昭和初期建立と云う)、○2は三重塔跡として整備されている区画である。

平成9年、矢印で示す網掛部を発掘調査。
(この区域は国道・市道で分断され、住宅が建設され、市道西側の僅かな平地のみが発掘可能であった。さらにこの平地には昭和初期の建立と云う観音堂があり、さらに発掘面積は限られたものとな る。)
結果は三重塔に関係するような礎石や土壇は検出されなかった。
つまり上述の○1付近(現観音堂の位置)では塔に関連する遺構は検出されなかったという結果に終る。
○2は現在三重塔跡として整備されている区画であるが、塔一辺が5m程度の小塔が建立されていたと仮定しても、場所としては余裕が無 く、塔跡ではないであろう。
以上や絵図の位置関係から、三重塔は○3の位置(現在は市道)に建っていた可能性が高いであろうと推定される。
なお出土遺物は砕片陶磁器類、寛永通宝などの銭貨、鉄釘などであった。
 ※○2の場所に礎石が集められていると思われるも、その経緯は情報が無く分からない。
 推測するに、塔の棄却後○3の所に礎石は残っていたが、いつの頃かは不明であるが、道路(市道)拡幅整備の時に、
 ○3が道路面になり、その時○2の位置に礎石が運ばれたのであろうか。

2010/06/13追加:
円通寺跡概要図:下記の写真はこの図の概要を撮影したものである。

岩殿山古絵図:詳細不詳、上掲載の明治初年頃絵図残欠に酷似する。

岩殿山円通寺跡1:南から撮影、左の堂が現観音堂、右が公民館岩殿分館、観音堂と分館を分断する道路面が三重塔跡推定地、
  分館手前坂道が常楽院跡・大坊跡へ至る急坂、この坂は近世の絵図では石階で表される。三重塔礎石集積地は観音堂の背後にある。
岩殿山円通寺跡2:左は現観音堂、右の道路面(溝が作られている付近)が三重塔跡推定地
岩殿山円通寺跡3:右は分館、中央道路面(溝が作られている付近)が三重塔跡推定地、右端に急坂の入口が写る。
岩殿山三重塔礎石集積地:背後建物が観音堂
岩殿山三重塔礎石1     岩殿山三重塔礎石2
岩殿山観音堂:現在は全くの廃墟、近年使われた形跡は全くなし、堂内は備品が乱雑に積まれている。本尊・仏器などは無いと思われる。

岩殿山大坊跡:2011/08/27修正:
 現在、建物は近年(2006年に着工と推定される)の高床式三層建築(構造は鉄骨と推定される)に造替される。
 高床氏三層建築のデザイン意図は、北條家(大坊)現当主によれば、三層であることは勿論であるが、高床も三重塔を意識したもので、
 屋根の形状を変更すれば、いつでも三重塔にできるというものであると云う。
 これは円通寺大坊及の歴史を受け継ぎ守るものとしての自負と、そして「現在に生きる修験とは」の問いかけの為せるものと推測される。
 岩殿山大坊跡2:2011/08/27追加:
  ※写真撮影した当時は建築のデザイン意図を理解しておらず、数枚の写真しか撮影せず、このアングルの写真しか掲載できないのを
  遺憾とする。
岩殿山常楽院跡1:常楽院跡入口から、常楽院跡を撮影
岩殿山常楽院跡2:常楽院跡石垣1の角を中央にして撮影
岩殿山常楽院跡3:左は常楽院跡石垣1の角、右の突当りの石垣は常楽院跡東入口の坂道、その上に僅かに見えるのは真蔵院本堂屋根。
岩殿山常楽院跡4:常楽院跡東入口(緩坂道)、背後は常楽院跡民家
岩殿山常楽院跡5:常楽院跡東入口(緩坂道)、左石垣は常楽院跡石垣2に繫がる石垣である。
岩殿山常楽院跡6:常楽院跡石垣2の角を撮影
岩殿山常楽院跡7:左は常楽院跡石垣3の角、右は真蔵院石垣1の角を撮影
岩殿山真蔵院1:真蔵院石垣1の角を撮影、石垣上の建物は真蔵院収蔵庫
岩殿山真蔵院2:左は真蔵院石垣1、右は真蔵院石階
岩殿山真蔵院3:真蔵院石階、建物屋根は真蔵院収蔵庫
岩殿山真蔵院4:真蔵院石階、真蔵院石垣2を撮影
岩殿山真蔵院3:右本堂、左収蔵庫

