大 和 元 興 寺 五 重 塔 跡 ・ 元 興 寺 極 楽 坊 五 重  小 塔

大和元興寺五重塔・元興寺極楽坊五重小塔・元興寺・極楽坊・小塔院・十輪院

大和元興寺・元興寺極楽坊・元興寺小塔院

2013/03/29追加:
宣化天皇3年(538)(「元興寺縁起」)もしくは欽明天皇13年(552)(「日本書記」)佛教公伝という。
崇峻天皇元年(588)蘇我馬子、飛鳥(高市郡)に法興寺(飛鳥寺)を創建する。
和銅3年(710)平城京に遷都、養老2年(718)法興寺を飛鳥から平城京に遷寺し、元興寺と改号する。
天平勝宝元年(749)懇田の施入、東大寺4千町歩、元興寺2千町歩、大安寺薬師寺興福寺各々1千町歩、法隆寺四天王寺は5百町歩。
 ◎元興寺伽藍図:平城京での寺地は黒で描かれたとおりである。現在は、赤で描かれた部分のみが残る。
    (真言律宗元興寺<極楽坊>発行リーフレット より)
 即ち、東室南階大房の中央部7房が極楽坊本堂・禅室(国宝建造物)として、五重大塔跡は元興寺五重塔跡(東大塔跡・史跡)として、
 西小塔院跡の一部は小堂(史跡)として僅かに残る。
奈良末期、智光、僧坊の一坊に住す。(後の極楽房)、浄土教の研究に専念し智光曼荼羅を遺す。
永久年中(1113-)禅定院の堂塔、建立さる。
養和元年(1181)禅定院境内に興福寺大乗院が遷る。
寛元元年(1244)僧坊の一部が改造され、智光曼荼羅を拝す極楽堂(本堂・曼荼羅堂)となり、極楽坊が成立する。
応永18年(1411)東大寺西南院から極楽坊東門(重文)が移建される。
宝徳3年(1451)土一揆のため、小塔院、元興寺金堂など焼失。その後金堂は再建されるも文明4年(1472)大風で倒壊。
江戸期には焼け残った大塔院(東塔院)中門と五重大塔を管理する中門堂衆、極楽坊、小塔院(真言律宗、本尊:虚空蔵菩薩)に分離し、その間は民家が密集する。
安政6年(1859)五重大塔及び観音堂炎上。
昭和2年五重塔跡発掘、観音堂(元興寺・華厳宗東大寺末)が復興する。
昭和30年極楽院、元興寺極楽坊の旧称を称す。昭和51年、極楽坊を元興寺に改称す。(真言律宗西大寺末)

2022/05/20撮影:
○奈良市役所展示の平城宮跡復元模型
 →平城宮跡復元模型:平城宮での姿が再現される。


創建以来約1200年奇跡的に存続してきた五重塔は安政6年(1859)焼失する。

大和元興寺五重塔

◆大和名所圖會:寛政3年(1791)刊より

 大和名所図絵:下図拡大図:2023/03/10画像入替
 

◆「南都名所集 10巻」中の5巻、
 延宝3年(1675)、太田叙親、村井道弘著
            :2023/03/10画図入替


南都名所集:上図拡大図


◆加太越奈良道見取絵図:第2巻、寛政年中(1789-1801)編修


加太越奈良道見取絵図 :上図拡大図

町屋に囲まれ、僅かに元興寺五重塔・観音堂が残る様が描かれる。
北方に極楽坊、東に十輪院がある。

 

 

2006/06/03追加:
●「元興寺の歴史」岩城隆利、吉川弘文館、平成11年より
創建以来1200年近く威容を誇った五重大塔は終に安政6年(1859)炎上する。
「毘沙門町より出火、・・・元興寺大塔へ火移り、同寺不残焼失」
「元興寺大塔五重目へ飛火、五重目より焼失、同寺本堂庫裏其外不残焼失」
「一、大塔 6間四方、高サ24丈 本尊薬師如来無恙出ス、四天王各高サ8尺焼失、聖徳太子高サ5尺16歳像焼失、
同塔在ス高サ7尺十一面観音出シ奉ル、其外塔内存ス古霊仏焼失。
一、本堂 東西8間1尺南北7間6尺 本尊十一面観音・・・焼失」
2006/06/03追加:
●奈良名所東山一覧之図
 奈良名所東山一覧之図1:幕末の景観とされる。 全景図の図右下が元興寺。
   同           2:元興寺附近部分図 、作者(岡田春燈斎)も明治維新前に没すると云う。
2023/03/13追加:
奈良名所東山一覧之図:江戸末期、10×16cm。岡田春燈斎の作、微塵銅版に依る。
春燈斎は、京師仏光寺柳馬場東に住む銅版画家で、弘化年中(1844〜47)から、万延元年(1860)までの作品が知られる。安政6年(1859)焼失の元興寺五重塔が描かれるので、最晩年の作かもしれない。

●和州奈良之繪圖:元治元年(1884)
  元興寺五重塔:部分図、和州奈良之繪圖の中央右端の部分図

2009/03/03追加
●「大和志料」より
  元興寺古圖1(全図)    元興寺古圖2(全図):左図と同一図、
     下に掲載の「南都元興寺古伽藍図」:寛政6年乙卯孟夏 とほぼ同一の絵図と思われるも、この古圖の「素性」は未調査。
  元興寺古圖(大塔院):部分図:五重大塔・24丈
  元興寺古圖(小塔院):部分図:ニ層八角宝塔:興福寺勧学院多宝塔、内山永久寺多宝塔と同様の八角多宝塔の建築と思われる。
2023/03/10追加:
●元興寺古図軸装
  元興寺古図軸装
江戸後期か、軸装、58×73cm。安政6年(1859)に焼失する五重塔や観音堂が描かれているので、焼失以前に描かれたものかもしれない。
本図では、廻廊は中門両脇から出て金堂に連なり、廻廊の東西に東金堂と西金堂、講堂の東西と北に三面僧坊を描く。しかし、実際の知見では東金堂・西金堂は存在せず、僧坊は講堂の北に東室二組、西室二組が知られる。恐らく本図は、興福寺の伽藍配置を参考にして描かれたのであろう。彩色は、堂舎の柱が朱色と黄色に、連子窓には紺色、瓦に鼠色が使われている。

2003/7/18追加
元興寺五重塔古図:「古塔撰」より転載

大和元興寺五重塔古図:左図拡大図:2023/03/10画像入替

石垣:9間2尺四方、柱外法:5間2尺5寸四方(9.65m)
一重目軒:12間2尺8寸
露盤:8尺四方、真木:・・6間2尺(?)、真木:神代木、真木長さ:40間通り木マハリ:1丈5尺
水煙長さ:8尺、輪指渡し:6尺、覆鉢高さ:4尺、指渡し:4尺5寸
壇上ヨリ玉マデ総高さ:24丈(72.7m)

一辺9.65m総高72.7mとなり、超大型塔であったと云う。
一辺については塔跡礎石とほぼ合致するとも云う。
ただし、総高は16丈(48m)という説もある。

正面のみに階段、初重中央間板扉、両脇間連子窓、地覆長押・内法長押を用いる。

2006/06/03追加:
  大和元興寺五重塔:左図の塔図のみを抜き出し。
南都七大寺随一元興寺:大きさは25×17cm。
五重塔を描き、「石壇九間二尺四方」「柱外法五間二尺五寸四方」「一重目軒十二間二尺八寸」「露盤八尺四方」「真木露盤ノ上ヨリ玉マテ高サ六間二尺」「真木長サ四十間通リ木マハリ一丈六尺」「水煙長サ八尺」「輪指渡シ六尺」「覆鉢高サ四尺指渡シ四尺五寸」「壇[]ヨリ玉マテ惣高サ二十四丈」と記す。サイズからみて、和装本の一部分で右半分が切断されたものであろう。作成年代は、江戸後期で、下限は安政6年であろうか。

