佐 渡 蓮 華 峯 寺 大 塔

佐渡蓮華峯寺大塔

佐渡蓮華峯寺基本情報:「佐渡市教育委員会、文化振興課、佐渡伝統文化研究所準備室」ご提供

佐渡蓮華峰寺大塔

「佛教考古学論攷」石田茂作に以下の記事あり。
 「蓮華峯寺大塔、佐渡喜叡山、新義真言、無し」(※喜叡山とは不明)
  石田茂作のこの著作によって、蓮華峯寺にかって「大塔」があったと知る。

佐渡伝統文化研究所準備室」の「県指定有形文化財」のページ に以下の情報がある:
「蓮華峰寺 木造阿問如来坐像 木造宝生如来坐像 木造阿弥陀如来坐像 木造不空成就如来坐像(五智如来像のうち)」の項では以下のように説明する。 ※本像は鎌倉後期の作と推定。
 「五智如来像は、17世紀半ば近くには、第11世快慶によって建立された二重大塔の本尊とされていましたが、18世紀前半には、第12世持賢によって奥院に移築された五佛堂に移され、さらに13世?阿の代に至って、再び大塔に安置されたと伝えられ、近世以降は八祖堂に祀られています。これらの像は、五智如来像の内の4躯です。」
 4躯は、推定榧材で前後割矧造、漆箔、像高もほぼ等しい。ただし宝生如来像のみは玉眼を嵌入、他は彫眼とする。
 阿弥陀如来像躰部正面内刳面には
 「建治2年歳次丙子8月16日 大檀那金□佛子策□ 大併師尾張公是心 阿闍梨賓積 敬白」の墨書銘がある。(建治2年は1276年)
なお「大日如来像は、・・・近世初頭ごろの作と思われます。」とあり、大日如来のみは近世に造替されたものと思われる。
  「大塔」安置と伝承される五智如来像が遺存する。

「小木町史 上巻」所収
「蓮華峯寺略図」:この略図の詳細は不明

蓮華峯寺略図:左図拡大図
大塔(おそらく形式は多宝塔であろう)
が描かれる。

二重塔の概要は以下の通り。(下に詳細史料を掲載)
◇宝暦11年資料:
 一辺3間2尺(約6m)<大型塔と思わる。> 本尊は胎蔵界五仏
◇「佐渡寺社境内案内帳」:
譜代大名八家、伊丹順斎、岡部家御旗本の寄附で建立される。
 ※伊丹順斎が佐渡奉行の時であれば、快慶(文禄に入院、慶安5年・1652遷化)代に建立と推定される。(塔は江戸初頭に建立と推測)
 ※伊丹播磨守康勝(順斎)は寛永12年(1635)から承応2年(1653)まで佐渡奉行の職であった。
◇寛政元年の「小比叡村 細見帳」には伽藍の記載に大塔の名称がなく、寛政元年までには、おそらく退転したものと思われる。
蓮華峰寺発行リーフレットには「多宝塔(明治初期倒壊)」とある。
・蓮華峯寺様談:「退転理由は大雪で倒壊」と伝える。
・蓮華峯寺奥様談:「祖母(故人)からは『三重塔があった』と聞いている」
  (三重塔とは誤伝、思い違いの類と思われる。)

蓮華峯寺金堂の修理記録として、安永4年(1775)冬12月の大雪で金堂東側屋根破損、同6年修理とある。
また、蓮華峯寺燈籠堂は昭和38年大雪で倒壊と云う。
また、他の例では丹後縁城寺多宝塔(昭和38年の大雪で上重倒壊、下重のみ現存)の例があり、大雪での倒壊は有り得ると思われる。

