播  磨  室  明  神  多  宝  塔

播磨室明神(室津賀茂明神・賀茂明神・賀茂太神宮・賀茂神社)多宝塔

播磨名所巡覧圖會<文化元年(1894)刊>に見る多宝塔
巻之5:室明神社(室の津、明神山にあり)
記事:「・・二層塔は多宝仏を本尊とす(むかし貞治の頃、当津の十河氏といふ人建立せり。
その賞として、飛騨守に任階ありしとなり)。」

2010/11/05追加:室明神全図

室明神部分図1:下記拡大図 :201105/07画像入替

室明神部分図2:下記拡大図

シーボルト「日本」第2巻に見る多宝塔<文政9年(1826)の江戸参府>

3月8時(旧1月30日)記事:
・・・それから神社に行った。社殿そのものは高さ2m、長さ47.725m、幅13.363mで、巨大な石垣で囲まれた台地の上にあって、五段の幅の広い石段がある。台地は手摺で囲まれ、あちこちと歩き回れる展望台となっている。
・・・・主要な建物は五つの社殿の真ん中にあり、一番大きくて高い。
・・・右手あるいは東側には二つの小さい社殿が並び、一つは片岡社、もう一つは太田の社という。
これらに対し左手つまり西側には貴船ノ社と若宮がある。・・・・
それからわれわれはこのいくつかの神社の西の三重塔*のところへ行った。木造のこの塔は建築術上の真の名作である。
つい最近建てたもので、僧侶は上手に描いたその立面図をわれわれに見せてくれた。われわれはそのコピーを作ろうとし、うまくできた。
というのは上述の神社の見取り図やこの寺から海を望んだ景色の絵といっしょに、それを次の年に受け取ったからである。
塔のスケッチは既に『日本』U第4図(j)
〔 j とあるが i が正しい〕、そして神社の全景はU第21図の1と2にある。
・・・ただわれわれは、こういう塔は神道ではなく、仏教とくに真言宗に特有なもので、仏陀礼拝とともに日本に伝えられたものである。
・・・こういう建物がここの一つの神苑に内にあり、そのうえ八幡社もそのかたわらにあるのは、・・・両部神道の祭式から説明される。・・・・」


U第4図(i)多宝塔:下記拡大図

2006/04/19追加:
シーボルト「日本 図録 第2巻」より転載

U第4図(i) 寺の塔 とある。

図の表現は、屋根の出が極端に浅く、この点に関してはやや正確性を欠いた絵とも思われる。
基本的には軸部は和様で、勾欄を付した縁を廻らす、初重2手先、初重欄間には近世初頭風な彫刻を用いる。屋根本瓦葺き。
基壇は精美な乱石積みで描かれているが、現存する多宝塔跡基壇は巨石から、精美に長く切り出した長方形切石の2段積基壇となっている。
この点もやや正確性を欠くものと思われる。
何れにしろ多宝塔であったことは良く窺うことができる。

 

注記 :Ein Buddhistischer Thurm.
掲載書名(頁) :Nippon : Archiv zur Beschreibung von Japan und dessen neben- und Schutzlandern, Jezo mit den sudlichen Kurilen, Krafto, Koorai und den Liukiu-Inseln : nach japanischen und europaischen Schriften und eigen Beobachtungen 7 v.
編著者名:Siebold, Philipp Franz von, 1796-1866

U第21図室明神:下記拡大図


U第21図室明神拡大図:下記拡大図

*記事中は三重塔とあるが、実際は勿論多宝塔である。(原文が三重塔なのか訳文で三重塔としたのか、浅学にして不明。 )

U第21図海を望んだ景色」下記拡大図

2006/04/19追加:
現状では図のような勾欄のある「縁」のある建物は存在しないと思われる。
かっては神宮寺であったという現在の社務所の位置にあったというが、神宮寺からは海の眺望はきかず、従って神宮寺(本坊)からの眺望ではないと思われる。
拝殿からも<現在では>樹木があり、図のような眺望にはならないと思われる。
現在の参籠所などの建物もしくは参籠所を少し下った場所付近からの眺望と思われる。

室津・瀬戸内眺望1 
室津・瀬戸内眺望2

上に掲載図(U第21図室明神拡大図):向かって左から
拝殿、絵馬堂、参籠所、八幡もしくは大宮末社?、多宝塔、社殿・唐門・廻廊で、末社?を除き基本的に現在の姿と変らない、

「われわれは僧侶の親切な招きを受けて、彼の住まいに行く。広間に案内されたが、海上を望む眺めがすばらしくて本当に感心した。実にわれわれがこれまで日本で見た最も美しい景色の一つであり、・・・・右手には山根崎があり、・・・その背後の2つの島の間に赤穂崎・・・小豆島、前島、家島と淡路島の一部・・・」
と長文の風景・眺望への賛辞が続く。