2022/02/07追加:
●「図説 元興寺の歴史と文化財」元興寺文化財研究所、吉川弘文館、2020 より
◇明治の元興寺境内指図:
 明治の元興寺境内指図
慶応4年(1866)明治維新で、元興寺周辺の朱印寺院20ヶ寺は協議の上、元興寺惣代である東大寺宝珠院は大和鎮撫総督府に白銀15枚を献納する。
同年の神仏分離令の発布で、元興寺鎮守御霊社は元興寺の別當を解かれ、奈良府の支配下に入り、元興寺の関与は断絶する。
明治4年上地令で、法華寺村・肘塚村にあった寺領50石は没収され、経済的に困窮する。大火からの復旧は頓挫し、観音堂と塔跡は暫く仮堂のままとなる。

2007/01/31追加:「大和の古塔」より
南都元興寺大塔図
礎石は円柱座を有する。
柱間は中央11尺4寸8分(天平尺12尺)、両脇間10尺5寸2分程(天平尺11尺)、即ち一辺天平尺で34尺を測る。
塔の創建は塔跡から出土した「神功開宝」から、この銭の鋳造年である天平神護元年以降であろう。
その後の沿革は不詳であるが、承暦元年(1077)「永算造元興寺塔」永算によって造替されたと思われる。
貞永元年(1232)雷火を受けるも、焼失は免れる。
しかしその後の修営(寛元2年・1244)では大幅な造替が行われたと思われる。
その後は再三小修理が行われ維持されるも、安政に至り根本修理が実施される。
軸部の修理を経て杉皮土居の葺立中、附近の民家から発火した火事が五重目の屋根につき、全焼する。
北室町(元興寺北辺)の油屋嘉七の日記
 ・「出火之事 安政6未年2月27日夜八ッ頃より元興寺出火有之候所、火出しは毘沙門町塔之下下駄屋より火出しニ御座候、毘沙門町西側不残芝突抜是も不残焼 誠ニ大塔焼候事ハ見事之事ニ御座候、其時初メハ未申風ニテ元興寺町方ハ六ツケ敷候、又風かわり戌亥風ニ相成候、魚善江参り候得共呼ニ参候内江戻り候得者鍋長西布御出被下候間、阿ら方御方付被下候、夫より蔵江詰候残りたたみ又ハにわ廻りえもの斗々致置皆々様御蔭を以私方も相のかれ候事」
 ・「御祝儀納帳」(北東辺の鵲町金銭出納帳)
「安政6未巳年2月28日夜九ツ半時、毘沙門町植木屋重助方より出火ニ付尤風者無之候得共、それより元興寺江火移り同寺不残焼失 ・・・・・・」
 上層に引火したため、これを実見した古老の談話では丁度蝋燭が燃えるようであったという。

附近からの出火のとき、塔の修理中であったため、可燃性の野地がむき出しであったことが不幸であったが、修理中の故に塔の詳細な明細が残されている。
(仕様書として「元興寺塔寸法覚」「五重塔御修理仕様覚」「塔木引覚」が東京帝室博物館に、図が奈良県庁に残る。)

 ○「寸法覚」「仕様覚」「木引覚」による元興寺塔規模
  基壇:  一辺長57尺(17,27m)、高さ3尺(0.91m)
  初重:全3間32.9尺(9.97m)、中央間11.5尺(3.48m)、両脇間10.7尺(3.24m)
                      柱長−−−−−−−−、柱径2.5尺(0.76m)
  二重:全3間29.4尺(8.91m)、中央間10.4尺(3.15m)、両脇間9・50尺(2.88m)
      縁出 5.5尺(1.67m)、柱長4.6尺(1.39m)、柱径2.3尺(0.70m)
  三重:全3間26.2尺(7.94m)、中央間9.0尺(2.73m)、両脇間8.6尺(2.61m)
      縁出 5.5尺(1.67m)、柱長4.26尺(1.29m)、柱径2.0尺(0.61m)
  四重:全3間22.9尺(6.94m)、中央間7.9尺(2.29m)、両脇間7.5尺(2.27m)
      縁出 4.5尺(1.36m)、柱長3.95尺(1.20m)、柱径2.0尺(0.61m)
  五重:3間20.0尺(6.06m)、中央間7.0尺(2.12m)、両脇間6.5尺(1.97m)
      縁出 3.6尺(1.09m)、柱長3.13尺(0.95m)、柱径1.9尺(0.58m)
  ※「仕様覚」では初重寸法は以下の記録となる。(初重以外は同一)
   全3間32.6尺(9.89m)、中央間11.6尺(3.51m)、両脇間10.5尺(3.18m)

○奈良県蔵、南門太夫吉:「古図にみる日本の建築」 所収
 南都元興寺弐拾歩一図:左図拡大図
     
塔は石壇上に建ち、高さ16丈程、基本的に和様を用い、斗栱は三手先、ニ軒、各重中央間は板扉、両脇間は連子窓とする。
斗栱の肘木に笹繰があり(唐様)、また軒に端隠板があり(天竺様)、若干新様式の取り入れも見られる。

2022/02/07追加:
●「図説 元興寺の歴史と文化財」元興寺文化財研究所、吉川弘文館、2020 所収
 南都五重大塔二十分之一図:奈良県文化財保存事務所:上図と同一図

2023/03/15追加:
○元興寺五重小塔二十分之一図:「大和古寺大観 巻3」 所収
 元興寺五重小塔二十分之一図:上に掲載と同一の図である。より鮮明である。

○元興寺塔舎利:
舎利は宝珠にあったらしく、焼失前の修理調査で記録が残る。(元興寺町奥中存三郎氏所蔵記録)
「天保14年・・五重目迄足場カゝリ又天保15年・・・足場かゝり屋根の上下九輪迄足場掛・・・・
九輪の玉二ツ有、此の間に結構な物があり御経が塔婆に書きてあり御舎利様もあり結構たらけ経書きてあり、・・・・」

○近世の塔内安置仏:
大和名所圖會などでは大日如来を安置とする。
 ・「御祝儀納帳」(北東辺の鵲町金銭出納帳)では、各焼失物件の搬出物を挙げている。
「1.大塔(6間四方高さ24丈)
  本尊薬師如来右ハ無恙出ス 
  四隔四五各高さ8尺 右四体共焼失 聖徳太子高さ5尺16才之 尊像焼失
  同塔在ス高さ7尺 十一面観世音出シ奉流・・・」

2022/02/07追加:
●「図説 元興寺の歴史と文化財」元興寺文化財研究所、吉川弘文館、2020 より
元興寺境内絵図:2020年調査で見いだされる。
安政6年(1859)に焼失する前の五重塔・観音堂が描かる図である。
塔・金堂とも屋根の破損が描かれる。

 元興寺境内絵図:左図拡大図

2022/02/07追加:
●「日本仏教はじまりの寺 元興寺」元興寺文化財研究所、吉川弘文館、2020 より
幕末の奈良:奈良名所東山一覧之図
 奈良名所東山一覧之図:岡田春燈斎、下方向かって右に猿沢の池を挟み、興福寺五重塔と元興寺五重塔が並び立つ様が描かれる。
  :2023/03/10画像入替

2022/02/08追加:
2021/10/15「奈良まちづくりセンター」の清水和彦氏に奈良町などご案内頂頂く。
その折、元興寺五重塔の資料として、次の「論攷」の提供を受く。
下記に記して、謝意を表する。
ご提供文献:
安政6年の元興寺五重塔焼失の状況については次の論文に詳しい。
○「元興寺塔婆の焼失に就いて」太田静六(「建築世界」大32號3号、昭和13年3月 所収)

元興寺塔婆復原を試みたのが次の論文である。
○「元興寺塔婆復原考」太田静六(「建築学大会論文集」昭和14年4月
元興寺塔復元にあたって、根源とした資料は現在東京帝室博物館蔵に帰している「元興寺観音堂及塔積書」である。
この資料の年紀は不明であるが、江戸中期以降、元興寺塔修復は屡々企図され、現に安政6年の焼失の時も塔は修復中であったので、凡その年紀は推測できるであろう。
詳細は本論文を参照頂くとして、元興寺塔の総高については、従来24丈という説が主流であったが、16丈という事を結論づける。
総高を復原するにあたって、「元興寺観音堂及塔積書」では相輪長についての記載がないが、各重の詳細な復原および現存五重塔のとの比較検討から、元興寺塔は世に流布している24丈(73m)
ではなく、16丈(48m)であると結論づける。
この16丈は興福寺創建塔の総高と近似した値である。
なお、本塔については24丈説のみ有名であったが、16丈説も存在したのである。
例えば、「東大寺伽藍略録」中の末寺元興寺の条に「塔一基五間四面十六丈」とあり、また、元興寺蔵の江戸期の図面にも「塔 高十六丈 五間四面」と書かれたものが少なくとも2通ある。

