大 和 元 興 寺 五 重 塔 跡 ・ 元 興 寺 極 楽 坊 五 重  小 塔

大和元興寺五重塔・元興寺極楽坊五重小塔・元興寺・極楽坊・小塔院・十輪院

大和元興寺・元興寺極楽坊・元興寺小塔院

2013/03/29追加:
宣化天皇3年(538)・・・元興寺縁起もしくは欽明天皇13年(552)・・・日本書記・・佛教公伝
崇峻天皇元年(588)蘇我馬子、飛鳥(高市郡)に法興寺(飛鳥寺)を創建する。
和銅3年(710)平城京に遷都、養老2年(718)法興寺を飛鳥から平城京に遷寺し、元興寺と改号する。
天平勝宝元年(749)懇田の施入、東大寺4千町歩、元興寺2千町歩、大安寺薬師寺興福寺各々1千町歩、法隆寺四天王寺は5百町歩。
 ◎元興寺伽藍図:平城京での寺地は黒で描かれたとおりである。現在は、赤で描かれた部分のみが残る。
    (真言律宗元興寺<極楽坊>発行リーフレット より)
 即ち、東室南階大房の中央部7房が極楽坊本堂・禅室(国宝建造物)として、五重大塔跡は元興寺五重塔跡(東大塔跡・史跡)として、
 西小塔院跡の一部は小堂(史跡)として僅かに残る。
奈良末期、智光、僧坊の一坊に住す。(後の極楽房)、浄土教の研究に専念し智光曼荼羅を遺す。
永久年中(1113-)禅定院の堂塔、建立さる。
養和元年(1181)禅定院境内に興福寺大乗院が遷る。
寛元元年(1244)僧坊の一部が改造され、智光曼荼羅を拝す極楽堂(本堂・曼荼羅堂)となり、極楽坊が成立する。
応永18年(1411)東大寺西南院から極楽坊東門(重文)が移建される。
宝徳3年(1451)土一揆のため、小塔院、元興寺金堂など焼失。その後金堂は再建されるも文明4年(1472)大風で倒壊。
江戸期には焼け残った大塔院(東塔院)中門と五重大塔を管理する中門堂衆、極楽坊、小塔院(真言律宗、本尊:虚空蔵菩薩)に分離し、その間は民家が密集する。
安政6年(1859)五重大塔及び観音堂炎上。
昭和2年五重塔跡発掘、観音堂(元興寺・華厳宗東大寺末)が復興する。
昭和30年極楽院、元興寺極楽坊の旧称を称す。昭和51年、極楽坊を元興寺に改称す。(真言律宗西大寺末)

2022/05/20撮影:
○奈良市役所展示の平城宮跡復元模型
 →平城宮跡復元模型:平城宮での姿が再現される。


創建以来約1200年奇跡的に存続してきた五重塔は安政6年(1859)焼失する。

大和元興寺五重塔

◆大和名所圖會:寛政3年(1791)刊より

大和名所図絵:下図拡大図


大和名所図絵2:下図拡大図

 


◆南都名所集:延宝3年(1675)版より


南都名所集:上図拡大図

◆加太越奈良道見取絵図:第2巻、寛政年中(1789-1801)編修


加太越奈良道見取絵図 :上図拡大図

町屋に囲まれ、僅かに元興寺五重塔・観音堂が残る様が描かれる。
北方に極楽坊、東に十輪院がある。

 

 

2006/06/03追加:
●「元興寺の歴史」岩城隆利、吉川弘文館、平成11年より
創建以来1200年近く威容を誇った五重大塔は終に安政6年(1859)炎上する。
「毘沙門町より出火、・・・元興寺大塔へ火移り、同寺不残焼失」
「元興寺大塔五重目へ飛火、五重目より焼失、同寺本堂庫裏其外不残焼失」
「一、大塔 6間四方、高サ24丈 本尊薬師如来無恙出ス、四天王各高サ8尺焼失、聖徳太子高サ5尺16歳像焼失、
同塔在ス高サ7尺十一面観音出シ奉ル、其外塔内存ス古霊仏焼失。
一、本堂 東西8間1尺南北7間6尺 本尊十一面観音・・・焼失」
2006/06/03追加:
●奈良名所東山一覧之図
 奈良名所東山一覧之図1:幕末の景観とされる。 全景図の図右下が元興寺。
   同           2:元興寺附近部分図 、作者(岡田春燈斎)も明治維新前に没すると云う。

