京 都 相 国 寺

京都五山萬年山相國承天禅寺三塔婆:次の3塔が存在したことが諸史料から分かる。

 ◆鹿苑院三重塔(中世三重塔)・・・・・康暦2年(1380)創建、文正元年(1466)焼亡。
 ◆足利義満七重塔・・・・・・・・・・・応永6年(1399)足利義満建立落慶、文明2年(1470)雷火で焼失、高さ360尺(109m)と伝える。
 ◆後水尾天皇三重塔(近世三重塔)・・・承応2年(1653)後水尾天皇建立(宝塔再興)、天明8年(1788)焼失<天明の大火> 。


後水尾天皇三重塔(近世三重塔)

2014/11/07追加:
◆後水尾天皇三重塔(近世三重塔)
○「相国寺史稿」
承応二年(1653)八月十八日
 後水尾上皇、院旨により三層宝塔を再建。この日立柱。
○「相国寺史稿」
明暦二年(1656)六月十六日
 宝塔落慶供養。
  ※明暦2年(1656)後水尾天皇三重塔落慶・・・但し、この三重塔は天明8年(1788)の大火で焼失する。

◆天明年間刊「都名所圖會」巻1の相国寺 より

後水尾天皇三重塔は仏殿の西南にある。
山城相国寺:下図拡大図

山城相国寺三重塔:部分図:下図拡大図

京洛細見図(寶永版)

 相国寺:京洛細見図(寶永版):三重塔が描かれる。

後水尾天皇三重塔(近世三重塔)建地割図および諸資料

大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(上京第二學區之部)
三重塔址
法堂の西にあり。承応2年(1653)後水尾天皇建立。本尊大日如来を安ず。天明8年(1788)焼失す。
万延2年( 1861)二層閣を再興し帝御持念の佛舎利を収む。
 ※いわゆる「天明の大火」で焼失し、その跡地 は「後水尾帝歯髪塚」であり、
 その南に現在のニ層閣が再興と思われる。
 

2006/01/05追加:
「日本塔総鑑」:承応2年(1653)建立、天明8年(1788・天明の大火)焼失。
その跡に万延元年(1860)建立のニ重宝形造の建物がある。明治33年少し南へ移す。
 

2008/02/27追加:「古図にみる日本の建築」より
相国寺大塔建地割図: 左図拡大図
年代は不詳ながら、承応2年(1653)後水尾天皇建立といわれる三重塔建地割図とも思われる。

2008/12/07追加:
「山城名跡志」巻之21」(僧白慧、元禄15年<1702>)
○塔 三重 在仏殿西南東面 本尊大日如来 坐像2尺78寸許 後水尾院御再興
 将軍家譜曰 応永6年9月相国寺七重大塔供養高360尺云々 当寺今無所


三重塔跡想定地及び現存宝塔

2014/11/07追加:
◆現存宝塔(二層閣、経蔵)
○「相国寺史稿」
万延元年(1860)三月十日
 宝塔立柱。
○「相国寺史稿」
万延元年(1860)八月十九日
 宝塔落慶。
  ※万延元年(1860)現存「宝塔」落慶という。

◇法堂の南西・仏殿跡西に二層閣がある。
2003/6/26撮影:
 三重塔跡想定地1(宝塔・経蔵)  三重塔想定地2(宝塔・経蔵)
この二層閣は「宝塔」とも称される。一切経を収めた経蔵でもある。
2014/10/30撮影:
万延元年(1860)天明の大火で焼失した宝塔は、二層閣として、近世三重塔跡に近接する南に、再興される。
この宝塔は再興される時、蔵経置場を兼用することとなり、以来宝塔兼経蔵としの位置を占める。
しかし、現在、仏舎利は他の堂宇に移され、この堂宇は経蔵としてのみ機能しているという。
 相国寺宝塔(現経蔵)11     相国寺宝塔(現経蔵)12