宝暦11年(1761)「小比叡山手鑑」(「小木町史 上巻」)
「一、御朱印 高90石5斗 ・・・・・
 一、住持 快慶代 ・・・慶安4年御朱印始寺並什宝焼失仕候住持快慶も焼死被致候・・・
 (略)
 一、当寺本寺者京都智院
 (略)
 一、本坊唐門 9尺6寸四方  一、客殿 9間に13間  一、庫裏 6間に13間  一、土蔵 2間に3間  一、護摩堂 8間に7間
 一、仁王門 2間に3間  一、観音堂 8間に7間 此堂は飛騨工作也本尊は弘法大師弾作也  一、鐘楼堂 2間に1間半 ・・
 一、鎮守祭拝殿 4間に3間  一、本社 1間半に2間 白山天神山王宮右一処也  一、三部権現三社宇
 一、薬師堂 3間四方・・  一、蜜厳堂 9尺四方  一、奥院燈篭堂 5間に4間1尺・・  一、大師堂 2間四方・・
 一、御霊屋2社 東照大権現・台徳院殿  一、雨覆 7間4尺に8間
 一、八角堂 八角間1間づつ 諸神勧請正面より順次に拝之也 高野大名社一 三宝荒神二 湯殿山大権現三 白山天神山王宮四
     八幡大菩薩五 三輪大明神六 青龍大権現七 諸神総社八 以上八角諸神 (略)
 一、八祖堂 3間半四方・・
 一、二重塔 3間2尺四方 本尊は胎蔵界五仏並四天王有之 額嵯峨与市筆也  一、骨堂 2間四方・・  一、地蔵堂 2間四方・・
 (略)    」
 宝暦11年(1761)には「二重塔」の記載がある。

「佐渡寺社境内案内帳」(「佐渡叢書 第5巻」):
   (編者、編集年代不詳、宝暦頃の編集とされる。)
「当寺京都智積院末、開基弘法大師、大同2年草創・・・
奥ノ院、御影堂・・・燈篭堂、上杉中納言景勝卿御建立也。
 東照大権現宮 御神殿 台徳院殿尊儀 御霊屋
右者正保4年奉造畢、翌年慶安元年10月24日被下成御朱印。正保之初住持快慶赴東武、奉拝謁大献院殿家光公・・・特蒙両御殿営構之厳命、奉造営所也・・・
二重大塔者、御譜代御大名八家、伊丹順斎公、岡部家御旗本中寄附給所也。外有八祖堂、八角堂等。・・・・
  追加
当寺往古越後西津吉祥寺末、元禄9年智積院末に改。
辻藤左衛門信俊一乱、慶安5年本堂焼失、・・・・・
御朱印高90石5斗・・・・
歴代 中古 長鏡(長鏡以前は不知)、二 長快、三 頼純、四 快禅、五 快宥、六 快慶(文禄の初入院、・・・慶安5年死す。)
    七 弁栄(明暦元年・・入院)、八 盛長、九 実伝(宝永2年遷化・・)、十 長宥、十一 栄範、十二 賢敞、十三 鑁雅、
    十四 行順、十五 日鑁、十六 純雅(・・明和5年・1768入山)
・・・
境内(本坊)南北872間、東西1850間。
蓮華峰寺々家
 金蔵坊、法積院、宝蔵坊、遍照院、梅本坊、玉珍坊、奥之坊、正覚坊、等覚坊、如意坊
  ※法積(寳積)院、寳蔵院は現存する。
蓮華峰寺末寺
 雑太郡大久保村真禅寺(真禅寺々家 上之坊、中之坊、田中坊、大聖寺)、羽茂郡小木町阿弥陀院、羽茂郡西三川村安楽寺、
 羽茂郡西三川村医王寺、羽茂郡渋手村大光寺
蓮華峯寺門徒
 羽茂郡西三川村福寿院、羽茂郡清士岡村西光寺、羽茂郡清士岡村南陽坊、羽茂郡清士岡村地福院、羽茂郡清士岡村如意輪寺、
 羽茂郡小泊村観音寺、羽茂郡椿尾村玉泉坊、羽茂郡倉谷村智光坊、羽茂郡村山村常照寺、羽茂郡新保村養禅寺、
 羽茂郡野崎村極楽寺、羽茂郡赤岩村不動院、羽茂郡赤岩村持明院、羽茂郡大杉村清行寺、羽茂郡杉野浦村養蔵院、
 羽茂郡強清水村海音寺、羽茂郡木流村安養坊、羽茂郡沢崎村薬師寺、羽茂郡江積村円満寺、羽茂郡田野浦村吉祥坊、
 羽茂郡大浦村西泉寺、羽茂郡井坪村東光坊

