常 陸 村 松 虚 空 蔵 堂 多 宝 塔 ・ 三 重 塔

村松虚空蔵堂(日光寺)多宝塔・三重塔

村松虚空蔵堂三重塔

2012/04/04追加:
村松虚空蔵堂明治33年焼失三重塔写真

 ◎村松虚空蔵堂明治33年焼失塔;左図拡大図:
「N-Y」氏ご提供画像:
  (出所:「村松山虚空蔵堂縁起」創建1200年記念、村松山虚空蔵堂、平成19年)

明治33年焼失以前の写真の存在は 「中央の著名寺院」以外では稀有のことと思われる。

塔の詳細(仕様)は不詳、塔の創建、なども不詳であるが、
平成19年「村松山虚空蔵堂縁起」p,48では「焼失前の塔は当山の記録では享保4年・1716の建立と記す」とある。

 ◎村松虚空蔵堂仁王門:明治33年焼失仁王門:
「N-Y」氏ご提供画像:
  (出所:「村松山虚空蔵堂縁起」創建1200年記念、村松山虚空蔵堂、平成19年)
   以下▼印画像は「「N-Y」氏ご提供画像」を示す。

村松虚空蔵堂古絵図
 ◆天保検地絵図:

2012/04/06追加:平成19年「村松山虚空蔵堂縁起」 より
 ◎天保検地絵図:左図拡大図、おそらく部分図か、
向かって左に仁王門、本堂、三重塔、鐘楼が描かれ、右奥は五社明神が描かれる。
東方に龍蔵院ほか3坊、西方に龍光院ほか1坊が描かれるも坊の名称は判読できない。東方は北の1坊を除いて全て龍蔵院のおうに読める。

 ◆村松虚空蔵堂門前絵図:

2012/04/06追加:平成19年「村松山虚空蔵堂縁起」 より
 ◎村松虚空蔵堂門前絵図:上記「天保検地絵図」を写したものであろうと云う。

 ◎村松虚空蔵堂絵図(部分図・江戸期と思われるも不詳。) :左図拡大図
 :「社寺境内図資料集成」 より
個人蔵
上記と同一の絵図であろうと思われる。
虚空蔵堂伽藍に仁王門、本堂、三重塔、鐘楼が描かれるのは「天保検地絵図」と同じであるが、五社明神には鳥居・随身門・本殿などが描かれる。

 ◆虚空蔵堂真崎浦絵図:

2012/04/06追加:平成19年「村松山虚空蔵堂縁起」 より
 ◎虚空蔵堂真崎浦絵図部分:左図拡大図、虚空蔵堂部分図

 ◎虚空蔵堂真崎浦絵図:全図
作成年代は不詳、おそらく江戸後期のものであろうか。
虚空蔵堂南西はかっては真崎浦と呼ばれる湖であったが、現在では全て干拓される。
仁王門・本堂・三重塔・鐘楼があり、東に龍蔵院、西に龍光院と思われる坊舎が描かれる。

 ◆常陸国大甕倭文神宮絵図:(久慈濱千福寺塔婆)

2012/04/06追加:平成19年「村松山虚空蔵堂縁起」 より
常陸国大甕倭文神宮絵図:左図拡大図:個人蔵
製作年代は全く不明、江戸期のものであろうか。
勿論、本絵図は大甕倭文神宮を描いたものであるが、大洗磯崎社・磯崎酒列社・村松山虚空蔵堂・村松五社明神・大甕社などは航海にとって、その樹叢が海から見えるランドマールであったと推測される。

本図の左下隅に村枩(村松)とあり、塔婆が描かれる。勿論虚空蔵堂の三重塔である。

久慈濱千福寺塔婆
村枩の右に久慈川を挟み、久慈濱・千福寺が描かれニ層塔と思われる塔婆が描かれる。久慈千福寺にはニ層塔(多宝塔)などの塔婆があったのであろうか。
千福寺に関するWeb情報は以下のような限られた情報しかなく、何らかの塔婆があったことの確認を取ることは出来ないのが現状である。

千福寺は神明山と号する。天台宗比叡山延暦寺末寺。貞観年中(859)慈覚大師圓仁の開基、寛和4年(986)了伝上人が開山(現在の久慈小学校寺蹟) と云う。宏荘なる堂宇伽藍があったが、文久元年(1861)9月久慈村の大火で、本堂・庫裏、宝物、古記録など灰儘に帰す。
 ※元敷地は久慈小学校近くの海崖の突端にあり、かつての久慈川の河口港に出入りする船はもちろんのこと、久慈の街並、太平洋を遠望することができる眺望の一等地であった。
昭和7年、現在地(日立市久慈町1丁目33-10)に再建される。