2008/02/27追加:
後水尾天皇三重塔跡はこのニ層閣(宝塔・経蔵)のすぐ北側「後水尾帝歯髪塚」のある地と云う。
「後水尾帝歯髪塚」(後水尾天皇三重塔跡)
相国寺のサイト「相国寺のあゆみ>後水尾上皇の出家」では次のようにいう。
 元和6年相国寺焼失、再興は難渋するも、後水尾上皇は以下の援助を為す。
 寛永18年(1641)旧殿を下賜、これを移築して方丈を再建。
「宝塔の再建も上皇に依る。もともと宝塔は、足利義満が建立したが、応仁の戦火で焼失する。
上皇の再興塔は法堂の西南に、高さ約30m、三層造りで建立、上皇落飾の時の髪と歯を上層の柱心に収納する。
なお、この塔も天明八年(1788)焼失、現在の塔は南へずらし、塔の址は御陵に編入される。これが現在の後水尾天皇御歯髪塚となる。」
同じく「後水尾帝歯髪塚」のページ・・・現在このページの内容は削除されていると思われる・・・では次のようにいう。
 「承応2年(1653)後水尾上皇、焼失した大塔を再建、その時、出家落髪の時の髪と歯を上層柱心に納めるも、天明8年(1788)の大火で焼失、その跡地に歯髪塚を建てたものである。」
2008/09/11撮影:
 相国寺二層塔・近世三重塔跡:二層塔右の区画が近世三重塔跡
 相国寺近世三重塔跡1     相国寺近世三重塔跡2(後水尾天皇御歯髪塚)
2014/10/30撮影:
「後水尾帝歯髪塚」の位置に近世三重塔があり、その後の宝塔は「歯髪塚」の南に建立される。
 相国寺近世三重塔跡11     相国寺近世三重塔跡12     相国寺近世三重塔跡13
 相国寺近世三重塔跡14     相国寺近世三重塔跡15
法堂:重文、慶長10年(1605)豊臣秀頼によって再興、天井画「鳴龍は狩野光信の手になる。
 相国寺法堂1     相国寺法堂2     相国寺法堂3     相国寺法堂4
 相国寺法堂5     相国寺法堂6     相国寺法堂7     相国寺法堂鳴龍
 相国寺三門跡     相国寺勅使門:天明の大火を免れたと伝えられ、慶長頃の再建と推定される。      相国寺放生池
 相国寺方丈・庫裏:何れも文化4年(1807)の再建。     相国寺方丈     相国寺庫裡
 相国寺鐘楼:天保14年(1843)再興
 相国寺弁財天:細部の様式から江戸中期の建物と推定される。
 相国寺鎮守八幡大菩薩
 相国寺大通院     相国寺光源院     相国寺養源院     相国寺普広院


鹿苑院三重塔(中世三重塔)

