巻之2:池上・本門寺

池上本門寺五重塔・宝塔・小宝塔(宝塔内)・奉安殿(取壊)・池上常仙寺三層堂

江戸名所図會:池上本門寺

新訂 江戸名所図会(ちくま学芸文庫版:市古夏生・鈴木健一校訂から

巻之2:長栄山本門寺

その2(門前・仁王門・五重塔等)

その3(祖師堂-今は大堂という-等伽藍中心部)

上図の合体(部分)および拡大図

2003/5/17
江戸図池上部分図:寛永10−11年頃の描画と推定

2013/08/22追加:
江戸名所圖會:長栄山本門寺(絵図全図)

長栄山本門寺:下図拡大図 (553KB)


池上本門寺五重塔

池上本門寺五重塔古写真

2011/05/02追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
 なお、五重塔古写真に鼓楼が写るケースが多いが、
この鼓楼は雑司谷鼠山感応寺鼓楼として天保7年(1836)頃建立、天保12年雑司谷感応寺廃寺取壊、鼓楼・水屋のみ直ちに池上に移建されたものと思われる。昭和20年今次大戦の空襲で焼失する。

明治6年撮影:「The Far East」より、池上本門寺蔵
 池上本門寺鼓楼・五重塔01
左端は水屋で、大黒堂はその奥に写る。
 ※何れも鼠山感応寺の遺構である。
  「The Far East」vol.V g]]U より


明治中期の撮影と推定;長崎大学付属図書館蔵
 池上本門寺鼓楼・五重塔02:左図拡大図
右に人物が写るが、それとの比較でこの鼓楼が大建築であったと分かる。

2003/03/31追加:
明治初頭の池上本門寺
 ◎池上本門寺五重塔・鼓楼

2006/07/22追加:
「ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真、マーケーザ号の日本旅行」より

第2回目の日本旅行(明治15年10月から翌年1月末まで)の撮影
 ◎大本山池上本門寺:左図拡大図:
   前項の図と同一の構図であるが、本図の方が鮮明。

2007/07/13追加:
「日文研」より(明治初期の撮影と思われる。)

池上本門寺五重塔古写真

池上鐘楼・五重塔 古写真1 :左図拡大図
池上鐘楼・五重塔古写真 2

2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より

大田区立郷土博物館蔵:
 明治39年以前五重塔

「本門寺五重塔修理工事報告書」文化財建造物保存修理技術協会、平成14年 所収
 大正3年頃五重塔:左図拡大図

「日蓮主義」2巻1号、日蓮宗宗務院、昭和3年 所収
 昭和3年池上五重塔

2012/09/28追加:
 池上本門寺絵葉書五重塔1     池上本門寺絵葉書五重塔2:何れも撮影時期不明

池上本門寺五重塔

池上本門寺五重塔:池上本門寺ご提供画像: (左の画像:2000/12/09、右の画像:2001/01/10ご提供)

2003/01/26追加:解体修理完工。
  ○池上本門寺五重塔 「X」氏2003/01/初旬・撮影画像

2003/04/11追加:
立教開宗750年慶賛事業の一つとして、五重塔解体大修理が行われる、2003年4月落慶。
  ※五重塔および解体大修理の様子などは「池上本門寺五重塔解体大修理」のページで公開される。
   (但し、現在、上記の解体大修理のページは削除される。)

◆池上本門寺五重塔:2003/03/26撮影画像

慶長12年(1607)<慶長13年>正心院日幸尼(将軍秀忠乳母)の発願で建立される。
 ※当初の塔建立位置:大堂の右手前、現在の鐘楼堂と対の位置という。
 ※慶長2年(1597)二代将軍徳川秀忠の疱瘡平癒を乳母の岡部氏(正心院日幸)が
 祈り、同13年(1608)池上本門寺に五重塔を寄進する。
慶長19年(1614)慶長19年の地震により被災(傾斜)・修理
元禄16年(1702)徳川綱吉の命で、祖師堂前から現在地に移築。
 ※慶長19年大地震で傾斜し、そのため移築修復されるとも云う。
宝暦3年(1753)修理
文政元年(1818)修理
嘉永7年(1854)修理、屋根葺替、3・4重を瓦棒銅板葺に変更
明治19年 屋根葺替
大正12年 関東大震災により傾斜
昭和9年 基壇石を補加
昭和33年 屋根葺替、避雷針設置
平成13年 平成9年からの解体修理完工

一辺4.85cm、高さ29.5m。(あるいは31.8m)
軒廻:初重は和様、2−5重は唐様を用いる。
斗栱は三手先、軒は初重平行垂木、2−5重扇垂木を使用。
中備は初重各間に蟇股(十二支の彫刻入)を置く。
屋根は初−2重:本瓦葺、3−5重:瓦棒銅板葺。