「小比叡村 寛政元年(1789)細見帳」:(「小木町史 上巻」):
「院下真言宗蓮華峯寺 寺家9ヶ寺 熊野権現 大同元年開基 門末21ヶ寺 他領に有門末16ヶ寺
寺中諸堂 東照宮 観音堂 八祖堂 御霊屋 御宮台徳印殿 薬師堂 骨堂 御門外下乗 白山権現 地蔵堂 奥院 追手下馬高札
天満宮合殿 塔経蔵は輪蔵なり 燈篭堂 護摩堂」
 寛政元年(1789)には「大塔」の記載はなく、大塔は退転していたものと思われる。
 但し、蓮華峰寺発行リーフレットには「多宝塔(明治初期倒壊)」とある。
  江戸後期の記録には大塔(二重塔)の記録が途切れ、果たして明治初期まで存在したかどうかは不明である。

「佐渡志」田中葵園、文化年中(1804-)編集:「佐渡叢書 2巻」山本修之助編集、昭和33年所収

蓮華峯寺(境内図):左図拡大図

佐渡志附録図にある。

文化年中の編集とされる「蓮華峯寺(境内図)」では、層塔として「二重塔」図が描かれる。
寛政元年(1789)「明細帳」には「二重塔」の書上げがなく、寛政元年までには退転と思われる。
しかし、文化年中とされる本図には多宝塔が描かれる。
江戸後期に「二重塔」の存在は不確実であるが、本伽藍図は「いにしえ」の伽藍を描いたものなのであろうか。
繰り返すが、蓮華峰寺発行リーフレットでは「多宝塔(明治初期倒壊)」とある。

蓮華峯寺多宝塔跡

蓮華峯寺境内略図:小比叡山蓮華峰寺発行リーフレットより

 (上の略図は凡その位置関係を示すもので、距離については「正確」なものではない。)
訪問日、住職は不在で、多宝塔情報の聞き取りは出来ずに終るも、蓮華峰寺リーフレットを入手。
本図に見られるように、
下馬門から八角堂前(南)・御霊屋鳥居前(南)、八祖堂横(すぐ北)を経て、弘法堂石橋に至る道がある。
この道を隔て八祖堂すぐ北に一段上った平坦地があり(近年一基の墓が建てられたようである。)、その平坦地の広さから、ここが「多宝塔跡」と推定される。(写真は撮影 せず。)
 ※この平坦地には立木は一本もなく、下草も定期的に刈られているようで、その広さは大型多宝塔が建立可能な広さを持つ。
  表面の観察のみでは基壇様の高まりあるいは礎石類束石類の残存等の多宝塔があったというような痕跡は見つけることはできない。
  ここには近年1基の墓が建てられ、この一画だけが整然と手入れされ、近年の造成地で、塔跡ではないとも思われる。
  しかし、西にある亀田鵬斎石碑の平坦地を除けば、附近には建物跡と思われる平坦地は無く、この平坦地が多宝塔跡である可能性は
  高いと思われる。
この推定多宝塔跡すぐ西にさらに一段高い平坦地があり、ここに「亀田鵬斎の碑」がある。(写真は撮影せず。)

推定多宝塔跡:写真右手屋根が八祖堂で、左の竹の丘の奥の一段下に「亀田鵬斎の碑」があ る。さらにその奥に 一段低い平坦地があり
           ここが多宝塔跡と推定される。写真右手八祖堂のすぐ左手に平坦地はある。
八 祖 堂:南東から撮影、この右手が御霊屋で、八祖堂裏手(すぐ北)の杉(と思われる)木立 の中に平坦地(推定多宝塔跡)がある。
         写真右の支柱と堂左隅柱の間もしくはそのやや左が推定多宝塔跡平坦地である。

