備 前 蓮 昌 寺(備前蓮昌寺)

備前蓮昌寺三重塔:昭和20年6月29日空襲により焼失。 旧国宝

備前蓮昌寺三重塔・本堂・祖師堂:下図拡大図

備前蓮昌寺三重塔:下図拡大図

備前蓮昌寺三重塔内部:下図拡大図

 

蓮昌寺三重塔2:下図拡大図

蓮昌寺三重塔3:下図拡大図


2012/06/06追加:「Y」氏ご提供画像:

絵葉書:
 岡山名所・蓮昌寺:左図拡大図

本堂・祖師堂(屋根)・三重塔が写る。
手前の土塀は実如院。

慶長6年(1601)、森下から蓮昌寺が移転、その時、三重塔は移築されたと伝える。旧地(森下)には「塔の山」の地名を残す。
   →森下「塔の山」
正確な建築年代は不明であるが、様式上室町期の建立とされる。
基本的に和様で構成され、組物は三手先、正面中央間中備に蟇股を置く。

2010/06/25追加:
「大日本寺院総覧」寺院総覧編纂局/編、明治出版社、大正5年
 ◇蓮昌寺本堂三重塔:出版年より少なくとも大正初頭の写真と思われる。

2007/09/10追加:「岡山市写真帖」岡山市役所、大正15年 より
 ◇備前蓮昌寺本堂・三重塔:左三重塔
 ◇備前蓮昌寺三重塔部分図:上記の三重塔部分図

2014/10/20追加:
○「観光の岡山」岡山宣伝社、昭和10年 より
備前蓮昌寺本堂・三重塔

2008/02/16追加:参考文献「蓮昌寺史」より

お籠り堂と三重塔:撮影時期不詳:下図拡大図


 


備前蓮昌寺三重塔11:撮影時期不詳:下図拡大図

 ○備前蓮昌寺三重塔と祖師堂:撮影時期不詳
 ○備前蓮昌寺三重塔と本堂:撮影時期不詳

 ○蓮昌寺三重塔想定復元立面図
    蓮昌寺三重塔基壇にほぼ同時期同規模の現存備前福生寺(大滝山)三重塔を載せた図
※この図は蓮昌寺基壇上に、ほぼ同時代・同規模の備前大滝山三重塔の解体修理報告書の図面を載せたもので、塔建築自体の細かい差異はあるにせよ、概ね雰囲気としてはこの図のようなものであったであろうと云う。

昭和13年合同新聞記事:「国宝蓮昌寺(下)」北畠謙三、4月22日
 もと森下町にあり、ここに移築したと伝え、その建築年代は本堂より古いようであるが、室町様式であることは間違いない。
塔は二重基壇の上に立ち、方3間(12尺四方)高さ42尺、総朱漆塗で、各層に廻縁があり、初層には擬宝珠勾欄、中層上層には組勾欄を具える。初層には地長押・腰長押・内法長押をまわし、前後には格子窓を嵌め、側面には格挟間式連子窓を明けた板唐戸を吊る。斗栱は3手先彩色、隅々には鬼枓を用いる。
初層内部は天井を鏡天井とし、中央に円穴を穿ち、その上部梁上より中心柱を出して、相輪に至らしめている。
四天柱は漆塗金箔置として、その上部を彩飾し、来迎壁の前には結迦座する多宝仏が安置される。天井・内法長押・羽目板等にはそれぞれ雲竜・天人などが描かれている。
 ※合同新聞はその名の通り、戦時の新聞紙統制のため地方紙を合同した新聞と思われる、現在の山陽新聞の前身。

備前蓮昌寺三重塔心礎:2008/02/16追加

備前蓮昌寺三重塔心礎1
  同           2:左図拡大図
  同           3
蓮昌寺推挙心礎:蓮昌寺は心礎と推挙する。2014/02/15撮影、

2008/02/16追加:参考文献「蓮昌寺史」では
上記写真の「礎石」を「国宝三重塔芯柱の礎石」として、掲載する。
さらに、その実測図も掲載される。
 蓮昌寺三重塔心礎実測図
※但し、断面図の円穴が碗状であるのは、現物は円筒形で事実に反する、また平面図の円形が正円ではなくて四角の欠き込みがあるかのように描くのも不審である。

