大  和  法  輪  寺  三  重  塔

大和法輪寺三重塔

大和法輪寺昭和19年焼失前三重塔

現代に伝えられた三重塔中で現存する最古の塔であったが、昭和19年落雷によって焼失す。

2010/02/01追加:
○壬申検査ステレオ写真(重文):「東京都江戸東京博物館資料目録 ガラス原板1」2006 より
 明治5年法輪寺三重塔: ガラス原版:撮影月日は不明なるも、法起寺壬申検査写真が8月28日であるから、同日と推定される。
 2014/08/027追加:
  明治5年法輪寺三重塔2:ステレオ写真

2011/08/02追加:
「法輪寺大鏡」石田茂作、大塚巧芸社、昭和12年 より
 ◎大和法輪寺三重塔3:何れも焼失前写真
  法輪寺三重塔初重1     法輪寺三重塔初重2     法輪寺三重塔初重内部     法輪寺三重塔二重内部
総高78尺5寸、基壇は一重、一辺38尺、四面に石階を設け、礎石には自然石を用ふ。
初層中の間8尺、脇の間各6尺5寸で方21尺の平面を持つ。(法起寺塔は方22尺平面)
中の間は一枚板戸を設け、両脇の間は連子窓を作らず白壁を塗る。
初層内部には四天柱あり、その中央に心柱え立てる。心柱は2尺6寸に4尺3寸の不正長方形の心礎に立つ。

「飛鳥時代寺院址の研究」石田茂作、昭和19年、第一書房 より:
 大和法輪寺三重塔2:焼失前写真
2007/01/10追加:
「大和の古塔」黒田f義、天理時報社、昭和18年より:
 大和法輪寺三重塔:焼失前飛鳥期塔婆:左図拡大図

三層軸部が3間に造られているのは、後世の改造とされる。
寺伝:正保2年(1645)台風により、堂塔が倒壊、三重塔は3重目を失う。
 ※下掲載「和州巡覧記」参照
元文2年(1737)宝裕上人により復興に着手し、宝暦10年(1760)に塔修理がなり三重塔が復興する。
宝暦11年金堂、旧講堂、南大門が復興する。
2007/02/07:追加
基壇一辺36尺6寸8分、高さ2尺
初重全3間20尺8寸8分、中央間8尺7寸、両脇間6尺9分
二重全3間15尺6寸6分、中央間6尺9寸6分、両脇間4尺3寸5分
三重全3間12尺9寸、中央間4尺3寸、両脇間4尺3寸
相輪長21尺9寸4分、全高78尺5寸1分

2007/01/10追加:「和州巡覧記」貝原益軒、元禄5年(1692) より
「三井法輪寺聖徳太子の建立なり五重塔三重ハ崩レテ二重残レリ」
元禄5年(1692)五重塔であったと誤認しているが、三重が崩壊し、二重のみ残る状態であったことが分かる。

三重塔基壇

昭和39年撮影画像
 大和法輪寺塔基壇:左図拡大図

「飛鳥時代寺院址の研究」:
 大和法輪寺塔平面図
 大和法輪寺心礎実測図
「日本の木造塔跡」:
上成基壇:一辺12,42m、高さ1m、下成基壇一辺13.22m、高さ20cmの檀上積2重基壇。
塔一辺は6.32m。

2013/04/19追加:
「いかるがの里」岩波写真文庫17、昭和25年 より
 大和法輪寺三重塔跡:基壇とその上に表面が炭化した構造材が横たわる。
昭和25年以前には昭和19年より日が浅いということで、未だ焼けた構造材が基壇上に残っていたのであろう。
なお、奥に写るのは金堂である。

昭和50年再建塔

昭和50年再興塔:一辺 6.32m、高さ 23.8m。

2001/02/22撮影:
 大和法輪寺三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4

2002/07/14撮影:
 大和法輪寺三重塔1
  同          2
  同          3
  同          4
  同          5
  同          6(左図拡大図)
  同          7

2008/08/31撮影:
 大和法輪寺三重塔11
   同        12
   同        13
   同        14
   同        15
   同        16
   同        17