 ◆村松山虚空蔵堂之景:
2012/04/06追加:平成19年「村松山虚空蔵堂縁起」 より
 ◎村松山虚空蔵堂之景0:下図と同版の絵図であろう。
2012/04/04追加:
 ◎村松山虚空蔵堂之景:「那珂郡村松村字宿通 村松山虚空蔵堂之景」
明治36年作成、彩色、大きさ37.8×49.5cm。銅版印刷画。
作者:大澤静務、版元等:光彰館
 :国土地理院のサイト>古地図コレクション より転載
少々図版が小さく詳細は不明であるが、三重塔が描かれる。
明治36年の作成であるが、明治33年焼失以前の姿を描くものと思われる。

村松虚空蔵堂概要

2012/04/04追加修正:
2012/04/06追加修正:「村松山虚空蔵縁起」(平成19年)の内容を加味。
大同2年(807)弘法大師の創建と伝える。平城天皇より「村松山神宮寺」の勅額を受く。
なお慈覚大師創建との説もあるが、いずれにせよ創建の事情は不明な部分がある。
 ※「村松山虚空蔵縁起」(平成19年)に「神明鏡」(作者不明、室町期の著述と推定)の慈覚大師(圓仁)の事跡記事の紹介がある。
    → 下野大慈寺の「神明鏡」の項を参照。
  「神明鏡」では村松は慈覚大師の創建とする。
中世には佐竹氏の庇護を受け大いに隆盛する。当時、円蔵寺、松林寺、歓喜寺、東光寺、竜蔵寺、竜光院等の寺中があったと云う。
文明17年(1485)兵火により鳥有に帰す。
 ※「村松山虚空蔵縁起」(平成19年):「和漢合運図」文明17年の項では「佐竹乱、村松堂塔焼」とある。
  佐竹の乱とは佐竹義治と陸奥の岩城常隆との攻防を云う。
長亨元年(1488)白頭上人再興し、村松山神宮寺を改め、村松山日高寺と称する。
 ※「村松山虚空蔵縁起」(平成19年):「和漢合運図」長享元年の項に「頭白上人村松建立」とある。
  なお、「和漢合運図」は水戸和光院に伝来した書き継がれた年表である。
この頃、村松虚空蔵堂は太田・正宗寺が別当で、江戸初期までこの関係は続く。
慶長15年(1610)徳川家康朱印50石を寄進。

江戸期には、竜蔵院、竜光院を夫々別当とし、修験道に改宗す。
 ※寛文3年(1663)徳川光圀は領内の寺社整理を企図し、「開基帳」(寺社基本台帳)の作成を命ず。
この「開基帳」によれば、虚空蔵堂は村松東方龍蔵院(別当瀧之坊、水戸吉田一乗院末)と村松西方圓蔵院(別当前之坊、寺沼如意輪寺末)の支配であることが分かる。
 ※天和3年(1683)龍蔵院と圓蔵院との間に争いが生じ、光圀は改めて修験行者太田村龍蔵院に正別当瀧之坊を命じ、龍蔵院下住(霞)大田村龍光院が前之坊の名称を与えられ、脇別当に任ぜられると云う。
 天保の検地絵図:龍蔵院・龍光院が描かれる。天保の検地のとき、検地絵図も作成される。
  この検地の時、村松東方と西方は統合され村松村に一本化されると云う。

