相  模  鶴  岡  八  幡  宮  寺  大  塔

相模鶴岡八幡宮寺大塔

鶴岡八幡宮寺境内図

享保17年鶴岡境内図

鶴岡八幡宮境内図:享保17年(1732):鶴岡八幡宮蔵:左図拡大図
昭和29年鎌倉の古物商で発見されたと伝える。
 法量:4尺3寸×5尺5寸

治承4年(1180)頼朝鎌倉入府、由比の若宮(元八幡)を現地に遷座。
若宮は頼義が奥州討伐の翌年に石清水八幡宮を勧請したと伝える。
建久2年(1191)火災、その復興時に現在の石段上の本宮が拡張された。
その後、戦乱の中で、幾度か焼失、復興を繰り返す。
天正19年(1591)秀吉は家康(江戸入府)に八幡宮の修造を命ず。
 (この設計図は「鶴岡八幡宮修営目論見書」として現存と云う)
元和8年(1622)徳川秀忠により修造が命ぜられ、寛永元年(1624)から修造が開始される。
 ※寛永造営の図は伝わらないが、本図(享保17年図)まで、伽藍に大きな変化は無いため、本図がこの寛永造営の様子を伝えるとされる。

海浜の大鳥居から3基の鳥居がある。
参道正面にはニ天門があり、門内正面は舞殿(唐破風付設)、その背後には上宮への石階がある。
門内右には大塔、鐘楼、若宮拝殿本殿、薬師堂(重層入母屋造)、左には護摩堂(単層入母屋造向拝付設)、経蔵(重層方形屋根)がある。
上宮楼門外左に愛染堂、右に六角堂がある。

鶴岡八幡宮境内図2

2007/04/22画像入換:
中止:《2006/07/03追加;「第15集 鎌倉の古絵図T」、鎌倉国宝館より》を中止
入換:2007/04/22入換:「鶴岡八幡宮寺」貫 達人、有隣新書、平成8年 より

鶴岡八幡宮境内図2(部分図)・左図拡大図 :享保17年(1732)上図と同一

社前の鳥居をくぐると「赤橋」がある。
池は俗に「源平池」と称する。東池の一つには弁財天社を祀る。
池は寿永元年、水田であったのを僧良暹(りょうせん)・大庭景義らの奉行で池に改められたと云う。
赤橋に続く参道正面に仁王門があり、その左に護摩堂(7間四面、天正指図では五大堂)、護摩堂背後に輪蔵がある。
右には大塔、鐘楼がある。
正面には下宮(若宮)の拝殿・幣殿・本殿があり、下宮右に薬師堂(10間四面)、上宮下方に愛染堂があった。

※頼朝の造営では、塔の形式は大塔ではなくて五重塔であったと云う。
※現白幡社の地が薬師堂跡である。

和漢三才図会記事:・・・塔[五間四方]若宮の前にある。五智如来を安置する。

東海道名所圖會 巻之6:鶴岡八幡宮(部分図):寛政9年([1797)刊
記事:「多宝塔(若宮の前にあり、二層の塔なり。五智如来を安ず。
東鑑云く、文治5年3月13日、御塔供養あり。導師は法橋観性、願文は新中納言兼光卿、清書は堀川大納言忠親卿なり。)」

東海道名所図絵:下図拡大図

大塔拡大図:下図拡大図

浦賀道見取絵図:鎌倉八幡 :寛政年中(1789-1801)編集、文化3年(1806)刊

鎌倉八幡全図:左図拡大図

本殿背後(図の右)の谷に社僧12坊が展開する。


鎌倉八幡主要伽藍;左図拡大図


鎌倉八幡宮社僧12院図:左図拡大図

2014/11/17追加:
鎌 倉 繪 圖 1:文化年中(1804-15)の出版と推定

「歴史読本」昭和48年11月號折込

 鎌倉繪圖1:左図拡大図
中央に鶴岡八幡宮が大きく描かれる。
本社向かって左に社僧12院の名称が書き上げられる。

東京・岩田豊樹氏蔵
版元:鎌倉雪の下宝戒寺門前大坂屋孫兵衛板
法量;640×438mm

鎌 倉 繪 圖 2

 鎌倉繪圖2:左図拡大図:本人s_minaga蔵

1972年頃鎌倉で入手した版画。入手先は亡失。
素性は不明。
大塔が「大塔」の絵ではなくニ層塔に描かれ、
しかも2間の建築のように描かれ、大変粗雑な絵図である。


2011/03/27追加:
鶴岡八幡宮大塔図面
「直会殿用地発掘調査報告書」(鶴岡八幡宮境内の中世遺跡発掘調査報告書)、1983 より
  ※いずれの図面も所蔵・年代・由緒などの情報に記載がなく、詳細は不明。

◎鶴岡八幡宮大塔側面図

鶴岡八幡宮大塔側面図:上図拡大図
詳細は不明。
下重平面5間の真言大塔形式を採る。

◎鶴岡八幡宮平面図

鶴岡八幡宮平面図:上図拡大図
詳細は不明。
中央に四天柱を建て、四周にいわば廂を廻らせ、
更に四周にいわば孫廂を廻らせる構造である。
中央3間は各7尺5寸、両脇間は各7尺4寸。四周には5尺5寸の切目椽を廻らす。
四方中央に幅1丈5尺2寸(4.2m)の5段の石階を設置する。
中央3間は唐戸、両脇間は連子窓、外陣は板間。
※以上から一辺は37尺3寸(11.3m)と知れる。

参考:石清水八幡宮宝塔院宝塔一辺は以下の通り。
 諸記録は33尺6寸(10.2m)とされ、遺構上での実測値は凡そ11.2mを測る。
石清水八幡宮西谷大塔一辺は以下の通り。
 諸記録は45尺、45尺8寸(13.89m)、47尺3寸(約14.3m)などとある。発掘調査では北東隅付近のみの発掘で一辺の実測値は未確定である。


混淆之仏堂取除
総神主筥崎博尹の神奈川県庁への「御届書」

鎌倉八幡宮御社内在来之薬師堂、護摩堂、大塔、経蔵、鐘堂、仁王門、右混淆之仏堂取除キ、
仁王門跡江華表取建、内廊三面、塀垣別紙絵図面之通修理仕候、此段御届申上候、以上
                                                      明治三午年五月

  ※明治3年5月には大塔をはじめ、仏堂はいずれも取除き(破壊)される。
    (仏教的堂宇・仏像・仏具・什宝・経典類は僅か10日余で悉く破壊されたという。)

