筑 前 安 楽 寺 天 満 宮

筑紫安楽寺天満宮(天満宮安楽寺)

安楽寺天満宮略歴

延喜元年(901)右大臣菅原道真大宰権帥に左遷。(実質は流罪、太宰府南館に謫居)
延喜3年(903)道真、大宰府にて没す(59歳)。
延喜5年(905)味酒(うまざけ)安行、菅原道真の祠廟を建つ。即ち安楽寺天満宮が創建される。(「安楽寺草創日記」)
 ※道真遺言に「私の亡骸は牛の車に乗せ、人に引かせずに、その牛の行くところに止めよ。」との文言があり、遺言のとおり、
  牛が止まったところに道真を葬り、その上に社殿を建てたのが安楽寺の創草であるとされる。
延喜8年(908)藤原時平急死(道真を讒言し筑紫に追放した人物)。雷鳴、日食、地震などすべてが、道真の怨霊のしわざと噂される。
 (道真の死後、京都には異変が頻発する。)
延喜19年(919)安楽寺天満宮社殿造営(藤原仲平奉行)。
 ※土佐に配流されていた道真嫡男菅原高視は、道真逝去の知らせにおyり、筑紫安楽寺倣い、土佐潮江に安楽寺(現在の潮江天満宮)を
 建立する。安楽寺はその後幾多の変遷があるも、現存する。 →土佐安楽寺
延長元年(923)保明親王や慶頼王らが相次いで死亡。道真の怨霊とされる。
 道真は右大臣に復され、正二位を追贈。左遷詔書焼却する。なおこの年筥崎八幡宮創建される。
 ※この頃から安楽寺天満宮は隆盛に向かい、寺勢は観世音寺をはるかに凌ぎ、荘園の寄進が相次ぐ。
  安楽寺は筑前博多庄、酒殿庄、大浦寺庄、肥前唐津庄など40におよぶ荘園を経営するまでになる。
天暦元年(947)道真孫・僧平忠、安楽寺別当に補任。
永観2年(984)大宰大弐菅原輔正(道真曾孫)常行堂、宝搭院、中門廊、回廊を建立。
その後道真には左大臣正一位、さらに太政大臣が追贈される。
治安3年(1023)藤原惟憲、道真配所跡に道真追善の浄妙院(現榎社)を建立。

明治維新の神仏分離の処置で、天満宮周辺に住む多くの社僧は復飾・還俗や財産処分などを余儀なくされる。
講堂、仁王門、本願寺、法華堂などの建物や多くの仏像などは売却あるいは破壊され、安楽寺は廃寺となる。
「古老の話によれば、仏教的色彩のあるものは一週間で焼き捨てられた」と云う状況であったと伝える。

安楽寺天満宮の塔婆
  :2011/01/21追加:
古記録(「安楽寺草創日記」室町期写・・下掲)、古図(天満宮境内古図・・下掲)、各種の古絵図(下項に掲載)などによれば、以下の塔婆があったと知れる。
 

1)宝塔:多宝塔

 

宝塔院、円融院御願、永観2年(984)建立:「古図」では薬師如来
 天満宮境内絵図4(部分図):本殿東南にあり、
当図では下重平面3間、上重平面円形の多宝塔に描かれる。

◇円融天皇:第64代天皇、天徳3年(959) - 正暦2年(991);
  在位は安和2年(969) - 永観2年(984)。
 村上天皇第五皇子、母右大臣藤原師輔の娘、中宮安子。中宮は関白藤原兼通の娘媓子、
 後に関白藤原頼忠の娘遵子、女御は藤原兼家の次女詮子で、
 懐仁親王(後の一条天皇)が皇子である。

2)御願塔院:多宝塔
 

号西御塔、白河院御願、本尊釈迦・多宝・普賢・文殊・二天、
永宝(保)2年(1082)帥権中納言藤原資仲建立
 「古図」では西塔・多宝仏とある。
 天満宮境内絵図4(部分図):本殿南西方向・遍知院東にあり、
絵図には全貌がえがれず、形は不明確であるが、多宝塔とある。

◇白河天皇:第72代天皇、天喜元年(1053) - 大治4年(1129)、
  在位:延久4年(1073) - 応徳3年(1087)。
◇藤原資仲治安元年(1021)-寛治元年(1087)。
  藤原資平の次男。権中納言、正二位。のち大宰権帥となる。

3)新三重塔
 

本尊釈迦・多宝・普賢・文殊、七条女院(高倉後宮・藤原殖子)御願、建久元年(1190)建立
 天満宮境内絵図4(部分図):西御塔(多宝塔)南にある。「古図」には三重塔とある。

◇七条女院:保元2年(1157) - 安貞2年(1228)、高倉天皇の典侍。坊門殖子。
守貞親王(後高倉院)、後鳥羽天皇の生母。
 父は従三位藤原(坊門)信隆。建久元年(1190)従三位・准三后、その後立后を経ず女院となり、七条院と呼ばれる。
 元久2年(1205年)出家。所領は七条院領と云われる。


4)五重塔

 
5)九重塔
 

「安楽寺草創日記」に見えず。
「古図」には五重塔とある。
左記と下の情報のみで、
創建年などは不詳。
 天満宮境内絵図4(部分図):
仁王門を入り左手すぐに
五重塔が描かれる。
「安楽寺草創日記」に見えず。
「古図」には花園九重塔・千手観音とある。
花園九重塔とは花園院御願であろう。
従って、九重塔は鎌倉末期の創建と推定される。
 天満宮境内絵図4(部分図):本殿石鳥居東に描かれる。

◇花園天皇:第95代天皇、
永仁5年(1297) - 貞和4年/正平3年(1348)、
在位:延慶元年(1308)- 文保2年(1318)


6)相輪橖

 

「安楽寺草創日記」に見えず。「古図」にも見えず。
 天満宮境内絵図4(部分図):1)宝塔の南東すぐに描かれる。

相輪橖は貞和2年(1802)に建立、文政年中(おそらく文政11年<1826>)に大風で倒壊、
弘化4年(1847)に再建される。

 ※現存する相輪橖はその銘から弘化4年(1847)の再興である。

7)本地多宝塔

:2011/01/28修正:

「安楽寺草創日記」・「古図」の古記録に見えないが、
天満宮境内絵図4の推定近世初頭の絵図には、不明確ではあるが、描かれていると思われるため、中世後期もしくは近世初期に創建されたと推定される。
一方、元禄4年道明寺天満宮蔵絵図では明確にこの塔が描かれ、以降の江戸後期の各種絵図には必ず描かれる。

この本地多宝塔の形式であるが、それは八角であったと推定される。
 ◇天満宮景臺絵図1(部分):中島には多角形の多宝塔が描かれる。

なお、紀行文「筑紫紀行」尾張菱屋平八、享和2年中(1802)・・・下掲・・・では、
「御池の中に島ありて志賀大明紳の御社あり。御社の前後に四間計の反橋かゝれり。ともに唐金の擬寳珠をつけたる。又南方の中島には、二重の塔あり。塔ノ内に親世昔を安置す。 」とあり、この二重ノ塔はこの本地多宝塔を指す。
但し、この「筑紫紀行」に挿入された絵図「筑紫國太宰府天神社之圖」では多角形に描かれず、この意味ではこの本地多宝塔が平面八角形であったと断定することはできない。

資料がないので、断定はできないが、この多宝塔は明治維新まで存続したものと推定される。


8)本殿楼門内多宝塔


:2011/01/28修正:

天満宮景臺絵図1(部分):本殿楼門を入りすぐ西に多角形の多宝塔が描かれる。
下重は扉や壁が無く、吹き放しの構造のようにも見える。

なお、紀行文「筑紫紀行」尾張菱屋平八、享和2年中(1802)・・・下掲・・・では、
「(飛梅は)生木なからに香梅殿と崇めて末社に祀り奉りたりといへり。
此所よりやゝ東の方に八角の二重の塔あり。径り一間計もあるべし。銅瓦にて葺て、木はすべて欅なり。内に唐金の香炉有。 」とある。しかし、
本殿向かって右(東)にある「飛梅」の樹より、やや東の方の八角の二重ノ塔とは良く分からない。
「飛梅」やや東の位置にあるのは廻廊であり、さらに廻廊の左右にも、二重ノ塔がある形跡はない。
もし、「東の方」という記述が「西の方」の錯誤もしくは誤記であるならば、この紀行で云う「八角の二重の塔」は左図にある本殿楼門内多宝塔の記述ということになるが、現段階では確かなことは分からない。
なお、本地多宝塔と同様に、資料がないので、断定はできないが、この多宝塔は明治維新まで存続した可能性が高いと思われる。
しかし、上記絵図や紀行のほかにはこの「本殿廻廊内多宝塔」と思われる絵や記録は存在しない。
但し、
太宰府天満宮境内細図(筑前名所図会 所収)では、辛うじて本社廻廊内に多宝塔のように見える小塔が描かれる。しかし木造塔ではない様子にも見える。
慶応3年天満宮境内絵図1では「二重ノ塔」あるいは「燈明台舎」のような描写に見えるが、不明確である。
西都聖庿全圖0筑紫太宰府天満宮御境内之圖0では塔のような描写ではなくて、「燈明台舎」のような描写に見える。