※亀田鵬斎:文化7年(1810)4月20日佐渡の小木へ渡り、小木に3か月余滞在したと思われる。

蓮華峰寺概要

寛永11年(1634)御影堂覆屋造立の勧進(願主は住職快慶):(「小木町史 上巻」):
 勧進者は以下のようであった。
小比叡山 下之坊・宝蔵坊・等覚坊・南陽坊、常照坊・、法積坊・遍照坊、江積村 円満寺・上之坊・円識寺、強清水村 海音寺、
沢崎村 薬師寺、井坪村 東光坊、田之浦村 吉祥坊・専性坊、木流村 安養坊、大浦村 西泉坊、
木崎(浦)村 阿弥陀院・能昨坊・鏡昨坊、亀沢(清士岡)村 西光寺・長音坊・長説房、赤岩村 華厳院・円徳寺・不動坊・清蔵坊、
野崎村 円教院、杉ノ浦村 養蔵院・智円房・憲説房、大杉村 清行寺、新保(赤泊)村 養禅坊・毘沙門堂、
釜戸 観乗坊・常福坊・照円坊・金照坊、上山田村 東福寺、椿尾村 五泉坊、西三河 安楽寺・上之坊・生福寺・宗純坊、
倉崎(谷)村 智福院・智光院、渋手村 行宗坊、大窪村 田中坊・下之坊・賢性坊
 ※江戸期初頭の蓮華峯寺の寺中及び末寺等の存在が分かる。この地の本山として蓮華峯寺は経営される。

「小木町史 上巻」
慶長13年(1608)弘法堂落慶・・・少なくともこの頃までには天台宗から真言宗に転宗していたと思われる。

慶安頃(1648-)「蓮華峯寺収納並仕方帳」:(「小木町史 上巻」):
・・・
一、大麦7石1斗9升 坊中の分 うち
  玉珍坊分 1石6斗、正覚坊分 6斗、遍照院分 7斗、奥之坊分 9斗、如意坊分 1石、等覚坊分 9斗、金蔵坊分 1石4斗9升
・・・
 ※上記の坊中の存在が知られる。

元禄15年(1702)「村中立会連判手形仕置候事」:(「小木町史 上巻」):
小比叡村入会野刈干についての規定が成立し、ここで
 宝積院・梅本坊・玉珍坊・金蔵坊・宝蔵坊・奥の坊・正覚坊・等覚坊・遍照坊 の名前が知られる。

宝永5年(1708)「村中寄合相究置証文之事」:(「小木町史 上巻」):
元禄15年(上記)と同一の寺中(坊中)の存在が知られる。

明治20年「小比叡村建物取調帳」:(「小木町史 上巻」):
・・・
小比叡神社本社 2×2 拝殿 5×2.5
本社(ママ) 3×9 庫裏 14×9 土蔵 4×2 納屋 6×3 観音堂 8×7 興行(ママ)大師堂 3×3 弘法大師堂 3×3
□堂 5×5 八祖堂 3×3 八角堂 1間八角 燈楼堂 2×2 経堂 3×3 地蔵堂 6.5×6
仁王門 3×2 本堂 7×5 庫裏 5×2.5 納屋 8.5×2.5
 大塔(二重塔)の記載はなく、既に退転と思われる。

「小山 佐渡志」(「佐渡叢書 第5巻」):
 (天明〜寛政・1781〜1800頃のものとされる)
※寺暦については「佐渡寺社境内案内帳」(上掲)とほぼ同一内容(但し記述は簡略)である。

「佐渡志」:
佐渡は「遠く皇京の巽(鬼門)の方なれば、鎮護のために大同のはじめ空海この山を開きて、小比叡山と名付け、寺を蓮華峰寺と名づく」
中世の終わり頃までは天台宗であったと推定され、上杉景勝佐渡侵攻後、真言宗に改める。

かっては金堂、客殿、護摩堂、薬師堂、八角殿、東照宮、台徳院殿、大塔、八祖堂、骨堂、燈篭堂、弘法堂(御影堂・奥之院)、興教大師堂、鐘楼堂、地蔵堂、庫院、仁王門、唐門、山王権現、石鳥居、拝殿などの 堂宇を備えた大伽藍であった。