 甲斐岩殿山山容1     甲斐岩殿山山容2

2011/08/27追加修正:
◇円通寺大坊:
「甲斐国社記・寺記 巻4」慶応4年では、建家(張5間、行間7間、板葺)、土蔵(張2間半、行間3間、板葺)、長屋(7間、2間(半?))と云う。
北條家(大坊)は廃仏毀釈による円通寺廃寺の後、岩殿山円通寺の什宝・古文書などを長年護持し、現在に伝えると云う。
例えば「七社権現立像」(県文)、「摺本大般若経533巻」(大月市文)、「岩殿山絵図」などがそれである。
なお北条熱実氏は現当主の祖父、明治維新時、つまり円通寺最後の住職である北條高順氏は曽祖父と云う。また、高順氏の後裔は医業を営むと云う。
◇円通寺常楽院:
「甲斐国社記・寺記 巻4」慶応4年では、建家(間口10間、奥行5間?、茅葺)、土蔵(3間、4門、板葺)、門(6尺、2間、板葺)、同裡門(東西2間、南北6尺、板葺)と云う。
常楽院母屋は近年立替、この民家の西の住人(この民家付近に観音堂があった可能性が高いと思われる)によれば、立替前は草葺(藁葺?)であったという、坊舎の建物が残っていたのであろうか?
現在もこの民家には常楽院住職の後裔が住む。現当主のご婦人の祖父(ご婦人は祖父とおっしゃるも、ご婦人のご年齢から推測して、ご婦人の祖父ではなく曽祖父以上と思われる)が僧侶であって還俗と云う。

伝三重塔四天柱

大坊(北条熱実氏)所蔵資料中に、明治の神仏分離の対象建築に「三重塔」と明記されていると云う。
 (以上から三重塔は明治の神仏分離に伴う廃仏毀釈で毀却されたのは確実である。)
この塔の柱の1本と伝承される部材が柳原明文氏(常樂院)邸に伝来する。
柳原家では神仏分離の処置で取壊された三重塔の柱1本を貰い受け、それを長年池の松の枝の下支えとして使用してきたと云う。
近年傷みがひどくなってきたため、その材を取り外し保管している。

  四天柱全景:左図拡大図
四天柱頭部:頭貫欠き込みと朱漆塗りが残る。
四天柱底部:地覆穴が残る。

残存礎石:四天柱底部に礎石との「ひかりつけ」が認められる。

四天柱側面図:四面

四天柱の形状は以下の通り。
1)元口径は23cm(腐朽のため痩せ、最大径は26cm)、末口径は21cm、長さ195.5cm。中ほどの径は24.8cm。
2)材質は檜、漆の朱塗り跡が残る。
3)柱頭部には頭貫を通す「欠き込み」がある。幅5,5cm、深さ14cm。
4)柱底部には地覆を通す「仕口」がある。幅8cm、高さ20cm、深さ14cm。
5)「欠き込み」と「仕口」間には幅およそ5.5cmの溝が上から下まで走る。(来迎壁嵌め込み溝)
6)若干の「埋木:が認められる。
7)三重塔跡として、礎石が集められているが、その内の1個の礎石に対応すると思われる「ひかりつけ」が行われた形跡が柱の元口に残る。
以上の形状及び「ひかりつけ」の形跡の残存などで、この部材は塔初重の四天柱の1本であるとほぼ断定できる。