なお、後段の<「三重塔心礎」の真偽について>を参照

 ○蓮昌寺三重塔推定地:三重塔跡は駐車場と化し、全く面影はない。
写真は現蓮昌寺南の駐車場、写真中央付近(左のビルと一丸堂の中間附近)が三重塔跡と推定される。
写真右が現蓮昌寺で手前より一丸堂及び一丸堂本殿・釈迦堂(相輪)・本堂(相輪)

2008/02/16追加:参考文献「蓮昌寺史」より
昭和30年代、岡山市史(新版)の編纂過程で、蓮昌寺三重塔跡の簡単な発掘調査が行われた。

この発掘過程で、塔基壇の地中に一石一字経の埋葬施設が発掘された。四天柱礎石に囲まれたやや南よりの箇所に上幅1尺6寸、最大幅2尺、深さ1尺8寸の不等辺の六角形の断面の埋納穴に無数の経石が納められていた。
 この発掘調査では編集委員・郷土史家玉井伊三郎の「メモ書き」資料が残されたいる。
塔基壇は花崗岩切石積で、上部には柱間4尺間隔で3間四面に据えられた礎石16個が描かれている。
塔基壇は3段築成で、下段は方39尺5寸、高さ3尺3寸、上幅3尺5寸の切石2段積、中段は方32尺3寸、高さ3尺2寸、上幅5尺1寸の切石2段積、上段は方21尺8寸、高さ1尺2寸を測る切石積で、東面中央には14段の石階を一層廻縁に取り付くように付設する。なお16個の礎石の外周には元来束石が配置されていたはずであるが、当時既に失われていたようで描かれてはいない。
収録されている玉井伊三郎の「メモ書き」資料はいずれも不鮮明であるが、以下の通り。
 ○玉井伊三郎「メモ」1:16個の礎石がある、と中央に描かれているのは心礎ではなくて、経石埋納穴と思われる。
 ○玉井伊三郎「メモ」2:塔基壇概要図
 ○玉井伊三郎「メモ」3:上部は経石埋納穴の状況と思われる、下図は良く分からない。
 ○蓮昌寺塔基壇復元図: 誰の作図かは不明であるが、心礎は描かれていない。

昭和31年6月10日山陽新聞記事:
市史編纂委員会が三重塔跡の盛土を発掘、経石が発見された・・・という記事がある。
三重塔跡を発掘する市史編纂委員
 ※昭和31年には三重塔基壇盛土が現存したと思われる。(基壇化粧切石はおそらく撤去されていたものと思われるも不明。)
写真は不鮮明で撮影角度も不明であるが、写真はおそらく土壇盛土の断面で、露出している小石は経石と思われる。
なお背景の相輪は仮本堂に昭和27年付設された「大曼荼羅」安置のための内陣の相輪(現大仏殿)であろう。

「三重塔心礎」の真偽について

「蓮昌寺史」では、「三重塔芯柱の礎石」として、三重塔心礎写真と蓮昌寺三重塔心礎実測図(上掲)を挙げる。
<「三重塔芯柱の礎石」は庫裏前の庭園に「蹲」として据えられていると紹介する。>

しかしながら、この「蓮昌寺史」の「心礎」の真偽は以下の理由で疑わしいと思われる。

1)蓮昌寺三重塔の心柱は、初重「上部梁上より中心柱を出して、相輪に至らしめている」とされ
 また備前蓮昌寺三重塔内部(上掲)写真でも見るように明らかに心柱は初重梁上から建つ。
 従って、心礎が存在したとは思われない。
2)上掲の三重塔跡の玉井伊三郎の「メモ」にも心礎の記載は無いと思われる。
 (この調査前に心礎は既に抜き取られていたとすれば、心礎の記載がないのは当然ではある。)
3)この「心礎石」をどこから移転させたのか、いつごろ設置したのか、その経緯やだれが設置したのかなどについて、
 蓮昌寺現住のご説明は明快さを欠くように思われる。住職の返答ではこの「心礎」が「心礎」であることの確証が得られない。

2008/02/18追加:
森下「塔の山」

蓮昌寺は2度寺地を代える。
1.城郭内榎馬場蓮昌寺:松田左近将監元喬の創建伽藍は今の岡山城中「榎の馬場」であったと云う。
2.国富森下東裏蓮昌寺:天正元年(1573)、宇喜多直家、岡山城入城改築により、森下東裏附近に移転。
3.現在地(外堀西)蓮昌寺:慶長6年(1601)、小早川秀秋の寺町形成で現在の地に再移転。

