信 濃 諏 訪 大 明 神 ・ 神 宮 寺(上宮神宮寺・下宮神宮寺)

信濃諏訪大明神・上社神宮寺五重塔・下社神宮寺三重塔


■   ■   諏訪大明神・上社神宮寺(上宮神宮寺)   ■   ■


諏訪大明神・上社神宮寺の姿

木曽路名所図会文化2年(1805)刊に見る上社神宮寺

上諏訪神宮寺全図:下図拡大図

甲州道中分間延絵図<寛政年中(1789-1801)編修>第9巻に見る上諏訪社

上諏訪社:下図拡大図

上諏訪社拡大図:下図拡大図

五重塔右横(東)に普賢堂、上(東北)に鐘楼、右横に弘法大師があった。

諏訪社上宮神宮寺は上宮の東にあった。
神宮寺は弘法大師創建と伝え、普賢神変山(真言宗)と号する。
神宮寺奥殿は普賢堂であり、この堂は坂上田村麻呂の開創とされ、今の地には空海が移したと伝える。
 (正応5年<1292>年記の普賢堂棟札写が現存し、本尊普賢菩薩像は四賀の仏法紹隆寺に山門などとともに移されたという)
普賢堂北に鐘楼があり、鐘には永仁5年(1297)の銘を有したと云う。
五重塔は普賢堂西にあった。塔は知久敦信の建立になり、現存する九輪の破片には延慶元年(1308)の銘がある。
享保18年(1733)には神宮寺、五重塔、普賢堂、神洞院、如法院などがあり、本宮境内には如法堂、蓮池院などの存在があったとされる。
また本宮内陣にあった「鉄塔」は現在温泉寺(信濃諏訪温泉寺)に移され、温泉寺には鉄塔安置のために昭和54年多宝塔が建立される。

明治元年、神仏分離で神宮寺堂塔は取り壊される。
なお五重塔跡や鐘楼跡はほぼ全壊するも、跡地の特定は可能。
 (現状、神宮寺跡は公園であると共にマレットゴルフ場になる。 特に普賢堂跡などは打出やゴール地点でもあり、踏み荒らされている。
  宅地化などの開発からは免れてはいるが、遺跡に対する冒涜であろう。)
なお
五重塔鉄製伏鉢残欠及び鉄製風鐸が現存する。(諏訪市教育委員会仮託、諏訪市博物館展示)・・・下に掲載
五重塔模型(10/1スケール)は上社参集殿のガラスケースに収められる。・・・下に掲載
五重塔本尊五智如来は現存する。(四賀万福寺)・・・下に掲載

上宮4ヶ寺:大坊(普賢神変山神宮寺)、上ノ坊(如法院)、下ノ坊(蓮池院)、法華寺をいい、その内大坊は8ヶ院坊を支配した。
○法華寺(上図の五重塔の左<西>に<法花寺>伽藍があり)
上宮の別当の一つであった。上宮の西南に位置する。鷲峰山と号する。創建は不明で、はじめ天台宗と云う。
寛元・宝治年中(1243-49)頃臨済宗妙心寺派に改宗。本尊釈迦如来。江戸期には上宮千石のうちの20数石を受領。
神宮寺五重塔、釈迦堂、薬師堂などの管理に与る。
明治元年神仏分離で廃寺となる。大正年間に旧地に再興される。
○如法院(上図の法花寺上<北>にあり)
別当の一つで、秘密山と号し、真言宗であった。上之坊と呼ばれ上宮の祭事に奉仕する。
明治元年神仏分離で廃寺。本尊大日如来・釈迦如来などは乙事の法隆寺に移されたと云う。
 ※乙事法隆寺は上社神宮寺の末寺、承応元年(1652)創建される。十一面観音堂および遷座した仏像は現存する。
◇2010/12/10追加:「諏訪大社」信濃毎日新聞社編、1980 より
○大坊:
大坊は8ヶ院坊(神洞院・蓮乗坊・宝蔵坊・執行坊・松林坊・金仙坊・善勝坊・玉蔵坊)を支配する。これらの院坊は大坊付近の道路沿に並ぶ。
なお、上社領1000石のうち、神宮寺(大坊)は20石、神洞院は12石、蓮乗坊以下の7坊は8石ずつの配分を受ける。
また、如法院は22石、蓮池院は15石、法華寺は22石の配分であった。

2010/12/10追加:
○「諏訪大社」信濃毎日新聞社編、1980 より
古代・8世紀には日本各国各郡に佛教文化が急速にもたらされたが、この諏訪地方には古代寺院の寺塔を飾った布目瓦が一片も出土しない。これは古代、諏訪の神威が強く佛教が入り込む余地が無かったということであろうか。
承久の変(1221)に於いて、上社大祝教信は鎌倉からの要請で出陣し、戦功を上げる。
その後、教信は諏訪盛重と改名し、幕府に出仕し、幕府で重責を担う。盛重はまた出家し蓮仏入道と名乗る。
これは諏訪の大祝が仏道に入った初めての出来事であり、以降大祝は代々佛教信者であり続けた。つまり中世、諏訪に佛教が怒涛のように入り込む 嚆矢となった。
中世には上社・下社に神宮寺が作られ、堂塔が整備される。以下はそれを物語るものである。
上社神宮寺の確実な史実として、知久氏(下伊那神ノ峰城主)が堂塔を寄進したことが知られる。
普賢堂棟札:本願 左衛門尉行性入道 正応5年(1292)、梵鐘銘:永仁5年(1297) 檀那知久左衛門入道行性、
五重塔棟札:延慶元年(1308) 神峰城主知久大和守左衛門入道行性 とあると云う。

2005/08/06追加:
「大日本沿海輿地全図」 より
 伊能忠敬測量・製作、文政4年(1821)に幕府上呈。
  「大日本沿海輿地全図:神宮寺村附近:神宮寺村 上諏訪宮および神宮寺五重塔が見える。

2005/08/06追加:
上 社 古 図

上社古図:
伝天正年中、権祝家矢島氏所蔵、江戸初期の上社景観とされる。

上宮神宮寺:左図拡大図

上社古図(全体)

2009/07/21追加:
伝天正ボロボロ絵図:「諏訪市史 中」 より転載

伝天正ボロボロ絵図:神宮寺区蔵

◎「日本塔総鑑」:五重塔は延宝元年(1673)建立、一辺4.85m、高さ49m。
 →以上のように云うも、その根拠は不明。

2005/08/06追加:
諏訪社遊楽図屏風

諏訪社遊楽図屏風:六曲一双、紙本金雲著色
 江戸前期の作と推定。図は111×50〜45cm。個人蔵。

諏訪社遊楽図屏風(上社)
遊楽図屏風神宮寺
遊楽図屏風五重塔:左図拡大図
遊楽図屏風普賢堂
遊楽図屏風蓮池院

五重塔:延慶元年(1308)、知久敦信の建立と伝える。
高さ16間1尺4寸5分(29.53m)とされる。
総高は21間(38m)と云う。
本尊五智如来座像は四賀万福寺に遷される。


2012/06/06追加:「Y」氏ご提供
○絵葉書:官幣大社諏訪上社神園
 おそらく西側から普賢堂五重塔跡を撮影したものと思われるが、巨木の奥の右半分に広がる平坦地が普賢堂跡であり、さらにその奥の丘の裾付近が五重塔跡であろうかと推定される。官幣大社の文言から戦前のものであることは確かであろう。
 官幣大社諏訪上社神園:(普賢堂五重塔ノ古跡)

2005/08/06追加:
上社五重塔復元模型・露盤残欠・風鐸・塔本尊五智如来・上社五重塔跡

2005/07/23撮影:

上社五重塔復元模型

上宮五重塔模型1
      :上図拡大図
上宮五重塔模型2
上宮五重塔模型3
上宮五重塔模型4
諏訪市博物館展示

 

上社五重塔露盤残欠
 

五重塔露盤残欠1
五重塔露盤残欠2
五重塔露盤残欠3
       :上図拡大図

形状から伏鉢の残欠と推定される。
大きさは37.5cm×25cm、厚さ3cm。
銘は「延慶元年(1308」)、
鋳物師は「甲斐国志太郷」住とされる。

 


上社五重塔風鐸

五重塔風鐸1
      :上図拡大図
五重塔風鐸2

風鈴見取図
○「明治維新神仏分離資料」より
上宮五重塔風鈴一個→湖南村岩本伝所蔵
と伝える。
高さ11cm、裾巾13cmで、厚さ2o。
舌は長さ10cm、4本の棘を持つ。
(風鐸2個→湖南蓼宮社に伝わるとも云う)

2023/01/07追加:
○「刹の柱 信濃の仏塔探訪」長谷川周、信濃毎日新聞社、2011 より
上社五重塔模型
模型の総高は3m、建立は昭和43年
高さは21間(38m)<知久氏寄進時の記録>【あるいは高さ27間(49m)<「明治維新 神仏分離史料」p450による>ともいう】
 上社五重塔模型 :上に掲載の五重塔と同じもの、諏訪市博物館展示

2010/12/10追加:
○「諏訪大社」信濃毎日新聞社編、1980 より
 ◇上諏訪神宮寺五重塔実測図
  慶応4年上社五重塔図面:下図拡大図、守矢守氏蔵
ただしこの図は原図を黒白反転させたうえで、標記図書に掲載される。
  

2023/02/28加筆・修正
○「小塔巡拝の記(六)」吉田実(「史迹と美術、60(6)」1990.07 所収) より
 補遺:「諏訪大社上社神宮寺五重塔一〇分一模型」

1)明治元年12月、五重塔取り壊しにあたり、法華寺仙厳玄寿が地元宮大工守矢松蔵(25歳)に塔を実測させた30分1図面を作成させる。
この図面は現在掛軸に表装して諏訪中州守矢家に保存されている。本図は正式技法により精密に描かれる。
なお、この図面では心柱は二重天井裏から立っている。
 <これは本格的五重塔の遺構のない鎌倉期五重塔の貴重な記録とされる。>
 <また、このことは重要で、「下記の8)」の記述に関係する。>

2)信濃毎日新聞社発行の「諏訪大社」に所載の黒字白抜きの図は、印刷効果を上げるため白黒反転させたもので、この状態の図面は実在しない。 →上に掲載している信濃毎日新聞社編「諏訪大社」の図である。

3)掛軸原図は121cm×48.5cm。
記入された讃文は次の通りである。
 (讃文は長文であるので省略)
冒頭は
 抑由来記永仁二甲牛年五重塔造立 施主知久佐右衛門尉行長入道行将居士・・・
で始まり、最後h
 當郷之住人守矢氏工師某三十分一之圖留是置云々 慶長四戌辰天霜月日
                 ・・・法華禪寺仙厳玄寿謹誌
で終わる。

4)喬木村歴史民俗資料館にはもう一面の塔図があり、これも軸装されている。
讃文は
 上諏訪五重塔
 御由来永仁二甲牛年五重塔造立施主 知久左衛門尉入道行将
 花園院御中延慶元戊申年十月日 九輪甲斐國志郷住人西道鋳之
 慶長四戊辰年十一月従朝廷被御一新仰出今般取除相成申候
                       別當元法華禪寺 北條大学写之
とある。
これは、この五重塔を奉建した知久左衛門尉の子孫が喬木村に在住しており、祖先の偉業も空しく取り壊されたので、北條大学が守矢松蔵作図の五重塔図を透かしなぞった図を作成し、子孫に贈ったことを示している。
それ故、建築には素人の筆であり、また粗略な筆使いもあり、少々資料的価値は劣る。

5)諏訪市史と喬木村誌には共に
「延慶元戊辰年八月十二日知久神峯城主知久大和守左衛門入道行性建立九輪甲州志田郡西道鋳之」の棟札写しがあると記すが、この棟札の真偽を確かめたところ、結論は前執筆者の誤認ということになった。

