下 総 香 取 神 社 別 当 金 剛 寶 寺 三 重 塔

下総香取神社別当金剛寶寺三重塔/香取神宮寺

2003/8/10追加
香取神社絵図

香取神宮境内古図:元禄13年(1700)

香取神宮境内古図:左上図拡大
室町期の参詣曼荼羅的な絵図を元禄期に模写したものと推測される。
左下が金剛寶寺、三重塔が描かれる。

香取神宮境内絵図/部分図:寛政10年(1798)



香取神宮境内絵図:上図拡大図
金剛寶寺の部分図
三重塔、本堂、門、鐘楼などと思われる建物がある。

 

香取神宮境内絵図:明治6年

香取神宮境内絵図:左図拡大図
図下が神宮寺、すでに三重塔の姿は見えない。

2011/11/26追加:
香取神社の神仏分離:香取市電子版(Web)「広報かとり」から要約・転載

◆「広報かとり」平成22年8月15号掲載「香取資産Vol-051 失われた仏教遺物鏡 香取神宮と廃仏毀釈」 より要約・転載
  ※「広報かとり」平成22年8月15号のバックナンバーはこちら(PDF)→p.5
 中世以降に描かれた絵図などによれば、本殿の後方に宝形造の経堂(経蔵)、拝殿左側に夏経法楽を行っていた愛染堂(安居堂・本尊愛染明王)などの仏教施設があったことが分かる。
 さらに、本殿内陣の神座前に本地仏4躯(薬師如来、釈迦如来、地蔵菩薩、十一面観世音で鎌倉期製作)の懸仏が懸けられる。
明治の神仏分離で、明治元年11月経堂・愛染堂が取壊される。本殿懸仏は売却される。
同時期神宮寺(金剛宝寺・宮中台に所在・本尊十一面観音)本殿・三重塔・鐘楼堂など取り壊しになる。
 なお、明治2年、本殿「懸仏」4躯(重文)は、市中で売られていたが、佐原の篤志家が買い戻し、牧野観福寺に納めると云う。
また、経堂の一切経や般若経の一部は研究機関・図書館に所蔵されているものもある。
 香取神社境内図:「香取参詣記」〔久保木清淵、文政11年(1828) より<2023/11/26画像入替>
2023/111/26追加:
○「香取参詣記」 より
 香取神社社殿
 香取神社別當大神宮寺:神宮寺には本堂・三重塔・方丈などの諸堂塔が描かれる、また妙憧院、法塔院、不断所の書き込みがあり、それらの諸坊があったと思われる。

◆「広報かとり」平成22年8月15号掲載香取資産Vol-052 懸仏の最高傑作 仏は救われて重要文化財に」 より要約・転載
  ※「広報かとり」平成22年8月15号のバックナンバーはこちら(PDF)→p.5
 牧野観福寺が所蔵する懸仏4躯(釈迦如来坐像・十一面観音菩薩坐像・地蔵菩薩坐像・薬師如来坐像、何れも重文)は、神仏分離の処置により香取神社から取り出され、市人に売られてまさに吹き潰されんとするところを「おいたわしや」とこれを買い求めた人が台座などを荘厳して、明治2年初秋に観福寺に納めたと云われる。
 釈迦如来坐像懸仏(像高35・8p、鏡板径60・8p)及び十一面観音菩薩坐像懸仏(像高40・4p、鏡板径60・9p)は鏡板裏面の刻銘により、弘安5年(1282)に香取社本地仏四体の内として、天長地久・当社繁昌・異国降伏・心願成就を祈念して造立、香取社に奉納と分かる。
 地蔵菩薩坐像懸仏(像高33・3p、鏡板径61・9p)は鏡板表面の刻銘によれば、延慶2年(1309)に香取社大禰宜大中臣実胤が亡父実政と海雲比丘尼らの追善供養のために造立・奉納されたものと分かる。
 薬師如来坐像懸仏(像高33・4p)は当初の鏡板が失われ、詳細は不明。
弘安5年に制作された4体の内2体は何らかの事情で失われ、後に以上の4体が一具として祀られるようになったものと推定される。
 香取神宮懸仏4躯:左から薬師如来坐像、釈迦如来坐像、地蔵菩薩坐像、十一面観音菩薩坐像