・榎の馬場での遺構は発見されてはいないが、近年の発掘で妙法蓮華経と墨書された五輪塔などが出土し、城郭内榎馬場蓮昌寺の遺物とも思われる。

「塔の山」
・現在の岡山市徳吉町1丁目に「徳與寺」があり、その背後の丘を「塔の山」と云う。
 蓮昌寺「塔の山」俯瞰図:森下東裏とは今の岡山朝日高校附近に相当する。高校南(図の中央付近)を川が流れ、
  その川を渡ったところに「塔の山」があり、ここに蓮昌寺三重塔はあったものと推定される。
・現状「塔の山」は駐車場と化し、一方は住宅から背を向けられ、もう一方はマンション・墓地(塔の山墓地)・崖などになる。
この附近は、国富森下東裏蓮昌寺があった場所であり、この丘には蓮昌寺三重塔があったことから「塔の山」と云われるのであろうと推測される。その後蓮昌寺は小早川秀秋のとき、外堀の西(田町)に再移転し、この地は「御堂屋敷」と呼ばる地名となる。(明治までこの地名は使われたと云う。)
当然というべきか、今、塔の山には全く何の遺物もない。
 蓮昌寺「塔の山」1:概ね北北西から撮影:この崖の丘上に三重塔があったと推定される。
   同       2;概ね西北西から撮影
   同       3:概ね西から撮影
   同       4:概ね東(塔の山墓地)から撮影、平坦部は未舗装の駐車場です。
・しかしながら、唯一、蓮昌寺に間接的に関係するとも思われる「法鮮銘五輪塔」がある。
 (塔の山の東・徳與寺塔の山不動堂の横にある。)
この五輪塔(お鮮さまの墓)は宇喜多秀家の生母お福の墓と言い伝えられる。
※五輪塔は凝灰岩製で、総高338cm、基礎の正面に「文禄三(1594)甲午 法鮮 十二月十一日」の銘がある。
以前は塔山西南にあったが、墓地整理で現地へ移され、その際に基礎部から火葬骨が発見されていると云う。
 「塔の山」法鮮銘五輪塔:妙法蓮華経
 「塔の山」法鮮銘五輪塔銘
なお、この墓の主「法鮮」とお福が同一人物であるかは断定は出来ないが、
蓮昌寺過去帳には「宇喜田氏御前 法名阿鮮大姉 文禄三甲午十二月十一日」とあったと云い(旧「岡山市史」但し戦災で焼失か現在は蓮昌寺には無い・・・「蓮昌寺史」)、
また「塔の山墓地」は蓮昌寺の墓地であったとも考えられ、宇喜田氏関係の墓があっても不思議ではない。
以上から、「法鮮」とお福とは同一人物としても矛盾はないであろう。
参考:
お福の方:生没年不詳、美作高田城主三浦貞勝室、後に宇喜多直家の正室、宇喜多秀家の母。

備前蓮昌寺本堂:昭和20年6月29日空襲により焼失。 旧国宝

備前蓮昌寺本堂:下図拡大図

蓮昌寺本堂内部1:下図拡大図

蓮昌寺本堂内部2:下図拡大図

慶長6年(1601)小早川秀秋による蓮昌寺移転直後の建立とされる。
桁行7間・梁間8間・一重入母屋造本瓦葺。向拝3間の大建築であった。
組物は二手先で中備に華やかな蟇股を置く。内部は内外陣に別れ、内陣は彩色されていた。

2007/09/10追加:「岡山後楽園・備作名勝写真案内」北村長太郎編、岡山:細謹舎,明35年 より
 ◇蓮昌寺本堂2

2008/02/16追加:参考文献「蓮昌寺史」より

「蓮昌寺史」」より:
 備前蓮昌寺本堂11:左図拡大図

「岡山市史」(昭和13年)
桁行正面7間、梁間8間
 (裏面桁行9間)(東西88尺26.7m、南北83尺25.2m)

2012/04/28追加:絵葉書
 (岡山名所)蓮昌寺:「陸軍特別大演習記念」のスタンプがある。この備後・備中で行われた「演習」は昭和5年であり、本写真は昭和5年頃のもの と推定される。