 

  池上本門寺五重塔1        同        2        同        3        同        4
    同        5:上図拡大図
    同        6        同        7        同        8        同        9
    同       10        同       11        同       12        同       13

◆2009/10/17撮影


池上本門寺五重塔21
  同        22
  同        23
  同        24
  同        25
  同        26:左図拡大図
  同        27
  同        28
  同        29:初重正面
  同        30:初重正面・西
  同        31:初重南
  同        32:初重裏・西
  同        33:初重北

2009/10/23追加:「建造物修理アーカイブ」 より
平成9〜14年解体修理:
現在、屋根は初重と二重が本瓦葺、三重以上が瓦棒銅板葺となるが、当初はすべて本瓦葺であった。
しかし、今回修理では当初の姿である本瓦葺へ変更を断念する。それは現状以上に屋根に荷重がかかるのは構造耐力上適切を欠くと判断であった。
初重の十二支の蟇股は位置が入れ替わっていたので当初の位置に復旧する。
 池上本門寺五重塔竣工内部

2010/05/28追加:「身延山五重塔の復元」文化財建造物保存技術協会、身延山久遠寺、2009.3 より
慶長13年竣工、設計は鈴木近江守長次。
 池上本門寺立面図     池上本門寺断面図:何れも五重塔
2013/08/22追加
「本門寺五重塔保存修理完成記念 一般公開資料」池上本門寺・大田区教委、平成14年(2002) より
 池上本門寺五重塔立面図     池上本門寺五重塔断面図

2011/02/19撮影:
 池上本門寺五重塔41     池上本門寺五重塔42     池上本門寺五重塔43     池上本門寺五重塔44
 池上本門寺五重塔45     池上本門寺五重塔46     池上本門寺五重塔47     池上本門寺五重塔48
 池上本門寺五重塔49     池上本門寺五重塔50     池上本門寺五重塔51     池上本門寺五重塔52
 池上本門寺五重塔53     池上本門寺五重塔54     池上本門寺五重塔55     池上本門寺五重塔56
 池上本門寺五重塔57     池上本門寺五重塔58     池上本門寺五重塔59     池上本門寺五重塔60
 池上本門寺五重塔61     池上本門寺五重塔62

2013/08/22追加:
「霊寳殿 池上本門寺の御霊宝と文化遺産」池上本門寺霊宝殿、平成21年 より
 初重奉安一塔両尊像:江戸初期、中央題目宝塔、向かって右多宝如来、左釈迦如来。
 露盤・伏鉢・請花:複製。慶長12年(1607)
 五重塔構造模型:解体修理の時、構造補強の検討のため製作されたと云う。


池上本門寺宝塔

2013/08/22追加:
○「池上本門寺多寳塔:平成の大修理」池上本門寺霊宝殿編、2010 より
◇現在の宝塔を建立する直前の池上本門寺
弘安5年(1282)日蓮上人池上宗仲邸(現在の大坊本行寺)にて入滅する。
遺骸は現在の宝塔の地に遷され、荼毘に付される。
遺骨は遺言により身延山に遷され、残った遺灰は池上に残り、廟所が建てられる。
 池上長栄山本門寺略圖:文政7年(1824)
宝塔は文政8年に着手されるので、宝塔建立直前の絵図である。
現宝塔の位置には「祖師御火葬所」とあり、石造と推定される宝塔が描かれる。その手前には「多宝塔」が描かれるが、実際には翌年の文政8年から着手されて、宝塔は完成してはいないが、完成時の想定であろう。
 祖師御火葬所/多宝塔:絵図部分
図の上中央左には祖師御明が描かれる。祖師御廟は石造と思われる宝塔が建ち、これも石造であろうか六角形の柵で囲まれる。
 祖師御廟:絵図部分

2011/01/31追加:
「東京都指定有形文化財池上本門寺宝塔保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会編著、2010 より
○「池上長栄山本門寺誌」明治29年発行
 高祖日蓮大士荼毘所
 客殿の西山際にあり 今其當蹟に一基の塔を建て多宝塔と云ふ 此直径三間の圓塔なり 天保元年(1830/文政13年)江戸茅場町永岡恭重再建す 當山四十七祖日教上人の代

2009/12/09追加:
○池上本門寺古図:  池上本門寺宝塔スケッチ
   被写体 : 池上(イケガニ)の聖域/Santuario d'Jkegani.
  掲載書名 :Il Giappone moderno : viaggio di Giovanni de Riseis /近代日本:ジョヴァンニ・デ・リセーイスの旅行
  編著者名 : Riseis, Giovanni de /リセーイス(リセイス)

