★三河猿投三社大明神(三社大権現)沿革:2007/06/09修正
創建は白鳳朱雀年中など諸伝があるが、詳らかにしない。
猿投山南麓に本社(下宮)が所在し、猿投山東峯に東宮、西峯に西宮(東西合わせて奥宮)が所在する。(猿投三社大明神と称する。)
正史での初見は「文徳実録」仁寿元年(851)に従5位下を授けられるとあることと云う。
神宮寺は白鳳寺と号し、現存する仏像などから平安後期には成立したとされる。(真言宗。)
中世には正1位として、大きな経済基盤があり、勢力を振ったとされる。
「社僧16坊之覚」、永享6年(1434)では、坊舎は16坊を有すると云う。
東円坊、宝蔵坊、東善坊、等覚坊、桂月坊、門隣坊、清浄坊、覚意坊、恵定坊、幸林坊、東林坊、
浄光坊、光明坊、蓮華坊、花蔵坊、妙覚坊、常泉坊、安居坊
豊臣秀吉、社領776石を寄進、江戸幕府も朱印776石を安堵する。
江戸中期の伽藍目録の内、仏堂に関しては
本社(半行社)本地・阿弥陀仏
勤行所(5間×4間)、篭所(3間×2間)、経蔵(礎石・5間×2間6尺)、神宮寺(5間×6間7尺)、護摩所(方3間)、
鐘楼堂(四方1丈)、塔(方3間)、十王堂(2間×3間)、地蔵堂(2間四方)、観音堂(山中、3間四方)、聖天堂(礎石・2間四方)
東宮(覚満大菩薩)本地・薬師如来
神宮寺(3間8尺四方)、篭所(礎石)
西宮(智満大菩薩)本地・千手観音
神宮寺(3間8尺四方)、篭所(礎石) が知られる。
神仏分離前までは、正月の修正会を始めとして、大般若経転読などの諸行事が毎月、上記の坊の持ち回りで盛んに執行される。
元禄15年(1702)「猿投山白鳳寺各院住持規條」では
多聞院、蓮蔵院、覚性院、龍性院、大智院、光明院、龍花院、蜜厳院、宝樹院、玉林院の10坊
宝暦12年(1762)「差上申一札之事」:「猿投大明神僧10ヶ寺之処、近年3ヶ寺致廃寺」
龍性院、光明院、大智院、多聞院、普賢院、覚性院、蓮蔵院になる。
嘉永6年(1853)7月31出火
本地堂、護摩堂、鐘楼、三重塔などが焼失。(経所は免れる)
神宮寺廃絶時(明治維新)には
住職がいたのは大智院、龍性院、光明院の3院のみ、多聞・普賢・覚性院は無住、蓮蔵院は退転という状況であった。
但し、名跡は廃寺まで存続する。
参考資料:「猿投神社神宮寺の修正会と「三河国内神名帳」の奉唱」(「国内神名帳の研究 論考編」三橋健、おうふう、1999 所収)
★三河猿投三社大権現三重塔沿革及び神仏分離
明治元年:社僧、勤皇の意を表明、神仏分離の実行、社僧の復飾と率先して神仏分離を行う。
・明治元年5月24日「白鳳寺言上書」で社僧の還俗が確認される。
別当龍性院(白鳳寺志摩)、社曽光明院(猿投典膳)、大智院(猿投市正)、蓮蔵院(猿投監物)、多聞院(猿投蔵人)、
普賢院(猿投帯刀)、覚性院(猿投主税)と復飾・改名・神勤す。
・明治元年8月の正式届出では以下の名称に改名。
龍性院覚賢は白鳳慶次郎、光明院覚円は森永貢一郎、大智院覚如は宮本逸二郎、
蓮蔵院勝源(浅野卯一郎)、多聞院真阿(榊原秀吉)、普賢院蜜道(牧野孝彦)、覚性院義教(森本玄一郎)
社僧は神職となり、従来の社家より上席を占め、軋轢を生む。(もっとも軋轢は旧来からであったが)
※なお蓮蔵院以下4院は無住であったが、7院揃っているのは、朱印地の権利配分を確保するためと推測される。
無住の4院は架空か、他所からの名義借りなのか、いづれにしろその素性は不明で、その後の動向は不明。
神仏分離の実際
1)社前の仏像・仏具・梵鐘等を全て取り除く。(東宮本地仏・西宮本地仏)
ただし本社神宮寺本尊阿弥陀如来坐像(鎌倉)、観音堂本尊十一面観音立像(藤原)・
同左脇士不動明王(室町)・同左脇士毘沙門天(室町)、堂不明釈迦如来坐像(貞治2年1363)は観音堂に現存、