※なお
八角の二重の塔あり」と著述する享和2年(1802)「筑紫紀行」には「筑紫國太宰府天神社之圖」の挿入があるが、この挿入図にも本社廻廊内の「八角の二重の塔」は描かれてはいない。
全く不思議なことで、八角二重ノ塔や絵図に描かれる塔婆については良く分からない。
 ※参考:「筑紫紀行」の安楽寺天満宮部分の全文

太宰府安楽寺関係絵図

安楽寺天満宮境内古図:2011/01/21追加:

「図録太宰府天満宮」太宰府天満宮 編輯、1976 より
 天満宮境内古図(明応古図):左図拡大図

塔婆関係を拾い出せば、
左中段下に「西塔 多宝仏」、その下左右に「三重塔 五智如来・八字文殊」「五重塔」、
右中段下に「宝塔 薬師如来」、その右下に「花園九重塔 千手観音」とある。

図中に明応7年(1498)の年号があり、従って少なくともそれ以降の製作であることは確実であるが、製作年代は中世末期か近世初頭のものと推定される。
その当時の安楽寺の伽藍を表した古図とも云うが、むしろ古の伽藍を復古的に表した古図であろう。

元禄4年道明寺天満宮蔵絵図:2011/01/21追加:
 江戸亀戸天神の創建の後、元禄4年(1691)に諸国25社の天満宮に安楽寺天満宮の絵図を奉納と云う。
その内、現存するのは河内道明寺天満宮に奉納されたものが唯一であると云う。
 ◎元禄4年道明寺天満宮蔵絵図:道明寺天満宮蔵
元禄4年奉納と云うこの絵図に池中島にある本地多宝塔が描かれる。
 なお、宝塔(宝塔院・多宝塔)、九重塔、五重塔、御願塔院(西御塔・多宝塔)、三重塔の中世に存在した塔婆は描かれていないと思われ(図版が小さいので推定)、だとすれば、中世に存在した塔婆はこの頃には、全て退転したものと思われる。
但し、相輪橖(刹堂)は貞和2年(1802)建立であり、この絵図に描かれないのは当然である。

享和2年(1802)「筑紫紀行」挿入「筑紫國太宰府天神社之圖」
2011/01/28追加:
 「筑紫紀行」作者菱屋平八が現地で入手し、挿入した「木版画」と推定される。従ってこの絵図は享和2年以前のものであろう。
 ○筑紫國太宰府天神社之圖
 紀行文中には「御池の中に島ありて志賀大明紳の御社あり。 ・・・又南方の中島には、二重の塔あり。」と云う一文と「(飛梅は)生木なからに香梅殿と崇めて末社に祀り奉りたりといへり。此所よりやゝ東の方に八角の二重の塔あり。」と云う一文がある。
つまり、文中には池中島に二重ノ塔、本社廻廊内に八角の二重の塔の2塔があるとの記載がある。
しかしながら、この挿入「絵図」では、池中島の二重ノ塔は描かれるが、本社廻廊内の八角の二重の塔は描かれてはいない。
なぜ記述と絵図とにこの食い違いがあるのかは良く分からない。
 ※参考:「筑紫紀行」の安楽寺天満宮部分の全文
なお、本図には相輪橖は描かれない。<相輪橖は享和2年(1802)の建立>

安楽寺天満宮境内絵図:
  通説では江戸初期を下らぬ頃の製作とされるが、有力な反証があり、それによれば享和2年(1802)以降の製作となる。
  おそらくは、享和2年(1802)以降の製作であり、そうであれば、この絵図は一種の理想を描いたものであろう。
  江戸初期を下らぬ頃の製作とする根拠は中世に存在した堂塔が描かれ、さらに慶長期の黒田氏寄進の燈籠などが描かれることによる。
  しかし、この製作時期には質疑があり、享和2年(1802)以降の製作とする有力な説がある。

2011/01/21追加:サイト「WADAフォトギャラリー」より転載
 天満宮境内絵図0:左図拡大図
2011/01/21追加:「図録太宰府天満宮」太宰府天満宮 編輯、1976 より
 天満宮境内絵図1:上図と同一図
2011/01/21追加:「明治維新神仏分離資料」 より
 天満宮境内絵図2:上図と同一図

 ○天満宮境内絵図3(推定江戸初期作成): 上図と同一のもの:入手図版の状態が悪い。

宝塔(多宝塔)、九重塔、五重塔、御願塔院(多宝塔)、三重塔・・・以上中世・・・及び相輪橖(刹堂)が描かれる。
近世初頭の建立と推定される池中島の多宝塔(本地塔)が描かれる。
当図の池(心字池)付近の部分図である。・・・何れも同一図である。
 天満宮境内絵図・本地塔部分図1      天満宮境内絵図・本地塔部分図2
20011/03/23追加:
「太宰府市史 建築美術工芸資料編」太宰府市史編集委員会、1998 より
 天満宮境内絵図・トレース
この絵図は中世の状態を描いたものとされながら、慶長13年(1608)建立の燈籠を描くので、製作年代は江戸初期あるいは初期から中期のものとされてきた。
しかし池の東に相輪橖が描かれる。
相輪橖は記録では貞和2年(1802)に建立と云う記録(「貞和2年日記」・相輪橖檫銘)が初見で、これ以前には記録に見えない。
絵図では寛政10年(1798)の「風土記附録」にはなく、「風土記拾遺」に記録として初めて見える。
 ※「風土記拾遺」は未見のため、不詳。

安楽寺天満宮御境内之絵図
2011/01/21追加:
「絵図にみる江戸時代の太宰府天満宮門前町(特集 門前町の地図)」梶嶋 政司(地図情報 28(4) 所収) より
 ○天満宮御境内之絵図1:文政2年<1819>:入手図版の状態が悪い。
 文政2年笹屋(不詳)が版行(再版)した絵図である。
 池中島の多宝塔が描かれる。
 ○天満宮御境内之絵図2:文政2年<1819>: 上図と同一図:入手図版の状態が悪い。
  塔婆は池中島の多宝塔 (本地塔)のみ描かれる。
  ※なお、相輪橖は貞和2年(1802)に建立、文政年中(おそらく文政11年<1826>)に大風で倒壊とされる故に
   相輪橖が描かれているべきであるが、その姿を確認できない。(不審である。)

2011/01/13追加:
筑前名所図会:奥村玉蘭著、文政4年(1821)、全十巻 より

 太宰府天満宮境内細図:筑前名所図会:上図拡大図
近世末期の安楽寺天満宮が詳細に描かれる。
左端其1は伝衣塔、其2は光明寺・開山堂、渡宋天神、大鳥居氏屋敷・延寿院、其3は心池・池中島多宝塔(本地多宝塔・十一面)・志賀社・末社・相輪橖(刹堂)・絵馬殿・御本社・本社廻廊内多宝塔・講堂・ 浮殿・その他の安楽寺堂宇、其4には多くの寺中(社僧)・社中が描かれる。
 ※伝衣塔は光明寺の西側に現存する。
 ※本社廻廊内に多宝塔のように見える小塔があるが全く不明。木造塔ではない様子にも見える。
 ※相輪橖(そうりん)が描かれる。
20011/03/23追加:
「太宰府市史 建築美術工芸資料編」太宰府市史編集委員会、1998 より
 筑前名所図会・境内図トレース

安楽寺天満宮境内絵図:(文政11年<1828>−弘化4年<1847>):重文 (これは重文「太宰府天満宮文書」の「附:境内図1幅」と思われる。
 20011/03/23追加:
  「太宰府市史 建築美術工芸資料編」太宰府市史編集委員会、1998 より

安楽寺天満宮境内絵図0:重文:左図拡大図
安楽寺天満宮境内絵図・トレース
 池中島には「観音塔」(多宝塔)が描かれる。
また上に掲載の
 「天満宮境内絵図0」や「太宰府天満宮境内細図:筑前名所図会」で相輪橖が描かれていた位置は「花園輪塔跡」とある。
相輪橖は貞和2年(1802)に建立、文政年中(おそらく文政11年<1826>)に大風で倒壊、弘化4年(1847)に再建 される。従って、この図の年代は文政11年<1828>−弘化4年<1847>と結論付けられる。