2007/06/13追加:
○池上本門寺古図: 「外人の見た幕末・明治初期日本図会 文化・景観篇」池田政敏編、春秋社、1955 より
 池上本門寺宝塔:Netto?、時期不詳

2011/01/31追加:
池上本門寺古図及び古写真:
○「東京都指定有形文化財池上本門寺宝塔保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会編著、2010 より
 池上本門寺寳塔木版画: 作成時期不詳なれど 、宝塔建立に際して版行された摺物と云うので、宝塔建立の文政期のものであろうか、横溝家蔵

 幕末前後池上宝塔写真:幕末から明治初年頃、「古写真で見る江戸から東京へ」(「世界文化社2001」から転載)
 宝塔外部は漆と彩色で覆われていたが、それは大変痛み易く、度々修理が施されるも、嘉永4年(1851)頃、塔身の部分は鉄板張に改められる。本写真では塔身は鉄板張である。
 明治中期池上宝塔写真:長崎大学付属図書館DBより転載
 明治後期池上宝塔写真:左図拡大図、池上本門寺蔵、
白黒印画紙に手彩色したものである。
 大正初頭池上宝塔写真:「帝都大本山池上本門寺眞景」大正3年より
 昭和初頭池上宝塔写真1:「東京都史蹟保存物報告書」昭和7年より
 昭和初頭池上宝塔写真2:同上
 昭和初頭池上宝塔写真3:同上
※平成22年12月本塔(附 木造宝塔一基)は国の重要文化財に指定される。

2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
 明治43年頃宝塔:大田区立郷土博物館蔵
中央に「多宝塔拝殿建設予定地」の木標が立つ。
拝殿は明治43年に拝殿工事が始まるが、工事は遅れ、大正6年には中止されると云う。

2012/06/10追加:「Y」氏ご提供画像
 宗祖御荼毘所ノ跡多宝塔:絵葉書、大正7年〜昭和7年頃(「Y」氏推定)

2008/06/27追加:
◆「府下に於ける佛塔建築」東京府 , 昭和7年(1932) より
 「江戸名所圖會」には当宝塔の記載はない。
本塔は高い方形石造基壇(正面に突出部あり)の上に、更に高い石造連弁形の固定台座を設置しその上に建立される。
建築は平面円形で方形屋根を架ける。軸部は側柱を8本円形に配置し、内部には四天柱を建てる。床は板張り。
軸部上部は饅頭形の曲面となり、その上にまた8本の柱を円形に建て円形軸部を形成し、その上に方形屋根を架する。
方形基壇一辺は30尺1寸、同高さは2尺8寸、平面直径は17尺1寸、四天柱間は6尺9寸。
なお、現在軸部は四方の開口を除く全部を鉄板張・朱色ペンキ塗りとするが、当初は側柱を出した構造ではなかったかと思う。
軸部上部の饅頭形の上には斗栱の替わりに彩色雲形彫刻を配する。その彫刻の上には円形の廻縁を廻し勾欄を付設する。
上重円形の軸部は12本の丸柱を立て、頭長押・内法長押・切目長押等があり、柱間には小さい花頭窓を付ける。
これ等は全て朱漆塗であるが、内法長押と勾欄は黒漆塗とする。
斗栱は三手先で、尾垂木は極彩色の龍の彫刻を彫り突出する。垂木は二重扇垂木とする。飛簷垂木の先には金具を嵌める。
軒隅には風鐸を吊る。屋根は銅板瓦棒葺となっている。
内部装飾は善美を尽したものとなる。
四天柱は金色で、上部には極彩色の金襴巻を描く、床・内法長押・柱は主塗、四天柱と側柱とは雲形の盛上極彩色繋ぎ虹梁を架す。
内法長押には金鍍金の菊花釘隠しを打ち、頭長押は雲文の盛上極彩色となる。
また長押上の小壁の部分には彩色装飾を施し中央には極彩色の蟇股を置く。
外陣の天井は金箔押しの鏡天井、内陣は折上格天井で、格縁は黒漆塗・細朱色抜き、格間は金箔押・彩画される。

池上本門寺宝塔基壇
池上本門寺宝塔扉・基壇
池上本門寺宝塔軒廻
池上本門寺棟札:左図拡大図:なおこの棟札は現在は亡失(存在しない)と思われる。
宝塔内部・宝塔内陣宝塔

文政11年(1828)棟札(3尺5寸5分×7寸5分)
<表>
    文政十一戊子歳
     本願主江戸芝口講中一結
 妙法蓮華経序品第一王舎大城
    十一月十三日
                長興長栄両山四十七世
                  工匠 当所小木新七藤原信盛、小木卯之助藤原清仲、(以下略)
<裏>
「南無妙法蓮華経」曼荼羅を記す。