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2023/03/15追加;
 元興寺および奈良町に関する「今まで語られなかった謎に迫る」斬新な研究を纏めた図書の寄贈を受けたので、要約を記す。
受贈した図書は
清水和彦氏の「元興寺とならまちの建築・美術―語られなかった謎に迫る」京阪奈情報教育出版、2023/01/15初版 である。
今般は元興寺五重塔(大塔)、五重小塔に関する「謎」の解明部分を要約させて頂く。

元興寺とならまちの建築・美術―語られなかった謎に迫る」清水和彦著、京阪奈情報教育出版、2023/01/15初版 より
 現在の奈良市に「ならまち」といわれる一郭がある。
そこは「南都元興寺」の旧伽藍地であり、そこには今に「南都元興寺」由来や関連の建築・遺構・美術品などが、ほんの片鱗ではあるが、伝えられている。
本著は、これら「ならまち」の「文化財」について、鋭い論考で、自明とされていたことや見過ごされていたこと、つまり「謎」について切り込み、新しい視点を我々に提供してくれる著作である。

第1章 元興寺五重塔(大塔)の焼失
 安政6年(1859)−幕末・明治維新の直前−修理中であった大塔は付近の民家の火事から飛火し、五重の屋根に着火し、丁度蝋燭が燃えるような有様で、為す術もなく焼け落ちる。
 ※その様子は北室町の油屋嘉七の日記(田村藤司氏蔵)また鵲町の「御祝儀納帳」(町内金銭出納帳)に活写される。
 これらの記録は黒田f義の「大和の古塔」昭和18年の「元興寺塔」の項に収録されている。
◇忘れられた論争
 昭和14年太田静六(東京帝室博物館研究員)は大塔の復原案を発表する。(「建築学会大会」)
復原案は「元興寺観音堂及塔積書」(つもりがき/江戸末期の実測史料)に基づき、塔の創建は奈良期でそれが幕末まで維持されたという前提で作成される。
 ※元興寺観音堂及塔積書は元興寺塔寸尺覚(修理前実測図)と五重塔御修理仕様覚(修理仕様や用材の見積)の2冊からなる。
但し、太田は安政の実測図「大塔20分の1図(以下安政古図)」が存在することは発表時は知らなかったという。
復原案は「元興寺塔婆復原考」(「建築学会論文集 13」昭和14年 所収)として世に問われる。
  □太田静六大塔復原案:孫引・・原図は「建築学会論文集 13」
 これに対して、黒田f義(のりよし/奈良県古社寺修理室技手/昭和12年の山田寺仏塔の発見者の一人)が批判を加える。
批判の論点は次の4点である。
1)「安政古図」があるので復原案は意味がない。寸尺覚の値は杜撰で信用できない。
2)奈良期創建の大塔は平安末期と鎌倉期に造替され、「大塔20分の1図」の塔」は鎌倉期の姿を写したものであろう。
3)「安政古図」は斗栱などまさに中世の折衷様を示す。
4)太田の実測したという初重平面の1辺長には「疑義」がある。
  □大塔20分の1図・書き起こし:孫引・・原図は黒田f義「『元興寺復原考黒田f義』私案」という。
  □大塔20分の1図・安政古図:奈良県庁蔵
    南都元興寺弐拾歩一図:上に掲載、南門太夫吉:「古図にみる日本の建築」 所収
    南都五重大塔二十分之一図:上に掲載、「図説 元興寺の歴史と文化財」元興寺文化財研究所、2020 所収
    元興寺五重小塔二十分之一図:上に掲載、
黒田の批判に対し、太田は「元興寺塔婆復原考私見」(「建築学会論文集 15」 所収)で反論するも、以降両者からの再批判などは無かった。
その頃は、戦時中であり、黒田は招集され、昭和19年31歳でフィリピンで戦死する。
黒田の戦死ということもあってか、以降、学界で太田の復原案や元興寺塔寸尺覚、大塔20分の1図(安政古図)が取り上げられることは無かった。
 ●黒田は国家神道の云う「聖戦」の名のもと「徴兵」され、僅か31歳で大日本帝国によって殺害される。
 戦前の国家神道による統治の復古を目指す勢力によって、再びあらゆる自由が奪われる時代のこないことを願う。

◇史料を見直す
 ここで、著者は「安政古図」(大塔20分の1図)は果たして「実測図」なのであろうかという根本の疑問を呈する。
「実測図」であるかどうかについての著者の考証は厳密・精緻であるので、「著作」を手に取って頂きたいが、結論だけ示せば、「安政古図」は「実測図」とは云えないのではないかということである。
 さらに、「安政古図」が「実測図」とは云えない最大の理由は、これも結論だけ示せば、「安政古図」には「南都元興寺大塔弐拾歩一図」「南門太夫吉豊」と墨書があるが、その作者である「南門太夫吉豊」は「実測図」作成にあたり、明らかに実物とは乖離するのは承知で、おそらくは組物がそれらしく見えればよいという考えであろうか、パターン化された組物図を使い廻していた形跡があるということである。 
 ※吉豊は幕末の春日座(興福寺)16人大工の一人で元興寺大工を兼ねるという。
 ※なお、パターンの使い回しは吉豊だけが行っていた訳ではない。
◇「安政古図」から読み取れること
 上記から、著者によって「安政古図」の実測図としての価値は限定されることが解明される。
では、以上の限界を踏まえ、この古図から読み取れることは何か、それは以下であるとする。
1.肘木の上端の「笹繰」が認められる。
黒田はこれを唐様の様式として鎌倉建替えの根拠の一つとしたが、これは和様の奈良期建築の特徴でもあり、逆に奈良期創建の証拠の一つとなり得る。
2.垂木先端の「鼻隠板」は大仏様の様式であり、これは中世に変更されたものと認められる。
3.各重に「小屋組」が無いことについては、平安後期からの小屋組と桔木の採用が一般化するが、無いことは奈良期建築の特徴でもある。
4.「安政古図」には通肘木が上下2段に入る。これは中世からの様式とされ、であるならば、大塔は中世以降の建立あるいは大改造ということになるが、「寸尺覚」の記述では、通肘木は1段と解釈され、これは、逆に大塔が古代に属するとの証明になるのではないか。
◇史料から見た大塔と太田の復原案の評価
 もう一つの問題は大塔が創建以来この地に建っていたのか、それとも黒田がいうように、大塔は平安末期や鎌倉寛元年中(1243-47)に建替えられたのであろうかという問題である。
 著者は次のように評価する。
この問題では太田博太郎(東京大学工学部教授)の云うように平安末期に荒廃していた記録はあっても、塔の喪失という記録もないのも事実である。
太田博太郎の「足立康著作集 3 塔婆建築の研究」中央公論美術出版、1987 の解説 は説得力がある。
太田博太郎は黒田の云う寛元年中の造替は「安政古図が正しいなら、細部の様式から塔は鎌倉前期のものとするのが適当だろう」と云うも、しかし「五重と初重との平面比が0.71となっていて、これは奈良期のものとみて差し支えない比率である。もし鎌倉期の造替なら五重目がもう少し大きくなってもよさそうである」と指摘する。
加えて黒田の根拠とした文献解釈の疑問や強引さも指摘する。
 さらに、保延6年(1140)大江親通の「七大寺巡礼私記」の初重内陣の荘厳についての記述や大乗院門跡尋尊の「大乗院寺社雑事記」・文明15年(1483)の條での初重荘厳さの記述から、大塔の鎌倉期の造替が否定できるのではないかと評価する。大江や尋尊の描写した初重の荘厳さは「古代的性格」そのものであるからである。
 なお、黒田は太田静六の論文を激烈に批判したが、その著「大和の古塔」の元興寺の項で太田静六の論拠とした「元興寺塔寸尺覚」「五重塔御修理仕様覚」「塔木引覚」に言及し、その尺寸の一覧を揚げている。著者は「お互い研究者としての立場を認めていたのだろう」と論評する。

