信 濃 阿 弥 陀 山 清 水 寺 三 重 塔

信濃保科清水寺三重塔・阿弥陀山清水寺三重塔・保科観音堂

信濃保科清水寺三重塔は様式上室町初期(もしくは鎌倉末期)の建立と推定される。
各層三手先。中備は間斗束(3層は中央間のみ)。初重の縁は珍しく肘木と斗で支える。
大正5年5月10日の保科の大火で、大日堂(鎌倉・永仁2年<1294>)、500m余の参道杉並木とともに火災焼失する。

信濃保科清水寺三重塔

1)「戦災等による焼失文化財」 より

信濃保科清水寺三重塔:下図拡大図

三重部分図:下図拡大図

初重部分図;下図拡大図

2)「史料 清水寺大日堂及三重塔」関野貞(「建築雑誌第355号」大正5年7月25日) より


清水寺三重塔詳細部写真

大日堂と三重塔とは特別保護建造物に指定せられたる者なりしが去5月10日の火災に焼失せしことは本誌前々号に其概略を載せたり、・・・而も先般文部省に於て嘱託高塚孝次郎氏に命じ之を実測せしめ詳細なる実測図大半なしし時偶此火災あり図面だけでも後世に伝ふることを得たりしは僥倖と謂ふべし・・・・
 前々号を調査するも不明

清水寺三重塔詳細写真:左図拡大図

清水寺塔詳細写真その2:左図と同一写真

 

三重塔は寺伝大同元年の創立と称す再建年代明らかならざれども鎌倉時代の末期約600年前の頃の者なるべし。
方三間三層の塔婆にして斗栱は唐様肘木を用ひて純和様の三手先の組物を造り斗栱間に平束を置けり軒は二重垂木にして斗栱と一種の関係を有せり大日堂に比し年代の後れたる証拠となすべし各層共に支輪の部には近世支輪を撤去して菊水文様の彫刻を充たせるは惜しむべし各層の高欄も亦後世の改修なり。
各層共に四面中の間唐戸初層脇間は嵌板他の上層の脇間には連寺窓を作れり初層四面に廻縁をめぐらし内部床拭板敷後に偏して柱二本を立て其前面に仏壇あり天井は二重折上小組格天井なり。
各層屋根柿葺にして鉄製相輪を上げたり装飾は簡にして外部木材丹土塗壁白塗なり。
此塔各層軒の出多く塔身屋蓋共に減縮の度多きを以て安定の外観を呈せり且各層柿板を以て葺けるを以て頗軽快の風を帯び相輪の長さ塔身に対し最適当なるにより塔の形態をして一層秀麗ならしむることを得たり。

清水寺三重塔実測図: 左図拡大図

清水寺三重塔平面図
清水寺三重塔詳細図2

保科清水寺実測図

3)保科清水寺絵葉書

2017/01/16追加:
s_minaga蔵絵葉書
 保科清水寺絵葉書:左図拡大図
通信欄の罫線が3分の1であり、かつ「きかは便郵」とあるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのものであろう。
さらに、この絵葉書は使用済で、消印の日付は判読不能であるが、一銭五厘の田沢切手<大正2年(1913)〜昭和12年(1937)>が貼付されているので、大正2年(1913)から大正7年(1918)3月までの製作であろう。
そして、大正5年に塔が焼失ということであるので、大正の初期のものに間違いはなく、その意味で焼失直前の三重塔写真であろう。

信濃保科清水寺三重塔跡

三重塔跡は現在も塔基壇・礎石などを残す。  

「X」氏ご提供画像(2002年10月下旬撮影画像)

三重塔基壇一辺は8.87m(説明板の説明)、四天柱礎石・側柱礎石を残す。
また基壇上周囲は切石で囲み、その切石と側柱礎石との間は四半敷の敷石(切石)が残存する。

 

長野市サイトより転載
  信濃清水寺三重塔跡
 

 

塔跡南東隅礎石
 :「X」氏ご提供画像(2002年10月下旬撮影画像)

三重塔跡ほかに、大日堂礎石・仁王門跡(江戸初期建立・三間ニ間・12個の礎石と基壇四面列石を残す)・経堂・釈迦堂・観音堂などの跡を残すと云う。

2008/11/追加:2008/11/13撮影



保科清水寺塔跡概要
 (あくまで概要のイメージ図で、正確なものではない。)

 保科清水寺塔跡概要:左図拡大図

塔基壇一辺は約9.10m・・・何れも実測値
塔一辺は約4.30m(芯芯間)
 中央間は約1.70m、両脇間は約1.30m(芯芯間)
脇柱礎は23個、四天柱礎は北側の2個を残す。
心礎は無かったものと思われる。
 礎石の大いものが80×70cm、小さいもので60×50cmである。