神仏分離前の八幡宮及び大塔

稀有のことであるが、神仏分離前の写真・絵が多く残される。

文久3年・4年頃(1863,64)大塔その他:「アンベール 幕末日本図絵」より転載

アンベールはスイス時計生産者組合会長であり、文久3年(1863)修好通商条約の締結のため、スイス遣日使節団長として来日する。
文久3年4月9日長崎到着、横浜へ向かう。滞在は約10ヶ月とされ、帰国後、収集資料・記録はフランスで出版される。

文久3年・4年(1863,64)頃の描写と思われ、神仏分離での破壊直前の貴重な記録である。

鶴岡八幡宮大塔01:下図拡大図

The pagoda of Hatchiman「Japan and the Japanese」 :
 illustrated Humbert, Aime, 1819-1910
背後は若宮拝殿と思われるが、不確実。
拝殿であれば大塔をほぼ南から描くものであろう。

鶴岡八幡宮経蔵1・大塔;下図拡大図

大塔にはまだ相輪が架かる。

Le tresor et la pagode du temple d'Hatchiman, Kamakoura
「Le Japon illustre v. 1 」Humbert, Aime, 1819-1910

中央は経蔵であるが、左の建物は護摩堂(単層入母屋造)であろうか。
以上であるならば、大塔をほぼ西から描くものであろう。


下拝殿及び本殿楼門:下図拡大図


本殿楼門・下図拡大図

写真中央には六角堂が写る。

元治元年(1864)大塔:ベアト撮影画像

ベアトは元治元年(1864)11月、ワーグマンらとともに鎌倉を訪る。
ベアトはイギリス人で、従軍カメラマン、文久元年(1861)頃横浜に来航、「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」誌に挿絵を送る。(撮影はベアトでワーグマンが線画にして送付したとされる。)
元治元年(1864)11月20・21日に鎌倉に入る。

2006/09/30追加:
鶴岡八幡宮大塔02:厚木市立郷土資料館所蔵写真:ベアト撮影
おそらく下記と同一のネガ?(元治元年の大塔)と思われる。こちらが数段精細画像である
  左は薬師堂(重層入母屋造)であろう。であるならば、右はニ天門であろうか。以上であれば、大塔を西から撮影したものとなる。

2022/03/04追加: ○「北山七重大塔の所在について(下)」東 洋一 で
本写真に写る大塔の屋根は甍棟塔(屋根は柿葺であるが、甍<四隅を飾る降り棟>は瓦で造る)との指摘がある。


鶴岡八幡宮大塔03:元治元年撮影と推定される:(横浜開港資料館蔵):まだ相輪があり、元治元年の撮影と推定される。


本殿楼門:(横浜開港資料館蔵)
楼門の向う(写真中央)は六角堂:正観音を安置し、中に六角の井戸があったと云う。
楼門の前には青銅製燈籠(3対)及び石燈籠(一対)があった。六角堂・燈籠は神仏分離で破壊される。

2006/09/30:写真入換
鶴岡八幡宮楼門:左図拡大図
 NYPL(New York Public Library) Digital Gallery より 転載
 撮影時期不詳


下拝殿・経蔵:拝殿左は経蔵:(横浜開港資料館蔵):拝殿には石段(現在は無い)が付設していた。

2006/07/03追加;
鶴岡八幡宮若宮:ベアト撮影と思われるも、確証なし。ベアト撮影とすると、元治元年撮影と思われる。
 左は下拝殿、右の建物は若宮である。
  ※各建物に梯子が掛けられているのは、防火用であろう。
  万一の折には防火用水から手桶に水を汲み、屋根に登り消火・防火活動をしたものと推測される。

2006/07/03追加:
鶴岡八幡宮経蔵2:撮影時期・撮影者不明
前面には木材らしきものが積まれている。経蔵前にあった護摩堂などの解体部材であろうか。

明治3年(1870)5月以前大塔その他ベアト撮影画像

鶴岡八幡宮大塔04:左図拡大図 :横浜開港資料館蔵)
 大塔左は薬師堂(重層入母屋造)と思われる。
 ※但し背景画像(カラー部分)はs_minagaが挿入・改竄したものである。

 

2006/09/30追加:
鶴岡八幡宮大塔05:左図同一ネガ図?拡大
 NYPL(New York Public Library) Digital Gallery
 より 転載: 撮影時期不詳
 ※左図と同一のネガ?と思われる。

鶴岡八幡宮経蔵3:下図拡大図
元治元年撮影か明治3年撮影かは不明(横浜開港資料館蔵)
 左は護摩堂であろうか、足場が組まれるのは解体準備中であろうか。右は下拝殿(唐破風付設)である。

明治3年(1870)5月以前大塔その他「ザ・ファー・イースト」掲載写真

「ザ・ファー・イースト(The Far East)」:明治3年(1870)5月30日横浜にて、写真付き隔週刊新聞として創刊される。
1873年7月より月刊誌となる。
編集発行人はブラック(イギリス人・ジョン・レディー・ブラック<John Reddie Black 1827-1880>・「ヤング・ジャパン」の著者)、
写真はミカエル・モーゼル(ミヒャエル・モーザー<Michael Moser 1853-1912>、オーストリア人)撮影が大部。
政府干渉により、1875年8月31日に廃刊となる。全98号が刊行される。
 2011/03/27追加:「神奈川の写真誌 明治前期」金井 円/編、有隣堂、1970 より
ブラック(John Reddie Black)はスコットランド人、日本には文久3年(1863)12月頃来朝し、横浜居留地に住み、文久3年末・同4年年始の風俗をつぶさに観察したと思われる。
「ザ・ファー・イースト」各号には写真ろ5〜8枚づつ貼り付ける体裁を採る。
この貼付写真の撮影・焼付を担当したのがモーゼル(Michael Moser・オーストリア人)である。
明治2年(1869)秋頃来朝し、明治6年(1873)帰国するまで、ブラック専属の写真技師を務める。

鶴岡八幡宮大塔06:「TEMPLES AT KAMAKURA.」:「ザ・ファー・イースト」明治3年(1870)6月13日号
 
相輪・露盤が撤去された直後と思われる。上重屋根に4本の突起が見える。これは左義長柱なのであろう。
 なを、梵鐘が打ち壊されたあるいは維新政府の権勢で相輪取り外しが行われた云々の記事もあると云う。
  <写真右下が鐘楼(鐘楼写真は殆ど無く貴重と思われる)>

2011/11/30追加:
この写真の出所を失念。
「The Far East」明治3年6月13日号に掲載と記載するも、当該号数には本図の掲載はなし。
当該号数に掲載の写真は下に掲載の「
鶴岡八幡宮大塔07」図(人物が写る)であり、しかも左の建物(若宮拝殿か)も写るものである。
本写真は「鶴岡八幡宮大塔07」の左半分をトリミングしさらに写る人物を消去したような写真である。