●和州奈良之繪圖:元治元年(1884)
  元興寺五重塔:部分図、和州奈良之繪圖の中央右端の部分図

2009/03/03追加
●「大和志料」より
  元興寺古圖1(全図)    元興寺古圖2(全図):左図と同一図、
     下に掲載の「南都元興寺古伽藍図」:寛政6年乙卯孟夏 とほぼ同一の絵図と思われるも、この古圖の「素性」は未調査。
  元興寺古圖(大塔院):部分図:五重大塔・24丈
  元興寺古圖(小塔院):部分図:ニ層八角宝塔:興福寺勧学院多宝塔、内山永久寺多宝塔と同様の八角多宝塔の建築と思われる。

2003/7/18追加
元興寺五重塔古図:「古塔撰」より転載

大和元興寺五重塔古図:左図拡大図

石垣:9間2尺四方、柱外法:5間2尺5寸四方(9.65m)
一重目軒:12間2尺8寸
露盤:8尺四方、真木:・・6間2尺(?)、真木:神代木、真木長さ:40間通り木マハリ:1丈5尺
水煙長さ:8尺、輪指渡し:6尺、覆鉢高さ:4尺、指渡し:4尺5寸
壇上ヨリ玉マデ総高さ:24丈(72.7m)

一辺9.65m総高72.7mとなり、超大型塔であったようです。
一辺については塔跡礎石とほぼ合致するようです。
ただし、16丈(48m)という説もある。

正面のみに階段、初重中央間板扉、両脇間連子窓、地覆長押・内法長押を用いたようです。

2006/06/03追加:
  大和元興寺五重塔:左図の塔図のみを抜き出し。

2022/02/07追加:
●「図説 元興寺の歴史と文化財」元興寺文化財研究所、吉川弘文館、2020 より
◇明治の元興寺境内指図:
 明治の元興寺境内指図
慶応4年(1866)明治維新で、元興寺周辺の朱印寺院20ヶ寺は協議の上、元興寺惣代である東大寺宝珠院は大和鎮撫総督府に白銀15枚を献納する。
同年の神仏分離令の発布で、元興寺鎮守御霊社は元興寺の別當を解かれ、奈良府の支配下に入り、元興寺の関与は断絶する。
明治4年上地令で、法華寺村・肘塚村にあった寺領50石は没収され、経済的に困窮する。大火からの復旧は頓挫し、観音堂と塔跡は暫く仮堂のままとなる。

2007/01/31追加:「大和の古塔」より
南都元興寺大塔図
礎石は円柱座を有する。
柱間は中央11尺4寸8分(天平尺12尺)、両脇間10尺5寸2分程(天平尺11尺)、即ち一辺天平尺で34尺を測る。
塔の創建は塔跡から出土した「神功開宝」から、この銭の鋳造年である天平神護元年以降であろう。
その後の沿革は不詳であるが、承暦元年(1077)「永算造元興寺塔」永算によって造替されたと思われる。
貞永元年(1232)雷火を受けるも、焼失は免れる。
しかしその後の修営(寛元2年・1244)では大幅な造替が行われたと思われる。
その後は再三小修理が行われ維持されるも、安政に至り根本修理が実施される。
軸部の修理を経て杉皮土居の葺立中、附近の民家から発火した火事が五重目の屋根につき、全焼する。
北室町(元興寺北辺)の油屋嘉七の日記
 ・「出火之事 安政6未年2月27日夜八ッ頃より元興寺出火有之候所、火出しは毘沙門町塔之下下駄屋より火出しニ御座候、毘沙門町西側不残芝突抜是も不残焼 誠ニ大塔焼候事ハ見事之事ニ御座候、其時初メハ未申風ニテ元興寺町方ハ六ツケ敷候、又風かわり戌亥風ニ相成候、魚善江参り候得共呼ニ参候内江戻り候得者鍋長西布御出被下候間、阿ら方御方付被下候、夫より蔵江詰候残りたたみ又ハにわ廻りえもの斗々致置皆々様御蔭を以私方も相のかれ候事」
 ・「御祝儀納帳」(北東辺の鵲町金銭出納帳)
「安政6未巳年2月28日夜九ツ半時、毘沙門町植木屋重助方より出火ニ付尤風者無之候得共、それより元興寺江火移り同寺不残焼失 ・・・・・・」
 上層に引火したため、これを実見した古老の談話では丁度蝋燭が燃えるようであったという。

附近からの出火のとき、塔の修理中であったため、可燃性の野地がむき出しであったことが不幸であったが、修理中の故に塔の詳細な明細が残されている。
(仕様書として「元興寺塔寸法覚」「五重塔御修理仕様覚」「塔木引覚」が東京帝室博物館に、図が奈良県庁に残る。)

○奈良県蔵、南門太夫吉:「古図にみる日本の建築」 より
 南都元興寺弐拾歩一図:左図拡大図
     
塔は石壇上に建ち、高さ16丈程、基本的に和様を用い、斗栱は三手先、ニ軒、各重中央間は板扉、両脇間は連子窓とする。
斗栱の肘木に笹繰があり(唐様)、また軒に端隠板があり(天竺様)、若干新様式の取り入れも見られる。