東宮薬師如来坐像(鎌倉末)は猿投町日尾野家、同薬師如来坐像(室町)は藤岡町深見磯前神社薬師堂、
同薬師如来坐像(鎌倉)は藤岡町迫下切薬師寺(磯前神社裏)に
西宮聖観音立像(藤原末期)は広幡町山本家、同釈迦如来坐像(鎌倉)は永沢寺→清洲町田島賢城、
同毘沙門天(室町)は篠原町永沢寺に現存する。
また仏典等も多数神社及び周囲の寺院に現存すると云う。
2)仏堂
鐘楼は太鼓楼に転用(梵鐘の行方は不明)、観音堂が現存する以外は取り壊し。
3)本社・夏経所及び経所:中門の両翼で、勤行所として現存。
神宮寺(本地堂):嘉永6年(1853)焼失、明治元年取壊し。
護摩堂:嘉永6年焼失。安政3年再建。現存。
鐘楼堂:嘉永6年焼失。安政3年再建。太鼓楼として現存。
三重塔:嘉永6年焼失。(神仏分離の直前に焼失)
庚申堂:嘉永6年焼失。
十王堂:嘉永6年焼失。
地蔵堂:嘉永6年焼失。
観音堂:現存。
聖天堂、三十三観音:現存せず。
東宮薬師堂(本地堂)、西宮観音堂(本地堂)・毘沙門堂:現存せず。
★猿投三社大権現三重塔跡:「X」氏ご提供画像
三重塔跡 :下記拡大図
神社社務所の傍らに塔跡があり「三重塔跡」の石柱がある。
|
塔跡礎石?
:下記拡大図
土壇もしくは基壇は明確には分からない状態と思われる。
写真の石は塔礎石とも思われる。 |
★2003/04/17追加(2003/4/10撮影) : 三重塔跡:下記拡大図
拝殿にいたる参道の中間点、左(西)に社務所があり、その前に三重塔跡がある。
三重塔跡の参道を挟んだ右(東)に神宮寺(本地堂)跡がある。
すなわち三重塔と本地堂は本殿のかなり前方の参道を挟んだ左右(東西)にあった。
三重塔跡2 三重塔跡3
2009/02/17追加:「三河国名所めぐり展」豊橋市二川宿本陣資料館、2005 より
●白鳳山勝景図:文化5年(1808)
○白鳳山勝景図:白鳳山を描いた12枚の1枚と云う、祭礼(名称は不明)の図であろう。
本社の社頭には多くの仏堂・塔・坊舎があり、猿投大明神の実態は寺院であったことが良く示されている図であろう。
●猿投大明神社頭焼失絵図面
|
○猿投大明神社頭焼失絵図面1:全図
嘉永6年(1853)、本地堂、護摩堂、鐘楼、三重塔など多くの堂宇が焼失、寺社奉行に提出した復興願書に添付した絵図と推定される。
○猿投大明神社頭焼失絵図面2:部分図:左図拡大図
屋根稜線に朱を入れて描いた社殿・堂宇・塔が焼失建造物であろう。
絵図のほぼ中央・入母屋造瓦葺の堂宇が神宮寺(本地堂)
本社・三重塔・本地堂の周囲はなお多くの坊舎が残る。
|
★三河白鳳寺心礎
社殿東南の杉の木の下に、伊保の白鳳寺のものと推定される心礎が残存する。(径1.3m高さ39cmとされる。)
「日本の木造塔跡」より
心礎:火災(被災)により上部が欠損。現状は径90cmの大きさ。
欠損はしているが、よく観察すると外径75cm、内径66cm、溝幅4.5cm、深さ2.5cmの枘溝が認められる。
また中心に方形の一辺13cm深さ10cmの枘穴もしくは舎利孔を持つ。
側柱礎(推定):1.4m×1m×60cmで中央に径30cm深さ10〜8.5cmの孔を持つ。
以下「X」氏ご提供画像。
写真及び「X」氏情報から判断すると、心礎は「高名な」舞木廃寺式心礎とされる。
ただし、現状心礎は周辺が割られ、一見それとは分からないが、注意深く観察すれば舞木寺式と知れる。
なお、この心礎は他所(伊保白鳳寺)から持ち込まれたものとされるが、猿投明神の神宮寺に関する可能性もあるとも云われ、どちらとも決め手を欠く。要するにここには塔心礎が2もしくは3個集められていることも可能性としては考えられます。
