大  和  松  尾  寺  三  重  塔

大和松尾寺三重塔

松尾寺三重塔

大和名所圖會 寛政3年(1791)刊より:

大和名所圖會・松尾寺三重塔:左図拡大図

「大和松尾寺の歴史と文化」松岡秀道、1977 より
・松尾寺三重塔:
 明治16年に古社寺保存資金50円を与えられ、明治21年までに再建されたとされるが、鬼瓦に正徳3年(1713)の銘もあり、旧材も一部に使用されていて、全くの新造ではないと思われる。
軸部は基本的に和様、斗栱は二手先、板小天井、板支輪を具え、隅にのみ尾垂木を用い、拳鼻・実肘木・小端には絵様がつく。
中備は中央間板蟇股(但し初重のみ)で、その上の通肘木上に双斗をならべ、両脇間には間斗束を入れる。(2・3重は各間間斗束)
初重の縁は擬宝珠勾欄、四方木階には登勾欄、2・3重には跳勾欄を廻らす。
初重内部は四天柱を立て、仏壇を設置、内陣天井は細かい格天井、外陣には荒い格天井を張る。
絵様などから判断すると、旧形式が踏襲されているとしても、その形式は正徳(瓦の銘)を溯るものではない。

松尾寺三重塔修理保存費として明治16年10月金50円が交付。
このことの時代背景には、大和法隆寺の修理保存の論が勃興し、「古社寺宝物什器保存方」が国是となり、東大寺大仏殿回廊で宝物博覧会が開催されるというような背景があり、明治13年には明治政府が古社寺保存費の制度を定める。明治15年には五條榮山寺八角円堂の修理が補助されるに至る。
かくして、松尾寺三重塔は明治21年に大修理が終る。
※鬼瓦銘に正徳3年の銘があり、旧材も一部使用という事実、あるいは当時三重塔も現存していたということなどから、三重塔は新造ではなく、大修理が行われたということであろう。(つまり、明治21年に再建ということではなく、大修理と云うことであろう。)
※明治5年の「調書」(下に掲載)では、三重塔の存在が知られる。

「明治前期社寺行政における「古社寺建造物」概念の形成過程に関する研究」山崎幹泰、早稲田大学リポジトリ、2003
この論文の中に、「『大和刻四百年前古社寺調』社寺建造物・建立年一覧」と云う一覧表がある。
この表中に次の記載がある。
 ・松尾寺 本堂 養老2年創建、明治16年5月受付、備考:三重宝塔の記載があったが再建中に付き同6月取消 とある。
以上から推察すれば、松尾寺三重塔は古建築として調査・受付されたが、修理費用助成によって大修理に取り掛かる(再建)と云う事実があり、古建築の受付を取り消されたものと解される。このことからも、明治16年以降に松尾寺三重塔は修理(再建)中であったことが分かる。

「日本の塔総観」:
明治21年再建。塔は承和5年(838)創建で中世に廃絶、慶安2年(1649)後水尾天皇が再興、老朽化のため明治になって建て直したものと伝える。本瓦葺、高さは約15m、一辺3.37m。
2001/02/22撮影:
 大和松尾寺三重塔1     大和松尾寺三重塔2     大和松尾寺三重塔3
 大和松尾寺三重塔4     大和松尾寺三重塔5     大和松尾寺三重塔6

松尾寺概要

「大和松尾寺の歴史と文化」松岡秀道、1977 より
 近世、松尾寺は興福寺一乗院門跡の支配であり、加えて、松尾寺は修験道正大先達であり、法頭醍醐三宝院門跡にも属した。
明治の神仏分離で、一乗院・三宝院の両門跡はいち早く還俗し、ここに松尾寺は真言宗無本寺(現在は松尾山真言宗大本山と称する)となる。
明治4年上地令、明治5年住持福寿院秀賛、奈良県に調書(上地令に関する)を提出。     ※興福寺(明治の神仏分離の項を参照)

 「真言宗無本寺法流新儀古義兼
    大峯当山正大先達之随一修験袈裟筋之長
               補陀落山松尾寺  福寿院秀賛
  一、本堂(7面四面瓦葺、御拝付) 一、阿弥陀堂 一、役行者堂 一、三重塔(2間四方瓦葺) 一、鐘楼堂 一、惣門
   福寿院
  一、門  一、塀重門 一、客殿 一、玄関 一、庫裏 一、護摩堂 一、廊下 一、土蔵(2棟) 一、滅罪檀家無之、但、一派引導執行候
   塔中 同宗 岩本坊
  一、庫裏 一、罪檀家無之  以上」
中世松尾寺には48の坊舎があったとされるも、近世には福寿院と10坊を数えるという。延享3年(1746)では1院10坊、内4坊無住。
明治維新後では、福寿院と岩本坊1坊の存在が知られるが、岩本坊も明治5年末には廃絶と云われる。

 「乍恐口上書
  弊寺境内に往古より松尾社と称し候鎮守社有之候処、神仏混淆諸御改正御布令に付、境内山中に十間四方社地と定、
  区分に鎮座仕度段、・・・(以下略)・・・・」云々とあり、
明治5年以降、鎮守松尾社の1社は本堂西方の山中に遷され、他の2社は山麓の山田村杵築神社に遷されると云う。
   (山田杵築神社に遷座というより、この時杵築神社が創建されたと思われる。神社祭礼には今も松尾寺住職が関与すると云う。)
2001/02/22撮影:
 大和松尾寺本堂1     大和松尾寺本堂2:本堂(重文)、本堂(重要文化財) 建武4年・延元2年(1337)再建。
2020/07/28撮影:
 松尾寺三重塔11     松尾寺三重塔12     松尾寺三重塔13     松尾寺三重塔14     松尾寺三重塔15
 松尾寺三重塔16     松尾寺三重塔17     松尾寺三重塔18     松尾寺三重塔19     松尾寺三重塔20
 松尾寺三重塔21     松尾寺三重塔22     松尾寺三重塔23     松尾寺三重塔24     松尾寺三重塔25
 松尾寺三重塔26     松尾寺三重塔27     松尾寺三重塔28     松尾寺三重塔29
 大和松尾寺本堂11     大和松尾寺本堂12」本堂は建治3年(1277)に焼失、建武4年(1337)に再建されたという。
 大和松尾寺福壽院     大和松尾寺福壽院など
 大和松尾寺石造十三重塔
十三重塔については、松尾寺解説文では次のようにある。
舎人親王の毛骨を納祀したものと伝わる。
初層の軸部にウン(阿閦)、タラク(宝生)、キリク(阿弥陀)、アク(不空成就)の金剛界4仏の梵字を刻む。
相輪部は伏鉢、請花・九輪・水煙を一石から彫成、南都の十三重塔中でも屈指のものである。総高は3.42m。


2009/03/08作成:2020/09/25更新:ホームページ日本の塔婆