大和法輪寺三重塔心礎

○「日本の木造塔跡」:
昭和47年再び心礎の発掘調査が実施される。(心礎は地下式で、基壇面下2.3m<2.5m>にある。)
心礎は1.65×1.52×0.8mの大きさで、2段の円孔を持つ。蓋受孔の径75×4cmで、舎利孔(半球状とされる?)の径15×10cmを測る。蓋受孔には鉄錆が付着していたという。(蓋は鉄製か?)
元文4年(1749)塔修理の記録(宝裕上人の記録)では、舎利孔には黄金壷があり、中の銀函には(4.5×3.6cm)舎利2粒があったとされる。( 黄金壷の実際は銅壷で重文)
再興塔はこの心礎の上に建つ。昭和19年、塔焼失時拾得の仏舎利が、内側より順に瑠璃・金・銀・銅の壷に入れ子状に納められ奉安される。

塔心礎納置銅壺:重文、銅製、総高8.5cm、口径7.1cm、胴径11.3cm、底径7.3cm。

○「仏舎利縁起」寳祐上人著、寛保元年(1741)3月5日
仏舎利の由来、大風より荒廃した伽藍状態や再興発願の次第、三重塔修復の際に心柱の下から舎利容器が発見された事情等を記し、ともに出土した品々が図示されているという。(未見)
「大和の古塔」より「法輪寺塔仏舎利記」(上記の「仏舎利縁起」と同一のものと思われる。)
 法輪寺塔仏舎利容器:(重文)「法輪寺塔仏舎利記」

◎大和法輪寺塔心礎模造品
2008/08/31撮影:「飛鳥資料館」に心礎(模造品)の展示がある。
 大和法輪寺模造心礎1   大和法輪寺模造心礎2   大和法輪寺模造心礎3   大和法輪寺模造心礎4
2017/03/09撮影:於ける奈文研/飛鳥資料館
 大和法輪寺模造心礎5     大和法輪寺模造心礎6     大和法輪寺模造心礎7

2009/09/05追加:
○「仏舎利埋納」飛鳥資料館、平成元年 より
法輪寺の創建は2説ある。
一つは推古30年(622)聖徳太子の病気平癒祈念のため、山背大兄と弓削王が発願というものであり
もう一つは天智9年(670)法隆寺焼亡後、創建されるというものである。
 大和法輪寺仏舎利縁起:寛保元年(1741)「仏舎利縁起」ではまず舎利孔を径1尺1寸2分(34cm)の紐付き金蓋が覆い、その中に銅壷(現存)が安置される。銅壷は金壷と表記され、当時は鍍金されていたものとも思われる。銅壷の廻りには名香があった。銅壷の中には高さ1寸5分(4.5cm)幅1寸2分半(3.8cm)の白金箱があり、この箱は金縷(金針金か)によって袈裟掛に縛る。白金箱内には高さ1寸3分(3.6cm)の瑠璃玉(ガラス容器か)があり、舎利2粒がその中にあったと記録される。
なおこの舎利2粒はこの時新調された金銅火焔宝珠形舎利容器に納められ伝来してきたが、昭和50年の塔再興に当り、心礎に再安置されたと云う。
 大和法輪寺銅壷11     法輪寺銅壷実測図
昭和47年塔再建に先立ち、塔基壇を発掘調査、基壇は玉石積二重基壇であり、礎石16個は全て当初のものと判明する。
心礎は花崗岩製で、大きさは165×152cm、中央に径75cm深さ4cmの蓋受孔を設け、その底に径15cm深さ10cmの舎利孔を穿つ。
 大和法輪寺心礎11     大和法輪寺心礎12
 大和法輪寺塔跡発掘
    ▽出土舎利容器の一覧は「舎利容器一覧表」を参照。


200/09/04追加
大和法輪寺妙見
法輪寺は妙見山と号する、本尊は秘仏妙見菩薩(平安期)。当妙見菩薩立像は現存する日本最古の妙見像と云う。
 大和法輪寺妙見堂
旧妙見堂(享保16年<1731>建立・三間堂)は寺北の山中から境内に移築したものであったが、平成15年改築する。
 参考:妙見菩薩・妙見信仰


2006年以前作成:2017/04/04更新:ホームページ日本の塔婆