6)上記2面の塔図面の他に、もう一面塔図面が存在するようである。
大正年中に矢守磯八(松蔵改名)は、上諏訪の詩人雪山に塔図面を貸すも、なかなか返却してもらえず、子息が掛け合って返却してもらう。この時図面は大分損傷していたという。これ以来矢守家では図面は一切他所には出さなかったという。
一方、3年を要して昭和43年の五重塔1/10復元模型が法華寺本堂奥の部屋で完成するまでの間、このような模型が製作されていることは地元でも矢守家でも全く知らず、完成した後法華寺に模型を見に行ったが、何を資料にして制作したのは非常に奇異に思ったという。
 この模型は地元出身の在京である新村徳重が四賀上桑原大工北原佐吉に制作させ諏訪明神に奉納したもので、資料は地紙世寒天屋今井野菊の手元にあった図面によったと云われているが、矢守磯八から原図が借りだされている間に写し取られたものと想像される。
 この資料は現在、茅野市神長官文書の中に混ざって残っているものと思われる。

7)現在上社本宮前に諏訪市博物館が建設中、ここには矢守家蔵五重塔原図の鮮明な写真が展示される予定。

8)大社構内に参集殿が造営され、宝物館も改修され五重塔模型は参集殿の大きなガラスケースの中に移されている。
この模型では心柱は初重まで通っている。

9)五重塔跡は土砂の堆積で地面は高くなっているが、その土砂の下に塔礎石が残るのか運び去られたのか、聞いてみたが不詳の答ばかりであった。

10)図面の建地割から測りだした法量は次のとおりである。
 塔 総高:9丈7尺4寸5分(29.53m)
 内相輪高:2丈4尺(7.27m)
 (以下、何れも芯-芯間法量、1支5寸、各重3支落)
 初  重:一辺1丈6尺・32支、中間6尺・12支、脇間5尺・10支
 二  重:一辺1丈4尺5寸・29支、中間5尺5寸・11支、脇間4尺5寸・9支
 三  重:一辺1丈3尺・26支、中間5尺・10支、脇間4尺・8支
 四  重:一辺1丈1尺5寸・23支、中間4尺5寸・9支、脇間3尺5寸・7支
 五  重:一辺1丈・20支、中間4尺・8支、脇間3尺・6支
遺構のほぼない鎌倉期五重塔の姿を見事に写し取った矢守松蔵の立面図は貴重な資料である。
11)法華寺仙厳玄寿は徒弟の祖関を北條大学と改名させ、住職代務に任ずるが、大学は、明治7年帰農する。従って塔図面を写したのはその後のことになる。

2023/01/27追加;
○セピア色の記憶 諏訪大社上社・神宮寺の記憶 より
五重塔立面図(矢守家所有)
 五重塔立面図(矢守家所有);下図拡大図
守矢家は諏訪大明神上社の神事を司った神長官の唯一の分家であり、諏訪の祭祀に関わる「大政所職」として《鹿食免(かじきめん)》を発行する要職を務めていたと云う。

     

2010/12/10追加:
○「諏訪大社」信濃毎日新聞社編、1980 より
 五重塔は法華寺預りであった。その法華寺は紆余曲折を経るも神仏分離の廃仏を生延びる。
その為、以下のように近世の五重塔修理記録がかなり伝えられる。
慶長17年(1612)藩主諏訪頼水が屋根葺替え、
万治3年(1660)通万和尚が修理、元禄7年(1694)春巌和尚が補修、延享2年(1745)実山和尚が屋根葺替え、
寛政4年(1792)藩主の命のより東穏和尚が栗板葺きに葺替え、嘉永7年(1854)仙巌和尚が屋根葺替え

2023/01/23追加:
■上社神宮寺五重塔

◇五重塔の造営
正応5年(1292)諏訪氏の一族知久敦幸が普賢堂を建立(「普賢堂棟札写」)、本地普賢菩薩が本尊として安置される。
永仁5年(1297)知久敦幸、上社同神宮寺に梵鐘を寄進(「諏訪上社神宮寺鐘銘写」)
延慶元年(1308)知久敦幸の子敦信が五重塔を寄進(「上社神宮寺五重塔露盤破片銘」)
 <以上『茅野市史 中巻』p245「諏訪神社と神宮寺」>
文政2年の「信濃國昔姿」の中で次の五重塔の概要が記されていると云う。(『下諏訪町誌 上巻 増訂』p995)
「一 五重塔 本尊五智如来草創は花園院御宇延慶年中當國下伊奈知久神峯城知久大和守左衛門入道行性建立文政二年卯年迄凡五百年程、法華寺預り」
 ※天正年中、諏訪上社は織田信忠の侵略を受け、上社堂塔社殿は灰燼に帰すと伝えるも、一方では塔は残っていたとも伝えられる。
どちらが正しいのかは不明であるが、残っていたとすれば、延慶元年(1308)に寄進された五重塔は明治維新まで存続したことになる。
 ※五重塔の毀却は〔明治元年〕12月10日から取りかかり、10日間を要し19日に完了する。(『信濃諏訪神社神佛分離事件調査報告』)
なお
「五重塔だけは取り崩しに先立ち、神宮寺村の若い大工守矢松蔵に実測させて描かせた図を残した。現在上社に所蔵されている10分の1大の白木作りの五重塔は、この図面をもとにして後に、四賀桑原の大工北原佐吉が法華寺に滞在して三年がかりで作り上げたものである。」という。(『諏訪市史 中巻』p905-908)

◇五重塔の規模
三間四面、高さ二十一間(約38m・16丈)、屋根の栩萱(知久敦幸寄進の仏塔の記載による)。(『諏訪信仰の中世』p271)
三間四面、高さ二十七間(約49m)(江戸末期現存の頃の高さによる)(『信濃諏訪神社神佛分離事件調査報告』)

上社五重塔本尊五智如来・上社五重塔跡

2005/07/23撮影:

上社五重塔本尊五智如来

五重塔本尊五智如来1
             :上図拡大図
五重塔本尊五智如来2
五重塔本尊五智如来3
五重塔本尊五智如来4

本尊五智如来座像は【四賀万福寺】↓に遷座し現存する。
諏訪市博物館に展示

上社五重塔跡

上社五重塔跡1
上社五重塔跡2
          :上図拡大図
上社五重塔跡3

「X」氏ご提供(2003/6撮影):
上宮神宮寺五重塔跡1
上宮神宮寺五重塔跡2

【四賀万福寺は諏訪市普門寺にあり。
 真言宗智山派岩窪山普門院万福寺と号す。仏法紹隆寺末、足長神社の別当「普門寺」を受け継ぐと云う。】
2023/01/24追加;
 四賀にあった万福寺は地図で確認すると足長神社のある岡の麓にあったが、現在では更地になる。
しかしながら、現在、岩窪山萬福寺は上社の副祝屋敷跡と思われる附近に一宇が建立され、ここに再建されていると思われる。
 ※但し、岩窪山萬福寺の寺標と一宇の他は何もなく、常住ではないと思われる。
萬福寺には上述のように上社五重塔本尊(諏訪市博物館展示)が遷座し、本ページ下段に述べる「諏訪神社上宮神宮寺世代」一幅(現在の所在場所は未確認)が遷される。
 ※「諏訪神社上宮神宮寺世代」は「神宮寺師資相承系図・金剛宝蔵」というべきものであろう。

2010/12/10追加:
○「諏訪大社」信濃毎日新聞社編、1980 より
寛永年中、塔本尊五智如来は高島藩士鵜飼和家が京都から請来し、納めると云う。
享保10年(1725)大地震により心柱が落ち、像が破損したので、修理する
大日如来は総高127cm・像高63cm、その他の四仏は総高120cm・像高45cm。

2023/01/07追加:
○「刹の柱 信濃の仏塔探訪」長谷川周、信濃毎日新聞社、2011 より
◇上社五重塔本尊
大日如来は総高127cm、他の四仏は総高120cm、塔取り壊しの後、四賀万福寺に遷座するも、現在は諏訪市博物館で保存展示。
 上社五重塔本尊 :上に掲載の五重塔本尊と同じもの、諏訪市博物館展示


諏訪大明神・上社神宮寺の復元

2005/07/23撮影:
諏訪市博物館展示上社神宮寺模型

 上社神宮寺模型1     上社神宮寺模型2

1)2022年に至り、「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」2022 が発刊され、ここに「諏訪市博物館・上社神宮寺復元模型」の図録が掲載される。
2)諏訪市博物館「常設展示ガイドブック」1991 に「上社神宮寺模型解説」が掲載されている。

上記の上社神宮寺模型に、1)及び2)の資料からの情報を転載し、上社神宮寺復元を作成する。

◆上社神宮寺東部分復元模型
 上社神宮寺東部分復元図:下図拡大図

 

◆上社神宮寺中央部復元模型
 上社神宮寺中央部復元図:下図拡大図

 

ただ、上の復元模型図では、模型図の写真撮影の不備で境内一番奥にある蓮池院・護摩堂が漏れるこよとなる。
幸いにも、現地説明板に復元模型があるのでそれを転載する。
 現地案内板上社神宮寺蓮池院
しかし、この現地説明板にも問題があり、説明板で蓮池院とあるのは実は護摩堂であり、現地説明板の誤りであろう。
そこで、諏訪市博物館「常設展示ガイドブック」1991 より蓮池院部分を転載する。
 諏訪市博物館「ガイドブック」蓮池院


2005/08/06追加:2005/07/23撮影:
諏訪大明神・上社神宮寺
 上社神宮寺跡:鐘楼跡(手前)・五重塔跡(中央)・法華寺(奥の大屋根<再興>)
 上社普賢堂跡:写真中央付近。弘法大師建立とされる。正応5年(1292)、知久敦幸の再興と伝える。9間×6間半の単層の建築であった。
          本尊は諏訪上宮本地普賢菩薩。四賀仏法招隆寺に現存すると云う。
 上社普賢堂銅灯篭礎石1
 上社普賢堂銅灯篭礎石2:2個が現存する。
 上社鐘楼跡:礎石2個が残ると思われる。
        梵鐘:永仁5年(1297)銘、知久左衛門入道行性敦幸寄進、上野国江上入道作、高さ1.5m、口径1,27mと伝える。
 上社神宮寺伽藍地1:法華寺境内より東を望む。林中が神宮寺伽藍地。
 上社神宮寺伽藍地2:旧仁王門参道途中から南方を望む。写真上方の平坦地上に左から普賢堂・鐘楼・五重塔があった。
 上社仁王門跡:辛うじて遺構らしきものが観察できる。
 上社法華寺:平成11年火災焼失。ごく近年再興された模様。
     →↓下に概要を掲載。
 法華寺三門及び如法院跡 :写真左下付近は如法院跡と推定される。
   如法院:弘法大師の創建と云う。大日如来像(文明17年銘)、多くの仏像・仏器は富士見町乙事法隆寺に遷される。
 上社神宮寺(大坊)跡

【上社法華寺】
 法華寺本堂:明和4年(1767)高島藩御用大工伊藤儀左衛門(大隅流)の建立。火災焼失。再建は寺社建築の下倉設計による。
木造釈迦如来座像:永仁2年(1294)銘。高さ150cm。釈迦堂本尊であったが神仏分離で遷座する。火災焼失。
木造文珠菩薩座像・普賢菩薩座像:文珠菩薩は獅子像坐像、総高165cm、仏体70cm。
普賢菩薩は白象坐像総高160cm、仏体70cm。いずれも明治の神仏分離で当寺に遷座。火災焼失。

