山 城 石 清 水 八 幡 宮 寺

石清水八幡宮寺関係発掘調査の成果等  →  石清水八幡宮・補足

再興石清水八幡宮寺放生会 → 2004年石清水八幡宮再興放生会

石清水八幡宮寺における塔婆の概要

※石清水八幡宮寺には、
 1)東谷宝塔院宝塔(琴塔)、
 2)西谷大塔、
 3)西谷小塔、
 4)駿河三昧塔(馬場末塔・多宝塔)の4基の塔があったと知られる。
その中で、1)宝塔院宝塔及び2)西山大塔は幕末・明治初頭まで存続するも、明治の神仏分離で破却される。
そして、現状は次のようである。
1)東谷宝塔院宝塔(琴塔)は土壇及び幾つかの礎石を残す。
2)西谷大塔は2010年の発掘調調査でその位置が確定する。但し、土壇などの遺構はほぼ削平され、僅かに雨落ち溝の遺構と束石1個の残存を見るのみであった。
3)西谷小塔及び4)駿河三昧塔の遺構は未だ知られず。

2022/01/31追加:
なお、江戸期の多宝小塔が国分聖徳太子会に現存する。
この小塔は、明治維新まで石清水太子堂に安置と思われるが、未確認。
また、この小塔が国分聖徳太子堂に安置されているのかどうかも未確認である。
2022/09/13追加:
多宝小塔は、天保14年(1843)に再建された太子堂に安置されていたが、
明治の神仏分離の処置で、近江国分の五代目眞田武左衛門が、太子堂及び安置されていた厨子入り聖徳太子像並びに多宝小塔を買い受け、近江国分に移す。
そして、現在まで、眞田氏が代々それらを守り、近江国分に現存する。(保存主体は近年設立された国分聖徳太子会が担う。)
  →石清水八幡宮多宝小塔


中世の石清水八幡宮寺の塔婆の姿

「一遍聖絵(一遍上人絵伝) 」(鎌倉後期)に見る多宝塔・大塔/小塔

一遍上人絵伝 :正安元年<1299>:
本殿東側外(東谷宝塔院)に多宝塔、西谷には2基の塔婆(西谷大塔・西谷小塔)がある。
一遍上人の時代には少なくとも3基の塔の存在が知られる。 ・・・石清水八幡宮塔婆の現存する最古の絵と思われる。

この絵伝では、東谷宝塔部分図に見られるように、東谷宝塔は下重3間・上重円形のいわゆる「多宝塔」形式として描かれる。
多宝塔は古風な石積基壇上に建つように描かれる。下重;中央間板扉、両脇間連子窓、基壇は壇上積基壇、相輪は九輪を用いる。
西谷小塔は多宝塔形式のように見えるが、西谷大塔は上重屋根のみでその形式を窺うことはできない。

本殿・東谷宝塔院


東谷宝塔院部分

西谷
向かって左;小塔、右:大塔


西谷大塔・小塔

2005/10/15追加:2007/07/06追加・修正:
創建時の宝塔院宝塔(護国寺宝塔院)

◆護国寺宝塔院略歴
 大菩薩移坐以前の塔婆で、願主は知らずと伝える。「宮寺旧記」など
 万寿年中(1024〜)修造、別当元命(19代別当)、本尊:胎蔵界大日、「石清水八幡宮末社記」「宮寺旧記」「宝塔院修理造進事」
 延久年中(1069〜)修造、「宝塔院修理造進事」
 承安元年(1171)、養和元年(1181)、元暦元年(1184)、建久元年(1190)宝塔院領の記事
 建久3年(1192)七輪を九輪に替える(7輪に2輪を加え9輪にする)。「石清水皇年代記」
 嘉暦元年(1326)護国寺炎上
 建武元年(1334)後醍醐天皇行幸、宝塔院が僧の集会場になる。
 永享6年(1434)宝塔院事始。「石清水八幡宮御修理造営之記」
 明応3年(1494)護国寺炎上。「石清水八幡宮寺堂塔建立次第」
 慶長5年(1600)豊臣秀頼、宝塔院再興。「八幡宮寺造営之次第」、寛永8年(1631)・明暦2年(1656)修理。
 明治3年宝塔院撤去。
 創建時の形式は不明。

◆「一遍上人絵伝(正安元年<1299>)」<東谷宝塔院部分>では、多宝塔形式で描かれる。・・・上掲

 →室町最初頭、「建武元年(1334)後醍醐天皇行幸、宝塔院が僧の集会場になる」とあり、室町初頭宝塔院の存在が知られる。
 →室町中期「永享6年(1434)宝塔院事始」とあり、宝塔院宝塔は造替あるいは再建された可能性が高いと思われる。

◆「石清水八幡宮曼荼羅」(推定室町初期、根津美術館蔵):
 

「石清水八幡宮曼荼羅・宝塔院」

「石清水八幡宮曼荼羅」(根津美術館蔵)では宝塔院宝塔は
下重方形5間、上重方形3間の天台大塔形式で描かれる。

縁を四面に廻らせ、下重南辺5間は蔀戸(もしくは漆喰壁?)木階は中央、東辺の右脇間1間が板扉(この前の勾欄は入口の如く切れている)中央3間と北脇間は蔀戸(もしくは漆喰壁 ?)と思われる。上重中央間は板扉、両脇間は連子窓と思われる。

護国寺が天台系であり、また王城守護の役割もあったことを考えると、
中世には比叡山東塔惣持院(天台大塔)形式であった可能性は高いと思われる。

 「石清水八幡宮曼荼羅」;部分図:左図(宝塔院)を含む周辺図
    ※2007/07/06画像入換
 「石清水八幡宮曼荼羅」:全体図 :室町初期と推定
  ※ここでは西谷大塔は描かれず。

参考:
 石清水八幡宮曼荼羅写:(貞和の感得図の模写):宝暦8年(1758) 模写石清水八幡宮所蔵? :根津美術館蔵本の模写と思われる。
  ※下記のように宝暦8年の(貞和の感得図の模写)は既に焼失と云う。
参考:
2008/09/13追加:
○「石清水八幡宮 諸建造物群調査報告書(本文編)・(図版編)」八幡市教育委員会・石清水八幡宮、2007
 石清水八幡宮社頭図:(貞和の感得図の模写):寛政5年(1793)模写
裏書に「貞和2年(1364)十月四日感得之、有此図岩本坊、宝暦8年四月十五日谷村正穏写、寛政5年五月廿四日谷村久輔模写焉」とある。
 (宝暦8年谷村正穏写は既に焼失、『「石清水八幡宮史」第1輯図版』に 所収と云う)
宝塔院塔婆は天台大塔系の初重平面方5間・上重平面方3間で描かれ、初重には縁を廻らす、また南面は中央間に階段があるが、東面は左脇間(左端)の間が扉と思われ、そこに階段が付設する。(大塔は描かれていない。)
 ※宝塔院宝塔については上掲載「石清水八幡宮曼荼羅」(根津美術館蔵)と全く同一の形式を採る。
2011/07/19追加:
○「石清水八幡宮境内 範囲確認調査 現地説明会資料」八幡市教委、2010/11/06 より転載
 石清水八幡宮社頭図:貞和2年(1364)感得図、「石清水八幡宮史」第1輯図版に所収絵図

   なお、鎌倉末期とされる大倉文化財団蔵「石清水八幡宮曼荼羅」が存在する、ここでは宝塔院の屋根のみ描かれると云う。
      ※大倉文化財団蔵「石清水八幡宮曼荼羅」 :但し掲載画像は不鮮明

2007/07/06追加:
○「石清水八幡宮寺の宝塔院(琴塔)について」中安真理、(「美術史研究」第42冊、2004年12月、早稲田大学美術史学会 所収) より
諸種の記録から、平安末期以降、宝塔院内で「法華三昧」が修されていたことは確かである。
宝塔院に法華経を安置した記録は見つからないが、「法華三昧」が修される宝塔とは、最澄の発願になる「六所宝塔」との類似性が指摘できる。即ち石清水八幡宮宝塔院も六所宝塔院と同じく法華塔と考えられるであろう。
要するに、六所宝塔の設置目的(鎮護国家・護国)は八幡神の役割と重なり、その八幡宮に法華塔が建立されるのはいわば必然と云えるのかもしれない。ちょうど宇佐八幡宮に「安南:豊前:宝塔院」の設置が計画されたのと軌を同一にするのであろう。
   →宇佐八幡宮・六所宝塔の項などを参照

 ところで、石清水八幡宮の古絵図には粉本(この場合拠り所とした作品)が存在すると云う。
「大倉文化財団蔵・石清水八幡宮曼荼羅」「一遍上人絵伝」の系統の粉本(文永8年・1271頃成立)と
「根津美術館蔵・石清水八幡宮曼荼羅」に代表される系統の粉本(嘉禄元年・1225頃成立)との2種類があるとされ、これに従えば、
宝塔院宝塔は「根津美術館蔵」本に描く「天台大塔形式」の方が若干早いということになる。
※この項は 2008/09/13追加:「石清水八幡宮を描いた古絵図について」土田充義(「日本建築学界論文報告集 202」昭和47年 所収)より

2008/09/13追加:
○「石清水八幡宮 諸建造物群調査報告書(本文編)・(図版編)」八幡市教育委員会・石清水八幡宮、2007
中世の石清水八幡宮塔婆の状況を有る程度窺うことが出来ると思われる。
 大宮末社以下堂舎屋指図:全図(石清水八幡宮蔵)、 この図は地形や距離は無視するが・方位はほぼ合致する。
製作時期は江戸前期と推定されるも、その堂舎屋の一部は江戸前期には既に存在しないものも描かれ、中世の状況を復古的に描いたものととも推定される。
塔婆関係では西谷(図の左下)に大塔・小塔、東谷(図中央附近)に宝塔院が描かれる。
 大宮末社以下堂舎指図・宝塔院:部分図、図の中央下が宝塔院、初重平面方5間で中央に四天柱を立てる。四方に階段を設ける。
 大宮末社以下堂舎指図・大塔/小塔:部分図、大塔は中央にあり、初重平面方5間、その内に内側柱を10本円形に配する、
                さらに中央に四天柱を建てる。
                 (円形に配した内側柱が12本ではなくて10本であるのは特異であるが、その理由は不明。)
                小塔は大塔の右下すぐにあり、初重平面方3間で四天柱を建てる形式であり一般的な多宝塔形式と推定される。

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近世の石清水八幡宮寺の塔婆の姿

 近世初頭「慶長5年(1600)豊臣秀頼、宝塔院再興。」

2008/09/13追加:
○「石清水八幡宮 諸建造物群調査報告書(本文編)・(図版編)」八幡市教育委員会・石清水八幡宮、2007
  ◆雄徳山石清水八幡宮指図:全図、
宝暦5年(1755)森幸安が社中の僧院から写した図を渡辺吉賢(大坂天満宮祝部)から借り出して写した図と云う。内閣文庫蔵。
建物の規模寸法の記入がある。宝塔院琴塔は5間3尺6寸(10.19m)四方、大塔は7間3尺8寸(13.89m)四方とある。
 ※宝塔院及び西谷大塔についての大きさ・本尊などは以下の記録がある。
○「愚子見記」平政隆(編著)、全九帖、天和頃成立か
  一大塔  7間3尺四方
  一宝塔院 5間3尺6寸四方 俗曰琴塔図有
○「八幡末社御朱印高之覚」天明7年(1787)
  宝塔院 ヲモテ南面大日北面毘沙門
  大塔  釈迦多宝

2007/07/06追加:
◆「八幡四境図」:石清水八幡宮蔵:延享4年(1751)作

 右上の讃:「八幡四境図 落合式部仲宣考記之自画、之即延享中前後之趣也。寛延4年9月、使衣川舎人幸緒全図之而以為落合之家蔵俟。余諸其草稿於幸緒而収于家。  寛延5(4)年辛未8月谷村民部正穏」とあり
延享年中(1744-)前後の景観を描いたことがはっきりしている。
  八幡四境図:全図:「石清水八幡宮と神仏分離」神尾登喜子(「阪南論集」人文・自然化学編38-2、平成15年 所収)より
  八幡四境図・宝塔院:上重・下重とも方形に見える。下重は方3間に見える。:「石清水八幡宮寺の宝塔院(琴塔)について」中安真理 より
    ※西谷大塔については、拡大図がなく、当図での形式は不詳。

2004/02/27追加
◆石清水八幡宮境内圖

石清水八幡宮境内圖(左図拡大図):(部分図)
・・・時期不詳、おそらく江戸後期のものと推定される。
 ※2022/09/12画像入替
 ※東谷宝塔院琴塔は見えるが、西谷の様子は不明。
 ※原図は山下の東、南、北の部分がさらに広範囲に描画されている。


2007/07/06追加:
石清水八幡宮境内圖・宝塔院:部分図
 :上重下重とも方3間として描かれる。
「石清水八幡宮寺の宝塔院(琴塔)について」中安真理 より

◆「都名所圖會」巻5:天明年間刊:に見る石清水八幡宮  天明年中(1781〜)

記事:大塔(大日・多宝の二尊を安置す)
    琴塔(毘沙門天を安ず。軒の四方に琴をかけて風鈴の代はりとす)

  ※西谷に大塔、本殿東南(東谷)に多宝塔がある、西谷の多宝塔(小塔)、駿河三昧塔は既に退転。

「都名所圖會」に見る八幡宮全図:全体図

上記西谷大塔部分図

大塔・阿弥陀堂・元三大師堂などのあった西谷の現状は
ほぼ完全に削平され、跡地ははっきりとしない。
→2010年西谷大塔跡が発掘され、西谷大塔跡は確定する。

上記琴塔部分図
 

宝塔院(琴塔)は上重下重とも方3間の方形宝塔
として描かれているように見える。

2008/09/13追加:
○「石清水八幡宮 諸建造物群調査報告書(本文編)・(図版編)」八幡市教育委員会・石清水八幡宮、2007

石清水八幡宮社頭図:個人蔵、貞和の感得図・石清水八幡宮曼荼羅(大倉文化財団蔵)などと概ね構図は同一である。
しかし「貞和の感得図」等が中世を降らない景観であるが、本図は明らかに近世の景観である。
※例えば神應寺境内の景観は元禄10年以降の伽藍である・・・。
なお、塔婆については多分に類型化されているきらいもあるが、宝塔院塔塔婆は天台大塔系の下重平面方形・上重平面方形と思われる。
西谷大塔は大塔形式であるのか多宝塔形式であるのかについては判然としない。

 ◆城州綴喜郡八幡山之図:木版墨摺、享保8年(1723)、石清水八幡宮蔵
案内図として刊行される。「惣御社領高7100石余、山上御朱印地之寺36ヶ寺・・・」とある。

2007/07/06追加:
◆「細見男山放生会図録」文政4年(1821)
  細見男山放生会図録:全図: 下図と同一で、下図の画像の方が鮮明。
     「石清水八幡宮と神仏分離」神尾登喜子(「阪南論集」人文・自然化学編38-2、平成15年 所収)より
  細見男山放生会図録・宝塔院:部分図:上重下重とも方3間として描かれている。また「琴」の吊り懸も明瞭に見える。
     「石清水八幡宮寺の宝塔院(琴塔)について」中安真理 より
2008/09/13追加:
「石清水八幡宮 諸建造物群調査報告書(本文編)・(図版編)」八幡市教育委員会・石清水八幡宮、2007
細見男山放生会図録:木版墨摺、文政8年(1852)、石清水八幡宮蔵
特に山上の諸坊が詳細に描かれる。坊舎は当図で27を数える。

2007/07/06追加:
◆「石清水臨時祭・年中行事騎射図屏風」(六曲一双)、白鶴美術館蔵
  絵師は冷泉為恭(1823-1864)、安政5年(1858)〜文久元年(1861)の作とされる。
為恭は安政元年、新善法寺家(石清水八幡宮寺祠官家)の娘と婚姻、その後本作品を制作したと考えられ、当然宝塔院などは直接眼にしたであろうと推測される。従って、本屏風絵に描く宝塔院などは当時の姿を忠実に描写したであろう可能性が強いと思われる。
  石清水臨時祭・年中行事騎射図屏風:宝塔院部分
   ※「石清水八幡宮曼荼羅」(根津美術館蔵)と同様特異な外観を持つ。上重は方3間で中央間は板扉、両脇間は連子窓、
   下重もおそらく方3間で、南面は3間とも蔀戸、東面左脇間は板扉、中央間は蔀戸、左脇間は漆喰壁と思われる。
   四面に勾欄付の縁を廻らせ、南中央に木階を設ける。
   東縁の勾欄は右脇間(板扉)前1間が切れ、縁前下には踏み台が設置されている。
   この構造は「石清水八幡宮曼荼羅」(根津美術館蔵)の宝塔院とほぼ同一と思われる。
   (下重の一辺が5間か3間かは大きな相違がある。)
  なお、本屏風絵には軒下四隅に「琴」が懸げられているのが見て取れる。
  石清水臨時祭・年中行事騎射図屏風:軒下琴:軒下荘厳「琴」拡大図
   2017/01/14追加:
   「石清水八幡宮をめぐる8つのエピソード」(リーフレット)、八幡市松花堂美術館 より転載
    石清水臨時祭・年中行事騎射図屏風:全図
   小さい図版であり、そのため、少々見づらいが、屏風絵の全図である。
   右端下に宝塔院宝塔が描かれ、上端中央に西谷大塔が描かれる。
2022/03/04追加:
○「北山七重大塔の所在について(下)」東 洋一 では
本屏風に描かれる琴塔の屋根は甍棟塔(屋根は柿葺であるが、甍<四隅を飾る降り棟>は瓦で造る)との指摘がある。

2008/09/13追加:
「石清水八幡宮 諸建造物群調査報告書(本文編)・(図版編)」八幡市教育委員会・石清水八幡宮、2007
城州八幡山案内絵図:木版墨摺、慶応3年(1867)、個人蔵:2022/09/13画像入替
「八幡山名所案内記」:長濱尚次、慶応2年の付属案内絵図
  琴塔の形式について、下重柱間は良く分からないが、天台大塔系の下重平面方形・上重平面方形で描かれている思われる。
西谷大塔については、根来大塔・高野山大塔系の大塔形式(下重平面5間、上重平面円形)で描かれていると思われる。
また各谷の坊舎も大要が分かるように描かれている。
  ※長濱尚次は藤原尚次の家名であり、太子堂の天保14年(1843)棟札(表)には「前検校僧正法印田中由清が願主、宮工司長濱越前尚次(藤原尚次)」の名が見える。
2009/12/04追加
◆城州八幡山案内會圖・現物撮影:2009/11/29撮影

城州八幡山案内會圖・現物:左図拡大図、現物図を撮影したもの。

  同 護国寺・琴塔付近図
  同      琴塔部分図:下重平面3間?廻廊付設、上重平面3間の二重塔形式に描く。

  同      大塔部分図:下重平面5間、上重平面円形の大塔形式に描く。
2013/03/31追加
城州八幡山案内會圖・泉坊付近
城州八幡山案内會圖・高坊
2022/09/13追加
城州八幡山案内會圖・太子堂部分図

2022/03/22追加:
○「男山四十八坊跡 観光案内」京都府八幡市、2020.01 より
 ※本資料は「八幡市観光パンフレット」中に掲載され、かつて男山にあった男山四十八坊などの跡をたどるガイドマップ。(2020年1月発行)と説明される。PDF文書である。
 参照:「男山四十八坊跡 観光案内
「男山四十八坊跡 観光案内」:城州八幡山案内會圖に着色・加筆したものである。
 男山四十八坊跡 観光案内
 男山四十八坊跡 観光案内・琴塔附近     男山四十八坊跡 観光案内・大塔附近
2022/09/13追加
 男山四十八坊跡 観光案内・太子堂部分図
 ※なお、この小冊子(PDF文書)は明治維持前の石清水八幡宮をかなり詳細に復元していて、単なる観光案内を越えた労作である。
願わくは、神仏分離の処置は復古神道のなせる業であり、それが後の国家神道に繋がり、天皇教の狂気に至ったことに論及をして欲しいが、所詮地方自治体に望むのは無理であろうが、せっかくの労作である故に残念なことである。


2013/07/13追加:
◆中井家文書:石清水八幡宮全図:京都府立総合資料館蔵、近世のものには相違ないが、年代は不明。

 石清水八幡宮全図/宝塔院部分図:左図拡大図
大きさは一辺5間3尺6寸、高さ11間3尺とある。
平面は正方形であり、内部中央も方形で描かれる。
(つまりは二重とも平面方形の天台大塔形式であることを示す)
北東には護国寺薬師堂(護国寺観音堂、付設堂守部屋/閼伽棚)が描かれる。
宝塔院東の伊勢遥拝所は現存する。


 石清水八幡宮全図/大塔部分図:左図拡大図
大きさは一辺7間3尺8寸、高さ13間5尺とある。
平面は正方形であり、内部中央は円形で描かれる。
(つまりは下重平面は方形・上重平面は円形の真言大塔形式であることを示す)
北に弁天社があり現存する。
北西に八角堂があり、西には西小門と西脇練塀がある。

◆山城綴喜郡誌(明治41年刊)に見る宝塔院宝塔・西谷大塔の記事。
 旧蹟:
  寶塔院:
男山八幡宮東門外に在りて、里称「琴堂」と言う。桧皮葺ニ重塔四隅に。小なる琴を釣る。故に名く。方5間3尺外に四尺の椽あり。
惣高さ九輪の上尖頭まで直立11間半也。慶長11年豊臣秀頼の再興に係れり。明治初年是又撤却となる。
末社記に言う。この塔は破壊転倒、建立願主を知らず。ご遷座以前の塔なり。
ある記に言う。東寶院本尊は行基菩薩建立云々、おそらくは護国寺に属したる宝塔ならんか。
  大塔 :
男山八幡宮南より坤一町の處に在り。是又た明治初年撤却となる。
當時堂宇の構造實に壮大を極め、他に其比を見ざりしと。明治初年撤却なりたる塔は
豊臣秀頼慶長12年再興したるものにして方七間五尺三寸周囲幅五尺八寸の椽あり高さ十三間五尺八寸なり。
護国寺牒いう。白河院御願、天永3年八幡御塔供養なり。以下略・・・・
上記の記事によれば
宝塔院宝塔は一辺5間3尺(約10m)、高さ11間半(約21m)、大塔は一辺7間5尺3分(約14.3m)、高さ13間5尺8寸(25.4m)の堂々たる塔婆であった。
建築時期は両塔とも慶長年間豊臣秀頼の造営であった。現存すれば、間違いなく重文級の建築であったと推定される。