なお本絵図は安楽寺に伝来したのものではなく、神社当局が近年入手したものと云う。

 安楽寺天満宮境内絵図2:中島の多宝塔(観音塔)部分 、上の社は志賀社。

 安楽寺天満宮境内絵図3:右上の宝形屋根の建物は輪蔵である。


 ○安楽寺天満宮境内絵図: 上記と同一図:入手図版の状態が悪い。

安楽寺天満宮景臺絵図

2011/01/21追加:「図録太宰府天満宮」太宰府天満宮 編輯、1976 より
 天満宮景臺絵図1:左図拡大図

 ○天満宮景台絵図2(江戸後期と推定) :上記と同一図

宝塔は退転、池中島の多宝塔は残存する。
なお本殿廻廊内に小塔と思われる多宝塔が描画される。
この多宝塔については全く不明。

寛政10年(1798)西都聖庿全圖
20011/03/23追加:
「太宰府市史 建築美術工芸資料編」太宰府市史編集委員会、1998 より
 西都聖庿全圖

西都聖庿全圖0:左図拡大図
西都聖庿全圖・トレース

本地堂(多宝塔)は中島に描かれる。
相輪橖は描かれない。
本社楼門を入って左には「燈明台舎」のような建物が描かれているように見えるが不明確である。

大鳥居の両側には斎垣があり、境内・境外を別ける。大鳥居内側が桜馬場であり、桜馬場南側に別当5家の御供屋・執行坊、文人3家の小野伊予・小野加賀、北側に安秀院・本願寺、突き当りに別当大鳥居坊がある。
小鳥居の内側、連歌屋町筋南側には代官屋敷・御倉所、北側に連歌屋を挟んで護灯三家・時打三家の屋敷が並び、天満宮本社の北側には宮小路三家の検校坊・満成院の屋敷である。
小鳥居小路西側には公文三家の寺主坊・上座坊・都維那坊と別当五家の浦之坊、東側には別当五家の小鳥居坊の屋敷であった。
浦口町筋南には権堂・正知事・正堂と宝蔵坊・千徳坊の屋敷、北には神人・大宮司・不老太夫・惣市・惣鍛治が並び、溝尻町ニは世大工の屋敷であった。
2011/01/21追加:
「絵図にみる江戸時代の太宰府天満宮門前町 (特集 門前町の地図)」梶嶋 政司(地図情報 28(4) 所収) より
 ○西都聖庿全圖:「筑前国続風土記附録」に収蔵された絵図。 (上記と同一図)
  ※「筑前国続風土記附録」黒田家家臣加藤一純編著、天明4年(1784)より編集開始、寛政5年(1793)に完成。全40巻
 ○西都聖庿全圖2:「馬場」部分図
  馬場に南には小野加賀、執行坊(五別当の一)、小野伊予、御供屋(五別当の一)、今尾社、北には本願寺、安秀院、小太郎左近社、四天王堂などが並ぶ。
 ○西都聖庿全圖3:「小鳥居小路・連歌屋」部分図
  東側に小鳥居(五別当の一)、西側に上座坊、寺主坊、浦ノ坊(五別当の一)が並ぶ、連歌屋には北側に時打、連歌屋、護燈、南側には御蔵所、代官屋敷があった。
なお、山上町(三条町)には六度寺、常修坊、宝寿坊、勾当坊(三宮司の一)、華臺坊、安祥寺、十境坊、真寂坊、明星坊などがあった。
ここは戦国末期に原山無量寺の「山上衆」が移り住むと云う。(山上町の語源)

2013/08/09追加:
天保8年松浦武四郎「寺社雑記」
「旅行手記」松浦武四郎(「松浦武四郎紀行集. 中」 1975 所収) より
 ※「幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷」では、「社寺雑記」(野帳)にありと云う。天保8年(1837)武四郎20歳の時、安楽寺天満宮を訪れる。
  所圖太宰府境内之社圖:二重塔・双リントウが描かれる。
太宰府天満宮
・・・寺坊50余。社家10余。社領1000石。延命院2000石。本社の廻り廊なり、仁王門、山門、寶藏2ヶ所、櫛田社、福郡社、老松社、貴船社、若宮社。 大明社、厄神子、柳神子、玉神子、社の左に法性坊、こんぴら社、大神宮社、前に講堂、薬師如来、33所観音堂、絵馬殿、上会殿、経堂、楓宮、散太夫社、和泉社、大師堂、前に池あり、三ツ橋を懸る、両方の橋は太皷なり、二重の宝塔あり、弁天社、浮堂と云ふ、池の脇にあり、二ノ鳥居、一ノ鳥居、町屋千余。

内容細目 浪合日誌,梅嵯峨誌,甲申小誌,庚辰游記,乙酉掌記,丙弌前記,丁亥前記,●四国遍路道中雑誌,●,西海雑志,他計甚麼(竹島)雑誌,壬午小記,癸末溟誌,木片勧進
 以下はより
  「四国遍路道中雑誌」弘化元年(1844)上梓、天保7年(1836)武四郎19歳の頃に四国を巡ると思われる。
  「社寺雑記」天保8年(1837)武四郎20歳の時、安楽寺天満宮を訪れる。

慶応元年(1865)「西遊日記」挿入「筑紫太宰府天満宮御境内之圖」
20011/03/23追加:
「太宰府市史 建築美術工芸資料編」太宰府市史編集委員会、1998 より

筑紫太宰府天満宮御境内之圖0
製作時期は弘化〜明治初とするも、下記と同じ版と思われる。
従って製作時期は慶応元年以前であろう。

十一面(本地塔・多宝塔)、相輪橖(双林塔)、
本社楼門を入って「献燈台覆屋」風な建物が描かれる。
2011/01/28追加:
 ※「西遊日記」は「日本庶民生活史料集成 巻20」三一書房、1972 所収
 ※筆者は桃節山(名は好裕、通称は文之助)出雲松江藩儒学者、天保3年(1832)−明治8年(1875)。
 ※紀行文中には、安楽寺天満宮に関する特筆すべき記述は見当たらない。
 ※この絵図は現地で入手した「木版画」を日記に挿入したものであろう。従って、慶応元年以前の絵図である。
  ○筑紫太宰府天満宮御境内之圖:図版の状態が悪いが、池中島には「二重塔」が描かれる。 (上記と同一図)

慶応3年安楽寺天満宮境内絵図:明治維新直前の絵図である。

2011/01/21追加:「図録太宰府天満宮」太宰府天満宮編輯、1976 より
 慶応3年天満宮境内絵図1:左図拡大図 :吉嗣楳僊筆

2011/01/21追加:「明治維新神仏分離資料」 より
 ○慶応3年天満宮境内絵図2:上図と同一 図

池中島の多宝塔、相輪橖(相輪塔)はまだ残存する。
本社楼門を入って左の二重ノ塔あるいは「燈明台舎」のようなものもまだ見える。

20011/03/23追加:
「太宰府市史 建築美術工芸資料編」太宰府市史編集委員会、1998 より
 慶応3年天満宮境内絵図・トレース
北側山上町筋東には衆徒八家の六度寺・常修坊・宝寿坊と安行社、西には宮小路三家の勾当坊・衆徒八坊の華台院・安祥寺・十境坊・真寂坊・明星坊が並んでいた。

太宰府天満宮絵馬:北野天神絵馬堂に掲額される絵馬である。明治12年奉納額。
 2003/06/26撮影:
 筑紫大宰府天満宮絵馬:2011/03/23画像入替      ○多宝塔部分図
  この絵馬ではまだ池中島の多宝塔が描かれる。
 2011/04/02撮影:上記と同一図---容量大
 太宰府天満宮社境内図2     太宰府天満宮社境内図3:部分図

2011/01/13追加:
「太宰府天満宮安楽寺の建築」土田充義(「日本建築学会研究報告・九州支部・2。計画系 (21)」日本建築学会、1974 所収) より

 ◎太宰府安楽寺伽藍復元図:左図拡大図

左図は次の古絵図及び古図をもとに復元したものである。
古絵図は3幅(内2幅は太宰府天満宮蔵で1幅は中世のもの、1幅は江戸中期のものであり、残りの1幅は河内道明寺天満宮蔵で元禄4年<1691>銘がある)、古図は1幅(天満宮蔵、明応7年<1498>に天満宮焼失とあるので、それ以降の古記録であるが、中世末期の古図と推定される)がある。
この復元図はほぼ中世の様子を表すものである。
但し建物の大きさ及び建物間距離は正確なものではない。

伽藍配置の特徴は次のとおり。
天神本殿を中心に廻廊があり、その北に末社が並ぶ。
左右と前方に安楽寺の建築が配置される。
伽藍は南面し、西法華堂と東法華堂、大講堂と多宝塔、五重塔と九重塔は建立時期は違えども、ほぼ対になる。