※猿投明神の創建は必ずしも明確ではないが、ここには早くから(古代に)神宮寺が成立していて、猿投明神の社頭には塔が建立されていた可能性も考えられるであろう。
「伊保白鳳寺」:猿投神社から少し離れた豊田市保見町の「伊保白鳳遺跡」を指すものと思われる。 『豊田の史跡と文化財』豊田市教育委員会(昭和六十年)の「伊保白鳳遺跡」の部分より。
「保見町を流れる伊保川の南岸丘陵裾をコの字形に抉って、伊保白鳳遺跡はある。
昭和45年の保見地区の圃場整備事業に伴う伊保川の流路の付け替え工事中に発見された一片の布目瓦により、この遺跡は白鳳時代の眠りより目覚めたのである。
この保見地区は『和名抄』記載の伊保郷に想定され、また、『延喜式』所載の伊保神社も北方御嶽山頂に鎮座して、遺跡や古墳の分布とともに、豊田地方の古代村落の中心地の一つであった考えられる。伊保遺跡そのものの性格は寺院跡であるのか、あるいは官衙、あるいはその他の遺跡であるのかは現在ではまだ確認できていない。
しかしごく一部分の試掘調査によって発見された白鳳時代の古瓦は、飛鳥の聖徳太子ゆかりの川原寺の古瓦と近似し、その優美な造形は岡崎市の北野廃寺、舞木町の舞木廃寺出土の古瓦とは随分と異なり、当時としては、都の香りの高いものであったであろう。
伴出した遺物に、鉄釘、須恵器、瓦塔の破片などもあり、古代寺院への思いは断ちがたい
また、保見地区に伝わる江戸時代後期の『伊保之記録』中にも「御嶽山頂に鎮座する蔵王権現は白鳳元年の建社であり、惣寺号を蔵王山白鳳寺と号し、白鳳の寺号はのち、猿投へ引き申す由」とある。
神仏混淆の当時の記述のため神社と仏閣が同じように扱われ、また、蔵王権現の位置もこの白鳳遺跡とは伊保川をはさんだ南と北であるため、この記述がそのまま白鳳遺跡すなわち、白鳳寺であるという訳ではないが、伝承として大いに参考となる。」
|
2003/6/10「幻の塔を求めて西東」より:
白鳳寺:大きさは115×105×高さ40cm、円柱孔68×5(幅)×5(深)cm、長方孔(舎利孔)14×13×深さ14cm、周囲著しく損傷。
※この白鳳寺心礎は「日本の木造塔跡」で云う舞木廃寺式心礎を指す。
猿投神宮寺:大きさは140×100×60cm、円孔径29/30×深さ8.5/10cm、奈良後期
※この猿投神宮寺心礎は「日本の木造塔跡」で云う側柱礎を指す。
★2003/04/17追加(2003/4/10撮影)
猿投神社礎石群:下
図拡大図
拝殿手前の右(東)に宝物庫がありその裏(東)に、上の写真のように礎石12個が集められている。
但し、写真は合成のため、撮影角度はばらばら、また位置・大きさなども正確を欠くが、おおよその状態を示すものとして掲載。
■写真上段の左端:推定白鳳寺心礎(周囲欠損)
推定白鳳寺心礎1
同
2 同
3 同
4 同
5
■写真上段の左から2番目:推定側柱礎
大きさは1.4m×1m×60cmで中央に径30cm深さ10〜8.5cmの孔を持つ。
※実測では、1.2m(下から1/3の差し渡しで最大幅ではない)×95cm×55cmで孔の径は27cm。
推定側柱礎その1
■写真上段の左から3番目;推定側柱礎?(左から2番目礎石とほぼ同じ大きさの、形状の良く似た礎石と思われる。)
但し、礎石の現状は、四角の枘穴?は、別の石が嵌め込まれセメント様?なもので埋められている。そして、その接合部には2本?の鉄パイプ様?なものが差し込まれた痕跡もあ
る。一時何かに転用されていたものとも思われる。
いずれにしろ上部の形状は不明であるが、仮に左から2番目の礎石と同じような孔の穿孔があったとすると、この礎石も側柱礎であった可能性は高いと思われる。
推定側柱礎その2_1 同
_2 同 _3
■写真上段右端および中段右端礎石:何の礎石かは不明