◆「広報かとり」平成23年1月15号掲載「香取資産Vol-057 金剛宝寺 神宮寺壊される」 より要約・転載
  ※「広報かとり」平成23年1月15号のバックナンバーはこちら(PDF)→p.9
 香取字宮中台(香取神宮西側の雨乞い塚付近)には、明治元年まで神宮寺・真言宗香取山金剛宝寺があった。現在は祖霊社がある。
江戸期資料では、神宮寺は観音堂(本堂)・三重塔・鐘楼・庫裡(方丈)・山門などを備え、観音堂には本尊十一面観音菩薩立像と眷属二八部衆、三重塔には薬師如来坐像と東照大権現の神牌が安置されると云う。鐘楼には至徳3年(1386)銘の梵鐘があったと云う。
明治元年11月からの廃仏毀釈によって、堂塔は破壊され、多くの仏像・仏具・経典が壊され、あるいは散逸したと伝える。
 金剛宝寺の仏像仏具などの一部は、香取新部の如来寺(現在は廃寺)に送られ、三重塔の九輪や梵鐘などの金物は、社役人によって売却されて市中に出回ったと云われる。
東京神田の古物商に売却された梵鐘は、藤沢羽鳥の住人によって買い求められ、明治5年羽鳥の御霊神社に奉納され現存する。
なお梵鐘銘は「奉懸 下総州香取太神宮寺大鐘一口 大旦那周防守宗廣 大工 秦景重 干時至徳三年 丙寅十月 日 敬白」と云う。
 また、本堂本尊十一面観音菩薩立像(重文)は、3mを超え、本堂破壊後もしばらく野ざらしになっていたと云う。暫く後に、さる篤志家がこれを譲り受け、荘厳寺(佐原イ)に寄進すると云う。
 現在、神宮寺跡には、十一面観音堂仏前・元禄13年(1700)銘を刻む手水鉢一盤が残る。
 鹿島金剛寳寺絵図:部分:「下総名勝図絵」宮負定雄、嘉永初年 と思われるも未確認。<2023/11/26画像入替>

◆「広報かとり」平成23年3月15号掲載「香取資産Vol-059 木造十一面観音立像 関東最大最古の十一面観音立像」 より要約・転載
  ※「広報かとり」平成23年3月15号のバックナンバーはこちら(PDF)→p.5
 荘厳寺には、関東最大最古といわれる香取神宮寺金剛宝寺十一面観音立像(重文)が残存する。
本像は像高3・25m。頭部・体躯をケヤキ材から彫り出した一木造。化仏は、十面すべてを失う。
元禄13年(1700)の修理銘がある。制作時期は、9世紀末から10世紀はじめころまでさかのぼると推定される。
 金剛宝寺十一面観音立像1     近剛宝寺十一面観音立像2

「香取神宮別当寺廃止の始末」明治維新神仏分離資料、伊藤泰蔵氏稿、明治45年

伊藤泰蔵:香取神宮禰宜で、神仏分離に関係する。

香取神宮別当寺は香取山金剛寶寺と号し、新義真言宗である。
配当高は3貫380文で、他に30石の朱印を有する。
明治元年金剛寶寺住持は神仏分離の公令を聞くに、速やかに復飾して、帰農することになり、30両が贈与される。
仏像仏具等は如来寺(新部村・新義真言宗)に混乱もなく送られる。
明治元年11月、金剛寶寺本堂・庫裏・三重塔等を破壊、ついで神宮境内の経堂・愛染堂を破壊する。
神宮本殿の仏像(金銅仏)、三重塔九輪、梵鐘(至徳4年<1387>の銘あり)等は社役人が処理・売却し当座の費用にする。

廃仏毀釈と香取神宮本地仏」明治維新神仏分離資料、八代国治氏稿、明治45年

所謂本地垂迹説が流布し、いかなる大社、どんな名社でも神宮寺が置かれ、神社は社僧の下におかれ支配に服する状態であった。
伊勢大神宮でさえも天覚寺(内宮)、常明寺(外宮)があった。