塔婆関係では中世には宝塔、五重塔、九重塔、御願塔院(多宝塔)、三重塔の建立があり、池中島の多宝塔、刹堂は近世の建立であろう。

安楽寺は延喜10年(910)あるいは延喜19年(919)に味酒安行によって創建されると云う。
創建時には観音堂が建立され、千手観音を祀ると云う。
但しこの観音堂については古絵図や記録が無く、どのような建築なのかは詳らかでない。
天徳3年(959)には安楽寺には観音堂と東法華堂が存在した。その後、常行堂が建立される。
東法華堂は中世の絵図では一間四面堂で周囲に椽を廻らせ、屋根は宝形造として描かれる。
要するに、創建時は天台系の堂宇が建立される。
塔婆関係は必ずしも履歴が明確でないが、始めは宝塔院が建立され、順次多宝塔・三重塔・五重塔・九重塔などが建立されると推定される。
◎安楽寺堂宇の履歴は以下の通り。
  ※【】内の番号は「太宰府安楽寺伽藍復元図」中の番号を示す。
 延喜5年(905)天神本殿【1】建立(味酒安行)
 延喜10年もしくは延喜19年安楽寺・観音堂建立味酒安行)
 天暦元年(947)東法華堂【2】建立(第1代別当平忠)
 天禄4年(973)鐘楼【3】建立(第2代別当鎮延)
 永観2年(984)常行堂建立、宝塔院【4】建立(菅原輔正)
 長徳4年(998)中法華堂【5】建立(一條院御願)
 長保3年(1001)遍知院【6】建立、 長保4年(1002)仁王堂【7】建立、 長和4年(1015)西室【8】建立
 治安2年(1022)菩薩院建立、 治安3年(1023)往生院建立、浄妙院<号榎寺>建立
 万寿4年(1027)西法華堂【9】建立、 長元5年(1032)喜多院【10】建立
 永承2年(1047)金堂<号新堂>建立、新三昧堂<号局堂>建立、 永承3年(1048)理趣院【11】建立
 康平元年(1058)御霊大明神【12】建立、 延久4年(1072)食堂建立、 承保4年(1077)温室建立
 永保2年(1082)御願塔院【13】建立(藤原資仲)、 永保3年(1083)安頼院【14】建立、浄土寺東堂【15】
 康和3年(1101)満願院建立、 長承3年(1134)満喜院<号新薬師堂>【16】建立、 長寛2年(1164)酒殿建立
 承安3年(1173)一切経蔵【17】建立、 寿永2年(1183)法華堂建立、 建永元年(1206)新三重塔【18】建立
 承久3年(1221)真言堂【19】建立

2011/01/21追加:
「図録太宰府天満宮」太宰府天満宮編輯、1976 より
「安楽寺草創日記」室町期写
本来の成立は鎌倉中期と推定される。現在では安楽寺諸堂・諸院の建立・修理過程などを明らかにし得る唯一の史料とされる。

 合建立修造注之、諸堂諸院之数并代々寄進事
御御殿:延喜5年安行承建立、永観2年・・・中門廊一宇、廻廊46間造営事・・・
御庿殿:・・・寄進、天禄元年・・・  御墓寺:延喜15年・・・  安楽寺:安行建立、或云、延喜10年  鐘楼:天禄4年建立・・・
観音堂:安行建立・・・  東法華堂:天暦元年建立・・・   常行堂:一間四面、円融院御願永観2年建立・・・
宝塔院:円融院御願、永観2年建立・・・  西法華堂:号牛堂、後一條院御願・・・萬壽4年建立・・・
御願塔院:号西御塔、白河院御願・・・永宝(保)2年建立・・・  安養院:号丈六堂、・・・永宝(保)3年建立・・・
遍知院:・・・長保3年建立・・・   真言堂:・・承久3年建立・・・  法花堂:・・寿永2年建立・・・  仁王堂:・・・長保4年建立・・・
往生院:・・・治安3年建立・・・  金堂:号新堂、永承2年建立・・・  新三昧堂:・・・永承2年建立・・・
満願院:・・・康和3年建立・・・  満善院:・・・長承3年建立・・・  浄土寺東堂:・・・永宝(保)3年建立・・・  西堂:・・・長和4年建立・・・
喜多院:四寺戊亥角、・・長元4年建立・・・ 中法華堂:四寺丑刁角、・・・長徳4年建立・・・  菩薩院:号東院、・・・治安2年建立・・・
浄妙院:号榎寺、・・・治安3年建立・・・  理趣院:・・・永承3年建立・・・
新三重塔:・・・七条女院(高倉後宮・藤原殖子)御願、建永元年建立・・・  食堂:・・・延久4年、・・・  温室:・・・承保4年・・・
一切経蔵:・・・承暦元年・・・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

20011/03/23追加:
「太宰府市史 建築美術工芸資料編」太宰府市史編集委員会、1998 より
文明12年(1480)連歌師宗祇、安楽寺に参詣、参詣の様子は「筑紫道記」に記す。
 「み社近く塔婆などみゆる。・・・宿坊満能院・・・反橋2つ・・・楼門・・・左右廻廊・・・経蔵。宝塔。諸堂。末社。・・・・」
明応7年(1498)焼亡、文亀3年(1503)造営なる。(大内氏の後援か)
天文16年(1547)本地堂中島塔婆が再建。
天文19年(1550)安楽寺炎上、天正6年(1578)兵火に罹る。
天正19年(1591)小早川隆景再建に着手、石田三成、次いで黒田如水により再営が完成する。
慶長13年(1608)如水は境内に石燈籠を寄進する。
 本地堂(多宝塔)は「筑紫国続風土記附録」では「永正丙寅年(永正3年1506)の墨書がある」と、「小鳥居家文書」では天文16年(1547)」の再建とする。いずれにしろ明治維新まで存在し明治の神仏分離で姿を消す。(退転の様子は資料がなく不明。)

2011/01/28追加:
筑紫紀行(「日本庶民生活史料集成 巻20」三一書房、1972 所収)
  ※筆者は菱屋平七(吉田重房)、菱屋は尾張の商人、
  享和2年(1802)3月名古屋出立→京都・大阪→瀬戸内・船(讃岐金毘羅・善通寺、安芸宮島)→周防に上陸→
  陸路・長崎、耶馬溪、英彦山、太宰府、博多→岩国錦帯橋、丹後城崎温泉→大阪帰着は7月の旅であった。
  ※太宰府天満宮の描写は網羅的かつ概括的であり、いまでも十分に有用である。
  しかも近世の安楽寺の様子が詳細に描写されているため、以下に全文を転載する。
  ※「筑紫國太宰府天神社之圖」の挿入があるが、おそらく現地で入手した「木版画」を挿入したものであろうと推定される。

(享和2年5月)廿三日  (略)
又二丁ばかりいけば、榎寺とて太宰府天満宮の御旅所あり。此所は管公太宰権帥にておわしまして薨じ給ひし所なりとぞ。 (略)
 さて三町計(ばかり)北の方に、戒相院といふ小寺あり。十丁ばかり行けば、太宰府に至る。(二日市より是まで二十二丁)町屋千軒ばかり。
六七丁もたちつゞけり。町中に銅の鳥集(とりい)たてり。叉一丁ばかりゆけば、一の鳥居とて大きなる石の鳥居あり。鳥居の前に下馬札たてり。銅の鳥集より此鳥居まで、一丁あまりの間は茶屋宿屋のみなり。
大野屋といふ宿屋を休み所と定め置て、供の男にもたせたる荷物をも此宿にあづけさせて、案内の者を求て參詣す。
かくて一の鳥居に入れば、桜の馬場といひて、左右に桜の木数多生たり。彌生のころはいかにかあらんと、青葉の木末もなつかしく、まづうちな
がめらる。かく此所に桜をあまた植置るは、菅公世におはしましゝ時、
  さくら花ぬしをわすれぬものならぱふれこむ風にことつてはせよ
と詠し給ひし御歌のあるによりてなりとぞ。桜の木のもとには坊舎あまたたちつゞけり。
やゝゆきて、右の方に逢染川あり。此川は花園山にそひて、傅衣塔の傍にながれ出る小川なり。
後撰集に藤原眞忠
  つくしなるおもひそめ川わたりなば水やまさらむよとむ時なく
又堀川百首に隆源
  人心かねてしりせはなかなかにあひそめ川もわたらさらまし
とあるは此そめ川の事ならんか。
 此川の中に古墳あり。此は菅公都におはしませし時、御許ちかくめしつかひ給ひし女の、菅公此所に下り給ひしのち、御跡を幕ひて下りしに、薨じ給ひし後なりしかば、いたく悲しみて、この川にしづみて身まかりしを、其所に墳を築て碑を建しとぞ云傅ふといへり。
今も猶其墳碑(つかいしぶみ)あり。
太良左近社、傅衣塔、渡唐天紳、花園などあり。此花園は、自然の山の中より麓の花壇おしなべて、種々の花木を植並べたれば、四季折々の花咲出て壮観の地なりといへり。