慶応4年3月神祇官の命により廃亡、同年10月末庵である地蔵庵に移転。
明治12年地蔵庵を地蔵寺と公称、同32年法華寺の復称を出願、同年法華寺の公称が許可。
大正5年小学校の校舎に使用されていた元法華寺の堂宇を修営し、元の地蔵院より復帰。
 本堂:茅葺間口8間半奥行7間、庫裏:5間×9間
2010/12/10追加:
○「諏訪大社」信濃毎日新聞社編、1980 より
神宮寺村は上社神宮寺の全建物の払い下げを受け、保存しようとしたが却下される。
しかし、薬師堂だけは無償での払い下げが認められ、移建される。法華寺隠居仙巌はここに移り住み法灯を守る。
法華寺の本堂・庫裏はのち神宮寺小学校の校舎となる。

2010/12/10追加:
○「諏訪大社」信濃毎日新聞社編、1980 より
 釈迦堂は上り仁王門を入った突き当たりにあった。文化6年(1806)の記録では間口3間、奥行3間半とあると云う。
明治の神仏分離で取壊した材料は丸柱2丁、各柱12丁とあり、丸柱が来迎柱とすると建物は3間四方であったと推定される。
本尊は釈迦三尊、坐高は150cm。
胎内墨書銘:「釈迦三尊造立之 御頭中奉納如法経一部 御腹中奉納仏舎利十粒 ・・・
大仏師周防法橋 大勧進僧勧海 永仁二年十月 日」とあると云う。
この像は今法華寺の本尊となるが、慶長17年(1612)大修理を受け、永仁の姿とはよほど異なったものとなっていると思われる。
 法華寺釈迦如来:上宮釈迦堂本尊・・・焼失後の再興像と思われる。
但し、法華寺は1999/07/27火災、本堂と庫裏が全焼。木造釈迦如来座像(鎌倉)など4点も焼失。放火の疑いもあると云う。
2023/01/22追加:
○「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」 より
 神仏分離の処置で法華寺本尊となった上社神宮寺釈迦堂本尊釋迦三尊坐像は平成11年(1999)の法華寺火災で焼失する。
永仁2年(1294)の胎内銘のある堂々たる古仏であった。
現在の本尊は復興像で堂内には焼失前の写真が掲げられる。
 法華寺復興釋迦三尊像:ブログ・臨済宗 妙神寺派 法華禅寺(タイトルはママ) より
本尊釈迦如来の脇侍は普賢・文殊両菩薩で普賢堂本地仏と同様に象及び獅の騎像である。
また
上社神宮寺観音堂本尊聖観音立像が残存する。
 上社神宮寺観音堂本尊聖観音立像:江戸期に復古調で造作される。
神仏分離で流失し、民間で守られ、昭和初期に法華寺に戻されたという。


■    ■    諏訪大明神・下社神宮寺(下宮神宮寺)    ■    ■


諏訪大明神・下社神宮寺の姿

○木曽路名所図会:文化2年(1805)刊に見る神宮寺

図会には三重塔に関する記事は特にない。
諏訪下宮神宮寺:下図の全図

○甲州道中分間延絵図<寛政年中(1789-1801)編修>第9巻に見る 下諏訪社


 

下諏訪春宮:左図拡大図

春宮、秋宮は同一の規模で、社殿はほぼ共通していたといわれる。
現状図中にも見える薬師堂跡は現存すると云う。
 ※2008/11/17追加:
   現状は何がしの神社の建物があり、地上には遺構を残さない。・・・下掲載
2008/11/05追加:
 (下諏訪在住の方からのご教示)
別当観照寺跡地は現存する。・・・下掲載
 

 

下諏訪秋宮:左図拡大図

神宮寺三重塔、千手観音堂などが描かれる。
宝珠院、本覚坊、玄奘坊、三精寺、阿弥陀堂などの坊舎が存在していた。
なお現状護摩堂跡が残っていると云う。
 ※2008/11/17追加:
  現状は神宮遥拝所となり、地上には遺構を残さない。・・・下掲載

2005/08/06追加:
○諏訪社遊楽図屏風

諏訪社遊楽図屏風(下社)
下社神宮寺部分図:左図拡大図
下社神宮寺千手堂
 


下社神宮寺

下社の別当は海岸孤絶山法性院神宮寺と号する。高野山真言宗。高野山金剛頂院末。本尊は本地仏千手観音。
下諏訪秋宮の南一帯に神宮寺・坊舎が展開していたと思われる。・・・下に掲載
開山は弘法大師とする。室町期には坊舎30余という。
戦国期は荒廃するも、武田信玄永禄7年(1564)以降千手堂再興の寄進をし、天正2年(1574)勝頼代に千手堂が完成、ただちに三重塔が起工されたと云う。
千手堂(本地堂)、仁王門、三重塔、弥勒堂、弁財天、貴船社などの堂塔があった。天正年中では8院17坊を数える。
堂宇の北には本坊があり、神宮寺の管理に与る。
千手堂は元治元年(1864)火災で焼失。
明治元年神仏分離で三重塔をはじめ神宮寺はすべて棄却される。
仏像仏画は神宮寺末寺などに移されたという。
2014/11/07追加;
Web情報では次のようなものがある。
寛保2年(1742)の記録では、下社神宮寺は、境内門末6院20坊・門末21ケ寺を有する。
しかし徐々に衰微し幕末期には、大坊と本覚坊だけになるという。
明治維新の神仏分離に際し、神宮寺住職は復飾し、神山斎宮と名を改め、諏訪明神の神官に加わるという。
なお、住職は旧飯田藩士山下氏であり、その子孫は下諏訪に居住という。

2023/01/23追加:
■下社神宮寺三重塔

「天正2年(1574)8月千手堂落成後、直ちに、三重塔が起工された。その落成は天正4年と思われるが月日を明らかにしない。而して天正5年3月3日、盛大な塔供養の法会が行われた。その趣は桃井氏所蔵「諏訪下社三重塔供養牌寫」の伝うるところである。」
「これによれば下社三重塔は諏方春芳が勝頼の命を受け、私財を喜捨して建立したもので、春芳豪富の程が思い遣られる。同人は蔵前衆の頭目で、「甲陽軍艦」には高島の地下人とあるが、おそらく町人であり、その商売は深く武田氏の政治権力と結合し、もってこの富を致したと想われる。」(『下諏訪町誌 上巻 増訂』p852)
 ※下社神宮寺三重塔は天正5年(1576)落慶と思われる。
「三重塔には天正五年三月三日の棟札があり、「宝塔がなくなって久しくその形を見ず、いたずらに礎石のみがあり、春芳が勝頼の命をうけ、天正二年から私財を投じてここに落成を見た」とあり、(後略)」とあり。(『諏訪大社』p142)
<なお、p141には下社神宮寺の境内図がある。>
 ※「宝塔がなくなって久しくその形を見ず、いたずらに礎石のみがあり」とあり、天正の造塔は再建と考えられる。
 ※この再興された塔は明治元年六月神仏分離の処置で毀損される。
 ※三重塔の高さなどの史料は無いと思われる。。、延宝七年のに、。
延宝7年(1679)の「下社社例記」の秋宮の項では「三層塔安置大日如来」という。(『下諏訪町誌 上巻 増訂』p1010)

下社秋宮社殿

2005/07/23撮影:
秋宮社殿:安永10年(1781)、重文
 下社(秋宮)幣拝殿1:工匠は立川富棟      下社(秋宮)幣拝殿2
2008/11/14撮影:
 下社秋宮幣拝殿11      下社秋宮幣拝殿12
 下社秋宮神楽殿:天保6年(1835)、重文、工匠は2代立川富昌
2008/11/14撮影:2023/01/23追加:
神楽殿:重文、天保6年(1835)造営
幣拝殿:重文、安永10年(1781)落成。幣殿と拝殿が一体となった二重楼門造で、左右に片拝殿(重文)が並ぶ。彫刻は立川和四郎(富棟)。
 下社秋宮神楽殿1     下社秋宮神楽殿2
 下社秋宮幣拝殿1     下社秋宮幣拝殿2     下社秋宮幣拝殿3      下社秋宮幣拝殿4
 下社秋宮幣拝殿5     下社秋宮幣拝殿6


2005/08/06追加:2005/07/23撮影:
下社神宮寺跡

残念ながら、下社神宮寺跡を明確に知ることは叶わず。(神社、附近での聞き取りをするも、誰も知らず。)
絵図や現状からの推測も困難と思われる。
参考1:
 神宮寺推定地(推測)
  推定下社神宮寺跡1:駐車場になっている附近が三精寺跡地である。※2008/11/05追加:この項「はぐれ神仏巡礼帖」氏からのご教示
  推定下社神宮寺跡2  推定下社神宮寺跡3 ※2008/11/17追加:左の写真は三精寺跡や恵比寿神社であり、見当違いであった。
参考2:
 「廃仏毀釈の行方」(藝術新潮、1973.3所収)に以下の写真がある。
  ◇下諏訪神宮寺跡(1973年以前撮影):この場所は特定出来ず。 ・・・・2008/11/14特定確認・・・下に掲載

2008/10/22追加:
「はぐれ神仏巡礼帖」氏から以下の情報提供あり。
・「石尊大権現」:上記の下諏訪神宮寺跡(1973年以前撮影) の石碑は「石尊大権現」碑であり、現在は碑の位置が動かされている。
 ※石尊大権現は相模大山寺の本尊であり、おそらくこの石碑も「雨乞い」として、建立されたものと推測される。
 ※石尊権現(大山石尊大権現)は大山(大山寺)に祀られていた。十一面観音が本地仏である。
  自明のことであるが、明治の神仏分離の処置で廃される。
 ※本社は神奈川県大山町にあり、祭神は大山祇命である。上代の巨石信仰の遺跡ともいわれ、雨乞いの神として名高い。
 今は阿夫利神社という。(「多古町史」)
・下社神宮寺三重塔跡は、秋宮南方の「ホテル山王閣」の東側すぐで、窪地状の場所である。・・・・下に掲載
・現在残存する遺跡として、何点かの石仏、石垣、庭園跡、境内の泉、旧参道等がある。
・「下社神宮寺の元本尊」(岡谷照光寺に遷座している)は、現在は60年に一度開扉する秘仏である。2007年11月特別開帳があった。
 新聞記事要約:「千手観音は武田勝頼の念持仏で、高さ約20cm、下社神宮寺の千手堂本尊で明治維新に照光寺に遷座」(大意)と云う。
2008/11/05追加:
・三精寺本尊であった阿弥陀如来座像は、岡谷平福寺に現存する。銘は未発見、鎌倉末期〜南北朝期の作と推定され、慶派色の濃い作風であると評価される。おひぎり地蔵尊の縁日 (毎月23日)には多くの参拝者があり、阿弥陀如来座像も開放されていると云う。

2008/11/17追加:
海岸孤絶山神宮寺境内図:信州諏方法性宮本地海岸孤絶山法性院神宮寺境内圖

海岸孤絶山神宮寺境内図:左図拡大図:右が北東方向を示す。
 ※「はぐれ神仏巡礼帖」氏から入手
 ※2008/11/27追加:照光寺蔵と云う。
  「下諏訪町誌」では、「文化文政頃の絵図と推定される」と云う。
  お寺の側から参詣者に渡す、案内図のようなものとも推定される。

現在、眼に見える下社神宮寺堂塔の遺構は残らず、下社神宮寺の跡を訪ねても、一般人にはその復原は相当に困難であろう。
また近世の下社神宮寺の絵図が何点か残るも、これらの絵図ではおおよその堂塔の位置関係は分かるとしても、方位などが分かり難く、現在の地形に堂塔を復原する のも、 ほぼ無理であろう。
しかしながら、この境内図はこれ以外の絵図とは違い、おおよその地形に合致した形で堂塔が描かれ、この意味で下社神宮寺堂塔の復原に役立つ資料であろうと評価できる。