第2章 五重小塔は西塔の<象徴>として祀られた −大塔との相似から伝来の謎に迫る−
 元興寺には五重小塔(国宝・奈良後期)が伝来する。
しかしその由緒や伝来は謎であった。江戸期には大塔の雛形とされていた。
◇小塔とは
 一辺267cm高さ30.3cmの置台の上に、一辺163cm高さ12.2cmの基壇を置き、その上に一辺97.8cm総高550.2cmの小塔を安置する。特徴的なことは、相輪長は222.1cmと長大であり、総高の40.3%となることと内部まで緻密に造られてことである。これは海龍王寺五重小塔(国宝・奈良前期)が中空構造(箱の積み重ね)とあるのと対称的である。
 小塔の由緒や由来を記した史料は一切なく、心柱にある天和3年(1683)再造(修理)銘が最初である。また元禄14年(1701)の「宝物略記」では聖徳太子の勅旨で試しに造った本朝層塔の最初」との記載がある。
 ※この銘の「再造」の意味の重大性は後で触れられる。
 奈良町奉行であった川路聖謨は弘化4年(1847)の記録で、小塔は試し(雛形)の塔である意味のことを書き留めている。
昭和43年の「国宝元興寺極楽坊五重小塔修理工事報告書」ではかっては本堂に安置し、第2間の床板と天井板を外しても収納できず、高さ61cmの代用相輪(天井裏で発見)を据えて収納したという。なお相輪は明治40年今の奈良博に寄託するとき、相輪が元に戻され、昭和40年収納庫が完成したので寺に戻される。
そして、解体修理は昭和43〜43年に行われる。
◇小塔の研究史
 「元興寺大塔の高さについて」安達康、昭和6年では、大塔の塔身は10.8丈、相輪高さは5.5丈、総高は16.3丈とした。(「興福寺諸堂縁起」と「興福寺流記」の記述)
一方小塔は初重一辺3.25尺が大塔の一辺32.5尺の1/10、小塔の塔身の高さも10尺8寸2分で大塔の1/10となるので、「両塔の寸尺は良く一致している」と結論づける。
 戦後、上記の安達の雛形説は見直される。
 「大和古寺大観 第3巻 元興寺極楽坊他」岩波書店、昭和52年 の小塔解説で鈴木嘉吉は次のように述べ、雛形説は見直され、これが定説化する。
1.小塔は平面等間であるが、大塔の平面(礎石の実測)は中央間11.5尺、両脇間10.5尺で等間ではない。
2.大塔は安政古図によれば肘木に笹繰があり、笹繰のない小塔より古い。
更に
1、小塔は内部まで実際の塔の1/10で造作されるが、相輪を平均的な高さに抑えると総高は160尺前後のこの時代の標準形になる。
2、組物等の部彩は全て同じ寸法である。
3、各重とも等間である。
4、逓減は三柱間とも3.1尺(天平尺)づつ逓減する簡単な比例を持つ。
つまり、規格が単純であり、部材の寸法や工法をそのまま10倍すれば塔が造れることとなる。国分寺の塔は平面等間の例が多いので、天平末期の塔の普及と深い繋がりがあったと言及する。
 「元興寺五重小塔の設計思想」桜井敏雄、1989 では国分寺塔関連を認める。
 「古代寺院の塔遺構」箱崎和久(「奈文研文化財論叢 W」2012)は
1.小塔は内部まで精巧に造られているので雛形とされるが、平城京の官寺では総間や柱間の一致する例はない。
2.国分寺塔との関係において、上手く適合する例はない。
3.総間の1/10に合致する元興寺塔との関係を重視すれば、小塔は元興寺に由来するとするのが妥当である。
箱崎は大塔の造営は先に総間33尺(天平尺)が決定され、初重柱間を等間としたときの「納まり」を検討するために小塔が製作されたたと推定し、雛形説に同意する。
小塔のように柱間を等間にするのはむしろ古いやり方で、安政古図とはかけ離れているので、結局は大塔建築に当たっては小塔は雛形として採用されなかったと結論づける。
 なお、狭川真一(「元興寺五重小塔相輪考」2018)は相輪が長大な点を除けば、小塔は雛形と認められる。また小塔は分解可能で、実際国分寺塔の造立現場に運ばれ、10倍に拡大して国分寺塔が建築されたとする。

第2章 五重小塔は西塔の<象徴>として祀られた
  −大塔との相似から伝来の謎に迫る−
T.五重小塔と解体修理の成果、その研究史
◇小塔と大塔は逓減原理が同じであった。
まず、寸尺覚や安政古図に関する研究は戦前の太田・黒田の論争以来、絶えて久しい。
そこで、著者は、大塔と小塔との関係を探るため、安政の実測図「大塔20分の1図(以下安政古図)」及び大塔修理の際の実測史料「元興寺塔寸尺覚」と小塔各部の数値を比較する。
 詳細は精密なので省略するが、著作「元興寺とならまちの建築・美術―語られなかった謎に迫る」の参照を願う。
概要は以下の通り。
1.「安政古図の各部の実測寸法」(表2)がメートル法で表に纏められる。これは安政古図を実測したものである。
おそらく初めての実測値での報告と云う。
計測部位は総高から始まり、各重の軒高、一辺、柱間、柱長、柱径、軒の出などの実測値である。
2.小塔・大塔(寸尺覚)・安政古図・海龍王寺五重小塔・醍醐寺五重塔の逓減比較表(表3)を作成・比較する。
 醍醐寺を採り入れたのは奈良期の五重塔が現存しないので、平安前期の醍醐寺塔を比較対象とする。
結果は醍醐寺塔を含め、海龍王寺小塔を除き、◎逓減率は下から、ほぼ0.9、0.8、0.7、0.6に収束することが分かる。
3.天平尺に換算した小塔・大塔(寸尺覚)・安政古図・海龍王寺五重小塔・醍醐寺五重塔の逓減パターン(表4)を作成
結果、◎小塔(10倍換算)は各重3尺逓減、大塔は多少の誤差があるものの各重3尺逓減と云える。安政古図は古図自体の問題も含まれ、逓減パターンは乱れる。
4.興福寺五重塔(天平塔)・小塔・安政古図・海龍王寺五重小塔・醍醐寺五重塔の総高・塔身・相輪長比較(表5)
 ◎小塔(10倍)と安政古図(20倍)の塔身高はほぼ同じ結果となる。
5.小塔・寸尺覚・安政古図の各重一辺の比較(表6)
勿論、倍率で復元した値であるが、◎3者の一辺の値はほぼ同じである。
6.寸尺覚の大塔垂木割(表7)
一見では乱れがひどいが、一辺で3本づつ減少する垂木割を適用すると、寸尺覚・天平尺換算とも1尺もしくはその近似値の逓減となる。
安政古図は垂木先端に鼻隠板があり垂木割は分からない、小塔は垂木が3本づつ逓減する原理であるが実際には工作を容易にする為、垂木間隔を約1.5倍として造られているので除外。
 ●上の小塔の部分の記述は小生にはよく理解できない。
  2023/05/10追加:
   理解できないとしたのは清水氏の論旨ではなく「小塔は垂木が一辺で3本ずつ逓減する原理だが、
  実際には工作を容易にするため垂木の間隔を約1.5倍に広げて造られている・・」という「一文」だけである。
  端的にいえば、「工作を容易にするため垂木の間隔を約1.5倍に広げて」造るとはどういう意味か分からない
  ということだけであった。
   以上について、清水氏から次の解説及び主旨のご教示があったので、掲載させて頂く。
   鈴木嘉吉によると、すでに法隆寺塔は各間1支落ち、つまり各重の各間で垂木が1本ずつ減っていく簡単な比例となる。
  天平時代には1支は1尺となるのが通常の垂木割であるから、各間0.1尺ずつ減少する小塔は
  当代の典型的な立面計画として差支えない。
  ところが実際の垂木割は0.15尺前後と5割方荒く、本瓦形の割付もこれに合わせている。
  垂木割と瓦割だけを除くと他は10倍すれば実際の塔が造れる――ということです。
   各間1支=1尺落ちがこの時代のありかた →各間 01.尺落ちの小塔の基本計画はこれに即している(10倍を前提にして)
   → しかし実際の垂木割は5割増しの1支0.15尺(前後)落ち、というわけです。
  あくまで10倍すれば実際の塔が造れるという前提のもとで、垂木割だけはこれに合わないので5割増しと記述したのでしょう。
  「工作を容易にするため」というのは私の解釈でした。以上の鈴木説は古寺大観の小塔解説に拠ります。
  修理報告書では小塔の垂木割を初重から順に16、14、13,12、12支と復原しています。
  15、14、13、12、11支となるところを初重と5重だけ1支増しにしたという解釈です。
  この垂木割を現実の塔にあてはめると垂木配りは少々荒いと思われ(垂木をごく太くすれば話は別でしょうが)、
  1支=1尺というのはやはり妥当なのかなと思います。
   「工作を容易にするため」というのは清水氏の解釈でした。という訳で、古代に垂木の間隔を約1.5倍に広げて造れば、
  工作が容易になるような技術が古代にあったのかと、私が曲解しただけの話でした。
   