 さて池ありて、他の中島に、辨財天の堂あり。池の中は、白蓮、杜若、あまた生たり。
三月の末つかたより四月のはじめつかたまでは、杜若の花盛にて、水底さへに紫ふかくにほふといひ、六月の末つがたより七月の
初つかたまでは、白蓮の花咲みちて、他は雪もて埋めるが如しといふ。さぞあらんとおもひやられたる。
さて浮殿の前に至る。是は年毎に秋祭りといふ祭禮ありて、九月廿三日より廿四日の夜まで、紳輿を此殿に休め奉りて、紳事をも此殿の前にて行ふとぞ。此あたりは諸所より設け置ける摂待所数ヶ所あり。其中にも博多の人々よりたておけるは、三畳敷に肌違棚などをつけて、いと潔浄なり。
又鳥集(二の鳥居といふ、石にしてたてたり)に入れば、大きなる御池あり。廻り百八間。是はむかし法性坊といひし人、心といふ字の形に掘らせ給ひしといひ傅ふといへり。
 御池の中に島ありて志賀大明紳の御社あり。御社の前後に四間計の反橋かゝれり。ともに唐金の擬寳珠をつけたる。
又南方の中島には、二重の塔あり。塔ノ内に親世昔を安置す。
此所には直橋かゝれり。橋柱は、いづれも石なり。さて池水は岸をひたすばかりにたゝへたるに、大きなる紅鯉、黒鯉、うきみしづみて
ひれふりあそぶなど、いとおもしろし。
此あたり梅の木いと多くして、梅園といへり。叉松櫻などもあまた生たるに、木の本には、參詣の人々の休所、茶店などもいと潔浄なるがあまたあり。
 かくて仁王門に入れば、神馬厩、歌會所、御供所、寳蔵、文庫あり。此文庫は、宮司桧校坊快鎭、文學に志あらん入のために、衆力をからずして成就せしめ、和漢の書籍を概多集めで納めおかれたりとなり。
聖徳太子堂、一切経蔵、今尾宮、三十三体観世音堂、四天王堂、小太郎左近社、今宮などの前を経て楼門に至る。此御門は四間四尺に、横二間四尺ありとぞ。
 さて石の反橋をわたれば廻廊あり。長さ四十九間横三間ありといふに、中門六所にあり。
かくて御本殿の御前にまゐりて頓首再拝して後、仰ぎ見れば、神々としていといかめしく立せ給ふ。廣さ九間、奥行七間にて、桧皮葺なり。
宮内の柱には金を装たり。外面はなべて赤く塗れり。
抑此御社は、何れの御代に建られたるか其始め詳かならず。然れど此宰府の里人は、延喜五年八月十九日、安行僧都勅を蒙り御殿の造営を始め、同十八年までに改め造る事度々なるを、同十九年、藤原仲平勅を蒙り、紫宸殿を此宰府に下し、御社を建らる。
其後延長元年本官(ほんくわん)に復せられ、天満大白在天紳と称し奉るといへり。
本宮の事は日本紀略に、延長元年四月廿日甲子、詔故従二位太宰権帥菅原朝臣贈本官右大臣とあり叉同紀に、正暦四年五月廿日壬午。贈故右大臣正二位菅原朝臣左大臣正一位一同年閏十月廿日甲辰。重贈二故正一位左大臣菅原朝臣太政大臣とあれば、御社を建られたる事も里人の傅への如くなるべし。
 然るに源平兵乱のころより、兵火の為に度々炎上し衰癈に及びしを、天正のころ小早川隆景と云し人此筑前の國主たりしとき、社の境内東西五十三間、南北七十間にさだめ、御社を長九間横七間、南面に造営せられしを、後黒田長政侯此國の君と成給ひて、中門廻廊を造営し給ひ、其外諸堂末社の絶たるを継、癈れたるを発(おこ)し、神領を寄附し、社僧祠官を厚くもてなしたまひしより、ふたゝび古へに復ることを得たりといへり。

 さて御針の傍に飛梅あり。廻りには玉垣ありて甚厳重(いとおごそか)なり。この梅を飛梅といふ。故は、延喜元年二月二日菅公都を出給ふとき、紅梅殿にて常に愛給ふ梅を御覧じて
  東風ふかばにほひおこせよ梅のはなあるしなしとて春なわすれそ
と詠じ給ひし御歌を感じ、かの梅みやこより逞々の海山を経て、御配所の御庭にとびきたりて生たりけるを、菅公いとゞ感(あはれ)におぼしめして、梅にむかひ給ひて、
  ふるさとの花のものいふ世なりせはむかしのことをとはましものを
と詠じ給ひてながめ給ひければ、梅
 先久於故宅 廃離於旧年 麇鹿猶棲所 無主独碧天
とぞ御答申けるとなり。さるによりて飛梅の名を負へりといひ傅ふとぞ。
また或時旅人どもこのむめの枝を折しことのありし時、夢の御告の神詠に
  なさけなく析人つらし我宿のあるしわすれぬ梅のたち枝を
といふ御歌ありとぞ。又明應七年兵火にて此梅枯しことのありし時、社僧祠官の輩いたくこれをかなしみて、
  天をたにかけりし梅の根につかは地よりなとかはなのひらけぬ
かく詠じたりけれぱ、神慮にやかなひけむ、再び枝葉条えて花さけりけるによりて、生木なからに香梅殿と崇めて末社に祀り奉りたりといへり。
 此所よりやゝ東の方に八角の二重の塔あり。径り一間計もあるべし。銅瓦にて葺て、木はすべて欅なり。内に唐金の香炉有。
さて和泉殿、是は菅公六世の孫、定義公を祀るといへり。寳満官、高良大明紳、宰相殿、此殿は菅公四世の孫、輔正公を祀るとぞ。
理趣院、本尊十一面塵世昔を安置す。
新羅大明紳、荒人堂、安養院、本尊阿弥陀如来を安置す。貴布根大明神、若宮社、山王権現社、御霊大明神、人麿大明神、藤大夫社、此社は藤原廣嗣を祀るといへり。
櫛田大明神、西法華堂、此堂には大威徳明王を安置す。脇立には普賢菩薩、文珠菩薩を安置す。
東法華堂。毘沙門天を安置す。此堂内にて時の太鼓をうつなり。
大神宮、法性坊、是は菅公の御師友なりしといへり。玉尊。尼尊。柳尊。此三尊は菅公の御子の公達を祀るとぞ。
楓官、是は菅公の北の方を祀るといへり。北の方は田口氏にて、京の吉祥院の辺に住給ひしによりて、吉祥姫と申せしとなり。又花園大明紳と申も、この北の方の御事なりとぞ。
福部大明神、是は菅公の御親族、田口達音(みちなり)を祀るとぞ。此田ロ氏は文章生にて、公の御師範にてありしといへり。
老松大明神、是は菅原の是善公の御弟、島田忠臣を祀る。郎菅公の御伯父君なりといへり。
大講堂、薬師如来を安置す。此薬師佛はいにしへ安楽寺の本尊なりといひ、又毎年正月七日の夜、鷽替(うそかえ)追儺会等も此所にて行ふといふ。
 さて此御社の家所を安豪寺といひ、天原山廟院ともいふ。廟院といふは、菅公を此所に葬り奉りしゆへなりとぞ。

 かくて年中の祭事をも聞まゝにかつがつ次に記す。
 日別神食、是は正月元日より備ふとぞ。先大(おおき)なる神器に、米一斗の飯を高く盛、種々の供物、神洒などをも備へ奉る事十五膳、三十六器、御厨にて是を調へ、烏帽子白張着たる下官の役夫、是をはこぶ。むかしより今にいたりて毎朝怠ることなしといへり。
 また月次連歌、毎月廿四日、社司歌の宿所に集會すといへり。鷽替正月七日の夜酉の刻頃より、参詣の老若集ひ来て、木にて作れる鷽といふ鳥の形を調へ、相互に袖に隠し、鷽かへんと訇(のの し)りて双方よりとり替ることなりとぞ。
 追儺、是も正月七日夜にて、鷽替終りて後に、薬師堂にて行はる。先人を搦て鬼面を被らしめ、松畑にて是をふすべ、堂の外を引まはし杖にて打たゝき、鬼捕へたりとて訇(ののし)れる事毎年絶ず。
むかしは観世音寺、安楽寺、武蔵寺、此三箇寺にて行なひしを、ニケ寺は今絶てなしといへり。
 内宴、是は正月廿一日。別當以下悉く集り詩歌管絃の會ありとぞ。
 春祭、二月廿四日なり。この日は御忌日なれば、御葬送の遺式にて、年中の大祭なりとそ。抑この祭りの姶りしほどは、大宰帥なりける人、司どられしかど、いづれの御代にか、菅氏勅を蒙りて細社の別當となり、祭殿を勤められてより、いまに至りて、代々怠ることなしといへり。
 曲水ノ宴、三月三日なり。式は正月の内宴に同じ。
 幸祭、四月廿日、夜に人て御食を奉りて後、夏冬の御衣を給はるとぞ。此祭十月にもまた一度行はるといへり。
 七夕宴、七月七日別當以下皆、歌會所に集り歌を詠て献るなり。いにしへは年に四度の宴行はれしかど、中頃兵乱にさまたげられて、今は此歌の會のみ残れりとなり。
 秋祭、八月廿三日より廿五日までなり。此祭りは、堀川院の御宇、康和三年、中納言匡房卿大宰都督たりし時、夢想の事ありて、
始て秋祭を行はる。其作法は、廿三日の暁天、一実を桓寺の御旅所に幸(いた)し奉る、既に神体を宮内より出し奉り、神輿に移し奉らんとする時、内外の燈火を消して越殿楽を奏す。
楽畢(をはり)て後、又燈を点じ、神輿を渡御し奉るなり。神燈凡五十、神輿の前後を照す。文人三人衣冠し馬に果て先駈す。童子二人烏帽子素袍(すほう)を着し、木にて作れる駒の頭を持、これも馬に乗て先駈す。又童子二人烏帽子素袍を着し、榊の枝を持、喝道(かつとう)をとなへ御先をおふ。
次に御香を持て御先に立。神輿には駕與丁十二人つかうまつり、左右には烟松(たいまつ)を照し、さしば(絹にて張りたるに龍を書きたるなり)を持たる者四人、各御輿の上にさしかざし、ひで傘持だる者御輿の御後につかうまつり、楽人等音楽を奏し、
次に釣馬三匹を牽。次に五別當三綱等供奉す。各馬上なり。その外の社人多く扈従し奉る。また遠近の人多く来て神輿に従ふ。宮司三人は先達て榎寺に行居て、神輿を迎へ奉りて、御旅所に移し奉るなり。
また還輿は当日未ノ刻に榎寺をいだし奉りて、それより浮殿に休め奉る。かくて戌ノ刻に至りて本宮に還奉なり。
当時(そのとき)又燈を消て音楽を奏す。楽畢(をはり)て後、五別當三綱、幣をたてまつる。かくてのち竹の舞あり。
是はいにしへの田楽の餘風(なごり)にやあらん。今世の猿楽のさまに似たり。凡て此祭りの儀式、他の祭祀に異なりて甚静に廠重なりといへり。
 残菊の宴、是は内宴曲水に同じかりしを、今は絶てなしといへり。