「得意記」(歴代住職の日記)の記録から
文政11年11月多宝塔(宝塔)上棟、願主は芝口講中、本願は前犬山城主成瀬候(家老は浅野蔀殿)などと記録される。
また
嘉永4年(1851)多宝塔(宝塔)修復成就につき供養される。

 

池上本門寺宝塔

日蓮上人荼毘所と伝えられる場所に建つ。かっては「灰堂」があったと云う。
棟札(現在所在不明)によると、文政11年(1828)尾張藩家老成瀬氏によって、日蓮上人550年遠忌として再興されたと伝える。
 ※落慶は天保元年(文政13年・1830)と云う。
総高17.5m。身舎の径5.5m。嘉永4年(1851)修理。
基壇上に石製蓮華座をつくり、その上に宝塔が建つ。
内部には四天柱を立て、その中に木造宝塔1基(小宝塔)を安置する。
組物等には江戸風な装飾がなされる。

2003/03/26撮影:平成の修理前の写真となる。
 池上本門寺宝塔1
   同       2:左図拡大図
   同       3
   同       4
2011/01/31追加:
「東京都指定有形文化財池上本門寺宝塔保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会編著、2010 より
 池上宝塔修理前外観
2013/08/22追加:
○「池上本門寺多寳塔:平成の大修理」池上本門寺霊宝殿編、2010 より
 池上宝塔修理前全景

2008/06/27追加:池上本門寺サイト より
○宝塔大修復
 宝塔は東京都有形文化財。宝塔修復事業に着手、費用全額は篤信者の奉納による。
工事の内容:外部塗装塗替、内部彩色剥落止と一部復原、屋根銅板葺替、床下補修と床張直、内部小宝塔解体修理など。
工期は平成19年12月より平成21年11月を予定。
○宝塔(日蓮聖人御荼毘所)
 この地にかっては御灰堂(2×3間)があり、当初、池上宗仲が宝塔を作り、聖人の御余灰を中に盛って奉安したと伝える。(「新編武蔵風土記稿」など)現在は、北側に石造宗祖第五百遠忌報恩塔が建つ(第33世日謙上人造立・天明元年・1781)。
現宝塔は、棟札(現存せず)抄により、文政11年(1828)、前犬山城主成瀬侯・家老浅野蔀を大本願人とし、飯田町福田長次郎を世話人として再建されると知れる。大工棟梁(工匠)は小木新七藤原信盛ほか と記する。
なおこの宝塔は、越中本法寺所蔵の法華曼荼羅図(重文)に見える多宝仏塔に近似する。
<附の宝塔は、四天柱の内に安置され、10体の亀を配した迦葉座以外は、ほぼ大宝塔に類似する。>
〔備考〕「長栄山池上本門寺誌」(明治29年)に「天保元年(1830)茅場町永岡恭重再建」とある。(上に掲載)

2011/01/31追加:
「東京都指定有形文化財池上本門寺宝塔保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会編著、2010 より
 池上宝塔竣工正面     池上宝塔竣工見上     池上宝塔竣工内部
 池上宝塔立面図       池上宝塔断面図       池上宝塔平面図       池上宝塔見上図

2013/08/22追加:
○「池上本門寺多寳塔:平成の大修理」池上本門寺霊宝殿編、2010 より
 池上宝塔内部:四天柱、繋虹梁、格子戸、鏝絵      池上宝塔立断面図:解説

2011/02/19撮影:

平成21池上本門寺宝塔竣工

池上本門寺宝塔21
池上本門寺宝塔22
池上本門寺宝塔23:左図拡大図
池上本門寺宝塔24
池上本門寺宝塔25
池上本門寺宝塔26
池上本門寺宝塔27
池上本門寺宝塔28
池上本門寺宝塔29
池上本門寺宝塔30
池上本門寺宝塔31
池上本門寺宝塔32
池上本門寺宝塔33
池上本門寺宝塔34
池上本門寺宝塔35
池上本門寺宝塔36
池上本門寺宝塔37
池上本門寺宝塔38;相輪


池上本門寺小宝塔(:池上宝塔に安置)

池上本門寺宝塔内陣には宝塔と類似する意匠意匠の小宝塔を安置する。高さ7尺余。
製作時期は不詳なるも、宝塔とほぼ同一時期<文政11年(1828)>の造営と考えられる。