ほぼ正円柱の下部をカットした形をしていて、大きさは下部の径105cm、上部の径85cm、高さ40cmで、上部に径18cm高さ5cmの出枘を造り出す。(数字は
概数)2個ともほぼ同一の大きさで、かなり精巧な加工がされ、しかもこの加工は明らかに近世風の加工であろう。
※例えば、印象的には備中吉備津神社三重塔心礎と称する礎石(大きさはこの礎石が約倍の大きさであるが)に似ている。
以上のような観点また近世の層塔の使用礎石の例から見て、この礎石は近世の猿投明神三重塔の礎石であった可能性はあるとも思われる。
しかし、火災を受けたような形跡が無いのは難点ではあろう。
礎石その1(上段右端) 礎石その2(中段右端)
■写真中段右から2番目礎石:礎石なのかどうか不明、礎石だととしても何の礎石かは不明
48cm×47cmのほぼ正方形に加工され(一隅は欠損?する。)、中央に14cm角の方形枘孔(深さ未測定)を穿孔する。
近世の層塔の礎石は、このような形式の礎石が多用されたと思われる。(例えば、久能山五重塔側柱礎)
礎石その3
■写真中段右から3番目礎石:礎石なのかどうか不明、礎石だとしても何の礎石かは不明、あるいは燈籠などの台石か?。
ほぼ正八角形に加工され、対角の径93cmで、柱座とも考えられる径80cmの浅い造出を造る。
かなり精巧な加工と思われる。
礎石その4
■写真中段左端
これは自然石で、いずれかの堂塔の礎石であった可能性はあると思われる。
礎石その5
■写真下段の4礎石:礎石なのかどうか不明、礎石だとしても何の礎石かは不明
、あるいは何か石造品の台石の可能性も考えられる。
上部をほぼ台形の正八角形に加工する。4個ともほぼ同じ大きさで対角の径約88〜89cmを測る。
上部はほぼ平に削平される。
礎石であったとすると、近世に焼失した三重塔の礎石の可能性はあるでだろう。ただし火災の痕跡は無い。
礎石その6
2007/12/14追加:
「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
昭和12年に筆者が見出したものと思われる。(神殿の西南杉の木の下にあった。)
心礎;大きさは109cm高さ45cm、略円形に削られた花崗岩製。中央に12.5×13.5cm深さ12cmの枡形舎利孔を穿ち、周囲に径67cm、溝幅4.5cm、深さ2cmの輪状溝を彫る。外周は割られたものと推定される。
枡状舎利孔は筑前武蔵寺(知恩院本「上宮聖徳法王帝説」裏書;甲寅年(654)創建・・・筑前般若寺・筑前武蔵寺参照)、和泉禅寂寺(白鳳期の瓦を出土)、大和大窪寺(天武記の朱鳥元年(687)の条に封百戸と記載あり)、尾張甚目寺に見られ、枡状舎利孔を持つ心礎は7世紀後半の可能性が高い。
「猿投神社考」(小冊子):「天智天皇白鳳13年甲甲<これは甲申の誤写で白鳳12年>依有勅願一山、白鳳寺ト勅条ヲ賜フ。社僧口伝」とある。但し、如何なる文献からの記載かは不明。
また「醍醐天皇延喜22年(922)白鳳寺建立、惣号、猿投山白鳳寺」ともある。
三河白鳳寺実測図
★神仏分離の痕跡
以上の他、明治維新前の様子をかなり色濃く窺うことが出来る。
神宮寺(本地堂)跡
拝殿に向かう参道の中間あたりの右(東)・・・三重塔とは参道をはさんで相対する・・に残る。
堂の規模は5間×6間7尺という、従って、大堂ではなかったと思われる。
堂跡は雑木が繁る。切石の基壇および堂前の石灯篭および数個の礎石(と思われる)を残す。
神宮寺跡石標
神宮寺跡正面
神宮寺跡斜側面
神宮寺跡正面2
神宮寺跡礎石(推定)
神宮寺跡石灯篭(西灯篭の側面、龍性院とある)
その他の堂宇
旧鐘楼(現太鼓堂)
堂名不詳(仏堂の雰囲気を色濃く残す)
拝殿?など
なお観音堂などは、実見せず。
2006年以前作成:2009/02/17更新:ホームページ、日本の塔婆
|