 さて社家宿坊の事どもを間へば、座主と称するは、大鳥居延寿王院とて、僧正位にて、今住給ふは高辻大納言殿の御弟君におはしますなり。
小鳥居、御供屋、執行坊、浦之坊、などいふあり。
此家々は、八十五代後堀川院の御時、菅公九世の孫、善昇と云し人、詔を蒙り此宰府に下り社職を勤め、後に名を信貞と改められたり。其嫡子を信昇といふ。是より家別れて、今に至て社務職と称す。
其中にも此大鳥居は、むかしより別當留守職として、代々相續き、今も其巨■(きょへき)たり。
満盛院、検校坊、勾當坊は、菅公に従ひて此所にくだり、公薨逝の後髻をきりて、香花怠らす、勤行まめやかなりし味酒安行の後裔なり。
此一院二坊を宮司職といふ。神前の宿直も、上旬は検校坊、中旬は満盛院、下旬は勾當坊つかうまつる。むかしよりいまに至るまで、昼夜片時も怠ることなしといへり。
上座坊、安秀院寺、主坊、いにしへより是を三綱といふとぞ。
また華臺坊、六度寺、常修坊、安祥寺、石築坊、明星坊、寂門坊、眞寂坊、十境坊、此二寺六坊は昔原山に無量寺といひし霊場ありしに、菅公葬祭の時、彼無量寺の法師ばらも其事にあづかりしゆゑ無量寺廃絶の後、彼法師ばら此安架寺に属し、天満宮の社僧となれり。今是を衆徒といふといへり。
連歌屋(歌会所預り)、壽院迎、光明寺(禅宗)本願寺。(同上)又小野伊豫、小野加賀、小野但馬、此三家の小野氏を文人といふ。此外の末々の社人信徒三十餘、家名綿々として相續て絶ずといへり。さて御領は千石
 公より筑後図下妻郡水田村において寄附し給へり。また二千石、此筑前國の殿よりの寄附、又二百五十石、筑後國久留米侯よりの寄附、また五十石同國柳川侯よりの寄附なりとぞ。此神領は大鳥居いにしへより、司務別當たるをもって、是を兼帯支配せらるといへり。
かくて宿にかへりて酒飯をしたゝめて、巳ノ刻やゝ過るころに立出。五屋ばかりゆけば観世音寺なり。 (以下略)

安楽寺天満宮の組織

2008/05/20追加:
「大宰府安楽寺の寺官機構について」恵良宏 (「宇部工業高等専門学校研究報告 Vol.6」1967 所収) より

延喜3年(904)道真配所にて薨じる。道真の墓の上に廟所が建てられ、安楽寺と称する。
 ※安楽寺はその創建当初は全くの私建寺院(菅原氏氏寺)であり、天満宮とは道真の廟所であった。
 ※安楽寺の位置は今の天満宮全域と考えられ、その中心は今の本殿附近であろう。
  境内から「安楽寺」銘を持つ平安期の瓦が出土するので、これはほぼ確定的である。
当初は小規模な氏寺であった安楽寺はやがて太宰府の援助を受け、公的寺院に変化する。
さらに11世紀になると、安楽寺は財力・兵力(僧兵)とも強大になり、太宰府(とその庇護化にある宇佐八幡弥勒寺・観世音寺・大山寺・四王寺・彦山・香椎・筥崎など)との軋轢を生み、荘園領主として所領争いを繰り返す。その結果、平安末期には寺領も増大し、かつ天神信仰の流行にも乗り、九州では宇佐八幡弥勒寺とともに荘園領主の双璧にまで発展した。
 ※安楽寺は安楽寺天満宮とも天満宮安楽寺とも称する。
  天満宮の祭神は道真と云う神格であり、安楽寺別当職は神格である道真の子孫が補任される。
  それ故安楽寺天満宮では神職よりも僧職が上位に立つ。
  (勿論僧職が優位に立つのは本地垂迹説の隆盛や仏教の論理性は素朴で単純な感情でしかない「神道」の敵ではなかったこともある。)
なお、平安末から中世にかけては、荘園制の崩壊の過程でもあるが、この経済的危機に際し、安楽寺天満宮はその神格を「怨霊」から次第に「学問文道」に変化させ、つまりは新しい天神信仰の醸成に成功し、中世にも急速に衰えることなく信仰を保持してい く。

天暦元年(947)菅原忠平(道真孫)が初代安楽寺別当に補任される。
以降南北朝期道真16世後裔の経円まで36代の別当が知られる。但し鎌倉期以降次第に別当の安楽寺下向着任は見られなくなる。
経円以降は別当の補任は無くなり、留守別当が安楽寺を取り仕切るようになる。
中世以降、寺司として少別当、権少別当、修理別当、上座、寺主、権寺主、都維那、権都維那、知事などの階層が寺務の実権を行使する。
古代末・中世には堂塔も増加し、住僧(九禅師・十禅師・大法師・堂僧・承仕など)も増加したと思われる。
 ※安楽寺の場合、平安期には住僧は130人から200人内外いたものと推定される。
南北朝期に至り、別当は完全に在京し、安楽寺は留守別当大鳥居氏及び小鳥居氏が夫々交代で権別当・少別当などに任じられ、両氏が安楽寺を支配するに至る。
 ※大鳥居氏及び小鳥居氏とも菅原氏一族で、代々世襲する。なお中世後期には大鳥居氏が小鳥居氏を押さえ、実権を掌握する。
近世初頭(慶長18年)の安楽寺組織は以下の様相であった。
1.五別当
 大鳥居家 200石、小鳥居家 3石(注)、御供屋別当 22石、執行坊 15石、浦之坊 15石
  ※別当は菅原氏の血縁であり、僧体であったが妻帯。
   (注)小鳥居家3石とは異様に少ない石高であるが、論文のまま3石と記載する。
2.三宮司職
 宮師満盛院 40石、検校坊 15石、勾当坊 20石
  ※道真に従って太宰府に来た味酒安行の子孫と称する。
3.三綱
 上座坊 8石、寺主坊 2石、都維那坊 2石・・・・(以上社職)
4.文人 三家
 小野但馬 8石、小野加賀 8石、小野志摩 8石
5.十衆徒(僧職)その他
 花台坊 20石、六度寺 15石、安祥寺 3石、常修坊 4石、石築地坊 15石、明星坊 1.5石、十境坊 3石、真寂坊 2.5石、
 寂門坊 2.5石、連歌屋迎寿院、境外3ケ寺(光明寺、本願寺、薬師寺) 以上 上官
  ※花台坊(岡見氏)、六度寺(冨小路氏)などは原山無量寺(原八坊)が廃された後、安楽寺に寄寓した僧侶の系譜と伝える。
   原山無量寺(原八坊):華台坊、六度寺、安祥寺、十境坊、真寂坊、宝寿坊、寂門坊、明星坊の8坊
6.下官
 正堂 2.5石、権堂 2.5石、・・・・・・・大宮司右京 1.5石、大宮司彦六 1.5石、大宮司内蔵助 1石・・・・・(以下略)

2011/01/21追加:
「図録太宰府天満宮」太宰府天満宮編輯、1976 より
「宰府御社領配分之帳」慶長18年(1613)黒田如水・・・・社領は都合2000石か。
大鳥居:320石  小鳥居:300石  執行坊:23石  浦坊:20石  上座坊:40石  ・・・神人省略・・・
満盛院:35石  ・・・・・・・・・・・・・・  勾当坊:28石  検校坊:27石  花台坊:40石  石築地坊:23石  六度寺:23石
安祥寺:13石  常修坊:15石  十境坊:8石  舜門坊:5石  真舜坊:4石  ・・・・・・・・・・・・  明星坊:3石
以下、本願寺、安秀院、寺主坊、光明寺、権堂、正堂などの配分も見える。