2007/07/06追加:2009/12/22追加修正 :2010/11/09部分修正:2013/07/13追加
宝塔院宝塔の形式について

諸史料に見る宝塔院宝塔(東谷宝塔)・附西谷大塔の概要:当ページに記載した史料の纏め

史料名

成立年代

東谷宝塔

備考

附:西谷大塔

石清水八幡宮曼荼羅
 (根津美術館蔵)
推定室町初期 下重平面5間・上重平面3間(天台大塔形式) 粉本は嘉禄元年(1225)頃成立とも云う 西谷の様子は不明
一遍聖絵(一遍上人絵伝) 正安元年(1299) 下重平面3間・上重平面円形(多宝塔形式) 粉本は文永8年(1271)頃成立とも云う 上重屋根と相輪のみ描かれ、そのため形式は不明
石清水八幡宮曼荼羅写 宝暦8年(1758)模写 下重平面5間・上重平面3間(天台大塔形式) 貞和の感得図の模写:
石清水八幡宮所蔵?
根津美術館蔵本の模写と推定
西谷の様子は不明
石清水八幡宮社頭図 寛政5年(1793)模写 下重平面5間・上重平面3間(天台大塔形式) 貞和の感得図の模写
感得図:貞和2年(1364)
西谷の様子は不明
 慶長5年(1600)豊臣秀頼、宝塔院再興。
 寛永8年(1631)・明暦2年(1656)修理。(「八幡宮寺造営之次第」)
 明治3年宝塔院撤去。
 慶長12年豊臣秀頼再興。
 明治3年大塔撤去。
大宮末社以下堂舎屋指図 江戸前期と推定 初重平面5間、四方に階段を設ける。
※これが慶長5年再興の形式か中世の復古なのかは不明であるが、この指図の成立時には再興塔があったことを考慮すれば、再興塔指図と解釈すべきであろうか。
堂舎屋の一部は江戸前期ではなくて中世の状況を復古的に描いたものとも推定される。 初重平面方5間、その内に内側柱を10本円形に配する、さらに中央に四天柱を建てる。
参考:西谷小塔指図は
初重平面方3間で四天柱を建てる(多宝塔形式)
愚子見記 天和(1681-)頃成立か 5間3尺6寸四方と記載 平政隆(編著) 7間3尺四方と記載
雄徳山石清水八幡宮指図 宝暦5年(1755)模写 5間3尺6寸(10.19m)四方と記載 内閣文庫蔵 7間3尺8寸(13.89m)四方と記載
八幡四境図 延享4年(1751) 上重・下重とも方形に見える。下重は方3間に見える。 石清水八幡宮蔵 7間3尺四方と記載
都名所圖會 天明(1781-)年間刊 上重下重とも方3間の方形宝塔(二重塔)として描かれているように見える。 . 下重は描かれず。
石清水八幡宮境内圖 時期不詳、推定江戸後期 上重下重とも方3間として描かれる。 . 西谷の様子は不明
石清水八幡宮社頭図 景観は近世のもの 天台大塔系の下重平面方形・上重平面方形と思われる。 貞和の感得図・石清水八幡宮曼荼羅(大倉文化財団蔵)などと概ね同一構図である。 多宝塔形式
細見男山放生会図録 文政4年(1821)
文政8年(1852)
上重下重とも方3間として描かれる。 木版墨摺
石清水八幡宮蔵
形式は判別できず。
石清水臨時祭・年中行事騎射図屏風 安政5年(1858)〜文久元年(1861) 上重は方3間で中央間は板扉、両脇間は連子窓、下重もおそらく方3間で、南面は3間とも蔀戸、東面左脇間は板扉、中央間は蔀戸、左脇間は漆喰壁と思われる。
四面に勾欄付の縁を廻らせ、南中央に木階を設ける。東縁の勾欄は右脇間(板扉)前1間が切れ、縁前下には踏み台が設置される。
※この構造は「石清水八幡宮曼荼羅」(根津美術館蔵)の宝塔院とほぼ同一と思われる。
白鶴美術館蔵
絵師は冷泉為恭(1823-1864)
当時の姿を忠実に描写したであろう可能性が強いと推定される。
<不詳>
城州八幡山案内絵図 慶応3年(1855) 下重柱間は良く分からないが、天台大塔系の下重平面方形・上重平面方形で描かれる。 木版墨摺
長濱尚次作
個人蔵
下重平面5間、上重平面円形(大塔形式)
2013/07/13追加:
石清水八幡宮全図
近世(年代不詳) 大きさは一辺5間3尺6寸、高さ11間3尺とある。
平面は正方形であり、内部中央も円形で描かれる。
(つまりは二重とも平面方形の天台大塔形式であることを示す)
中井家文書:京都府立総合資料館蔵 大きさは一辺7間3尺8寸、高さ13間5尺とある。
平面は正方形であり、内部中央は円形で描かれる。
(つまりは下重平面は方形・上重平面は円形の真言大塔形式であることを示す)
山城綴喜郡誌 明治41年刊 桧皮葺ニ重塔四隅に。小なる琴を釣る。故に名く。方5間3尺(約10m)外に四尺の椽あり。
惣高さ九輪の上尖頭まで直立11間半(約21m)也。慶長11年豊臣秀頼の再興に係れり。明治初年是又撤却となる。
. 明治初年撤却なりたる塔は
豊臣秀頼慶長12年再興したるものにして方七間五尺三寸(約14.3m)周囲幅五尺八寸の椽あり高さ十三間五尺八寸(25.4m)なり。
東谷宝塔跡
(宝塔院宝塔遺構実測図)
遺構現存 明らかに下重平面方5間の遺構を残す。 下に掲載の
「宝塔院(琴塔)遺構」を参照
明確な遺構を残さず。
注:2010年の発掘で遺構の一部が発見され、位置は確定される。

以上を概括すれば、以下のように云える。
(1)創建時の宝塔院宝塔(東谷宝塔・琴塔)の創建時期については、諸記録は大菩薩遷座以前からの塔と伝えるのみで、全く分からない。
またその形式についても伝えられる記録など皆無であり、不明とするしかない。
 しかしその形式については以下のように推論が可能であろう。
即ち、石清水八幡宮寺は天台系寺院であること、平安末期以降には宝塔院で「法華三昧」が修されていた記録があり、これは天台の六所宝塔造立の思想に繫がるであろうと推定されること、換言すれば石清水八幡宮の遷座目的(護国・王城守護)から照らして 石清水八幡宮寺(護国寺)に天台法華方形大塔が建立される思想背景があったこと、そして実際に根津美術館本には天台大塔として描写されていること、また近世初頭の宝塔院の宝塔の再興がほぼ間違いなくいわゆる「多宝塔形式(上重平面円形)」ではなくて、下重平面3間もしくは5間・上重平面方3間の宝塔として再興されているのは天台大塔の「名残り」であろうとも思われること、などの点から、創建時宝塔院塔は天台大塔形式であった可能性が極めて高 いと推測される。
(2)中世の宝塔院宝塔は次のように推測される。
 ※諸記録は万寿年中(1024-)の修造者、再興、延久年中(1069-)御修造同前、建久2年(1191)後鳥羽院御造営などの記録があり、
 中世には数度の再興があったものと思われる。
中世の宝塔院宝塔の姿を伝えると推測される現存する絵図は2点が知られるが、
その内の一つである根津美術館本(室町初期・粉本では鎌倉期)では「天台大塔」形式で描かれ、もう一つの一遍上人絵伝(鎌倉期)では「いわゆる多宝塔」形式として描画される。
どちらが当時の姿・形式であるのかは容易に判定できないが、これは中世の塔の興亡の中で、一時期「多宝塔」として再興されたことがあった可能性があることを示すのかもしれない。 (だとしても、なぜ一時期「多宝塔」形式の塔が姿を現したかの理由は全く分からない。)
しかしながら基本的には、石清水八幡宮寺宝塔院宝塔は、一時的に「多宝塔」形式で建立されたことがあったにせよ、 中世の姿も創建時と同じ天台大塔形式(下重平面方5間・上重平面方3間)であったと推論して良いのではないだろうか。やはり、 根津美術館本(及び近世の多くの写本)が示すように、中世においても、創建時の「天台大塔形式」の伝統を引継いだ形式と考えるべきであろう。
また、近世の宝塔院宝塔は慶長5年に再興され明治維新まで存続した塔であるが、この塔もおそらく「天台大塔形式」であったと推定できることも大きな根拠となる。
(3)近世の宝塔院塔<慶長5年(1600)豊臣秀頼再興塔>は近世の絵図では、上重・下重とも方3間の方形多宝塔と描かれることが多い。
つまり、上下とも方形という形式から見ると、近世の宝塔院宝塔も「いわゆる多宝塔形式」(下重平面方3間・上重平面円形)ではなく、天台大塔形式の下重方5間上重平面方3間の形式を引継ぐ塔であったのではないだろうか と推定可能であろう。
 (絵図で下重3間に描かれるのは、絵図の描写が粗雑であるとしか云い様がない。)
また図面として残る「大宮末社以下堂舎屋指図 」の宝塔院宝塔が秀頼再興塔の指図であるならば、これは間違いなく、下重平面方5間の天台大塔形式であったことを示す。
もう一点、近世の「中井家文書:石清水八幡宮全図」及び「内閣文庫版・八幡山上山下惣絵図」の宝塔院平面図は方形平面の内部に方形平面を描き、西谷大塔平面図は方形平面の内部に円形平面を描くのも有力な傍証であろう。
さらに、現在半壊状態で宝塔院宝塔遺構が残るが、この土壇上には原位置を保つと推定される礎石がおよそ11個残り、この遺構は明らかに下重方5間の天台大塔平面構造を示す。
さらに、その規模については、記録によれば相当な大型塔であったとされる。
概ね、5間3尺6寸<10.19m>四方とされ、この一辺では下重3間では類例が無く、5間と考えざるを得ない。
 ※石清水八幡宮は1間=京間の6.5尺で設計されると建造物の研究で知られるとの「解説」がある。 (「「石清水八幡宮境内 範囲確認調査 地説明会資料」八幡市教委、2010/11/06」 参照)
この「解説」に従うと一辺は10.95mとなる。
 ※因み唯一遺存する天台大塔形式である摂津住吉神宮寺西塔<現阿波切幡寺大塔>は一辺約10m、紀伊根来寺真言大塔は一辺約15m、高野山西塔<真言大塔>は約12mを測る 。
一方現存する多宝塔では最大平面規模といわれる下野鑁阿寺で一辺約7m、備後浄土寺で一辺約6.6m程度である。)

なおこの塔は、意匠も軒四隅に「琴あるいは筝」を釣る、柱間も蔀戸などを使用する、あるいは東面左脇間に出入り口と思われる板戸や踏み台を設置したような描写もあり、かなり特異な意匠を採った塔婆であったと思われる。

因みに
 ◎近世の西谷大塔は絵図・記録類とも一貫して下重平面方5間・上重平面円形の真言大塔形式を示す。
 ◎鶴岡八幡宮の近世の大塔は真言大塔形式であった。(明治の神仏分離の処置で破却される前の写真が現存する。)

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2008/09/13追加:
「石清水八幡宮を描いた古絵図について」土田充義(「日本建築学界論文報告集 202」昭和47年 所収)
◎石清水八幡宮の古伽藍(中世)を窺うことが出来る「古絵図」として、以下が知られる。
 「 石清水八幡宮社頭図」(貞和感得図・貞和2年・1346感得、「石清水八幡宮史 第1輯」巻頭図版に掲載あり。)
 「 石清水八幡宮曼荼羅」(大倉文化財団蔵)・・・・・下に掲載
 「 石清水八幡宮曼荼羅」(根津美術館蔵)・・・・・下に掲載
 「一遍聖絵」(一遍上人絵伝・歓喜光寺蔵)・・・・・下に掲載
 「 石清水八幡宮絵図」(八幡町谷村家蔵、貞和2年・1346感得・江戸後期写す)・・・・・下に掲載
2009/12/22追加:
以下のような情報もある。
鎌倉期における石清水八幡宮の絵図は以下がある。
 絵巻物「一遍聖絵」(京都歓喜光寺蔵・正安元年12999・円伊・巻9)
 絵巻物「春日権現験記絵」(宮内庁蔵・延慶2年1309・高階隆兼・巻12)
 曼荼羅図には、大倉文化財団蔵、根津美術館蔵、東福寺栗棘庵蔵があり、いずれも軸装。
2010/11/09追加:
掌握している範囲では、上記以外に、下記の絵図の存在が知られる。
 「大宮末社以下堂舎屋指図」(石清水八幡宮蔵)、近世前期と推定
 「石清水八幡宮境内圖」江戸前期と推定
 「城州綴喜郡八幡山之図」(石清水八幡宮蔵)享保8年(1723)
 「八幡四境図」(石清水八幡宮蔵)延享4年(1751)作
 「雄徳山石清水八幡宮指図」(内閣文庫蔵)、宝暦5年(1755)書写図」
 「「都名所圖會」天明年中(1781〜)
 「細見男山放生会図録」(石清水八幡宮蔵」文政8年(1852)
 「城州八幡山案内絵図」(個人蔵)慶応3年(1867)
 「石清水臨時祭・年中行事騎射図屏風」(白鶴美術館蔵)安政5年(1858)〜文久元年(1861)と推定  


石清水八幡宮諸記録抜粋

2003/8/19追加
★「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
・小塔:釈迦多宝、百錬抄云、待賢門院御願、旧地今大塔東南に在り小塔屋敷と号す。
 本社記云、長承元年小塔供養・・。百錬抄云、八幡の小塔供養・・。
・大塔:釈迦多宝、南楼門の外乾に在り。
 本社記云、白河院御願、天永3年社務光清長云々。百錬抄云、・・石清水の御塔供養。
・宝塔院:東楼門の外巽に在り、俗に琴塔という。
 本社記云、この塔は建立の願主を知らず転倒す、大菩薩遷座以前の塔なり。・・・
・西三昧堂:大塔小塔の間か。

2004/02/28追加:
大塔・小塔の略歴
「石清水八幡宮史 史料 第一輯」田中 弘清/[他]著 、続群書類従完成会、昭和7年より
大塔 小塔
石清水八幡宮文書:擇申可被始石清水八幡宮御塔木作日時・・・ 天永元年(1110)8月7日
            その後、築壇、居礎、立心柱の日時の記載が続く。
石清水皇年代記:天永元年8月7日大塔釿始、天永2年10月日上棟
中右記:天永3年(1112)・・八幡御塔(大塔と思われる)供養・・・・・
石清水八幡宮文書:居・・仏壇、安置・・御仏・・・の記事あり。
中右記:天永3年・・於八幡宮中、建立多宝塔1基被供養、丹後守(平)正盛造営也、・・・
百錬抄・石清水皇年代記・十三代要略・石清水八幡宮末社記:天永3年塔供養の記事あり。
宮寺舊記:1.大塔事 件塔婆者、白河院鳥羽院、両御代勅願也、本尊 釈迦・多宝・・・・
 ※西谷大塔の創建時形式は不明

石清水八幡宮末社記:小塔 本尊 釈迦・多宝 長承元年(1132)8月16日小塔供養・・・
宮寺舊記:1.小塔事 件塔婆者、待賢門院(藤原公実女璋子)御願也、本尊 釈迦・多宝・・・
中右記:長承2年・・女院(藤原長実女得子)八幡御塔供養、・・・・
 ※西谷小塔の創建時形式は不明

百錬抄:正治元年(1199)石清水山上釈迦堂、西三昧堂(白河院御願)、大塔、小塔(待賢門院御願)、報恩寺鐘楼塔焼失、
明月記:建久10年(1199)・・八幡有炎上、西谷大塔、小塔、釈迦堂、鐘楼、小屋少々云々
吾妻鏡・石清水皇年代記:焼失記事あり。
八幡宮寺縁事抄:八幡大塔事 ・・・建久10年・・炎上、数十年不及修造、仁治元年(1240)勧進上人貞賀経奏聞、申請成功、・・・建長5年(1253)・・・供養
百錬抄:建長5年・・・八幡大塔供養也
宮寺舊記:小塔事 建久10年炎上、造営事院宣云、・・・院宣は建長5年
 八幡宮寺別当法印御房日記:建長5年・・上棟也
百錬抄:康元元年(1256)・・八幡小塔・・供養也
八幡宮寺縁事抄:八幡宮大塔事 弘安7年(1284)・・加修理
八幡宮寺縁事抄:延慶2年(1309)修理
宮寺見聞私記:応安6年(1373)大塔修理事始云々・・・、元久元年(1204)・・馬場末塔修理供養

※大塔、小塔の形式について
創建時大塔の形式は不明。
慶長再興塔大塔(明治維新で棄却・南都二月堂相求)については、
塔の規模は「方七間五尺三寸周囲幅五尺八寸の椽あり高さ十三間五尺八寸なり」 と伝え、その規模から 、また江戸期の絵図などから「下層5間の大塔」であったと推測される。
  (明治維新で棄却された鶴岡八幡宮の大塔も 「下層5間の大塔」形式であった。)

小塔の創建時の形式も不明。
但し、ともに西谷にあり、かつ大塔・小塔と並列する位置関係にあり、それ故に「大塔形式」であったと思われる「大塔」に対して、小塔は「多宝塔形式」であった可能性が高いと推測される。
 また、「一遍上人絵伝(正安元年<1299>)」<冒頭に掲載西谷大塔の向かって左が小塔>では初重の形式は 不明であるが、上・下屋根が方形で、また上重も円筒形として描かれている。このことからも多宝塔形式であった可能性は極めて高いと思われる。

2007/03/06追加:
「男山考古録 巻第七」嘉永元年(1848)
◇大塔
八角堂の南に隣る、本尊は釈迦多宝ニ体、東面、四隅柱に四天王像を置く、護国寺牒曰、白河院御願、天永3年(1112)・・八幡宮御塔供養也、丹波守(平)正盛造進之、・・・縁事抄に、天永元年・・陰陽寮御塔木作日時勘文、また立柱・入仏日時等悉く見えたり、・・・・・・・
又縁事抄に據に、造立の後80余年を経て、建久10年(1199)・・に炎上せしか、40年を過て仁治元年(1240)・・真賀上人奏聞を経て再興を願いしか、其不足分他力の勧進せり、・・・・・建長5年(1253)・・御幸、供養、・・・
今の塔は慶長10年・・内大臣豊臣秀頼公御願として再興、・・塔九輪柱に其旨大書せり、四方勾欄葱宝珠にも同刻銘あり、・・・又堂内今本尊の後傍に僧形古像を安ず、未詳、山州名跡志曰、北行教和尚(坐像、合掌、2尺2寸)、南安宗和尚(同北、閉目)とあり、
◇小塔
據旧図に、西谷にて大塔の巽方にて、今の岩本坊の所也、彼坊旧は今の所より南西の方に、岩本坊蹟と云所あり、近世に塔跡を移転せり、当塔近く絶て今は無し、堂塔建立記曰、本尊釈迦多宝云々、實長記曰、長承元年(1132)小塔供養、・・・空圓記曰、件塔婆者待賢門院(藤原璋子)御願也、・・・・、又中右記曰、長承2年・・女院(藤原長実女得子)八幡御塔供養、・・・縁事抄曰、建久10年(1199)・・炎上云々、又百錬抄云、正治元年(1199)・・石清水山上云々、大塔小塔(待賢門院御願)云々、焼失とあるは同時也、斯く55年も無沙汰なりしか、建長5年・・、沙門浄教申請に依て、小塔造営料淀津船舟勧進奉加し・・・・、百錬抄曰、康元元年(1256)八幡小塔云々、正治元年焼失後無沙汰、今以勧進之力、忽終造営之功供養也、按に塔絶て後、空地にて在しを、宝暦3年、尚次祖父政次改正せし事有、南北11間、東西10間、此地是より前享保年中に岩本坊一社へ願ひて借地して移転したり、

宝塔院(琴塔)
宮寺舊記:東宝塔院事 大菩薩移坐当山之以往塔婆也、不知建立之願主、・・・・本尊 大日・・・
       或記曰 本尊塔婆行基菩薩建立云々
報恩寺前空円法院放記・石清水八幡宮末社記:・・上記同一主旨の記載がある・・・
石清水皇年代記:建久3年(1192)・・・宝塔院九輪加ニ輪、元ハ七輪也、
石清水八幡宮文書:万寿年中(1024-)修造者、再興云々
            延久年中(1069-)御修造同前
            建久2年(1191)後鳥羽院御造営、如新造右大将家(源頼朝)申御沙汰之
            自貞治年中(1362)代々為武家造進之(足利義満、佐々木六角判官、足利義教)
八幡宮宮寺造営之次第
慶長5年宝塔院御再興、奉行野口五兵衛尉造進之
 →石清水八幡宮・補足>2007/03宝塔院(琴塔)木琴が発見される

2007/03/06追加:
「男山考古録 巻第八」嘉永元年(1848)
◇宝塔院
・・・堂塔建立記曰、不知建立願主、大菩薩御遷座以前之塔也云々、本尊胎蔵大日云々、・・・・・・・・・・・・・
◇宝塔院毘沙門天王
当宝塔院は旧図に據に南面也、古ハ北の方ハ山腰の如くにて、大将軍社なと竝建たる間に、社後御本宮東鳥居の近辺、玉垣を建たりと身ゆ、今は北面の如く成りたる也、・・・・・・・・・
◇宝塔院琴塔
当宝塔院を俗に琴塔と云ふは、四隅櫨端(隅木の下はり)に風鐸に竝へて琴を釣りたり、・・・・・
  (以下は石清水八幡宮・補足>石清水八幡宮琴塔・木琴(きごと)の項に示す)
◇宝塔院横道
今御本宮東御門外石階を下る所、伊勢皇大神宮遥拝所在る下に、横坊天神社の西を宝塔院南へ通りて馬場前に出る・・・・
 2009/12/20撮影:宝塔院横道:左の出っ張った石垣は伊勢神宮遥拝所、宝塔は遥拝所の奥にあった。
 ※要するに、伊勢皇大神宮遥拝所の石垣下・宝塔下(東)・横坊西に「宝塔院横道」があり、明治維新後(時期は不明であるが)、宝塔院土壇を破壊する形で付けられた参道 の下(東)を新参道下に添う形で「横道」(旧道)があり、今も良く観察すれば辿ることが可能である。
下項の2004/02/28追加:琴塔(多宝塔)跡を参照
◇伊勢大神宮遥拝所
慶長4年書写の古図にも、御本宮東御門外石階を降り終ぬる所を、伊せふせおがみと記せり、一古図(鹿野能忠家伝来)にも、遥拝所と記して燈籠1基を図せり、・・・・・・何れの頃より此所を遥拝所とはなされけむ、・・・・
◇佐々屋畿橋
伊勢遥拝所の傍に在、今石橋にて下流絶て無し、・・・当橋を囁又は私語なとゝ書るハ、其義違ヘリ、ササヤキと云ハ古語にササヤカなど云る是也、細小の字の義にて、往古ハ細木もて仮初に橋を架したりしより此名有也、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◇無音河
古図(鹿野能忠家伝来)に、佐々屋畿橋の傍に、御本宮東鳥居の東、子守社の傍に経蔵あり、其の前辺より橋の下へ流れ来る一道の細川を図て、其川の中に無音川の3字を記せり、・・・・・・・
◇天満宮
今宝塔院の東、閑道の東傍に坐り、北面也、此地は近く享保16年秋迄は、今護国寺前に在る観音堂の在し所なり、当社は(元山下の社士が北野天満宮を勧請)彼家中絶の時に、・・横坊増實法印当社の廃せむ事を嘆きて、文化6年、観音堂跡地へ・・移し祀れりなり、

駿河三昧塔
宮寺舊記:馬場末塔 号駿河三昧塔 件塔婆者、駿河守平宗実建立之 本尊 釈迦・多宝 本尊御帳内虚空蔵1体安置之。
  日記云 天治3年(1126)・・・駿河守平宗実所造立多宝塔也、・・・
石清水八幡宮末社記:駿河三昧塔 馬場末 関東駿河守平宗実願主、件塔者天治3年・・宗実建立之、供養之料・・・・

この多宝塔は、時期は不詳ながら、おそらく早くから退転し、その後再興を見なかったものと思われる。
馬場末塔の名称が示すように、この塔の建立場所は馬場の先端(今の神馬舎あたり)附近にあったものと推定される。

2007/03/06追加:
「男山考古録 巻第六」嘉永元年(1848)
 駿河三昧堂 或号馬場末塔
堂塔建立記曰、馬場末云々、旧圖に據に、今の御鳳輦舎在所辺に三昧堂と記せるあり、是か、諸堂塔勤行供料記に、馬場末塔とあり、
末社堂塔記曰、関東駿河守平宗実願主、件塔者、天治3年(1126)10月17日、宗実建立之、供養之料所駿河国蒲原庄也、・・・
縁事抄曰、元久元年(1204)・・、馬場末塔修理・・・、嘉元元年(1303)・・、以播磨国継船庄・船曳庄、可修造之由・・・被下院宣・・・
田中家古図に據ハ、今の三鳥居の南(湯谷に下る辺)也、其堂形今の琴塔の如く書きたり、
 2007/06/03撮影:
  石清水八幡宮駿河三昧塔跡1:現在神馬舎の建っている場所が塔跡という、 現在痕跡は何もない。
    同              2:北側から撮影、神馬舎右は南門跡、湯の谷に下る。
 


2004/02/28追加:
宝塔院(琴塔)遺構

 現在、太子坂もしくは石清水社を経て、護国寺跡に至り、護国寺から本社東側を通る参道は、明治維新後の新道と思われる。
少なくとも江戸期の参道は、角坊の下附近から、現在の新道の東の谷側を通り、琴塔(宝塔院)を迂回し、馬場に至る経路であったと思われる。
 ※現在、旧道は廃道に近い状態であるが、よく観察すれば、現在も坊跡や竹薮の中にはっきりと残る。
 2009/12/20撮影:宝塔院横道:左の出っ張った石垣は伊勢神宮遥拝所、宝塔は遥拝所の奥にあった。

琴塔(宝塔院)遺構は、半壊に近い状態ながら、残存する。
 2009/12/20撮影: 宝塔院宝塔跡1     宝塔院宝塔跡2     宝塔院宝塔跡3
 

石清水八幡宮琴塔土壇1(西から東を撮影)
  同           2(左図拡大図
           西南から東北を撮影)
  同           3
           (土壇東の廃道から撮影)

願わくば、これ以上の破壊のなきことを祈る。

石清水琴塔土壇:2004/10/03撮影

石清水琴塔土壇2:2007/06/03撮影:


2022/07/20追加:
○「石清水八幡宮境内調査報告書」八幡市教育委員会、2011 より

◆宝塔院跡平面図・建物礎石断面図

 
                 
                 宝塔院跡平面図・建物礎石断面図:上図拡大図

                 琴塔跡調査写真

 現状、塔基壇は参道で東西に2分されるが、東側には礎石とみられる石が10基、西側には3基確認できる。
その内、南辺東から3個目の1基は花崗岩で円座を造り出すが、その他は男山に由来する堆積岩の礎石で、一辺70cmほどの礎石もある。
更に、西側に椽の束石と見られる石2基が確認できる。南辺にも束石と推定される石が残るも、移動していると思われる。
四天柱礎と思われる位置には礎石は遺存しないが、3間四方の柱位置には3基の礎石が残存、5間四方の柱位置には8基の礎石が遺存する。
柱芯々間の距離は約10.9mを測る。
 総合すると、束石3基を含み、礎石は16基確認でき、内13基が原位置を保つ。
塔の法量と柱位置は「石清水八幡宮惣指図」に「5間3尺6寸四方」とあり、これは「八幡山上山下惣絵図」と等しい。
八幡宮の尺は京間が多く用いられ、1間は6尺5分となる。5間3尺6寸は10.92mであり、現状と合致する。