○2010/12/10追加:「諏訪大社」信濃毎日新聞社編、1980 より
上記境内図のように、下社神宮寺(本坊・大坊・方丈)は大門・山門・方丈(10間×7間)・庫裏・穀蔵・宝庫などを具える。
 下社神宮寺絵図の版木:岡谷照光寺蔵 :上記境内図の右上過半が空白であるのは、版木が切り取られている?ことによるもの。
永禄7年(1564)武田信玄は戦国期に荒廃した下社神宮寺千手堂の復興を命ずる。
天正3年(1575)武田勝頼の手で7間×8間単層の千手堂が落慶する。内部の装飾に時間が費やされたと云う。
以降長年崇敬を集めるも、元治元年(1864)12月、千手堂は火災焼失す。
三重塔は天正5年(1577)の棟札があり、武田勝頼などの援助で、礎石を残すのみの状態であった塔が再建される。
神宮寺には多くの坊舎が存在(寛保2年・1742には32坊舎の退転を見る)する。この図では宝珠院、玄奘坊、本覚坊などになり、明治維新の頃には本覚坊のみとなる。
 江戸中後期、国学が隆盛となり、江戸後期の下社大祝金刺信古は平田篤胤の門に入り、尊皇攘夷の運動に熱中する。
慶応4年、「祭政一致」「王政復古」の維新が成就し、宗教界ではそれが廃仏の方向に流れて行く。
ここ諏訪大明神に於いても神官は俄かに色めきたち、特に下社では金刺信古の影響もあり、佛教棄却には大いに働き、積年の恨みを晴らす。
特に下社副祝山田氏などは堂塔破壊の時には赤い陣羽織で出て指揮し、三重塔のみねに綱をつけて引き倒すと云う。
明治元年冬、かくして神宮寺は棄却される。
大坊本尊大日如来、千手堂千手観音などの多くの遺物は末寺岡谷照光寺に移される。
大坊山門は小泉寺(諏訪市)に移される。

諏訪大明神下社神宮寺の復元(見取図)

 以下の情報及び復元図は、「はぐれ神仏巡礼帖」氏の案内・教示(2008/11/14)を受け、それを纏めたものである。

諏訪大明神下社神宮寺跡復元図
上掲の「海岸孤絶山神宮寺境内図」の内容を実際の地図に投影すれば以下のようになるであろう。

2023/01/29追加:
 下社神宮寺伽藍復元図について、2008年11月「はぐれ神仏巡礼帖」氏の教示を受け、作成したのであるが、
2023年に至り、「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」2022 で新しく下社神宮寺の坊舎群の配置が明確にしめされたことなどがり、今般下の項で「新版 下社神宮寺伽藍復元図」を示すこととする。

2008/11/14撮影:
下社神宮寺護摩堂跡:神楽殿左手にあるも、現在では唾棄すべき神宮(伊勢)遥拝所となる。従って遺構は地上には残らない。
下社神宮寺三精寺跡:恵比寿神社裏(東)・社務所西の舗装された駐車場が跡地と云う、地上には何も遺構はない。
               境内を流れる御手洗川と車道の間の石垣の上にあった。
下社神宮寺本坊跡遠望1地点より北東を望む、写真中央右手付近が神宮寺本坊跡、中央空地(駐車場)左端に「石尊大権現」碑がある。
下社神宮寺本坊跡遠望2地点より東北東を望む、中央やや左下の畑地付近が神宮寺本坊跡、
            中央やや右手は旧社家?(大祝?)の屋敷跡などか?
神宮寺千手ノ瀧方面遠望地点より東を望む、中央右端の銀杏の樹(黄色)付近が三重塔跡と推定される。
神宮寺三重塔跡遠望1地点より東南東を望む、中央やや左・銀杏の樹(黄色)付近が三重塔跡、中央右端が千手観音堂跡と推定される。
神宮寺千手堂跡遠望地点より南南東を望む、中央建物付近が千手観音堂跡と推定される。
  ※地点はホテル山王閣の横建物上、ここは中世末の館跡で、近世?には山王権現が鎮座と云う。ここから神宮寺跡が全望できる。
推定神宮寺板碑類地点の南すぐ、神宮寺境内にあった板碑類を集めたものと推定される一区画がある。
千手堂裏崖上の石仏・板碑地点崖下に石仏および板碑(推定)が残る、恐らく千手堂裏手の崖上にあったものがそのまま残存と思われる。
神宮寺三重塔跡遠望2地点より北東を望む、中央銀杏の樹(黄色)付近が三重塔跡。
神宮寺弥勒菩薩坐像:説明板 では、銘は正面「弥勒 春芳」、背面は「天正3年(1575)・・」とあり、春芳は武田勝頼の命で千手堂を再建し、
             その願掛でこの石造を刻み、弥勒堂前に安置と云う。明治の神仏分離でこの地に遷される。
             上掲載「海岸孤絶山神宮寺境内図」に「弥勒堂旧跡」と「弥勒坐像」の記載がある。この弥勒像が当坐像か。
             ※2009/07/21追加:「下諏訪町石造文化財 巻次 : 其2」下諏訪町教育委員会、1978 より
               土田墓地にある。高さ91cm(「下諏訪町の文化財」では88cm)、
               春芳は春芳軒で、武田氏を支えた大分限者(富豪)である。
               勝頼の命により下社三重塔再建をする折の工事安全祈願をしたものであろう。(銘は天正2年との記事もあり)
神宮寺旧参道跡小路:甲州道からやや上って北北東に本坊跡に向かう直線で続く小路がある。突き当たりは本坊跡の段丘であり、
             本坊に至る旧参道と推定される。但し残念ながら、本坊に至る石階は失われその痕跡は残らない。
神宮寺千手観音堂跡:東方向から、千手観音堂跡推定地を撮影 、正面建物裏がB地点であり、石仏千手堂裏崖上の石仏・板碑などがある。
神宮寺仁王門跡・参道跡:西方向から撮影、中央の道路の交差地点(写真手前)が仁王門跡と推定される 。いかにも仁王門跡に
               相応しい雰囲気を残す。写真手前の小路は千手堂に至る参道が小路として残ったものと推定される。
神宮寺三重塔跡:東方面から撮影、中央やや右の銀杏の樹(黄色)付近が三重塔跡と推定される。
神宮寺千手ノ瀧:今に残存する。写真中央の藪の奥が瀧であり、6尺をはるかに超える高さの崖上から落水する。今も豊富な水量があり、
           落下音を発てる。水は写真下部の左の溝を流る。上掲載「海岸孤絶山神宮寺境内図」に「千手ノ瀧」と記載がある。
神宮寺推定千手坊跡:千手の瀧の東に簡単な石垣を積んだ平坦地があり、ここは古の千手坊あるいは瀧ノ庵跡であったとも推定される。
神宮寺如意輪観音像:瀧ノ庵などの坊舎跡とも思われる平坦地に如意輪観音と思われる石像が残る。(年記が残ると云うも失念)
              2008/11/27追加:年記は「宝暦」(「はぐれ神仏巡礼帖」氏から)
神宮寺独鈷泉1:今も石垣下に微かに湧出する、以前は右の水管からも豊富に湧出していたと云う。
 同  独鈷泉2:上掲載「海岸孤絶山神宮寺境内図」に「独古水」とある、開山大師(空海)御加持ノ閼伽井池とあり、その水源とも思われる。
2023/01/29追加:
 上に掲載の「独鈷泉」は実は「徳孝泉」 であると思われるので、「独鈷泉」を「徳孝泉」と訂正する。
「独鈷泉」は山王台南東の崖下附近にあり、今も民家の敷地内にあるという。<未見>
なお、「蓮池」も民家に一部が残存ずるという。「海岸孤絶山起立書」には「白蓮の名池也、往昔華園院の旧跡也」とあるという。<いずれも未見>

独鈷水、金銘水・銀銘水、現独鈷水
     海岸孤絶山神宮寺境内圖(部分)

(備忘)現独鈷水付近に「明治天皇御休憩」云々の碑が立っている(未見)と云うも不詳。
 

2009/07/26追加:
 「はぐれ神仏巡礼帖」氏情報要旨
1)左図「神宮寺境内圖」によれば、独鈷水は三重塔右背後すぐにあったと図示される。
一方■乗坊(玄奘坊か)→本覺坊→花の院旧跡→蓮池と辿る道があり、蓮池の道を挟んで右に「湧水」が図示される。
2)現在「独鈷水」とされる湧水は上に掲載した「下社神宮寺現況(見取図)」の位置にあり、これは上記1)の蓮池右の「湧水」に位置に相等すると推定される。
3)大正生まれの古老の記憶によれば、現「独鈷水」<上掲神宮寺独鈷泉1>は付近にある古墳石室ライクな別「湧水」とペアで、かっては「金銘水」か「銀銘水」と呼ばれていたと云う。(どちらがどっちなのかは分からないと云う)。
 ※別「湧水」写真は「はぐれ神仏巡礼帖」氏サイトを直接参照。
4)古図にある「独鈷水」はおそらく涸れたものと推定され、今その痕跡を探すのは困難。但し、独鈷水からの流れの名残と思われる細い水路が、民家の塀と塀との間にあるとも云う。
 
神宮寺本坊石垣:本坊平坦地を築いたと推定される石垣が残る。
神宮寺三重塔跡遠望3:本坊跡より南西を望む、中央銀杏の樹(黄色)付近が三重塔跡。右はホテル山王閣で窪地に立地したことが分かる。
神宮寺いいなり地蔵:説明板によると、元禄年中神宮寺境内に安置、明治の神仏分離で萩倉の薬師堂に遷座するも、やがて現在地
            (本坊跡地傍)に遷す。上掲載「海岸孤絶山神宮寺境内図」の蓮池隣に「ヂゾウ」とあるが、この地蔵かどうかは不明。
              →直下にいいなり地蔵尊の記事あり
神宮寺天神祠1:本坊跡地傍にある、この祠は神宮寺天神(竜王)池中島(「海岸孤絶山神宮寺境内図」)にあったものを遷すと云う。
 同  天神祠2:小祠ではあるが、欅材を用い、確かな造作を施し、近世の建築であるとしても矛盾はないと思われる。
           なお、弁天池の弁天堂も残る(未見)と云うも、確証が無いとも云う。
「廃仏毀釈の行方」に掲載写真位置(藝術新潮、1973.3所収):「藝術新潮」掲載写真(下諏訪神宮寺跡)と同一の場所を撮影。
    旧写真に比べ、現在は手前道路が開鑿され、そのため「石尊大権現」碑は写真の少しはみ出す左位置(写っていない)に移転、
    また下に降る道路法面石垣も改築されている。
    この地は今は下社駐車場であるが、かっては小公園で、下諏訪神宮寺跡(前掲載)の中央右の白い四角のものは銅像の台座と云う。
「石尊大権現」碑:上記写真の駐車場左隅に台座とともに移される。
    年記の部分の写真を撮影するも、日光の反射で判読不能、よって不掲載。
    2008/11/27追加:年記は「文化十四丁丑歳九月吉日 講中」(「はぐれ神仏巡礼帖」氏から)
    2009/07/21追加:「下諏訪町石造文化財 巻次 : 其2」下諏訪町教育委員会、1978 より
     高さ190cm、幅61cm、厚36cm、承知川の水に頼った人々の建てたものであろう。(神宮寺の遺物とは直接の関係はない?。)