この柱の伐採年代:
放射性同位元素14Cによる年代測定が実施される。
半減期5568年を採用すれば、1950年までの経過年数は600年±60年
半減期5730年を採用すれば、1950年までの経過年数は620年±60年 という結果であった。
以上を踏まえれば、この柱の伐採年代は鎌倉末期の文永7年(1270年)〜室町中期の応永17年(1410年)と考えることが出来る。
 ※このことは、「甲斐国志」で云う、塔は承平3年(933)の建立で、近世まで創建時の塔が維持されたということに疑問を呈することになる。
この部材が四天柱であることを考えると、創建時の塔は中世に再建され、この再建塔が明治維新まで維持されたと考えるのが妥当であろう。
勿論、何等かの事情でこの四天柱のみ代替されたと考えられなくもないが、 そんなに有ることではないであろうから、塔の創建が承平3年であったとしても、中世に再建されたと考えるのが自然であろう。

2010/06/13追加:

四天柱は常楽院跡民家の物置庫に眠る。確かに未だに鮮やかな朱が残る。
この柱は池の松の枝の支えになっていたが、今は池も土砂を入れ消滅し、松も無い。
四天柱は松の枝の支えであったが、直接地面に立てていたのではなくて、かなり大きな石を置き、
その上に立てていた。
 ※いずれにせよ、恐らく100年を超える年月屋外の風雨に打たれる場所にこの四天柱はあったと思われるが、腐朽せず、また未だに鮮やかな朱を残すには驚かされる。

2010/05/30撮影:
岩殿山三重塔四天柱1
  同         2
  同         3
  同         4:左図拡大図
  同         5
  同         6

岩殿山概略

創建については「甲斐国志」「甲斐叢記」では棟札現存と云い、
「行基菩薩が大銅(同)元年(806)に建立して以来、永正17年(1520)に至り寺が大破したので、上総国の賢覚阿闍梨が再建のために有志の奉加を求めた…云々 」 (「甲斐国志」)と云い、大同元年行基の開創と云う。
他に創建を伝える資料としては、三重塔の枡形に「承平3年(933)七月廿五日大檀那孝阿禅尼」の銘文があったとする。
 (「殿居風土記」「甲斐国志」「甲斐名勝志」など)
「峡中家歴鑑」北条高順の項には、第一世義秀が承平年中(931〜937)に一寺を建立し、これが岩殿山円通寺の始めと云う。

最盛期には三重塔・観音堂・常楽院・大坊・新宮・不動堂など多くの堂宇があり、境内地は岩殿山頂から東麓一帯 を占めたと推定される。
中世には常楽院・大坊が円通寺うを護持し、両者は聖護院末として寺領を保障され、本山派修験の郡内元締めとして勢力を保持する。
またこの頃、郡内では小山田氏が台頭し、長年の抗争の後、武田氏との和睦が成立し、円通寺は武田、小山田の両氏の庇護を受ける。
と同時に戦略上の観点から「岩殿城」が構築される。
江戸期には幕府統制によって寺領や霞場を多く失い次第に衰微する。

明治維新の神仏分離の処置や修験宗廃止の布告(明治5年・1872)などで、常楽院・大坊は復飾(常楽院は神勤か)、大坊 の後裔は 医業を営むと云う。(2011/08/27修正)
かくして、明治8円通寺(常楽院・大坊)は年廃寺となる。(円通寺三重塔、観音堂、不動堂などの多くの建物や資料が失われる。)
ただし、真蔵院は常樂院の内庵であったが、真言宗慈眼寺末であった(「甲斐国志」)ため、廃寺は免れる。