鶴岡八幡宮大塔07:「TEMPLES AT KAMAKURA.」:「ザ・ファー・イースト」明治3年(1870)8月16日号
 
写真中央奥は鐘楼、左は若宮(下宮)である。

2011/11/30追加:
この人物の写らない写真は「The Far East」に記載がない。
ほぼ同じ構図で人物の写る写真「鶴岡八幡宮大塔07」の写真は掲載がある。

2011/03/27追加:「神奈川の写真誌 明治前期」金井 円/編、有隣堂、1970 より
 鶴岡八幡宮大塔07
モーゼル撮影画像と思われるも不詳。
左図とほぼ同一画像であるが、人物が写る。
左図より容量が大の写真である。
 ※2011/12/02追加:この「鶴岡八幡宮大塔07」の写真は「The Far East」に掲載があり、従って「The Far East」からの転載であり、Moserの撮影画像であろう。
 「The Far East」掲載07

2011/03/27追加:
鶴岡八幡宮大塔08:「神奈川の写真誌 明治前期」金井 円/編、有隣堂、1970 より

 鶴岡八幡宮大塔08:左図拡大図
モーゼル撮影画像と思われるも不詳。
相輪が既に失われているのは同一であるが、上の大塔写真とは違い、
左義長柱が剥き出しではなく、一応露盤位置に「小屋根」が被せられる。
「小屋根」の無い上記の写真との前後が不明であるが、相輪を降ろした後「小屋根」を仮設する前の写真が上の写真なのであろうか。
 左から拝殿屋根の一部、若宮拝殿(単層入母屋造向拝付設)、薬師堂(重層入母屋造)、大塔が写る。
 ※2011/12/02追加:この「鶴岡八幡宮大塔08」の写真も「The Far East」に掲載があり、従って、本写真は「The Far East」からの転載であり、Moserの撮影画像であろう。
 「The Far East」掲載08

「GROUP OF TEMPLES, KAMAKURA, JAPAN.」:「ザ・ファー・イースト 」1870年6月13日号
 
下拝殿と本殿楼門:正面本殿楼門、右下若宮、左下神楽殿。
 石階の右下は石の手水鉢:寛文7年(1667)造営と云う。
 その右の小祠は高良明神:この時期以降の写真には両者とも撤去されたのか存在しないと云う。

2006/09/30:写真入換
鶴岡八幡宮楼門2:左図拡大図
 NYPL(New York Public Library) Digital Gallery より 転載
 撮影時期不詳:
 (「ザ・ファー・イースト 」掲載写真と同一と思われる。)

2011/03/27追加:
「神奈川の写真誌 明治前期」金井 円/編、有隣堂、1970 より
 鶴ヶ岡八幡宮楼門3
モーゼル撮影画像と思われるも不詳。
左図とほぼ同一写真。但し左図より容量が大である。

2009/12/06追加:
○鶴岡八幡大塔遺構:
 「鶴岡八幡宮と鎌倉市」小林康幸(シンポジウム 三大八幡宮-その町と歴史-資料集」2009 所収) より転載
  ※直会殿用地の発掘調査で鶴岡八幡大塔の遺構が発掘される。

原資料は「直会殿用地発掘調査報告書」直会殿用地発掘調査団・鶴岡八幡宮、1983
と推定される。

 鶴岡八幡大塔遺構:左図拡大図

図の発掘区からは7面(7層)の遺構が発掘され、年代の比定が可能な面は4面(1、4、5、7面)あったと云う。<「調査報告書」は次項に掲載>
第1面(一番上の層)は大塔の遺構であり、その下の第4面(第4層)は天正19年の造営と推定される廻廊の遺構が出土する。大塔遺構は、礎石そのものは既に無いが、一辺5間の礎石据付痕および根石が明瞭に出土する 。

2011/03/27追加:
「直会殿用地発掘調査報告書」(鶴岡八幡宮境内の中世遺跡発掘調査報告書)、1983 より
社務所増築・直会殿新築工事の事前発掘調査として昭和54年に実施。なお当遺構の出土により、遺構の保存が決定され、直会殿は位置をずらせて建設される。
 第1面大塔基礎遺構1:写真のおよそ左半分・上半分が大塔遺構である。西から撮影。
 第1面大塔基礎遺構2:東から撮影
  ※明治3年5月大塔が破壊されてから初めて大塔の存在が現実味を持って発ち現れたと云うべきであろう。
 大塔基礎遺構断面1     大塔基礎遺構断面2
なお各々の礎石跡の延長線上に柄柱状の小ピットが発掘される。

神仏分離後の八幡宮

「VIEW FROM THE TEMPLE OF HATCHIMAN, AT KAMAKURA.(八幡宮からの眺望)」:「ザ・ファー・イースト」1871年9月1日号
 
本殿(上段)から撮影と思われる。
 下宮拝殿のみ残され、仁王門・護摩堂・大塔・鐘楼・薬師堂などは既にない。
 左にはおそらく取り壊された堂塔の基壇・礎石類とおもわれる石が並べられていると思われる。 この付近が大塔跡と思われる。
 仁王門もなく、その跡には鳥居が新造されたと思われる。

2011/03/27追加:
「神奈川の写真誌 明治前期」金井 円/編、有隣堂、1970 より
 神仏分離後の八幡宮2
モーゼル撮影画像と思われるも不詳。
左図とほぼ同一写真。但し左図より容量が大である。
 ※2011/12/02追加:この写真は「The Far East」に掲載があり、従って、本写真は「The Far East」からの転載であり、Moserの撮影画像であろう。
 「The Far East」掲載八幡宮2

2011/11/15追加:2011/10/30撮影;
 ○大塔跡
ブログ:幕末明治期における神仏分離と廃仏毀釈 ー鎌倉・鶴岡八幡宮を例にとってー(後) では以下のように述べる。
明治四年の境内絵図では仏教関係の堂舎が取り除かれたばかりなので下宮は広々とした空間となっているが、現在は大塔の跡地付近には参拝者のための直会殿や柳原休憩所が建てられている。その二つの施設の前の林となっている場所がちょうど大塔の跡ではないかと私は思う。またこれも推測だが、ベアトが撮った舞殿(下拝殿、神楽殿)の写真に建物の礎石のような大きな石が写っているが、これと同じような石が現在も若宮と石段の間に置かれている。もしかするとこれは大塔の礎石なのではないかと思った。この石は『100年前の横浜・神奈川 絵葉書で見る風景』のX鎌倉、神社と寺院の (1)鎌倉八幡宮の境内、という絵葉書でも見られる。上宮への石段の右脇に四角い穴の開いた大きな石が三個確認できる)。
 