2023/01/24追加:
○「言成地蔵尊(いいなり地蔵)」のページ より。
 いいなり地蔵の年紀に関する考証がある。
概要は以下の通り。
現地説明板に「元禄年間諏訪神社の神宮寺の境内に安置され」とあるが、安置が元禄年中であるという根拠を追及する。
堂前に、「奉寄附常夜燈」と刻む「常夜燈の竿」が置かれている。基台もない竿だけの状態で置かれているので、竿のみがここに運ばれてきたと推測できる。
 「秋宮に同じものがある」と聞いていたので、見当をつけた一之御柱へ向かい、そこで「当社之犬射馬場」などの標石に並んであるのを発見。
銘は「神宮寺住法印憲清・元禄十二己卯天(1699)九月吉(日)」と判読。
 では、「神宮寺住法印憲清」では如何なる人物か。
「諏訪上下社神宮寺資料写眞集」今井邦治著>「海岸孤絶山起立書」>「海岸山先碑暦代」に「法印憲清」の名があり、
「第三十三世 法印憲C大和尚字は教俊房宮沢氏、諏訪駒沢邑の人也、(中略) 次に当社神前并千手宝前常夜燈各二基建立、元禄壬申(1692)玄奘坊に退休、入滅宝永二乙酉(1705)五月二十八日行年七十二歳、」とあることが判明。即ち、憲Cが66才の時に、今は竿だけ残った灯籠を下社神宮寺千手堂前に建立したことが分かる。
おそらくは、憲清の縁故の人物が、憲清の名が刻まれた竿を記念(顕彰)碑として縁の神宮寺跡に設置したのであろうと推測する。

古図による神宮寺旧境内の参道・流路の考察(2008/11/27追加)

 下社神宮寺境内参道・流路:当図の右は上掲「海岸孤絶山神宮寺境内図」の部分図であり、左は上掲「甲州道中分間延絵図」 (下諏訪秋宮)の部分図である。
何れの図も甲州街道が図の下の部分を北西から南東にかけて通ずる。
 左図を考察すると、境内の参道は仁王門から北西に千手観音堂に通じ、その途中から分岐する参道は北東に大日塔に至り、さらにその参道から途中分岐し鐘楼に至る。 この参道は太い線に横線を入れる描写であり、おそらくは石畳の参道であったとも推測される。
また大日塔前付近から本坊の石階・神宮寺東辺道路・本覚坊下(秋宮へ)道路の分岐に至る参道もある。
 一方水の流れを考察すると、水源には「千手の瀧」(上掲の「神宮寺千手ノ瀧」)と 「独鈷水」(上掲の「神宮寺独鈷泉1」・「 同  独鈷泉2」)とがある。 「千手ノ瀧」の水は落水地点からすぐに二手に別れ、一方は神宮寺境内に入り、もう一方は神宮寺東辺道路に沿って流れ、やがて甲州道と交差する。<※1>
「独鈷水」の水は神宮寺境内を南東に流れ、千手ノ瀧からの分水と合流し、合流してすぐに二手に分流する。一つはそのまま神宮寺境内を北東から南西に流れ、仁王門と観音堂参道の橋の下を潜り、甲州道に至る。(甲州道より先の流れは分からない。)もう一つの分流は龍王池(天神)に流入する。<もう一つの池である弁天池の水源は明示されていないため、良く分からない。>
なお、参道あるいは道路が水路と交差するところには「橋」とも思われる構造物が描かれている。
 右図の方は、詳細は不明ながら、仁王門から千手堂に至る参道ははっきり描かれ、また本坊下付近から三重塔と天神の間を通り、左記参道と交差する流路も描かれ ている。また、参道と流路の交差地点には橋とも思われるものも描かれる。さらに天神・貴船の両池の存在もある。
この流路は甲州道に出て、甲州道沿いを流れ、神宮寺東辺沿いの道路横流路と合流するように描かれる。この合流地点にも橋と思われる描写もある。<※1>
参考<※1>:
 神宮寺東辺沿いの道路と甲州道の交差点の東約20〜30mに承知川が流れ、甲州道と交差した。甲州道には承知川を跨ぐ一枚石の承知橋があり、近年(昭和52年?)橋の架け替えがあったが、旧一枚石の承知橋は付近に保存されている。
 承知川橋一枚石:甲州道沿いの民家の石垣に嵌めこまれて保存される。

 △以上の考察が正しいとすれば、
上に掲載の
神宮寺旧参道跡小路」:甲州道からやや上って北北東に本坊跡に向かう直線で続く小路がある。 この小路の突き当たりは
          本坊跡の段丘であり、本坊に至る旧参道と推定される。但し残念ながら、本坊に至る石階は失われその痕跡は残らない。」
の現存する「参道跡小路」とは厳密に云えば、千手ノ瀧の分流と独鈷水が合流し、三重塔・千手堂と天神・弁天との間を流れていた流路の跡であろうとするのが正確であろうと思われる。この甲州道から北東に入り、仁王門と千手堂との参道と交差する小路は、実は「海岸孤絶山神宮寺境内図」や「甲州道中分間延絵図」 (下諏訪秋宮)で描かれる流路が小路に転化して今に残されたものであろうと推定できる。

※※神宮寺跡地は今ほとんど民有地と云う。明治の神仏分離では「下宮千手堂仮堂、三重塔、鐘楼、仁王門等は皆社人が人夫を使役して破壊」と伝えられ、跡地も二束三文で売却されたことも十分考えられる。そして天神・弁天祠も移転、両池も埋められ、従って境内を北東から南西に流れ、池に水を供給した流路も不要となり、これも埋められ、いつしかこの地の小路と転化し、現在に残るものと思われる。

2023/01/29追加:
新版 下社神宮寺伽藍復元図

 下社神宮寺伽藍復元図について、2008年11月「はぐれ神仏巡礼帖」氏の教示を受け、作成したのであるが、
2022年に至り、「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」2022 で、新たに下社神宮寺の坊舎群の配置が示めされることなどがあり、今般「新版 下社神宮寺伽藍復元図」を作成する。
 「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」では江戸中期の起立図(由来書)や古地図・明治の住宅地図などと照合しさらに現地調査を重ねて「復元図」を作成と云う。
1)神宮寺伽藍の概要は、坊舎群を除き、「諏訪神仏分離プロジェクト」の「復元図」と「旧版」で示した「復元図」とが概ね合致し、「はぐれ神仏巡礼帖」氏の教示が正しいことが証明されたものと判断できる。改めて、「はぐれ神仏巡礼帖」氏に敬意を表する。
2)「諏訪神仏分離プロジェクト」では神宮寺を取り巻く坊舎群の概要が示されたので、それを転用させて頂く。
3)若干の誤りについて訂正する。
「徳孝泉」を独鈷泉としているなど。

 「諏訪神仏分離プロジェクト」が想定する時代は明確でなく、また「海岸孤絶山神宮寺境内圖」の年紀が何時なのかも不明であるが、あえて時代(近世)は無視して「新版」を作成する。
作図は稚拙であるが、お許しを願う。

 ●下社神宮寺伽藍復元図 : 下図拡大図

 


諏訪大明神下社春宮現況

2008/11/14撮影:
 諏訪下社春宮下馬橋:室町期建立、元文年中(1730年代)改修。なお春宮幣拝殿(重文、安永9年・1780)は現在改修中。
 諏訪下社薬師堂跡:近世にはここに薬師堂があった。現在は神社の何がしの建築がある。
            もともと薬師堂は社殿背後の薬師平(未見)と云われる平坦地にあったと云う。
 春宮別当観照寺跡1
 春宮別当観照寺跡2:社前右に精美な石垣を残す、跡地には近年の社務所?がある。

2010/12/10追加:
○「下諏訪町誌 上巻」山田仁編、甲陽書房、1963 より
諏訪の宮寺は以下があった。
上社は真言宗神宮寺、真言宗如法院、真言宗蓮池院、臨済宗法華寺、下社は真言宗神宮寺、真言宗三精寺、真言宗観照院であった。
下社神宮寺は久保村にあり、境内は坊中といわれる地帯にあった。高野山金剛頂院に属する。本寺は大坊と称し、近世には方丈と呼ばれた。
上社の本地は普賢菩薩で、下社春宮の本地は薬師如来、秋宮の本地は千手観音とされる。
甲斐武田氏時代の知行貫高は以下の通り。(「両社御造営領並御神領等帳」による)
大坊(下社神宮寺)25貫文
 大坊の門徒は11ヶ坊
 門徒西蓮坊5貫文、門徒玄奘坊4貫500文、門徒池之坊4貫900文、門徒中之坊4貫500文、門徒本覚坊5貫300文、
 門徒真定坊4貫500文、門徒竹林坊4貫500文、門徒東泉坊5貫文、門徒常住坊2貫500文、門徒南光坊三貫文、門徒井之坊4貫800文
観照寺(春宮別当・元は薬師平にあり)10貫文
 観照寺門徒は9ヶ坊
 門徒安養坊2貫文、門徒等覚坊2貫500文、門徒南泉坊2貫文、門徒実相坊2貫文、門徒極楽坊2貫500文、
 門徒多門坊2貫500文、門徒玉円坊3貫文、門徒実蔵坊2貫500文、門徒東光坊2貫500文
三精寺(9貫900文)は門徒を持たず。
 ※ちなみに
 上社神宮寺134貫文、法華寺35貫文、蓮池院20貫文、如法院28貫文
下社秋宮千手堂(本地堂)は戦国期荒廃し、甚だ粗末な仏堂であり、また三重塔も廃絶し、僅かに礎石を残すのみであった。
神宮寺は武田信玄に働きかけ、信玄の寄進により堂塔の再興に着手する。
天正2年(1574)千手堂落成、同年三重塔再興起工、天正3年千手堂落慶、天正4年(推定)三重塔落成の運びとなる。
爾来千手堂・三重塔は300年存続するも、元治元年(1864)千手堂火災焼失、その大きさは間口4間4尺5寸、奥行3間であり、周囲には幅3尺の椽を廻らせる。
続いて、明治元年5月下社神宮寺(三重塔、仁王門、鐘楼、経蔵等)は撤去される。


諏訪明神に於ける神仏分離

諏訪大社概要

 諏訪大社と呼称するのは近年のことで、次の4宮を総称して云う。
即ち、諏訪湖北側・霧ヶ峰山塊の西端・明神山麓に鎮座する下社(秋宮と春宮からなる)、諏訪湖南側・赤石山脈最北部の守谷山麓に鎮座する上社(本宮と前宮からなる)で構成され、上社・下社を合わせて信濃国一宮とされる。
創建は明らかではない。
秋宮は一位(イチイ)の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として祭祀する。

神宮寺は上下社とも、少なくとも鎌倉期には、成立していたといわれる。
(『諏方大明神縁起画詞』には上社の本地仏は普賢菩薩であり、下社の本地仏は千手観音であるとする。)

2003/6/13追加
明治維新神仏分離資料「信濃諏訪神社神仏分離事件調査報告」 より
  
(大正9年鷲尾順敬訪問調査)

1.仏寺の由来及び其建築物

鎌倉期には上宮大祝諏訪氏、下宮大祝金刺氏がいづれも仏教に帰依して仏寺を造営、彼らにより仏寺が興隆した。
永仁の頃に知久氏(諏訪氏の一族と云う)が上宮普賢堂、釈迦堂、五重塔、鐘楼などを再建し、大いに興隆させた。

江戸期末期の仏寺の状況

本社別当;普賢神変山神宮寺;真言宗
 開山弘法大師、寺領25石、燈明料10石、寺僧を支配、大坊と称す。
本社別院;秘密山如法院;同
 開山同上、中興鏁了法師、寺領20石、宮僧を支配す。
同    ;七島山蓮池院;同
 開山同上、寺領15石、燈明料10石
同    ;鷲峰山法華寺;臨済宗
 開山行基、中興開山大覚禅師道隆、再中興通方和尚巨円、寺領20石
寺家、18坊、寺僧6坊、宮僧12坊
 神洞院、執行坊、宝蔵坊、蓮乗坊、玉蔵坊、松林坊、泉蔵坊、善勝坊、常仙坊、安楽坊、安信坊、真蔵坊、検校坊、乗詮坊
 金詮坊、玉泉坊、楊本坊、中道坊
同社地の堂塔
 普賢堂、正面8間裏行6間半、本尊普賢菩薩、知久行長・行将再建
 鐘楼、鐘永仁4年施主知久行時、永仁5年同人再建
 大般若堂、3間と2間半、本尊普賢菩薩
 仁王門、3間半
   以上神宮寺預
 如法堂、3間半、諏訪法性大明神立像、脇立天照太神宮の像、同春日大明神の像
 奉納堂、本尊釈迦如来坐像
 護摩堂(神前)、3間と2間、本尊不動明王坐像
  以上蓮池院預
 五重塔、3間四面、高27間、五智如来安置、延宝元年(1673)知久行長・行将再建
 薬師堂、本尊立像
 釈迦堂、4間4間、本尊釈迦脇士文殊普賢、永仁5年(1297)知久左衛門尉建立、慶長17年諏訪頼満再建
 仁王門、3間と2間
  以上法華寺預