「寸法覚」「仕様覚」「木引覚」による元興寺塔規模
基壇:  一辺長57尺(17,27m)、高さ3尺(0.91m)
初重:全3間32.9尺(9.97m)、中央間11.5尺(3.48m)、両脇間10.7尺(3.24m)
                    柱長−−−−−−−−、柱径2.5尺(0.76m)
二重:全3間29.4尺(8.91m)、中央間10.4尺(3.15m)、両脇間9・50尺(2.88m)
    縁出 5.5尺(1.67m)、柱長4.6尺(1.39m)、柱径2.3尺(0.70m)
三重:全3間26.2尺(7.94m)、中央間9.0尺(2.73m)、両脇間8.6尺(2.61m)
    縁出 5.5尺(1.67m)、柱長4.26尺(1.29m)、柱径2.0尺(0.61m)
四重:全3間22.9尺(6.94m)、中央間7.9尺(2.29m)、両脇間7.5尺(2.27m)
    縁出 4.5尺(1.36m)、柱長3.95尺(1.20m)、柱径2.0尺(0.61m)
五重:3間20.0尺(6.06m)、中央間7.0尺(2.12m)、両脇間6.5尺(1.97m)
    縁出 3.6尺(1.09m)、柱長3.13尺(0.95m)、柱径1.9尺(0.58m)
※「仕様覚」では初重寸法は以下の記録となる。(初重以外は同一)
 全3間32.6尺(9.89m)、中央間11.6尺(3.51m)、両脇間10.5尺(3.18m)

2022/02/07追加:
●「図説 元興寺の歴史と文化財」元興寺文化財研究所、吉川弘文館、2020 より
 南都五重大塔二十分之一図:奈良県文化財保存事務所:上図と同一図

○元興寺塔舎利:
舎利は宝珠にあったらしく、焼失前の修理調査で記録が残る。(元興寺町奥中存三郎氏所蔵記録)
「天保14年・・五重目迄足場カゝリ又天保15年・・・足場かゝり屋根の上下九輪迄足場掛・・・・
九輪の玉二ツ有、此の間に結構な物があり御経が塔婆に書きてあり御舎利様もあり結構たらけ経書きてあり、・・・・」

○近世の塔内安置仏:
大和名所圖會などでは大日如来を安置とする。
 ・「御祝儀納帳」(北東辺の鵲町金銭出納帳)では、各焼失物件の搬出物を挙げている。
「1.大塔(6間四方高さ24丈)
  本尊薬師如来右ハ無恙出ス 
  四隔四五各高さ8尺 右四体共焼失 聖徳太子高さ5尺16才之 尊像焼失
  同塔在ス高さ7尺 十一面観世音出シ奉流・・・」

2022/02/07追加:
●「図説 元興寺の歴史と文化財」元興寺文化財研究所、吉川弘文館、2020 より
元興寺境内絵図:2020年調査で見いだされる。
安政6年(1859)に焼失する前の五重塔・観音堂が描かる図である。
塔・金堂とも屋根の破損が描かれる。

 元興寺境内絵図:左図拡大図

2022/02/07追加:
●「日本仏教はじまりの寺 元興寺」元興寺文化財研究所、吉川弘文館、2020 より
幕末の奈良:奈良名所東山一覧之図
 奈良名所東山一覧之図:岡田春燈斎、下方向かって右に猿沢の池を挟み、興福寺五重塔と元興寺五重塔が並び立つ様が描かれる。

2022/02/08追加:
2021/10/15「奈良まちづくりセンター」の清水和彦氏に奈良町などご案内頂頂く。
その折、元興寺五重塔の資料として、次の「論攷」の提供を受く。
下記に記して、謝意を表する。
ご提供文献:
安政6年の元興寺五重塔焼失の状況については次の論文に詳しい。
○「元興寺塔婆の焼失に就いて」太田静六(「建築世界」大32號3号、昭和13年3月 所収)

元興寺塔婆復原を試みたのが次の論文である。
○「元興寺塔婆復原考」太田静六(「建築学大会論文集」昭和14年4月
元興寺塔復元にあたって、根源とした資料は現在東京帝室博物館蔵に帰している「元興寺観音堂及塔積書」である。
この資料の年紀は不明であるが、江戸中期以降、元興寺塔修復は屡々企図され、現に安政6年の焼失の時も塔は修復中であったので、凡その年紀は推測できるであろう。
詳細は本論文を参照頂くとして、元興寺塔の総高については、従来24丈という説が主流であったが、16丈という事を結論づける。
総高を復原するにあたって、「元興寺観音堂及塔積書」では相輪長についての記載がないが、各重の詳細な復原および現存五重塔のとの比較検討から、元興寺塔は世に流布している24丈(73m)
ではなく、16丈(48m)であると結論づける。
この16丈は興福寺創建塔の総高と近似した値である。
なお、本塔については24丈説のみ有名であったが、16丈説も存在したのである。
例えば、「東大寺伽藍略録」中の末寺元興寺の条に「塔一基五間四面十六丈」とあり、また、元興寺蔵の江戸期の図面にも「塔 高十六丈 五間四面」と書かれたものが少なくとも2通ある。



