尾 張 祐 福 寺 多 宝 塔

尾張祐福寺多宝塔

尾張名所図会に見る多宝塔

巻之5より:記事:
「 浄土宗。京都禅林寺・光明寺両末。」
宝塔に関する記事はなし。

尾張祐福寺:左図拡大図

多宝塔残欠:明治35年1月28火災焼失。

尾張祐福寺多宝塔残欠:左図拡大図

明治34年に旧国宝指定を受けるが、その直後の翌35年焼失。
現在は焼け残り材で建立された塔堂がある。

祐福寺多宝塔構造材

 

残された方3間堂軸部(多宝塔初層軸部)から室町中期以前の建築と推定される。
頭貫の鼻は繰形とし、その上に台輪を載せる。中央間は桟唐戸とする。
確かに構造材を観察すると、台輪・頭貫以下は古い部材のようであり、完全に唐様を用いる。台輪の上は後世のものと思われる。
唐様を多用する尾張蜜蔵院多宝塔、三河東観音院多宝塔の台輪・頭貫の木鼻と酷似する。
そのほかは中央間の桟唐戸が古いもの、もしくは古式を受け継いでいると思われる。
 

2003/8/20撮影:多宝塔残欠1:下図拡大図

多宝塔残欠2:下図拡大図

2003/6/24追加:

多宝塔残欠:「X」氏ご提供、1990年?撮影:下図拡大図

多宝塔残欠細部 :「X」氏ご提供、1997年?撮影 :
下図拡大図

多宝塔堂内 :「X」氏ご提供、1997年?撮影 :十一面観音立像・左は弘法大師と思われるが、これは西山浄土宗というのと矛盾する。

2003/8/20撮影:
以前と比べ樹木が茂り、幢が多く建てられ、堂の撮影がし難くなっていると思われる。
 多宝塔塔堂正面   多宝塔塔堂北面
中央間の桟唐戸は古いものの可能性があると思われる。
 多宝塔桟唐戸   多宝塔扁額

2008/10/20追加:
「鎌倉室町兩時代多寳塔の格好」土屋 純一(「建築雑誌」Vol.35、大正10年<1921>所収)より

この論文中の第2編「現存多宝塔の批判」の章があり、ここに今は失われている尾張福寿院及び今は上重を失う尾張祐福寺多宝塔の「批判」(スタイルの言及)がある。
この両塔の姿を偲ぶ一つの手段として、「現存多宝塔の批判」の章から両塔に関する「批判」の全文を掲載する。
 ※福寿院多宝塔は昭和8年1月30日火災焼失。
 ※祐福寺多宝塔は明治35年火災に遭い、上重は失う。
  明治34年に旧国宝指定を受け、恐らく上重喪失前の寸法は記録されていたものと思われる。
なお、当論文で取上げられている多宝塔は以下である。
鎌倉期大型塔:近江石山寺、高野山金剛三昧院、備後浄土寺、紀伊浄妙寺、丹波大福光寺、山城金胎寺、美濃日龍峯寺
鎌倉期小形塔:和泉慈眼院
室町期大型塔:丹後智恩寺、和泉法道寺、尾張祐福字、三河池鯉鮒大明神、安芸厳島、三河大樹寺、尾張萬徳寺、尾張性海寺、尾張荒子観音寺
室町期小形塔:大和吉田寺、尾張福壽院、山城寳塔寺
室町期大塔:根来大傅法院

◎両塔の寸法:
単位:上段尺 全高 下層大サ 下層軒幅 下層軒高 上層大サ 上層軒幅 上層軒高 相輪全長
福寿院 39.50
(11.97m)
9.95
(3.02m)
18.19
(5.51m)
9.10
(2.76m)
5.10
(1.55m)
14.70
(4.45m)
17.75
(5.38m)
15.00
(4.55m)
祐福寺 53.75
(16.29m)
16.45
(4.98m)
28.70
(8.70m)
12.50
(3.79m)
7.50
(2.27m)
22.60
(6.85m)
26.00
(7.88m)
18.40
(5.58m)

(以下引用文)      祐 福 寺
 祐福寺多寳塔は火災に遭ひて上層残存せざるものなるが、下層大さは十六尺餘、又大類に属す。
全高に對する下層大さの割合は(第五表參照・・・省略)同時代の間にありて例外的最大率なり、
廻縁の下層大さに對する比は最小率を示し、全高に封する下層軒幅の割合は法道寺に次ぎて頗大に、之れを下層大さに對比すれは同時代を辿じて殼小率を示せり。即ち下層甚大に過ぎ軒出淺きものたるを知る。
下層軒高の全高に對する割合は平均率以下に低く、亀腹は下層大さに比して小に、上層大さを下層大さに對比すれば同時代中最小率を示せり。
上層軒幅の全高に對する割合は同類平均率に近似し、之れを下層軒幅に對比すれば殆んど全大形塔平均率に一致し、上層大さに封比すれは平均牢に近似して少しく大なり。即ち上層甚小なる形にして軒出は稍深く、為に上層軒幅としては全高に對して稍適度となりたるものなり。
上層軒高の全高に對する割合は僅に平均率以下にあり、上下層屋蓋間隔として全高に対比すれば平均率以上に出でゞ高し。即ち上層屋蓋に比して下層屋蓋の更に低位にあるを知るべし。
相輪全長の全高に對する割合は平均率に近く、之れを上層軒幅に封比すれば平均率以上に出で、軒以上の高をとりて軒幅に對比すれば平均率に一致せるを見る。即ち上層屋蓋勾配稍緩なるを知るべし。
尚之れを判別標準に對照するに(第九表参照・・・省略)下層大さ、下層軒幅、上層軒幅、上層軒高、相輪全長とも室町時代たるを疑ふの餘地なし。
 要するに此塔は下層大さ甚大にして軒出浅しと雖、尚下層屋蓋の過大なる形をなし、上層は之と趣を異にし、小にして軒出深く、頗る受化に
富める形といふぺきも、同時に各部稍統一を欠き其権衡叉宜しきを得たりといふ能はず。T層の鈍重により辛ふじて安定を得たるものといふべ
きのみ。

祐福寺概要

祐福寺は嘉暦元年(1326)の開創で、西山浄土宗禅林寺派。室町期には足利将軍家の帰依を受ける。
江戸期は40石の寺領を持つ。現在の堂宇は宝暦3年(1753)以降の建築という。
現在も広大な寺域を有し、阿弥陀堂、毘沙門堂、護摩堂、開山堂、山門(鐘楼門)、勅使門、方丈、庫裏、宝蔵などを有する。
特に阿弥陀堂・方丈・庫裏などは浄土宗寺院の本山級の堂宇と遜色ない大堂である。
なお北方の富士浅間神社はかって祐福寺奥の院で、社殿のほか大日・薬師・不動堂などがあったというが、
現状は戦前の国策神社の典型になり下がり、行者堂(実態は行者窟)のほか古を偲ぶものは全く無い。

土塀:総門より勅使門に至る間。天保14年(1843)の構築という。塔頭大悟院、受徳院、法性院、考甘院と東境の来願寺及び明知の浄久寺の協力があったという。
本堂 :間口十間半、奥行八間半の大堂である。
勅使門 :大永8年(1528)建立?、天保15年(1844)修理。

現状、塔頭は門前に大悟寺、法性寺、境内東に受徳院の3院を残す。


2006年以前作成:2008/10/20更新:ホームページ日本の塔婆