ベアトが撮った舞殿の写真とは不明であるが、上の掲載の「神仏分離後の八幡宮2」向かって左端中央に写るのは、大塔跡であろう。
明らかに、基壇や亀腹などを思わせる土壇や崩れた石階の様に見える遺構や土壇上には礎石とも思われる遺物などが見える。
今は「直会殿用地発掘調査報告書」の報告のように削平されているが、明治4年のこの写真の掲載時期には、まだ大塔跡地は未整地であったのであろう。
 
○鶴岡八幡宮推定堂塔礎石
今般(2011/10/30)、直会殿に一部被るという大塔跡を厳密には観察できず、また現在もあると云う若宮と石段の間(上記で云う石段 の右側)の大塔礎石とも推測できる四角い枘孔の穿たれた大きな石の確認をせず。
以上のように、八幡本殿に至る石階の向かって右は未見であるが、石階の左には、下に掲載する写真のように、神仏分離で取除かれた建物の礎石と推定される多くの石がある。
 (これらの石については、神職もそのような認識を持つ)
 推定鶴岡神宮寺堂塔礎石1     推定鶴岡神宮寺堂塔礎石2:形状から見て、これは明らかに大塔などの椽束石に間違いないであろう。
 推定鶴岡神宮寺堂塔礎石3     推定鶴岡神宮寺堂塔礎石4     推定鶴岡神宮寺堂塔礎石5
これ等はすぐ上に掲載の神仏分離後の八幡宮2に写る乱雑に積まれた礎石・基壇・敷石類と思われる石が整理されたのであろうか。
 ○白幡社手水舎手水石
この手水石は(神職の説明では)神仏分離以前の堂宇の礎石であることが一番明瞭であり、天地を逆にして置かれ、本来は下(地)の部分が刳り貫かれ、手水鉢として転用される。この手水鉢には蓮弁座が刻まれる。
 ※「蓮弁座が刻まれる」ということが「礎石」とする最大の根拠であることのようである。
 伝鶴岡神宮寺堂塔礎石1     伝鶴岡神宮寺堂塔礎石2:この写真は天地を逆にして掲載する。
なお、標記のブログでは、白幡社は「頼朝をまつって、もともとは上宮(本宮)の西にあった白旗社(絵図によっては頼朝社。)と裏参道の入り口の脇にあった実朝をまつる柳営社(実朝社)を合祀したものである。」とある。当然、今ある白幡社の社殿は明治維新後の建築である。
 ○参考:
鎌倉での、その後の国家神道の蠕動が標記「ブログ」にあるので、転載する。(一部修正)
 明治五年十一月、陸軍は鎌倉を演習地として適当であるかどうかを調査し、翌明治六年四月十五日、わが国最初の陸軍攻撃演習が鎌倉で行われた。この演習に際して明治天皇が行幸し、鶴岡八幡宮の背後にある大臣山の野立所から統監した(この演習は、若宮大路をはさみ実弾を撃ちあったという。・・)。明治天皇の行在所は総神主筥崎博尹宅であった。明治天皇は翌十六日、鎌倉宮に参拝した。
維新政府は神仏分離の一方、かつての南朝功臣の神格化をすすめ、鎌倉では、明治2年、中先代の乱で鎌倉幽閉中に殺害された護良親王をまつるため、その終焉の地である旧東光寺跡に「鎌倉宮」が創建されていたのであった。
くだって明治14年、元弘の乱の翌年に鎌倉で斬殺された日野俊基を祀る「葛原岡神社」も創建された。

什宝の移転(現存する什宝)
2007/06/10印画像追加(「鶴岡八幡宮と神仏分離」三浦勝男著、三浦古文化4、1968年
                 「鶴岡八幡宮と神仏分離(二)」三浦勝男著、三浦古文化7、1970年 より)