 遺構平面図の通り、塔は下重5間の大塔形式である。
そして上重も諸絵図・史料から判断すれば、平面方形と思われ、上下重とも平面方形の天台大塔形式であることはほぼ確実と思われる。

2009/12/22追加:
宝塔院宝塔遺構実測図:上が北 宝塔院宝塔遺構実測図:下図の全体図
  ※当図は「八幡市埋蔵文化財発掘調査概報 第52集」八幡市教育委員会、2009 所収の「石清水八幡宮遺跡 測量図」の
   一部を取り出し、加工したものである。
                                                                【参考】石清水八幡宮遺跡 測量図:宝塔院部分図

礎石1、礎石2、礎石3、礎石16、礎石9、礎石5、礎石11、礎石12、礎石6、礎石13、礎石7の11個は原位置を保つと思われる。
礎石10、礎石8は移動する。
礎石4は土壇から落下もしくは大きさから見て、礎石ではなく縁束石とも思われる。
礎石14.礎石15の存在は不明、それらしき石はあるが、もし塔に関係する石であるならば、大きさから見て縁束石であろう。
あるいはこの場所は崖下に位置し、土砂の堆積が見られ、そのために既に土砂に埋もれ見ることができない可能性もある。

11個の礎石が原位置を保つとする判断は柱間が両脇間でほぼ220cm(7尺3寸)、中央間でほぼ240cm(8尺)と計測されるからである。
以上のことから、この塔は下重平面5間の塔であったと断定できるであろう。
また、塔一辺(礎石中心点と中心点の間)は11m20cmとなる。<脇間が4間で880cm、中央間1間で240cm>
 ※塔一辺については、諸記録の10.2mより1m以上大きい計測結果と云える。
  
 2010/11/09追加
 ※石清水八幡宮は1間=京間の6.5尺で設計されると建造物の研究で知られるとの「解説」がある。
 (「「石清水八幡宮境内 範囲確認調査 現地説明会資料」八幡市教委、2010/11/06」 参照)
 この「解説」に従うと一辺は10.95mとなり、ほぼ記録上と遺構上の一辺は合致する。

宝塔院宝塔遺構礎石:下図の礎石の番号は上の遺構図に対応、数字は礎石の大きさ(cm)、 薄緑色部分が塔土壇
               写真は2009/12/17撮影(*印は2009/12/20撮影)

塔礎石15*
42x30程度
       

塔礎石8
計測忘れ

   
塔礎石14
43x30程度
          塔礎石7
57x70cm
 
    塔礎石13
65x45cm
      塔礎石6
56x50cm
 
  塔礎石12
 50x45cm程度
   

塔礎石10
66x63cm

     
  塔礎石11
60x43cm
        塔礎石5
65x44cm
 
      塔礎石9
65x50cm
  塔礎石16
 計測忘れ
   
        塔礎石3
径41cm
塔礎石2
40x50cm
塔礎石1
67x67cm
 
       

塔礎石4
30x30程度

     

礎石14.礎石15の存在は不明、それらしき石はあるが、もし塔に関係する石であるならば、大きさから見て縁束石であろう。
あるいはこの場所は崖下に位置し、土砂の堆積が見られ、そのために既に土砂に埋もれ見ることができない可能性もある。
 塔礎石14?の1*     塔礎石14?の2
なお、この付近の溝には多くの表面が削平された石が使われる。この中に塔礎石の転用がある可能性もあると思われる。
2009/12/17撮影:
 宝塔院宝塔跡礎石1:手前から礎石1、礎石2、礎石3
 宝塔院宝塔跡礎石2:左列・手前から礎石1、礎石2、礎石3、右上は礎石16
 宝塔院宝塔跡礎石3:左烈・手前から礎石1、礎石16、やや右に礎石10、右上は礎石6
 宝塔院宝塔跡礎石4:中央やや左・手前から礎石11、礎石12、右やや上は礎石13
2009/12/20撮影:
 宝塔院宝塔跡礎石9:左の礎石は礎石11、中央やや左は礎石12、右やや上は礎石13

2022/03/22追加:
○「男山四十八坊跡 観光案内」京都府八幡市、2020.01 より
 石清水臨時祭・年中行事騎射図屏風/宝塔院:白鶴美術館蔵、琴塔部分図。
 参道と宝塔院残存礎石:宝塔院(琴塔)は明治の神仏分離で取り除かれ、更に、最悪のことに、塔跡中央に参道が通される。旧参道は琴塔東の基壇下を通っていた。

2022/04/01撮影:
 琴塔土壇11     琴塔土壇12     琴塔礎石・塔礎石1-2     琴塔礎石・塔礎石16-2
 琴塔束石?     琴塔束石?:何れも束石(礎石14あるいは15)と思われるが、確証はない。

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【旧】石清水八幡宮多宝塔(琴塔)跡概要図:旧記載内容
  →山城石清水八幡宮・補足>石清水八幡宮多宝塔(琴塔)跡旧概要図
2009/12/22追加の上掲「宝塔院宝塔遺構実測図」作成まで掲載していた旧「多宝塔(琴塔)跡概要図)である。
 ※但し、この旧概要図は少々不正確である。


西谷大塔及び小塔跡

現在西谷の伽藍地は、明治維新後いつの頃か、ほぼ完全に破壊されて、かっての西谷の面影を留めない醜悪な景観に変貌する。

2007/06/06:推定大塔跡を訂正、2009/12/04:推定大塔跡を再訂正、
2010/11/09発掘の成果により大塔位置が確定
西谷大塔及び八角堂があったと思われる場所付近に、唯一土壇とも思われる半壊した土盛がある。
2010/11/09追加:
この土壇は2010年の発掘調査の「断ち割り」の結果、大塔の亀腹土壇の残欠ではなく、塔破却後に土壇は完全に削平され、その残土及び石材類を積上げたものと判明する。

西谷残存土壇:主要堂宇の土壇に相応しい、かなり大きな土壇であろう(未実測)。
 2010/11/09追加:この実態はすぐ上に記述。

石清水八幡宮西谷残存土壇1(左図拡大図、南より北を撮影)
  同              2(北より南を撮影)

2009/11/29撮影
石清水八幡宮西谷残存土壇3:写真中央に土壇が残る
  同              4

2009/12/17撮影
石清水八幡宮西谷残存土壇5
  同              6


2009/12/04追加
石清水八幡宮境内復元図(2)

石清水八幡宮境内復元図(2):左図全図:
 「石清水八幡宮と八幡市」大洞真白、2009
 (シンポジウム 三大八幡宮-その町と歴史-資料集」2009 所収)
 より転載。
※原題は「石清水八幡宮境内 堂舎・坊跡、遺構指定位置図」、
※原資料は「男山四十八坊」田中君於(「文化燦燦 第2号」石清水崇敬会、1999 所収)と推定される。<未確認>
※なお、当図の実線で示す遺構は明確な遺構であり、破線の遺構は概ねの位置を示すものである。

この図(2)にある「大塔」の復元場所に上記写真の土壇が残る。
この復元図が正しいものとすれば、上記の土壇が西谷大塔の土壇となろう。
弁財天社(三女神社・宗像三女神社)の南にこの土壇はある。

参考:石清水八幡宮 一山復元図(1)・・・・下に掲載

※なお、上記の大塔があったと推定される場所が大塔ではなく、八角堂のあった場所であるならば、大塔跡は広場(推定地2)などに転用され、全く何の痕跡もないことになる。
 (2010/11/09追加:大塔位置は上記の図の通りと確認されたため、以下は無効な記載となる。)
2007/06/03撮影:
  上記の前提に立つ場合は、以下の写真の場所が推定大塔位置となる。
  石清水大塔推定地2:東側から撮影、写真右(北)奥に土壇跡がある。
  あるいは
  上に掲載の石清水八幡宮西谷残存土壇3中の土壇手前もしくは駐車場付近が西谷大塔跡 (推定地2)となる。

  2009/12/22追加:参考
   上に掲載の「石清水八幡宮境内復元図(2)」の中に「谷埋め盛土」とある。
   この「谷埋め盛土」は、古代・中世の遺物含有地であるが、その性格は良く分からない。
   概要については「八幡市埋蔵文化財発掘調査概報 第51集」八幡市教育委員会、2008 に掲載がある。

西谷小塔跡

  小塔跡(岩本坊跡):岩本坊の痕跡は全くないが、売店?食堂?風の建物付近が岩本坊跡と推定される。
                なおこの写真の左手附近が大塔跡(推定地2)となる。

2010/11/09追加:
「石清水八幡宮境内 範囲確認調査 現地説明会資料」八幡市教委、2010/11/06 より
西谷大塔遺構

西谷大塔略歴
天永3年(1112)大塔供養、大塔は後白河院御願
建久10年(1199)炎上、建長5年(1253)再興、その後修理記録があるも、この塔は何時しか退転と思われる。
慶長10年(1605)豊臣秀頼再興
明治初年神仏分離により破却(「明治維新神仏分離資料」には「南都二月堂相求」とあるも、その顛末は詳らかならず。)

西谷大塔の規模・形式
近世の西谷大塔(豊臣氏再興塔)の形式及び規模は以下の資料に記載がある。
 ※なお、石清水八幡宮は1間=京間の6.5尺で設計されると建造物の研究で分かるとの「解説」がある。
  以上の「解説」に従い、この項の1間は6.5尺相当で、mに換算した数値を掲載する。
1)八幡山上山下惣絵図:但し 、この掲載図はトレース図、下に掲載、内閣文庫蔵、18世紀中葉

八幡山上山下惣絵図:部分図:左図拡大図

方七間三尺八寸(14.9m)、高さ十三間5尺(27.1m) とある。
(画像は不鮮明)

2013/07/13追加:
1-1)中井家文書:石清水八幡宮全図:本図は既に上に掲載済である。(再掲載)

石清水八幡宮八幡宮全図:京都府立総合資料館蔵、近世のものには相違ないが、年代は不明。

 石清水八幡宮全図/大塔部分図:左図拡大図
大きさは一辺7間3尺8寸、高さ13間5尺とある。
平面は正方形であり、内部中央は円形で描かれる。
(つまりは下重平面は方形・上重平面は円形の真言大塔形式であることを示す)
北に弁天社があり現存する。
北西に八角堂があり、西には西小門と西脇練塀がある。

2)石清水八幡宮惣指図、明和年中(1767-72)、京都府立総合資料館蔵

石清水八幡宮惣指図:部分図

大塔 方七間三尺八寸(14.9m)とある、
 高さは記載なし。
側柱は四方に5本、中央には円形に12本及び四天柱を建てる。
以上により真言大塔形式と分かる。
 四方に椽を廻らす。三方に階段あり。

3)山城綴喜郡誌
明治初年撤却なりたる塔は豊臣秀頼慶長12年再興したるものにして
方七間五尺三寸(15.3m)周囲幅五尺八寸の椽あり高さ十三間五尺八寸(27.3m)なり。
 ※1間=6尺相当であれば、各々のm換算は14.3m、25.4mとなる。
つまり、椽幅は5尺8寸(1.75m)とある。

  参考資料として以下もある。
  ◎大宮末社以下堂舎屋指図:全図(石清水八幡宮蔵) :(上掲)
       同     大塔・小塔:部分図、大塔は中央にあり、初重平面方5間、その内に内側柱を10本円形に配する、
                    さらに中央に四天柱を建てる。
                     (円形に配した内側柱が12本ではなくて10本であるのは特異であるが、その理由は不明。)
                    法量の記載はなし。
  ◎雄徳山石清水八幡宮指図:7間3尺8寸(14.9m)四方と記載(1間=6尺相当であれば、13.89m)
  ◎愚子見記 天和(1681-)頃成立か:7間3尺四方と記載
  ◎八幡四境図 延享4年(1751) :7間3尺四方と記載

西谷大塔平面図(実測)

西谷大塔平面図(実測):左図拡大図 :2011/07/19画像入替

今般の発掘調査で、塔東辺北部の雨落ち溝・椽の束柱礎石1個、塔北辺東部の雨落ち溝・椽の束柱礎石抜取穴1個を発掘、この結果大塔位置が確定する。
また亀腹基壇はほぼ平地に削平され、基壇上の礎石は残存しないと判明する。

雨落ち溝幅は約40cm、深さは約10cmで、両側に約20cm程度の側石(堆積岩)を置く。
塔北辺では雨落ち溝約5m、塔東辺では約2m程度を検出する。
東辺雨落ち溝の方位は磁針北を示す。
雨落ち溝の東北隅は生垣の下になる。
雨落ち溝は14世紀の堆積物で埋まり、また造り直した形跡が見られないので、鎌倉創建時の遺構と推定され、それが近世には縁石として機能していたものと推定される。

出土束石は花崗岩制で、径約40cmの円座を造り出す。
なお束石1個と束石抜取穴は溝の芯から1m内側に位置する。

西谷大塔遺構:2010/11/06撮影

大塔北辺雨落ち溝1:西から撮影
大塔北辺雨落ち溝2:西南西から撮影
大塔北辺雨落ち溝3:西から撮影、北辺東部、右は束石抜取穴
大塔北辺雨落ち溝4:左図拡大図、西から撮影、以下同文
大塔北辺雨落ち溝5:西から撮影、北辺東部手前部
大塔北辺束石抜取穴
大塔東辺雨落ち溝1:西北から撮影、手前は東辺束石
大塔東辺雨落ち溝2:同上
大塔東辺雨落ち溝3:西北西から撮影
大塔東辺束石

西谷大塔跡:中央木立が大塔跡
西谷大塔残土類土盛1:中央は断ち割り溝埋め戻し痕
西谷大塔残土類土盛2

2011/07/19追加:
「石清水八幡宮境内の遺跡」(シンポジウム「神仏集合」資料集)、八幡市教委、平成22年 より
 石清水八幡宮大塔跡2

2022/03/22追加:
○「男山四十八坊跡 観光案内」京都府八幡市、2020.01 より
 大塔発掘調査平面図2:大塔の設計図に大塔発掘調査区を合成したものと云う。
 大塔東辺束石・雨落ち溝:「現在、生垣の通路にある丸い花崗岩は、廊下状の縁側の礎石です。」との解説文がある。礎石@が縁側の礎石(束石)で、解説文では通路に露出しているとも解釈される。但し、露出しているかどうかは現地で確認を要する。礎石@の右側に礎石様のものが写るがこれは現代のものと思われるがこれも現地での確認を要する。

2022/04/01撮影:
 西谷大塔束石1     西谷大塔束石2
上に掲載の「大塔発掘調査平面図2」及び「大塔東辺束石・雨落ち溝」に示される「礎石@」である。
現在もこの「礎石」は地上に露出している。
従って、現在唯一目にすることの出来る西谷大塔の遺物である。
2022/07/20追加:
○「石清水八幡宮境内調査報告書」八幡市教育委員会、2011 より
発掘前から通路に露出していた礎石である。東辺の雨落ち溝の芯から0.9m内側み1基のみ確認する。
雨落溝からの距離、礎石の大きさから、椽の束石と考えられる。
花崗岩製で角は失われているが、径約40cmの柱座を造り出し、その特徴から、近世の修造に伴い設置されたものと思われる。


旧石清水八幡宮多宝小塔

 本多宝小塔は明治維新まで石清水八幡宮太子堂に安置、明治維新の神仏分離の処置で売却、近江国分の5代目眞田武左衛門が入手し、現在は国分聖徳太子会が所蔵・大津市国分聖徳太子堂に安置される。

2022/01/31追加:
○「修復トピックス 重要文化財安楽寺多宝小塔の保存修理より判明した建築的特徴」結城啓司 より
江戸期の造立、全高:98cm、下重平面:1間、上重軒:平行垂木、禅宗様を用いる、
本尊:釋迦・胎蔵界大日・金剛界大日・阿閦如来、現在は国分聖徳太子堂が管理する。
 旧石清水八幡宮多宝小塔

2022/04/29撮影:
 石清水八幡宮国分多宝小塔11:下図拡大図 

 

 石清水八幡宮国分多宝小塔12    石清水八幡宮国分多宝小塔13    石清水八幡宮国分多宝小塔14
 石清水八幡宮国分多宝小塔15    石清水八幡宮国分多宝小塔16    石清水八幡宮国分多宝小塔17
 石清水八幡宮国分多宝小塔18

 石清水八幡宮国分多宝小塔19:下図拡大図

 

 石清水八幡宮国分多宝小塔20    石清水八幡宮国分多宝小塔21    石清水八幡宮国分多宝小塔22
 石清水八幡宮国分多宝小塔23    石清水八幡宮国分多宝小塔24    石清水八幡宮国分多宝小塔25
 石清水八幡宮国分多宝小塔26    石清水八幡宮国分多宝小塔27    石清水八幡宮国分多宝小塔28
 石清水八幡宮国分多宝小塔29    石清水八幡宮国分多宝小塔30    石清水八幡宮国分多宝小塔31
 石清水八幡宮国分多宝小塔32    石清水八幡宮国分多宝小塔33    石清水八幡宮国分多宝小塔34
 石清水八幡宮国分多宝小塔35
 展示パネルを撮影:
 石清水八幡宮国分多宝小塔36    石清水八幡宮国分多宝小塔37
多宝小塔本尊・四天王像:
各像とも檜材の木造一木造。両部大日如来は像嵩5.8と6.0cm、釋迦・阿閦はともに4.1cm。四天王像は6.12から7.1cm。
各像とも作風などから桃山期の作と考えてもよいと思われる。
 多宝小塔内安置仏:向かって左から釋迦・胎蔵界大日・金剛界大日・阿閦如来。
 多宝小塔基壇安置仏:四天王、向かって左から広目天・多聞天・増長天・持国天。
○「ようこそ、神と仏の男山へ−石清水八幡宮太子堂の遺宝−」八幡市松花堂庭園・美術館、平成27年 より
3.多宝小塔と安置仏
 石清水八幡宮西谷大塔は文献上の相当な大型建物であり、また発掘成果からも下重は方5間の大塔形式であった。
創建時大塔は上重も平面方形の天台大塔形式であったと思われるが、慶長10年(1605)豊臣秀頼による再建塔は上重円形の真言大塔形式であったと推定される。
この大塔は明治の神仏分離の処置で東大寺二月堂の求めにより売却という。
 多宝小塔は総高98.4cmの多宝塔形式である。平面は方5間では無く、1間である。
しかし、この多宝小塔は安置仏像から大塔を模したものと分かる。
 ※この多宝小塔が大塔を模したものと分かる訳は、その安置仏で分かるという。しかしながら、その理屈は全く理解できない。
 よって、その解説を以下に記す。
石清水八幡宮大塔の本尊は諸資料から、釋迦・多宝の二仏であり、四柱には四天王が描かれ、本尊背後には僧形像もあったという。
一方、多宝小塔の本尊は、上の写真で示すように、金剛界大日と胎蔵界大日の二仏である。その他に釋迦・阿閦の二仏も安置される。また塔外の基壇の四隅に四天王が配置される。
つまり法華経・見宝塔品によれば、地中から湧出した宝塔内に多宝如来が釋迦如来を招き入れ、二仏が並坐したという。
これが、多宝塔内に二仏が並坐する由来であるが、多宝小塔は両部大日であり、それに釋迦・阿閦が加わる2組になっている。
本来、法華経の顕教の解釈では釋迦・多宝の二仏が並坐するというものであったが、密教ではこの二仏を両部の大日に解釈し、本尊の変更があったものと思われる。
加えて、釋迦・多宝の二仏なら理解できるが、本多宝小塔では多宝如来に替えて阿閦如来が祀られる。つまりここでも密教的解釈が行われて、多宝如来が密教尊である阿閦如来に変更される解釈の変更があったものと思われる。
さらに、多宝小塔の四天王像については、像容が「大仏殿用」といわれる形式で、平安期の創建である大塔の時代にはありえない像容であり、ここでも、解釈の変更が行われたものと推定される。
なお、四天柱に描かれた四天王像は彫像化されたが、これは小さい模型であるから塔内では拝めず、基壇四隅に置くものに変更されたのであろう。
以上の尊像の変更が何時行われたのかは分からないが、以上を理解した上で、初めて多宝小塔安置仏が大塔に関係すると云えるであろう。
 ※以上、多宝小塔が西山大塔を模したという理由はよく分からない論理構成ではある。

2023/09/11追加:
■曼荼羅本尊
新太子堂内では、多宝塔の背後に「曼荼羅本尊」が掲げられている。
 この「曼荼羅本尊」の由来について、眞田氏にお聞きすると、眞田氏の父親が戦地で知り合った(戦友の)日蓮宗の住職から頂いたもののようである。 近くの「ミョウシンジ」の住職から預ったもので、元は城陽市の寺院にあったものという。
但し、詳細な事情は曖昧で本当のことは分からない。
 「ミョウシンジ」とは瀬田に日蓮宗「妙真寺」(大津市瀬田1−17−24)があるので、この寺院である可能性が高い。
しかし、城陽市の寺院とは、よく分からない。「曼荼羅本尊」の形式から、日蓮宗寺院であることは間違いないが、城陽市の日蓮宗寺院は現在城本門仏立宗の寺院が一ヶ所あるだけで多分該当しないであろう。
城陽市近辺では、井手町には眞藏院があり、京田辺市には2ヶ寺ある。あるいは宇治市かも知れない。
何れにしろ、これ以上の詮索は無理で、由緒は曖昧なままである。

石清水八幡宮太子堂遺構

 現在大津市石山国分にある「石清水八幡宮太子堂遺構」は明治維新まで石清水八幡宮太子坂にあった。
明治維新の神仏分離の処置で太子堂・安置多宝塔及太子象<上に掲載>などが売却され、近江国分の5代目眞田武左衛門が入手、現在は国分聖徳太子会が所蔵、眞田氏邸に保存される。
 本太子堂遺構は天保14年(1843)再建(棟札)の堂で、切妻造、屋根瓦葺き、平面は2間四方(「男山考古録」、実測は正面1間2尺4寸×奥行1間2尺)、正面は両面開の折戸がつき、折戸を開扉すれば、格子引戸がある。床は板張。
 なお、太子堂の沿革は本ページの太子坂太子堂にあり。

2023/04/23撮影:
●石清水八幡宮太子堂遺構

太子堂外観1:左図拡大図
太子堂外観2
太子堂外観3
太子堂外観4
太子堂外観5
両面開折戸+格子引戸
両面開折戸1
両面開折戸2
両面開折戸3
両面開折戸4
両面開折戸5
両面開折戸6
両面開折戸7
格子引戸1
格子引戸2
格子引戸3
格子引戸4
格子引戸5

格子引戸には参詣者の墨書が残る。
「萬延二酉二月十五日江戸末袋町関口藤三郎」(万延2年は1861年、江戸末袋町は不詳)、
「函館山■一四丁目・・・」、「越■屋・・・・」、「出羽秋田久保田長■住・・」など格子の縦横に墨書がある。
しかし、殆ど消えかけて、断片的な漢字しか判読できない。
 格子引戸墨書1     格子引戸墨書2
棟に載せた軒瓦には立ち葵の紋が用いられる。眞田氏から何かの由緒があるようにお聞きするも失念する。
 棟丸瓦
太子堂の前附近に礎石あるいは基壇・石階様の石材がある。眞田氏は太子堂関連の石材である可能性を指摘するが、不明。
 伝太子堂関係切石礎石1    伝太子堂関係切石礎石2    伝太子堂関係切石礎石3    伝太子堂関係切石礎石4

2023/09/11追加:
○「ようこそ、神と仏の男山へ−石清水八幡宮太子堂の遺宝−」八幡市松花堂庭園・美術館、平成27年 より
◇太子堂現存棟札
 棟札が保存される。<未見>
 太子堂現存棟札:表には次のようにある。
  太子堂一宇    元御堂寛保三年所造立也文政八年
   坂崩礎堕御堂崩落(于時由清在職之間)其後再建之志雖有
   之及延滞有年今漸企其事五月廿四日以吉辰上棟
天保十四癸卯年前検校僧正法印田中由清(宮工匠)長濱越前尚次
※文政8年(1825)は堂の崩壊
※天保14年(1843)現存太子堂の再建
◇太子堂平面図
昭和26年に眞田氏邸に太子堂が再建された時の平面図。昭和45年に現在の太子堂が完成し、太子像と多宝塔は新太子堂に移される。
 太子堂平面図
◇太子堂内安置旧観
 太子堂内安置旧観:修理前・昭和30年頃とある。
堂内向かって左の板間に厨子に安置した聖徳太子像とその隣に多宝塔が安置されていたという。
◇框の落書(墨書)
現在は堂内に保存とある。
 框の落書(墨書):「江戸芝邊之住 山本益三参詣」