安楽寺天満宮の神仏分離

2011/01/21追加:
「太宰府神社の神仏分離」伊東尾四郎、明治44年頃か?(「明治維新神仏分離資料」 所収)
 藩政時代の社領2000石、その内奉仕せる主なるものの石高は以下のとおり。
五別当:大鳥居 500石、小鳥居 200石、御供屋 30石、執行坊 23石、浦之坊 20石
三宮司:満盛院 35石、勾当坊 28石、検校坊 27石
三 綱:上座坊 40石、寺主坊 8石、都維那坊 5石
原八坊:座主華臺坊 40石、六度寺 23石、石築地坊 23石、常修坊 15石、十境坊 8石、寂門坊 5石、真寂坊 4石、明星坊 3石
原八坊は僧侶で読経する、ご別当・三宮司・三綱は読経はせぬがいずれも円頂で神事を掌る。
 昔の太宰府神社の状況は「筑紫紀行」尾張菱屋平八、享和年中(1801-03)の仏堂仏像について記されたとおりである。
  南方の中島には二重ノ塔あり、境内に観世音を安置す、かくて仁王門に入れば神馬厩、歌会所、御供所、宝蔵、文庫あり、・・・
  又聖徳太子堂、一切経蔵、今尾宮、三十三体観世音堂、四天王堂、小太郎左近社、今宮などの前を経て、楼門に至る、・・・
  東の方に八角の二重の塔あり、・・内に唐金の香炉有、・・・さて和泉殿、・・宝満宮、高良大明神、宰相殿、・・・
  理趣院、本尊十一面観世音を安置す、新羅大明神、荒人堂、安養院、本尊阿翼陀如来を安置す、貴布禰大明神、若宮社、
  山王権現社、御霊大明神、人麿大明神、藤大夫社・・櫛田大明神、西法華堂、此堂には大威徳明王を安置す、脇立には普賢菩薩、
  文殊菩薩を安置す、東法華堂、毘沙門を安置す、・・大神宮、法性坊、玉尊、尼尊、柳尊・・楓官、福部大明神、・・
  老松大明神、・・大講堂、薬師如来を安置す、此薬師佛いにしへ安泰寺の本尊なり、
今日太宰府神社で仏寺関係で残存するものは以下のとおり。
 1)双輪塔:上部には享和2年、下部には弘化4年の文字がある、これは一旦博多の人の手に渡ったが、明治22年再建したものと思われる。
 2)波羅密陀心経を刻した銅塔:天保12年(1841)の年紀がある。
 3)雲版、4)大鰐口・・・何れも宝物館に納める。
太宰府以外の地にあるもの。
 1)本殿観音像:甘木安長寺にある。径4尺7寸の円き金属製のもので中に仏像がある。(つまり懸仏であろう)
 2)梵鐘:観世音寺にある。(観世音寺→安楽寺→神仏分離で再び観世音寺に移されるという経緯か)
 3)仁王門の仁王像:観世音寺に現存する。
 4)華臺坊十二尊天像:飯塚太養院に現存する。明治2年太養院30両支出する。
安楽寺の仏像・仏器類の大部は肥前田代の天本茂左衛門が巧妙に請い受けて持ち去った。であるから大袈裟な破壊はなくして終ったようである。
「太宰府天満宮に於ける廃仏」(明治44年8鷺城新聞」)
太宰府天満宮の神体は道真の木像ではなく、明治初年までは道真自筆の法華経8巻であった。
この法華経8巻は道真左遷の後、太宰府で3年間一室に垂れ籠めて写経したものであり、道真没後ご神体として祀られてきた。
然るに明治初年復古神道が盛んなとき、天満宮の坊主(この時の宮司は道真後裔の五篠家であった)が焼き捨ててしまった。世に阿るため、還俗し、神体が法華経8巻とは怪しからぬと之を火中に投じ焼いていまったと云う。
以上は大内青巒居士の談話であるが、明治17年、当時70余歳で隠居していた宮司は居士に面談を求め、世の中が坊主を攻撃するのを憚った私の軽率から、むざむざ神体を火中に投じたのは誠に申し訳ないと懺悔したと云う。

20011/03/23追加:
「太宰府市史 建築美術工芸資料編」太宰府市史編集委員会、1998 より
残存する安楽寺天満宮の仏堂
浦之坊護摩堂:光明寺観音堂として現存、「明治5年浦之坊護摩堂を移す」との棟札がある。
安楽寺子院山門:光明寺山門として現存、四脚門。
 ※光明寺:近世は安楽寺社家の菩提寺である。
   2011/04/13撮影:
    天満宮光明寺: 写真の山門は安楽寺子院山門か、但し境内西にも山門がある。観音堂は写真の向かって右にあるのか未見。
 文久10年(1272)菅原氏の流れを組む(真偽は不明)と云う鉄牛円心(姓は菅原と云う)によって創建されたと伝える。
輪蔵:明治初年肥後蔵上村西法寺に移され、明治16年田主丸伯東寺に移築される。(心柱墨書銘)
浦之坊書院:観世音寺戒壇院書院として現存、浦之坊書院は現地で太宰府町役場となるが、その後戒壇院に移建と云う。
勾当坊四脚門:甘木浄土寺として現存する。(浄土寺の口伝)
残存する安楽寺天満宮の仏像
太宰府光明寺木造十一面観音坐像:胸部及び光背銘文は「天原山安楽寺天満宮 伝教大師之作 本地十一面観音大士 ・・・
 宝暦5年(1755)・・寄進」とある。
太宰府光明寺木造薬師如来坐像:鎌倉期、修理銘は慶長11(1606)年で「・・安楽寺別当 天満宮 ・・・」とある。安楽寺大講堂本尊。
 同  木造十二神将立像 7躯:安楽寺薬師堂安置と云う十二神将であろうか。
 同  木造四天王立像 4躯;天明8年(1788)再興銘、薬師・十二神将・四天王何れも安楽寺薬師堂(大講堂)安置であったと推定される。
太宰府西正寺木造十一面観音坐像:岩屋城落城の時、原八坊六度寺の僧が安楽寺に遷す。明治の神仏分離で転々とし戦後当寺に遷る。
 同  木造聖徳太子立像:安楽寺天満宮太子堂の本尊と伝える。
基山大興禅寺木造十一面観音坐像:安楽寺天満宮本地仏、明治の神仏分離の際相求め本寺に安置。室町期。
 同  木造不動明王(平安期)および毘沙門天(室町期)立像:上記本地仏の脇立。
 同  木造十二神将立像 12躯:上記安楽寺天満宮本地仏に安置。江戸期。
 同  木造天台大師および伝教大師像:江戸期。
 同   鰐口:安楽寺天満宮より伝来。
甘木安長寺懸仏(十一面観音):安楽寺天満宮楼門にあった。寛文10年(1670)銘。
 同  千手観音:本殿内陣にあったものを拝領と云うが伝存しないが、伝存する准胝観音がこれの相当するかも知れない。
飯塚太養院納骨堂十一面観音坐像:江戸期
 同  本堂十二天立像 12躯:江戸期、いずれも明治2年大庄野の清水宅右衛門義一が安楽寺天満宮より請受けたものを
                   太養院に寄進と伝える。
高田福聚庵寺大般若経 四百数十巻:「天満宮御宝前 奉大般若経一部 ・・・ 大賀宗白信貞」とある。

その他の情報

○安楽寺本地堂(多宝塔)跡:2011/04/22追加
 今王社(小社)のあるところと推定されるが、多宝塔を偲ぶものは何もない。
 2011/04/22追加:201/04/13撮影:
  安楽寺本地堂(多宝塔)跡1     安楽寺本地堂(多宝塔)跡2

○安楽寺天満宮本殿:2011/01/21追加
 重文。文禄4年(1595)頃完成、五間社流造、前室付設、正面一間向拝、軒唐破風付、屋根檜皮葺。(三間四面堂に前廂<孫廂>を設けた建築である。)
  2011/01/25追加:2011/01/06「O」氏撮影画像
   安楽寺天満大自在天神本殿:下記の志賀社に次ぐ安楽寺の古建築である。
 2011/04/22追加:201/04/13撮影:
  安楽寺天満宮楼門:大正3年再建
  安楽寺天満宮本殿1     安楽寺天満宮本殿2    安楽寺天満宮本殿3    安楽寺天満宮本殿4    安楽寺天満宮本殿5
  本殿楼門内神籤自動販売機:当ページの2番目にある項目「安楽寺天満宮の塔婆」の「8)本殿楼門内多宝塔」で述べたように、
  写真に写る2基の「神籤 自動販売機」のある場所は「本殿楼門内多宝塔」もしくは「燈明台舎」のように見える建物が描かれている
  位置に相当する。「8)本殿楼門内多宝塔」の実態は皆目分からない。

○安楽寺天満宮志賀社:2011/01/21追加
 重文。室町中・後期、一間社入母屋造。
  2011/01/25追加:2011/01/06「O」氏撮影画像
   安楽寺志賀社:長禄2年(1459)の建立とされるがその根拠ははっきりしないと云う。
             但し中世後期の雰囲気を持つ建築であることは確かであろう。
 2011/04/22追加:201/04/13撮影:
  安楽寺志賀社1     安楽寺志賀社2     安楽寺志賀社3     安楽寺志賀社4     安楽寺志賀社5