八幡宮什宝

現存地

備 考
仁王門 現存せずと思われる。 浦賀の某寺に移され、浦賀の赤門と称されたと云う。(神仏分離資料)
仁王像 鎌倉寿福寺 本堂内に安置され現存。旧仁王門仁王像と伝える。
仁王門安置仁王像:寿福寺蔵
一切経(重文) 浅草寺 輪蔵(経蔵)旧蔵。各巻に「鶴岳八幡宮」の朱印あり。残余の経巻は「塔の辻」で焼却されたとされる。
この一切経は、明治4年9月に、俊海貞運尼が鎌倉から貰いうけて浅草寺へ寄進したと云う。現在、元版大蔵経5428巻 が浅草寺宝蔵門楼上に安置される。
元版大蔵経の内
2009/08/22追加:浅草浅草寺のページより
★元版一切経(重文):相模鶴岡八幡宮経蔵旧蔵:現浅草浅草寺宝蔵門収蔵
 「元版一切経」は北条政子が子息頼家の追善供養のため、元から取り寄せ、鶴岡八幡宮に奉納する。
明治の神仏分離により、焼却の運命にあった一切経を明治4年貞運尼が托鉢によって集めた資金で購入し、浅草寺に奉納する。
 この「一切経」は180箱に収められ、鎌倉から品川までは海路で、品川から大八車を使って浅草寺に搬入する。東叡山寛永寺法親王に仕える新門辰五郎がこの搬入に力を貸すと云う。なお安政年中、浅草寺経蔵は新門辰五郎によって一切経の無いまま再建されるという。
浅草寺経蔵は昭和20年焼失、一切経は疎開して難を逃れる。
 ※貞運尼:文政10年(1827)下谷御徒町の生まれ、長唄の師匠から29才で出家し、本郷の喜福寺で修行、浅草観音に深く帰依する。
 鶴岡八幡宮旧蔵元版一切経
四天王像 浅草寺宝蔵門 旧輪蔵に安置。一切経とともに、浅草寺に移転したが、昭和20年の空襲で焼失。
梵鐘 破壊 正和5年(1316)の有銘(拓本が金沢文庫、早稲田大学図書館に残存する)と伝える。神仏分離の時、鉄鎚で打破し古道具屋に売却され鋳潰されて、金数斤を得たという。
薬師三尊像(木造)および十二神将像(木造) 普門寺塔頭新開院 旧薬師堂(神宮寺・本地堂)安置。神仏分離で八幡宮境外の松源寺に移され、その後寿福寺に運び出される。さらに普門寺(東京秋多町、寿福寺末寺)住職の懇願で、明治19年以前に譲渡され、現在は塔頭新開院に安置。 (新開院境外の薬師堂に安置)
2007/04/22追加:
薬師堂薬師三尊像:新開院蔵、「鶴岡八幡宮寺」有隣新書、平成8年より
薬師堂薬師三尊像2  薬師堂十二神将の内:何れも:新開院蔵
愛染明王像(木造・鎌倉・重文) 五島美術館 上記薬師三尊と同様の経路で普門寺に移り、その後小泉策太郎の所有になり、現在は五島美術館所蔵。
愛染堂愛染明王像(小泉策太郎蔵、明治維新 神仏分離資料から転載)
愛染堂愛染明王座像2:五島美術館蔵
金銅薬師如来坐像及び木造十一面観音坐像 寿福寺 座不冷壇所(ざさまさずのだんしょ・回廊東南隅にあった。神仏分離で取壊)に安置。あるいは金銅薬師如来坐像は護摩堂本尊とも云う。
2007/04/22追加:
鶴岡八幡宮寺銅造薬師如来像:「鶴岡八幡宮寺」有隣新書、平成8年より
金銅薬師如来坐像:壽福寺蔵(鎌倉期と推定・台座に八幡宮の銘あり)
木造十一面観音坐像:壽福寺蔵(近世・台座に寛文2年・鶴岡大工の修理銘あり)
木造十一面観音半跏像 横浜慶珊寺 八幡宮旧蔵との伝承があると云う。(記録などは不詳)
木造十一面観音半跏像:正慶元年(1332)造作在銘
地蔵菩薩半跏像(木造) 三浦東漸寺 旧松源寺の本尊と伝え、長谷寺に遷座、その後三浦の東漸寺に移転と云う。
松源寺は下注※。
地蔵菩薩半跏像:頼朝勧請と伝えるも、造立銘は寛正3年(1462)と云う。
如意輪観音像 鎌倉来迎寺 旧法華堂本尊と伝える。 あるいは法華堂本尊は阿弥陀三尊であり、当如意輪観音像は如意輪堂本尊で、堂廃絶後、法華堂客仏とも云う。いずれにしろ、法華堂安置仏であった。如意輪観音像
伝源頼朝像(木造・重文) 東京国立博物館 白旗明神社(八幡宮上宮西方にあった)御神体と伝える。昭和5年白旗社は復興したが、その当時は各所を転々とし、その後は原富太郎が所有していたと云う。
伝源頼朝像(鎌倉期)
弘法大師坐像(木造・重文) 鎌倉青蓮寺本尊 旧等覚院本尊と云う。松源寺から寿福寺に移り、現在は青蓮寺本尊。
弘法大師坐像:鎖大師、長2尺7寸5分。
礼盤、愛染明王像残欠、不動明王像残欠 鎌倉青蓮寺 礼盤は「等覚院」の在銘あり、残欠は旧等覚院安置仏と推定されると云う。
地蔵菩薩立像 鎌倉瑞泉寺 当像は往古、扇ヶ谷智岸寺地蔵堂安置と云い、智岸寺廃絶の折、正覚院に遷座する。詳細は不詳であるが、正覚院廃寺の折像は流出、瑞泉寺に移ると思われる。
地蔵菩薩立像
絹本着色八幡廻御影図 中村岳陵画伯所蔵 八幡宮の重宝であったこの像は各所を転々として、奈良にて中村画伯が入手したとされる。 「八幡廻御影 正和2年(1313)奉修覆畢 覚珍、文和2年(1353)奉修覆畢 頼珍」とある。
2007/04/22追加:
鶴岡八幡宮寺廻御影像:中村家蔵
鶴岡八幡宮寺で最も重要な什宝であった。上段に八幡大菩薩、下段に三女神像と童像を描く。「鶴岡八幡宮寺」有隣新書、平成8年より
廻御影:秘仏、25ヶ坊に1ヶ月ずつ順次安置され、種々の供養が行われたと云う。
木造僧形八幡坐像 鎌倉加納家蔵 大供所(白旗宮西にあった)に安置されていたものと推定される。
2007/04/22追加:
大供所木造僧形八幡坐像:加納家蔵:八幡大菩薩像
「鶴岡八幡宮寺」有隣新書、平成8年より
金光明最勝経2巻 東京岡部氏所蔵 「鶴岡八幡宮寺」の黒印を持つ。永仁三年(1295)。
金光明最勝経:巻末尾部、鶴岡八幡宮在印
紺紙金泥般若心経一巻 根津美術館蔵 足利基氏筆。八幡宮旧蔵と考察される。
妙法蓮華経八巻 鎌倉?妙本寺 永乗坊厳季奉納
大般若経一巻 不詳?? 足利義氏奉納
太刀 三浦大椿寺 鶴岡八幡大菩薩に奉納の銘を持つと云う。
版本大般若波羅蜜多経600巻
十六善神画像(文政11年)
花鳥図屏風(江戸末期?)
鎌倉報国寺蔵 八幡宮蔵品が壽福寺に移り、壽福寺から貰ったものと先住から聞いている。
但し、3品とも何れも確証も傍証もないと云う。
版本大般若波羅蜜多経600巻

そのほか多くの什宝が流失し、多くが失われ、あるいは(それと分からず)各所に所蔵されている可能性が大いにあると思われる。
※松源寺は華光坊とともに鶴岡八幡宮社僧の荼毘所であったという。神仏分離時には存続したが、いつしか廃絶と云う。

2006/08/13追加:「柴田常恵写真資料」より
大正15年撮影
  鶴岡弁財天1  鶴岡弁財天2
この写真の像の由緒は不詳。但し以下の弁財天であろうと推測される。
八幡宮に文永3年(1266)在銘の裸形の弁財天像が伝わるという。この像は源平池東方の中島の弁天堂安置という。

鶴岡八幡宮略歴

元八幡宮:康平6年(1063)源頼義が石清水八幡宮分霊を勧請。
永保元年(1081)源義家がこれを修復
治承4年(1180)頼朝この社を今の下拝殿付近に遷座。
文治5年(1189)五重塔落慶供養。源頼朝の建立と云う。
建久2年(1191)火災により五重塔をはじめ社殿が灰燼に帰す。
 2013/06/24追加:
 吾妻鑑:「文治五年(1189)三月大十三日乙(癸)卯。快リ。 鶴岡八幡宮之 傍に、此の間塔婆を建被る。今日九輪を上ぐ。二品監臨し給ふ。」
  ※源頼朝、亡母由良御前の供養の為、鶴岡八幡宮の伽藍造営を開始し、五重塔の造立を企図すると云う。
 文治5年5月8日五重塔は朱色に塗られ、19日には五重塔の供養の日を6月9日と決める。
 5月25日五重塔供養願文が到着、新藤中納言兼光起草、堀河大納言忠親が清書。
 6月3日天台座主全玄代官中納言法橋観性が供養導師として到着。
 6月5日大江公朝が後白河法皇の使者として到着。
 6月9日五重塔供養執行。
 建久2年(1191)僅か2年の後、3月4日未明、小町大路で火災が発生、五重塔に飛火、鶴岡八幡宮は灰燼と帰す。
 建仁3年(1203)五重塔再建「地曳始の儀」を執行。
 同年12月3日北条政子、源頼家病に臥し、かつ建久2年五重塔は災のもととなるという理由で建立を中止す。
  ※以降五重塔は再興された形跡がない。