「播陽万宝知恵袋(50巻)」天野友親編、宝暦10年(1760)成立。復刻昭和63年、臨川書店
巻之16「播州室津追考略記」:寂静寺所蔵
「第2 明神山  此社(室明神)の正殿は賀茂別雷皇大神宮、東側の相殿2社は片岡大明神、太田明神也、西の脇の2社は貴布禰大明神、若宮の社也、太田の東の社は天照皇大神宮、若宮の西の社は松尾大明神也、正殿の後の両社は下鴨御祖大明神、河合大明神也、若宮の西の方は権殿の社地也、塔の本尊は多宝如来也、昔貞治の頃此津に十河何がしと云ふ富家有、建立せし塔也。
其褒美として宣命を下されて飛騨守になされし也。塔の西の社は八幡宮、其次の社は大宮権現、四脚門の外の社は棚尾の神、
そのひがしに鐘楼有、此鐘は当社神宮寺の鐘也、・・・・・神宮寺は破壊してその跡は今当社の神職岡左京屋敷となれり、・・・・」

「・・・又寛永2年本多美濃守忠正政卿御修理加へ玉ひ、四脚門、鳥居等を新たに造立あり、其の後承応3年松平式部大輔忠次公正殿の打覆を初、拝殿、塔、四脚門、鳥居、末社 不残修理を加え給ふ、・・・・ 」

2006/04/19追加:
「御津町史 第4巻 資料編」所収「播州室津追考記」(※上記本文はほぼ同一)では、
「天和改元春3月(1681)上浣(上旬)」と奥書があり、天和元年に成立と推測され、さらに「文化癸酉春2月書之」とあり、文化10年(1813)おそらく寂静寺海日が書写したものと思われる。
ここでは、最後に5枚の室津の景観図(俯瞰図)が掲載される。
その内の賀茂明神社の図を次に転載する。
 室津賀茂明神社の図:本殿西に多宝塔がある。

2006/04/19追加:
菱屋平七「長崎紀行」
(享和2年<1802>3月)28日;「・・・室の明神の社に詣づ・・・・大なる石の鳥居あり、・・・檜の門あり。檜皮にて屋根葺きたり、戸柱にハ雲竜・獅子・牡丹等彫りたり、御門内にハ神楽殿・ニ重の塔・宝殿なんどならびたてり、本社は南向きにたゝせ給ふ。・・・神領は三十石、・・・・」

2006/04/19追加:
「室津明細手控帳」;
室神社仏閣古城  一、賀茂別雷皇太神宮 ・・御朱印30石・・ 社地 東西2丁半南北2丁 広庭・東西34間南北17間
(杉尾大明神 大田大明神片岡大明神 本宮 貴船大明神若宮大明神 権殿) 右各南向檜皮葺
右廻廊 拝殿 祓殿 神楽所 神供所 絵馬所 参籠所 ・・・・・・・・
多宝座象(像)5尺木仏 ニ重塔 東西1丈4尺四方 貞治年中戸川建立
 ※5尺:1.52m、1丈4尺:4.25m
四脚門東向檜皮葺 ・・・・ 鐘楼堂 瓦葺1間半四方鐘銘有・・・・・
・・・・
慶長2年5月筑前中納言秀秋卿山口玄番頭宗之ノ沙汰ニ依テ修理を加ヘタマフ、・・・同3年5月16日山口玄番頭塔婆修復瓦ニ葺替ラル、

2010/11/05追加:「摂播記」寛政元年(1789)
 室津賀茂明神:大日塔が描かれるも、三重塔 に描かれる。おそらく多宝塔と層塔の区別がいい加減なものであったのであろう。

2010/11/05追加;「重要文化財賀茂神社本殿他七棟保存修理工事報告書」1981 より
 室津は古代から近世末まで、瀬戸内の要津であった。
賀茂明神はこの室津の突き出た半島岬の小高い丘上に鎮座するが、その草創は明らかでない。
文献上では中世には社殿が建ち並ぶ様が描かれる。また、古くから山城賀茂別雷社の御厨(社領)であったと記録される。
中世後期から社殿造営・造替の資料が残るが、その内多宝塔に関しては
「慶長3年(1598)多宝塔婆飛騨守建立」と云う。 ※但し飛騨守とは不詳。
近世には徳川家より30石の朱印を受ける。また姫路藩主より室津は内海の重要港として管治され、賀茂明神も姫路藩主により造替や修理が行われる。現在の主要社殿は元禄12年前後の造替になるものである。

2010/11/05追加;「描かれた船 : 室乃津賀茂神社の文化財」たつの市立龍野歴史文化資料館、2008 より
 賀茂太神宮諸建物之絵図:寛政2年(1790)
画像が小さく、詳細が不明であるが、今は無い二重塔・鳥居外の東側石階北にある広大な屋敷などが描かれる。

賀茂神社(室明神社)の現状

明神山にある。祭神は賀茂別雷神、彦火火出見尊とする。京上賀茂社領室御厨が成立したころ勧請されたという。
長禄3年(1459)山名是豊、慶長2年(1597)小早川秀秋、寛永2年(1625)および承応3年(1654)など姫路藩主等々の社殿の造替記録がある。
慶安元年(1648)以降50石が安堵される。享和2年の記録では石の鳥居、檜の門、神楽殿、二重の塔、宝蔵などがあった。本殿は南向き、傍らに末社6社並び七社大明神とも称す・・とある。
本殿(重文・三間流造・元禄)、摂社片岡社、太田社、貴布禰社、若宮社、榲尾社の各本殿、権殿、唐門、東廻廊、西廻廊はいずれも重文指定で現存、本殿と庭を隔てる拝殿および四脚門なども現存する 。