元興寺五重塔跡

現在市街地の中に巨大な塔跡が現存する。日本の五重塔の中で最大の平面を持つとされる。
宝徳3年(1451)の土一揆で主要伽藍を失い、安政6年(1859)最後に残っていた塔・観音堂が焼け落ちる。
以後、元興寺には復興の力は無く、付近に残る元興寺極楽坊・十輪院・小塔院跡等で、かっての寺盛を偲ぶしかない。
 なお長い間、元興寺塔雛型といわれていた五重小塔(国宝)が極楽坊に現存する。
  ※但し現在では、この小塔は元興寺塔雛形ではないと云われる。下の「極楽五重小塔」の項を参照。
前身は飛鳥寺。塔の高さは73m(24丈)と伝えられる。

○「日本の木造塔跡」:塔跡は後世の壇上積基壇と心礎と四天柱礎の1ヶを除く全礎石が完存する。
心礎の大きさは2.0×1.88m、径1.14mの柱座があり、その中央に径30cmの出枘を持つ。塔の一辺は9.85mとされる。

2006/06/03追加:
○「元興寺の歴史」岩城隆利、吉川弘文館、平成11年 より
 元興寺大塔礎石配置図

2000/8/18撮影:
 元興寺塔跡0
2002/7/28撮影:
 元興寺塔跡1      元興寺塔跡跡2     元興寺塔跡跡3     元興寺塔跡4
 元興寺塔心礎1      元興寺塔心礎2
2006/06/17撮影:雨中・傘なし、十分な撮影は出来ず。
 元興寺塔心礎1     元興寺塔心礎2     元興寺塔礎石1     元興寺塔礎石2     元興寺塔礎石3
2013/02/21撮影:
 元興寺塔基壇1     元興寺塔基壇2     元興寺塔基壇3     元興寺塔基壇4
 元興寺塔跡11      元興寺塔跡12      元興寺塔跡13      元興寺塔跡14     元興寺塔跡15
 元興寺塔跡16      元興寺塔跡17      元興寺塔跡18      元興寺塔跡19     元興寺塔跡20
 元興寺塔跡21      元興寺塔跡22      元興寺塔跡23
 元興寺心礎11      元興寺心礎12      元興寺心礎13      元興寺心礎14     元興寺心礎15
 元興寺心礎16      元興寺心礎17      元興寺心礎18
2021/10/11撮影:
 元興寺塔跡24      元興寺塔跡25      元興寺塔跡26      元興寺塔跡27     元興寺塔跡28
2021/10/15撮影:
 元興寺塔跡31      元興寺塔跡32      元興寺塔跡33      元興寺塔跡34     元興寺塔跡35

2006/06/03追加:
元興寺略歴
○「元興寺の歴史」岩城隆利、吉川弘文館、平成11年 より
  小五月郷図写」 :治承4年(1180)平重衡の南都焼討ち後(元興寺本寺は大きな被災は無かったとされる。)
    の様子と思われます。
※寺門郷、大乗院郷のうちの小郷で、小五月会の費用を負担する郷を小五月郷という場合があった、
宝徳3年(1451)土一揆により、大きな罹災の無かった元興寺が炎上する。
「南都元興寺金堂弥勒炎上・・・」
「大乗院殿門跡炎上・・・」
「自小塔院火出、元興寺金堂悉以炎上了、・・・余災、当坊禅定院炎上了・・・・」
   興福寺濫觴記:「禅定院 本願権少僧都成源、元興寺別院也、宝徳3年・・焼失、丈六堂本尊弥勒、
   天竺堂本尊釈迦(炎上・・今福智院之有)、多宝塔阿弥陀(炎上・・今極楽坊之有)・・・」
   大乗院門跡の本拠であった禅定院は翌年から復旧に取りかかる。
   文明15年(1483)の禅定院伽藍は以下のようであった。
   丈六堂はニ重閣で本尊阿弥陀如来、天竺堂本尊は釈迦如来は福智院にあり、
   八角多宝塔本尊阿弥陀如来は極楽坊に移されたまま、釈迦堂、弥勒堂、観音堂がある。
    元興寺禅定院・興福寺大乗院・中院については「興福寺大乗院など」の項を参照。
元興寺伽藍は中世の後期に入っても金堂復興は進展せず、当時の残存する主要伽藍としては南大門、中門、五重大塔、観音堂、吉祥堂、小塔院、極楽坊であったと思われる。