2007/06/13追加:
「日蓮宗各本山名所図絵」石倉重継、博文館、明治36年(1903) より
 池上本門寺宝塔内陣宝塔

2008/06/27追加:
「府下に於ける佛塔建築」東京府 , 昭和7年(1932) より
 宝塔内部・宝塔内陣宝塔:上の項で既出

2011/01/31追加:
「東京都指定有形文化財池上本門寺宝塔保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会編著、2010 より

池上宝塔内陣四天柱内中央には小宝塔ならびに木製蓮華座が安置される。
小宝塔内には八角形の春日厨子を置き、その中には舎利容器を置く。
舎利容器内には近年まで日蓮上人眞骨が奉安されていたが、現在眞骨は廟所に遷座し、その代わりに日蓮上人所持水晶製念珠を奉安する。
今般の解体修理で、木製蓮華座の蓮弁墨書に文政13年(1830)とあることが判明し、其頃の造立であると判断される。

 池上修理前小宝塔

 池上竣工小宝塔:左図拡大図

 池上小宝塔立面断面図
 池上小宝塔平面見上図
 池上小宝塔内八角厨子

小宝塔は対面径3尺2寸の八角形の基壇上に建つ。
下層軸部は8本の丸柱が建ち、対面する柱芯の径は2尺1寸を測る。 上重の対面する柱芯の径は1尺1寸とする。
組物は和様三手先組、軒は三軒平行垂木を用いる。

2011/01/31追加:
「池上本門寺多寳塔:平成の大修理」池上本門寺霊宝殿編、2010 より
 2013/08/22画像入替:
  ○池上小宝塔構造図     ○池上小宝塔蓮弁墨書:文政13年の墨書がある。
 2013/08/22追加:
  小宝塔内部構造と名称     小宝塔細部


近年取壊塔婆
池上本門寺奉安塔:2007/06/13追加


奉安塔:
「日蓮宗の本山めぐり」昭和46年より

池上本門寺奉安塔略歴
昭和23年仮祖師堂背後に建立
昭和37年現在の霊宝殿の地に移建
平成8年解体、平成13年奉安塔宝輪が再興。

奉安塔の形式:
篋  塔と思われる。下掲載の「池上本門寺百年史」を参照。
中西亨「日本の塔総観」:「方形の平面を持つ宝塔」 とある。

奉安塔:仮祖師堂に奉安殿として設計、RC製、宗祖の御真骨・真蹟・所持品などを奉安する。

昭和20年池上本門寺大堂(祖師堂・享保8年1723再興堂)
 空襲により焼失。
昭和23年大堂跡に、仮祖師堂(大堂)と宗祖奉安塔を建立。
昭和37年大堂再建起工。
 1)経蔵を北側に移動
 2)移動させた経蔵南隣に宗祖奉安塔を移築(現在の霊宝殿の位置)
 3)仮祖師堂は取壊
昭和39年現在の大堂再建。
平成8年霊宝殿新築のため奉安塔解体。
平成13年霊宝殿完成。
平成15年奉安塔記念として宝輪だけを奉安塔跡地に建てる。

2013/08/22追加:
「霊寳殿 池上本門寺の御霊宝と文化遺産」池上本門寺霊宝殿、平成21年 より
○昭和28年池上本門寺航空写真:【部分図】:写真中央の祖師堂跡に仮大堂及びその背後に奉安塔が建立されている様が写る。
 左端上は焼失を免れた経蔵であるが、戦後直後に仮仏殿として向拝が増建築され、その様子が写る。

昭和28年池上本門寺航空写真: 【全図】:上は仮大堂・奉安塔付近の部分図
昭和27年頃までに長栄堂、日朝堂、清正公堂、事務所、信徒休憩所などが再興されると云うも、
仁王門跡西が日朝堂、東南が長栄堂であろう、清正公堂は良く分からない。
 なを、この写真の下に写る瓦は焼失した本院の瓦である。


サイト:馬込と大田区の歴史を保存する会大田区梅田小学校 より

池上本門寺奉安塔(昭和37年池上本門寺航空写真):下図の広域写真

昭和37年北部から撮影。
大田区立梅田小学校の運動会を撮影した航空写真の池上本門寺部分を切出。
中央が奉安塔・仮祖師堂、
右手(西)手前(北)から経蔵(経蔵は戦後直後に仮仏殿として向拝が増建築される)、やや離れて鐘楼(昭和32年再興)が見える。

昭和37年経蔵南に隣接して、奉安塔が移転される。

平成8年霊宝殿新築のため奉安塔取壊、平成15年奉安塔記念宝輪建立。

○2007/07/13追加:
「池上本門寺百年史」新倉善之、池上本門寺、昭和56年11月 より

昭和56年(宗祖700年遠忌)直前の池上本門寺

昭和56年直前
 池上本門寺主要伽藍【部分図】:左図拡大図
画面中央右が仁王門・大堂(画面下から)
仁王門・大堂の西(左)の緑青の屋根が奉安塔と経蔵
 ※奉安塔は移転後の姿である。