昭和13年合同新聞記事:「国宝蓮昌寺(上)」北畠謙三、4月21日
 本堂は和様・禅宗様の折中様式、桁行7間梁間8間(長さは約100尺四方)単層、入母屋造、本瓦葺、軒は二重繁垂木、四方には廻縁を付設、床下は亀腹となっている。本柱は円柱で、上方は粽となり台輪を載せ、その上には幾多の蟇股を飾る。外側上部には支輪を付け、斗栱は2手先、尾垂木を覗かせ、その間は間斗束を配する。側面の1間は花頭窓、5間は桟唐戸、前2間は新設の花頭窓となる。背面では木階上の2本の瀟洒な海老虹梁が眼に付き易い。前面には3間の向拝を出し、向拝柱は礎盤付面取角柱となり、軒廻りの虹梁・頭貫・木鼻・手挟の彫刻は桃山期の豪華・・・
内部は概ね畳敷で、 円柱で内陣外陣を区切り、前方2間左右・背面1間通りを外陣とする。前方の外陣は元拭板敷の吹放で、内陣との境には蔀部を吊込んでいたが、近年改造され、外陣と縁側を仕切り、正面中央1間を格子戸、その他を壁とし壁面の正面6間、側面各2間には花頭窓を開けている。円穴内陣及び外陣の天井は小組格天井、側面及び背面の外陣は竿縁天井となる。来迎柱は金箔置、円柱の上部繋虹梁・貫・斗栱・蟇股などは悉く彩画粉飾されている。
須彌壇上には本尊妙法蓮華経を安置、その両側に釈迦・多宝のニ仏、上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩、文殊・普賢のニ菩薩、並びに四天王の諸尊を奉祀する。

蓮昌寺本堂礎石と瓢箪石:2008/02/01撮影

 ○蓮昌寺本堂礎石:方73cm高さ38cm、上面は径50cmの円形柱座を造る。
この礎石は元本堂北西隅の礎石と伝える。現在は蓮昌寺々務所の南に置かれているが、元位置は現在「瓢箪石」が於かれている位置と云う。従って現在の「瓢箪石」の位置が本堂の西北隅となる。
 ○蓮昌寺瓢箪石:この石は南から本堂に至る参道石畳の間に埋め込まれていて、この石を踏んで参拝する慣わしがあった。
境内整備の時、瓢箪石は本堂北西隅礎石があった場所に移され、本堂礎石は現在地に移される。
 ○瓢箪石・本堂礎石:現本堂から東を撮影、手前が本堂側、左は寺務所、上は現山門
手前石畳中に瓢箪石(本堂北西隅礎石があった場所)、寺務所前に本堂礎石がある。
 ○蓮昌寺山門本堂間の景観;写真左は寺務所(北)、左側上方が現山門(東)、左側下石階が現本堂石階(西)、
寺務所前に本堂礎石、現山門-現本堂間石畳中に瓢箪石(旧本堂西南隅礎石位置)が見える。
蓮昌寺旧本堂は瓢箪石を北西隅とし、現山門の東の道路が旧本堂への参道跡であるから、本堂東側は現山門のさらに東側にまで達し、南は大仏殿前の駐車場を包含する地を占めていたものと推定される。

備前蓮昌寺略歴

仏住山龍華樹院と号する。京洛妙覚寺末。
正慶年中(1332-34)あるいは康永3年(1344)、大覚大僧正の備前弘通により、松田左近将監元喬の創建によると伝える。
 (寺号の蓮昌寺は将監の法号による。)
なお、開山は龍華樹院日像上人とする。
天正元年(1573)、宇喜多直家の岡山城入城改築により、岡山城中榎の馬場より、国富東森下に移転。
慶長6年(1601)、小早川秀秋の寺町形成で現在の地に再移転。
文禄4年(1595)、寺領70石。
寛文年中(1661-73)、不受不施の義で弾圧を受ける。後受不施に転じ復興する。(京都妙覚寺末)
11代から29代まで過去帳(戦災で焼失)に記載が無かったと云う。いわゆる不受不施の義で公儀を憚ったものと推測される。
山内に覚善院(昭和27年再興)、本成院、妙善院、実如院、不染院、大乗院、林照院が日遥上人代(元禄年中)に再興されたと云う。(戦災で全て焼失)
昭和20年空襲により全ての堂塔を焼失。