2014/11/07追加:
◆鹿苑院三重塔(中世三重塔)
◇「相国寺供養記」:塙保己一編纂、「群書類従  第二十四輯・釈家部」所収
明徳三年歳次壬申八月廿八日丁丑、天顔快晴、秋気清爽。今日万年山相国承天禅寺供養也。(中略) 今者金殿玉堂、朱楼宝閣、周垣廿余町也。所造之殿門等。
 棑門(妙荘厳域)           惣門(万年山)
 山門(前有相国承天禅寺門池有橋)   仏殿(覚雄宝殿有之。東西有廊)
 土地堂(冥資)            祖師堂(密符)
 法堂(雷音堂)            庫院(香積院)
 僧堂(選仏場)            方丈
 浴室(宣明)              東司(西浄)
 講堂                  鐘楼
 塔頭 鹿苑院(有三重塔婆)常徳院 雲頂院 資寿院 大智院
 帰一集雲以下、寮舎等不遑毛挙
  ※明徳3年(1392)8月には、万年山相国承天禅寺供養が行われ、この時の境内の規模は周囲二十余町、
  堂塔には棑門、 総門、 山門、仏殿、土地堂、祖師堂、法堂、庫院、僧堂、方丈、浴室、東司、講堂、鐘楼、塔頭などがあり、
  塔頭鹿苑院には三重塔婆があったという。
◇「相国考記 応永五年六月二十五日条」
六月廿五日、太相公(義満)命絶海(中津)和尚、慶讚於鹿苑院三重宝塔(為香厳院殿<足利義隆室>七周忌也)
  ※応永5年(1398)六月二十五日には、足利義満鹿苑院三重塔慶讚すという。
◇「蔭涼軒日録 嘉吉元年五月十五日条」
十五日隆寿院御成。御点心。(中略) 鹿苑院宝塔在所。以蓮池之南地被定。
  ※嘉吉元年(1441) 五月十五日には、鹿苑院宝塔造営地を蓮池の南に定めるという。
  ※おそらくは、鹿苑院三重塔は嘉吉元年前に退転と思われる。
◇「蔭涼軒日録 長禄三年八月二十九日条」
鹿苑院塔婆、修造事始
廿九日当院修造事始在之。蓋塔婆之事也。(以下略)
 ※長禄3年(1459)八月二十九日には、鹿苑院塔婆修造事始めという。
◇「蔭涼軒日録 寛正三年十月三日条」
三日(中略) 当院塔婆造営材木杣船頭。(以下略)
 ※寛正3年(1462)十月三日には、鹿苑院塔婆の材木が手配とされるという。
◇「蔭涼軒日録 文正元年四月二十六日条」
四月六日鹿苑院大破
当院鹿苑。同蔭涼及大破。仍為修理。(以下略)
 ※文正元年(1466)四月六日には鹿苑院大破するという。
◇「蔭涼軒日録 文正元年五月六日条」
六日奉報下当軒御成御点心可申案内之事上也。 御成。 (中略)
当院塔婆。先以一重加修造之由披露之。(以下略)
 ※文正元年(1466)五月六日には、室町幕府、鹿苑院に木材を寄進して、塔婆を修造させるという。
◇「斉藤親基日記 文正元年十二月二十日条」
廿日、午刻、自右京兆門前在家出火、内藤寺町等火、余炎飛行而
鹿苑院之塔婆南門、(此外無為)、蔭涼軒之東門、廊下、惣寺門并風呂、東司、鎮守、法住院以下回禄、(以下略)
◇「大乗院寺社雑事記 文正元年十二月二十四日条」
(前略) 一相国寺之法界門并鹿薗院之新塔焼失、此外大焼失(以下略)
◇「大乗院寺社雑事記 文正元年十二月二十八日条」
(前略) 一自京都書状到来、大嘗会事去十六日より廿一日マテ無為)
無事、去十九日細川内藤三郎左衛門家より火出テ、鹿薗院塔・相国寺之東司・総門・脇門・湯屋・法住院以下モ、河崎観音堂・天神
等焼失了(以下略)
 ※文正元年(1466)十二月二十日には鹿苑院塔婆・南門、蔭涼軒東門、廊下、総門、風呂、東司、鎮守、法住院焼失という。
 ※文正元年(1466)鹿苑院三重塔は焼失し、以降再興はされずと思われる。

2003/8/18追加
「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊
三重塔:明徳2年(1394)6月慶讃
絶海語録曰、香巌院従一品芳林大夫人、鹿苑院の三重塔を讃、五大虚空蔵菩薩を奉安。
永享日録曰、嘉吉元年(1441)鹿苑院宝塔の所在、蓮池の南の地に定めらるべし。
斉藤血親基日記曰、文正元年(1466)・・・門前の在家出火、・・・鹿苑院の塔婆、南門、蔭涼軒の東門・・・・法住院以下回録す。・・・

  大正5年「京都坊目誌」上京第三学区の部
  康暦2年(1380)創建の三重塔があった。
  明徳5年(1394)三重塔を慶賛し、五大虚空蔵菩薩を安ず。(絶海語録)
  嘉吉元年(1441)宝塔の在所を蓮池の南に定む。(永享目録)
  文正元年(1466)此塔焼亡。(親基日記)