平成23年石清水八幡宮境内が史跡指定される。

2004/02/28追加:
八幡山名所案内記」慶応2年(1866)より:佛教関係を抜出(その他は省略)

◇本社
・鐘楼:東御門の南に在。旧ハ護国寺に属。中古豊臣秀頼公奉行片桐東市正旦元に仰せて鐘を懸る。銘あり。今は延享2年9月、我祖政次奉て鋳替る。
・上坊:馬場東側神供所に対ふ。西面門在、穀屋といふは中古此処ニて日御供米を搗きて此名あり。・・・
・経蔵:馬場東側に在。豊臣秀頼公母儀淀君奉納宋板一切経千筥、千字文次第して、各其事を彫、
・元三堂:馬場の末西側東面、元三大師を安置す。卿君の願にして作云々。卿君は大師の弟也。旧は比叡山ニ在しか、兵乱の時、当山に移す。山州名跡志ニも見ゆ。明和5年岩本坊私願ニて此所ニ移す。・・・
◇西谷
・八角堂:西谷東面、一光千仏阿弥陀、建保年中、順徳院御願に依て善法寺祐清建立、
・弁財天:同所東面、旧ハ此処より程遠き西の山中に在。其創詳かならず。寛永10年より、修造に入、側に池あり。
・大塔:西谷の南、東面、釈迦、多宝、白河院御願、天永3年2月供養、丹波守正盛建之、慶長10年豊臣秀頼公再興、奉行小出大和守吉政
・尊勝院:岩本坊といふ。此処旧小塔の地、堂中平等王院愛染明王像を仮安置、弘安蒙古退治霊験あろ云々。
後深草院御願にて建長7年建立。
・西門:八角堂の後に在。・・・・右は足立寺より楠葉郷に至る。
・法童坊:岩本坊南道の南・・北面。井関坊、奥坊、杉本坊:同西在。
◇南谷
・南門:三之鳥居南を西に下る処ニ在。・・・
・愛染堂:本道の北側に在、南面。盛輪寺、又安居堂とも云。丈六愛染明王、後嵯峨院寛元元年供養、建治2年炎上、正応5年再興、延徳元年恵覚か勧進文に弘法大師宇佐宮に詣て作云々。有信難し。旧八角堂也、天和2年炎上、貞享元年再建、・・・
・五智輪堂:松本坊と云。本道の南に在。不動明王安置、坊室金壁、狩野永徳、同山楽画
・開山堂:東道の南ニ在、東面。古ハ御影堂といふ。三所此堂の事、元亨元年尚清か置文に有
 中・行教和尚・・・・・、北・弘法大師・・・・・・、南・益信僧正・・・・・
・多聞坊:同堂の西ニ在。
・豊蔵坊:同道の北側南、東照宮いまた参河国に御坐比より御祈祷にて、国家豊饒御祈願の賞、台命にて宝蔵なりしを豊蔵と改む。本尊三尊弥陀、御神像を祭る。・・・
・観音院:中坊と云、同所下に在、東面本尊、観音ハ京東清水寺同作と云伝ふ。
◇東谷
・琴塔:宝塔院と云。南面胎蔵大日秘仏、後一条天皇万寿年中、十ニヶ寺領を寄進、御鎮坐巳前之造立、建久3年、七輪を九輪となす。皇代記。上下四隅垣に箏(こと)を釣、因て常に琴塔と云。・・・・・・・・・北面毘沙門天を安す。
・天満宮:・・・・観音堂の旧地也。
・護国寺:道の北側南面、当山根本之精舎云々。御鎮坐之後、東面堂を改、南面となす。貞観4年12月、太政官符石清水の号を改、護国寺とすへし。縁事記。検校別当已下三綱、一山堂舎皆当寺に属。本尊薬師如来秘仏、十二神将ハ大江匡房卿、康和5年、鎮西より贈進、心快之作、四天王四体之内2体、明応3年炎上、一体増長天王、また毘沙門天王ハ元和元年、私ニ山下壇所町西福寺に移す。
・観音堂:道の南に在、東面、同御鎮坐已前之建立。十一面観音、厨子内千躰観音立像を安置。

・・・・この後段に掲載の記事は下に掲載の「神仏分離資料中」の「1.幕府時代の状況及び仏教関係の建築物」の種本と思われ、記述内容が同一のため、以下は省略 する・・・・・

石清水八幡宮の略歴

2011/08/31修正:
天平勝宝元年(749)八幡神(禰宜大神杜女)が東大寺に入寺し、そののちに梨原宮に鎮座、更に東大寺境内に移座する。
 ※この宮は治承4年(1180)平重衡の焼討ちで焼失、建長2年(1250)北条時頼が現在地に再建と云う。(現在の手向山八幡宮)
 ※現在の手向山八幡社は明治の神仏分離で東大寺から分離させられるも、神仏分離が如何に空疎なことかを如実に示す。
同時期もしくはそれ以前に宇佐八幡宮に神宮寺伽藍が整備される。
天応元年(781)桓武天皇即位、八幡神は「大自在王大菩薩」を称すると云う。
延暦2年(783)八幡神は「護国霊験威力神通大自在王大菩薩」と称することを託宣する。(弘仁12年8月15日官符(「東大寺要録」所収))
 ※天応元年から延暦年中(782-806)に八幡神は「八幡大菩薩」と称したことは確実と思われる。
  (延暦年中の官符などには「八幡大菩薩」と見える。)
平安遷都で教王護国寺に八幡神が勧請される。
貞観2年(860)男山(石清水寺)に僧行教により、八幡神が勧請される。
貞観4年石清水寺は神宮寺(護国寺)となる。
元慶7年(883)山下に極楽寺が開創される。

石清水八幡宮本殿
2013/03/31追加:
2013/02/23「八幡市制35周年シンポジウム 八幡宮本殿の歴史と建築」が催される。
   講演者:永井規男(関大)、土田充義(鹿大・九大)、田中君於(八幡宮)、島田豊(京都府)、仲政明(嵯峨芸大)・・
1)石清水八幡宮の本質は八幡宮寺であった。・・・「宮寺」と云う歴史的表記を見よ。(田中君於)
 以上について、「石清水八幡宮境内調査報告書」2011(p.225) は次のように要約する。
石清水八幡宮の本殿は神社としての一面だけでなく、八幡宮寺の中心の堂(根本堂・本堂)として企図されて造営されたものと解すべきであろう。即ち既存の大寺院の金堂などに匹敵あるは凌駕する威容をもつ信仰空間としての本殿を造り上げたものと解釈すべきであろう。
2)八幡造としての宇佐宮と石清水八幡宮寺(土田充義)
 以上について、「石清水八幡宮境内調査報告書」2011(p.224) は次のように要約する。
本殿は所謂「八幡造」(本格的遺例は4例と云う)であり、八幡三所大神と称される三神を並置する基本要素を持つ。
しかし宇佐宮では6宇3殿とされ、それぞれの内院・外院の2屋根からなる独立した3殿が並ぶ分割形であるが、石清水八幡宮寺では6宇宝殿とされる長大な前後2屋根からなり、3殿か完全に連結する一体形の形式である相違がある。
 ※「石清水八幡宮境内調査報告書」より:
  石清水八幡宮寺本殿俯瞰     石清水八幡宮寺本殿黄金の樋:織田信長寄進(「信長公記)
   →八幡宇佐宮
3)石清水八幡宮寺本殿の造立年代
 石清水八幡宮寺本殿はその残存する棟札(寛永11年の源家光銘)から寛永期の建築として重文指定を受ける。
しかし、本当にそうなのか、本当に寛永期の造替とする確たる根拠はあるのだろうか。
平成17-21年の修理で152点にのぼる本殿建築群の彫刻を精査するうちに、本彫刻類は寛永と云うより慶長とする方がより妥当性を持つと云う結論に達する。勿論、北野天神本殿(国宝・桃山)を代表とする幾多の京都の寺社の建築との比較からである。むしろ国宝木槫天神本殿より優れているのではないか。(仲政明)
足利尊氏(延元3年・1338)・義満(応安4年・1371)各々石清水八幡宮本殿造営。
織田信長(天正8年・1580)石清水八幡宮本殿造営。
豊臣秀頼(慶長11年・1606)石清水八幡宮本殿遷宮。
徳川家光(寛永11年・1635)石清水八幡宮本殿造替。(永井規男)
結論として、今日残る石清水八幡宮寺本殿は寛永11年の家光の造替であるというより、むしろ、天正8年の信長、慶長11年の豊臣氏及び寛永年度の徳川氏のいわば武家棟梁の合作と考える方がより合理性をもつのではないかとの仮説が提起される。(永井・仲)
 修復前本殿楼門:2004/02/22撮影
2022/07/20追加:
○「八幡市制35周年シンポジウム 八幡宮本殿の歴史と建築」資料集 より
 石清水八幡宮社殿配置:石清水八幡宮本殿平面図
 石清水八幡宮本殿屋根形状:本殿の平面図であるが、屋根状図である。舞殿の棟は南北、舞殿の棟は東西であることが分かる。
 石清水八幡宮本殿南北方向断面図:楼門から背面回廊までの南北方向の断面図である。
 石清水八幡宮本殿廻廊断面図:回廊の身舎は2間で、外側に廂を1間出す構造であることが分かる。

2017/10/16追加:2022/07/20加筆:
ドローンで撮影した石清水八幡宮本殿:○2017年10月25日朝日新聞デジタル より
平成27年石清水八幡宮本殿10棟が国宝に指定される。
 ※本殿10棟:本殿、武内本殿、瑞籬、幣殿及舞殿、楼門、東門、西門、回廊(三棟)


石清水八幡宮社殿00:上図拡大図

石清水八幡宮社殿01:上図に文字入したもの

男山山上本殿
 石清水八幡宮・男山山上
楼門
 石清水八幡宮本殿11    石清水八幡宮本殿12
本社(本殿)
 石清水八幡宮本殿13    石清水八幡宮本殿14    石清水八幡宮本殿15    石清水八幡宮本殿16
 石清水八幡宮本殿17
舞殿
 石清水八幡宮舞殿:幣殿から楼門方向を撮影したもの。奥に写るのは楼門とその左右は回廊、石敷の部分が舞殿である。
金の樋(織田信長寄進)
 石清水八幡宮本殿18    石清水八幡宮本殿19
彫刻
 石清水八幡宮本殿20    石清水八幡宮本殿21    石清水八幡宮本殿22    石清水八幡宮本殿23
 石清水八幡宮本殿24
 石清水八幡宮本殿25    石清水八幡宮本殿26    石清水八幡宮本殿27    石清水八幡宮本殿28
 石清水八幡宮本殿29

2022/04/06追加:
○「神社とは何か」新谷尚紀、講談社現代新書2646、2021 より
前説:
 杵築大社の大社造は古代の豪族の住居に由来する現実的な建築である。
一方、伊勢神宮の左右対称で非参入式の窓がない神明造は現実的な住居型とは異質の建築である。
三浦正幸は祭祀される神仏が建築内部に常在しているとする非参入式で左右対称の神社本殿は寺院建築から生まれた造形である可能性が高いという。
さて、
 石清水八幡宮の本社は豊前の宇佐八幡であり、貞観元年(859)祭神が勧請され、翌貞観2年に男山に遷座されたのが石清水八幡宮である。
その本社宇佐八幡宮の原点は御許山(大元山・現在の宇佐八幡の東北約5km)山頂の巖座祭祀で、土着の宇佐氏が祭祀していたと推定され、それに渡来系氏族の辛島氏が祀っていた神と大和からやってきた大神氏が関与して形成されたのが宇佐八幡神である。
ただ、この宇佐八幡神はしだいに陰陽道や仏教と習合しその姿は変化し、やがて八幡大菩薩と呼ばれるようになり、更にこの八幡大菩薩は記紀の伝える神功皇后とその皇子応神天皇へと仮託される。
その仮託の時期は男山への遷座以前の弘仁年中(810-824)から承和年中(834-848)の頃と思われる。
弘仁6年(815)の「宇佐八幡宮神主大神清麻呂解状」には「件大菩薩、是亦太上天皇御霊也」とあり、この太上天皇とは聖武天皇のことと考えられるが、承和年中と伝える「宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起」には「右御神者是品太天皇御霊也」(品太天皇とは応神天皇)とある。
そして、この宇佐八幡宮の都への勧請・遷座は次のように伝える。
貞観元年(863)大安寺僧行教の述した「石清水八幡宮護国寺略記」では貞観元年(859)行教は宇佐に参篭し、その時「都附近に移座し国家を鎮護せん」との託宣を受ける。その後行教は山崎に地に帰還したとき、「移座すべき処は石清水男山の峯なり、われそこに現れん」との託宣を受く。
貞観2年(860)託宣を請け、宝殿が男山に成り、遷座する。
そして、平安中期、石清水八幡宮は平安京鎮護の二十二社の一つに加えられる。
石清水八幡宮本殿:
 いわゆる八幡造であるが、その特徴は次の2点である。
1)八幡3神(八幡大菩薩/応神天皇/ほむたわけ・神功皇后/おきながたらしひめ・比賣大神)祭祀のため、三棟の本殿が建てられる。
2)3棟の本殿は切妻・平入の三間社流造で、身舎を二棟前後に並べて接続した形で、側面からは前後に二つの切妻が連なる形式である。前方の切妻造が外院(外殿・前殿)、後方の切妻造は内院(内殿・後殿)とよばれ、これは神の昼の御座と夜の御座だろうと云われる。この形式は攝津住吉社も同じで、古代豪族の居館の間取りに倣ったものと考えられる。
 ※いわゆる八幡造社殿はその密閉性を見ると伊勢系の非住居型であるが、社殿が前後に並び、それが古代豪族の居館の間取りの倣ったという見方をすれば、それは住居型の社殿でもあろう。つまり建築構造は非住居型であるが、その機能は住居型であると云えるのであろう。
さらに、二十二社に加えられた石清水八幡宮本殿は巨大化する。
八幡3神の3棟の社殿は横方向に連結され、棟が通され横に長い十一間社となっている。さらに、正面には高い石造基壇の巨大な楼門が造営され、本殿四周には回廊が廻る。この楼門は寛永11年(1634)徳川家光の造営によるものである。これら楼門や回廊は寺院建築の建造物であり、将に神仏習合の典型である。
なお、外院・内院との間は合の間といわれ、ここには天正年中織田信長の寄進という金色の巨大な金銅樋(全長21.6m)がある。
 本殿立面図(正面・側面)
 参考1:
山上の社殿は楼門から奥へ、舞殿・幣殿・本殿(内殿・外殿)が続き、その周囲は回廊(東門・西門が開かれる)が廻り、いずれも近年国宝に指定される。
本殿は幾多の再建を繰り返すが、以上の現在の社殿は寛永11年(1634)徳川家光の再建による。
本殿の外は築地塀(織田信長奉納)が廻り、西総門・北総門・東総門(何れも江戸前期の再建で重文)を開く。
校倉(宝蔵、京都府指定有形文化財)は江戸中期の再建。
 参考2:
比賣大神は宗像三女神、すなわち多紀理毘売命(たぎりびめ)、市寸島姫命(いちきしまひめ)、多岐津比売命(たぎつひめ)という。
◆ドローンで撮影した石清水八幡宮本殿2
上に掲載の画像と概ね重複する。
 石清水八幡宮本殿31     石清水八幡宮本殿32     石清水八幡宮本殿33     石清水八幡宮本殿34
 石清水八幡宮本殿樋

2022/04/06追加:2022/07/20加筆
○「神社と霊廟 原色日本の美術 第16巻」稲垣栄三、小学館、昭和43年 より
 本殿は横に長い切妻平入の2つの建物、即ち内殿・外殿を前後に連結させた所謂八幡造の形式である。
内殿・外殿とも3つの社殿を左右に連結し、屋根は一続きに造る。即ち内殿・外殿とも正面3間・側面2間で、同形同大の6棟の建物を、前後及び左右とも造りあいの間を挟んで結ぶ。
内殿・外殿の中間の相の間以外は全て柱間は等間である。内殿は正面中央間を板扉とするほかは壁とし、外殿は正面全てが蔀戸、造りあいの間に面する所が腰壁のみをつくり、上半を解放とする。
屋根は檜皮葺、外観・内部とも軸部は漆及び丹塗りとするが、内・外殿とも天井は素木もままである。
なお、内・外殿間に架せられた樋は鋳銅製で天正8年(1580)の銘がある。
廻廊は本殿を囲繞して複廊の回廊があり、廻廊外に庇を出す。廻廊正面には楼門、東西に四足門を開く。
楼門は1間1戸で、正面に向唐破風の向拝を付けるが、かっては前流れの庇をつけた構えであった。
楼門と本殿の間に、舞殿・幣殿が建つ。ともに梁間1間であるが、舞殿は棟を南北に、幣殿は棟を東西につくり、床を石敷とする。
 石清水八幡宮社殿平面図
 石清水八幡宮舞殿・幣殿:楼門の奥に本殿の正面が見え、その間を舞殿・幣殿が繋いでいる。舞殿・幣殿とも梁間一間で、ひと続きになっていて、床には石畳を張る。
 参考資料:舞殿・舞殿などの写真は撮影禁止で、Webサイトにも殆ど掲載されない。
  石清水八幡宮舞殿・幣殿1
  石清水八幡宮舞殿・幣殿2


◎石清水八幡宮本殿撮影画像

2004/02/22追撮影:
 石清水八幡宮楼門(寛永11年1634徳川家光造営という。重文・・・現在は国宝)
2007/06/03撮影:
 石清水八幡宮楼門1      石清水八幡宮楼門2     石清水八幡宮楼門3
2009/11/29撮影:
 石清水本殿北面回廊     石清水本殿北総門
2009/12/17撮影:
 本殿楼門01     本殿楼門02     本殿楼門03     本殿楼門04
 石清水若宮社11     石清水若宮社12     石清水若宮殿社      
 石清水水若宮社:左の小祠は気比社      石清水住吉社: 中央の社殿が住吉社、手前は一童社、奥は校倉
2010/11/06撮影:
 石清水若宮社13      石清水若宮社14      石清水若宮社15      石清水若宮社16      石清水若宮社17
 石清水若宮殿社12     石清水若宮殿社13
 石清水住吉社12       石清水住吉社13
 石清水水若宮社12      石清水水若宮社13      石清水水若宮社14

石清水八幡宮の以下16棟は「重文」指定・・・・・2016年、本殿以下廻廊迄(紫部分)は国宝に指定される。
 本殿及び外殿、附・摂社武内社本殿、瑞籬、幣殿及び舞殿、楼門、東門、西門、廻廊(楼門東門間)、廻廊(楼門西門間)、廻廊(背面)
 若宮社本殿、若宮殿社本殿、水若宮社本殿、住吉社本殿、東総門、西総門、北総門、狩尾社本殿

2022/04/01撮影:
 社殿は造営14度・修理17度に及ぶという焼失等の災いを蒙るも、その都度造営される。
最終的には、近世初頭、天正8年(1580)織田信長による社殿修復、慶長3年(1598)から豊臣秀頼による境内再興が行われ、
現在の社殿は、基本的には寛永11年(1634)江戸幕府により造替されたものである。
上院(山上)社殿の構成は次の通りである。
南総門:昭和13年再建
 本殿南総門:右手に供御所がある(慶長2年(1597)再建)
南総門を入ると楼門があり、楼門の奥へと舞殿・幣殿・本殿(内殿・外殿/昼は外殿・夜は内殿に神が遷座する)が続く。
 ※この内殿・外殿(八幡造)は仏教寺院の双堂という意味あいではない。双堂は後の正堂(佛の領域)に礼堂・細殿(俗の領域)が対峙するのであるが、内殿・外殿(八幡造)は何れの空間も神の領域とされる。
楼門から廻廊が舞殿・幣殿・本殿を囲み、廻廊の途中東西に東門・西門を構える。
また、理由は不明であるが、唯一摂社の武内社(武内宿禰)が配置される。
以上の社殿群は寛永11年(1634)徳川家光の造替であり、何れも国宝建造物である。
なお、回廊内に神倉があるが、これについては、確たる情報がなく、その性格は不明である。
また、西門蟇股に施されている左甚五郎の作という彫刻「目貫きの猿」は不明(未見)。
 本殿楼門11     本殿楼門12     本殿楼門13     本殿楼門14     本殿楼門15
 本殿楼門16     本殿楼門17     本殿楼門18     本殿楼門19
 本殿東門11     本殿東門12     本殿東門13
 本殿西門11     本殿西門12     本殿西門13     本殿西門14
以上の本殿群及び摂社末社は織田信長寄進という「信長塀(築地)」に囲繞され、東総門・西総門・北総門(何れも江戸前期の再建で重文)が開門する。
そして、その塀で囲繞された空間にはた空間には
水若宮社(菟道稚郎子) 、若宮社(仁徳天皇)、若宮殿社(応神天皇の皇女) 、住吉社(住吉三神)<以上何れも江戸前期の再建、重文>などの摂社末社などと校倉(宝蔵・江戸中期・府文)が並ぶ。
 摂社水若宮社11    摂社水若宮社12    摂社水若宮社13    摂社水若宮社14
 摂社水若宮社15    摂社水若宮社16    摂社水若宮社17
 摂社若宮社・若宮殿社
 摂社若宮社11     摂社若宮社12     摂社若宮社13     摂社若宮社14
 摂社若宮社15     摂社若宮社16     摂社若宮社17     摂社若宮社18
 摂社若宮殿社11     摂社若宮殿社12     摂社若宮殿社13     摂社若宮殿社14
 摂社若宮殿社15     摂社若宮殿社16     摂社若宮殿社17
 摂社住吉社11     摂社住吉社12     摂社住吉社13     摂社住吉社14     摂社住吉社15
 摂社住吉社16     摂社住吉社17     摂社住吉社18     摂社住吉社19
 本殿校倉
 本殿信長塀
 本殿東総門     本殿西総門11     本殿西総門12     本殿北総門


2003/5/19追加
「京羽二重 巻三」:
石清水八幡宮、社領7,040石。
 茶畠 善法寺、志水 新善法寺、山下 田中善法寺
 坊舎
   御殿司:中谷 杉本坊、西谷 桜本坊、南谷 松本坊
   入 寺:中谷 横坊、西谷 岩本坊、東谷 梅本坊、東谷 橘坊
   中谷坊舎:蔵之坊、桜井坊、椿坊、祝坊
   西谷坊舎:法堂坊、奥之坊、辻本坊
   南谷坊舎:豊蔵坊、中之坊、菊の坊、多門坊
   東谷坊舎:橋本坊、閼伽井坊、梅之坊、井関坊、泉坊、瀧本坊、宮本坊、新坊、東之坊、常住坊、福仙坊、井上坊、下坊
   北谷坊舎:梭櫚坊、塔之坊、萩之坊、角ノ坊、松坊、門口坊、喜多坊、太西坊、栗本坊
   御神殿の北:上ノ坊

2022/07/20追加:
○「石清水八幡宮境内調査報告書」八幡市教育委員会、2011 より
江戸時代中期の坊跡及び主要施設位置図(1/2500)
※現状、最も精巧で広範囲な「石清水八幡宮堂舎・坊舎配置図」である。
下に掲載する「石清水八幡宮堂舎・坊舎配置図」と大差はないが、本図がより精巧と思われる。
現在迄の調査研究の一つの集大成の図面であろう。

石清水八幡宮堂舎・坊舎配置図:下図拡大図、江戸中期の「八幡山上山下惣絵図」に基ずく。

 

2011/07/19追加:
○「石清水八幡宮境内の遺跡」(シンポジウム「神仏集合」資料集)、八幡市教委、平成22年 より
 

石清水八幡宮堂塔坊舎配置図:左図拡大図
【石清水八幡宮一山復元図(3)】
本資料は最新の発掘調査・表面調査などを反映した最新の堂塔坊舎配置図(石清水八幡宮伽藍配置図)である。
従って、以下に掲載する諸堂・坊舎の配置図(復原図・伽藍図など)に比べて格段に精緻なものである。

なお坊舎堂塔の配置は基本的に
八幡山上山下惣絵図・改変:部分図
に基ずくものである。

石清水八幡宮社殿:本殿は廻廊などに囲まれ、通常窺うことはできない。

2004/02/28追加:
江戸後期の石清水八幡宮一山復元図(1)