2006/04/19追加:
 四脚門前参道:向かって右にも「蘇鉄」があり、多宝塔跡と同じ「石の垣」が新調されてい る。
 四 脚 門:明和6年(1769)
 社 殿 1:社殿5棟、唐門、東西廻廊の計8棟は重文指定。
 社殿・唐門
 社殿等5棟:一番手前は権殿
 拝殿・絵馬殿
 参 籠 所:内海の眺望は、この参籠所(この下の地点)辺りが一番良いと思われる。
 室津・瀬戸内眺望1
 室津・瀬戸内眺望2:何れも参籠所下の地点から撮影。 何れも上掲・

塔 跡 現 状(2003/6/24追加)「X]氏ご提供、1999年?撮影、画像クリック で拡大表示

多宝塔跡は残存する。写真を見る限り、基壇は切石の2段積と思われる。3段のようにも見えるが、実際は塔基壇に他の石材が積まれているから そのように見えるものと思われる。なお礎石の残存状況は分からない。

多宝塔についての履歴は未掌握。
おそらく明治維新の神仏分離で多宝塔などは棄却されたものと思われる。(推測)

2006/04/19追加:
多宝塔跡現状:下記写真のように、平成17年度に多宝塔跡基壇の上にさらに1段切石が載せられ、その上部に石の垣が新調されたと推定される。前掲「X」氏ご提供画像に見られる上部 (2段目の上)の石材は撤去され、境内東南の四脚門内に多数並べて置かれる。(石材の置き方から判断すれば、放置ではなく、搬出か再利用目的 と思われる。)
おそらく蘇鉄が天然記念物的な扱いをされ、荘厳?したものと思われるが、多宝塔跡の更なる破壊行為であろう。 (将来、多宝塔基壇が3段積みと誤解される懸念がある。)
蘇鉄は移植し、蘇鉄よりはかなり過去より受け継いだであろう多宝塔基壇の保護を図るべきであろう。蘇鉄の荘厳?を図りたいのであれば、移植した場所で、蘇鉄の石囲いをするべきであろう。

室明神社多宝塔跡1:南より
  同        2:南東より
  同        3:左図拡大図:北東より
  同        4:遠望:南東より
  同        5:南東より
  同        6:基壇内部:蘇鉄が植えられる
  同        7:基壇内部
          :礎石などは、攪乱され原形をとどめない。
  同        8:基壇1
  同        9:基壇2
  同       10:基壇3
  :基壇は精確に切り出した長方形切石の2段積であったと思われる。
石積基壇の一辺は6m70cm、地面から2段まで約40cmの高さ(実測)を測る。
多宝塔一辺は「室津明細手控帳」には「ニ重塔 東西1丈4尺四方」と記載され、これによれば約4.25mであった。

賀茂明神社多宝塔本尊
2006/04/09追加;
多宝塔は貞治(1362〜68)の創建と伝える。
本尊多宝如来は附近の浄雲寺に現存する。
2006/04/19追加:
「御津町史 第4巻 資料編」より
多宝如来坐像 像高108.2cm 推定南北朝〜室町時代 室津浄運寺
浄運寺の脇檀に安置、元は多宝塔安置、明治初年の神仏分離で遷座、体部は前後2木からなる寄木造。
 多宝塔本尊多宝如来
※通常、多宝如来は法華経に基づき、釈迦如来と並べて祀られる例が多い。多宝塔本尊とされる場合も通常釈迦・多宝ニ尊の場合が多いということを考えると、もう1体釈迦如来が存在していた可能性は高いと思われる。
2006/04/19撮影:
 多宝塔本尊多宝如来2    多宝塔本尊多宝如来3

浄運寺:
「室津明細手控帳」;
「清涼山浄運寺 西向 東西6間南北5間 浄土鎮西派
本尊阿弥陀運慶作立像2尺・・・・庫裏・・・鐘楼・・・観音堂慈覚大師作・・・境内15間4尺・22間・・・・
・・・門外に有古墳 妙心信女菩提也 応暦2年7月5日造立之トアリ、是友君カ石塔也」
「播州室津追考記」:
「第7 清涼山浄運寺 ・・・・・・西門のまへ道のかたハらニ6尺斗の石塔あり、俗に竪石といふ、其碑の銘を見るに応暦2年7月5日妙心信女菩提の為に之を造立すと有、是即友君といふ遊女の石塔也といひならハし侍る・・・・」
 ※浄運寺と室明神との間には、特別の関係は無かったと思われる。地理的に近かったため、塔本尊が遷座したものと思われる。


2006/04/19作成:2010/11/05更新:ホームページ日本の塔婆