阿波大滝山三重塔は昭和20年の空襲で焼失する。
★阿波名所図会(文化9年刊):阿波大滝山三重塔
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塔建立は、寛延年間(1748-52)と云う。 巻之上 大滝山持明院:左図拡大図
記事:
「真言宗。山上の南に観音堂・祇園社・行者堂・・・その東十宜亭のうえそばだてる山頭に大塔あり。
この所の眺望は殊に絶景なれば、別に図せり。・・・山下の正面にはニ天門・本堂ありて・・・」 |
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大滝山からの景観:左図拡大図
(左に大滝山持明院三重塔が描かれる)
上掲の記事に「別に図せり」とあるが、本図はこの「別図」である。 |
★大滝山古図
「持明院建立当時の歴史的背景」河野幸夫/編、1970<河野氏の手書資料> より
徳府建治寺之図
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徳府建治寺之図:左図拡大図 作成年代・作者とも不詳。
天保年中に作られた水盤が無いので天保以前と推定される。
大阪の後藤捷一郎氏蔵 |
大滝山持明院境内図
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大滝山持明院境内図:左図拡大図
文化年中か?、大阪後藤捷一郎氏蔵
大門(仁王門)、薬師堂(本堂)、護摩堂、中門、玄関、方丈、庫裏、客殿、長屋、台所門、経蔵、太子堂、三重宝塔、観音堂、庵堂、西国33ヶ所、谷汲観音、八祖堂、真珠庵、求聞持堂、蛭子社、天満宮、祇園社、八幡社、稲荷社、愛宕社、十宜亭、三宜亭、白糸茶屋、茶屋などが描かれる。
なお大門脇に大水盤が描かれる。(図が少し切れている)
この水盤には天保の銘があったと云い、今次大戦で金属供出され姿を消したと云う。 |
★焼失前の大滝山三重塔
2012/06/06追加:「Y」氏ご提供画像:
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◆絵葉書
徳島景観・大滝山古塔:左図柵大豆現在までに入手できた最も鮮明な画像である。
相輪、屋根、軸部などの詳細をある程度、窺うことが出来る画像である。
相輪の露盤・伏鉢・請花などの絵柄が分かる。
屋根初重・二重は本瓦葺であるが三重の屋根は銅板葺であろうか。
斗栱の詳細は分からないが、軸部は和様を用いる。長押には釘隠などに金具を用い、また勾欄下の斗栱の木鼻などには江戸後期の関東風な華やかさが見える。
初重中央間扉は唐桟戸、両脇間はやや天地の狭い連子窓であろう。
屋根4隅には風鐸を吊る。 |
2016/10/07追加:
◆絵葉書/三重塔の桜(徳島眉山)
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三重塔の桜(徳島眉山):左図拡大図
本人(s_minaga)蔵
表の表示は 「きがは便郵」 とあり、これは昭和8年2月以降、昭和20年迄のものである。
また、通信欄の罫線が2分の1 であり、これは大正7年4月〜までの形式であり上記の期間と矛盾はしない。
従って、本絵葉書は昭和8年2月以降、昭和20迄の間のおのであろおう。 |
2011/06/02追加:「Y」氏ご提供画像
◆「徳島大滝山」絵葉書
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徳島大滝山」絵葉書:左図拡大図 大正7年-昭和7年頃の発行絵葉書と推定される。(「Y」氏推定)
「角屋発行」とある。
おそらく下に掲載の彩色絵葉書大滝山三重塔2(徳島県立文書館)と同じ絵葉書であろうと思われる。
なお、右下に屋根が半分写る堂宇は大門(仁王門)であろうか。 |
2011/06/02追加:「Y」氏ご提供画像
◆「櫻花爛漫の眉山」絵葉書
2012/05/14追加:「Y」氏ご提供画像
◆絵葉書「徳島大滝山」
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絵葉書:
徳島大滝山:左図拡大図
明治40年〜大正6年の作成と推定。(「Y」氏による)
右端に写るのは、大門と薬師堂(本堂)であろうか。 |
◆大滝山三重塔写真
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◆大滝山三重塔1:左図拡大図
「眉山案内附徳島公園 」昭和12 年所収
◆大滝山三重塔2:※画質は相当に粗い
「阿波名勝案内
」明治41年 所収
記事:残っているのは三重塔、三宜亭、祇園社等・・・・・
持明院は明治4年に廃毀、隣地の春日寺(春日公園)も同時に毀される。 |
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◆大滝山三重塔3:
左図拡大図
「眉山案内附徳島公園 」昭和12 所収:春日神社社頭より
◆大滝山三重塔4: ※画質は相当に粗い
「眉山:廃坑跡
」平成9年 所収
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20010/01/28追加:和田之屋所蔵三重塔写真
20010/01/28追加:
◆徳島市西新町航空写真:徳島県立文書館蔵(※2)
・・・・・撮影年代は不明、昭和20年空襲前写真
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◇徳島市西新町航空写真1:部分
中央やや右上に大滝山三重塔、その直下の伽藍は持明院、その周囲には寺町の寺院群の大屋根が写る。
◇徳島市西新町航空写真2:部分:左図拡大図
大滝山三重塔部分図、周囲には若干の堂宇らしきものも写るも不明。
◇徳島市西新町航空写真3:部分
持明院部分図、少なくとも本堂(薬師堂)および大門(仁王門)が確認できる。
これらの堂宇は昭和20年の空襲で焼失。 |
★大滝山絵図類 2011/06/02追加:「Y」氏ご提供画像
◆「徳島県瀧山観花の景况」:「風俗画報」187号(明治32年4月15日発行) より
※石版画、「團藍舟」画(目次による)と云う。
◆描かれた大滝山三重塔
「徳島市:鳥瞰図」吉田初三郎、昭和10年
表紙絵
(大滝山三重塔):下記拡大図
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「徳島市:鳥瞰図」吉田初三郎、昭和10年、徳島市鳥瞰図(部分):下図拡大図
(2010/11/01追加)
「徳島市:鳥瞰図」吉田初三郎、昭和10年、(裏)名所案内:下図拡大図
塔は大滝山三重塔(2010/11/01追加)
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★大滝山持明院
徳島眉山山中・山麓には持明院をはじめ、瑞巌寺、観音寺、竹林院、春日寺(春日神社)、八坂神社、天神社、諏訪神社など多くの寺社が集められ、また山下には遷国寺、浄智寺、東宗院、法華宗(敬台寺、本行寺、妙永寺、善学寺、妙典寺、本覚寺)、来福寺、源久寺、安住寺、善福寺、願成寺、般若院、・・・などが移転し寺町を形成する。蜂須賀家政の阿波入国に伴い、勝瑞や旧領地から多くの寺院が移転されたことによる。
2010/11/01追加:昭和11年徳島市街全圖
:大滝山に薬師と塔(記号)がある。眉山山麓には寺町が形成されている様が窺える。 持明院は大滝山建治寺と号す。真言宗。
創建は不詳、三好氏城下勝瑞に建立され、蜂須賀氏入部に伴い、眉山中腹に移転されたという。江戸期にはおおむね100石の寺領を有する。
上記の阿波名所図會では山腹には滝、観音堂、祇園社、行者堂、三十三所観音堂、八祖堂、坊舎、十宜亭、大塔などがあり、山下には仁王門、本堂(本尊薬師如来)、方丈、庫裏、天神社、絵馬堂、八幡宮などが存在したことが知られる。
阿波記では甘露閣、三層塔、十宜亭、真珠庵、太子堂、列祖廟、管公廟(天神社)、祇園、愛宕、八幡などがあるとする。
三重塔は寛延(1748-51)に大阪治右衛門、吉田作兵衛が東奔西走し浄財を集め、建築したという。
なお余材で太子堂が作られ、太子堂は彫刻で飾られた堂と伝える。(明治26年放火で焼失。)