○延寿王院:2011/01/21追加
留守別当大鳥居氏屋敷で、宝暦4年(1754)院号の下賜があった。四脚門は天保5年(1834)上棟(棟札)。
現在は宮司西高辻家の邸宅である。
 2011/01/25追加:2011/01/06「O」氏撮影画像
  延寿王院四脚門:近世では、例えば「筑前名所図会」:奥村玉蘭著、文政4年(1821)、全十巻の「太宰府天満宮境内細図」(上に掲載)に
             見られる(「大鳥居延寿王いん」とある)ように、大鳥居屋敷(延寿王院)は現在の表参道突当りにある。
  但し、「太宰府天満宮境内細図」(文政4年)に描かれる大鳥居屋敷の門はこの写真(天保5年上棟)の門が上棟される前の門である。
 2011/04/22追加:201/04/13撮影:
  延寿王院四脚門1     延寿王院四脚門2

○その他の点描
 2011/04/22追加:201/04/13撮影:
  安楽寺天満宮表参道     安楽寺仁王門跡付近:この付近に仁王門があったと推定される。

○近年、安楽寺の中心施設であった大講堂のすぐ北側が発掘される。
ここから近世後半期から明治前半期にかけての、多くの廃物を捨てるためのゴミ穴(最大で直径6.5m)が発掘され、焼けた建築部材や割れた陶器、瓦が出土と云う。焼けた部材とはおそらく神仏分離によるものと推測される。

○平成14年太宰府天満宮本殿にて神仏御縁祭なる珍妙なものが行われたと云う。
明治の神仏分離で、仏像の幾つかは近隣の寺院に移されものもあった。菅原道真御神忌1100年大祭に伴い、百数十年ぶりにその仏像を太宰府天満宮に集め、天台宗僧侶による舞楽法要が行われたと云うことのようである。

○天神の本地は十一面観音とされる。
安楽寺天満宮には、観音堂が建立され、千手観音が安置されていた(推定鎌倉中期成立・安楽寺草創日記)。
また「天満宮境内指図」(推定室町後期成立期頃)では本尊を十一面観音像する。また、銅製聖観音座像の懸仏も境内から出土したと云う。

○「寄附約定書」(明治39年文書)と云う文書があり、これによれば、三池郡開村天興寺(浄土宗)を、太宰府に移転させ、本尊として聖観音像を安置しようとする計画があったことが分かる。「約定書」では、移転に際して、土地・建物を寄附することが約定されていると云う。
 聖観音像は、像高五寸(約15cm)の立像で、一尺九寸(約57p)の「五重塔形内」に安置されていたとされる。
聖観音像は「往古ヨリ太宰府神社内陣ニ安置シ、(中略)尊崇」されて来たが、明治初年の神仏分離によって、廃され保存されていた。
そこで、有志が、「諸人ノ帰仰浅カラサル」ゆえ、天興寺を移して来、その本尊として聖観音像を安置し、「永遠衆庶ニ崇拝セシメン」ことを計画したとされる。(但し実現したのかどうかは不明。)

2011/01/13追加:
○佐賀市在住の方より、以下の情報を受信する。(その情報は備忘として以下に記載する。)
お石茶屋(本殿の裏手)横に、石段があり、その下?に石塔(禅宗関連か?)がある。またその石階途中および上に多くの石仏(年紀や像名は不詳)がある。しかし、この遺構・遺物が何であるのかは不明である。
△2011/01/21追加:
本殿裏手は山上町(三条町)などが該当する。
山上町は以下のように云われる。
 山上町(三条町)には六度寺、常修坊、宝寿坊、勾当坊、華臺坊、安祥寺、十境坊、真寂坊、明星坊などがあった。
 ここは戦国末期に原山無量寺(原八坊)の「山上衆」が移り住むと云う。(山上町の語源)
 西都聖庿全圖0(上掲)、西都聖庿全圖・トレース(上掲)では「山上町」の地名が見える。
△2011/03/23追加:
 慶応3年天満宮境内絵図1(上掲 ・文字の判読が困難)、慶応3年天満宮境内絵図・トレース(こちらは文字鮮明)では本殿裏手に多くの坊舎が並ぶ様が描かれる。
 北側山上町筋東には南から衆徒八家の六度寺・常修坊・宝寿坊と安行社、西には南から衆徒八坊の華台院・安祥寺・十境坊・真寂坊・明星坊が並んでいた様が描かれる。
 現地は未見であるが、本殿裏側にある「お石茶屋」を初めとする茶屋・茶店などがかっての寺坊の跡と思われる。
であるならば、佐賀市在住の方の云う遺構・遺物は安楽寺天満宮の寺坊のそれの可能性が強いと推測される。
△2011/04/22追加:写真は2011/04/13撮影
 佐賀市在住の方の云う遺構・遺物は以下のように判明する。
◆大宰府天満宮神職の談
・本社裏側に多くの茶店があるが、この場所は検校坊・清盛院のあった場所である。
・茶店の一つである「お石茶屋」の西の石段を上がった場所に多くの石仏のある場所があるが、これは明治維新後に新に寺院が建立されその後廃寺となった跡である。
その寺院の名称は「安楽寺」と称するも、安楽寺天満宮とは全く何の関係もないものである。
  廃明治安楽寺石階:廃明治安楽寺へは石階を登り、平坦地に至る。
  廃明治安楽寺石仏:石階を登ったところは本堂・庫裏などが建立できる平坦地があり、周囲には多くの石仏が並ぶ。
 
(石仏の判読できる銘から判断すると、石仏の大多数は四国八十八箇所札所の本尊石仏であり、ほぼ88の札所が完存すると思われる。この石仏が明治「安楽寺」のものであれば、真言宗であったのであろうか。また「安楽寺」の寺号は廃寺となった「安楽寺天満宮」を意識した寺号であったのであろうか。なお「お石茶屋」での聞き取りでも、「この茶屋の西・西北の場所はお寺の跡と聞いている」との言がある。)
   ◇現地の遺物:例えば「石仏台石1」には「釈迦(如来)、一番 安波(國) 霊(山寺)」とあり、
    また「石仏台石2」には「十一面観( 世音)、四十八番 西林寺」とあり、四国霊場の石仏を示す。
    戒壇石「不許葷酒入山門」も石階途中にあり、ここが寺院の石階であることを示す証拠とも思われる。
 (またこの明治「安楽寺(廃寺)」の裏の境界には「天満宮」とのコンクリ−トの標示印が埋められ、安楽寺天満宮の所有地であるとの標示がなされてているので、この土地の所有は天満宮のものであろう。)
・旧原八坊は三条通りの左右に面して建っていた。現在は三条通り左側に六度寺の後裔(宮小路氏)が唯一居宅を構える。駐車場のある場所である。
  山上町現況:南から撮影、現在は三条通 と云うも、この通りの左右にかっては衆徒8院が並んでいた。
  衆徒六度寺跡:宮小路氏邸 :坊舎の遺構などはなく、居宅は比較的新しいものと思われる。
・神主小鳥居家が居を構える場所も坊の跡地である。
  
衆徒8坊跡地:坊舎名不明、現在は小鳥居氏邸(この居宅も比較的新しいものと思われる。)
・明治の神仏分離では北野は神社として、安楽寺天満宮は寺院として存続すると云うのが安楽寺の願いであったがついにその願いは叶わなかったと天満宮では理解している。


安楽寺天満宮相輪橖

2011/01/21追加:
「図録太宰府天満宮」太宰府天満宮編輯、1976 より
 ○安楽寺天満宮相輪橖
刹堂として絵図に描かれる。
相輪橖の銘は以下のように記すと云う。
享和2年(1802)博多の竹下禄助昌秀の寄進によって建立。文政年中(おそらく文政11年<1826>)に大風で倒壊。
弘化4年(1847)延寿王院により再興される。
青銅製、高さは約5m、最下部の径は20cm。
明治の神仏分離で、理由は不明ながら、一旦博多へ移されるも、明治22年旧地付近に再建される。
現在の石垣は明治22年の新築と云う。
20011/03/23追加:
「太宰府市史 建築美術工芸資料編」太宰府市史編集委員会、1998 より
明治の神仏分離で撤去、明治7年博多浜口町に移築、明治22年旧位置である東花園に移築再建、昭和52年に現在地に再度移築する。
青銅製で中に木柱が入っているかどうかは不明。
刹部分全面に縁起と寄進者名を陰刻する。その中に「奉寄進 享和2壬戌年」、「明治22年1月再建 並 石垣新築 博多大浜町発起」、
「明治7年に浜口町を云々」とある。
2011/04/13撮影:
 安楽寺天満宮相輪橖1     安楽寺天満宮相輪橖2     安楽寺天満宮相輪橖3     安楽寺天満宮相輪橖4
 安楽寺天満宮相輪橖5     安楽寺天満宮相輪橖6     安楽寺天満宮相輪橖7     安楽寺天満宮相輪橖8


各地の天満宮

2011/12/17追加:2011/12/10撮影
○安芸甑天満宮:安芸本郷岸ヶ岡
延喜元年(901)菅原道真太宰府に左遷の折、当地に上陸し、水不足に困る住民のため自ら井戸をほり、清水を得る。
住民は甑で糒を蒸し、管公にお礼をし、後この甑を神体として祀る。これが岸ヶ岡天満宮の由来である。
 管公手掘井1     管公手掘井2
 


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