○円通寺の堂宇跡の判明しているものは以下のとおり。
七社権現:山頂より90mほど低い岩窟に造られた堂で、七体の神像が祀られていた。現在は洞窟だけを残す。
常楽院・大坊:現、岩殿分館から下る道の北側に常楽院、南に大坊があった。現在は民家。
三重塔・観音堂:現在の岩殿分館の周辺にあったとされ、明確な位置は不明である。
(絵図では、三重塔は石段の突き当たり、そのやや北側の七社権現への参道登り口付近に観音堂が描かれる。)
 なお 「常楽院」「大坊」の両院に分かれたのは文禄3年(1594)とされると云う。
 (あるいは、「大月市史」では正保3年(1646)〜慶安3年(1650)頃分立と云う。)
新宮:現「神宮橋」の南側で、切り立った崖の下の洞窟にあった。
江戸時代の絵図には崖の上から洞窟の前面に滝が流れ落ちる様子が描かれる。
当時、滝が常時流れていたかどうかは不明であるが、現在でも降雨後には、対岸の葛野方面からこの滝を見ることができるとも云う。

○「都留市史資料編 古代・中世・近世T」都留市史編纂委員会、1992
本尊十一面観音:大同元年(806)行基が建立したと伝えられる。
三重塔の桝形には承平3年(933)の年紀と大旦那孝阿禅尼との銘があったとされる。
永正17年(1520)の棟札:上総国賢覚を本願として堂宇を修復、寄進者には武田信友・平(小山田)信有らの名がみえる。(「甲斐国志」)
江戸期都留郡領主鳥居元忠は岩殿七社権現その他社領の別当職を常楽坊に与え、慶長6年(1601)鳥居成次は社領10石を寄進した(北条熱実家文書)。
常楽坊は京都聖護院に属する。文明19年(1487)聖護院門跡道興の巡拝がある。
17世紀中頃に常楽坊は常楽院・大坊に分れるが、ともに本山派修験の触頭を勤める(寺記)。

残存する遺物

◇木造七社権現立像(県文):現在は真蔵院収蔵庫に保管する。
七社権現洞窟神体。江戸初頭もしくは室町末期の彫像(檜一木造)と推定。(伊豆・箱根・日光・白山・熊野・蔵王・山王権現)
蔵王権現像高196cm、熊野権現175cm、他は151cm〜144cmの像高。
 木造七社権現立像:中央は蔵王権現、左端が熊野権現、以下山王、白山、蔵王、日光、伊豆、箱根権現

◇本尊十一面観音立像:2躯現存する。真蔵院収蔵庫に保管される。
・新宮安置十一面面観音(像高146cm、平安後期の作と推定、新宮洞窟に安置と推定)
 新宮安置十一面観音立像:虫食いがひどく、かつかなり損傷する。恐らく新宮に祀られていた像であろうと推定される。
・観音堂安置十一面観音(像高99cm、鎌倉期の作と推定、観音堂安置と推定)
 観音堂安置十一面観音立像

◇円通寺大般若経(大月市文):533巻が現存する。(北条熱実氏所蔵、現在は真蔵寺収蔵庫に保管)
応永6年(1499)、応永7年、応永8年の年紀が存在する。533巻の内7巻が書写本、あとは摺本と云う。

 ※真蔵院収蔵庫には七社権現立像・木造十一面観音像を安置するが、拝観は可能と思われるが未確認。
  (時間の関係で今般、拝観は割愛する。)
 ※2011/08/27:上記の木造七社権現立像及び大般若波羅蜜多経は明治維新以降、北条熱実家(大坊)が護持してきた什宝と思われるも、
 現在なぜ真蔵院に保管なのかの理由は分からない。

岩殿山円通寺の文献資料:2010/05/22追加

◎「甲斐国志」松平定能編、文化年中(1804-18)
 <巻72・神社部>
岩殿七社権現:・・・別当本山修験常楽院
 <巻90・仏寺部>
岩殿山円通寺:・・・黒院寺領1町8段1畝1歩、堂敷地750坪、本尊十一面観音、行基作、別堂(ママ)本山修験常楽院・太坊・、相伝大同元年○創造棟札アリ、如左
棟札之事 行基菩薩建立、大同元年・・・(中略)・・・・塔ノ升形ニモ、承平3年(933)7月25日、大檀那孝阿禅尼トアレバ、旧刹タル事可知、
○秋元氏修理棟札之事 (略)貞享2年(1685)銘
  ※以上の2棟札は岩殿の柳原明文家に現存すると云う。
○寺宝
 大般若経600巻・・・・  三重塔 本尊釈迦、脇侍文殊・普賢、此塔初建立ノママ、修復ヲ加ル耳、造営ノ事ナシ
 岩殿七社大権現(伊豆・箱根・日光・白山・熊野・蔵王・山王)神体木造、各長サ7尺許・・・ (略) ・・・
○岩殿山真蔵院
真言宗末木村慈眼寺末、本尊千手観音、・・・・此寺元常楽院ノ内庵ナリ、故ニ常楽院ヲ開基トス