基壇縁石(切石)と脇柱礎間の基壇上面は長方形(四半敷)の敷石(切石)が敷き詰められているものと思われ、その切り揃えられた敷石がほぼ完存する。



 


保科清水寺三重塔屋敷:東面と南面は積石で塔屋敷を造る。
保科清水寺三重塔跡1:東より撮影
保科清水寺三重塔跡2:北東より撮影
保科清水寺三重塔跡3:北東より撮影 :左図拡大図
保科清水寺三重塔跡4:北西より撮影
保科清水寺三重塔跡5:北より撮影
保科清水寺三重塔跡6:南より撮影
保科清水寺三重塔跡7:南より撮影
保科三重塔跡北面基壇   保科三重塔跡西面基壇
保科三重塔跡南面基壇   保科三重塔跡東面基壇

保科三重塔跡北脇柱礎   保科三重塔跡西脇柱礎
保科三重塔跡南脇柱礎   保科三重塔跡東脇柱礎

保科三重塔跡東敷石1:写真左に長方形敷石が続く、右は東脇柱礎
保科三重塔跡東敷石2: 同上
保科三重塔跡東敷石3: 同上の敷石拡大写真
保科三重塔跡敷石4:西南隅部分の長方形敷石
保科三重塔四天柱礎石:左の礎石列が四天柱礎石、右は北脇柱礎





 

信濃保科清水寺大日堂

「史料 清水寺大日堂及三重塔」関野貞(「建築雑誌第355号」大正5年7月25日) より
大日堂はその形式を見るに、鎌倉時代の中期を下らざる者の如し、柱礎に永仁2年6月10日阿弥陀山清水寺云々と刻みしありたり・・・
国宝たる本尊大日如来の像及四天王像等を安置せしが是等は建物と共に祝融の災に罹れり。

大日堂は単層、桁行5間、梁間5間、屋根は寄棟造茅葺。
 清水寺大日堂:外観
 清水寺大日堂外部詳細   清水寺大日堂内部詳細
 清水寺大日堂実測図    清水寺大日堂横断面図    清水寺大日堂縦断面図    清水寺大日堂部位実測図

2008/11/追加:2008/11/13撮影
保科清水寺大日堂跡:三重塔跡北西にある。大部分の礎石が原位置を保ち残存する。
 保科清水寺大日堂跡1     保科清水寺大日堂跡2

2005/04/0追加:
「日本社寺大観/寺院篇」京都日出新聞社編、昭和8年(1933)より
 □清水寺本堂:大正12再興本堂と思われる 。
記事:「室町時代足利義政に依り、三重塔婆を及び堂舎33坊を建立、・・
大正5年本村大火の際類焼し、大日堂、三重塔(3間3層塔婆、屋根杮葺、室町時代)の国宝建造物を初め一山伽藍焼亡して、一宇の余す所なし。」

信濃保科清水寺概要

寺伝では天平14年(742)行基が千手観音を刻み安置したのを創建とする。
延暦2年(801)坂上田村麻呂がこの観音に祈願をし、凱旋のあと大同元年(806)伽藍を再興したと云う。
三重塔などの堂塔、30余の神社、33の坊舎が建立されたと伝える。
その後幾多の興亡があったと伝える。
本堂は文明元年(1469)の建立とされる。惣門・仁王門以下の諸堂は近世の再建と思われる。
大正5年の焼失前には、総門・鐘楼・本堂・庫裏などの他、仁王門から観音堂に至る参道両脇には経蔵・三重塔・大日堂・釈迦堂・薬師堂・八将社などがあったが、すべて焼失する。
なお
明治42年大和石位寺より信濃保科清水寺に仏像16体が売却され、そのうち以下の7体が重文指定となる。
 (※売却理由は経済的困窮と思われる。)
 (※売却は大火の翌年・大正6年であり、大火後の復興として購入という見解もあるようです。)
木造聖観音菩薩立像(重文・藤原末期と推定・寄木造・像高177cm)
木造千手観音(重文・藤原中期と推定・像高139cm)
同上脇侍地蔵菩薩像(重文・藤原末期と推定・寄木造・像高159cm)
木造阿弥陀如来立像(重文・藤原末期と推定・寄木造漆箔像・像高161cm)
木造薬師如来坐像(重文・藤原中期と推定・一木造・像高185cm)
清水寺の古仏像群のひとつで、奈良県から移されたものである。
木造広目天立像(重文・藤原末期と推定・像高150cm)
木造多聞天立像(重文・藤原末期と推定・像高153cm)

長野市若穂保科1949

2008/11/追加:2008/11/13撮影
 保科清水寺仁王門跡
 保科清水寺本堂:大正5年の大火後の再建と思われる。大正12年再興か。
   (経堂・釈迦堂跡は未見)
 保科清水寺観音堂:昭和47年頃再興と思われる。
 


2006年以前作成:2017/01/16更新:ホームページ日本の塔婆