◆上宮古図:上諏訪町小松孝重氏蔵

上宮古図(全図):下図拡大図


上宮古図(神宮寺部分):下図拡大図

○2010/12/10追加:「諏訪大社」信濃毎日新聞社編、1980 より
上宮古図(神宮寺部分2)

上宮古図(部分図):下図拡大図

下宮

秋宮別当;海岸山神宮寺;真言宗
 開山j弘法大師、寺領30石
同    ;松林山三精寺;同
 同上
寺家;四坊
 宝珠院、本覚坊、玄奘坊(廃)、真乗坊(廃)
春宮別当;和光山観照寺;真言宗
 開山弘法大師、中興亮空法印
寺家;二坊
 東光坊、実蔵坊
  古来秋宮社僧7坊、春宮8坊と伝え、江戸中期、春宮には
  多宝坊、養仙坊、泉瀧坊、極楽坊、多門坊、養善坊、玉円坊、覚成坊の名が伝わるという。
同社地の堂塔
 秋宮
 千手堂(棟札武田勝頼公武運長久・・・、天正2年・・とある)
 護摩堂、三重塔、鐘楼、仁王門、経堂(11坪)、法納堂(6坪)
 春宮
 護摩堂、萩原薬師堂、子安堂、役行者堂

◆下宮古図:諏訪神社蔵

下宮古図:下図拡大図

2008/06/02追加:「別冊太陽 日本の神 68」平凡社、1990より
下  宮 古 図:下図拡大図

 

下宮古図(秋宮部分):下図拡大図

下宮古図(秋宮神宮寺):下図拡大図

  法華寺は元寺内平にあり、国分尼寺という。・・・慶応4年廃絶、のち復興。

2.年中行事及び社僧の職務

仏教関係の行事が盛大を極める。(省略)

3.仏寺及び仏教関係の建築物の破壊

社僧・社人の間は親和を欠いていた。しかしながら社僧は官位があり、社人の上に立ち、大いに勢力があった。
さらに諏訪藩は常に社僧に加担する傾向があり、・・・社人等には欝勃の情があった。
当時下宮神宮寺の屋上に火矢を放ったものがあったが、これは社人が社僧を憎むの余り堂舎を焼こうとしたとの風聞があった。

神仏分離令が出て、社人等は大いに踊躍し、仏教関係堂塔、器具などを撤去せんとしたが、一藩(ママ)の人民は自ら進んで
そのことに当たろうとしないので、社人等は京都に使いを上らせ訴えたので、観察使富饒夫(とみにきお)が実行監督として派遣された。
慶応4年6月15日、勅使富饒夫下向・着任。
6月19日、上宮内外諸堂取払いを下命、神領及び付近の村よりあるいは表役所からも大くの人数が出ていたが、その日は誰一人手を出そうとはせず、一向に取払いは進展せず。村々寄合、回文をだし、故障の申し立てあり。
般若堂、胡麻堂(ママ)、納経堂の撤去を人足に申し付け所、昼までは取掛かったが、弁当に引いてから、誰もが不参。
表方百姓が何か申し越し皆引き上げてしまった。人足が万力の縄を持ってきたところ、「手をつけたら打ち殺す」と(おそらく百姓に)言われ、皆逃げ去った。人足は一人もいなくなった。ただ普賢堂の縁板は取ったが(その後は)一向に手をつけず。
6月20日、下宮に出立、人足250〜60人、村役・人足同腹にして、取払いは難渋。人足は一向に手を出さず堂塔少しも取り片付けできず。

神宮寺堂塔の破壊は当初は大変難渋したと思われるが、その後下宮に関しては、下宮の社人が大いに活動したと伝える。
千手堂は元治元年(1864)火災で焼失し、その後仮堂であったが、社人はこれを焼き払おうとしたと伝える。
観照寺は当時火災に罹ったが、これは社人の所業であろうと風聞せられた。
下宮千手堂仮堂、三重塔、鐘楼、仁王門等は皆社人が人夫を使役して破壊し、古材が売り払われた。
仏像・絵画・仏具もこの際破壊し、暴行に類したこともあったという。
しかしながら、まだ護摩堂、経堂、法納堂、薬師堂ほかの堂宇もあり、全てを破壊撤去することは出来ず、明治2・3年の頃は
半ば破壊された堂宇が朽廃に任せられていたという。

上宮の破壊に関しては以下のようであった。(庄屋笠原五右衛門の日記)
明治元年10月27日:鉄塔を温泉寺に下す。
11月19日;(主体が不明であるが・・)五重塔、普賢堂を見分。
11月晦日:五重塔、普賢堂を壊し始める、
12月8日:村方若者更に以下の諸堂を破壊する。
 神前護摩堂(蓮池院持)、ろふく脇大般若堂(神宮寺持)、御経堂(如法院持)、薬師堂(法華寺持)、仁王門(法華寺持)
 釈迦堂(法華寺持)、護摩堂(如法院持瀧岩)、つりかね堂(神宮寺持)、仁王門(神宮寺持下り)
12月9日:千躰仏地蔵堂へ和尚にお見舞い。
12月10日:法華寺観音堂こわし、おおむね諸堂の破壊は仕舞。
12月19日:五重塔取り壊し仕舞。

五重塔・普賢堂は尤も壮麗なるものであった。これを破壊する際は、諸人が群集し、いずれも悲涙を拭いたが、
役人等は人夫を激励し、人夫は冥罰を恐れながら、勇気を出して破壊したと伝える。実に悲凄惨憺たる状況であった。
神社の建築物中にも仏教の意味のあるものは皆撤去せられた、神社拝殿の象鼻(名工立川和四郎の彫刻)等も撤去・焼棄られた。

4.堂塔器具の処置及び社僧の還俗

堂塔は破壊・古材として売却されたが、移転現存するもの(以下)もある。
○上宮神宮寺門→宮川村役場・・・・昭和22年宮川村役場から四賀仏法紹隆寺に移建・・・・下に掲載
 ?下宮薬師堂→荻倉村
   ※萩倉薬師堂は明治30年に焼失、明治36年に再建という情報があり、
   これに従えば下宮薬師堂は萩倉に移建されたが、明治30年焼失ということであろうか。
 ◇下宮神宮寺仁王門 →下野村照光寺下野村は平野村か?) →信濃照光寺: 仁王門は退転し、現存せず。

 ◇上宮鉄塔 →信濃諏訪温泉寺:上社鉄塔(今は石造宝塔)は温泉寺に遷座し、その後昭和53年鉄塔を安置する木造多宝塔が建立され、そこに安置される。
 ◇上宮五重塔風鈴一個 →湖南村岩本伝所蔵、下宮神宮寺磬及び木魚→下諏訪宮坂正所蔵
   (風鈴見取図) ・・・上に掲載(上社神宮寺五重塔の項)、但し上記の岩本伝所蔵のものかどうかは不明。

仏像は諸所に移転したが、判明しているものとして、以下が記載されている。
 上宮薬師堂薬師仏・脇侍日光月光菩薩→玉川村長円寺は下に掲載

 上宮神宮寺本尊釈迦仏・脇侍文殊普賢菩薩→四賀村仏法紹隆寺 →下に掲載

 上宮神宮寺不動尊→湖南村間志野善光寺(高さ1.76m)
 上宮神宮寺愛染明王(銘天文3年)→玉川村昌林寺
 上宮神宮寺下り仁王門仁王尊→湖南村間志野善光寺
 ◇上宮蓮池院本尊不動明王・脇侍→長地村真秀寺
  ※「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」によれば、
  長地真秀寺に伝わる不動明王・脇侍は上宮蓮池院ではなく上社如法院由来という。  
     
 ◇上宮法華寺五重塔安置五智如来→四賀村岩窪観音・・・・上に掲載

 上宮法華寺仁王尊→上諏訪高国寺・・・・高国寺は上に掲載・・・高國寺の項に統合せよ。

 ◇下宮秋宮護摩堂本尊不動明王→下諏訪下ノ原講中
 ?下宮秋宮薬師堂本尊薬師仏・脇侍→下諏訪萩倉薬師堂
    ※萩倉薬師堂は明治30年に焼失、明治36年に再建という情報があり、これに従えばその時薬師仏が焼失した可能性がある。
 ◇下宮秋宮神宮寺千手堂本尊観世尊 →平野村照光寺(岡谷照光寺
 ◇下宮秋宮三精寺地蔵菩薩→長地村平福寺→下に掲載(日限地蔵と思われる)
 ◇下宮春宮薬師堂堂(「衍」か)薬師仏→下諏訪下ノ原講中 →敬愛社・宝光院
  ※衍:えん:《「衍」は余りの意》語句の中にまちがって入った不必要な文字を云う。
 ◇下宮春宮薬師仏→長地村平福寺(薬師仏は良く分からない、両脇侍・十二神将は平福寺に現存か)

 
上宮法華寺の仏像仏具は廃寺の時、末庵地蔵庵に移転せられたが、同寺再興の折、その一部は再び復帰安置されたと伝える。 →下に掲載

※※以上の「信濃諏訪神社神仏分離事件調査報告」で判明する諏訪神宮寺関係遺物以外にも
 下に示すように、「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」によっても判明するものが多くある。

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上宮下宮の社僧はいづれも俗人となった。
上宮下宮の社僧はいづれも俗人となった。
上宮神宮寺住持・権大僧都法印某 還俗名榊原圖書
同 如法院住持・権大僧都法印某 還俗名瀧澤刑部
同 同蓮池院住持・権大僧都法印某 還俗名七島大藏
同 同法華寺住持・権大僧都法印某 還俗名北条大學
同 下宮神宮寺住持・権大僧都法印某 還俗名神山斎
同 三精寺住持・権大僧都法印某 還俗名浮島主殿
同 観照寺住持・権大僧都法印某 還俗名秋元修理
である。 


2023/01/22追加:
諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」に記載される諏訪神宮寺関係遺物
 ○「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」2022 より
  ※但し「信濃諏訪神社神仏分離事件調査報告」で判明しているものはそちらを参照して頂くとして、本項からは除外している。

■諏訪四賀仏法招隆寺
2023/01/22追加:
○「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」 より
 上社神宮寺普賢堂本尊普賢菩薩騎象像:象座部分は鎌倉期、菩薩像は安土桃山期。
 上社神宮寺普賢堂安置文殊菩薩騎獅像      上社神宮寺普賢堂安置文殊菩薩騎獅像2
    :普賢堂に2尊で安置。なぜ2尊なのかは不明。近世の作か。
 上社如法院安置弘法大師(清涼大師)坐像:江戸後期。
 上社如法院本尊普賢菩薩騎象像:小像、秘仏、鎌倉末期から南北朝期。
 上社蓮池院安置大日如来坐像:江戸中期。
 下社神宮寺旧蔵虚空蔵菩薩坐像:江戸期と推定。
仏法招隆寺Webサイト より
 上社神宮寺普賢堂本尊普賢菩薩騎象像2     上社神宮寺普賢堂本尊普賢菩薩騎象像3
 上社如法院本尊普賢菩薩騎象像