2008/02/16追加:
「仏住山蓮昌寺縁起」(吉備群書集成)
古へ創造の時は、郭内にあり(今の柳の馬場の所と云ふ)
其後、天正元年、岡山城を宇喜田再築の時、大川の東森下に移し(西国第一の道場故、御堂と唱へしによって、今にその跡を御堂屋敷と云ふ)後又、今の処へ移す。・・寺領500石、寺中も48刹有り・・・、寛文年中、不受不施御禁制の時、末寺並寺中多く退転し、寺内も取り上げられて衰微し・・・
「岡山市史」(大正9年)
境内仏堂:本堂、客殿、庫裏、仁王門、中門、二天門、蓮乗堂、日朝堂(文政13年)、祖師堂(文政11年)、護法堂(不詳)、七面堂(不詳)、一丸堂(慶長15年)、千仏堂(享保11年)、摩利支天堂(明治5年東京下谷徳大寺より移築)、多宝塔(享保3年創立後廃絶・明治4年再建)、茶堂(文久元年)

2017/09/26追加:
「岡山市史 巻2」岡山市役所編、昭和11年 より
第41章 蓮昌寺と日像上人:
 日像上人、西国弘通の砌、備前守護・金川城主松田左近将監元賢の帰依によりて、康永元年(1344)岡山城内榎場場附近に創建という。
宇喜多秀家岡山城再築に際して、旭東森下の地に移す、今その跡を御堂と称す、後今の地に移す。
▽備前國誌云:
 佛住山、蓮昌寺、仁王寺、寺領62石余、本寺京都妙覺寺。
院主、龍華樹院、寺中、妙善院、覺善院、大乗院、不染院、本城院、實如院、林正院。
寺僧の説に、正應年中に松田将監元賢創造す。元賢の法名にて蓮昌寺という。西国日蓮宗最初の道場なり。
・・・・(中略)・・・
古は寺領500石、寺中48刹ありしに、寛文年中不受不施御禁制の時衰微して寺領も没収せられて寺中も減少してけり。
▽吉備前秘録云:
 日蓮宗日像門派、・・当山往古は佛住山法花堂、蓮昌院と申す。
天正の初め頃より只今の山号院号寺号に改ける。本寺は山城國京都具足山龍華樹院妙覺寺、本尊法華の題目釈迦多宝の両尊、鎮守三十番神、七面大明神。
一、境内諸堂往古は数々有之處、只今にては本堂、客殿、番神堂、同拝殿、祖師堂、七面堂、千佛堂、三重塔、仁王門、鐘楼、庫裡、総門、書院、玄関、台所門、詰室、攝待、組下寺、末寺なり。寺中末寺往古は本山、直末又末寺家共には560ヶ寺支配あり、その後退転、寛文の初迄も416ヶ寺、右の内48坊は寺内に有之。是も退転し今は11寺、組下7ヶ寺、末寺組下の末寺3ヶ寺、同寺家1軒、寺中48坊の内貞享3年の頃漸く3軒立つ。日通上人代に再興の願上。10坊仰せつけらる、圓山大光院共寺領の義は、往古森下法華堂蓮昌院と申す時分、寺領6町、120石、その母宇喜多家母紫雲院殿寺領75石加増、その後筑前中納言秀詮(※)帰依に付寺領500石下され、但し内120石は寺領処分、残る380石は寺領にてその後、武州輝直公(※)御時、当寺領悪處となすに依りて、住持日巍代御訴訟由上右寺領の内100石差上、上品の地300石下置かれる。然は寺屋敷120石都合420石頂戴仕り候、右300石の知行所は西長瀬村也。・・(中略)・・
寛文3年天下不受不施御禁制に付持去、日相退去の時御代々の御墨付制札等迄所持にて退去故。代々住持御願申上。元禄7年今の寺地分62石余の御墨付頂戴仕りそうろう。
 ※筑前中納言秀詮は小早川秀秋がこと
 ※池田利隆か、利隆は慶長12年(1607)武蔵守に転任して松平姓を賜り松平武蔵守利隆と名乗る。池田輝政の長男で輝直とも称する。姫路42万石藩主、慶長8年(1603)異母弟の忠継が備前岡山藩主に任じられると、幼年の忠継に代わって執政代行として岡山に入城、岡山の実質的な領主として藩政を担当する。池田光政は実子である。