建久2年の焼失後すぐさま再興にかかり、改めて石清水八幡宮を勧請し、本宮(上宮)を創建した。(今までの若宮は下宮とする)
承元2年(1208)神宮寺が創建される。
その後鎌倉期は火災・復興の繰り返しであったと伝える。
上宮、下宮、熱田社、三島社、高良社、松童社、・・・、白旗社、楼門、回廊、脇堂、御影堂、五大堂、北斗堂・・・神宮寺・・
などの堂宇が被災・復興を繰り返す。
室町・戦国期は足利将軍家・関東公方・関東管領家・その他武将からの寄進を受ける。
天正18年(1590)豊臣秀吉が社殿の修造を徳川家康に命ずる。(参考:「鶴岡八幡宮修営目論見絵図」<重文>が残る。)
その後家康・秀忠により修造が続けられる。
寛永元年(1624)前後までは上下宮、仁王門、大塔、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂など、末社も含め竣工。
千躰堂、北斗堂は廃され、大塔、神明社が新造される。
文政4年(1821)の大火でほとんどの社殿・堂宇が焼失。12院のうち9院が焼失。
 (仁王門・大塔・薬師堂・鐘楼・摂社などは無事であったとされる。)
文政10年(1830)ほぼ再興がなる。

八幡宮背後には八幡宮寺坊舎25坊(後には25院)があった。
善松坊(香象院)・林東坊(荘厳院)・仏乗坊(浄国院)・安楽坊(安楽院)・座心坊(朝宝院)・千南坊(正覚院)・文恵坊(恵光院)・頓覚坊(相承院)・密乗坊(我覚院)・静慮坊(最勝院)・南禅坊(等覚院)・永乗坊(普賢院)・悉覚坊(如是院)・智覚坊(花菌院)・円乗坊(宝瓶院)・永厳坊(紹隆院)・実円坊(金勝院)・宝蔵坊(海光院)・南蔵坊(吉祥院)・慈月坊(慈菌院)・蓮華坊(蓮華院)・寂静坊(増福院)・華光坊(大通院)・真智坊(宝光院)・乗蓮坊(如意院)である。
25坊(後には25院)は鎌倉期に成立し、室町戦国期を通じ次第に衰亡し、天正期には7院に減ずる。
文禄年中に家康が5院を再興し、12院となす。
12院のうち、御室仁和寺末は
相承院、荘厳院、恵光院、香象院、浄国院、安楽院、増福院、最勝院、正覚院 の9院
紀伊根来寺末は
等覚院、教覚院、海光院 の3院であった。
神仏分離ではこの12院の社僧は率先して復飾・以下に改名し総神主となるという。

浄国院(国司信成) 正覚院(筥崎博尹) 香象院(香山良実) 等覚院(大島教義) 海光院(海野俊雅) 荘厳院(武内康側) 
相承院(相良亮太) 増福院(増山尚義) 我覚院(岡本忠義) 最勝院(加藤良知) 恵光院(野田信高) 安楽院(畠山嘉正)

一見してその苗字のいい加減さが多々目につく。
但し、そのものどもは、しばらくして多くは自滅し、没落していったと伝える。
明治8年頃には、祠官筥崎博尹・国司・香山・武内ら5名しかその職にはなかったとも云う。蓋し自業自得と云うべきかな。

2011/11/15追加:2011/10/30撮影:
25坊(12院)跡

鶴岡八幡宮25坊跡俯瞰:左図拡大図
 最下段に鶴岡八幡宮本社があり、その北方に近世12坊の浄国院(中世では浄国院・普賢院)があった。現在の駐車場の位置である。
 浄国院の北には近世12坊の正覚院(筥崎邸跡、中世では正覚院・宝光院)があった。現在の鶴岡文庫である。
 正覚院と浄国院の間に東に入る路があり、この路は北に折れ、新宮神社に至るが、この路は中世から変っていないと思われる。北に折れる付近に近世12坊の我覚院があったものと推定される。
 正覚院の西は道路が開通し変貌し、そこには現在近代美術館が建つが、最勝院およびその北に等覚院があったものと思われる。
 正覚院から北やや東よりに直線の中世以来の路が通じるが、その突き当たりには(位置ははっきりしないが)近世12坊の荘厳院があったものと推定される。
 正覚院から北に荘厳院に向かって、近世の海光院・増福院・恵光院・香象院が並び、等覚院から北に安楽院・相承院が並ぶ。
 参考:上に掲載の「鎌倉八幡宮社僧12院図

 鶴岡八幡宮25坊跡1:荘厳院付近から南を望む。坊舎跡が更地で保存される。
 鶴岡八幡宮25坊跡2:香象院付?付近から南を撮影。
 鶴岡八幡宮25坊跡3:恵光院付?付近には25坊跡の説明板が設置される。
 鶴岡八幡宮25坊跡4:増福院付近?であろうか
 鶴岡八幡宮25坊跡5:海光院付近?であろうか
 鶴岡八幡宮25坊跡6:海光院付近?であろうか

●「二十五坊の発掘調査について」大三輪龍彦( 「鶴岡八幡宮境内遺跡発掘調査報告U-鶴岡文庫建設に伴う鶴岡八幡宮二十五坊の調査-」鶴岡八幡宮境内遺跡発掘調査団、1987 所収) より
 二十五坊根本坊地推定図:貫達人氏 の推定中世25坊跡地、「鎌倉廃寺事典」にあると云う。
 二十五院古図:「新編相模風土記稿」掲載図 と云う。中世の25坊跡推定。
 十二院位置略図:明治4年「鶴岡八幡宮境内絵図画」に還俗した僧侶の居住地が書かれると云う。近世の12坊跡が分かる。

鶴岡八幡宮現況

2011/11/15追加:2011/10/30撮影:
現在の鶴岡八幡宮は明治維新の神仏分離で多くの堂塔を失い、かつ、国家神道の神社となり、風情を欠く。
建造物では以下の古建築(重文)を残す。
丸山稲荷社本殿、鶴岡八幡宮若宮、鶴岡八幡宮上宮・本殿・幣殿・拝殿及び回廊、武内社本殿、大鳥居(一の鳥居)
 鶴岡八幡宮境内
 鶴岡八幡宮本宮01     鶴岡八幡宮本宮02     鶴岡八幡宮本宮03     鶴岡八幡宮本宮04     鶴岡八幡宮本宮05
 鶴岡八幡宮本宮06     鶴岡八幡宮本宮07     鶴岡八幡宮本宮08     鶴岡八幡宮本宮09     鶴岡八幡宮本宮10
 鶴岡八幡宮若宮       鶴岡八幡宮白旗社