2006/01/07追加
◎「甲斐叢記」巻9 大森快庵、嘉永元年(1848)
○七社明神:
伊豆、箱根、日光、白山、熊野、蔵王、山王、七座の神を配し祀る神体は木像にて各七尺あり、行基僧正の作なりと云えり。
岩窟の中に柱を樹て、床を張って祠殿とせり。
天井は自然の一片岩なりよりて岩殿といふぞ、岩尖より細流の落る事霤の如し、相伝へて、平城天皇大同元年の鎮座にて、創造の棟札ありといへり。
別當は本山修験常楽院なり、又、大坊院真蔵院の二箇寺ありて、相ともにこれを司祀る、社領十四石余り、山寺号を岩殿山円通寺といひて寺田一町八段余りあり。 行基僧正の刻める観世音を本尊とす。
三重搭あり九輪の下の舛形に銘文あり。承平三年七月廿五日、大檀那孝阿比丘尼とあり。
此尼何人なりけむ詳ならず、搭の南に比丘尼屋敷といふ所あり。
又、古塚あり孝阿塚と云ふ。搭の前より北西へ険しき山路を攀躋は岩殿の社殿に至る。
又、山下の北向に新宮あり、十一面観音を安置す、此地も岩窟の内にお堂を建て、自然の岩天井ありて七社と同じ造構なり。・・・(略)・・・

◎「甲斐名勝志」萩原元克、天明2年(1782)
岩殿権現 ・・・(略)・・・

 ※「甲斐名勝志」天明2年(1782)、「甲斐国志」文化年中(1804-18)、「甲斐叢記」巻9 嘉永元年(1848)は概ね同一内容の記述である。

◎「甲州噺」村上某、享保17年(1732)
岩殿権現 ・・・(略)・・・

◎「甲陽随筆」加賀美遠清、天明年中(1781-)
岩殿権現 ・・・(略)・・・

◎「甲斐国都留郡岩殿山山緒上帳」常樂院
一、元除地 高13石2斗6升3合 七社領   内3石7斗4升7合 屋敷
一、七社権現宮 大同元年行基菩薩建立 5間10間 内神(蔵王・伊豆・熊野・白山・箱根・日光・山王)但木造 (略)
東麓
一、十一面観音堂 5間4間 内仏木造 但草屋根  同堂地 759坪
一、三重宝塔 3間四面 内仏釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩 但杮屋根 是者、若狭国康(孝)阿禅尼、承平3年建立 (略)
一、鐘楼 9尺四面 (略)
北麓
一、千手観音堂 5間3間 (略)
一、常樂院立家 11間半5間半 但草屋根 (略) 表門(略) 裡門(略) 土蔵(略) 厠(略)  (什宝など略)

◎「甲斐国社記・寺記」慶応4年(1868)
巻73:十一面観音堂地 750坪、観音堂4間四面萱葺、三重之塔、梵鐘及び鐘楼2間四面」
巻74:大坊及び常樂院の項:両寺院持ちの観音堂、三重之塔2間四面高さ5丈8尺杮葺・・・」
     ※2間=3,64m、5丈8尺=17.57m

◎「奉加帳」
一、郡中触下之修験30ヶ院有是候
一、七社大権現 (略)
一、三重宝塔 承平3年5月建立ヨリ 至明治5年迄、凡941年
 右者、御尋ニ付、由緒奉書上候、已上
   明治5年4月 
      岩殿山常樂院明雄
 山梨県 御庁


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