※鹿苑院(義満の法号でもある)は足利義満の菩提所(塔所)で、後に相国寺塔頭となり、僧録所が置かれる。
 天明の大火で鹿苑院は焼失し、その後再興されるも、明治維新の混乱で廃寺となる。


相国寺七重塔(足利義満)

2014/11/07追加:
相国寺七重塔
◆相国寺七重塔創建
◇「大日本史料」:東京大学史料編纂所編纂」
明徳3年(1392)十一月三日
相国寺大塔(七重塔)の基礎を定めるという。
◇「相国考察」:「相国寺史料 第一巻」、藤岡大拙・秋宗康子校訂、相国寺史料編纂委員会編思文閣出版、1986 所収
「明徳四年六月二十四日条」
六月廿四日、当寺大塔立柱、其疏云、准三宮従一位左相府征夷大将軍源義満
切念七層宝塔、奉安五智如来、茲当立柱之辰、仰祈鎮基之祐云云
   年月日 源義満疏(見于当寺 古回向集)
  ※明徳4年(1393)6月には、相国寺大塔立柱という。
◇「大日本史料」
応永6年(1399)九月十五日
相国寺大塔供養、義満これに臨む。

◆相国寺七重塔炎上
◇「大日本史料」
応永10年(1403)六月三日
雷火により、大塔炎上し、鐘楼が焼亡するという。
2016/06/16追加:
 応永10年(1403)如是院年代記
 〈癸未〉十 相国寺大塔炎上。
2016/06/16追加:
 応永10年(1403)6月3日兼宣公記
 入夜甚雨、雷鳴、雨脚聊休止世時分、相国寺大鐘頻有声之間、乍驚立出寝所、欲相尋子細之処、相国寺大塔炎上〈云々〉、…則参御共、入御相国寺、此時分御塔已倒了、依余勝場[定、下同ジ]院已焼亡、
2016/06/16追加:
 応永10年(1403)6月3日大乗院日記目録
 相国寺大塔、炎上。

◆相国寺大塔を北山に再興   北山大塔跡(鹿苑寺七重塔跡)
◇「大日本史料」
応永11年(1404)四月三日
足利義満、相国寺大塔を北山に建てるため立柱の儀を行うという。
2016/06/16追加:
 応永11年(1404)4月翰林葫蘆集
 鹿苑院殿百年忌陞座/…同十一年四月、復於北山建七層大塔
2016/06/16追加:
 応永11年(1404)4月3日大乗院日記目録
 北山大塔立柱

◆北山大塔炎上
◇「看聞日記 応永二十三年一月九日条」(「看聞御記」)
九日、雨降、戌刻雷電・暴風以外也、此時分赤気耀蒼天、若焼亡歟、之由不審之処、北山大塔(七重)為雷火災上云々、雷三度落懸、僧俗番匠等捨身命雖打消、遂以焼失、併天魔所為勿論也、去応永七(十)年相国寺大塔(七重)、為雷火災上、其後北山ニ被遷之、造営未終功之、処又焼失、末代不相応歟、法滅之至可悲可歎、軈又相国寺ニ被遷可被建立之由、則有其沙汰云々、(以下略)
  ※応永10年相国寺七重大塔雷火炎上、北山に遷した大塔が再び焼失。
  ※応永23年(1416)には、相国寺内に移転再建が計画されるという。
◇「満済准后日記 応永三十二年 八月十四日条」
十四日。晴。未初刻相国寺ノ塔頭乾徳院焼失。其余炎ニ常徳院雲頂院鹿苑院寺内七堂以下方丈文庫鐘楼一宇モ不残悉焼失。纔塔頭六ヶ所相残計也。崇寿院勝定院大徳院大智院恵林院大幢院等也。門前東西在家同焼失。妙荘厳域門焼失。酉半ニ焼閑了(以下略)
  ※応永32年(1425)八月十四日には相国寺火災により、乾徳院、常徳院、雲頂院、鹿苑院、
  寺内七堂以下方丈・文庫・鐘楼を一宇モ不残悉焼失というから、おそらく大塔も類焼すると思われるも、良く分からない。
2016/06/16追加:
 応永23年(1416)1月9日如是院年代記
 戌刻北山大塔雷火
2016/06/16追加:
 応永23年(1416)1月9日満済准后日記
 戌刻雷鳴頗消肝畢。亥初刻北山大塔為雷火焼失。一両度落懸云々。初ハ奉行僧打消云々。 <>BR>
2016/06/16追加:
 応永23年(1416)1月9日大乗院日記目録
 夜北山大塔炎上雷火、未述供養