2003/10/12追加:
明治維新神仏分離資料より
明治初年の鶴ヶ岡八幡」静川慈潤氏談

<この資料は要約するとその生々しい様子が伝わらないと思われるので、全文を転載。但し漢字は新字体を使用。>

(氏は鶴ヶ岡八幡の門前なる宝戒寺住職なり。明治初年には、同寺住持澄海氏に従ひ、同寺にあり、弱年ながら当時の八幡の状況を見聞せらる。本年(明治45年)57歳なり。)

 「慶応4年8月15日の例祭の日でありました。12坊の社僧が出仕して、古式庭儀の行列があり、神事を行はんとする一刹那に、幕府が大政を返上せられたと云ふことが伝わりまして、忽ち例祭に来集せる人々が大いに騒ぎ立て、遂に神事が中止せられ、12箇村の名主をはじめ、諸人夫等が空しく解散することになりました。その年9月の節句に、始めて改元のことを聞きました。即ち明治元年となりました。翌2年に、公令により諸国神社の別当なる寺院の僧尼は復飾するこことなり、それらの寺院の仏像仏器を焼棄したり、破壊したり、往々にして粗略の挙があったことを聞きました。
 太政官に仏法を廃滅しようと云ふ議が喧しく起りましたので、比叡山正覚坊豪海大僧正が太政官に出頭して、大いに抗論し、数日座を動かなんだと云ふやうなことを聞きました。比叡山の山王権現及び熱田神宮では、粗暴の挙があって、仏像を打ち壊して微塵となし、経巻を破毀して焼棄したことを聞きました。当時当社の12坊の社僧は、皆復飾しました。彼等は神奈川県庁から布告を聞いて直に復飾し、自ら仏像仏器を放棄し、本社門前に僧尼不浄の輩入る可からずと掲示した。その激変の態度は何人も驚いたことでありました。
 当寺の先代、即ち拙僧の師僧であります、澄海と云ひました、明治28年1月に寂しましたが、当時社僧の輩、節操もなき、信仰もなき激変の態度を見聞して、大いに憤慨いたしました。拙僧は今にその大いに憤慨して罵詈せられたことをよく記憶居ります。彼等昨日三鈷を握った手で、今日幣帛を執ってゐるのではないか、自ら僧尼不浄の輩入る可からずと掲示して、得々たるは何の意ぞ、数百年以来の神事は、皆仏教関係の者に依って行われたものである。彼等の言動は先祖を侮辱し、恩義を忘却し、実に宗門の大罪人である。汝よく心中に銘記せよと、拙僧に教誨せられました。当時拙僧は14歳でありました。つまり当社は12坊の社僧が、自ら仏教を排撃して、粗暴の挙をなしに至ったのであります。
 神奈川県庁から 、屡々督促があって、仏教関係の堂宇等を速に取除くべしとのことです。12坊の社僧の復飾した新社司等が、相共にその取除きに奔走しました。
 当時の諸堂宇等の位置を話せば、先ず神橋の右に放生池があって、弁財天祠がありました。次に仁王門があり、仁王門を入って左に7間4面の護摩堂があり、次に経蔵がありました。皆破壊せられましたが、経蔵にあった一切経は、浅草の観音に移されました。護摩堂の向側に、多宝塔がありました、10間4面の大塔で、鎌倉の3名物の一と呼ばれたものであります。即ち一は大仏、二は大塔、三は大鳥居で、当地人の自慢の言に「一の鳥居を横に睨んで生まれた鎌倉児だ」と云ひました。多宝塔の右少し斜に方り、鐘楼がありました。梵鐘は三代将軍家光の寄附せられた名器でありましたが、鉄槌で打々破壊せられた音響は、50年後の今日、尚ほ拙僧の耳底に残って居る心地がいたします。古道具商が買取って、鋳潰し、純金数斤を得たといふことであります。鐘楼の右更に斜に方り、10間4面の本地堂があって、本地薬師如来を安置せられてありました。名越の安養院に遷すことになりましたが、遂に建築されませんでした。正面石段の前に神変堂があり、右の若宮がありました。石段を登り、本社殿の前右に六角堂があり、左に愛染堂があって、愛染明王が安置せられてありました。
 諸堂宇は十余日間に悉く破壊せられ、古木材として売払われました。今日尚ほ当地の町屋に、その古木材が用いられてゐるのが見られます。本社殿の神体は僧形八幡の石像でありましたが、取出されて後、如何にせられたのかよく知りません。愛染明王等も如何にせられたのかよく知りません。仁王の像は今寿福寺に存してあります。
 宝物は種々ありましたが、弘法大師の筆と伝ふる紺地金泥の大般若経600巻を六軸に細書したものがありました。横浜付近の富豪の手に帰したとのことで、後高野山に寄附せられたとも聞きましたがよく知りません。
 本社殿の後に12坊ありましたが、正覚院に運慶の作と伝ふる地蔵菩薩の像が安置せられてありました。昔当宝戒寺より遷されたものとか聞いて居りましたが、建長寺の妙光庵に遷して、安置せられ、後後藤斉記ち云ふものの家に遷され、更に二階堂の吉村氏の家に遷されました。今同氏の家に存してあります。12坊は新義真言宗でありました。
 明治5年の頃、筥崎博尹氏が始めて宮司に任ぜられ、旧12坊の一なる正覚院の跡に住宅を構へ、漸次に八幡宮の興隆を謀りました。旧12坊の復飾した者は、いずれも職い堪へませんから、退散することとなり、殊に零落して豆腐売りとなった者、車夫となった者がありました。
 筥崎氏が常に云ひました。 今数年早く此職に当ったなら、かくも残酷なる状況を見るに至らず、適当な方法もあったであろうと。氏は一たび散逸した宝物を回収することに力を尽くされました。今廻廊に陳列せられてある宝物は、皆氏の丹誠に依って蒐集せられたものであります。
 明治7年の頃、神仏合併の中教院が 、建長寺に設けられ、相共に三条の教憲の講習を行うの際、拙僧は偶々筥崎氏と同道し、行々、氏は仏教の放生の出処等を問われました。拙僧は金光明経に説かれてあることを話しました。その後9年の頃、氏が主となり、放生会を再興せられました。当時拙僧は東叡山に居りましたから、氏の考を聞く機会もありませんでしたが、氏は、何かと八幡宮の興隆に意を用ゐられました。
 法華堂に頼朝念持の如意輪観音が安置せられてありましたが、その堂は破壊せられ、観音は西御門の来迎寺に遷されました。
 今の頼朝の墓は、安永年間に、12坊の一なる荘厳院の住持が、大御堂から今の地に遷したものであります。宝戒寺門前の四郎左衛門と云ぐ者が、その事をよく知って居りまして、拙僧に詳しく話しました。
 荏柄天神社別当一乗院復飾の際、菅原道真公の親筆と云ふ法華経8軸が散逸しました。
 松原院に頼朝帰依の地蔵菩薩がありましたが、長谷寺に遷され、後三浦武山に遷されました。今如何になったか知りません。
 江ノ島弁天社別当復飾の際、銅の鳥居4台、(島入口に一、岩屋近き道に一、瀬鼻に一、藤沢宿に一)三重塔、竜宮門等が破壊されました。或る真言師の説に、島入口は建久年中霊異により、沙土湧出して、一条の通路を作られたるも復飾後忽ち海水溺侵し、参詣の便を欠くこととなった。これは、法味欠けて神力殺がれたる微であると云ふを聞きました。」
(文責記者)   
→ 江ノ島弁財天女社
 <以下は記者の記事と思われるため、要約>
 記者が鎌倉で採聞した事を付記する。八幡宮上の宮の神体は石の僧形像で古物商に曝されているのを飯島の農夫武藤某が購入、背戸(地名か?)に一小堂を建て祀るという。若宮の神体は(15、6歳の童子の)僧形木像(坐像)で、光明寺の役僧中山某がその像を購入し、今某の孫某が三浦の森戸地方に住み、船大工であり、なおその像を伝えていると云う。
浅草寺に売却した残余の経巻は塔の辻にて焼却したのは事実である。
本地銅薬師如来十二神将及び愛染明王は或るものにより一度東京で開帳するも参詣者なく、その後転々とし、武藤の青梅地方の某寺にあり、近頃愛染明王は記者の知人某氏の主有になる、某氏の客室で見たことがあり、優秀な数尺の大木像であった。
(明治45年4月8日発行、仏教史学第2編第1号所載)