近世の朱印地;極楽坊(大和西大寺末)100石、元興寺50石と云う。

創建以来1200年近く威容を誇った五重大塔は終に安政6年(1859)炎上する。
「毘沙門町より出火、・・・元興寺大塔へ火移り、同寺不残焼失」云々

元興寺現況

2021/10/11撮影:
 元興寺山門
2013/02/21撮影:
 元興寺本堂:(観音堂?、仮堂のままか?)      元興寺鐘楼     元興寺庫裏
なお、かの高名な国宝・薬師如来立像(平安初期)を蔵する。
2021/10/11撮影:
 元興寺庫裡2
2021/10/15撮影:
 元興寺本堂2     元興寺本堂3:観音堂
観音堂(本堂・仮堂/昭和5年再建)廻りには多くの枘孔を有する礎石が散在する。
本礎石が観音堂礎石とすれば、焼失した観音堂は今の仮堂より一回り大きかったものと推察される。
 観音堂礎石11     観音堂礎石12     観音堂礎石13     観音堂礎石14     観音堂礎石15
 観音堂礎石16     観音堂礎石17     観音堂礎石18     観音堂礎石19     観音堂礎石20
 観音堂礎石21
 元興寺鐘楼2
啼燈籠:正嘉元年(1257)の刻銘があり、年代が記されたものとしては奈良市内で2番目に古い石燈籠という。
そしてこの燈籠は昭和初期に倒壊しかなり破損するも、2010年に再び元の形に修復されという。
啼燈籠とは次のような伝承に基ずくものである。(下記は現地説明板より転載)
 延慶年間今の大丸呉服店その頃京の伏見に下村家あり
 代りの燈籠を奉納して古燈籠を申請して自宅に運ぶ
 爾来夜毎家鳴き振動して発したれば元の如く此所に安置したると伝ふ
 元興寺啼燈籠1     元興寺啼燈籠2     元興寺啼燈籠3     元興寺啼燈籠4

●奈良町資料館
いわゆる奈良町に「奈良町資料館」がある。
この地は元興寺金堂が建っていた一画という。
金堂は宝徳3年(1451)に炎上するとの案内がある。
本資料館には「吉祥堂」の扁額を掲げる。
以下は本資料館に展示される遺品である。
2021/10/11撮影:
 展示元興寺礎石     展示元興寺瓦
 展示旧吉祥堂大日如来:小塔院は吉祥堂と称するから小塔院由来のものであろうか。
 本尊青面金剛:本吉祥堂あるいは庚申堂の本尊であろうか。
●奈良町物語館
この地も元興寺金堂が建っていた一画という。その建屋の床下及び裏庭に金堂礎石が遺存する。
2021/10/15撮影:
 元興寺金堂礎石1-1     元興寺金堂礎石1-2
 元興寺金堂礎石2-1     元興寺金堂礎石2-2     元興寺金堂礎石2-3
●奈良町史料保存館
この地も元興寺旧境内地であった。
この地中新屋町29より昭和56年出土し、鐘楼礎石と推定される礎石が保存・展示される。
2021/10/15撮影:
 元興寺推定鐘楼礎石

◆元興寺御霊社
桓武天皇は平安京に遷都するも、疫病が流行し、その原因は怨霊であるとする。
その怨霊を鎮めるため、桓武天皇は、旧都である平城京の3つの入り口である、上つ道には早良親王を祀る崇道天皇社、下つ道には他戸親王を祀る他戸御霊社、そして中つ道には井上皇后を祀る井上御霊社を造営する。
 ※延暦19年(800)大和国宇智郡(五条)霊安寺・御霊大明神から井上皇后の御霊を勧請するとも云われる。
その井上御霊社が元興寺鎮守の由来である。
古は元興寺南大門前に鎮座する。(元地と思われる奈良井上町に井上神社<小祠>が現存する。)
宝徳3年(1451)の土一揆による元興寺焼き討ちの火災のため井上御霊社も炎上、後に現在の地(元興寺南側)に遷される。
以降、元興寺の鎮守として現在に至る。
2021/10/15撮影:
 元興寺御霊社本殿1     元興寺御霊社本殿2     元興寺御霊社本殿3
切妻造・妻入、正面に片流れの庇(向拝)を付した典型な春日造である。
なお、当日奈良町などご案内頂いた「奈良まちづくりセンター」の清水和彦氏から次のご教示を得る。
御霊社本殿は興福寺春日明神の式年造替により春日明神本殿を移築した「春日移し」の建築であると。


元興寺極楽坊五重小塔(天平・国宝)