昭和56年直前
 池上本門寺伽藍【全図】:下に掲載あり


移転する奉安塔

 建設中の奉安塔:平面四角であることが見て取れる。

昭和29年奉安塔の外観が完工(内部荘厳は未完)
 外観完工の奉安塔:中央は移建中の書院

昭和37年祖師堂再興に着手
 移転する奉安塔:左図拡大図
経蔵南に移動中の写真であるが、引屋で移動している様が写る。
構造については、下重は方形で上重は円形・一重の方形屋根を載せ、相輪を建てる形式「篋塔」であったことが良く分かる。
但し、宝蔵あるいは廻廊のように見える付属建物があったと思われる。

2007/12/10追加:.
「宝塔雑感」井関正敬、史迹と美術、64(9)、1994.11 では
   高さ約15m、一辺6.15m、RC、屋根銅板葺と云う。

2009/10/23追加:

2013/10/09追加:「Hayami」氏撮影画像

 
 池上本門寺奉安塔11:上図拡大図 :現地の説明板より転載:
昭和29年戦後の復興事業の第一として建立される。
 日蓮上人像及び御真骨を奉安。
 仮本堂裏・現大堂位置にあり。RC造。
昭和37年大堂建立のため、現霊宝殿の位置に移建。
平成11年霊宝殿建立のため、解体。

 昭和46年池上奉安塔12:オリジナル写真
 昭和46年池上奉安塔13:奉安塔・経蔵部分図
  :上図拡大図
昭和46年1月5日「Hayami」氏撮影、撮影日から判断して地表には積雪があるものと思われる。

池上本門寺奉安塔宝輪
 

2003/03/26撮影:
 池上本門寺奉安塔宝輪
  :経蔵南すぐにある。平成15年奉安塔記念として建立。奉安塔の相輪を再興したもの。

2009/10/17撮影:
 池上本門寺奉安塔宝輪2:左図拡大図


2013/08/22追加:
昭和20年焼失屋内塔婆
戦前釈迦堂宮殿
宮殿は多宝塔形式であった。釈迦堂は宝永7年(1730)火災焼失、享保15年(1730)再建と云うので、恐らくは享保年中の建立であろう。昭和20年焼失。 →戦前釈迦堂の項を参照。
戦前御真骨堂宮殿
宮殿は多宝塔形式であったように見える。昭和9年千葉の仏師浅子氏製作。昭和20年焼失。
 →戦前御真骨堂の項を参照。


池上本門寺略歴

池上本門寺略歴
2007/09/15修正:
弘安5年(1282)日蓮聖人、池上宗仲の館で寂し、荼毘に付される。(山内の大坊本行寺がその地とされる。)
遺骨は身延山に埋葬される。
この地は、日朗上人(鎌倉比企谷妙本寺兼帯)により、堂塔が整備される。
文保2年(1318)日朗、比企谷妙本寺・池上本門寺を日輪上人に譲る。
第4世日山上人代に「初めて御影堂を建立」する。
第12世日惺上人、徳川家康の命で、歴代比企谷常住であったが、池上に移住し、以降両山貫主は池上定住となる。
慶長13年(1608)徳川秀忠、五重塔・山門を寄進。
  江戸期は徳川氏等の保護を受ける。(慶長3年徳川家康朱印100石を寄進)
寛永3年(1626)第16世日樹上人、大堂(祖師堂)を建立。
 (加藤清正40間四面の祖師堂を寄進、桁行25間梁間23間の規模と云う)
寛永7年(1630)身池対論。 →M不受不施派「身池対論」備前法華の系譜
 身池対論では身延勝利、池上敗北と評定される。
 日樹は信濃伊那へ追放、池上は身延日遠に与えられる。(接収される)
 日遠の入山に当たっては、
 養珠院の要請により水戸徳川家が日遠の駕籠を警備し、百人の武士が抜刀のまま池上本門寺に入ったと伝えられる。
  ※日遠池上入山の絵があるので転載する。
   身延日遠池上本門寺に入山:「絵で知る 日樹聖人伝記」 より
 池上大坊の中妙院日観は池上を去り、下総野呂妙興寺に遁れ、ここに談所を開き子弟を教育せんとする。
 これが、不受派の教育拠点となった野呂檀林である。
 日樹の法弟・一如院日僧(日相)、仙国院日仙、華蔵院日由は抗議の自害、他の数名は出寺して姿を隠し不受不施義を堅守するという。

