加  賀  卯  辰  山  観  音  院  三  重  塔

加賀卯辰山観音院三重塔

加賀卯辰山観音院三重塔

この三重塔の沿革については「金沢古蹟志」及び「加能郷土辞彙」に記載される。
要約すれば、
承應3年(1654)(前田利長によって)、浅野将監・石川茂平を奉行として建立される。
寶歴9年(1759)の大火で類焼する。
弘化3年(1846)綿津屋政右衛門らの有志により再建される。
明治の神仏分離の処置で観音院は廃寺となるも、三重塔は舊観音院の元地に残存する。
明治22年塔より出火し、燃え落ちる。
この三重塔については古地図:寛文7年(1667)金澤圖及び延寶年中(1673-81)金澤圖にその姿が描かれる。

寛文7年金澤圖

寛文7年金澤圖:観音院部分図:左図拡大図

入口に鳥居があり、中央には本堂・客殿、少し離れて三重塔、山王堂などと思われる伽藍が描かれる。

寛文7年金澤図2:観音院付近部分図

延寶年中金澤圖

延寶年中金澤圖:観音院部分図:左図拡大図

中央に本堂・客殿、手前に護摩堂など、奥手に三重塔・山王堂などと思われる堂塔が描かれる。

延宝年中金澤圖2:観音院付近部分図

夘辰山観音院想像図
ブログ:「崇禅寺 1.侠客綿津屋政右衛門」に観音院想像図がある。
作者など説明がないので、不明であるが、おそらく本ブログ主の作と思われる。
 夘辰山観音院想像図

※今後の課題
以下のように観音院については比較的多くの情報があるが、しかし、肝心の明治維新前の観音院の位置、そして三重塔の位置や三重塔遺構が残るのかどうかについては詳らかでない。
今後に残る課題であろう。

「金沢古蹟志」森田平次、昭和8〜9年
≪卯辰観音堂≫
別當をば長谷観音院と號し、真言宗なり。
延寶二年の由来書に左如く載せたり。
    御尋に就き申上候
一、當寺十一面観音は、行基菩薩の御作、大和國長谷観音の末木を以って作り成られ候故、當寺も長谷観音と申来たり候。本尊由来の縁起、安産の地所々替候儀も、開山祐慶代盗難の刻失申に付、委細存ぜず候。
當御地修理谷坂の上に移住の節、古肥前様(※前田利長であろう)より御祈祷仰せ付けらる。その後愛宕明王院卯辰山に越候刻、一所に相越候様にと、古肥前様より一紙の御書明王院迄なし下される。
慶長六年に御米拝領致し、卯辰山只今法住坊罷りあり候處に引越、観音堂・山王堂・その他造立仕處、亀鶴様(※)御参宮遊ばされ候。
然る處境内事の他狭く、御供の行粧調難し候間、何方にも居屋敷望次第相渡候様、浅野将監・石川茂平、仰付らる。即當山拝領致し、中納言様 (※利常であろう)の御前様(※)より、元和二年観音堂御建立遊ばされ、葵御紋の御幕五張・緞子の御幕二張・御簾五掛・幡十二流・華鬘十二流・天蓋・戸張、その他佛具御寄進遊ばされ所持仕り候事。
一、(略)
一、堂・客殿その他御建立遊ばされ候所、御代々破損修理仰せつけられ候事
      御尋に就き申上候。以上
        寅十二月十七日       長谷観音院(印)
         永原左京殿
         篠原織部
また同年七月八日の言上書に、當寺観音堂元和二年中納言様御前様より御建立遊ばされ、翌年客殿など中納言様より仰せつけらる。
三州志来因概覧附録にも、観音院の開山堂はその初小立野谷尻坂の上にあるを、慶長六年瑞竜公(※)祈祷處として、今の卯辰の山地を賜はり、観音堂並びに山王社再興なり。
その後天徳君(※)より観音堂荘厳を加へさせらる。然るに寶歴九年の火に盡く焦土となる。今の諸堂は皆その後の再建なりとぞ。
 ※前田利長:肥前守、権大納言、瑞龍院、慶長19年(1614)逝去
 ※前田利常:肥前守、権中納言、微妙院、万治元年(1658)逝去
 ※天徳院:徳川秀忠次女、珠姫、前田利常正室、元和8年(1622)逝去
 ※亀鶴姫:前田利常長女、森忠広正室、寛永7年(1630)逝去
 ※御前様:室あるいは夫人の意であろう