元興寺西小塔院に安置として伝来し、現在は元興寺極楽坊(本堂・禅室は国宝)に伝えられる。(注1)
屋内塔婆であるが、本格建築であるとされる。総高5m60cm。
元興寺五重塔の雛型<10/1>と云われている。(注2)
 (注1)江戸期には極楽坊本堂の床と天井を外した1間に安置されていたが、それ以前はどこにあったのかは不明とされる。
伝承では西小塔堂本尊つまり西塔そのものであったと伝えられる。
 (注2)現在では、下記の理由から元興寺五重塔の雛形ではありえず、国分寺塔などの標準規格として作成されたものと考えられている。
安政の古図(創建時の五重塔が安政期まで伝えられたとされる)とは様式手法にかなりの相違があり、また寸法にも相違があり、元興寺塔の雛形とは思われない。但 し、この小塔は内部構造も忠実に造られていて、その意味で建築雛形であることの否定はできない。

この小塔は奈良期の造作とされる。
古代小塔の作例として大和海龍王寺に五重小塔(高さ4.6m)が残るが、海龍王寺小塔のほうが若干時代的には先行(天平初期)するといわれる。
但し、海龍王寺小塔は箱物に組物を貼り付けた工芸品的な要素があるとされるのに対し、元興寺塔は本格建築の造作であるとされる。
  →海龍王寺小塔

2013/03/29追加:
 元興寺五重小塔2:スキャン画像2:極楽坊販売写真よりスキャン

元興寺五重小塔:スキャン画像 (左図とは別のものである)



2006/06/03追加:
○「元興寺の歴史」岩城隆利、吉川弘文館、平成11年 より
 元興寺五重小塔構造図

○「大和の古塔」
初重全3間3尺2寸5分、中央間1尺0寸7分、両脇間1尺0寸9分
二重全3間2尺9寸7分、中央間9寸7分、両脇間1尺
三重全3間2尺6寸7分、中央間8寸7分、両脇間9寸
四重全3間2尺3寸5分、中央間7寸7分、両脇間7寸9分
五重全3間2尺1寸、中央間7寸、両脇間7寸、相輪長7尺2寸、全高18尺5寸

2007/02/17追加:
○「日本建築史基礎資料集成・塔婆T」
奈良期末期に製作され、平安・鎌倉・天和3年(1683)・明治31年、昭和25年に修理、さらに昭和42・43年に解体修理がなされる。
  五重小塔修理前全景  五重小塔立面・断面図


2022/01/24追加:
○「大和古寺大観 第3巻 極楽坊・元興寺・大安寺・般若寺・十輪院」岩波書店、1977 より
 極楽坊五重小塔          極楽坊五重小塔細部
 極楽坊五重小塔立断面図     極楽坊五重小塔平面図

2013/02/21撮影:
 元興寺五重小塔11:左図拡大図
 元興寺五重小塔12
 元興寺五重小塔13
 元興寺五重小塔14
 元興寺五重小塔15
 元興寺五重小塔16
 元興寺五重小塔17


2021/10/15撮影:
 極楽坊五重小塔21
 極楽坊五重小塔22
 極楽坊五重小塔23
 極楽坊五重小塔24
 極楽坊五重小塔25

2022/02/07追加:
●「図説 元興寺の歴史と文化財」元興寺文化財研究所、吉川弘文館、2020 より
◇平城極楽院坊舎境内絵図:
 平城極楽院坊舎境内絵図
江戸期、製作年は不詳、文久3年(1863)の補修銘がある。南に元興寺塔・観音堂が描かれるので、その焼失以前の製作であろう。
境内には本堂(極楽堂)・禅室のほか、禅室北には小子房(現在は南に移建)があり、本堂東には太子堂と鐘楼(何れも明治になって退転)が描かれる。北側に接するのは光傳寺である。
なお、法興寺の後身である元興寺では太子信仰も盛んであったと思われる。応永年中(1394-1428)に太子堂が建立され、太子二歳像(鎌倉期・県文)、孝養像(文永5年/1268・重文)が伝えられる。