石清水八幡宮一山復元図(1):左図拡大図

 東谷琴塔跡(宝塔院):画像など上掲載、土壇を残す。
 西谷大塔跡:画像など上掲載、土壇の一部を残す可能性が大きい。
 西谷小塔跡:上掲載、何もなし。
 南谷駿河三昧塔跡:上掲載、何もなし。
 東谷護国寺薬師堂跡
 西谷八角堂:後述「現存する堂舎」の項を参照。
 北谷太西坊銘(薬師堂前石碑?銘)
 山下極楽寺跡
2007/06/03撮影:
 北谷塔坊跡
 北谷萩坊跡
 北谷栗本坊跡
 北谷鐘楼坊跡1(推定)  同鐘楼坊跡2(推定)・・築地跡?
 北谷白壁坊跡(推定)・・築地跡?
 北谷廃道(推定門口坊跡)
 北谷喜多坊跡
 東谷滝本坊跡
 東谷石清水社(2001/9/24撮影)
 東谷宮本坊跡
 東谷泉坊跡1  同泉坊跡2  同泉坊跡3:2001/9/24撮影
 東谷東坊跡
 東谷福泉坊跡(推定)
 東谷成就坊跡(推定)
 南谷南門跡
 南谷松本坊跡
 南谷豊蔵坊跡1  同豊蔵坊跡2・・・↓豊蔵坊信海墓は下記を参照
 南谷中坊跡
 中谷桜井坊跡(推定)

・成就坊の南は橘本坊(上記地図では榎本坊?・橋坊?と表記)、その南の井関坊は辻本坊に代わったと思われる。
・中坊・宝蔵坊の背後は櫻井坊、祝坊(岩井坊とも表記)、杉本坊、蔵坊(萩坊?)、橘坊、椿坊(款冬<やまぶき>坊とも)
・愛染堂(安居堂・盛輪院)跡。本尊は丈六の愛染明王像。現在は鳩茶屋がある。
 寛元4年(1246)創建、建治2年(1276)に炎上、正応5年(1292)再興、延徳元年(1489)大破・造営、万治・寛文年中(1658〜73) 建替、天和2年(1682)炎上、貞享元年(1684)再興。この堂が明治維新で棄却される。方5間・高さ5間3寸。

山下の神宮寺(大乗院)は現在、京阪八幡市駅前バスターミナルに変貌し、全くその痕跡を残さない。


2009/12/04追加:
石清水八幡宮境内復元図(2)・・・上に掲載

2010/11/09追加:
「石清水八幡宮境内 範囲確認調査 現地説明会資料」八幡市教委、2010/11/06 より
  石清水八幡宮堂舎坊舎遺構推定位置図・・・上記「石清水八幡宮境内復元図(2)」と同一図版で、坊舎名の記載あり。

2010/09/27追加:
八幡山上山下惣絵図:内閣文庫蔵、「近世石清水八幡宮の石高」竹中友里代、京都府立総合資料館、平成20年 より
  「斉藤家文書目録」トレース図?、屋根を色分け・幕府による修復箇所に印があると云う。
   修復は寛文5年、元禄4年、延享2年、安永7年、文化元年、文化9年、安政5年の7次の修復があるが、その内のいずれかであろう。
  山上はもとより山下の寺院全てが描かれる。但し掲載画像は小さく判別することはできない。
   2011/07/19追加:
   「石清水八幡宮境内の遺跡」(シンポジウム「神仏集合」資料集)、八幡市教委、平成22年 より
     八幡山上山下惣絵図・改変:部分図 ・・・上に掲載済
男山諸坊推定位置図:江戸中期

男山諸坊推定位置図:左図拡大図

「男山四十八坊」田中君於(「文化燦燦 第2号」石清水崇敬会、平成11年) より転載
 男山には知られている坊は61坊ある。(坊名の一覧表あり)
 上記の八幡山上山下惣絵図には山上に42ヶ坊ある。(山下の高坊を入れれば43ヶ坊)
 この「男山諸坊推定位置図」には上記「惣絵図」の42坊が推定される。

なお、当書には順次、坊ごとの由緒・逸話などが述べられる。
また、山上にある石燈籠98基の宿坊名と年紀(奉納年紀)を纏めた一覧表もある。

2022/03/22追加:
○「男山四十八坊跡 観光案内」京都府八幡市、2020.01 より
 ※本資料は「八幡市観光パンフレット」中に掲載され、かつて男山にあった男山四十八坊などの跡をたどるガイドマップ。(2020年1月発行)と説明される。PDF文書である。
 男山四十八坊の跡:48坊跡及び主要堂塔が示される。

2009/11/29撮影:
 北谷太西坊跡1(推定)     北谷太西坊跡2(推定)     北谷太西坊跡俯瞰(推定):この付近には近世の瓦の散乱を見る。
 東谷残存石垣(新坊付近か)     東谷残存遺物(推定)(新坊付近か)

2009/12/17撮影:
 北谷道(廃道):護国寺横入口付近
 北谷角坊跡:坊跡にケーブル山上駅に至る新参道が貫く。    北谷白壁坊跡: 同左

 ※護国寺跡付近遺構図:この図は「八幡市埋蔵文化財発掘調査概報 第52集」八幡市教育委員会、2009 所収
                の「石清水八幡宮遺跡 測量図」の部分図である。
 東谷宮本坊跡
 山下極楽寺跡2

2009/12/20撮影
 北谷萩坊跡     北谷栗本坊跡     北谷栗本坊石垣     北谷推定鐘楼坊石垣
2010/05/11撮影
 瀧本坊堂舎跡:礎石が残存する。      瀧本坊堂舎跡礎石列     瀧本坊堂舎跡礎石
   →山城石清水八幡宮・補足>瀧本坊跡発掘調査・瀧本坊遺構2010/11/06発掘調査現地説明>
 宮本坊奥残存石垣
◇永仁石燈籠(重文・永仁3年銘)
 現在書院前庭東南に位置する。花崗岩製六角燈籠。
竿の中節上に「永仁3年(1295)乙未三月 日」の刻銘(現在は確認し難い)があると云う。
なおこの石燈籠はかっては皇太神宮遙拝所にあったと云う。
 永仁石燈籠1     永仁石燈籠2
2010/05/23追加
 太西坊跡礎石:八幡市教委提供写真・朝日新聞報道写真
本堂と見られる遺構に7個の礎石が残存する。礎石は大きさ約1m内外、花崗岩、7個は6m四方に配置される。四角の柱穴と思われる凹を有する礎石もある。
太西坊は中世後期の文献にその名が見える。元禄14年(1701)当時(浅野内匠頭長矩の江戸城松廊下刃傷事件が起る)の住職・専貞は大石内蔵助良雄の実弟と云う。専貞弟子覚運は、大石良雄の養子であり、後に太西坊を再興すると云う。

2022/03/22追加:
○「男山四十八坊跡 観光案内」京都府八幡市、2020.01 より
 北谷太西坊跡・礎石

◇東谷石清水社:祭神:天御中主神。府文。
2009/12/17撮影:
 東谷石清水社:宮本坊跡から撮影
2022/04/01撮影:
 東谷石清水社2    東谷石清水社3/石清水井
 東谷石清水社4    東谷石清水社5    東谷石清水社6    東谷石清水社7

2022/04/01撮影:
 太子坂太子堂跡
 北谷萩坊跡3
 北谷栗本坊・鐘楼坊:向かって左が栗本坊、右は鐘楼坊     北谷栗本坊跡2    北谷鐘楼坊跡3
 護国寺薬師堂跡2     護国寺薬師堂跡3
 東谷瀧本坊跡2     東谷瀧本坊跡3     東谷瀧本坊跡4     東谷瀧本坊跡5

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2010/12/14追加:
「石清水八幡宮護国寺跡 現地説明会資料」八幡市教育委員会、2010/12/04 より
  →山城石清水八幡宮・補足>●護国寺跡発掘調査

2010/11/09追加:
「石清水八幡宮境内 範囲確認調査 現地説明会資料」八幡市教委、2010/11/06 より
  →山城石清水八幡宮・補足>●瀧本坊跡発掘調査・瀧本坊遺構

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豊蔵坊信海の墓所:2005/01/29追加

墓所は移設後の足立寺塔跡の南の登り窯跡がある小丘上にある。
  豊蔵坊信海墓:2005/01/29撮影
かっての豊蔵坊の存在証明として貴重な遺構と思われる。
信海:元禄元年、54歳で逝去。画家であり、晩年には松花堂昭乗に書を学ぶ。また狂歌を得意としたと伝える。
豊蔵坊は徳川家康の祈祷所であり、朱印107石と、徳川家から毎年300石の収入があり、坊の所有地・諸大名などの祈祷料などで、1000石を超える収入があったと云われる。本尊は阿弥陀三尊像、本尊横には東照大権現を祀る。
この東照大権現像は明治の神仏分離による豊蔵坊廃絶により、衣笠等持院に移され、現存すると云う。
2013/03/31追加:
 豊蔵坊信海墓2     豊蔵坊信海墓3     豊蔵坊信海墓4
以前は竹薮であったが全部切り開かれる。文化財保護の観点からこれで良いのであろうか。
10基に近い数の墓石が並ぶも、どれが信海の墓碑なのかは判然とはしない。年紀や戒名などに該当するものが無いように思われる。
 (再調査を要する。)  


石清水八幡宮の神仏分離

残存する堂舎

西谷阿弥陀堂(八角堂)/旧八角院

●西谷阿弥陀堂
2007/03/06追加:「男山考古録 巻第七」嘉永元年(1848)
◇八角堂
西谷に在て、・・・一光千仏阿弥陀を安置す、堂塔記曰、建保年中(1213-)順徳院御願、前善法寺検校祐清建立之、・・・後々大破、
慶長12年・・、豊臣内大臣秀頼公御願にて・・・再建立也、・・・・然る処に60年許を過て・・・殊外大破に及びて半は顚倒して、残る半分の処に安置して、表6間奥行2間の仮に板家根をせし由・・・元禄11年(1698)当務善法寺央清権僧正四方に勧進を募りて再興在し也・・・・

○男山の南方正法寺の境外堂の八角堂として、かっての西谷阿弥陀堂(都名所圖會では円堂に描写)が、残存する。
この八角堂は本地堂として開山行教律師が貞観年間に西谷に創建したとされ、慶長年間に豊臣秀頼がこれを再営し、享保年間に堂形を八角に改めたとされる。ただしこの堂はいわゆる「円堂」ではなくて、四角の建物の四隅を削り取った形式の建築である。
本尊は丈六の木造乾漆の阿弥陀如来坐像(重文・鎌倉・本地佛)で、明治2年堂とともに正法寺に移され、西車塚(前方後方墳)上に移建される。現在は屋根瓦が相当落ち、このままでは 荒廃に拍車をかける惧れがある。
  旧西谷阿弥陀堂(八角堂)1   旧西谷阿弥陀堂(八角堂)2

 → 阿弥陀堂本尊阿弥陀如来坐像は「石清水八幡宮・補足」>志水正法寺を参照。

2005/01/29撮影:旧西谷阿弥陀堂遺構

石清水八幡宮阿弥陀堂1
  同           2
  同           3
  同           4

裏手に廻ると相当破損が進む。
このまま放置すれば、いずれ腐朽し、倒壊の惧れがある。
おそらく石清水八幡宮仏堂の唯一の遺構と思われる当堂の恒久的な保存を望む。(早急な修理が必要と思われる。)

  同           5
  同           6(左図拡大図)
  同           7

2009/11/29撮影:
 石清水八幡宮阿弥陀堂11     石清水八幡宮阿弥陀堂12
 石清水八幡宮阿弥陀堂13:正面屋根軒瓦はほぼ落下する。
 石清水八幡宮阿弥陀堂14:正面左側面角
 石清水八幡宮阿弥陀堂15     石清水八幡宮阿弥陀堂16:2005/01/29撮影時点より、腐朽が進む。
※現地でこの堂の修理見込みについて関係者に聞けば、この堂は正法寺管理であるが、正法寺単独での修理は困難であると思われる。
従って、この堂の修理については、現在のところ「地元有志」が中心となり、行政などの関係者との調整を図っている最中であり、資金手当なども含め修理実現に向けて取り組んでいるとのことであった。
2012/05/11追加:
石清水八幡宮阿弥陀堂は西車塚(前方後円墳)後円部の上に建つ。遠望写真は西もしくは西南から撮影。写真向かって左が前方部になる。
 阿弥陀堂遠望11    阿弥陀堂遠望12    阿弥陀堂遠望13    阿弥陀堂遠望14    阿弥陀堂遠望15    阿弥陀堂遠望16
 阿弥陀堂正面      阿弥陀堂東面      阿弥陀堂西面      阿弥陀堂正面扉     阿弥陀堂正面蟇股
 阿弥陀堂西面中央間礎石
全般に荒廃が進むが特に北西隅の軒が腐朽して久しくなる。今般不細工なトタン波板による応急処置がなされたようである。
本建築は石清水八幡宮の仏堂の貴重な遺構としてまた神仏分離の蛮行の遺構として是非後世に伝えなければならない建築である。
 阿弥陀堂応急修理1    阿弥陀堂応急修理2     阿弥陀堂応急修理3     阿弥陀堂背面屋根
2013/02/23撮影:
 八幡宮阿弥陀堂41     八幡宮阿弥陀堂42     八幡宮阿弥陀堂43     八幡宮阿弥陀堂44
 八幡宮阿弥陀堂45     八幡宮阿弥陀堂46     八幡宮阿弥陀堂47

2012/09/29追加:
新聞報道:「八幡市 八角堂(西谷阿弥陀堂)取得へ」
28日八幡市は一部土地の取得費5000万円を盛り込んだ補正予算を可決。
所有者「正法寺」は費用の問題もあり、十分に手をまわすことが出来ずと云う。そこで八幡市が八角堂境内約1180坪の一部土地を先行取得し、八角堂は無償で正法寺から受贈する。史跡石清水八幡宮境内に関連する建造物とみなし、土地取得費の8割は国庫補助がある見通し。
 ※おそらくは行政の手によって、修理がなされ、後世に伝えて行く筋道となると期待される。

2022/04/01撮影:
 八幡宮西谷阿弥陀堂は美しく修復される。
平成25年(2013)八角堂公有化、平成26年度から修復工事を始め、平成31年3月竣工する。
合わせて、新しい案内板もいくつか設置され、境内地の整備も行われた模様である。
加えて、平成24年(2012)この地・阿弥陀堂(八角堂)は飛地ではあるが、岩清水八幡宮境内(八角堂)として、国史跡指定される。
 八角堂(西谷阿弥陀堂)は建保年中(1213〜19)順徳天皇の発願により、石清水八幡宮検校善法寺祐清が建立と伝える。
慶長12年(1607)豊臣秀頼が小出吉政を奉行として再建。寛文年中(1661〜73)には破損転倒していた。
元禄11年(1698)石清水八幡宮別当善法寺央清が広く寄付を募って再興。この時、建物の規模を2割ほど縮小したと考えられる。
寛延元年(1748)屋根を中心に修理が行われる。
明治3年、神仏分離令にて石清水八幡宮も仏堂仏像経典仏器などが取り払われるが、八角堂及び元三大師堂は正法寺の前住職志水円阿が仏像と共に譲り受け、現在地に移築する。
移築の際、建物の向きを東正面から南正面に改め、外陣は床板張りにする。また八角堂東に庫裡を、その南に茶所も設け、八角院と称する。
昭和37年(1962)本尊を収めるための収蔵庫を内陣に設置。その際、三方の欄間建具を取り除く。
昭和50年代、元三堂・庫裏・茶所は撤去され、新たに西側に東屋(RC造)が作られる。
阿弥陀堂本尊阿弥陀如来坐像は鎌倉期の作で、昭和25年(1950)重要文化財に指定、平成10年(1998)京都国立博物館に寄託される。
平成20年(2008)正法寺法雲殿に遷され、一般公開日に公開される。
なお、元三大師堂本尊元三大師像は未だに京都国立博物館に寄託されたままである。

 

 西谷阿弥陀堂51:上図拡大図
 西谷阿弥陀堂52     西谷阿弥陀堂53     西谷阿弥陀堂54     西谷阿弥陀堂55     西谷阿弥陀堂56
 西谷阿弥陀堂57     西谷阿弥陀堂58     西谷阿弥陀堂59     西谷阿弥陀堂60     西谷阿弥陀堂61
 西谷阿弥陀堂62     西谷阿弥陀堂62     西谷阿弥陀堂64     西谷阿弥陀堂65     西谷阿弥陀堂66
 西谷阿弥陀堂67     西谷阿弥陀堂68     西谷阿弥陀堂69
 八角院平面図:現地説明板、西車塚塚上に立地
 八角院石碑:八角院入口に建つ、昭和2年京都三宅安兵衛遺志と裏面に刻する。
明治16年八角院堂舎平面図
 明治16年八角院堂舎平面図
 阿弥陀堂・元三大師堂が下山して程ない時期の堂舎配置が分かる。
 ※庫裡の桁行4間というのはおそらく3間でなければ辻褄が合わない。
 元三大師堂趾1     元三大師堂趾2:礎石3個が直線に遺存するが、おそらく大師堂礎石であろう。
 元三堂茶所石碑:石碑なのであろうが、用途は分からない。
   現地説明板には「昭和50年代に八角堂を除いた元三大師堂・庫裏、茶所は撤去され、東屋(RC造)が建てられる。」とある。
 八角院東屋
 石碑・手水・礎石類:「母泥能阿治佐波毘賣命御墓参考地」とあるのは濱田青陵(濱田耕作・1181〜1938・京都帝国大学総長)の推定という。
 裏面には「三宅清治郎建之」、側面には「○○ 濱田青陵書」と刻する。
  ※三宅清治郎は安兵衛長男、安兵衛没後、父親の遺志を継ぐ。記紀神話の主は検索を乞う。
 なお、松花堂庭園内にある東車塚古墳には、「山代之大筒木真若王命御墓参考地」という石碑(未見)があるという。
 車塚碑の「車塚」は西車塚を示すのであろう。
 さらに礎石らしきものが2基あり、内1基は造り出しを持つが、元三大師堂の礎石であろうか。
  ※西車塚:前方後円墳、周濠(墳丘西側に空壕)、墳長約115m、後円径約70m・高約8m、前方幅約32m・高約4mという。
  (報告書により法量には差異がある。)
 大峯山九十度供養碑1     大峯山九十度供養碑2     大峯山九十度供養碑3
 正面:「大峯山九十度供養○」、右側面:「慶應3年」年紀、左側面:「すく八幡宮 ○」 とある。
○2021年八角堂公開
 八角堂内部
○八幡市教育委員会発行ルーフレット「史跡 石清水八幡宮境内(八角堂)」より
 八角堂平面図      柱の彩色復元

○八角堂本尊阿弥陀如来坐像
 八角堂本尊阿弥陀如来坐像:現在は正法寺法雲殿に安置される。
  →山城志水正法寺

2022/11/18撮影:
○現地説明板 より
建保年中(1213-19)西谷に建立される。本尊阿弥陀如来坐像。
慶長12年(1607)大破していた八角堂が豊臣秀頼によって再建。90年後に再び大破。
元禄11年(1698)四方に勧進を募り、再興。
明治3年神仏判然令により、西谷から現在地へ元三大師堂とともに移築される。
この時、東正面から南正面に改められ、外陣は床張りとされる。また四天柱の内法貫には元禄以来の彩色の痕跡が確認され、新たに彩色が施される。
昭和37年内陣の土間にRC造の収蔵庫が設置される。また三方の欄間建具が撤去、内陣の四天柱と内法貫の彩色も塗料で覆い隠される。
平成10年(1998)本尊阿弥陀如来が京博に寄託され、平成20年(2008)八幡清水正法寺に遷される。
平成24年(2012)石清水八幡宮境内が史跡指定された時、この地も国指定史跡指定される。
平成25年(2013)市有化される。
平成31年(2019)半解体修理竣工。(工事請負:伸和建設など)
 1)内陣RC造収蔵庫を撤去、床板張りに復す。
 2)内陣3方の欄間建具を復す。
 3)内陣四天柱と内法貫の彩色を明治期文様に復す。
 4)真柱・左義長柱を旧に復す。
の内容であった。
 八角堂内陣11     八角堂内陣12     八角堂内陣13     八角堂内陣14     八角堂内陣15
 八角堂内陣16     八角堂内陣17     八角堂内陣18     八角堂内陣19     八角堂内陣20
 八角堂内陣21     八角堂内陣22     八角堂内陣23     八角堂内陣24     八角堂内陣25
 八角堂内陣26
 八角堂外陣11     八角堂外陣12     八角堂外陣13     八角堂外陣14     八角堂外陣15
 八角堂外陣16     八角堂外陣17     八角堂外陣18     八角堂外陣19
 開扉中八角堂
 八角堂正面蟇股:他の面のそれと比べて一回り大きい。八角堂外陣11の写真は堂内部から見たもの。
 八角堂北面安置厨子1     八角堂北面安置厨子2     八角堂北面安置厨子3
 八角堂北面安置厨子4:現地説明員:明治期のもの、八角堂に安置されていたものが由来は不明である。
 大峯山九十度供養碑4
 八角堂本尊阿弥陀如来坐像
  文化庁所蔵写真、昭和8年本尊修理時に八角堂堂内で撮影した写真。(「史跡 石清水八幡宮境内(八角堂)」ルーフレット より)
 八角堂四天柱彩色白描画     八角堂内法貫彩色白描画:いずれも、現地での配布物

2012/05/11追加・修正:
●西谷元三大師堂(現存せず)
  <※2022/07/15追加:
   上に掲載の「八幡宮西谷阿弥陀堂」>2022/04/01撮影の項を参照、明治16年八角院堂舎平面図などを追加。>
一般的には、西谷元三大師堂は西谷阿弥陀堂と同じくこの地八角院に移建され、同時に本尊元三大師像(重文・鎌倉)もこの地に遷座すると云われる。
但し、これについては異説もあり、例えば、下記の京阪叢書「男山」中村直勝では、元三大師堂は取払い、元三大師像のみ遷座と云う。
 ・京阪叢書「男山」中村直勝、宝書房、昭和22年:
「明治2年阿弥陀佛を正法寺に遷座、明治3年官庁に届出、現在地に移建。現建物の露盤に豊臣秀頼建築の銘があるという。
八角堂東に小宇があり、元三大師像を安置。明治3年岩本増誠が正法寺に寄附し、明治4年現在の堂へ遷す。
八角堂 丈六阿弥陀佛 善法寺検校祐清御願、建保年中建立。
元三大師堂 明治2年の社御用向日記(神仏分離資料所収)では、「堂塔取払、元三大師其儘有之候者、不都合ニ付、早々取払候様、建白之事」とあり、元三大師堂は取り払われ、大師像のみ遷座された。 」
 
※明治初頭に取り払われたとすれば、もとより西谷にあった元三大師堂は現存しない。
しかし、上述のように、一般的には、西谷元三大師堂は八角院に移されると云い、現に元三大師堂は<「新撰京都名所圖會 巻六」竹村俊則、昭和40年 >に納められた「八幡車塚」の絵図では、西車塚八角院の阿弥陀堂(八角円堂)東に元三大師堂が描かれる。
 ◆「新撰京都名所圖會・八幡車塚
つまりこの当時には元三大師堂が存在したのである。
そして、「新撰京都名所圖會 巻六」では「八角院は・・・浄土宗鎮西派の寺・・・当寺は建武年中善法寺祐清の開創と伝え、今の本堂は西谷阿弥陀堂を明治になってこの地に移し、・・・八角院と名を改めた。・・・堂内には丈六の阿弥陀如来坐像を安置・・・。その右の大師堂に安置する元三大師坐像(重文・鎌倉)は極彩色、玉眼入、・・・とされる。」と云う。
但し、ここで描かれる堂は西谷から移建した堂なのかあるいは元三大師像安置のため後年に建立した堂なのかは不明ではある。
何れにせよ、少なくとも昭和40年頃までは、移建されたのかあるいは後年に建立されたのかは別にして、八角院には元三大師堂が存在したと思われる。
 しかしながら、今、この昭和40年頃まであったと思われる元三大師堂はいつの頃かは不明であるが既に退転し、この堂のあった場所は、更地となる。漠然と見た限りでの印象では、この堂のあった場所は、その更地の場に立つと堂跡の雰囲気を残すと思われる。
 何れにせよ、西谷元三大師堂が明治初頭に取り払い破却を免れ、西車塚(八角院)に移建されたとしても、その元三大師堂は退転し、現在西車塚上には存在しない 。
 (なお、阿弥陀堂西には現在地藏堂が建立されている。)
もとよりこの「圖會」は正確にこの堂の姿を描くことが目的ではないであろうが、元三大師堂は妻入の瓦葺入母屋造のように描かれる。
近世の古絵図、例えば、城州八幡山案内會圖(慶応3年)の◆「元三堂部分図」なども基本的に妻入の入母屋造のように描 かれる。
 但し、都名所圖會(「西谷大塔部分図」)では、例外的に宝形造の堂のように描く。
また、八幡山上山下惣絵図(八幡山上山下惣絵図・改変:部分図)の◆「馬場付近部分図」は不鮮明で桁行・梁行の間数が判然とはしないが、縦長(つまり妻入)に描かれる。
 雑な考察ではあるが、近世の絵図に描く元三大師堂と「新撰京都名所圖會・八幡車塚」に描くそれとは酷似する。もしそうであれば、元三大師堂は西谷から八角院に移建された可能性が高いと思われる。
なお、幕末頃の男山の堂舎状況のバイブル的存在である「男山考古録」にはどういう訳か元三大師堂の記載がなく、詳しい堂形などの情報を得ることが出来ないのは残念である。
2014/05/28追加;
「昭和京都名所圖會」竹村俊則、1989(平成元年)でも、八角堂の項で「その(八角堂)右の大師堂に安置する・・・」とあり、少なくとも昭和末期までは大師堂は現存したものと思われる。

