紀  伊  東  光  寺  多  宝  塔

紀伊東光寺多宝塔

紀伊東光寺多宝塔

紀伊国名所図会 熊野編巻之2 湯の峠 に見る東光寺
記事:「石碑(湯の峠の入口にあり):遊行上人が夢想によって、熊野権現より授かるところの四句の「えつ」を刻しあり・・・」
記事:「多宝塔(三間四面なり) 本尊多宝如来、文殊・普賢(仏師春日の作あるいは定朝作とも)。
塔内四方板張にして、真言八祖の画像を描く、筆者不明なるも、後鳥羽上皇の御建立なりといふ。
宝塔(2基)俗伝、小栗勘重の石碑なりとも云ふ。
観音堂(地蔵堂)」
記事:「医王山東光寺(湯之峰にあり。役行者の開基にして真言宗なり)本尊薬師如来云々」

「湯之峰東光寺境内、浴槽及びその付近の図」:下図拡大図

多宝塔(部分図):下図拡大図

西国三十三所名所圖會:巻之2に見る東光寺
薬王山東光寺:(湯峰にあり。開山役行者と云ふ。無本寺にして真言宗なり。・・・)
記事:「多宝塔(川の西岸にあり。本尊釈迦仏並びに文殊・普賢を安ず。春日の作と云ふ。
内陣四面の板壁には六祖大師の像を図す。伝えて云ふ。飛騨内匠の造る所とぞ。)
・・・当寺の本堂・宝塔は後鳥羽院の御建立と聞ゆ。・・」

東光寺全図:下図拡大図

東光寺部分図:下図拡大図

紀伊東光寺概要

2013/07/13追加:
現在は天台宗。薬王山と号する。
寺伝では天仁元年(1108)鳥羽天皇の勅願により寺領が寄進され、ここに多宝塔が建立されたのが草創と云う。
また、伝承では湯峰温泉の源泉の周囲に湯の花が自然に積り、薬師如来の像形となる。これを裸形上人 (天竺からの渡来僧・熊野那智補陀洛山寺、那智山青岸渡寺/那智山熊野権現如意輪観音堂を開創)が発見し、湯峯薬師が祀られたと云う。元来本尊薬師如来の胸から温泉が噴出していたので、湯の胸温泉と呼ばれていが転訛し湯の峰温泉の名になったと云う。
さらには「西国三十三所名所圖會」では役行者の開創とも云う。
鎌倉期の熊野曼荼羅図には、湯峯金剛童子が薬師堂に隣接して描かれる。(上掲「西国三十三所名所圖會」にも本堂左に描かれる。)
つまり、湯峰王子と東光寺は一体のものとしてあったようである。
中世には温泉とともに時宗の念仏聖が管理していたと思われる。〈伝「一遍上人爪書名号」正平20年/1365年銘)が残るのもその例証か。)
近世の姿は上掲載の「紀伊国名所図会」、「西国三十三所名所圖會」や下掲載の「紀伊續風土記」に記載の様相を呈する。
○「紀伊續風土記 巻之八十五」
 「牟婁郡 四村荘 湯峯村から
 王子権現社
境内に薬師堂あり 本尊薬師如来は湯花にて自然に成れる座像にて形状石佛の如く岩上にあり 堂を其上に作りて覆ふ 堂下は一面の大岩といふ 昔は薬師の体中より湯沸き出しといひて胸上に小穴あり 持佛堂に二重の多宝塔あり 多宝塔は後鳥羽上皇の御建立といふ 又多宝塔の南に石の宝筐印塔あり
 別当 東光寺 薬王山 真言宗古義無本寺本宮社家支配
村中にあり 王子権現社領五石 社堂共に宮の修造といふ 社役は本宮西座の内より勤む 総て湯の事は別当の支配なり 浴室銭湯の制あり 皆別当へ納む」
天正18年(1590)豊臣秀吉が修造、片桐且元を奉行として薬師堂・多宝塔が修造される。
元和年中、5石の社領となる。別当東光寺は本宮社家支配。
寛永10年〈1632〉の「本社及摂末社其外諸建物目録」では、3間四方の薬師堂、王子、湯屋、瑞籬、多宝塔、6×5間の東光寺、門とある。
「熊野三山図」・「熊野三山絵図添目録扣』」(何れも熊野那智権現所蔵)には同様の建物が記され、薬師堂、王寺社、多宝塔、上湯屋は造替対象と記されると云う。
明治の神仏分離の処置で住職は還俗、本宮の神官となり、明治5年には廃寺、但し建物の破壊は免れたようである。
明治12年那智山青岸渡寺末の天台宗寺院として再興される。
明治36年湯の峰温泉の火災に類焼、本尊及び仏像類は取り出され残存する。
昭和6年本堂(薬師堂)が再建される。
なお、木造釈迦三尊像(釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩)は釈迦如来蓮華座上面墨書から、慶長17年〈1612〉の造立で、多宝塔本尊と云う。
また、湯峰王子は「西国三十三所名所圖會」では本堂左に描かれるが、現在では東光寺の裏手の丘の上に再建されているようである。

◆紀伊東光寺多宝塔現状:未見
明治36年堂塔や湯峰王子を焼失。薬師堂はその後再建されたが、塔は再興に至らず、打ち捨てられているものと思われる。
2013/07/13追加:
「日本の塔総観 近畿地方篇 増補改定版」昭和48年 では以下のように云う。
「熊野本宮の神宮寺湯峰温泉東光寺にも明治初年まで多宝塔があった。左甚五郎作と伝える精巧なものであったようで、今跡は交番となり、その横にこの温泉の開発者大阿刀尼の墓と伝える宝篋印塔がある。」
 ※大阿刀尼:大阿刀足尼(おおあとのすくね)、熊野国造、宝篋印塔が現存するが、勿論後世のものと云う。
なお、付近には「伝一遍上人名号石」もある。


2006年以前作成:2013/07/13更新:ホームページ日本の塔婆