●元興寺極楽坊現況

無印は2013/02/21撮影、○印は2021/10/15撮影:
東門:重文、応永18年(1411)東大寺西南院から移建される。鎌倉もしくは室町期の建築であろう。
 極楽坊東門     ○極楽坊東門2
北門
 ○極楽坊北門
本堂(極楽堂・曼荼羅堂)/禅室:国宝、奈良期の僧坊の遺構である。4棟建てられた僧坊の一つ東室南階大房の一部である。
 上掲載の元興寺伽藍図で示すように 本堂は3房分、禅室は4房分で構成される。
  当初は東西各6房で計12房を有する長さ88mの僧坊であった。
 極楽坊本堂・禅室11    極楽坊本堂・禅室12    極楽坊本堂・禅室13    極楽坊本堂・禅室14    極楽坊本堂・禅室15
 極楽坊本堂・禅室16    極楽坊本堂・禅室17    極楽坊本堂・禅室18    極楽坊本堂・禅室19    極楽坊本堂・禅室20
 極楽坊本堂・禅室21    極楽坊本堂・禅室22    極楽坊本堂・禅室23    極楽坊本堂・禅室24    極楽坊本堂・禅室25
 極楽坊本堂・禅室26    極楽坊本堂・禅室27
 ○極楽坊本堂・禅室
 ○極楽坊本堂11     ○極楽坊本堂12     ○極楽坊本堂13     ○極楽坊本堂14     ○極楽坊本堂15
 ○極楽坊本堂16     ○極楽坊本堂17     ○極楽坊本堂18     ○極楽坊本堂19     ○極楽坊本堂20
 ○極楽坊本堂21     ○極楽坊本堂22     ○極楽坊本堂23     ○極楽坊本堂24     ○極楽坊本堂25
 ○極楽坊本堂26     ○極楽坊本堂27     ○極楽坊禅室11
 ○極楽坊禅室12     ○極楽坊禅室13     ○極楽坊禅室14     ○極楽坊禅室15
小子房:極楽院旧庫裏。禅室に北側にあった。寛文3年(1663)現在の姿に改築され極楽院庫裏となる。昭和40年現在地に移建。
平成6年西側に茶室(泰楽軒)を増築する。
  極楽坊小子房      ○極楽坊小子房
元興寺講堂礎石:推定、平成10年元興寺西側中新屋町(推定講堂址)で発掘される。大きさは1.5m×1.6m、径90cmの柱座がある。
 現地説明板(多少意味不明の部分がある):長さ1.2〜1.5m、巾1.2〜1.6m、径1.2m高さ70〜90cmの柱座を造り出す。
 元興寺講堂礎石
 ○推定講堂礎石2     ○推定講堂礎石3
木造阿弥陀如来坐像:近年まで本堂厨子内に安置、半丈六像である。
 「大乗院院寺社」によれば、宝徳3年(1451)元興寺禅定院の八角多宝塔が炎上し、本尊阿弥陀如来坐像を極楽坊道場に移したことが記されている。この像がこれにあたると思われる。
 ○木造阿弥陀如来坐像1     ○木造阿弥陀如来坐像2


元興寺小塔院:2007/03/12作成:元興寺小塔院跡は「史跡」

2022/02/07追加:
●「図説 元興寺の歴史と文化財」元興寺文化財研究所、吉川弘文館、2020 より
◇小塔院境内図:
 小塔院境内図
寛永10年(1633)大和西大寺末となる。
境内には虚空蔵堂・愛染堂・弁財天社・地蔵堂などがあった。
虚空蔵堂は宝永3年(1706)頃造立され、慶長10年(1605)造立の虚空蔵菩薩が安置される。
愛染堂には聖徳太子自作という愛染明王が安置され、元禄10年(1697)には修復勧進が行われ、愛染講も組織される。
弁財天社は天川弁財天を勧請したもので、享保9年(1724)修復と開帳が行われる。
小塔院は朱印地も檀家もない小寺院で、その経営には苦労する。江戸中期以降は様々な興行に境内を貸出、糧を得るという。

2007/03/12追加:
○「写真集明治大正昭和奈良」藤井辰三編、国書刊行会、1979 より
・「南都元興寺古伽藍図」:寛政6年乙卯孟夏 丹陽亀山 松山源惟清 改写、御霊神社保存伽藍配置図を写 したものという。
              松岡氏(白山ヶ辻子)蔵、十畳以上の間でないと模写できない大きさというから、相当な大部の図と思われる。
・「南都元興寺古伽藍図2」:小塔院ニ層八角宝塔部分図 (上記部分図)
・明治22年「奈良坊目遺考」:「新元興寺縁起曰小塔院昔ハ宝珠形ニ層八角塔一基安置宝冠虚空蔵菩薩等身坐像一躯并四天王像四躯諸寺雑記云光明皇后御影安置八万四千基小塔故号小塔院・・・」
宝徳3年(1451)に焼失し、その後八角多宝塔は再興されずと思われる。
・「元興寺小塔院本堂」:右の土蔵は個人邸にあり、元興寺小塔院本堂は右の寄棟の建物、五重塔は興福寺と思われる。
・「元興寺小塔院」:東から撮影、正面が本堂(虚空蔵堂)。
  ※なお境内に護命僧正の墓が残る。(但し、後世の供養塔とも思われる。)