 
池上本門寺16世<復歴>日樹上人
   → 日樹上人供養塔・備中法福寺・備中仏乗寺
   → 池上本門寺日樹上人五輪石塔・寿福院逆修十一重層塔・正応院逆修十一重層塔

寛永8年6月3日蓮乗院日東、身延日暹に身延の法理(受不施)に同心することを誓う。日東は池上17世。

宝永7年大火(五重塔・山門以外の諸堂が焼失)、徳川吉宗が再興。
享保7年(1722)祖師堂(桁行18間梁間17間に規模を縮小)再興、享保15年本堂再興。
明治34年本堂焼失。境内69,400坪を有する。
昭和20年の空襲にて、僅かに五重塔、宝塔、総門、経蔵などを残し、祖師堂以下大部を焼失す。

現況は、京洛の日蓮宗諸本山の凋落と比べて、今次大戦の焼亡からも復興し、今なお壮大な伽藍を誇る。

2009/12/09追加:
○池上本門寺景観:年代は不詳であるが、明治頃の池上本門寺の景観と思われる。本堂・祖師堂が並列する。
 ※天保12年(1841)頃取壊となった雑司谷感應寺鼓楼が移建され、仁王門の左右に鐘楼・鼓楼が並ぶ伽藍配置となる。
 池上本門寺景観
主題:Buddhist Temple of Ikegami.
説明:1. Sammon. 2. Ema-do. 3. Shoro. 4. Hondo. 5. Soshi-do. 6. Taho-to. 7. Rinzo. 8. Shoin. 9. Kyaku-den. 10. Hozo. 11. Daidokoro. 12. Chozu-bachi. 13. Koro. 14. The pagoda. 15. Stone lanternes presented as offerings.
(1.三門.2.絵馬堂.3.鐘楼.4.本堂.5.祖師堂.6.多宝塔.7.輪蔵.8.書院.9.客殿.10.宝蔵.11.台所.12.手水鉢.13.鼓楼.14.塔.15.奉納された石灯籠)
掲載書名:A handbook for travellers in Japan<日本での旅行者の手引(日本旅行案内)>
著者:Chamberlain, Basil Hall, 1850-1935

2011/05/20追加:
○明治20年池上本門寺境内図
 明治20年池上本門寺境内図:画像容量1.8MB:明治20年銅版画、
 「大田区史 資料編 寺社1」東京都大田区史編纂委員会、1981 所収
明治中期頃の池上本門寺、昭和20年戦災で焼失する前の景観を良く伝える。

2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
○昭和9年池上本門寺伽藍全景:富田弘子氏蔵
 昭和9年池上本門寺伽藍全景:俯瞰写真
総門、此経難持坂、仁王門を経て祖師堂、釈迦堂が並び、背後に経蔵、大客殿、御真骨堂、西側には大坊ほかの諸坊舎、東には五重塔などが写る。総門、経蔵、五重塔、宝塔を残し、昭和20年焼失する。

■戦前の池上本門寺諸伽藍

2007/06/13追加:
池上本門寺門前
「外人の見た幕末・明治初期日本図会 文化・景観篇」池田政敏編、春秋社、1955 より
 戦前池上本門寺の門前:Preussische?、撮影時期不詳
  2007/09/16追加:「T.K.」様ご教示:
   「以上は写真ではなく」「幕末に来日したドイツ使節「オイレンブルグ遠征隊」の一員であった画家ハイネ(1827〜1885)が
   描いたもの」とのご教示を頂きました。確認出来次第、その旨に訂正をする予定。(未だ未確認)
   ※「日本遠征記」オイレンブルグ著として邦訳がある。

2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
 戦前池上本門寺門前2:明治中期、長崎大学附属図書館蔵、霊山橋前より総門を望む
 戦前池上本門寺門前3:大正3年頃、池上本門寺蔵、「帝都大本山池上本門寺真景」大正3年所収
山上から撮影した画像であり、向かって右手前が本成院、奥は中道院、左手前が本妙院、奥が常仙院
 戦前池上総門/此経難持坂:大正8年-12年、池上本門寺蔵、絵葉書
総門は元禄年中(1688-)の建立、扁額「本門寺」は本阿弥光悦書、昭和20年の焼失を免れる。
なお、此経難持坂の名称の由来は「法華経」宝塔品の詩句96文字に因んで石段を96段とし、詩句の文頭の文字「此経難持」をとって坂名となすと云う。

2007/07/13追加:
「東京府名勝図絵」田山宗尭編、東京:ともゑ商会、明45年 より
 池上本門寺山門前古写真
  2007/09/15追加:「T.K.」様ご教示:此経難持坂:
   「加藤清正が本門寺台地の南に石段を寄進するまでは、本行寺のある西側の方が、本門寺の正門になっていたとの事です。」