香取神宮においても、神仏分離の法令が出づると同時に、先ず神宮寺を破却し、神殿内にあった仏像や経巻は、社役人が手当たり次第、見つかり次第に社殿外に投げ出し、或は焼却し、或は売却し数百年来奉納せられし貴重品は一物も留めざるに至 る。
ところが先年観福寺(下総香取郡香西村牧野)から一大珍宝を発見する。
その什宝中に4体の金銅仏がある。高さ1尺23寸位、向背は円形にて径2尺位、厚さ67分で金銅製である。
 十一面観音、釈迦如来、地蔵菩薩の3体は背後に銘がある。薬師如来の1体は向背滅びて、木を以って補う。
 十一面観音の銘:香取大神宮本地四体内・十一面観世音菩薩、弘安5年
 釈迦如来の銘:香取大神宮本地四体内・釈迦牟尼如来、弘安5年
 地蔵菩薩の銘:敬白下総国香取大明神御宝前、建立金銅地蔵大菩薩・読誦般若心経万巻観音経千巻、延慶2年
 無銘の薬師如来も含めて、香取神宮の本地仏であったことは明白である。
  □ 釈迦如来の画像
※社役人等は一市人に売却し、一市人はこれを吹潰して他のものに鋳直すことを企てる。
佐原町有志加瀬庄次郎以下観福寺の檀家数十人が之を聞き、拠金して買い取り、さらに台座を作り、欠損を補修し、菩提寺に寄附したものという。この経緯及び寄附した市人の名は台座の下に記してある。
薬師如来の向背及び他三像の向背の欠損は既に吹潰しにかかったものであろう、また4体在るべき筈が3体しか現存せず1体は既に吹潰されたものであろう。
  *観福寺4体は本殿の懸仏と推定される。4体とも現存し、国宝(現在重文)となる。

下総香取社神仏分離の始末」明治維新神仏分離資料、鷲尾順敬、大正14年

1、江戸時代の状況

 古来本社殿の前に楼門があり、仁王像を安置、楼門を入り左側に神楽殿があり、その後方に愛染堂があり、愛染明王像を安置、正面を少し左に寄って拝殿があり、その奥に本社がある、本社後方左に経蔵があり、一切経が安置してあ る。
愛染堂は社僧の夏経を務めるところなり、経蔵には健保年中平常重が宋版の一切経を納めしが、経悉く散逸し今(文政11年)は数百巻ばかり残れり。

香取社の鳥居西90間に神宮寺大別当金剛寶寺があった。
金剛寶寺:総坪およそ539坪ほど、真言宗朱印2000石(20石?)
観音堂(本堂):建坪45坪5分6厘2毛、本尊十一面観音長1丈6尺脇士十二天を安置
三重塔:建坪18坪7分4厘8毛、本堂後、高8丈7尺8寸、本尊薬師如来、東照大権現の神牌を安置
鐘楼:9坪、至徳4(3)年の銘の大鐘を懸ける、本堂前にあり
門明キ:1丈5尺横9尺5寸、建坪2坪9分2毛
別に
神徳山新福寺:本社東南4丁にあり、曹洞宗、本尊観世音、大禰宜家の建立で菩提所である。
東光山惣持院:本社西3丁にあり、真言宗、本尊愛染明王、元弘4年銘の阿弥陀仏、文明9年などの銘の石塔数基がある。
末寺として大聖院、延寿院があったと云う。

江戸期には、大宮司と大別当の間は常に軋轢があり、度々幕府に訴訟すると云う。

*本尊十一面観音:藤原期の丈六仏。本堂破壊の後、本尊等野晒となっていたが、佐原北横宿大和屋・佐藤氏が譲り受け荘厳寺に寄進したという。現在は荘厳寺本堂裏の観音堂に安置され、昭和35年重文指定。解体修理で胎内から「元禄十三年口月、京仏師今井左近之を修理す」との修理銘を発見。頭部の化仏は廃仏棄釈の際 、引き抜かれ、天衣の一部、水瓶の蓮華等も失われている、台座と舟形光背は江戸期後補。

2、明治初年の状況

○明治の初め、尚古隊を組み専ら軍事調練をなしていたと云う大宮司香取保礼及び大禰宜香取国雄が任ぜられ、2人が主になって、神職以下を率い、仏像仏画堂塔を破壊する。
香取年表(明治7年):慶応4年・・・11月9日愛染堂ならびに金剛寶寺堂塔をコボツ。
○香取伊織の手記:
御内陣より金仏御取出之事、・・・大禰宜家の土蔵の中に入置き、観福寺世話人4人が買入れ、御寺へ納めたる、
三重塔、九輪唐金売り物にいたし、代金之事大宮司家手切。
○三重塔の九輪に綱を掛けて引き倒さんとしたけれども、倒れず、そこで半壊にして朽廃に任し、縁板は泥溝の修繕等に使用せられる。
社殿の紅殻塗は仏教の建築法なりと人夫を雇い、紅殻塗を洗い落とす、しかるに紅殻を落とした社殿などは湿気で腐朽し、神職らは大いに後悔をする。
今、宮中台というところに祖霊社が建てられているが、その地が金剛寶寺の跡である。


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