「村松山虚空蔵縁起」(平成19年)には論述がないが、おそらく村松山虚空蔵堂(日高寺)と五社明神は一体であったと推測される。
 ※以上のことは五社明神(現在の村松大神宮)のサイトの「御由緒」(以下に要約)から窺うことができる。
 即ち「「和銅元年(708)に奉斎」とされ、「大同年中(806〜810)平城天皇より『村松五所大明神』の御勅號を賜る。」
 「中世に至り戦乱の世となり、社殿も戦火を被り神領も侵犯され荒廃し祭祀などできる状態ではなくなり、戦火を逃れるため
 永享7年(1435)神璽を奉じて、奥州名取郡藤塚に奉遷した」と云う。
 江戸期には「朱印地三十三石餘と神地二十四町の寄進があり、元禄7年(1694)徳川光圀は、新たに神殿を造営し
 同9年あらためて伊勢皇大神宮より『御分霊』を奉遷、『天照皇大神宮』と奉称」する。
   蛇足ながら、
   「勤皇の志士が多数参宮し、皇大御神の御神徳を仰ぎ、尊皇敬神の念を高め、明治維新の礎」をなすとも述べる。
     →恥ずかしくも、国家神道の教義の吐露であろう。
   ついでにいえば、「昭和31年より神池『阿漕浦』の水を日本原子力研究所へ分水。
   世論を分ける大論争となるも、『地域の発展と日本の未来のために』との先代宮司の英断によるものでした。
   それにより、わが国初の『原子力の火』をともすことに成功。
   以来核燃料サイクル開発機構・日本原子力発電株式会社・日本電信電話株式会社へも分水。」と誇る。
     →要するに、戦前は皇国史観による国威発揚の神輿を担ぎ、戦後も何の反省もなく国策を賛美する神道の本質を示すものであろう。
 ※【近世史料W 加藤寛斉随筆(茨城県史編纂近世史第一部会刊)】では
 「・・・五社明神ハ、義公(光圀)地神天照大神と御定ニ遊しより、今ハ伊勢の大神の写と思ふ、・・・」とあり、これは的確な表現と思われる。
 以上は要するに、水戸光圀は封建領主として虚空蔵堂の世俗に介入し、さらに精神世界にも介入し五所明神と虚空蔵尊を分離、
 五社明神に伊勢大神(アマテラス)を勧請したということであろう。
 あるいは明治の神仏分離に先行する元禄の神仏分離とも云うべき処断であったのであろうと推測される。
「村松山虚空蔵縁起」(平成19年)では、その後光圀は巨資を投じ伽藍の造替を行うが、佐竹氏縁の僧侶を嫌忌し真言宗日高寺を廃すと云う。
 ※真言宗日高寺を廃すとは意味が良く理解できないが、如何なることなのであろうか。

明治3年神仏分離により「星の宮」と改号する。
 ※「村松山虚空蔵縁起」(平成19年)には経緯などの論述がなく、何らかの強制力が働いたかどうかなどは不明。
 ※日本における虚空蔵菩薩の信仰は真言宗などの密教の中で成立する。空海は虚空蔵求聞持法を教授され、その奥義を取得する。
  天台系では安房鴨川清澄寺にて虚空蔵求聞持法を修する。清澄寺は天台から真言に改宗、戦後日蓮宗大本山となる。
  (「村松山虚空蔵縁起」)
 ※天台系教説では「明星天子の本地は虚空蔵菩薩なり」と説くようであり、このような教説が復古神道家などに逆利用されたのであろうか。
明治4年「虚空蔵」の称号が認可され「星の宮」より改称、真言宗日高寺となる。
明治33年(1900)民家から失火、本堂、仁王門、三重塔、客殿等悉く類焼す。
ただちに仮本堂・庫裏などが再興される。
 村松虚空蔵堂仮堂宇の図:▼:▼印画像は「「N-Y」氏ご提供画像」 (出所:平成19年「村松山虚空蔵堂縁起」)を示す。
その後順次本堂等諸伽藍を復興。
 村松虚空蔵堂本堂建築図:▼     村松虚空蔵堂本堂略図:▼
大正元年本堂再建、大正6年書院再建
昭和9年奥之院多宝塔・客殿が寄進される。
昭和45年仁王門再建、昭和55年鐘楼再建、平成10年に三重塔が再建される。

現在は真言宗豊山派。伊勢朝熊山金剛證寺陸奥柳津霊厳山円蔵寺とともに日本三体虚空蔵尊のひとつと称する。
 ※あるいは、安房鴨川清澄寺を伊勢朝熊山に代えて、日本三体虚空蔵尊のひとつとする説もある。
(「村松山虚空蔵縁起」)

村松虚空蔵堂多宝塔

昭和9年建立。一辺4.55m、高さ約13m。初重頭貫より上の組物(一手先)は木造であるが、木製頭貫から下は石造(耐火耐震) の構造である。上重は唐様三手先で正規の木造建築であろう。屋根銅板葺。
初重は稲田石(花崗岩)を使用(平成19年「村松山虚空蔵堂縁起」)
 村松虚空蔵堂多宝塔1      村松虚空蔵堂多宝塔2      村松虚空蔵堂多宝塔3
 村松虚空蔵堂多宝塔4      村松虚空蔵堂多宝塔5
2012/04/04追加:
 虚空蔵寺多宝塔計画図案:▼

村松虚空蔵堂再興三重塔

平成10年再建塔。総檜造の和様で統一された本格木造塔婆と思われる。但し、白木ではなく、おそらく防腐のためか、古色塗りが行われていると思われる。
一辺4.5m、高さ 21.5m。屋根銅板葺。
 村松虚空蔵堂三重塔1      村松虚空蔵堂三重塔2      村松虚空蔵堂三重塔3      村松虚空蔵堂三重塔4
 村松虚空蔵堂三重塔5      村松虚空蔵堂三重塔6


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