≪長谷観音来歴≫
延賢二年の由来書に、本尊十一面観音は行基菩薩之作、大和國長谷観音の末木を以って作られけるに依って、長谷観音と称す。本尊由来の縁起、安座の地所々替儀等、開山祐慶代盗難の刻紛失、委細知らず。とあり。
按ずるに、中村氏筆記に、前田源随老の伝説には、越中安居観音と同一体にて、往古盗賊安居観音を盗み来たり、卯辰山王の本地佛となしたり。この頃安居の住僧と卯辰山の坊主と争論に及びたるを、篠原出羽の裁判にて落着すとあり。
おもふに開山祐慶代盗難云々と載せたるは、右安居観音を盗み来たりし時のことならんか。但し安居観音を盗み来たり、卯辰山王の本地佛となしたりといふは過聞なるべし。共の實は石浦山王の本地観音をば借り請け、観音堂を造立せしもの也。その所謂は、今石浦神社に伝来せる、慶長十一年八月廿三日石浦七ヶ村氏子連判訴状に左の如く載せたり。
 はせの御観音は、昔よりこの石浦七村の守り佛と申すことは、國中歴然そのかくれ之なく。(中略)
この近年かのとのうしの年、河北郡卯辰山へ御観音御引なられ由、七村の氏子共承および驚き入り、慶長7年三月十一日に石浦村の佳人輿三兵衛・宗右衛門両使を以って(後略)

≪卯辰山観音院廢跡≫
三箇屋版六用集に、真言宗卯辰山観音院とあり。當寺開基は祐慶にて、愛宕別当明王院の二代也。
三壺記に云ふ。愛宕社は昔佐久間玄蕃尾山在城の頃より存在せし社にて、利長卿甚だ信仰し給ふ。別当明王院二代の住職退院の時、師匠の坊なればとて愛宕より観音山に隠居し、即ち観音堂を建立して此に居す。往古は愛宕の山也と云ふとあり。
按ずるに、愛宕明王院は、昔愛宕寺と號し、小立野本多安房守元邸地にありしを、慶長六年卯辰山へ移転すと、延寶二年の由来書に載せたり。されば慶長十一年の石浦氏子訴状に、不動坊と云ふ僧来たりて、かの観音をかり行き、木新保村に安置し、後小立野出羽殿町に安置すとある不動坊は、即ち祐慶にて、この時かの観音をば愛宕社に安置せしを、慶長六年に愛宕社を卯辰山へ移されしに依りて、観音像も共に卯辰山へ移し、卯辰愛宕社に安置せし處、祐慶愛宕寺を退院して、今云ふ観音山に隠居し、観音堂及び隠居所を建立して、観音院と號し一寺となしたるものなり。故に愛宕山と観音山と別山に成りたりといへるなるべし。
延寶二年の由来書に、愛宕明王院卯辰山に越したる刻に、一所に相越すようにと、古肥前様一紙の御書明王院迄成し下され、慶長六年に米拝領、卯辰山法住坊罷在地へ引越すとある文意にても知られけり。
 さて舊藩中は祈祷所なるに依りて、現米四十石寄付ありて、堂宇修繕方等都て藩より命ぜられしかど、明治元年神佛混淆御廃止に付き本尊十一面長谷観音以下、佛像・仏器悉く坂下なる醫王院へ移し、別當観音院住職は復飾して長谷大膳と改称し、豊國神社の神官と成り、観音院の寺號を廢止せられたり。

≪鐘楼堂跡≫
(省略)

≪山門跡≫
(省略)

≪三重塔跡≫
三州志来因概覧附録観音院の條に云ふ。
承應三年(1654)に浅野将監・石川茂平を奉行として三重塔造立也。然るに寶歴二年(1752)の由来書にも、塔は承應三年中納言様が御建立遊ばされるとあれど、同年卯月の言上書には左の如く記載す。
      就御尋申上候
   一、本 堂
   一、護摩堂
   一、山王堂
   一、三重塔
   一、客 殿
   一、鳥 居
   右元和二年(1616)利常様御建立仰付られ候。 以上。
         寅卯月十四日          長谷観音院
           寶  幢  寺
右塔、寶歴九年(1759)四月の火災に罹り、稍々久しく中絶せし處、弘化三年(1846)有志を募り再建せり。
然るに明治維新後観音堂も廢し、明治十七年社地移転の許可を請け、同十九年十月豊國神社の社殿をも殿町へ移転せし後は、右塔のみ舊社地に残り、追々大破に及びしを、有志を募り修理を加えしかど、同二十二年三月五日塔中より燃出で、悉く焼亡す。不要物に属すといへども、舊社地の遺物實に遺憾といふべし。

≪観音坂≫
この坂は卯辰観音院の門前なる坂道也。(後略)