7.小塔・寸尺覚・安政古図の柱高・柱径の比較(表8)
 ◎柱高は初重でほぼ等しい、二重以上は寸尺覚と安政古図との間で親縁性がある、柱径は寸尺覚と安政古図はほぼ等しい。

以上の分析から、著者は次のように結論づける。
 小塔と大塔は塔の外観を決める最大要素である上重への逓減率、天平尺でみた逓減原理、(換算値である)各重一辺長がほぼ同じで、塔身部は相似形という結果を得る。
このデータは何を意味するか。
元興寺に伝世する五重小塔は、奈良期元興寺で、東の大塔と対称的な位置にあった西の小塔院に奉安されていたことを強烈に示すということではないか。

U.安政古図を測る−寸尺覚や小塔との比較−
◇寸尺覚・安政古図は別々の史料ではなく一連の史料ではないか、そしてその上で安政古図には限界がある。
 寸尺覚・仕様覚には作者の記名はないが、安政古図には、上述のとおり、「南門大夫吉豊」との墨書がある。
前節では小塔・寸尺覚・安政古図の強い親縁性を論考した。寸尺覚と安政古図は幕末の大塔修理の際に作成された一連の史料で、寸尺覚の実測値を基に安政古図が作成されたと認めてよいだろう。両者の書体が似通っているとの証言(黒田)もあり、南門大夫は寸尺覚の作成にも関った可能性が高い。
 さらに安政古図について、著者は、今までは古図の性格を確かめないまま、大塔の実測図としてきたが、寸尺覚の数値と対照できた寸法を除いて、細部の表現には問題があることを重ねて指摘したいという。
◇小塔と大塔との関係性
 著者は次のように云う。
大塔と小塔の塔身部は分析の結果、相似形であり、小塔は小塔院に奉安されたいたと結論づけられる。元興寺では西塔は建立されず、そのため小塔を西塔に代る<象徴>として安置し、周囲は百万塔に囲まれていたと推定する。
 勿論、小塔=小塔院という文脈で考えられるのは自然であるが、しかし、それを裏付ける史料もなく、そんなに事情は単純ではない。そのため、小塔=小塔院という説を否定する説も存在する。(鈴木嘉吉「五重小塔解説」)
 一方では、移動可能であり、国分寺塔などの雛形説をも生み出す。しかし、この説でのいう小塔を塔の建築現場に運び、雛形としたというのは想像にしか過ぎない。各国の国分寺建築技術の伝播は工匠と付随する技の交流によるもので、単に雛形だけで済むものではない。

V.小塔の伝来の謎を廻る試論
◇小塔院・新堂・吉祥堂
 称徳天皇は百万塔の造立を発願、宝亀元年(770)頃、諸大寺に分置される。元興寺には小塔院に安置とされるが、小塔院の創建に関する確かな史料はない。
平安期には元興寺小塔院の記事(「堂舎損色検録帳」長元8年/1035)があり、小塔院が見えるが、破損が著しい様が描かれる。更に、「新院堂 瓦葺7間2面堂」と性格不詳な「新堂」が見える。この堂も破損もしくは未完の態であったと記載される。そのあった位置は不明であるが、元興寺伽藍のバランスから、小塔院の北側にあったと考えるのが合理的であろう。
 だとするならば、「新堂」の位置は今は退転している吉祥堂の位置に相当する。
なお、吉祥堂の位置及び性格(吉祥天を祀る)は近世の地誌に多く出てくる。
 さらに、著者は「新堂」が吉祥堂であったと多彩な論を展開する。
この著者の推論は多岐に渡る故に、著作「元興寺とならまちの建築・美術―語られなかった謎に迫る」で直接に確認を願う。
大江親通の「七大寺日記」(嘉吉元年/1106)と「巡礼私記」(保延6年/1140)間との記述の異同の解釈、諸記録に見える吉祥堂(新堂)の平面規模の変遷の解釈など独自の視点で推論が進展するので興味深い。
 ※平面規模:「堂舎損色検録帳」の新堂・7間二面堂、「七大寺日記」の吉祥堂・3間四面堂、「巡礼私記」の吉祥堂・5間四面堂という。
なお、「巡礼私記」には「吉祥堂・・・此堂亦小塔院と名づく」とあり、これが吉祥堂=小塔院との認識が流布する元となる。
しかし、この認識は次の項で否定される。
◇吉祥堂と小塔院は全く別という証拠
 吉祥堂と小塔院は全く別の堂であったことを示す決定的な史料がある。
それは「小五月郷指図写」(伝尋尊筆)である。
 □小五月郷指図写:興福寺蔵「肝要図会類聚抄」所収
  小五月郷指図写:上に掲載
  小五月郷指図写2:北が上になるように回転、文字入れ
金堂(堂は退転)の東に東塔と観音堂、西側に小塔院と吉祥(堂)、北東に極楽坊が描かれる。つまり、小塔院と吉祥堂は別の堂宇だったのである。
その他、同時代史料での説の補強、また反証等の紹介もある。

W.小塔は鎌倉期以降、元興寺にあった
 小塔は平安期にはどこに安置されていたのかは考える材料がない。
しかし、多少の異論(鈴木嘉吉「大和古寺大観」の小塔解説)はあるものの、鎌倉期以降元興寺極楽坊にあったことは確実とされる。
本堂の解体修理で、天和年中だけでなく、鎌倉期修理を含む大量の取替部材が発見され、このことが、それを証明する。
そして、小塔は、確かに江戸期には律宗化し大衆を動員した大規模念仏講が行われなくなった本堂に安置されていたことは確認されている。
だが、それ以前に本堂に安置されていたとは考え難い。
 では、本堂でないとすれば、どこに安置されていたのか、それは禅室以外に考えられない。
五重小塔という長大な建物を安置できる建物は極楽坊では禅室以外に考えられないからだ。
著者は禅室の構造の歴史的な遷移また小塔自体の過去の修理(改造)から解き明かす。
 著者は更に1歩踏み出す。
1)禅室は室町期改造されたのではないか。(僧坊機能が不要となり、時代に合わせて改造される)
2)改造に伴い、禅室での小塔の安置場所が無くなり、小塔は解体され本堂の天井裏に収納されたのではないか。
雑事記などの記録や近世以前の地誌に小塔が登場しないのは、解体され、天井裏に収納されていたからではないか。
昭和37年の収蔵庫建設に伴う発掘調査で発掘された土壙から発見された鎌倉修理の小塔部材が出土したことも傍証となる。
3)加えて、天和年中の修理銘の「再造」の文言は、小塔が解体・収納されたことを決定的に裏付けるのではないか。
即ち、修理銘では「天和3癸亥年(1683)再造五重塔為与法利証祓苦楽意成成就祈所乃至普利 極楽院住持尊覚 合掌」とあるが。
この「再造」とはなにか。
それは、修理でも修造でもない「再造」とは解体して天井裏に収蔵されていた小塔を発見し、組立、再び塔の形にし、安置したことを強く示すのではないか。
かくして、小塔は塔の形に「再造」され、解体された小塔が収蔵されていた本堂に安置され、さらに本堂の昭和修理では、解体された小塔と一緒に収蔵されていた鎌倉期の取替部材が大量の民俗信仰資料とともに発見されるということではないか。
 ●まさに「新説」と思われる。

