攝  津  平  野  熊  野  権  現  社  多  宝  塔

攝津平野熊野権現社多宝塔

摂津名所圖會(寛政年間刊行)に見る多宝塔(部分図)
記事:「宝塔(阿弥陀如来を安置す)、観音堂(もと修楽寺本尊、後世ここに移す)」

★和漢三才図会・記事・・・禁林寺・大師堂・多宝塔(飛騨の工が造る)・・・

2004/10/4追加:
平野郷社縁起絵巻(杭全神社蔵、享保3年<1718>)

平野郷社縁起絵巻(杭全神社冊子より転載)・・・左図拡大図

中央に多宝塔、左に3殿、右に大門が描かれる。

攝津平野熊野権現社(熊野三社権現)

明治の神仏分離で、杭全神社と称する。
社伝では、貞観4年(862)、坂上広麻呂(田村麻呂の子)の子当道の時代、八坂祇園の牛頭天王を祀ったのが始まりとされる。
その後熊野信仰が盛んになり、熊野三社権現が勧進され、さらに本地阿弥陀如来を安置する多宝塔等の伽藍が整備され、平野郷の信仰の中心とな る。
攝津名所圖會では多宝塔、観音堂、大師堂(弘法大師)、行者堂などの堂宇が描かれる。
神宮寺は修楽寺と称し、12坊があった。
東坊・大門坊・池之坊・前之坊・南乃坊・北之坊は宮方と称し熊野権現社の社僧であり、
西光院・中之坊・乾坊・宝寿坊・玉泉坊・西之坊は堂方と称し修楽寺の寺僧であった。
本地仏の薬師如来を祀る全興寺は奥の院と称し、また付近の長宝寺は熊野権現と一対として祀られる。

明治3年:神仏分離で杭全神社と改号す。
明治4年:多宝塔、観音堂、鐘楼、行者堂を取り壊す。
東坊は残るが、後に全興寺の庫裏とする。西光院は個人の別邸に転用。境内南西の十王堂は個人宅に転用。
明治15年:長宝寺の大師堂はもと田村堂(田村麻呂像を安置)で、長宝寺の田村麻呂像を杭全神社に移し、熊野権現の大師堂の弘法大師像を長宝寺に移す。
その他仏事関係の什宝は長宝寺に多く移されると云う。

杭全神社神仏分離一件」明治維新神仏分離資料、曽根研三氏稿

明治維新までは牛頭天王として崇敬され、別に熊野権現、證誠殿、若一王子、八王子等の諸殿が本殿右側に建てられていた。
神社としての信仰は熊野権現であった。社内には神宮寺12坊があって社僧が奉仕する。
以上とは別に同地の全興寺の本尊薬師如来が本地仏とされ、全興寺は奥の院といわれる。
長寶寺を神社と同列に扱って、同地の豪族坂上一族が支配する。

  熊野権現全図(享保版)

慶応4年の神社寺院書上帳には観音堂、十王堂、鐘楼堂、行者堂などの名称がある。
明治2年2月:牛頭天王の社号を廃し、杭全神社と復称する。
杭全神社を本社と称し、熊野神社、證誠殿、若一神社、八王子社と称する。
明治3年12月の神社取調ヶ条書上帳:杭全社は惣社号、本社熊野大神社、摂社證誠殿とし
末社は若一王子社、八王子社、元観音堂、元多宝塔、元鐘楼堂、元行者堂とする。
即ちこの段階では、形式上は仏は廃されるも、堂宇はまだ取り払割れず健在であったのであろう。
明治4年の神社取調ヶ条書上帳には仏堂関係の名称が消え、取り壊されたことが推測される。
明治4年3月12日の口上(相談):
  社僧中物語相改めたことは、本社熊野三社の前脇の観音薬師両仏は長寶寺田村堂の前脇に移替申上げる。云々
この時の相談により、社内大師堂と長寶寺田村堂とは互いに建物は移さず、本尊と神体とを取り替える結果となる。
十王堂は神社境内境に移され、人家として明治末ころまで存続したが、明治末ころ荒廃して退転したという。
12坊のうち
東坊は社僧が神職とはならず、他所から来た神職の住居としたが、それも不浄として、連歌所を社務所として住し、東坊は全興寺に移し庫裏とする。明治10年ころには東坊、寶壽坊、池之坊、西光坊以外は廃され ると云う。その後西光坊は同地素封家末吉氏が寺本であった関係上、別荘として手を入れたため、唯一旧態を保つという。
 この熊野権現の神仏分離は比較的穏やかなものであった模様である。その理由はこの熊野権現の神社組織に由来するのであろう。
熊野権現は古来から平野郷を支配する坂上一族及び郷民の氏神であり、牛頭天王も両者の崇敬の的であり、全興寺薬師如来は牛頭天王の本地仏であり、同地の長寶寺は坂上氏の氏寺である と云うような関係であった。信仰面では支配層も非支配層も神仏習合 について違和感はなく、むしろ神仏を分離する方が不自然であったと推測される。