≪観音坂兩刹≫
真言宗にて愛染院・醫王院と號す。貞享二年の観音院由来書に、當寺地内愛染院は、慶安に年観音院祐譽取立、醫王院
は寛永九年観音院祐雄建立。とありて、元は観音院の支院なりといへり。
按ずるに、兩刹の中にも愛染院は、石浦神社に伝来する慶長十一年石浦七村氏子連判状に(見えるように・・中略)不動坊・愛染坊・法住坊などといへる衆徒とも居て、石浦の長谷観音をこの地へ移せしもの也。(中略)その後、後絶えたりけん。依りて(愛染坊は)慶安二年に再興して、愛染院と称せし(と推測する。)
また醫王院は五佛と呼べり。扨明治二年神佛混淆御廢止に付、卯辰山王の本地観音院の本尊十一面観音の佛像をはじめ、佛体佛器悉く醫王院へ移したり。故にこの時観音院の號を廢止せらるるといへども、本地観音の佛像等悉く醫王院へ移せしゆゑ、今は醫王院は観音院にひとしといふべし。

≪豊國神社舊社地≫
當社は、舊藩中は卯辰山山王と称し、俗に卯辰の観音と呼べり。
その實は石浦山王と同神にて、その本地佛十一面長谷観音をば、小立野尻谷坂町邊に安置し、金澤城内の産土神となしけるを、慶長六年に卯辰山へ移し、山王社■及び観音堂をば藩侯より造営ありて産土神とす。
さてそ頃にや、豊國の神像を山王社の相殿に合祀せられしかど、(中略)徳川家の聞こえを憚り、隠密の事と成しおりしを、明治二年神仏混淆御廢止の際に乗じ、當社祭神の情實をば神祇省へ具状して、豊太閤の神像を主神とし、更に豊國神社と號し、五年郷社に列せられ、(神殿拝殿を新築し)社前の坂路も付け替えたり。(明治十九年氏子の地・殿町に移転。)

「加能郷土辞彙」日置謙、北国新聞社、1973

≪観音院≫
(1)沿革:
東観音山に在って、山號を卯辰山と號し、真言宗の所属で、卯辰の観音院ともいわれた。今は同地の醫王院に合併している。
本尊観世音は、もと石浦山王社の本地佛であったのを、天正10年愛宕明王院の祐慶が借りだして、小立野出羽町に奉祀してゐた。諸書に尻谷坂の上と記するものもこの所である。
次いで慶長6年前田利長が、愛宕明王院を卯辰山の一角に移らしめた時、かの観世音も共に移され、明王院の隣地(後の法住坊の地)に堂宇を建てていたが、11年石浦村民の訴えによって之を変換し、新像を安置した。
然るに18年利常の女鶴亀姫の宮参を行った際、境内狭小の為不便が多かったので、後の観音山の地を請い受け、元和3年利常夫人によって新たに堂宇を起され、利常も亦客殿庫裏を寄進した。是が卯辰山観音院の草創である。
是等の建築は寶歴9年の災に罹り、後再建されてのであるが、弘化の頃大聖寺の人奥村永世はその著藩國見聞録に観音院の嘱目を「本堂額圓通殿。前に舞台あり云々。本堂側市姫宮。山門に仁王安んず額に普門殿。一の鳥居、額に長谷山。二の鳥居額大非閣」きしてゐる。観音院に毎年行われた能は最も有名なものであった。
(2)観音院の塔:
卯辰山観音院境内にあった三重塔は、越登賀三州志に承應3年(1654)浅野将監・石川茂平を奉行として建立せしめたとある。
それを寶歴2年長谷観音院から寶幢寺に宛てた届出書に、元和2年前田利常の建立としてゐるのは非であろう。
この塔は寶歴9年の大火に焼けたが、弘化3年綿津屋政右衛門(※)等の有志又之を建立し、明治維新後観音堂の廢せられた後も尚存したが、22年3月5日自焼した。
 ※綿津屋政右衛門:享和3年(1803)〜慶応元年(1865)
越中の酒造兼農家の生まれ。卯辰茶屋町の、綿津屋忠蔵の婿養子となる。
弘化3年(1846)観音山に三重塔を再建。安政5年の「泣き一揆」で処刑された7名の慰霊のため、墓と七体の地蔵を建立した。
この寺蔵はのち寿経寺に寄進され、七稲地蔵と呼ばれている。

≪卯辰山山王≫
観音院の本地堂傍に在った小祠で、實は豊臣秀吉を祀ったものであるといふ。
明治元年神佛混淆禁止の事あった後、社號を豊國神社と號して豊臣秀吉を主神とし、之を舊観音院の本堂に移し、後19年社殿を殿町に建てて遷座せしめ、40年また卯辰神社を合併して卯辰山の地に移した。


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