鶴岡八幡宮神仏分離事件調査報告」、高柳光寿氏報
<以下要約>
前略
(三)
当社は享保以降、文政4年上宮、楼門、廻廊、式内社、白旗社、大供所、愛染堂、六角堂、新宮、裏門など回録するが、同11年再興される。
仏教関係堂宇は、神橋を渡れば左右に放生池があり、中島に弁才天祠、ついで中央やや西寄りに仁王門、門を入って左に護摩堂(7間4面・五大尊像安置)、その奥に輪蔵(頼朝が輸入した宋版一切経・四天王像安置)があり、右に大塔(10間4面)、その東南に鐘楼(正和5年銘の大梵鐘)、さらにその東北に薬師堂(10間4面・薬師三尊及び12神将像安置)。正面石段を登り上宮本殿の前右に六角堂(聖観音安置)、左に愛染堂(愛染明王安置)があった。
 これ等仏堂について、再三神奈川県庁から取り除きの督促があり、明治3年神主筥崎博尹から以下の届出がなされる。
総神主筥崎博尹の神奈川県庁への「御届書」<このページ上段に掲載済>
以上の仏教関係堂宇、仏像、経典および什宝などの始末はこのページの上方に記述したとおりである。
八幡宮の重宝で有名な廻御影と秘仏があった。長さ3尺許幅8寸四方の箱に入っていた。12坊が輪番で1ヶ月ごとに守護し、毎日3座の行を勤め、1ヶ月に法華経1部・仁王経5部・法華30講・仁王経講釈などを修した。別に廻御影縁起もあった。
これは大変な重宝であるので、処分せずに一時某寺に預けることになった。内田久兵衛氏の談によると大小路某が某所から持参し、それを見たという。それは幅2尺縦3尺くらいで、図様は僧形の神像が上方に1体、下方に3体あったと記憶している。これには奉書の証文があり、木村大炊(筥崎博尹の前名)の印があった。
因みに12院の建築は住宅として比較的長い間存在していたが、漸次滅び、現在では筥崎氏の正覚院のみ存在するが、10年前筥崎氏が引払ってからは貸家になっていると 云う。
<以下略>

2006/11/05追加:「神仏分離の動乱」より
明治4年提出「相模国鎌倉鶴岡八幡宮収納高仕分帳」の一例を挙げる。
総神主 相良亮太 元供僧 相承院
 本高永70貫文 米702斗6升4合6夕 麦56石5斗3升3合6夕 金140両永164文2分鐚2貫500文
総神主 国司信成 元供僧 浄国院
 本高永38貫392文 米6石4斗2升1合5夕 麦41石7斗2合8夕 金103両1分永46文1分鐚1貫500文
現在の貨幣価値に換算して(特に幕末・明治初頭では)どれくらいの額かあるいは当時の生活水準が分からないので、どの程度の高収入?なのか良く理解は出来ないが、還俗後も、総神主などと称し、かなりの高収入であったのは事実なのであろう。
 近世の鶴岡八幡宮のヒエラルキーは供僧12院→神主→小別当→社僧→社人→承仕→伶人・・・ということであり、供僧12院の僧侶は位も高く、また経済的に裕福で、高級官僚 でありかつ出開帳や高利貸などの実業家を兼ねた存在であった。
従って生活も贅沢三昧で貪欲であったとされる。
 そんな彼等であった故に、神仏分離令に接し、喜んで復飾還俗を行い、魚鳥を喰らい、帯妻を行う。
しかも、貪欲であった本質は復飾の後は、神勤に臨んで、神主の上の総神主の地位を生み出し、以前と同様の支配権・権力を掌握するという態度にも表れている。しかも、昨日までの三鈷を握った手で、今日は幣帛を振るという態度に何の抵抗も恥じらいも無かったのである。さらには、昨日まで僧侶であったものどもによって「僧尼不浄の輩入る可らず」の立札が立てられたという。
 他の寺社(大和興福寺を除く)では復飾した僧侶に多少は見られた葛藤やあるいは止むを得ず復飾した苦悩や神主との軋轢も全くなく、鶴岡八幡宮の僧侶はむしろ進んで 復飾したということであろう。
誠に僧侶の堕落もここに極まれりというしかない。
 ※この間、八幡宮の堂舎堂塔は破却に任せ、伝来の什宝も散逸・破壊に任せられると伝える。

 明治4年、全ての社領は上地令によって、没収される事態となる。
要領よく生延びる手筈が狂う結果となる。無収入で糧が無くなったのである。神職を辞めて、小学校教員・豆腐屋・車夫などに転職していった。中にはもう一度出家をして僧侶になる変転をしたものまでいるという。
明治8年頃には、祠官筥崎博尹・国司・香山・武内ら5名しかその職にはなかったとも伝える。
また八幡宮が社殿修理用として積立ていた5500両も食いつぶしてしまったとも伝える。


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