さらに他の論考
 ・極楽坊本堂の「設計」意図の解明(第3章)
 ・今西家書院の考察(第4章)
 ・奈良町の会所のかたち(第5章)
 ・奈良町の辻子・突抜(第6章)
 ・極楽坊板絵智光曼荼羅(第7章)
 ・興福寺板彫十二神将像の伝来(第8章)
  については、後日を俟つこととし、当面は省略する。


元興寺五重塔跡

現在市街地の中に巨大な塔跡が現存する。日本の五重塔の中で最大の平面を持つとされる。
宝徳3年(1451)の土一揆で主要伽藍を失い、安政6年(1859)最後に残っていた塔・観音堂が焼け落ちる。
以後、元興寺には復興の力は無く、付近に残る元興寺極楽坊・十輪院・小塔院跡等で、かっての寺盛を偲ぶしかない。
 なお長い間、元興寺塔雛型といわれていた五重小塔(国宝)が極楽坊に現存する。
  ※但し現在では、この小塔は元興寺塔雛形ではないと云われる。下の「極楽五重小塔」の項を参照。
前身は飛鳥寺。塔の高さは73m(24丈)と伝えられる。

○「日本の木造塔跡」:塔跡は後世の壇上積基壇と心礎と四天柱礎の1ヶを除く全礎石が完存する。
心礎の大きさは2.0×1.88m、径1.14mの柱座があり、その中央に径30cmの出枘を持つ。塔の一辺は9.85mとされる。

2006/06/03追加:
○「元興寺の歴史」岩城隆利、吉川弘文館、平成11年 より
 元興寺大塔礎石配置図

2000/8/18撮影:
 元興寺塔跡0
2002/7/28撮影:
 元興寺塔跡1      元興寺塔跡跡2     元興寺塔跡跡3     元興寺塔跡4
 元興寺塔心礎1      元興寺塔心礎2
2006/06/17撮影:雨中・傘なし、十分な撮影は出来ず。
 元興寺塔心礎1     元興寺塔心礎2     元興寺塔礎石1     元興寺塔礎石2     元興寺塔礎石3
2013/02/21撮影:
 元興寺塔基壇1     元興寺塔基壇2     元興寺塔基壇3     元興寺塔基壇4
 元興寺塔跡11      元興寺塔跡12      元興寺塔跡13      元興寺塔跡14     元興寺塔跡15
 元興寺塔跡16      元興寺塔跡17      元興寺塔跡18      元興寺塔跡19     元興寺塔跡20
 元興寺塔跡21      元興寺塔跡22      元興寺塔跡23
 元興寺心礎11      元興寺心礎12      元興寺心礎13      元興寺心礎14     元興寺心礎15
 元興寺心礎16      元興寺心礎17      元興寺心礎18
2021/10/11撮影:
 元興寺塔跡24      元興寺塔跡25      元興寺塔跡26      元興寺塔跡27     元興寺塔跡28
2021/10/15撮影:
 元興寺塔跡31      元興寺塔跡32      元興寺塔跡33      元興寺塔跡34     元興寺塔跡35
2023/04/06撮影:
 元興寺塔跡36     元興寺塔跡37     元興寺塔跡38     元興寺塔跡39     元興寺塔跡40
 元興寺塔跡41     元興寺塔跡42     元興寺塔跡43     元興寺塔跡44
 元興寺心礎19     元興寺心礎20     元興寺心礎21

2006/06/03追加:
元興寺略歴
○「元興寺の歴史」岩城隆利、吉川弘文館、平成11年 より
  小五月郷図写」 :治承4年(1180)平重衡の南都焼討ち後(元興寺本寺は大きな被災は無かったとされる。)
    の様子と思われる。
※寺門郷、大乗院郷のうちの小郷で、小五月会の費用を負担する郷を小五月郷という場合があった、
宝徳3年(1451)土一揆により、これまで大きな罹災の無かった元興寺が炎上する。
「南都元興寺金堂弥勒炎上・・・」
「大乗院殿門跡炎上・・・」
「自小塔院火出、元興寺金堂悉以炎上了、・・・余災、当坊禅定院炎上了・・・・」
   興福寺濫觴記:「禅定院 本願権少僧都成源、元興寺別院也、宝徳3年・・焼失、丈六堂本尊弥勒、
   天竺堂本尊釈迦(炎上・・今福智院之有)、多宝塔阿弥陀(炎上・・今極楽坊之有)・・・」
   大乗院門跡の本拠であった禅定院は翌年から復旧に取りかかる。
   文明15年(1483)の禅定院伽藍は以下のようであった。
   丈六堂はニ重閣で本尊阿弥陀如来、天竺堂本尊は釈迦如来は福智院にあり、
   八角多宝塔本尊阿弥陀如来は極楽坊に移されたまま、釈迦堂、弥勒堂、観音堂がある。
    元興寺禅定院・興福寺大乗院・中院については「興福寺大乗院など」の項を参照。
元興寺伽藍は中世の後期に入っても金堂復興は進展せず、当時の残存する主要伽藍としては南大門、中門、五重大塔、観音堂、吉祥堂、小塔院、極楽坊であったと思われる。

近世の朱印地;極楽坊(大和西大寺末)100石、元興寺50石と云う。

創建以来1200年近く威容を誇った五重大塔は終に安政6年(1859)炎上する。
「毘沙門町より出火、・・・元興寺大塔へ火移り、同寺不残焼失」云々

元興寺現況

2021/10/11撮影: 元興寺山門
2023/04/06撮影: 元興寺山門2

2013/02/21撮影:
 元興寺本堂:(観音堂?、仮堂のままか?)      元興寺鐘楼     元興寺庫裏
なお、かの高名な国宝・薬師如来立像(平安初期)を蔵する。
2021/10/11撮影: 元興寺庫裡2
2021/10/15撮影: 元興寺本堂2     元興寺本堂3:観音堂
2023/04/06撮影: 元興寺本堂4
2021/10/15撮影: 
観音堂(本堂・仮堂/昭和5年再建)廻りには多くの枘孔を有する礎石が散在する。
本礎石が観音堂礎石とすれば、焼失した観音堂は今の仮堂より一回り大きかったものと推察される。
 観音堂礎石11     観音堂礎石12     観音堂礎石13     観音堂礎石14     観音堂礎石15
 観音堂礎石16     観音堂礎石17     観音堂礎石18     観音堂礎石19     観音堂礎石20
 観音堂礎石21
 元興寺鐘楼2
啼燈籠:正嘉元年(1257)の刻銘があり、年代が記されたものとしては奈良市内で2番目に古い石燈籠という。
そしてこの燈籠は昭和初期に倒壊しかなり破損するも、2010年に再び元の形に修復されという。
啼燈籠とは次のような伝承に基ずくものである。(下記は現地説明板より転載)
 延慶年間今の大丸呉服店その頃京の伏見に下村家あり
 代りの燈籠を奉納して古燈籠を申請して自宅に運ぶ
 爾来夜毎家鳴き振動して発したれば元の如く此所に安置したると伝ふ
 元興寺啼燈籠1     元興寺啼燈籠2     元興寺啼燈籠3     元興寺啼燈籠4

●奈良町資料館
いわゆる奈良町に「奈良町資料館」がある。
この地は元興寺金堂が建っていた一画という。
金堂は宝徳3年(1451)に炎上するとの案内がある。
本資料館には「吉祥堂」の扁額を掲げる。
以下は本資料館に展示される遺品である。
2021/10/11撮影:
 展示元興寺礎石     展示元興寺瓦
 展示旧吉祥堂大日如来:小塔院は吉祥堂と称するから小塔院由来のものであろうか。
 本尊青面金剛:本吉祥堂あるいは庚申堂の本尊であろうか。
●奈良町物語館
この地も元興寺金堂が建っていた一画という。その建屋の床下及び裏庭に金堂礎石が遺存する。
2021/10/15撮影:
 元興寺金堂礎石1-1     元興寺金堂礎石1-2
 元興寺金堂礎石2-1     元興寺金堂礎石2-2     元興寺金堂礎石2-3
●奈良町史料保存館
この地も元興寺旧境内地であった。
この地中新屋町29より昭和56年出土し、鐘楼礎石と推定される礎石が保存・展示される。
2021/10/15撮影:
 元興寺推定鐘楼礎石