2005/08/13追加:
 ◇蓮昌寺俯瞰図:吉田初三郎画、岡山市街鳥瞰図。昭和7年

2008/02/16追加:参考文献「蓮昌寺史」より
 ○戦災前本院建造物配置図
 ○戦災前蓮昌寺実測図:明治維新後寺勢は振るわず、既に戦前には本来の地割を周囲から侵食され、
                寺地が窮屈になっている様が窺える。
昭和13年合同新聞記事:「国宝蓮昌寺(下)」北畠謙三、4月22日
蓮昌寺の建築様式・配置などを大観するに、総門は藥医門の形式で両袖に脇門を備える。
 ○蓮昌寺山門   ○山門より仁王門をのぞむ
総門より仁王門を過ぎればその突き当たりに本堂が南面して建つ。
仁王門は3間1戸の楼門で、仁王を安置する。
 ○蓮昌寺仁王門
本堂の西に祖師堂、西南に三重塔、東方少し離れて鐘楼がある。
祖師堂は方5間、日蓮・第1祖日像・第2祖妙実(大覚大僧正)像を安置する。祖師堂・本堂・客殿・方丈・庫裏は長廊下で繋ぐ。
 ○蓮昌寺庫裏玄関   ○蓮昌寺客殿
一丸社は元鳥取城の守護神としてその一丸に鎮座していたのを、明治20年頃勧請したものである。
本堂の東方に番神堂、北方に二天門があり、何れも桃山期の建築と称せられる。
番神堂は桁行3間梁間2間、入母屋造、本瓦葺、前面に唐破風の向拝を付設、正面3間、側面1間に桟唐戸を設け、四方に廻縁を廻らす。軒廻りは2手先斗栱。
二天門は四注造、本瓦葺の3間1戸で、かっては持国天・毘沙門天の二天を祀っていた。
塔頭は総門より本堂に至る参道の両側にあり現在、実如院、覚善院、不染院、大乗院、妙善院、林照院、本成院の7坊を残す。
※慶長15年(1610)千仏堂、享保11年(1736)祖師堂、文政11年(1826)茶堂、文久元年(1861)及び明治4年再建多宝塔、明治5年東京より移建の摩利支天堂、仁王門、鐘楼、二天門、七面堂、護法堂、蓬莱堂、客殿等の堂宇云々の記載もある。

 ○蓮昌寺戦災復興計画図:およそ旧山門から本堂に至る参道は道路に転用され、道路西側に本院の伽藍が再興、東側に大乗院・実如院・不染院・覺善院の寺中、七面社、庫裏(西)などが再興される。

 ○蓮昌寺昭和24年本堂落慶:常山の常山寺本堂の譲渡を受け、仮本堂として移建・落慶。
 ○蓮昌寺昭和50年代全景:現本堂は完成、旧本堂は取壊し前、旧本堂には内陣を増築(相輪付)。 三木辰夫画

注:
「岡山市史」(大正9年)及び「蓮昌寺史」には「多宝塔」(明治4年再興)とあるが
この多宝塔については不詳。
※蓮昌寺現住に尋ねるも、多宝塔については不明と云う。

蓮昌寺現況:無印は2002/12/28撮影 、▽は2008/02/01撮影、◇は2014/02/15撮影

三重塔跡の痕跡は皆無、「蓮昌寺史」に語る「三重塔芯柱の礎石」が現存するも、真偽の程は疑わしい。
本堂上屋に相輪を載せた方形堂宇と大仏殿釈迦堂(二層塔)に僅かに塔婆の雰囲気が残るだけである。