◆相国寺再興大塔
◇「蔭涼軒日録 嘉吉元年二月十五日条」
相国寺十境を定める
山門十境名。書而献之。十境名曰 祝釐堂、護国廟、円通閣、功徳池、大宝塔、洪恩音楼、天界橋、竜淵水、般若林、荘厳域、天界橋。図而懸御目
  ※嘉吉元年(1441)には「大宝塔」が相国寺十境にあるので、大塔は存在していたのであろう。

◆相国寺再興大塔焼亡
◇「扶桑五山 九十三、玉崖和上」
(中略)再住、維馨和上、応仁元丁亥七月十九日入寺、同年十月』 三日卯刻、敵軍攻寺、従庫堂出火、七堂并東方諸院・鹿苑、一時為焦土
(中略)
文明二庚寅十月三日亥刻、大宝塔燼于雷火矣、焔光達旦不滅、見之者如堵牆
◇「山科家礼記 文明二年十月四日条」
四日、天晴、(中略)
一、過夜(子剋??)相国寺塔焼上、依落雷火焼亡之段其沙汰在之(以下略)
  <従って、過夜とは文明2年(1470)」十月三日ということである。>
  ※文明2年(1470)雷火で焼失と伝えられる。
2016/06/16追加:
 文明2年(1470)10月3日親長卿記
 亥刻許雷鳴大雨下、暫相国寺塔婆時残了[去々年寺中悉焼亡云々]、為雷火焼失
2016/06/16追加:
 文明2年(1470)10月3日大乗院日記目録
 相国寺塔焼亡、雷火
2016/06/16追加:
 文明2年(1470)10月5日尋尊大僧正記
 去三日夜相国寺大塔焼失歟云々

2016/07/11追加:
○北山大塔相輪の破片発掘との報道発表:
2016/07/08北山大塔相輪の破片が出土と報道発表がある。
その中で、相国寺七重塔のCGによる復元画像が提示されたので転載する。
 相国寺七重塔復元CG:復元考証・冨島義幸、CG作成・竹川浩平という。(このCGは北山大塔ではなく相国寺七重塔の復元である。)

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中世にはおそらく史上最も高い木造塔とされる「相国寺七重塔」があった。

応永6年(1399):落慶供養。足利義満が父義詮の33周忌追善供養のため建立。
 <明徳3年(1392)足利義満が基礎を定め、明徳4年(1393)立柱>

高さは360尺(109m)と伝える。
この塔婆は高さでは、東大寺・法勝寺塔婆を凌ぎ、おそらく史上最も高い塔婆であったと推定される。

応永10年に焼失。
応永11年北山に移建。(この項は疑問と云う説もある。)
応永23年(1416)再び焼失。相国寺に再建。(この項も疑問と云う説もある。)
文明2年(1470)雷火で焼失。
その後再建されず。

京洛に雄姿を見せていたのは、わずか175年間ほどであった。

相国寺東方・元毘沙門堂西の「塔の壇」が旧地と伝える。
 ※現地は全くの市街地で地上には塔を偲ぶものは何も残らない。
 


2006年以前作成:2016/07/11更新:ホームページ日本の塔婆