2009/03/03追加(五重塔の項に掲載画像を再掲載)
○「大和志料」より
  元興寺古圖1(全図)    元興寺古圖2(全図):左図と同一図、
     下に掲載の「南都元興寺古伽藍図」:寛政6年乙卯孟夏 とほぼ同一の絵図と思われるも、この古圖の「素性」は未調査。
  元興寺古圖(大塔院):部分図:五重大塔・24丈
  元興寺古圖(小塔院):部分 図:ニ層八角宝塔:興福寺勧学院多宝塔、内山永久寺多宝塔と同様の八角多宝塔の建築と思われる。

○2013/02/21撮影:
宝徳3年(1451)土一揆のため、小塔院、金堂など焼失。
元禄10年(1697)愛染堂が建立。(この小堂は昭和23年腐朽崩壊す。)
宝永4年(1707)虚空蔵堂(現存、2間四面、上に掲載の古写真で元は瓦葺であったことが分かる、仮本堂か)が建立。
文化年中(1804)明治維新まで、尼僧によって住持される。
明治維新以降、僧が住持し、山内に庚申を勧請、さらに大峯修験の先達を務めるなど、寺門を護持する。
昭和40年元興寺小塔院跡として史跡指定。
 小塔院虚空蔵堂1     小塔院虚空蔵堂2
 護命僧正供養塔:護命僧正:奈良期から平安初期、小塔院に住す、元興寺法相宗の学僧と云う。
2021/10/11撮影:
 小塔院山門(東門)     小塔院西入口     小塔院本堂(虚空蔵堂):宝永4年(1707)建立という。     小塔院本堂・庫裏
 大峰山上三十三度供養碑     小祠跡(不明)


十輪院

参考文献:
○「南都 十輪院」南都十輪院、飛鳥園、刊行年記載なし
○「大和 地蔵十福」飛鳥園、平成28年(重版)

十輪院は元興寺子院というも、確かなことは不明という。
寺伝では元正天皇(715-724)の勅願で元興寺の一院という。
また、朝野魚養(右大臣吉備真備長男)の開基という。
2021/10/11撮影:
十輪院南門:重文、切妻造・本瓦葺四脚門、鎌倉中期の建築という。
 十輪院南門1     十輪院南門2     十輪院南門3
2021/10/15撮影:
本堂:国宝、本堂後方の石仏龕安置の本尊地蔵菩薩を拝する為の礼堂である。鎌倉前期の建築であり、極めて住宅風な要素を持つ。
軒は南門と同じく垂木を用いず、板軒とする珍しものである。
なお、石仏龕の覆屋(地蔵堂)は慶長18年(1613)の造替と云う。
 十輪院本堂11     十輪院本堂12     十輪院本堂13     十輪院本堂14     十輪院本堂15
 十輪院本堂16     十輪院本堂17     十輪院本堂18     十輪院本堂19     十輪院本堂20     十輪院本堂21
 十輪院客殿
 十輪院十三重石塔1     十輪院十三重石塔2
石仏龕(重文)
 本堂は本尊地蔵菩薩立像(石仏)の礼堂に相当し、本堂(礼堂)の奥に覆屋(地蔵堂)が建ち、花崗岩製の石仏龕がある。
 撮影写真はなし。
旧十輪院宝蔵(重文):東京国立博物館蔵、方1間、宝形造、本瓦葺。鎌倉初期の建築か。
 なお、この宝蔵は明治維新の時寺外に流失し、明治15年東博の所有に帰す。
 旧十輪院宝蔵


十輪院多宝小塔

多宝小塔は十輪院本堂東室に多くの寺宝と共に展示され、いつでも拝観可能である。

2022/01/24追加:
○「南都 十輪院」南都十輪院、飛鳥園、刊行年記載なし より
多宝小塔:木造、高81.3cm。室町期。
当初は初重内部に舎利容器を安置していたものと推定される。屋根は本瓦葺きに擬し、軒組や斗を精工に造る。
初重は3間で、中央間は観音開の板扉である。板扉の内側には梵天・帝釈天・四天王などを描く。
この宝塔と形式や機能面で酷似した三渓園多宝小塔には、宝徳2年(1450)に南都の番匠・絵師・金物師によって造立された旨の銘文があり、おそらく本塔もそうした南都の巧匠によって造立されたものと思われる。
なお、引き出し内部には、奥書に弘安3年(1280)の年紀を有する「後七日供養法次第」が納められているが、この文書と本塔の関係は詳らかではない。
 ◎十輪院多宝小塔     多宝小塔納入聖経

2022/01/31追加:
○「修復トピックス 重要文化財安楽寺多宝小塔の保存修理より判明した建築的特徴」結城啓司 より
十輪院多宝小塔、室町期、全高:81.3cm、下重:3間で中央間が広し、上重:平行垂木、内部に舎利容器を安置したもの
 十輪院多宝小塔2




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