江戸期には藩の保護を受け、寺領もあり、一応寺院経営は安定していたものと推定される。
しかしながら、幕末には寺院の世俗化とともに多くの伽藍を維持する経費も膨れ、困窮する。
(春日寺の住職任命権を持っていた持明院は金品の多寡で春日寺住職の落札入寺を左右したと伝えられる。)
明治維新で、蜂須賀家が公式祭祀を神式に改め、藩の保護もなくなり、さらには寺領も廃止され、明治4年には廃寺となる。
封建権力に依存した寺院であったため、檀家を持たず、このことも廃寺の一因であったのであろう。
方丈書院などは井上高格(※)の手に渡ったという。
神仏分離の処置で、祇園社が八坂神社と改称される。
要するに明治維新で旧秩序が崩壊し、一挙に経済的基盤を失い、持明院は廃寺となる。
※井上高格:徳島藩目付、京都に出、長州藩と交わる、帰藩して徳島藩を尊王に導く、明治元年軍監として奥羽鎮定に従軍、明治4年徳島県大参事、明治22年初代徳島市長に就任、翌23年第1回総選挙当選、明治26年逝去。
廃寺ののち
仁王門、本堂(薬師堂)、三重塔、祇園社は昭和20年に空襲にて焼失するまで存続。
三宜亭、白糸茶屋は大正年間まで存続。 昭和14年頃、三重塔の維持管理が困難になり、売却の話が出ていたと云う。
おそらく薬師堂(常慶院と号する)が三重塔を管理していたと思われるが、
薬師信仰には塔は関係無く、例え塔が無くても薬師信仰には変わりなく、さらに売却代金を基金にすれば、貧寺・常慶院も維持できるであろうとの目論見があったとされる。
これに対しては、三重塔は眉山の景観に欠かせないものであり、また歴史上・建築上の価値もあるとの反対意見も出されたと云う。
昭和14年三重塔は所有者の真言宗宗務支庁の手を離れ、徳島市の管理に移管される。
明年度から予算が計上され、管理人を雇い入れ塔の保護管理にあたることになる。
なお塔内には五智如来が祀られていたと云う。丹塗りであったと伝える。 2010/11/01追加:
「大滝山(持明院の周辺)調査」河野幸夫ほか6名(「郷土研究発表会紀要第15号」1970 所収) より
◇大滝山持明院建治寺の建立と経過
「阿波志」では「持明院、・・・旧在勝瑞村、・・・・・天正中命移薬師像二、一自勝瑞移安方丈、一自名西郡建治寺移作堂安之、三名大滝、
・・・(略)・・・封禄百石又賜・・・・・」とあり、
持明院は旧には勝瑞にあり、さらに天正年中勝瑞像は方丈に名西郡建治寺の薬師像2躯は堂を作って移すと云う。
ちなみに持明院が勝瑞にあったことは
「阿波三好大状前記」の三好氏取立寺院52ヶ寺の内の勝瑞所在7ヶ寺に持明院<祈願所>、春日寺<祈願所>などが記録されていることで分かる。※元来持明院は三好氏の取立寺院・祈願所であった。
薬師像2躯を移すとは「蜂須賀蓬庵」徳島県、大正3年 では以下のように云う。
蓬庵(家政)、文禄年中の朝鮮渡海で薬師如来の瑞夢を得、帰国後(文禄2年頃)名西郡入田村建治寺を大滝山に移し、
両寺を合わせ大滝山持明院建治寺と名づく。」
※「瑞夢を得」とは後世の作り話としても、持明院と建治寺を合わせたのは「阿波志」に述べる通りである。
なお、建治寺の本尊薬師如来は新に薬師堂を建立しここに移安したということ(「阿波志」)で、
かっての薬師堂の瓦には「建治寺」の記名のある瓦があったと云う。
◇大滝山持明院建治寺の伽藍とその位置
「阿州三好記並寺立屋敷割次第附宝物数々」には
持明院 堂宇には客殿(5間×9間半)、庫裏(4×8間)、取次(3間四方)、玄関(2×3間、唐破風造)、鐘堂、護摩堂(4間四方)、土蔵、下坊主部屋、表門、裏門、寺立は東向き、本尊薬師
観音(ママ)・・・(以下略)・・・
とあり、天正年中これ等の堂宇が大滝山に移築されたものと推定される。
なお、入田の建治寺の伽藍については何も資料が残らない。
ところで、大滝山の絵図は3種が残る。その3種は上掲の
「1)阿波名所圖會:大滝山持明院」、
「2)徳府建治寺之図」、「3)大滝山持明院境内図(渡辺広輝写)」である。
そのうち、渡辺広輝は晩年江戸に再度出るまで、持明院に正対する善福寺に起居(叔父が善福寺住職と云う)していたので、「大滝山持明院境内図」は信頼に足るものと思われる。(渡辺広輝:徳島藩絵師、安永7年<1778>〜天保9年<1838>)