蓮華峯寺伽藍

◇金   堂:重文・内陣脇板壁に長禄2年(1458)の墨書あり・応永年中(1394-)頃までの建立と推定。昭和28〜30年解体修理。
  金  堂 1     金  堂 2     金  堂 3
         「重要文化財蓮華峯寺金堂及び弘法堂修理工事報告書」新潟県教育委員会、昭和30年12月 より
            金堂修理前背面     金堂修理前向拝     金堂頭貫仕口1     金堂頭貫仕口2
◇弘 法 堂(御影堂・奥之院):重文・慶長13年(1608)落慶(墨書)、寛永11年(1634)覆屋を建立、昭和29年解体修理。
  弘 法 堂 1     弘 法 堂 2
         「重要文化財蓮華峯寺金堂及び弘法堂修理工事報告書」新潟県教育委員会、昭和30年12月 より
            弘法堂修理前正側面     弘法堂修理前東北面     弘法堂修理前屋根
            弘法堂修理前軒見上(東北隅)     弘法堂修理前厨子
             ※覆屋は寛永11年(1634)建立、修理前は覆屋で辛うじて保持されていた状態であった。解体修理で覆屋は撤去。
◇骨   堂:重文・貞和4年(1348)の落書(筑前の僧による)がある。茅葺き一間仏堂、著しく太い柱を用い、和様を基本として、
       斗組、台輪、頭貫、木鼻などは禅宗様を使う。昭和58年解体修理、斗組、軸部はすべて建立当初の材と判明。
  骨  堂 1     骨  堂 2     骨  堂 3
    ◇骨堂(修理前):「小木町史 上巻」より
◇客   殿:昭和30年倒壊後の再興、桁行24.6m、梁間(はりま)16.1mの大堂である。
  客  殿 1     客  殿 2
護 摩 堂:元禄3年、入母屋造妻入、桟瓦葺、三間堂。
唐    門:推定江戸中期、四脚門
仁 王 門:文政五年建立、正面三間・側面二間、一重、入母屋造り桟瓦葺き:右手後方は金堂。
八 角 堂:推定江戸中期、銅板葺き、内部は柱間毎に三角形の小室に分かれ、それぞれに宮殿を収納、
        組物は絵様肘木や彫刻を多用した三手先を用いる異形の堂。
        宮殿には高野山大明神、湯殿山大権現、八幡大菩薩、三輪大明神、清滝権現、諸神惣勧神を祀る。
◇八 祖 堂:入母屋造、茅葺形銅板葺の三間堂、組物は五手先を用いる異形の堂。
  八 祖 堂 1     八 祖 堂 2       ◇八祖堂(修理前):「小木町史 上巻」より
密 厳 堂:天保15年建立、宝形造桟瓦葺、三間堂、一間向拝付き。
鐘 楼 堂:桃山期と推定、江戸末期改造、袴腰付き、上層は桁行3間、梁間2間、組物は出組、寄棟造、茅葺形銅板葺。
 鐘楼堂等:左から地蔵堂屋根・仁王門屋根・金堂屋根・鐘楼・経蔵
    ◇鐘楼堂(修理前)::「小木町史 上巻」より
経    蔵:江戸中期、桟瓦葺、妻入の土蔵、正面に1間の向拝を付設。
地 蔵 堂:明治26年(棟札)、宝積院の本堂と云う、佐渡四国古遍路第一番札所、正面3間、宝形造、桟瓦葺。
山王大権現拝殿:茅葺き屋根
山王大権現:手前より石鳥居、拝殿、本殿覆屋、本殿は覆屋の中にあり、外からは窺うことは出来ません。
        本殿:重文、寛永17年(1640)建立、昭和53・54年の解体修理で三間社流造・杮茸の原形に修復。
        石鳥居:重文、「建立慶長13年(1608)戊申7月3日」の年紀がある。
   ※佐渡では明治維新で激しい神仏分離・廃仏毀釈が行われたようです。山王大権現は蓮華峯寺から分離される。
          佐渡の神仏分離
御霊屋覆屋:大正期建立 、覆屋向かって右に東照宮(東照大権現)、左に台徳院御霊屋を覆う。
◇東 照 宮:東照大権現、推定江戸中期。一間社、入母屋造、杮葺。
  東 照 宮1     東 照 宮2
◇台徳院御霊屋:推定江戸中期。一間社、妻造妻入、杮葺。
  台徳院御霊屋1     台徳院御霊屋2
◇燈籠堂は昭和38年大雪で倒壊と云う。
◇現存寺中
  寺中宝蔵坊      寺中宝積院:本堂は地蔵堂という。


2007/03/28作成:2007/04/12更新:ホームページ日本の塔婆