諏訪四賀仏法招隆寺:諏訪市四賀桑原にあり。
 高野山真言宗、大同元年(806)坂上田村麻呂が諏訪明神別当として神宮寺村に開基、弘法大師開山。
当寺は諏訪大明神の社務を務めると云う。永禄2年<1559>四賀村に移転。
明治の神仏分離で、以下の諏訪明神の諸仏が遷される。
   諏訪大明神本地普賢菩薩【普賢堂本尊・但し銘は文禄二年<1593>と云う、神仏分離で玉眼は抜かれる。
   諏訪大明神普賢堂脇侍文殊菩薩
   諏訪大明神普賢秘密山如法院本尊普賢菩薩騎象像(鎌倉)・・・後年に遷座と云う。
   諏訪大明神蓮池院本尊大日如来(鎌倉)
現在、普賢堂が山内に再建され、諏訪大明神本地普賢菩薩を安置、普賢神変山神宮密寺の名跡を引継ぐ。
2008/11/14撮影:再興神宮寺普賢堂および上社本尊普賢菩薩
  仏法紹隆寺再興普賢堂1
  仏法紹隆寺再興普賢堂2:この堂は元東京高輪高野山別院の建物<延宝元年・1673>で、東京別院再建時、当寺に下賜と云う。
 ※山門は上社神宮寺山門が宮川村旧役場から昭和22年の当寺に移建され現存する。・・・・・下に掲載
 ※塔頭に開敷院が現存する。明暦元年(1655)再建。 →信濃開敷院
  昭和12年「蚕安塔」(蚕供養)建立、近年改修し、「微笑大師堂」と堂名を変更。馬鳴菩薩及び弘法大師を本尊とする。
2005/07/23撮影:
○上社神宮寺山門:
四賀仏法紹隆寺山門として現存する。
 (神仏分離で宮川村旧役場に移転し、昭和22年当寺に移建と云う。大隈流伊藤長左衛門の作と云う。)
  上社神宮寺山門1
  上社神宮寺山門2:「鼈澤山」の扁額は山城醍醐無量壽院元雅律師の筆と云う。
2005/08/06追加:
○仏法紹隆寺木造普賢菩薩像
 上社如法院像:総高49cm、仏体は19cm。鎌倉〜室町期初期の作と推定。


■岡谷川岸昌福寺
2023/01/22追加:
○「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」 より
 川岸は諏訪明神入諏伝説の地であり、江戸期までは天竜川右岸は下社、左岸は上社と氏子が分かれていた。
 上社如法院安置不動明王立像     上社如法院旧蔵不動明王画像


■諏訪湖南善光寺
2023/01/22追加:
○「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」 より
本田善光が浪速の堀から救い出した善光寺如来を飯田の元善光寺に祀った後、諏訪明神の託宣でこの地に遷座、その7年後に再び託宣で現在の善光寺に遷したという。
 上社神宮寺普賢堂安置毘沙門天立像:鎌倉期〜南北朝期、像高180.6cm、彩色
 上社神宮寺普賢堂安置不動明王立像:鎌倉期〜南北朝期、像高173.9cm、彩色
 上社神宮寺下り仁王門・仁王像阿形     上社神宮寺下り仁王門・仁王像吽形
 ※但し、上記の仁王像の画像は画質の関係で「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」からの転載はせず、Wikipedia<善光寺(諏訪)>からの転載である。

2005/08/06追加:
○神宮寺関係の残存什宝(追加)
 湖南村間志野善光寺
  木造毘沙門天立像(上社普賢堂安置・高さ1.76m)
  上社神宮寺下り仁王門像:鎌倉期か?。阿像が204cm、吽像は206cm。破損が多いという。


■岡村高國寺
023/01/20追加:
○「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」 より
 上社神宮寺上り仁王門:弘化4年(1847)大破、同年再建される。
 上社神宮寺上り仁王門安置仁王像:仁王像も同年の作と推定される。像高は210cm。
    → 上記の遺構・遺物については岡村高國寺に掲載

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■諏訪温泉寺
 上社本宮御神体お鉄塔:明治の神仏分離で諏訪温泉寺に遷座、昭和54年には「お鉄塔」を納める多宝塔が建立される。
   → 信濃諏訪温泉寺


■立澤高榮寺
023/01/20追加:
○「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」 より
諏訪郡富士見町立沢120
上社神宮寺末。永禄2年(1559)武田信玄によって創立、開山は盛喜和尚という。新義真言宗智山派。
 上社神宮寺旧蔵聖観音坐像:等身大の大きさ、18世紀、具体的な堂名称は伝わらず。
 上社神宮寺旧蔵地蔵菩薩坐像:等身大の大きさ、江戸後期、神宮寺由来と伝える。
 上社神宮寺旧蔵弘法大師坐像:安政期、京都寺町の仏師田中淨慶の作、両像ペアーで造られる。
 上社神宮寺旧蔵興教大師坐像: 同 上


■乙事法隆寺
023/01/20追加:
○「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」 より
諏訪郡富士見町乙事5187
承応元年(1652)創立、本尊は十一面観音、新義真言宗智山派、上社如法院末、その由縁で神仏分離の時、仏像・仏具・経典(大般若経六百巻)を引き取る。
明治7年乙事学校創立のため、観音堂のみ残して取り壊され、現在に至り、瀬澤新田長泉寺の兼帯。
十一面観音堂は天明3年(1783)に改築されたものである。
平成8年県道拡幅工事のため観音同堂は西26mの現在地へ移転する。また、諏訪神宮寺の諸佛は隣の乙事公民館に保管されている。
なお、南東300mほどにある乙事諏訪神社幣拝殿は重文指定されている。
 上社如法院本尊大日如来坐像
 上社如法院本尊大日如来坐像并台座
 :江戸期。現在仏法招隆寺に遷座した上社如法院本尊普賢菩薩騎象像は本像の胎内佛という伝承があり、今般本像の胎内銘「奉安置 本尊金剛界大日如来 古佛本尊普賢大士御腹籠」が発見され、伝承の裏付けと見られるようになる。
 上社如法院旧蔵釋迦如来坐像:文明の銘を持つが江戸期に稚拙な補修が行われる。
 上社如法院旧蔵不動明王坐像:江戸後期、底に童子像が丁度収まる丸い孔がある。
 上社如法院旧蔵童子像:大きさは指先ほどで、不動明王坐像底の丸い孔の丁度収まる。附属の孔の蓋もピタリとできる。
 上社如法院旧蔵不動明王立像:江戸後期
 上社如法院旧蔵毘沙門天立像:サイズや作風から上記の不動明王立像と対で、観音像などの脇侍であったのであろう。
 上社如法院旧蔵興教大師坐像:江戸末期、対であるべき弘法大師像が不明。

■玉川長圓寺
2023/01/22追加:
○「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」 より
 上社法華寺薬師堂本尊薬師如来・両脇侍立像:古像で、鎌倉期に遡る可能性あり。両脇侍は摩耗するも、古仏である。

玉川長円寺:茅野市玉川穴山、真言宗智山派、清龍山長圓寺。
慶安2年(1649)武田慶尊法印、高野山金剛頂院の法流を相続し開山、要穴山胎蔵院長圓寺と号する。
延亨2年火災のため本堂、庫裏とも焼失。同3年庫裏、四延享4年年(1747)本堂再建、山号を清龍山と改号する。
薬師堂があり、諏訪大明神薬師堂本尊薬師如来立像(檜一木造、鎌倉、像高93.5cm)及び脇侍日光月光両菩薩を安置する。】
2009/07/21追加:
○「諏訪市史 中」 より
 薬師堂十二神将→泉野上槻木区所有
  ※泉野上槻木とは茅野市に存在するので、おそらくこの地区に遷されたのであろうが、現存するどうかなど不明。
2010/12/10追加:
○「諏訪大社」信濃毎日新聞社編、1980 より
 薬師堂は法華寺の預かりであった。滝沢川を越し、上社社殿の裏にあった。間口3間奥行3間半の小宇であった。
本尊薬師如来は秘仏で、鎌倉期の作と推定される。高さ120cm。
明治の神仏分離で玉川の長円寺(下に掲載)に移されて、現存する。光背などは失われ、本体のみ厨子に納められる。
薬師如来眷属十二神将は上槻木の堂に移され現存する。薬師仏と違い、江戸期の作と推定される。
  ※上槻木の堂とあるも、不明。


■岡谷真秀寺
2023/01/22追加:
○「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」 より
 横川公会堂横に本堂のみ残る。平福寺兼帯。創建は室町初期。旧小萩神社(現在は出早雄小萩神社に統合される)の別當。下社神宮寺末。明治の神仏分離では下社神宮寺本坊が移築されるも、公会堂建設で改築される。しかし内陣遺構はそのまま残るという。
岡谷市長地小萩19-9
 上社如法院安置不動明王坐像及び両脇侍像:立川流の立川富種による江戸末期の作。
 推定上社如法院伝清涼大師澄観坐像:江戸期、小像。

岡谷真秀寺: 応永年中(1400-)下社神宮寺憲明上人によって創建、近世には下社神宮寺末、横川小萩神社別当であったと云う。
旧本堂は、下社神宮寺の本坊を移築と云うも近年改築される。
諏訪神宮寺関係の遺物として、
不動明王坐像(上社神宮寺旧蔵・江戸末期)、清涼大師坐像(上社如法院安置・江戸期)、般若十六善神図像(上社神宮寺旧蔵・室町期)を有する。
2009/07/26追加:
○「岡谷市の文化財」岡谷市文化財審議委員会/編、1980 より
 明治2年神仏分離で下社神宮寺本坊を買受、再建する。昭和24年以降無住、昭和47年寺の建物大改修を行い、隣宮成田山と改号、平福寺兼務となる。
 上社神宮寺木造不動明王坐像:上社神宮寺から移安、安政2年(1855)の作(銘)。
 下社神宮寺般若十六善神図:明治2年下社神宮寺から、大般若経600巻とともに移安。図左は表装の裏側銘。
   「唐絵般若十六善神 海岸孤絶山法性院大坊常什宝」とある。
   天正8年(1580)以降数回の補修があり、文化12年(1815)再々補修。明治2年買受「西山田村成田山真秀寺什物」となる。


■岡谷照光寺 → 下記の遺物については岡谷照光寺に掲載
 下社秋宮本地仏・千手観音立像:写真本地仏厨子(千手観音は秘仏)、秘仏につき写真は非公開、向かって左は御影である。
    なお、厨子は三代藩主諏訪忠晴の寄進で、棟札銘が神山家(下社神宮寺住職の末裔)に残るという。
 下社神宮寺仁王門・仁王像
 下社神宮寺千手堂・信玄不動立像
 下社神宮寺千手堂・聖徳太子立像
 下社神宮寺三重塔本尊胎蔵界大日如来:仏師は康忠(慶派仏師)、明応3年(1494)作<胎内銘>
 下社神宮寺本坊本尊不動明王・二童子立像:江戸初期か
 下社神宮寺本坊安置弘法大師坐像:室町期
 下社神宮寺本坊安置興隆教師坐像:江戸前〜中期

■下諏訪敬愛社・宝光院(修験)
2023/01/22追加:
○「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」 より
 ※慈雲寺(下諏訪町東町中606)の石垣脇にある。宝光院では今に修験活動が行われているという。
 下社春宮本地仏・金銅薬師如来立像:春宮観照寺薬師堂安置:厨子入りの小像が遷座する。