 → 元三大師坐像については下に掲載の「元三堂元三大師像」の項を参照。

●泉坊客殿(現書院)・松花堂(草庵茶室兼持仏堂)
 ○2013/03/31追加:
明治初頭の石清水八幡宮の神仏分離の処置の後、泉坊書院は山中に残っていたものと推定される。
明治7年頃男山山麓の大谷治麿(中山忠能の子息、中山忠光の弟)が金600両で購入し、八幡山路(泉坊北東方向山麓の大谷川の川向う)の自宅敷地内に移築する。
明治13年大谷治麿はこの地を去る。
明治24年八幡女郎花東車塚古墳付近に屋敷を構える国学者・井上忠継(伊三郎)に買い取られ、明治31年現在地に移建される。
 ※結果として、山路から約2km南の八幡大芝西車塚古墳(現八角堂)東南に移される。
井上忠継の後を引継いだのが、忠継の子息西村芳次郎であり、芳次郎の手により、泉坊庭園が復元されると云う。
 ※忠継の子息(次男)芳次郎は京都に出て、豪商西村嘉助に奉公し、その才を認められ西村家に養子に入り、生糸で財をなすと云う。
戦後は西村家(西村大成か)から迫田盛太郎の手に渡り、さらに塚本素山が入手し、外園の整備を進める。
昭和52年八幡町(市)が買い取り、美術館と庭園を公開する。 →「八幡市立松花堂庭園」に現存する。
 ※昭和52年以前の景観は<「新撰京都名所圖會 巻六」竹村俊則、昭和40年 >にある「新撰京都名所圖會・八幡車塚」 に描かれる。
昭和59年客殿(書院)と玄関は府の登録文化財となる。
 ○2013/01/02追加:
「文化燦燦 第2号」では「松花堂昭乗が晩年営んだ松花堂のあった場所である。全ての建物は小早川秀秋の寄進によると云う。」とある。
「備前国四拾八ヶ寺領并分国中大社領目録写」では、まず備前国四拾八ヶ寺書立之事として備前国48ヶ寺の寺領の記載があり、次に 「四十八箇寺之外御寄附寺領之事」として「八塔寺 50石、 ・・・・ 八幡泉坊 60石、蓮昌寺 70石」として11ヶ寺の書上げがある。
そもそも、備前国48ヶ寺は勿論備前国の寺院であり、外の11ヶ寺のうちの10ヶ寺も備前国の寺院であるが、唯一八幡泉坊のみが例外であり、備前国内にはその該当がない。八幡泉坊とは石清水八幡宮坊舎の泉坊と推定される。
つまり、泉坊は朱印20石のほかに、岡山藩から60石の寄附を得る。
 ※「備前国四拾八ヶ寺領并分国中大社領目録写」は文禄4年(1595)12月吉日の年紀で、宇喜多秀家の「御判在之」と云う。
 ※文禄元年(1592)昭乗は8歳で南都興福寺一乗院から男山八幡宮の鐘楼坊に入山する。
  慶長3年(1598)小早川秀秋、昭乗に対し、泉坊を寄進する。
 ※以上のように、泉坊の建物は小早川秀秋の寄進と云い、昭乗と当時筑前などの領主であった小早川秀秋とは何らかの関係があったと
  推定されるが、備前国主宇喜多秀家との関係は不明である。
  もっとも、慶長5年(1605)の関が原の役の後、備前国領主宇喜多秀家の後を襲いだのは小早川秀秋という関係にはあるが、
  秀家と昭乗との関係ではなく、なぜ文禄4年の時点で備前の地から遠い山城八幡の泉坊に60石の寄附があったのかは不明である。
   なお、宇喜多秀家は直家の実子でありかつ秀吉の猶子でもあり、一方小早川秀秋は秀吉の甥であり、この当時の秀吉との関係で、
  秀家と秀秋は何らかの繫がりがあったとも思われるが、この関係については未調査で、思いつきの域をでない。
○2013/03/31追加:
 上に掲載の「城州八幡山案内絵図」:<木版墨摺、慶応3年(1867)、個人蔵> のほぼ中央に泉坊及び松花堂が描かれる。
  (現物写真:城州八幡山案内會圖・現物
さらに分かり易くした画像(高解像度)が、次の画像であり、この「城州八幡山案内會圖・現物」の東谷泉坊付近を切り取ったものである。
 ◎城州八幡山案内會圖・泉坊付近:この図の中央やや下に、左から下坊、松花堂泉坊客殿、東坊、成就坊が描かれる。
○2013/02/23撮影:「八幡市立松花堂庭園」にて
泉坊玄関は桃山城の遺構とも云う。双折両開の扉(桟唐戸)には太閤桐の紋が付く。
 東谷泉坊玄関遺構1     東谷泉坊玄関遺構2     東谷泉坊玄関遺構3     東谷泉坊玄関遺構4
 東谷泉坊玄関遺構5     東谷泉坊玄関遺構6     東谷泉坊玄関遺構7
「玄関」から奥へ進むと、「梅の間」「柳の間」を経て「奥の間」へと続く。
 玄関・梅間・柳間・奥間     梅間・柳間の外観
双折両開の扉(桟唐戸)には太閤桐の紋が付く。
 双折両開の右扉     双折両開の左扉
玄関屋根の唐破風瓦は、寛永の三筆が筆を執ったもので、「福」は近衛信尹、「禄」は本阿弥光悦、「寿」は松花堂昭乗の筆と伝えられる。
 玄関唐破風瓦
東谷泉坊客殿は永禄3年(1560)j小早川秀秋の寄進と伝える。
「奥の間」から客殿母屋に入ると、「控えの間」と「主室の間」がある。
「主室の間」は9畳敷きで奥に2畳半の上段の間を構え、その向かって右には違い棚を設け、左には「押板」が設けられる。所謂「書院造」の座敷であろう。天井は折上格天井。
「主室の間」は別名「玉座の間」とも云い、後陽成天皇、孝明天皇が行幸したと云う。襖には狩野山楽筆といわれる水墨画が描かれていたが、今は松花堂美術館に収蔵と云う。
 東谷泉坊尾客殿1     東谷泉坊尾客殿2
 客殿主室の間1       客殿主室の間2     客殿控えの間     客殿主室の間3     客殿主室の間4
 ※松花堂は修復工事中で見学できず。
なお、泉坊跡発掘図(平面図)は
 →山城石清水八幡宮・補足>●瀧本坊跡発掘調査・瀧本坊遺構 にあるので、参照を乞う。

備忘:泰勝寺
現在「松花堂旧跡」の石標が立つ。近世ここは松華堂昭乗などの墓所であったと云う。
明治維新後、荒れ果てた墓所は明治末期に改修される。
大正7年、大阪の篤志家中尾かつ子によって、方丈、庫裏、茶室・青松居、数奇屋・閑雲軒が新築され、寺院としての体裁が整う。
寺号は肥後熊本細川忠興菩提所泰勝寺が廃寺となっていたのを貰い受けると云う。
明治維新の頃、復古神道が跋扈し細川氏は神道に転向、泰勝寺を廃寺となすと云う。

●高坊寺門
 ○2013/03/31追加:
上に掲載の「城州八幡山案内絵図」:<木版墨摺、慶応3年(1867)、個人蔵> の右下に「高坊」が描かれ、寺門も描かれる。
 (現物写真:城州八幡山案内會圖・現物
さらに分かり易くした画像(高解像度)が、次の画像であり、上記の「城州八幡山案内會圖・現物」の高坊付近を切り取ったものである。
 ◆城州八幡山案内會圖・高坊:中央に一の鳥居があり、その西に幕末の高坊が描かれ、寺門も描かれる。この寺門が現存する寺門であろう。
この絵図の高坊は下記に示すように天保14年の移転後の高坊であろう。
但し位置としては神宮寺の隣接地にあり、一の鳥居の西に移転したであろう天保14年の位置は無視され、従前の位置に描いていると思われる。
 ※高坊:「文化燦燦」及び「石清水八幡宮境内調査報告書」 より
  創建は「第8代検校元命始新造之、後一条院御宇也」(「空圓記」)とあり、長暦・長久年中(1037-1044)頃と考えられる。
  その場所は神應寺内の山房のようであり、高坊の名もその位置に由来するようである。
  その後中世には幾度か焼失・再建を繰り返すことが記録される。
  その再建の途中で時期は不明ながら、山腹から放生川付近に下りてきたと推定される。
  高坊は中世に焼失していたが、慶長の造営時には、極楽寺・高良社は再興されるも、高坊は再興されなかったようである。
  延宝2年(1674)田中要清が放生会再興を願い出、仮坊として高坊を再興。(神宮寺の南の隣接地であろう。)
  天保14年(1843)前検校田中由清が高坊を移転。(一の鳥居西側の位置と思われる。また慶応4年の鳥羽伏見の戦いにも焼失は免れる。)
  明治5年八幡知周校創立に当り、高坊が校舎として引き渡される。
○2008/09/13追加:
男山八幡宮全山図:神仏分離によって壊滅した石清水八幡宮寺を描く。<本図は下にも掲載>
「石清水八幡宮 諸建造物群調査報告書(本文編)・(図版編)」八幡市教育委員会・石清水八幡宮、2007
 ◆男山八幡宮全山図:明治11年、銅板画、個人蔵
護国寺・宝塔院・西谷大塔は勿論一切の仏堂塔が壊滅した様子が分かる。山下の極楽寺は高良社・小教院などに転用される。護国寺跡には茶店が出ているのであろうか。
本図の右下に描かれる一の鳥居の西にある高坊は小学校(明治6年開校の知周校・後の八幡尋常小学校)に転用されていることも分かる。
○2013/02/23撮影:「八幡市立松花堂庭園」にて
八幡小学校沿革:
明治5年八幡宮高坊の地に知周校として創立される。高坊堂舎がそのまま流用されたと思われる。
明治33年八幡尋常小学校と改称。
大正5年八幡菖蒲池に移転。
 菖蒲池の地は明治初頭に廃寺となった金剛律寺の跡である。ここに町役場及び八幡尋常小学校が移転する。校門も移転と思われる。
 市役所はこの地から移転したが、八幡小学校は規模を拡張し現在もある。なお市役所跡地は八幡市立図書館に転用され現在に至る。
昭和38年校庭拡張工事で校門を新設し、長く校門として使われてきた高坊寺門は「松花堂公園」に移される。
 八幡宮高坊寺門遺構1     八幡宮高坊寺門遺構2     八幡宮高坊寺門遺構3     八幡宮高坊寺門遺構4
 八幡宮高坊寺門遺構5     八幡宮高坊寺門遺構6

●五輪塔:重文
 五 輪 塔
旧極楽寺の遺物と伝える。
無銘であるが、鎌倉期のものとされる。重文。一辺2.4m、高さ約6mの大きさで全国最大の石製五輪塔とされる。
航海記念塔、忌明塔、武者塚、行教の墓とかの色々な伝承が伝えられている。
2022/11/19撮影:
 鎌倉期のものと推定される。高さ6m、最下段の巾は2.4m。中世以前の五輪塔では日本最大という。
刻銘が全くなく、造立の由来、年代など一切が不明。
口伝では平安末期、攝津尼崎の商人が宋からの帰国の途中、嵐に遭遇するも、石清水八幡宮に一心に祈り無事帰国が叶い、そのお礼にこの石塔を建立したという。故に「航海記念塔」とも称する。
 石清水八幡宮五輪塔1     石清水八幡宮五輪塔2

2009/12/17撮影:
●石清水八幡宮経所(馬場先経蔵)
慶長年中豊臣秀頼母(淀君)が再興、宗版一切経を納める。
宝暦5年(1755)「八幡宮指図」では「新」とあり、宝暦頃再建されたものと推定される。規模は3間1尺1寸×2間5尺で、現存堂と規模は完全に一致すると云う。
桁行3間・梁間2間、切妻造、屋根桟瓦葺。明治の神仏分離で羽車2基を納め「御羽車舎」と改竄する。
2009/12/17撮影:
 石清水八幡宮経蔵1     石清水八幡宮経蔵2     石清水八幡宮経蔵3     石清水八幡宮経蔵4
2022/04/01撮影:
 石清水八幡宮経蔵5     石清水八幡宮経蔵6     石清水八幡宮経蔵7
2022/09/13追加:
馬場先経蔵の宗版一切経(宋版大般若経)の 第百二十七 一帖 が国分聖徳太子会に伝わり、現存する。
残余はアメリカボストン美術館に流れたとの噂もあるようである。
 詳しくは→石清水八幡宮旧蔵聖徳太子像・その他遺物の経典>宋版大般若経 の項を参照。
●弁財天社
諸絵図・記録に見える西谷弁財天社と思われる。建築様式から見て江戸中期の建築とされる。
明治の神仏分離後に三女神社と改竄されたものと推定される。
一間社流造・屋根檜皮葺。三女とは国家神道の女神を祭神と捏造したものと思われる。
 石清水八幡宮弁財天社1       同           2
 ※この弁天社の南(もしくは南西)すぐに西谷大塔があり、北西すぐに西谷阿弥陀堂があった。
なお付近に供御井舎が残る。
供御井舎:井土の覆屋である。切妻造・妻入・屋根本瓦葺。正徳4年(1714)頃の建立と考えられる。
 石清水八幡宮供御井舎
2022/04/01撮影:
 西谷弁財天:今では三女神社といい、宗像3神を祀るという。なぜそうなったかの経緯を示す史料にはお目にかからないが、明治維新後に弁財天であるのは不都合であったということは容易に想像できる。
●西谷阿弥陀堂(八角堂)跡
2022/04/0」撮影:
弁財天社北側附近に阿弥陀堂はあった。
 西谷八角阿弥陀堂跡

●その他明治初年撤却となった堂宇として
護国寺、愛染明王堂、開山堂(明治4年)、太子堂、瀧本坊(明治5年)を始めとする多くの坊舎などがある。
なお、極楽寺、神宮寺(大乗院)等は慶応元年の鳥羽伏見の戦で焼失するという。
2007/06/06追加:
  石清水極楽寺平面:(「石清水八幡宮御指図」写し) :「八幡宮の建築 」より

仏像の遷座

2021/11/07追加:
シリーズ「石清水八幡宮の歴史Q&A」第1回、石清水八幡宮禰宜・西 中道 より
1.開山堂行教和尚坐像:
 神仏分離の処置の時、烏帽子を被せ狩衣を着せて神像の姿に装うも、山上には残すことが出来ず、明治6年に神應寺に遷座する。
2.同じく開山堂弘法大師像:
 神戸の某寺院からの手紙で、本像をお預かりしている、との情報を入手、目下調査中である。
3.開山堂初代検校・益信像:
 現在も、行方不明のまま。
4.山下極楽寺宝冠阿弥陀如来坐像および僧形八幡神坐像
 善法律寺に遷座
5.山上八角堂阿弥陀如来坐像及び元三堂元三大師像
 正法寺に遷座
5.狩尾社帝釈天立像
 橋本西遊寺に遷座
6.太子堂聖徳太子2歳像
 滋賀県国分聖徳太子会(太子堂)に遷座
7.豊蔵坊東照神君(徳川家康)像
 洛北の等持院に遷座
8.石清水八幡宮旧蔵仏像
 妙心寺にて保有との情報がある。
9.護国寺本尊薬師如来像および大江匡房寄進十二神将像
 淡路東山寺に遷座。
10.石清水八幡宮旧蔵阿弥陀如来坐像
 寺町誓願寺に安置
111.宝塔院(琴塔)毘沙門天立像
 奈良国立博物館が所蔵
以上の他に何点か未確認情報がある。
なお、明治維新の「神仏分離」に際し、
12.本殿内本地仏として安置の阿弥陀如来像は、一度外に出され骨董商に引き取られるも、紆余曲折を経て明治30年代に再び石清水八幡宮に戻り、今は社務所書院の一角に安置される。


2007/06/10画像等追加
「石清水八幡宮と神仏分離」伊藤史朗著、日本美術工芸660、1993年  より

◎銅造阿弥陀如来立像
 銅造阿弥陀如来立像(鎌倉後期、像高51.8c):この像は社内に現存するというも不詳。(石清水八幡宮蔵)
  →上記シリーズ「石清水八幡宮の歴史Q&A」の項12.「本殿内本地仏として安置の阿弥陀如来像」と思われる。

◎開山堂行教律師坐像
 開山堂行教律師坐像(重文・貞観 ・開山堂安置):男山神應寺(行教開基)へ明治6年遷座。
 開山堂内行教律師の脇には弘法大師木像と益信僧正木像(東寺長者・行教の弟)が安置されていた。
 2011/07/19追加:
  「石清水八幡宮境内の遺跡」(シンポジウム「神仏集合」資料集)、八幡市教委、平成22年 より
   行教律師坐像2
 2012/05/11追加:
  八幡散策>八幡をぶらりゆく>八幡市の登録文化財 のページより
   行教律師坐像3:像高78cm、木造一木造、彫眼、手首のみ別材で後補。もと彩色。唇に赤色を残し、白毫を描く。
  2022/11/19撮影:
  神應寺
   糸杉山(しすぎさん)と号す。本尊薬師如来。石清水八幡宮神宮寺の一つである。
  貞観年間(859–877)行教によって創建されたと伝える。当初は四宗兼学の寺院であったが、室町後期に禅宗寺院となる。
  慶長年間(1596–1615)尾張中島郡下津村青松山正眼寺(現在小牧市に移転)の末寺として再興される。
  本堂(寛政7年/1795再建)、開山堂、禅堂、書院(寛永年中の建立と推定)、庫裏、鐘楼(元禄5年/1692の棟札)があり、
  杉山谷不動尊は当寺の奥の院と云う。
  本堂脇檀に木造行教律師坐像(重文)を安置する。
   神應寺山門1     神應寺山門1
   神應寺本堂      神應寺鐘楼      神應寺書院・庫裏     神應寺禅堂・開山堂

◎元三堂元三大師像
 元三堂元三大師像(元三堂安置):山下正法寺に遷座し、さらに八角院に遷座。
 2012/05/11追加:
  八幡散策>八幡をぶらりゆく>八幡市の登録文化財 のページより
   元三大師坐像2:重文、鎌倉、像高82cm、檜材寄木造、玉眼嵌入、彩色。
    西谷元三大師堂に安置、明治の神仏分離によって八角堂とともに、西車塚古墳上に堂とともに移された。現在は京都国立博物館寄託。
  【解説文】:元三大師坐像:鎌倉、重文、大正7年指定
   像高は82cm。檜材寄木造、玉眼嵌入、彩色。
   元は石清水八幡宮の三の鳥居近くにあった元三大師堂に安置されていたが、明治の神仏分離令によって八角堂とともに、
   八幡女郎花の西車塚古墳上に堂とともに移された。現在は京都国立博物館に管理を寄託されている。
2023/02/03追加:
○「徳迎山正法寺」志水正法寺パンフレット、発行年不明 より
 八角堂元三大師坐像:重文 ・・・ <上に掲載の坐像2と同じ画像である。>

    →西谷元三大師堂については、上に掲載の「西谷元三大師堂」を参照。

◎阿弥陀堂(八角堂)本尊丈六阿弥陀如来坐像
  →「石清水八幡宮・補足」>志水正法寺を参照。
  →上に掲載の西谷阿弥陀堂(八角堂)/旧八角院を参照。

◎本殿本尊僧形八幡坐像(平安末)
  →山下善法律院本堂に遷座し、現存する。
◎極楽寺阿弥陀三尊(南北朝)
  →宝冠阿弥陀如来坐像を指すならば、山下善法律寺に遷座し、現存する。

 ※何れも、下記の山下善法律寺に遷座し、現存する。

  ◆山下善法律寺
  本堂は、内陣を高御倉と呼び五間四方の堂であり、八幡宮旧社殿(桃山期と推定)を移築したと伝える。
   ※本堂は寛永16年(1639)頃の建立とも云う。府文。
   ※延享五戊辰年四月吉祥日 の棟札を残すとも云う。延享5年は1748年。
  本堂本尊は上記のように、僧形八幡大菩薩坐像(地蔵菩薩坐像)で元は石清水八幡宮で祀られていたという。
  僧形八幡大菩薩坐像は明治の神仏分離の処置で、本寺に遷される。
  左手に宝珠を捧げ、右手に錫杖を持つ故に、本来は地蔵菩薩像であったとみられる。市文、平安期、寄木造、彫眼、像高88cm。
  また、
  奥殿(阿弥陀堂とも称する)には極楽寺から遷座したと伝える宝冠阿弥陀如来坐像(南北朝期・市文)も祀る。
  ◇僧形八幡大菩薩坐像
  2022/04/01撮影:
   僧形八幡大菩薩坐像1:現地説明板 より
   僧形八幡大菩薩坐像2:善法律寺サイト より転載。
  ○新撰京都名所圖會・昭和40年 より
   善法律寺:図の本堂奥に入母屋造の一宇があるが、これが奥殿(阿弥陀堂・宝冠阿弥陀如来坐像安置)とも推測する。
  ◇宝冠阿弥陀如来坐像
   宝冠阿弥陀如来坐像
   2022/03/22追加:
   ○「男山四十八坊跡 観光案内」京都府八幡市、2020.01 より
    宝冠阿弥陀如来像2:極楽寺・頓宮などは鳥羽伏見の戦いで焼け、その時に、本像は極楽寺から善法律寺に遷されるという。

  2004/02/22撮影:
   善法律寺本堂1
   善法律寺は大和唐招提寺末で律宗。正嘉年中(1257〜59)社務善法寺宮清が東大寺実相上人に帰依し、私宅を寺に改める。
  2009/11/29撮影:
   善法律寺本堂2:板扉がよく古式を残す。方五間入母屋造。
   伝大乗院五輪石塔:鎌倉期、大乗院(乗神宮寺)にあったと伝える。
  2010/09/27追加:
   行教和尚画像:善法律寺蔵、また僧形八幡画像も有するという。
  2022/04/01撮影:
   善法律寺は、律宗を奉じ、大和唐招提寺末である。
  正嘉年間(1257-59)豊前宇佐八幡宮の喜多院に倣い、石清水八幡宮の宮寺として、八幡宮第27代検校善法寺宮清が
  自分の邸宅を寄進し、大和東大寺より実相上人を招いて開山する。
   ※宇佐喜多院は藤原道長の建立で、宇佐八幡神宮寺である弥勒寺を実質支配する。
  また、当寺は足利将軍家と繋がりがあり、良子(宮清の曾孫)は、二代将軍義詮に嫁し、三代将軍義満を産む。
  そのため、義満・義教・義政など、歴代の将軍が何度も参詣するという。
  善法寺家の始祖は紀成清といい、歴代石清水八幡宮の別當・検校の地位に就く。
   なお、明治の神仏分離の時、最後の当主である善法寺弘清は復飾還俗し、菊大路に改姓する。
  その後、菊大路家当主は今次大戦中に行方不明となり、後嗣も無く絶家となるという。
   善法律寺表門     善法律寺門内
   善法律寺本堂3     善法律寺本堂4     善法律寺本堂5     善法律寺本堂6
   善法律寺本堂7     善法律寺本堂8     善法律寺本堂9     善法律寺庫裏
   善法律寺弁財天:放生池中にある。
   大乗院五輪石塔:旧大乗院五輪塔:大乗院にあったと伝える。
    大乗院は戊辰戦争で焼失し、廃寺となる。その造形から、鎌倉期の作と推定される。
   大西坊覚運など墓碑:大西坊覚運とその弟子 運應・覚助墓塔。
    大西坊(太西坊)覚運は大石内蔵助良雄の養子となり、良雄の実弟・専貞の跡を継いで大西坊の住職となる。
    覚運は、赤穂浪士討ち入りに助力し、大西坊を復興して、中興の祖となる。宝暦9年(1756)寂。
  2022/11/19撮影:
   善法律寺本堂7     善法律寺本堂8     善法律寺本堂9     善法律寺本堂10
   善法律寺書院円窓
 

◎愛染明王堂本尊愛染明王(鎌倉)
  ※2022/03/20追加:本像は寺町誓願寺から蒲郡市丸山町永向寺に遷され現存する。
   →寺町誓願寺
 ○「愛知県文化財ナビ」では次にように紹介される。
 県文、蒲郡市丸山町永向寺蔵、高さ106cm、桧材、寄木造、玉眼、彩色。時代は鎌倉期と推定される。なお本像は永向寺の本山である京都寺町誓願寺から遷すといい、中央作のものである。
 ○「永向寺の案内板」には次のように云う。
 本像は山城石清水八幡宮に祀られていたが、明治の神仏分離で寺町誓願寺(西山深草派本山)に遷され、
昭和6年に永向寺に再び遷される。制作時期は鎌倉〜南北朝期と考えられる。平成17〜18年に修復が行われる。
 愛染明王坐像:「男山四十八坊跡 観光案内」京都府八幡市、2020.01 より
 なお、寺町誓願寺本尊は石清水八幡宮から遷座と伝える。極楽寺安置仏と云われるが明確な根拠を欠くともいう。