この絵図のうち1)と3)を比較すると、
1)と3)に共通して描かれる堂宇は以下の通り。
仁王門(大門)、本堂(薬師堂)、玄関、方丈、庫裏、長屋(台所門)、太子堂、三重塔、西国33所、観音堂、八祖殿(堂)、僧庵(真珠庵)、
蛭子、天神(天満)、祇園、八幡、十宜亭、休亭(三宜亭)、茶店
3)のみに描かれる堂宇は以下の通り。
護摩堂、書院、客殿、経蔵、谷汲観音、求聞持堂、稲荷社、愛宕社、白糸茶屋、水盤(朝顔型)
○天保年中の持明院伽藍配置想定図(渡辺広輝写図による)
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天保年中持明院伽藍配置想定図:左図拡大図
明治末期に徳島市が持明院境内地を公園化したが、往時の石階・石垣・石橋・井土などの遺構や堂塔跡の平坦地(八祖堂、真珠庵、観音堂の平坦地には民家が建つ)がそのまま残され、位置の確定は比較的容易であった。
三重塔には地盤石が残存するとある。地盤石とは良く分からないが、土壇周囲の石であろうか。
三重塔・太子堂は寛延(1748-)年中の建立。(「阿波名所案内」) |
持明院は明治維新で廃寺、廃寺当時は善福寺の管理であった関係上、什宝・什器類は全て善福寺に移管されるも、昭和20年の戦災で一切が焼失する。廃寺後の持明院の方丈・書院などのあった区画は井上高格の所有となる。所有に至る経緯はよく分からない。
井上高格所有地は明治27年まで井上氏所有、以降8回所有者が変り、昭和12年天理教維持財団に所有に帰し、現在に至る。
明治20年頃、美馬郡脇町岩倉真楽寺住職箸蔵善竜が持明院再興を企図し、その趣意書が残ると云う。
旧薬師堂は後に高野山から常慶院の院号を得て独立寺院となる。
◎現地の現状は以下の通り。
薬師堂(滝薬師)脇の石畳の道を抜け、石階を登ると、三重塔のあった場所に至る。
現在この場所には、三重塔を偲ばせるものは何もない。
三重塔跡には聖観音堂(昭和50年頃の建立とされる)が建つ。
なお
聖観音堂下には塔礎石が残存し、須弥壇を動かすと、床下に下りる出入り口が開き、礎石を見ることができるというが、未確認。
※毎月7日(10:00〜)が聖観音の縁日?で、この日には世話人(聖観音讃仰会か?)が出座し、開扉されると云う。
2010/01/19撮影:
常慶院薬師堂:現在の薬師堂(写真中央)、古の持明院薬師堂で元位置に再建、写真手前石階の付近に大門があったものと推定される。
薬師堂向かって左手に三重塔に至る石階があり、三重塔は本堂背後の山腹にあった。
聖観音堂21 聖観音堂22:堂向かって左に石階が残る。古は何かの堂宇があったものと推定される。その石階上から撮影。
大滝山宝塔石階1:
宝塔跡にいたる石階(以下同じ)。薬師堂向かって左の石階、左の店は「和田乃屋」。
大滝山宝塔石階2:左は薬師堂屋根
大滝山宝塔石階3 大滝山宝塔石階4
大滝山宝塔石階5:
以上の石階が殆ど唯一三重塔のあった時代を偲ばせるものであろう。
参考文献:
「阿波名勝案内」石毛賢之助/著、黒崎精二、1908.02
「徳島市:鳥瞰図」吉田初三郎/著、徳島市役所産業課、1935(表紙絵)
「眉山案内附徳島公園」小川 袖香(小川 国太郎)/著、小川袖香、1937.04、(「三重塔」P5)
「徳島(其の一):叢書・粟種袋 巻七」田所眉東(田所市太)/著、元木久二郎、1937.05、所収「大瀧山の三重塔問題」P43
「大滝山持明院建治寺について」河野幸夫/著(「ふるさと阿波(阿波郷土会報)」阿波郷土会、第57号、1968 所収)
「持明院建立当時の歴史的背景」河野幸夫/編、1970<河野氏の手書資料>
「阿波志 巻一・二」藤原 憲/編、1991(「大瀧山」P99、「持明院」P112)
「眉山:廃坑跡」多田茂信/著、多田茂信、1997.01
2010/11/01追加:
「大滝山(持明院の周辺)調査」河野幸夫ほか6名(「郷土研究発表会紀要第15号」1970 所収)
2006年以前作成:2016/10/07更新:ホームページ、日本の塔婆
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