◆元興寺御霊社
桓武天皇は平安京に遷都するも、疫病が流行し、その原因は怨霊であるとする。
その怨霊を鎮めるため、桓武天皇は、旧都である平城京の3つの入り口である、上つ道には早良親王を祀る崇道天皇社、下つ道には他戸親王を祀る他戸御霊社、そして中つ道には井上皇后を祀る井上御霊社を造営する。
 ※延暦19年(800)大和国宇智郡(五条)霊安寺・御霊大明神から井上皇后の御霊を勧請するとも云われる。
その井上御霊社が元興寺鎮守の由来である。
古は元興寺南大門前に鎮座する。(元地と思われる奈良井上町に井上神社<小祠>が現存する。)
宝徳3年(1451)の土一揆による元興寺焼き討ちの火災のため井上御霊社も炎上、後に現在の地(元興寺南側)に遷される。
以降、元興寺の鎮守として現在に至る。
2021/10/15撮影:
 元興寺御霊社本殿1     元興寺御霊社本殿2     元興寺御霊社本殿3
切妻造・妻入、正面に片流れの庇(向拝)を付した典型な春日造である。
なお、当日奈良町などご案内頂いた「奈良まちづくりセンター」の清水和彦氏から次のご教示を得る。
御霊社本殿は興福寺春日明神の式年造替により春日明神本殿を移築した「春日移し」の建築であると。


元興寺極楽坊五重小塔(天平・国宝)

元興寺西小塔院に安置として伝来し、現在は元興寺極楽坊(本堂・禅室は国宝)に伝えられる。(注1)
屋内塔婆であるが、本格建築であるとされる。総高5m60cm。
元興寺五重塔の雛型<10/1>と云われている。(注2)
 (注1)江戸期には極楽坊本堂の床と天井を外した1間に安置されていたが、それ以前はどこにあったのかは不明とされる。
伝承では西小塔堂本尊つまり西塔そのものであったと伝えられる。
 (注2)現在では、下記の理由から元興寺五重塔の雛形ではありえず、国分寺塔などの標準規格として作成されたものと考えられている。
安政の古図(創建時の五重塔が安政期まで伝えられたとされる)とは様式手法にかなりの相違があり、また寸法にも相違があり、元興寺塔の雛形とは思われない。但 し、この小塔は内部構造も忠実に造られていて、その意味で建築雛形であることの否定はできない。

この小塔は奈良期の造作とされる。
古代小塔の作例として大和海龍王寺に五重小塔(高さ4.6m)が残るが、海龍王寺小塔のほうが若干時代的には先行(天平初期)するといわれる。
但し、海龍王寺小塔は箱物に組物を貼り付けた工芸品的な要素があるとされるのに対し、元興寺塔は本格建築の造作であるとされる。
  →海龍王寺小塔

2013/03/29追加:
 元興寺五重小塔2:スキャン画像2:極楽坊販売写真よりスキャン

元興寺五重小塔:スキャン画像 (左図とは別のものである)



2006/06/03追加:
○「元興寺の歴史」岩城隆利、吉川弘文館、平成11年 より
 元興寺五重小塔構造図

○「大和の古塔」
初重全3間3尺2寸5分、中央間1尺0寸7分、両脇間1尺0寸9分
二重全3間2尺9寸7分、中央間9寸7分、両脇間1尺
三重全3間2尺6寸7分、中央間8寸7分、両脇間9寸
四重全3間2尺3寸5分、中央間7寸7分、両脇間7寸9分
五重全3間2尺1寸、中央間7寸、両脇間7寸、相輪長7尺2寸、全高18尺5寸

2007/02/17追加:
○「日本建築史基礎資料集成・塔婆T」
奈良期末期に製作され、平安・鎌倉・天和3年(1683)・明治31年、昭和25年に修理、さらに昭和42・43年に解体修理がなされる。
  五重小塔修理前全景  五重小塔立面・断面図




2013/02/21撮影:
 元興寺五重小塔11:左図拡大図
 元興寺五重小塔12
 元興寺五重小塔13
 元興寺五重小塔14
 元興寺五重小塔15
 元興寺五重小塔16
 元興寺五重小塔17


2021/10/15撮影:
 極楽坊五重小塔21
 極楽坊五重小塔22
 極楽坊五重小塔23
 極楽坊五重小塔24
 極楽坊五重小塔25

2022/01/24追加:
○「大和古寺大観 第3巻 極楽坊・元興寺・大安寺・般若寺・十輪院」岩波書店、1977 より
 極楽坊五重小塔          極楽坊五重小塔細部
 極楽坊五重小塔立断面図     極楽坊五重小塔平面図
 極楽坊五重小塔初重内部(2023/03/14追加)

2022/02/07追加:
●「図説 元興寺の歴史と文化財」元興寺文化財研究所、吉川弘文館、2020 より
◇平城極楽院坊舎境内絵図:
 平城極楽院坊舎境内絵図
江戸期、製作年は不詳、文久3年(1863)の補修銘がある。南に元興寺塔・観音堂が描かれるので、その焼失以前の製作であろう。
境内には本堂(極楽堂)・禅室のほか、禅室北には小子房(現在は南に移建)があり、本堂東には太子堂と鐘楼(何れも明治になって退転)が描かれる。北側に接するのは光傳寺である。
なお、法興寺の後身である元興寺では太子信仰も盛んであったと思われる。応永年中(1394-1428)に太子堂が建立され、太子二歳像(鎌倉期・県文)、孝養像(文永5年/1268・重文)が伝えられる。

●元興寺極楽坊現況

無印は2013/02/21撮影、○印は2021/10/15撮影:
東門:重文、応永18年(1411)東大寺西南院から移建される。鎌倉もしくは室町期の建築であろう。
 極楽坊東門     ○極楽坊東門2
 2023/04/06撮影: 極楽坊東門3
北門
 ○極楽坊北門
本堂(極楽堂・曼荼羅堂)/禅室:国宝、奈良期の僧坊の遺構である。4棟建てられた僧坊の一つ東室南階大房の一部である。
 上掲載の元興寺伽藍図で示すように 本堂は3房分、禅室は4房分で構成される。
  当初は東西各6房で計12房を有する長さ88mの僧坊であった。
 極楽坊本堂・禅室11    極楽坊本堂・禅室12    極楽坊本堂・禅室13    極楽坊本堂・禅室14    極楽坊本堂・禅室15
 極楽坊本堂・禅室16    極楽坊本堂・禅室17    極楽坊本堂・禅室18    極楽坊本堂・禅室19    極楽坊本堂・禅室20
 極楽坊本堂・禅室21    極楽坊本堂・禅室22    極楽坊本堂・禅室23    極楽坊本堂・禅室24    極楽坊本堂・禅室25
 極楽坊本堂・禅室26    極楽坊本堂・禅室27
 ○極楽坊本堂・禅室
 ○極楽坊本堂11     ○極楽坊本堂12     ○極楽坊本堂13     ○極楽坊本堂14     ○極楽坊本堂15
 ○極楽坊本堂16     ○極楽坊本堂17     ○極楽坊本堂18     ○極楽坊本堂19     ○極楽坊本堂20
 ○極楽坊本堂21     ○極楽坊本堂22     ○極楽坊本堂23     ○極楽坊本堂24     ○極楽坊本堂25
 ○極楽坊本堂26     ○極楽坊本堂27     ○極楽坊禅室11
 ○極楽坊禅室12     ○極楽坊禅室13     ○極楽坊禅室14     ○極楽坊禅室15
小子房:極楽院旧庫裏。禅室に北側にあった。寛文3年(1663)現在の姿に改築され極楽院庫裏となる。昭和40年現在地に移建。
平成6年西側に茶室(泰楽軒)を増築する。
  極楽坊小子房      ○極楽坊小子房
元興寺講堂礎石:推定、平成10年元興寺西側中新屋町(推定講堂址)で発掘される。大きさは1.5m×1.6m、径90cmの柱座がある。
 現地説明板(多少意味不明の部分がある):長さ1.2〜1.5m、巾1.2〜1.6m、径1.2m高さ70〜90cmの柱座を造り出す。
 元興寺講堂礎石
 ○推定講堂礎石2     ○推定講堂礎石3
木造阿弥陀如来坐像:近年まで本堂厨子内に安置、半丈六像である。
 「大乗院院寺社」によれば、宝徳3年(1451)元興寺禅定院の八角多宝塔が炎上し、本尊阿弥陀如来坐像を極楽坊道場に移したことが記されている。この像がこれにあたると思われる。
 ○木造阿弥陀如来坐像1     ○木造阿弥陀如来坐像2