2004/10/4追加:
平野熊野権現社の現状

平野権現社境内図( 元禄期と推定されている。)

平野権現社境内図(左図拡大図)

詳細に建物の配置が分かる。但し鎌倉期のものとされる大門の記載が無いの不審である。
北西にあった宝珠院、池之坊はマンションに、北にあった玉泉坊は公園に、東之坊のあった付近が墓所に、中之坊、大門坊、西光院、前之坊のあった場所は瑞宝殿などに、そしてその他の坊跡は民家になると思われ る。

杭全神社社頭現況
南より大門(鎌倉期)方面を撮影、左は大門坊、西光院、前之坊のあった坊舎跡、右は中世の環濠の土居跡である。

全興寺・末吉家・長宝寺墓所碑
元東之坊(と思われる)付近は表記の墓所となっているようで、全興寺・長宝寺・平野熊野権現の深い繋がりが伺える。
※末吉家は坂上家の庶流とされる七名家の筆頭とされる。

大師堂は田  村 堂として境内西に移建されて現存する。

連 歌 所(宝永5年<1708>)は元地に残る。

攝州平野大絵図」(「平野郷小史」から転載)

攝州平野大絵図」(宝暦13年<1763>9の周囲に熊野権現および長宝寺の略縁起が記載され る。
図版はその部分である。

推定多宝塔跡

推定多宝塔跡(左図拡大図)

多宝塔跡については明確には分からない。神社側に聞くも明快な回答を得ることは出来ず。
現地の様子および古の境内図などとの対比で、大門を入って左側付近にあったと思われる(写真の中央部付近)。ここには近年までえびす社があり(北側に遷座)、また後先は聞き漏ら すも、大きな記念碑があった場所と云う(大門の外に移転)。

田村堂 (元大師堂)

神社にただ1宇残る仏堂である。元境内北東にあった大師堂で、弘法大師を祀る。明治維新で大師像を長宝寺に遷し、長宝寺の田村像をこの堂に遷す。また時期 は不詳であるが、大師堂も北東位置から現在の西側位置に移建された模様である。
慶安2年(1649)の建築。

本  殿

三殿前置中門
(この奥に3殿が鎮座、三殿は直接拝見は出来ないと思い込みをするも、脇から入ることが出来るとも思われる。)
本殿< 三殿>
(杭全神社冊子から転載、向かって左の春日造社殿が第1殿で貞観4年<862>祇園社を勧請したことに始まる、正徳元年<1711>大和春日社より移築、重文。中央の3間流造の社殿が第2殿で、元享元年<1321>熊野三 所権現を勧請したことに始まる、永正10年<1513>修造、重文。右の春日造社殿が第3殿で建久元年<1190>熊野證誠権現を勧請したことに始まる、永正10年<1513>修造、重文。 )

伝鐘楼基壇:但し疑問

神社側によると、現田村堂前右の繁みの中に鐘楼跡が残っているという。確かに袴風の整然とした石の基壇が残る。
しかしながら、基壇の大きさについては、上面で方1m弱しかなく、よほどのミニチュアで無ければ鐘楼堂としてはあり得ない大きさであろう。
絵図の場所と照らし合わせるも多少北にありすぎるし(神社側では鐘楼も移動したと思われるとの見解)、また石の基壇もそんなに古いものとは思 われず、大いに疑問がある。この基壇は小祀を載せるに相応しい基壇であり、鐘楼の基壇ではないであろう。

熊野牛王宝印」の護符 を入手する。元和3年の版木(社宝)で印刷したものとされる。

長 宝 寺

大同年中(806〜)坂上田村麻呂娘春子(桓武天皇妃)が兄広野麻呂の地盤平野に来て開基したと伝える。
以降坂上氏の氏寺として、坂上氏の女子が入寺し、法灯を継いできたという。
梵鐘は建久3年(1192)の銘があり、山城東山金光寺の鐘として重文指定、絹本着色「仏涅槃図」(鎌倉・重文)も有する。
現在はすこぶる衰微し、単に市井の小寺院の形態であるが、かっては鎮守、僧坊(阿弥陀院、勢至院、○○院<判読できず>、来迎院、正林庵、光林庵・・・「攝州平野大絵図」) を具備したようである。
田村堂には田村麻呂像を安置していたが、明治の神仏分離でこの像と平野権現社の弘法大師像とを取り替えると伝える。

長宝寺大師堂(蜜祖堂の扁額を掲げる。旧田村堂なのかどうかは未確認。)
長宝寺鐘楼および梵鐘(梵鐘には建久3年の銘がある、重文。)

参考資料

「杭全神社」杭全神社発行小冊子
「平野郷小史」杭全神社発行小冊子


2006年以前作成:2007/05/13更新:ホームページ日本の塔婆