◎観音堂本尊千手観音立像(鎌倉)
  →不詳

護国寺薬師堂本尊薬師如来立像および脇侍日光月光菩薩立像・十二神将像

明治2年淡路東山寺に遷座。(この東山寺像は薬師堂に安置、現在は重文指定。)
 護国寺薬師如来立像    護国寺薬師如来立像2    護国寺十二神将像
 薬師堂本尊は八幡大菩薩遷座以前の石清水寺本尊で、貞観4年(862)護国寺と改号すると伝える。
 十二神将は、康和5年(1103)大江匡房が在大宰府の時、造立・奉納すると伝える。
 延宝6年(1678)脇侍日光・月光菩薩が付加(仏師康祐)される。
 2006/10/09追加:
 「神仏習合をとおしてみた日本人の宗教的世界 3 淡路島の調査を中心として」元興寺文化財研究所、1993 より
  旧石清水八幡宮護国寺本尊
  薬師如来立像 木造・彫眼・彩色痕 平安前期 重文   薬師如来立像2  薬師如来立像3
   座高140.1cm、脇侍日光・月光菩薩、十二神将とともに石清水八幡宮より遷座。
   嵯峨清涼寺隠居道基の計らいで、野ざらしになっていた本像が遷される。
  脇侍日光菩薩 脇侍月光菩薩 江戸期の延宝6年(1678)新造
  十二神将立像 木造・彫眼・彩色 平安後期 重文
2023/07/22追加:
明治の神仏分離の処置による護国寺薬師如来像の遷座
 幕末の頃、淡路島は阿波徳島藩領で、当時の藩主は13代蜂須賀斉裕であった。
蜂須賀斉裕は徳川家斉の二十二男であり、将軍家の姻戚となる。それ故、淡路は他藩からは手が出ない領域であったという。
そういう事情であろうか、淡路には皇国史観でいうところの勤王の志士(支配層からいえば無頼漢)の梁川星厳、頼三樹三郎、伊藤聴秋などが屯する。そして山中にあり当時は破れ寺であったという東山寺は格好の隠れ家であったようである。
嘉永6年(1853)佐伯トミ(佐伯心隋尼)東山寺へ晋山する。
 ※佐伯トミは讃岐出身で、ある時トミの夢枕に弘法大師が立ち、東山寺の復興を託したという。
 そしてその啓示を受けたトミは出家し、尼僧「佐伯心随」と号し、この地に入り、東山寺の再興に向けて心血を注ぐという。
 ※心隋は後に廃寺同然の荒寺であった当寺を再興し、中興と崇められる。
 ※東山寺は弘仁10年(819)弘法大師の創建と伝える。
 その後の戦乱で寺は焼失するも、弘安8年(1286)に再興される。
 その時は寺領600石、寺坊36・末寺17を有するという。
 現在の本堂・仁王門は室町期の建物で、淡路守護細川氏の寄進といい、淡路最古の木造建築という。
荒れ果てた東山寺の復興を願う心髄であったが、心隋は東山寺に屯する志士たちの心意気に感じたのであろうか、また心隋が尼僧であったため志士たちの外部の同志との連絡の密使として適任であったのあろうか、ともかく心隋は島外との連絡係・密使として活躍する。
心髄が密使としてどの程度の役割を果たし、どのような場所・人物と交わったのかは不明であるが、岩清水八幡宮護国寺道基の許も訪れたという。
 ※当時石清水八幡宮別當は道基で、文化12年(1815)~明治22年(1889)の生涯である。
明治初年神仏分離の処置で護国寺は破却、護国寺薬師仏・脇侍・十二神将は山上に打ち捨てられる。
この光景を見た道基は心を痛め、打ち捨てられた諸仏を東山寺の復興を志す心髄に託すことを決意する。
 かくして、薬師仏・脇侍・十二神将は道基によって、淡路島に送られ、明治2年6月12日東山寺に遷座する。
諸仏は人目を避けて運び出され、山道を背負ってこの東山寺へと持ち込まれたと云い伝えられる。
その後、東山寺は心髄によって復興され、薬師仏・脇侍・十二神将は薬師堂に安置される。
なお、現在薬師堂は開扉されず、その諸仏が拝観できないのは遺憾である。
さて、道基上人はその後、淡路の永寿寺に移住し、明治22年74歳で寂する。
なお、永寿寺は廃寺となり、淡路市大町にその墓碑のみを残すのみという。
 ※永寿寺の詳細や跡地の位置(大町の何処か)は不明である。

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    →  石清水八幡宮別當護国寺の詳細
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太子坂太子堂(三尊堂)

 三尊堂は聖徳太子像、同地蔵菩薩坐像、同衿羯羅童子、制多迦童子像を安置する。

1.太子坂太子堂

○「都名所圖會」:安永9年(1780)刊 では次のように描かれる。
2022/09/13画像入替
 石清水八幡宮太子堂:中央、向かって左に太子堂が描かれる。
 太子堂など記事:左図拡大図
○石清水八幡宮境内圖:時期不詳、おそらく江戸後期の絵図と推定される。
 石清水八幡宮境内圖:(部分図):中央向かって右に太子堂が描かれる。
 ※2022/09/12画像入替
 ※原図は山下の東、南、北の部分がさらに広範囲に描画されている。
2008/09/13追加:
○「石清水八幡宮 諸建造物群調査報告書(本文編)・(図版編)」八幡市教育委員会・石清水八幡宮、2007
 城州八幡山案内絵図:木版墨摺、慶応3年(1867)、個人蔵:2022/09/13画像入替
「八幡山名所案内記」:長濱尚次、慶応2年の付属案内絵図
ほぼ中央下・向かってやや右に太子堂が描かれる。
 ※長濱尚次は藤原尚次の家名であり、太子堂の天保14年(1843)棟札(表)には「前検校僧正法印田中由清が願主、宮工司長濱越前尚次(藤原尚次)」の名が見える。
2022/09/13追加
○「城州八幡山案内會圖」:現物撮影:2009/11/29撮影
部分図:中央に太子坂とあり、太子坂を上がる途中の太子堂がある。
城州八幡山案内會圖・太子堂部分図
○「男山四十八坊跡 観光案内」:城州八幡山案内會圖に着色・加筆したものである。
 ※「城州八幡山案内會圖」と同一のものであり、こちらの方が画像としては分かり易い。
 ※部分図:中央に太子坂とあり、太子坂を上がる途中の太子堂がある。
男山四十八坊跡 観光案内・太子堂部分図
2009/12/04追加:
○「石清水八幡宮境内復元図」

 石清水八幡宮境内復元図(2):既出
古図ではないが、最上段に三尊堂とあるが、この場所が太子堂のあった場所である。
寛保3年(1743)行願院と太子堂のあった場所に三尊堂と称する大きな堂が建てられ、厨子入り太子像を中央に安置し、地蔵堂の地蔵菩薩像を西に、行願院の丈六阿弥陀如来像を東に安置する。
しかし、文政8年(1822)再度、三尊堂は宇崩落、その後、天保4年(1843)三尊堂跡に太子堂が再建される。
2010/11/09追加:
○「石清水八幡宮境内 範囲確認調査 現地説明会資料」八幡市教委、2010/11/06 より
  石清水八幡宮堂舎坊舎遺構推定位置図・・・上記「石清水八幡宮境内復元図(2)」と同一図版であろう。
上図と同じく、三尊堂の場所が示される。

 
2022/04/01撮影:
◆太子坂太子堂跡
 太子坂太子堂跡:現状はかなり地形も変貌し、明確な跡及び遺構らしきものは確認できない。
上記の絵図や遺構図から推定可能な位置を推定するのみである。

2022/09/16追加:
○「ようこそ、神と仏の男山へ−石清水八幡宮太子堂の遺宝−」八幡市松花堂庭園・美術館、平成27年 より
 太子堂:
男山に太子堂が建立された時期は定かではない。
「年中用抄」(石清水八幡宮蔵)長禄2年(1458)3月27日条に「太子堂」の名が見えるのが、文献上の初見である。
江戸期には元和4年(1618)、寛永8年(1631)、明暦2年(1656)の修理などの記録が残る。
その後の修理・破損については定かでないが、寛保3年(1743)に三尊堂として造立される。
2013/03/31追加:3022/07/20加筆:
◇「石清水八幡宮境内調査報告書」2011年 より
太子坂:
極楽寺付近から塔坊・萩坊・栗本坊・護国寺に至る途中に行願院、地蔵堂があった。行願院を登ると地蔵堂があった。
 ●太子坂地形図:行願院跡(後の太子堂)及び地蔵堂位置が示されている。
 但し、現状、太子堂跡及び地蔵堂跡は斜面崩落あるいは土砂堆積によって、判然とはしない。
行願院は嘉禄年中(1225-27)関東二階堂隠岐入道行信が、鎌倉殿の菩提と関東御所を祈る為建立という。
 (「八幡宮寺宝殿并末社等建立記」)
地蔵堂は、行願院建立の30年ほど後(建長7年/1255〜建治2年/1276頃)、善法寺社務宮清によって建立される。
 これらの堂宇についての興亡は、絵図と「男山考古録」の記載を総合すると、次のようになる。
阿弥陀を祀る行願院の横に、中世の内に2間四方の小さな太子堂が建立される。
しかし、地蔵堂も含め、江戸初期には大破する。
寛保3年(1743)行願院と太子堂のあった場所に三尊堂と称する大きな堂が建てられ、厨子入り太子像を中央に安置し、地蔵堂の地蔵菩薩像を西に、行願院の丈六阿弥陀如来像を東に安置する。
太子像は古代の神輿を厨子とし、瀧本坊にあった聖徳太子3歳の像を安置という。
 ※行願院丈六阿弥陀如来坐像は下院極楽寺に預けられていた創建以来の像が寛保炎上(寛保2年/1742極楽寺・頓宮焼失)で焼失した為、延宝元年(1744)に新造したものである。
文政8年(1822)再度、堂宇崩落、天保14年(1843)太子堂が再建される。
 ※三尊堂安置の衿羯羅童子、制多迦童子像は堂宇退転した文政8年一時大塔に置かれ、天保14年の再興堂には大きすぎる為、谷不動に遷すという。
明治の神仏分離の処置で、太子堂及び厨子(神輿転用)・太子像は近江国分在住の眞田氏に売却され、現在、厨子・太子像は新造された近江国分太子堂(聖徳太子堂厨子)に遷座し、太子堂は眞田氏自宅に現存する。
 ※元地蔵堂の地蔵菩薩像の遷移は下掲の「参考資料」によって知られる。(東大阪市菱屋西延命寺に遷座し、現存する。)

 参考資料:サイト:「八幡の歴史を探究する会」>「男山参詣路を歩く」PartU(改訂版)>「(3)昌玉庵忍澂寺」>「忍澂寺の文化財」の項
             及び 「(13)杉山谷不動尊」の項 に 関連の記載がある。

○「(3)昌玉庵忍澂寺」の項を要約すると以下のようである。
 昌玉庵
南都西大寺真言律宗叡尊(弘安の役の時石清水八幡宮で異国退散の祈祷を行うと云う)に始まると云う。
江戸期(延宝2年/1674か)忍澂によって中興される。八幡正法寺にいた忍澂は昌玉庵本堂として南三昧堂(地蔵堂)を再建し、石清水八幡宮太子坂三尊堂(太子堂)地蔵菩薩頭部を補修し南三昧堂の本尊とする。
 ※現在は八幡神原の昌林庵は僅かに弁天堂一宇を残すのみで、昌玉律院(所在不詳)の境外仏堂と云う。
   参考:「12月例会 八幡歴史探訪ウォーク 男山参詣路を歩く
忍澂寺の文化財
地蔵菩薩坐像(丈六仏・像高2.7m):昌玉庵→太子坂三尊堂→西谷大塔→昌玉庵(明治の神仏分離)→京都法然院の企図により大阪難波へ遷座(明治25年)→東大阪市菱屋西延命寺(大正13年)
  なお、延命寺について、他のWebサイトには以下の様に云う。
・延命寺は、江戸期の初め寛文2年(1662)頃、京都岩清水八幡宮)の祠のそばに一堂を建て、地蔵菩薩を安置したのに始まるといわれる。
その後幾度か場所が変わり、大正13年に現在地に移転してくる。浄土宗。(「東大阪市」)
・延命寺:河内、浄土宗、山号は伽羅陀山、忍徴(ママ)上人開山
京都獅子谷法然院二世忍徴(ママ)上人により、石清水八幡宮の祠畔に一堂を建て丈六の地蔵菩薩を迎えたのがはじまりである。
明治の廃仏毀釈により衰退し法然院25世名阿上人により大阪難波(高島屋)に移し延命寺とした。その後、南海電鉄建設により現在地に移転する。本尊阿弥陀如来は藤原期、丈六の地蔵尊は鎌倉後期のものとされる。
○「(13)杉山谷不動尊」の項を要約すると以下のようである。
 衿羯羅童子、制多迦童子
昌玉庵→太子坂三尊堂(再度の三尊堂崩落により)→西谷大塔→杉山谷不動と遷座する。
大聖不動明王脇仏:八幡神谷の昌玉庵から移転移座。天保14年(1843)

○旧石清水八幡宮地蔵堂地蔵菩薩
 東大阪菱屋西延命寺に現存する。
東大阪延命寺サイト より
 旧石清水八幡宮地蔵菩薩1
カンテレ(8ちゃん)>ほとけんさく より
 旧石清水八幡宮地蔵菩薩2

2023/02/03追加:
◎昌玉庵忍澂寺:しょうぎょくあんにんちょうじ
 叡尊の創建と伝えられる。江戸初期、忍澂(洛東法然院を再興)により中興される。
忍澂は南三昧堂を再建し、また太子坂の朽壊した地蔵菩薩像を補修し昌玉庵本尊としたという。
現在は辨天堂一宇のみ残る状態である。その傍らに石塔類が集められる。
2022/11/19撮影:
 神原昌玉庵忍澂寺1     神原昌玉庵忍澂寺2;いずれも唯一残存する辨天堂である。
 神原昌玉庵忍澂寺3:石塔類が集積される。
◎昌玉庵忍澂寺跡の南東に隣接して、巣林庵跡がある。
2022/11/19撮影:
巣林庵の碑(W190×D170×H1160)
 【碑陽】巣林菴 左隣 忍澂寺 右 九品寺一丁、【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
 神原巣林庵跡碑1    神原巣林庵跡碑2
 神原巣林庵跡1     神原巣林庵跡2     神原巣林庵跡3     神原巣林庵跡4

2.石清水八幡宮太子堂遺構

2022/09/13追加:
石清水八幡宮太子堂は大津市国分に現存する。
次に示すように「昭和26年、7代目眞田武左衛門は自宅の敷地に太子堂を再建」というから、この再建された太子堂が石清水八幡宮の遺構と思われる。
しかしながら、その再建場所つまりは眞田氏の屋敷の位置が、現在掌握できず、不明のままである。
従って、太子堂遺構は未見である。

○「ようこそ、神と仏の男山へ−石清水八幡宮太子堂の遺宝−」八幡市松花堂庭園・美術館、平成27年 より
▽国分聖徳太子堂の沿革:
 7代目眞田武左衛門の備忘録(昭和の頃)では「聖徳太子2歳像、太子堂その他宋板一切経、紺紙金筆妙法蓮華経10巻、宝塔その他数点」を金400両で石清水八幡宮より買い求めたという。
 入手した5代目眞田武左衛門は持ち山の51坪の土地に膳所藩侍屋敷の1棟を購入移築し、太子堂とする。そしてその堂に厨子(御宝輦)入り聖徳太子像を安置し、自ら住したという。
場所は国分西出524番地で、眞田家屋敷から500mほど離れた現在の太子堂の山裾附近である。なお旧堂の物品・建材は国分の諸家に預けられ、宝塔は地蔵寺に預けられるという。(「備忘録)」
 ※眞田家は初代から膳所藩山廻役を代々勤めるという。明治維新で5代目は帰農し、茶業振興に尽力し、実業で功をなす。一方、排棄の憂いのあった什宝の保護を試みた篤志家でもあった。
5代目眞田武左衛門の没(明治44年)後、堂は無住となり、昭和9年6代目眞田武左衛門によって、高台である現在の太子堂の場所に、堂の建て替えが行われる。堂は2間四方で厨子入り太子像を安置したという。(無住)
昭和26年、7代目眞田武左衛門は自宅の敷地に太子堂を再建、8尺×8尺2寸の広さに厨子入り太子像と宝塔を安置するに至る。
 ※旧堂の建材は近隣に預けられていて、それらの建材を再度組立し、再建したという意であろう。
昭和35年太子像の解体修理。
昭和40年財団法人国分聖徳太子会が設立。昭和41年太子像滋賀県指定文化財となる。
昭和45年現在の国分聖徳太子堂竣工・落慶。
 石清水八幡宮聖徳太子堂:平成26年撮影。
 石清水八幡宮聖徳太子堂落首:框の落首「江戸芝邊之住/山本益三参詣」とある。
 石清水八幡宮聖徳太子堂内部旧観:太子堂内、昭和30年代頃撮影
 石清水八幡宮聖徳太子堂平面図:昭和26年眞田家屋敷内に再建された太子堂平面、内部には聖徳太子像と多宝小塔が並べて安置される。平成27年実測。
▽太子堂と棟札:
 太子堂:
明治の神仏分離の処置で、太子坂太子堂及びその安置仏は棄却されることとなる。
 →石清水八幡宮太子堂の沿革・所在場所については・・・・・・・・・・・・
明治2年石清水八幡宮太子堂聖徳太子二歳像、太子堂の遺構及び経蔵安置の法華経などの経典は近江国分在住の五代目眞田武左衛門の手に渡り、以降、眞田家により後世に伝えられる。
 ※五代目眞田武左衛門:弘化元年・天保15年/844〜明治44年/1911
 ※明治維新時に存在した太子堂は天保14年(1843)に藤原尚次が再建したもので、この堂が五代目眞田武左衛門の手に渡り、国分に(昭和26年再建され)現存する。(未見)
昭和40年財団法人国分聖徳太子会が設立され、眞田家が所有する一切の関連宝物を寄贈し、宝物は同法人に管理が移管される。
昭和41年「南無仏太子像」は滋賀県有形指定文化財に指定される。
太子堂平面は2間四方、切妻造、瓦葺き。床は板張り、正面には両開の扉が付く。(「男山考古録」に記載の通り)
棟札:
太子堂竣工の天保14年(1843)棟札が現存する。
表には「男山考古録」の記事と同じ内容が短く、記される。
前検校僧正法印田中由清が願主、宮工司長濱越前尚次(藤原尚次)の名が見える。
 石清水八幡宮聖徳太子堂棟札

▽近江国分聖徳太子堂
2005/03/13撮影:
明治維新まで現在の太子坂途中(今、現地を訪れても跡地は判然とはしない。)に太子堂があった。
明治の神仏分離の処置により、全ての仏像仏器は売払われるが、 石清水八幡宮太子堂安置の太子像も売却され、詳細は不明ながら、近江国分の5代目真田武左衛門の手に渡ったものと思われる。この像は現在近江国分聖徳太子堂に安置される。
 ○近江聖徳太子堂に掲示する説明板には次の趣旨の記載がある。
山城石清水八幡宮太子堂安置であった聖徳太子2歳像を安置する。
聖徳太子2歳像:像高54.6cm、寄木、内刳、彩色、裸形、玉眼。元亨元年(1321)の年記があり、法眼宗円作とある。昭和35年解体修理を実施する。
元は山城石清水八幡宮太子堂安置仏であったが、神仏分離により、明治2年5代目真田武左衛門によって近江国分の地に安置されたと云う。真田武左衛門とは当地の富裕層と思われる。
国分の聖徳太子堂は昭和32年(財)国分聖徳太子会によって新しく建立される。RC造。
 近江国分聖徳太子堂
2015/05/09撮影:
 近江国分聖徳太子堂2     近江国分聖徳太子堂3     近江国分聖徳太子堂4
 聖徳太子堂内部
 聖徳太子堂厨子:「石清水八幡宮境内調査報告書」2011年では、「太子像は古代の神輿を厨子」としてとあり、写真にも神輿と思われる厨子に金庫(この中に太子像を収納か)を安置する。 従って、厨子も山城石清水八幡宮の旧物と推定される。
 聖徳太子2歳像写真;厨子前(金庫前)に太子像の写真が置かれる。


石清水八幡宮旧蔵聖徳太子像・その他遺物
 (近江国分聖徳太子堂・厨子入り聖徳太子像・太子堂安置多宝小塔)
  多宝小塔は → 石清水八幡宮多宝小塔の項を参照。

2013/04/01追加:
太子坂太子堂(三尊堂)安置の太子像(裸形の聖徳太子2歳像)は近江国分の聖徳太子堂へ、太子坂地蔵堂本尊で後に太子堂安置の地蔵菩薩像は河内(東大阪)延命寺へ、太子坂太子堂(三尊堂)安置衿羯羅童子、制多迦童子は杉山谷不動に各々遷座し現存すると判明する。

2015/11/03追加:
◇報道発表:石清水八幡宮旧蔵「聖徳太子2歳像」が里帰り
明治2年迄石清水八幡宮太子坂太子堂に祀られていた「聖徳太子2歳像」は、同年太子堂とともに近江真田家5代目が太子堂とともに譲り受け、近江国分に遷座していたが、2015/10/30日神仏分離という悪行から145年振りに石清水八幡宮に里帰りを果たす。
これは11/07日から松花堂美術館にて開催される特別展に展示するための里帰りである。
真田家は現在8代目で、8代目は「松花堂昭乗の茶室に出入りしていた5代目が借財して買い取った」という。なお現在太子像は「国分聖徳太子会」の所有である。
太子像は元亨元年(1321)に聖徳太子の没後700年を記念して作られる。像高は55.3cm。滋賀県指定文化財。
 聖徳太子2歳像1:松花堂美術館平成27年度特別展ポスターより     聖徳太子2歳像2:朝日新聞 より
 聖徳太子2歳像3:以下、石清水八幡宮Facebook より     聖徳太子2歳像4     聖徳太子2歳像5
2022/03/22追加:
○「男山四十八坊跡 観光案内」京都府八幡市、2020.01 より
 聖徳太子2歳像・厨子