かっては一萬坪といわれた境内も縮小され、境内は駐車場あるいは保育園と化し、時代の転変を感じさせる。
 ◇蓮昌寺山門     ◇蓮昌寺山門脇題目碑
 境  内 現 状(左の一丸堂のさらに南の駐車場・背後のビルの北側附近に三重塔があったと思われる。)
  ▽蓮昌寺伽藍南東から:手前より一丸堂・同本殿、大仏殿釈迦堂(相輪)、本堂(相輪)
 本       堂は洋風の外観でRC造、本堂屋上に相輪を載せた方形堂宇の形式を採る。
  ▽蓮昌寺本堂
  ◇蓮昌寺本堂2
  ◇本堂・釈迦堂1     ◇本堂・釈迦堂2
 大仏殿釈迦堂:本堂左横に立つ。昭和24年常山の常山寺本堂の譲渡を受け、仮本堂として移建。
  ▽蓮昌寺大仏殿釈迦堂1  ▽蓮昌寺大仏殿釈迦堂2:二層塔風建築
  ◇蓮昌寺大仏殿釈迦堂3     ◇蓮昌寺釈迦堂内部
   ※蓮昌寺昭和24年本堂落慶(上掲):仮本堂の落慶・内陣は当時増築されていない。
   しかし、寺宝「大曼荼羅」開帳のためには高さ10mの空間が必要であり、昭和27年現在の大仏殿の原形を
   本堂内陣として増築。
   ※蓮昌寺昭和50年代全景(上掲):仮本堂に内陣(相輪付設)が増築される。
昭和43年現本堂落慶の後、旧本堂は剣道道場として転用されていたが、平成3年旧本堂を解体。
その時内陣部分を残しさらに正面が欠落しているため、正面2mほどを増築し、塔風な建築にする。
当時は「開山堂」とし、日像上人などを祀る。
平成12年笠井山大仏が遷座され、内装が変更され、現堂名になる。
ニ層塔風建築であるが、上記経緯のとおり、本来塔を意識した建築ではない。
  2018/11/27追加:
  ○「岡山市史 巻2」昭和11年 の 第73章「備前法華の由来」沼田頼輔、明治41年 より
  備前蓮昌寺宝物日像大曼荼羅:
   蓮昌寺においてはこの日像大曼荼羅が最も重要な本尊とされているという。
   この本尊の由来については、「蓮昌寺史」第二章「蓮昌寺の本尊」の章(P.47-56)で各種の縁起や記録の掲載がある。
   各種の霊験譚を除けば、次のような経緯で蓮昌寺に格護されたようである。
   大曼荼羅は日像の真筆で信徒に授与され、後に津島妙善寺に治められる。
   寛文6年妙善寺追放され大曼荼羅は岡山城に収納される。
   延宝7年(1679)妙善寺の本寺である京都妙覚寺より使僧が来て、妙覚寺に下付を申し入れ、
   寺社奉行は妙覚寺使僧に之を交付する。
   然るに之を伝聞した蓮昌寺の檀信徒は憤慨し、騒乱に気配もあり、藩も妙覚寺使僧もそれを鑑み、大曼荼羅に厳封の上、
   蓮昌寺に保管せしむ。
   正徳元年(1711)蓮昌寺什宝とすべき藩命ありて、遂に蓮昌寺宝物となる。
 一  丸 堂:旧本堂は一丸堂北東附近の駐車場及び現本堂と現山門の石畳の一部、現山門東の道路及び道路東の建物に至る地を占めたと推定される。従って三重塔はこの一丸堂の南の駐車場、写真背後のビル(南)の北側附近にあったと推定される。
  ◇蓮昌寺一丸堂拝殿     ◇蓮昌寺一丸堂本殿
 石造法華塔:大仏殿南にある。戦災を受けかなりの剥落がある。宝暦10年(1760)の年紀がある。
 本法華塔はもともと天台宗松客寺利光院に建立され、明治6年に蓮昌寺に移建されたと銘文にある。
  (銘文は戦災でほぼ消滅、銘文の記録が残る。
 石造法華塔と日像上人供養塔:明治14年銘、大仏殿南にある。左は上記の法華塔。
 ◇大覚妙実供養塔;法華塔 向かって左にある。
  南無妙法蓮華経 大覚妙実(妙実はほぼ剥落)、文久3年(1863)銘。大覚太僧正500年遠忌。
  砂岩製。劣化が激しく、近年花崗岩の覆で補強されたようである。
 ▽蓮昌寺題目石残欠1     ▽蓮昌寺題目石残欠2      ▽蓮昌寺題目石残欠3
 この題目石は本堂の南・三重塔の東に高い石積基壇の上の建っていた。(上掲備前蓮昌寺三重塔・本堂・祖師堂などを参照)
平成12年旧境内地の土中から発見される。南側の工事現場(建物解体作業中)から発見というから、三重塔跡附近と思われる。
なお台座は残っていたが、昭和53年平井山蓮昌寺墓地へ移転、縮小されて保存されていると云う。

寺中の概要

現在は覚善院1坊のみが残る。
 寺中覚善院: 昭和27年再興
寛文年中(1661-73)の不受不施の義で弾圧されるも、元禄年中には覚善院、本成院、妙善院、実如院、不染院、大乗院、林照院の7院が再興される。
 ◇寺中覚善院2     ◇覚善院大覚太僧正碑