2008/11/14撮影:2023/01/23画像入替:
 下諏訪下ノ原講中寳光院1;寳光院は真言宗醍醐派修験で現在も活動中と思われる。
   同       寳光院2:寳光院には明治の神仏分離で下ノ原講中に遷り、現在もこの寳光院に秘蔵(傍らに保管庫あり)される。
               下宮春宮薬師堂堂(「衍」か)薬師仏は鎌倉期の作と推定、かなり破損すると云う。
2008/11/14撮影:2023/01/23追加:
 下諏訪寶光院堂舎     下諏訪寶光院収蔵庫:春宮本地薬師仏を収蔵
 下諏訪寶光院看板その1     下諏訪寶光院看板その2
2009/07/21追加:
○「下諏訪町の文化財」下諏訪町教育委員会、不明 より
 薬師堂本尊金銅薬師如来立像:薬師堂は薬師平にあったが、焼失、再建の時春宮入口左に移される。
 明治の神仏分離で下原村敬愛社に遷座。高さ12cm、鍍金や細部は火災で損傷、鎌倉期の作と推定される。
      (※敬愛社とは不詳であるが、下ノ原講中・真言宗醍醐派修験寳光院の講社名であろうか?)
○白鷺山
 宝光院(敬愛社)の「お山」とされている。古くから修験の場で、古く山上の岩に不動の二字を刻んで本尊とし、安永6年に石尊大権現を還座したといわれる。のち高島藩家老千野家の庇護を受けながら白鷺稲荷大明神を祀ったり、文政9年(1826)には山の中腹に大日如来・阿弥陀如来・観世音菩薩を祀って熱心に修業したと伝わる。急峻な山道沿いにたくさんの神仏碑が祀られており、現在でも敬愛社の社員が御柱の年にこの白鷺山山頂で紫灯護摩が行われている。


■岡谷平福寺
2023/01/22追加:
○「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」 より
平福寺:彌林山と号す、真言宗智山派。創建は不明、諏訪下社神宮寺の僧・憲明阿闍梨(?-1396)の中興という。隆盛時には、下社春宮の別当であり、七堂伽藍・門徒十一坊を有するというも、戦国期に荒廃する。江戸期には、東堀(柴宮)正八幡宮の別当であった。
なお、平福寺の阿弥陀堂は明治の神仏分離で柴宮正八幡宮から移される。阿弥陀堂には柴宮正八幡宮の本地仏・阿弥陀如来が祀られていたのである。そして大正期には左側に日限地蔵堂が増築され、日限地蔵尊が祀られる。
 下社秋宮三精寺阿弥陀堂安置阿弥陀如来坐像:鎌倉期、慶派作と考えられる。
 下社秋宮三精寺本尊十一面観音立像:室町から江戸初期の作、ただ秋宮の本地は千手観音であり、なぜ三精寺本尊が十一面観音なのかは分からない。
 下社春宮観照寺本尊脇侍日光・月光菩薩立像:観照寺本尊は薬師如来でありその脇侍とされる。江戸初期の作。
 推定下社春宮観照寺安置十二神将立像:日光・月光菩薩像ともに観照寺本尊薬師侶来に従っていた像と推定、宝暦5年(1755)銘。
 三精寺あるいは観照寺安置不動明王立像:平福寺には4躯の不動明王がある。記録上は観照寺から2躯、三精寺と柴宮から各1躯引取られたというも、現在ではどの像がどこから来たのかの特定は困難という。
下社秋宮三精寺地蔵菩薩立像:日限地蔵尊、江戸期の作、厨子入秘仏。三精寺地蔵堂から遷される。・・・・画像なし
○2023/01/22追加:
GoogleMap より転載
 三精寺旧蔵阿弥陀如来坐像
 三精寺旧蔵十一面観音立像・不動明王立像:向かって左が十一面観音、右は不動明王であるが出所は確定困難。

岡谷平福寺:岡谷市長地柴宮3丁目、新義真言宗智山派。中世には諏訪下社春宮別当と云う。
2009/07/26追加:
○「岡谷市の文化財」岡谷市文化財審議委員会/編、1980 より
 近世、平福寺は柴宮八幡宮別当であった。神仏分離の折、下社三精寺の仏像什器が移される。
 三精寺阿弥陀如来坐像:三精寺の本尊と伝える、坐高85cm、現在地蔵堂に安置、室町期の作と推定。乾漆彩色が残る、光背は候補。
 三精寺十一面観音立像:本尊大日如来の脇士、三精寺から移すと伝える。高さ66,5cm。
 なお日切地蔵尊は下諏訪町商人十郎が自宅に祀っていたものを明治2年神仏分離に際し移すと云う。


■諏訪中州小泉寺
2023/01/22追加:
○「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」 より
諏訪市中州中金子3320-2
上社如法院に由来する徳川家位牌も伝わるという。
 下社神宮寺本坊表門:小泉寺に現存する。表門は現在の「いいなり地蔵尊」の附近にあった。


■茅野惣持院
2023/01/22追加:
○「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」 より
茅野市塚原2丁目8-2
白岩観音堂の別當。
 下社神宮寺懸仏:木造彩色、慶長10(1605)年、直径約30cm。背面に「下宮御本地拾壱面観世音菩薩」」の墨書がある。ただ下社本地は千手観音、春宮本地は薬師如来であるので辻褄が合わない。

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■堀ノ内廣圓寺
近世は下諏訪来迎寺末、明治30年京都知恩院直末。天保年中に罹災、安政4年(1857)本堂再建。
2009/07/26追加:
○「岡谷市の文化財」岡谷市文化財審議委員会/編、1980 より
上社神宮寺普賢堂格天井 → 廣圓寺:岡谷市堀ノ内2−9−23
明治元年、諏訪明神上社神宮寺普賢堂取壊、普賢堂格天井を当寺本堂天井に移す。格天井には十二支並びに四季花鳥が描かれると云う。
2023/01/22追加:
この格天井についてWebで情報検索するも、全くヒットせず、現存するのかどうかなど不明。


■信濃高遠遠照寺
2022/08/23追加;
上社神宮寺普賢堂奉納の陣太鼓
 織田軍高遠城攻略の際の遺留品で、信濃高遠遠照寺に現存する。
陣太鼓は征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐戦勝のお礼に諏訪神宮寺(明治の廃仏毀釈で解体廃寺)普賢堂に奉納した太鼓と伝えられる。
現地案内板には次のようにある。
陣太鼓:天正10年(1582)織田軍が高遠城を攻撃、諏訪大明神普賢堂にあったものを森長可が寄進と伝える。
2022/04/20撮影:
 遠照寺鰐口・陣太鼓

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2009/07/21追加:
○「諏訪市史 中」および「諏訪市史 下」 より
慶応4年4月、諏方大祝の名代・五官惣代から上社社僧並びに堂塔についての「諏訪社書上」が神祇事務局に提出される。
 今般御改政に付諏方上宮社僧并堂塔委細 言上可仕旨被仰渡左に奉申上候
  1.神陵間に石にて九輪塔   1.社僧4ケ寺
     真言宗神宮寺
  1、(社内)大般若堂   1.(鳥居内)普賢堂 但し本地と唱申候   1.鐘楼堂   1.弘法堂   1.太子堂   1.仁王門
  1.神願門  (略)  右同寺預り所に御座候
     真言宗如法院
  1.納経堂 (略)  1.護摩堂   右同寺預り所に御座候  外に鳥居中、坊3ケ所同寺支配に候
     真言宗蓮池院
  1.不動堂  右同寺預り所に御座候  (略)
     臨済宗法華寺
  1.(鳥居中)薬師堂   1.釈迦堂   1.観音堂   1.五重塔   1、仁王門  (略)   1.神與遷 (略)
     右の通りに御座候
慶応4年6月15日、京都神祇局から大観察使富饒夫、副使中川陸奥、下役人2名が諏訪に到着
神仏分離の処置の遅れに対する叱責と除仏の厳命を受ける。
神宮寺、如法院、蓮池院、法華寺は除仏と還俗の請書を強制され、除仏の実行と金物の重量の計測を命令される。
 法華寺日記:「この夜、諸堂残らず除仏を実行」とある。
6月19日観察使立会で堂塔取壊を開始するも、人足は仏罰を恐れ動かず、中川陸奥が両社の社家を指図して諸堂の下造作部分を取壊。
鉄塔も小社人が取り出し放置する。
6月20日観察使一行は下社に向かうも、ここでも人足は一向に動かず、無理をすれば暴動勃発の状況になり、藩も社方も心配して、目下農事多忙を理由に秋まで延期を願い出、観察使一行には引き上げを要請し、取り壊しの猶予をもらう。
慶応4年7月法華寺は廃寺とされ、仏具・仏像は宮田渡村地蔵堂(千仏堂)に移される。
寺方4寺と8坊は以下のように還俗する。
 神宮寺(神原図書)、如法院(滝沢刑部)、蓮池院(七島斉蔵)、法華寺(北条大学)、神洞院(山本主殿)、蓮乗坊(武田織部)、
 泉蔵坊(藤森釆女)、玉蔵坊(牛山内膳)、善勝坊(三嶋左近)、松林坊(淺井弾正)、執行坊(高山帯刀)、宝蔵坊(山中内匠)
地元の神宮寺村は取壊しは勿体ないので、五重塔を始め全ての堂塔を貰いうけを藩に対し連日運動を行う。
その内取壊し堂塔は全部仏法寺が貰い受けるという話しになり、神宮寺村の熱意や事情を知った仏法寺も藩に「取壊し堂塔は全て神宮寺村武井城下に転地、再建し、法要会式も従前通り務める」と運動に力を貸す。
しかし藩は許可せず。そのため
神宮寺村はせめて普賢堂・銅燈籠2基・五重塔・仁王門・鐘楼のみの譲渡を願い出る。
藩は1村堂宇のみの拝領とし、止む無く神宮寺村は薬師堂1宇のみの譲渡を申出許可される。
明治元年11月下旬、堂塔取壊し請負の入札が実施され、真志野村が普賢堂・五重塔を金50両で落札する。
普賢堂は12月7日から、五重塔は12月10日から取り掛かり、普賢堂は9日に、五重塔は19日には取壊しが完了した。
但し取壊しは再建できるように丁寧に行い、材木には雨よけの覆いをかけて管理したが、盗難も多かったと云う。
知久氏(普賢堂・五重塔の寄進者)は上社に取壊しを抗議するも、上社は取り合わなかったと云う。
しかし五重塔だけは取壊しに先立ち、神宮寺村大工守矢松蔵に実測させて図面を残し、これは今に伝わる云う。
その他の堂宇(釈迦堂・大般若堂・納経堂・護摩堂・仁王門)は主に地元神宮寺村の人足によって取壊される。材は御作事屋の前に積まれた。
梵鐘は村の警鐘に願い出るも、壊され、松本の金物商に売られる。
かくして、平安〜鎌倉期の神宮寺堂塔伽藍は明治元年の年末僅か3週間ばかりで姿を消し、神仏が栄えてきた上社周辺は「見る影もない寂しい姿に変わり果てて」しまった。
 高島藩が結局神宮寺破壊の方針を出したのは、藩主諏訪忠誠が幕末に老中であり、明治維新政府の意向に沿う方策を採ることによって藩の安泰を図る意図であったと思われる。この点は松本藩や伊那地方の国学の立場からの廃仏毀釈とは趣を異にするといえるであろう。

2023/01/23追加;
次の論文があるので、備忘とする。

「諏訪市萬福寺蔵『諏訪神社上宮神宮寺世代』翻刻と考察」小林崇仁(「蓮花寺佛教研究所紀要 第四号」個人研究 所収)
  ※「諏訪神社上宮神宮寺世代」は「神宮寺師資相承系図・金剛宝蔵」というべきものであろう。
  ※小林崇仁:岡谷市平福寺住職・蓮花寺仏教研究所研究員
 「諏訪神社上宮神宮寺世代」は諏訪市の萬福寺の所蔵である。
本史料には上神宮寺に相承された中院流の血脈が示されており、上神宮寺の略史や人的系譜を知る上で、大変貴重な基礎資料となる。
ついては、全文を翻刻し、合わせて上神宮寺の歴代住職についての若干の考察を試みたものである。
 ※詳細については、専門性に富み、難解であるので、割愛する。


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