2023/05/01撮影:
真言律宗元興寺玉華院
 元興寺玉華院
所在は華厳宗元興寺(東塔院跡)の庫裏北側に接してある。(奈良市芝突抜町7−1)
しかしながら、「真言律宗元興寺玉華院」との表札が掲げられるので、華厳宗元興寺(東塔院跡)に属するのではなく、真言律宗元興寺極楽坊に属するのであろう。おそらくは奈良町の古民家を真言律宗元興寺(極楽坊)が塔頭としたものであろう。
 そもそも、元興寺玉華院は弥勒菩薩を本尊として、明詮(789-868)が創建。明詮は貞観3年(861)、龍華会を始める。
建仁元年(1201)12月、解脱上人貞慶が玉華院弥勒講のために「弥勒講式」を作成する。覚憲が住したという。(国史大辞典)


元興寺小塔院:2007/03/12作成:元興寺小塔院跡は「史跡」

2022/02/07追加:
●「図説 元興寺の歴史と文化財」元興寺文化財研究所、吉川弘文館、2020 より
◇小塔院境内図:
 小塔院境内図
寛永10年(1633)大和西大寺末となる。
境内には虚空蔵堂・愛染堂・弁財天社・地蔵堂などがあった。
虚空蔵堂は宝永3年(1706)頃造立され、慶長10年(1605)造立の虚空蔵菩薩が安置される。
愛染堂には聖徳太子自作という愛染明王が安置され、元禄10年(1697)には修復勧進が行われ、愛染講も組織される。
弁財天社は天川弁財天を勧請したもので、享保9年(1724)修復と開帳が行われる。
小塔院は朱印地も檀家もない小寺院で、その経営には苦労する。江戸中期以降は様々な興行に境内を貸出、糧を得るという。

2007/03/12追加:
○「写真集明治大正昭和奈良」藤井辰三編、国書刊行会、1979 より
・「南都元興寺古伽藍図」:寛政6年乙卯孟夏 丹陽亀山 松山源惟清 改写、御霊神社保存伽藍配置図を写 したものという。
              松岡氏(白山ヶ辻子)蔵、十畳以上の間でないと模写できない大きさというから、相当な大部の図と思われる。
・「南都元興寺古伽藍図2」:小塔院ニ層八角宝塔部分図 (上記部分図)
・明治22年「奈良坊目遺考」:「新元興寺縁起曰小塔院昔ハ宝珠形ニ層八角塔一基安置宝冠虚空蔵菩薩等身坐像一躯并四天王像四躯諸寺雑記云光明皇后御影安置八万四千基小塔故号小塔院・・・」
宝徳3年(1451)に焼失し、その後八角多宝塔は再興されずと思われる。
・「元興寺小塔院本堂」:右の土蔵は個人邸にあり、元興寺小塔院本堂は右の寄棟の建物、五重塔は興福寺と思われる。
・「元興寺小塔院」:東から撮影、正面が本堂(虚空蔵堂)。
  ※なお境内に護命僧正の墓が残る。(但し、後世の供養塔とも思われる。)

2009/03/03追加(五重塔の項に掲載画像を再掲載)
○「大和志料」より
  元興寺古圖1(全図)    元興寺古圖2(全図):左図と同一図、
     下に掲載の「南都元興寺古伽藍図」:寛政6年乙卯孟夏 とほぼ同一の絵図と思われるも、この古圖の「素性」は未調査。
  元興寺古圖(大塔院):部分図:五重大塔・24丈
  元興寺古圖(小塔院):部分 図:ニ層八角宝塔:興福寺勧学院多宝塔、内山永久寺多宝塔と同様の八角多宝塔の建築と思われる。

○2013/02/21撮影:
宝徳3年(1451)土一揆のため、小塔院、金堂など焼失。
元禄10年(1697)愛染堂が建立。(この小堂は昭和23年腐朽崩壊す。)
宝永4年(1707)虚空蔵堂(現存、2間四面、上に掲載の古写真で元は瓦葺であったことが分かる、仮本堂か)が建立。
文化年中(1804)明治維新まで、尼僧によって住持される。
明治維新以降、僧が住持し、山内に庚申を勧請、さらに大峯修験の先達を務めるなど、寺門を護持する。
昭和40年元興寺小塔院跡として史跡指定。
 小塔院虚空蔵堂1     小塔院虚空蔵堂2
 護命僧正供養塔:護命僧正:奈良期から平安初期、小塔院に住す、元興寺法相宗の学僧と云う。
2021/10/11撮影:
 小塔院山門(東門)     小塔院西入口     小塔院本堂(虚空蔵堂):宝永4年(1707)建立という。     小塔院本堂・庫裏
 大峰山上三十三度供養碑     小祠跡(不明)


十輪院

参考文献:
○「南都 十輪院」南都十輪院、飛鳥園、刊行年記載なし
○「大和 地蔵十福」飛鳥園、平成28年(重版)

十輪院は元興寺子院というも、確かなことは不明という。
寺伝では元正天皇(715-724)の勅願で元興寺の一院という。
また、朝野魚養(右大臣吉備真備長男)の開基という。
2021/10/11撮影:
十輪院南門:重文、切妻造・本瓦葺四脚門、鎌倉中期の建築という。
 十輪院南門1     十輪院南門2     十輪院南門3
2021/10/15撮影:
本堂:国宝、本堂後方の石仏龕安置の本尊地蔵菩薩を拝する為の礼堂である。鎌倉前期の建築であり、極めて住宅風な要素を持つ。
軒は南門と同じく垂木を用いず、板軒とする珍しものである。
なお、石仏龕の覆屋(地蔵堂)は慶長18年(1613)の造替と云う。
 十輪院本堂11     十輪院本堂12     十輪院本堂13     十輪院本堂14     十輪院本堂15
 十輪院本堂16     十輪院本堂17     十輪院本堂18     十輪院本堂19     十輪院本堂20     十輪院本堂21
 十輪院客殿
 十輪院十三重石塔1     十輪院十三重石塔2
石仏龕(重文)
 本堂は本尊地蔵菩薩立像(石仏)の礼堂に相当し、本堂(礼堂)の奥に覆屋(地蔵堂)が建ち、花崗岩製の石仏龕がある。
 撮影写真はなし。
旧十輪院宝蔵(重文):東京国立博物館蔵、方1間、宝形造、本瓦葺。鎌倉初期の建築か。
 なお、この宝蔵は明治維新の時寺外に流失し、明治15年東博の所有に帰す。
 旧十輪院宝蔵


十輪院多宝小塔

多宝小塔は十輪院本堂東室に多くの寺宝と共に展示され、いつでも拝観可能である。

2022/01/24追加:
○「南都 十輪院」南都十輪院、飛鳥園、刊行年記載なし より
多宝小塔:木造、高81.3cm。室町期。
当初は初重内部に舎利容器を安置していたものと推定される。屋根は本瓦葺きに擬し、軒組や斗を精工に造る。
初重は3間で、中央間は観音開の板扉である。板扉の内側には梵天・帝釈天・四天王などを描く。
この宝塔と形式や機能面で酷似した三渓園多宝小塔には、宝徳2年(1450)に南都の番匠・絵師・金物師によって造立された旨の銘文があり、おそらく本塔もそうした南都の巧匠によって造立されたものと思われる。
なお、引き出し内部には、奥書に弘安3年(1280)の年紀を有する「後七日供養法次第」が納められているが、この文書と本塔の関係は詳らかではない。
 ◎十輪院多宝小塔     多宝小塔納入聖経

2022/01/31追加:
○「修復トピックス 重要文化財安楽寺多宝小塔の保存修理より判明した建築的特徴」結城啓司 より
十輪院多宝小塔、室町期、全高:81.3cm、下重:3間で中央間が広し、上重:平行垂木、内部に舎利容器を安置したもの
 十輪院多宝小塔2




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