2022/09/13追加:
○「ようこそ、神と仏の男山へ−石清水八幡宮太子堂の遺宝−」八幡市松花堂庭園・美術館、平成27年 より
▽厨子入り聖徳太子像と舎利
 厨子:
「男山考古録」では、厨子は「古代の神輿(葱花輦・惣黒漆塗・金物鳩等・三方勾欄・長柄取除)を厨子となし、その厨子に「瀧本坊中に安置せし聖徳太子像(三歳云々)を遷坐せしが、即今の太子御像也」という。
文政8年の山崩れの後、護国寺に移されていた厨子と太子像は天保14年再建された太子堂に戻される。
 太子像:
木造(檜)、寄木造、彩色、玉眼入り、像高1尺8寸3分(55.3cm)
像内全面に多くの墨書銘がある。
その中に元亨元年(1321)5月7日の年紀があり、この頃の造立と推定される。
上半身裸形・下半身長袴・合掌して立つ童形「南無仏太子」は太子700回忌である元亨元年前後の造立例が多く、全国にその遺例が知られている。
 舎利:
国分聖徳太子会が管理するものに厨子入り舎利と極小型の木造五輪塔がある。(明記は無いが、石清水八幡宮から引き継いだものであろう。)
厨子入り舎利は高さ11.6cmの厨子に自然石4粒が収められる。「南無仏太子」は太子誕生の時、舎利を握っていたということから、法隆寺ではこの舎利信仰が強いという。この舎利は左記の信仰を表すものかも知れない。
「南無仏太子」と舎利を結び付けた太子像の作例は相模称名寺像・奈良伝香寺像・大和円成寺像がある。
木造五輪塔は総高0.9cmで、この小ささから「南無仏太子」像内に納入されていたものと思われる。「南無仏太子」の胎内墨書の梵字が胎蔵界四仏の梵字だけであり、中央にあるはずの大日如来がないので、「南無仏太子」胎内にこの五輪塔が収められていたということは密教思想上、整合が採れる。
2022/04/29撮影:
 厨子入り聖徳太子像11    厨子入り聖徳太子像12    厨子入り聖徳太子像13
 厨子入り聖徳太子像14    厨子入り聖徳太子像15
 展示パネルを撮影:
 厨子入り聖徳太子像16    厨子入り聖徳太子像17    厨子入り聖徳太子像18    厨子入り聖徳太子像19
 展示パネルを撮影
 厨子入り舎利
 木造五輪塔1     木造五輪塔2
▽経典
 「御内殿御神寶御道具等員数帳」寛保2年(1742)、岩清水八幡宮蔵 では
経蔵として、馬場先経蔵と東經所の名があり、前者には「一切経611箱」、後者には「大般若経600巻唐櫃6号ニ入」「最勝王経 20部 200巻」、「仁王経 25部 50巻」「法華経 5部」が納められていたことが知れる。
なお、馬場先経蔵は、明治維新の神仏分離の処置を遁れた仏堂として、山上に唯一残った建物であり、「御羽車舎」と名称を変えて現存する。
▽紺紙金字法華三部經 10巻
 伝来は不明、開山行教和尚の筆とも云う。
「神仏分離史料」によれば、明治3年神仏分離の処置として、岩清水八幡宮什宝等の売却である第2回目の入札が行われる。
その中に「紺紙金泥法華経8巻、無量義経1巻、観普賢経1巻、梨木金物付箱入」がある。この経計10巻が国分聖徳太子会に伝わる「紺紙金字法華三部經 10巻」であろう。
入札の結果、京都の商人が60両で落札したことが記される。この商人から眞田家に迎えられたことになる。
 石清水八幡宮法華三部経:法華経・無量義経・観普賢経、貞和3年(147)頃
▽宋版大般若経 第百二十七 一帖
 国分聖徳太子会には「宋版大般若経」第127の一帖が伝わる。
本経は本大般若経に附属している「宋版一切経縁起」で、石清水八幡宮経蔵安置であり、明治維新で売却されたと知れる。同文では馬場先経蔵(秀頼生母淀公の再興)にあったことも知れる。
「神仏分離史料」には第1回の入札で「宋板(ママ)一切経」とあり、「江州町人何某代料850両」とある。「宋版大般若経」第127の一帖はおそらくは馬場先経蔵に納められていた「一切経611箱」の内の一帖とするのが妥当であろう。
 なお、この宋版大般若経に付属している明治3年の「宋版一切経縁起」も国分聖徳太子会に伝わる。
この縁起によれば、明治2年石清水八幡宮の「法宇道具」が取り払われ宝青庵(八幡月夜田にある浄土宗寺院)の住職が一切経を譲り受け、さらにそれを小島貞光が譲り受けたという。
なお、小島貞光とは不明であるが、「神仏分離史料」にある「江州町人何某」を指すのかも知れない。
 宋版一切経は経蔵から宝青庵住職、小島貞光を経て眞田家に伝わり、一帖を措いて大阪の人物に譲られたということになる。
 なを、7代目眞田武左衛門の備忘録では「聖徳太子2歳像、太子堂その他宋板一切経、紺紙金筆妙法蓮華経10巻、宝塔その他数点」を金400両で石清水八幡宮より買い求めたといい、さらに「宋板一切経」は購入後、大阪の某氏に譲渡されたという。「大阪の某氏が一切経のみを招望し・・・金300両にて譲渡したるに其の後、某氏外国に譲渡し、今は其の影を見ず(米国ボストン博物館に有るとの話を聞く)只1巻のみ現存あるのみ」と記される。


2003/6/27追加
「石清水神社神仏分離調査報告」明治維新神仏分離資料、鷲尾順敬、大正11年

1.幕府時代の状況及び仏教関係の建築物

本社は八幡大神三所(東:神功皇后、中;応神天皇、西;比東苣_)である。
然るに本社内陣には仏像仏画仏器が安置されていた。以下の様であった。
阿弥陀仏金剛像1体、七社宝殿、愛染明王曼荼羅1幅、・・・香炉、花瓶、・・行教影像1幅。
八幡宮の諸職
検校:善法寺家、田中家、新善法寺家、檀家。別当;同左。権別当:同左。修理別当:善法寺家。
以下俗別当、神主、神子、公文所、会所、判官、御馬所と各氏(世襲)があり
御殿司:杉本坊、桜本坊、松本坊。入 寺:横坊、岩本坊、梅本坊、橘坊。
本社内陣の事は御殿司松本坊・杉本坊が握っていた。
社僧は48坊といわれたが、幕末には23坊あった。豊蔵坊(幕府祈願所で朱印300石の数倍の収入があり裕福であった。)瀧本坊等は頗る壮大であった。諸坊にはいずれも諸大名の祈祷料が納められていて、質素ではあったが経済に不自由はなかった。
神職は皆山下に住し、社領の分配は極めて少なく、皆貧窮していた。
明治維新の改革(神仏分離)は彼等が中心で、なかんずく森本信徳(六位)、谷村光訓(神宝所)によって喚叫された。
当時の社僧:23坊
門口坊、井関坊、梅坊、法童坊、宮本坊、井上坊、松ノ坊、下之坊、辻本坊、太西坊、新坊、角坊、滝本坊、鐘楼坊、祝坊、
閼伽井坊、豊蔵坊、奥坊、塔坊、栗本坊、白壁坊、東坊、椿坊
当時の神職
四座、他姓、六位(森本氏ほか)、大禰宜、小禰宜、神宝所(谷村氏など)、御綱長
七座組・・五座組・・三座組があった。
社領:6557石余
社務中:善法寺(140石)、田中家(100石)、新善法寺家(100石)、・・・
律家5ヶ寺:律寺(100石)、法園寺(90石)、大乗院(59石)、金剛寺(90石)、寿徳寺(40石)
禅家6ヶ寺:神應寺(120石)、巣林庵(50石)、橋本常徳寺(30石)、慶春庵(20石)、全昌寺(20石)
正法寺500石: 内正法寺(120石)、瑞雪院(100石)、勁松院(50石)、福泉院(30石)、松林院(20石)、慶春庵(20石)、喜春庵(90石)、正寿庵(70石)
1388石余
中坊(88石)、祝坊(42石)、桜本坊(20石)、横坊(120石)、松本坊(20石)、橋本坊(225石)、岩本坊(20石)、泉坊(20石)、萩坊(20石)、・・・・・

当時の仏教関係の堂塔
御築垣内:鐘楼、東門の南、護国寺に属す、豊臣秀頼本願・片桐旦元奉行で鐘を懸けた後延享2年鐘を改鋳。
馬場前:経蔵、上坊東側、淀君奉納宋版一切経を蔵す。元三堂、一個石の西側東面、・・明和5年岩本坊私願にて建立。
西谷:八角堂、阿弥陀仏安置、順徳天皇御願、善法寺祐清建立。弁財天堂、寛永19年修造。
大塔、弁財天の南、東面す、釈迦・多宝を安置、白河天皇御願天永3年丹波守正盛建立、慶長10年豊臣秀頼本願で再興。
尊勝院、岩本坊という、この処、古は小塔の地なり。平等院愛染明王を仮安置、後深草天皇の御願にて、慶長7年建立。*1
南谷:愛染堂、本道の北、南面す、・・丈六愛染明王を祀る、寛元4年に供養、建治2年炎上、正応5年再興、・・旧八角堂なりしが、天和2年炎上、貞享元年に再興・・。開山堂、東道の南、東面す、元亨元年の置文・・、行教、弘法大師、益信僧正の3像安置。多門坊、開山堂の西、豊蔵坊、道 の北側、南にあり、幕府の祈祷所、本尊阿弥陀如来。観音院、中坊という、同所下、東面する、本尊観音。
東谷:琴塔、宝塔院という、南面す、胎蔵大日秘仏を安置、万寿年中12ヶ寺領を寄進され、建久3年に七輪を九輪となし、上下四隅櫓に筝を釣る・・。護国寺、北道の北側、南面す、貞観4年石清水の号を改めて護国寺となす、・・一山堂塔皆当寺に属す、本尊薬師如来十二神将は大江匡房の本願心快の作という、四天王4体のうち2体は明応3年に炎上、増長・毘沙門2体は元和元年、私に山下西福寺に移す。観音堂、道の南、東面す、・・。行教院、宮本坊という、行教当坊に住居・・。旡動院、瀧本坊という、本尊不動、松花堂昭乗住みて・・金壁は狩野山楽山雪・・書きたるもの、院内に茶室閑雲軒あり。松花堂、下道の東、泉坊境内にあり・・・。阿弥陀院、泉坊をいう・・。胡蝶坊、橋本坊という、同所南にある・・。山井坊閼伽井坊同所東西に並ぶ・・。辻本坊、同所にあり、旧井関坊なり。橘坊、経蔵を下る道の南にあり。椿坊、同道の北・・・。石経蔵、 北御門を出て、若宮の北にあり、8尺5寸・9尺の石造四方に梵字あり、側に慈尊院在って・・正元2年に・・補修、又宝暦2年太(ママ)西坊覚運補修したという。太西坊、北御門の下。松坊、同所の東。北坊、松坊の向ひ。白壁坊、松坊下の東。鐘楼坊、太子坂へ下る所、道の北にあり。栗本坊、同所道の南。福泉坊、太子坂道の南。萩坊、同所の下。塔坊、同所下。太子堂、北坂道の半腹、道の北、南面す。行願院、丈六阿弥陀同上。
山下宿院:極楽寺、第1別当安宗の創建に係る、本尊阿弥陀三尊という。鐘楼、同所西腋門の外に在り、・・平清盛の寄附・・。
下院馬場前:放生亭餌食地蔵、石橋の東詰全昌寺境内にあり。高坊、大道の西にあり・・。正明寺、同所の西。大石塔、下院西不動坂の北に在り、・・大五輪塔・・。真如院、同所道の南・・・。庚申堂、同所の西に在り、・・。谷不動堂、・・行教の創建・・。神應寺、下院西山の上に在り、本尊薬師行教開基という。乗神宮寺、大乗院という、・・・。弁財天堂、同所東池中にあり・・。祇園院、神宮寺の北。観音堂、同所にあり、東面す、古金堂にして、寛治2年に創建・・。地蔵堂、同所。大乗院、同所、・・・。帝釈堂、狩尾社三座の東にあり、永享6年建立。

*1尊勝院(岩本坊)の地は小塔跡という。

2、維新時代の状況及び仏教関係の堂舎器具の処置

慶応4年正月元旦:王政復古・・、2日には京大阪間に軍勢往来・・、3日には伏見に砲声・・、4日には淀鳥羽に兵火炎々・・、5日には御神璽等を唐櫃に納むる・・、6日には三所鳳輦を昇いで、大住村天満宮*2内に遷して、観音堂に安置・・。*1

慶応4年4月:本社内殿の仏具類を撤去、護国寺・開山堂に奉納。
改革(神仏分離・廃仏毀釈)は六位森本信徳・神宝所谷村伊織などが主導する。
この際社僧は全員復飾し、改名、妻帯をなす。然るに山上の諸坊は撤去され、住居もなく、諸大名の祈祷料も廃絶し、大いに困窮する。彼等は次第に八幡の地を離れ、諸方に離散するに至 る。
当初一同協議して、本社の仏教関係堂塔器具などを処置することに決し、大阪の古物商人を呼びて、3月に入札を実施する。
それで仏堂仏塔仏像仏画仏器などが全部処置せられる。
ただし本社内陣の図像器具については、松本親雅(松本坊が復飾・改名)が受譲し、護持せんと申し出、その意に任すことになり、冥加金80両を納付する。
護国寺については、律宗金剛寺などから懇願があり、護国寺保存の議もあったが、許可されず、全部撤却される。

堂舎器具の売却代金については、大いに議論があり、結局本社関係の一同が借用することとなった。
(売却代金の総額は不明ですが)千両のうち100両は非常万一の用に残置し、900両を社中疲弊の輩に無利息・無期限で1名10両あるいは5両の見当で貸付を行 うと記録される。*3

明治元年7月:放生会は改めて中秋祭とせられる。

明治2年12月:行教和尚復飾の儀式。この時行教和尚木像の頭上に烏帽子が釘打ちされたと云う。
安置されていた開山堂は神殿に造替し、継弓社と号し、清祓が行われる。明治6年行教和尚木像は神應寺に遷座する。

大阪古物商・松浦善右衛門の記録は以下の通り

神仏分離令により「・・撤却致すべく相なり、・・諸山魔僧還俗致し、永く護持之ある品々、仏像仏具堂塔に至るまで、欲心を持って売り立て、金銀配当致す有様、実に魔界の如く、末世濁乱格の有様、恨めしく?恐れ入り奉る次第なり。・・」
宋国板一切経:江州町人何某・850両、大塔:南都二月堂相求*4、八角堂并丈六阿弥陀仏:地下正法寺へ相求、
愛染堂、鐘楼堂但し鐘2面:大の方180両、小の方85両落札。 しかし鐘2ツは異国に売り払われたが、兵庫にて積込の手筈であったが、途中で船が沈没し、鐘は沈んだという。
紺紙金泥法華経8巻、無量義経1巻、観普賢経1巻、梨子金物付箱入(行教和尚筆あるいは貞和3年延暦寺聖従寄進)60両
下殿仏具:紫銅、華瓶6本、蓮華3本宛て、華皿18組、香炉3ツ:11両二歩、正法寺相求。
護国寺(薬師堂):720両、琴堂:430両、経蔵:30両。

松本親雅が護持することとなった内陣8点の概要は以下とおり。
阿弥陀如来像:厨子入り、身丈1尺6寸5分
 ※2010/05/14追加:この像は石清水八幡宮に現存する「阿弥陀如来立像」(荒金尊像)と思われる。本殿内陣に安置されていたが、
 明治の神仏分離で取り出されたと伝える。鎌倉期の作と推定される。「荒金}=鉄と云うも、銅像である。(実見)
七社宝殿:屋根四方黒塗滅金カナ物付、正面1尺8寸5分・横9尺・高さ2尺5歩、徳川家光寄進、七社御影
 ※2010/05/14追加:この宝殿は石清水八幡宮に現存する「七社宮殿」と思われる。中に紙本着色「八幡垂迹神曼荼羅」が安置される。
 曼荼羅図は中央上段僧形八幡、左神功皇后、右比淘蜷_、中段右若宮、左姫若宮、下段には武内宿禰・高良明神を配する。
 七社御影とは上記の「八幡垂迹神曼荼羅」を云うのであろう。(実見)
僧形御影:八幡大神本地、横幅4尺2寸・中丈5尺5寸、中幅4尺8寸5分、身丈8寸計、右手錫杖、左手数珠
愛染明王御影:神攻工皇后本地、幅8尺・内丈4尺2寸5分・内幅3尺1寸
曼荼羅:横幅2尺3寸
四種之執物:錫杖、如意、三衣、香炉
内陣仏具:花瓶、花皿、仏器、香炉
梵網菩薩戒経:行教筆、紺紙金泥、上下2巻
般若心経後阿弥陀経:行教筆、紺紙金泥、3巻。

*1鳥羽伏見の戦: 幕府軍(久留米藩)が男山山下(下院、宿院)・放生川一帯に布陣、新政府軍との戦闘で、極楽寺、高良社、疫神堂、乗神宮寺、大乗院、神馬舎などが焼失した。
現在の頓宮の建物はその後の再建になる。
現在の頓宮殿は明治7年入母屋流造瓦葺(朱塗り)で再建、大正3年に檜皮葺素木造に建替。現在の頓宮斎館南側建物は元京都御所に造営された大嘗宮付属の掌典詰所が下付され、大正5年に頓宮神饌所兼男山祭斎員詰所として移築改装。頓宮北門は昭和3年、京都御所内春興殿の正門として建築、昭和天皇御大礼終了後、下賜移築。頓宮南門は、山上本宮の南総門(本宮南総門は新築)を移築。 現在の回廊は昭和45年に再建。なお二ノ鳥居を付近に20個ほどの礎石がある。この礎石は、頓宮回廊の礎石であると云う。昭和44年からの頓宮回廊復元工事で掘り出され、放置されている とも云う。高良社の社殿と拝殿は大正4年再建。
*2大住村天満宮: 現在は月読神社という。別当は法輪山福養寺。明治維新までは奥ノ坊、新坊、中ノ坊、西ノ坊、北ノ坊、東ノ坊があり、現在の西の大住小学校、東の大住中学校の地がその坊舎跡といわれる。現在の社殿は明治26年の建造という。
 大住村天満宮(月読社)については、「山城・久世郡近辺の神仏習合ならびに神仏分離」のページを参照 。
*3この金額ははっきりしない。売却金額1000両とは少なすぎると思われる。
*4大塔は「南都二月堂相求」と云うも、顛末は情報が無く不明。
八角堂・阿弥陀如来は上述のように現存。愛染堂は不明。
2010/02/21追加:
○「日本塔総鑑」中西亨、同朋舎、1978 では
石清水八幡宮大塔
明治の神仏分離で取壊し、今東大寺にその擬宝珠がある由で、慶長10年の銘と「八幡大塔奉内大臣豊臣朝臣秀頼公」とあると云う。
 →この事実確認は未済。

2006/11/05追加:
○「神仏分離の動乱」 より
石清水八幡(石清水八幡大菩薩)
神仏分離前、社領は6、557石、それに加えて多くの社坊は大名からの祈祷料を得ていた。
特に豊蔵坊は幕府祈祷所で朱印300石を持ち、それに加えて莫大な祈祷料が入り裕福を極めたという。
山上の社坊に比べ、山下の神職への配分は極めて少なく、身分的にも社僧より遙かに下位であった。

 ところで石清水八幡大菩薩は大和大安寺僧行教によって開基されたと伝えるのは何を意味するのか?
石清水の創建は貞観元年(859)<或は貞観2年>とされ、その時期は平城京から平安京に遷都後約50年後のことである。
この頃は既に、伝教大師は遷都後、まもなく比叡山を経営し、鎮護国家の山として、朝廷の権力と同体化していた。伝教大師は非凡な力をみせたという訳で、南都の仏教勢力としては全く出遅れた形と なっていた。
一方、南都大安寺僧行教は何ゆえ、辺境の地「宇佐八幡」に篭り、しかも僧侶が神前に「大乗経真言」を誦し、八幡神より「我王城の近くに遷座して、鳳闙を守護し、国家安康をなさしめん」の託宣を得たのだろうか。
良く考えれば、以上の話は極めて不自然な話であり、取って付けたような話でもあり、しかも全く手前味噌の話であろう。
つまりは行教のあるいは南都仏教勢力の朝廷に取り入り権力に擦り寄る巧みな作為であったのだろう。 また朝廷側にも何か新しい能力者を必要とする勢力があったのかも知れない。
こうして行教(南都仏教勢力)は託宣どおり、王城の南西男山の地に壮大な社殿を造営することに成功し、石清水八幡宮は賀茂や松尾・春日と同格の位にまで登ることに成功したというべきであろう。

明治維新での神仏分離では、社僧の多くはいとも簡単に復飾・神勤し、しかも今まで自らが仕えてきた仏堂・仏塔・坊舎・仏像・経典・仏画・梵鐘など什宝を私物化し、売却・破壊 していった醜態を見せたのが実態であった。

2008/09/13追加:
●男山八幡宮全山図
 :明治11年の山内絵図、明治の神仏分離の処置を経た後の壊滅した石清水八幡宮寺を描く。
「石清水八幡宮 諸建造物群調査報告書(本文編)・(図版編)」八幡市教育委員会・石清水八幡宮、2007 より
 ○男山八幡宮全山図:明治11年、銅板画、個人蔵
護国寺・宝塔院・西谷大塔は勿論一切の仏堂塔が壊滅した様子が分かる。
図の右下一の鳥居の高坊跡は小学校(明治6年開校の知周校・後の八幡尋常小学校)、山下極楽寺は高良社・小教院などに転用される。
護国寺跡には茶店が出ているのであろうか。
 →高坊の寺門が現存するが、それについては上に記述済。(「高坊寺門」の項)

2015/11/14追加:
○「特別展 南山城の神社と祈り」京都府立山城郷土資料館、2015/10 より
 <◇印は2015/10/24撮影画像>

神々の姿:日本の神々は、本来、姿を表現することはなかったようである。しかし、神像は、仏像に倣って作り始められたと考えられ、平安後期になると、多くの作例が知られる。
以下は石清水八幡宮の例で、いずれも、平成3年(1990)校倉内から発見されるという。
明治の神仏分離の処置で神殿あるいは仏堂に安置されていたが、取り払われ、校倉に放擲されたものなのであろうか。
 ◇木造童形神坐像2躯:2躯とも重文、平安後期、石清水八幡宮蔵。いずれも髪は、頭髪を中央で分け両側に垂らす美豆良(みずら)に結う。
 ◇木造童形神坐像その1:像高30.8cm、檜材一木造。      ◇木造童形神坐像その2:像高34.2cm、檜材一木造。
 ◇木造女神像:室町期、像高28.2cm、石清水八幡宮蔵、檜材一木造。
 ◇木造僧形神造:南北朝期、像高17.2cm、石清水八幡宮蔵、檜材一木造。
石清水八幡宮は貞観元年(859)大安寺行教によって創建された神社で、神格の八幡神が八幡大菩薩とされることに象徴されるように、神と仏が同居し、実態は寺院といっても過言ではない状態であった。
神仏習合思想の進展とともに八幡神は八幡大菩薩とされ、僧形として現されてきたのである。
この間の事情は慶応四年四月二十四日の太政官達 
「此度大政御一新ニ付、石清水、宇佐、筥崎等、八幡宮大菩薩之称号被為止、八幡大神ト奉称候様被.. 仰出候事」端的に表されている。
 絹本着色石清水曼荼羅図:重文、南北朝期、八幡正法寺蔵 、上方は僧形八幡神、下方中央は若宮と比淘蜷_と武内宿禰であろう。
  ※2023/02/03:志水正法寺に同一の画像を掲載。
 絹本着色僧形八幡神像:室町期、八幡正法寺蔵 、天文16年(1547)住持伝誉が後奈良天皇から宮中伝来の本図を拝領したものである。
  その旨を記した後奈良天皇の綸旨が正法寺に残る。
 ◇石清水八幡宮護国寺略記1:重文、鎌倉期。 貞観5年行教が記した原本を寛喜4年(1232)世尊寺行能が筆写したものである。
 ◇石清水八幡宮護国寺略記2:上記略記1の続きである。
 ◇石清水八幡宮御縁起 下巻1: 重文、八幡神を遷座する行教の絵図、享保13年(1728)橘継雄が筆写したもの。
 ◇石清水八幡宮御縁起 下巻2: 重文、八幡神を遷座する行教の詳細説明、本縁起は足利義教が奉納したもので、
  この原本は昭和22年の火災で焼失する。
また八幡神は応神天皇と同体とみなされ、宮廷の信仰が篤かった。さらに源氏の氏神とされてことから、武家によって敬われ、全国にその信仰が広まった。
 織田信長朱印状:重文、元亀2年(1571)、石清水八幡宮蔵。 朱印は天下布武。
 木下秀吉判物:重文、元亀2年(1571)、石清水八幡宮蔵。 下段に木下藤吉郎とある。
 織田信長朱印状写:重文、元亀 3年(1572)、石清水八幡宮蔵。下段に「御朱印 信長」とある。
信仰の広がりとともに、石清水八幡宮は全国に荘園(社領)を有し、南山城でも久世郡狭山、綴喜郡薪、相楽郡稲八間、笠置郡切山杣などが石清水八幡宮社領であった。また放生会では周辺の村々から諸役を務める神人として人々が出仕し、それは今も続く。
 ◇石清水八幡宮公文所・兼官奉書:綴喜郡松井郷は石清水八幡宮領であるので、神役を務めるように命ずる天正19年(1591)の文書。
  尚永及び院橋の署名花押があり、彼らは八幡宮寺の僧侶であり、八幡宮寺の長吏(トップ)の命を伝えている。
 ◇八幡宮寺符・慶長11年;松井郷に対する補任状、符は命令書である。     ◇八幡宮寺符・寛永8年
 


石清水八幡宮放生会の再興

 2004年10月3日、放生会が137年ぶりに再興される。
  2004年石清水八幡宮再興放生会


2007/06/03追加
石清水八幡宮琴塔・木琴(きごと)

2007/05/18「石清水八幡宮旧蔵琴塔木琴(きごと)が発見」が報じられる。

  →山城石清水八幡宮・補足>「木琴発見」報道内容の大意
 


2010/02/02追加:
山城石清水八幡宮・補足>新しく発見された「僧形八幡神像絵」

2010/05/14追加:
山城石清水八幡宮・補足>新しく公開された『曼荼羅「篝火御影」』

2021/11/05追加:
山城石清水八幡宮・補足>御幸道遺構の出土<石清水八幡宮・補足中>

2021/11/05追加:
山城石清水八幡宮・補足>御幸道遺構の出土

2022/03/30追加:
山城石清水八幡宮・補足>山城海住山寺宝珠台


2010/05/11撮影
山城石清水八幡宮・補足>山城志水正法寺:石清水八幡宮社家志水家菩提寺


参考山城八幡本妙寺

石清水八幡宮東谷下に法華宗本妙寺がある。(但し、石清水八幡宮との関係は認められない。)

 →山城八幡本妙寺京都本隆寺、山城石清水八幡宮・補足>法華宗本妙寺


2006年以前作成:2024/03/27更新:ホームページ日本の塔婆石清水八幡宮・補足2004年石清水八幡宮再興放生会