明治38年、寺中大乗院は吉備郡穂井田村に移転。

戦災前の6院の概要は以下のとおり。
妙善院(本堂、妙見堂、164.7坪)、林照院(本堂、庫裡、147.0坪)、不染院(本堂、69.5坪)、実如院(本堂、日朝堂、112.8坪)、本成院(本堂、日親堂、224.2坪)、覚善院(本堂、聞法堂、108.7坪)
昭和20年、寺中6院は全て戦災により焼失、その後大乗院・実如院は再興できず、本寺蓮昌寺に合併、本成院・覚善院・不染院・林照院・妙善院は一応復興する。しかし本成院は市内立川町に移転 し本成寺と寺号を称す。覚善院は妙善院を合併、不染院・林照院は退転する。
現在山内では覚善院1坊が残るも、衰微し殆ど外観上は寺院の形態をなさず。僅かに前庭に上記写真の遺物を残すのみである。
○覚善院:中興開基知鏡院日遙上人。昭和40年妙善院を、昭和46年不善院(不染院?)を合併。
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
 明治27年、寺中浄蓮院移転、龍感山浄蓮寺として鳥取県米子市大崎2055に現存。 ※但し、浄蓮院とは不詳。
 昭和31年、寺中本成院移転、佛住山本成寺として岡山県岡山市南区立川町7−27に現存。
2017/04/21追加:
○「岡山市史 宗教教育編」昭和43年(1968) より
蓮昌寺には明治期まで7塔頭があった。いずれも元禄3年(1690)の創建で、70坪から200坪程度の寺地を画した小院であった。
その内大乗院だけは明治38年8月吉備郡穂井田村に移転した。
戦災直前まで残った塔頭は次の6院であった。
 妙善院:164.7坪、本堂、妙見堂
 林照院:147.0坪、本堂、庫裡
 不染院: 69.5坪、本堂
 實如院:112.8坪、本堂、日朝堂・・・實如院だけは戦災前に蓮昌寺に合併していた。
 本成院:224.2坪、本堂、日親堂
 覚善院:108.7坪、本堂、聞法堂
昭和20年空襲により蓮昌寺は全焼、塔頭も悉く焼失し、僅かに妙善院と不染院の共同の山門であった藥医門のみが残る。
戦後、蓮昌寺境内4272坪は復興計画のため削減され、また再建資金捻出のため蓮昌寺自体が分譲し、約1/3に縮小する。
塔頭5院の屋敷は復興計画によって、寺院外となる。
・妙善院及び不染院は同じ屋敷を軒を一つにして再興する。山門は前述の焼け残った藥医門である。
昭和20年仮堂建立、昭和24年本堂再建、昭和33年再建。
・林照院:昭和28年本堂再建。
・覚善院:昭和27年もとの屋敷跡に再建する。
・本成院:本城院(ママ)と称したがもとの位置に再建が難しく、昭和27年に三浜町に寺地を求め、本城寺(ママ)と改称する。
2017/04/21追加:
○「蓮昌寺史」 より<第5編 現代の蓮昌寺:第1章第5節 塔頭寺院の推移 p.473>
大乗院・實如院は蓮昌寺に合併、本成院、覚善院、不染院、林照院、妙善院はそれぞれ復興したが、後に本成院は市内立川町に移転し本成寺と寺号を名乗る。
覚善院は妙善院を併呑、不染院・林照院はお家の事情で消えた。
 ※つまり、どういう事情かは不明ながら、戦後復興した両院は、昭和43年の「岡山市史 宗教教育編」にはその消滅には触れられていないので、おそらくは昭和43年以降に消滅(廃寺あるいは退転)したものと思われる。
但し、不染院の檀家は蓮昌寺につき、什器類は覚善院に納められるという。また林照院の什器は明石の方の寺に納められたという。

蓮昌寺末寺

日栄山蓮現寺(赤磐市周匝)
仁王山慶立寺(赤磐市滝山)
佛住山本成寺(岡山市南区立川町、元寺中<上述>である。)
華用山妙龍寺(岡山市中区竹田)
佛住山大光院(岡山市中区円山) → 日蓮宗大光院  → 備前曹源寺
福昌山実成寺(岡山県和気郡和気町藤野)
妙見山円立寺(岡山市北区御津芳谷)


2006年以前作成:2018/11/27更新:ホームページ日本の塔婆日蓮の正系