2003/03/31追加:
「保存版 古写真で見る江戸から明治へ」世界文化社、平成13年 より
戦前仁王門

 山  門(慶長13年再興門):仁王門:左図拡大図
慶長13年(1608)徳川秀忠建立。旧国宝。

2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
 戦前仁王門:昭和12-19年、池上本門寺蔵、絵葉書
仁王門は天文年中(1532-)あるいは慶長13年(1609)の建立と伝える。扁額「長栄山」は本阿弥光悦筆。

2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
戦前鐘楼
 戦前池上本門寺鐘楼:大正8年頃、池上本門寺蔵、「宗祖六百五十遠忌紀念写真帖」所収
鐘楼は天保10年(1839)再建、梵鐘は正徳4年(1714)紀伊徳川家奥方達の寄進、昭和20年被災し、現在は新鐘楼脇に安置される。

戦前池上本門寺祖師堂/釈迦堂
2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より

 戦前祖師堂/釈迦堂1:明治43年以前絵葉書、池上本門寺蔵
左が釈迦堂でsる。中央に「清正公銅像建設予定地」とあり、写真が銅像建設着手前(明治45年建設)であることが分かる。

 戦前祖師堂/釈迦堂2:左図拡大図
左釈迦童、明治43年、大田区郷土博物館蔵
祖師堂・釈迦堂2棟がほぼ完全に並んで写る写真は珍しいものである。

2003/03/31追加:
「保存版 古写真で見る江戸から明治へ」世界文化社、平成13年 より
 祖師堂

幕末-明治期の写真と推定
 大  堂(享保8年再興堂):左図拡大図
先々代大堂は、慶長11年(1606)加藤清正寄進(生母七回忌追善供養)
加藤清正寄進のい祖師堂は桁行25間、梁間23間の大堂であったと伝える。
宝永7年(1710)焼失。
享保8年(1723)徳川吉宗の寄附を得て、規模を縮小し13間四方の堂として再興。
手前に写る水屋は鼠山感應寺から移建されたものである。


2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
 戦前祖師堂(大堂)2:上図 (「保存版 古写真で見る江戸から明治へ」)と同一写真である。こちらの写真が多少鮮明である。

2011/12/02追加:
「The Far East」vol.V g]]U より
 明治6年撮影大堂:上の幕末-明治期の写真と並ぶ最古の祖師堂写真である。 こちらは明治6年と特定できる写真である。

2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
 戦前祖師堂前:明治中期、国際日本文化研究センター蔵
祖師堂大棟の穴には「井桁に橋」の紋がつけられるが、これは明治20年の大修理以降のことであろう。水屋屋根は桟瓦葺から銅板葺に変更される。なお水屋の奥に写るのは大黒堂である。
 戦前祖師堂内陣:明治中期、手彩色、池上本門寺蔵、明治20年の大修理後の写真である。
 戦前祖師堂宮殿:明治中期、手彩色、池上本門寺蔵
 昭和6年祖師堂:昭和6年、「宗祖六百五十遠忌紀念写真帖」所収
 戦前祖師堂3:昭和7年頃発行絵葉書、池上本門寺蔵
  ◎水屋:水屋は鼠山感應寺から移建されたものである。
   戦前祖師堂前:お会式、右手に水屋が写る。明治44年頃、国立国会図書館蔵
   戦前お会式:中央に水屋が写る。昭和6年(中央の立柱に年紀あり)、「宗祖六百五十年遠忌紀念写真帖」昭和6年 所収

2007/07/13追加:
「東京府名勝図絵」田山宗尭編、東京:ともゑ商会、明45年 より
 池上本門寺祖師堂古写真   池上本門寺祖師堂内部古写真:享保8年(1723)建立
 池上本門寺釈迦堂内陣古写真:屋内多宝塔、釈迦堂は享保15年(1730)建立
 日蓮靠れかかりし柱:写真中央柱を「日蓮靠れかかりし柱」と称する。この柱は現存すると云う。
  2007/09/15追加:「T.K.」様ご教示:
   本山 大坊 池上本行寺→大坊本行寺縁起 (リンク切:現在は「ご臨終の間」に 移行か)には
   『入滅になられたお部屋の跡に建てられたお堂を特に「ご臨終の間」とよび、・・・
   堂内には立正安国論を御講義される時に寄り掛かられた「お寄り掛かりの柱」を始め、
   中央に大聖人自ら鏡を見て御自刻された「自鏡満願の祖師像」並びに「池上宗仲公御夫婦像」等を奉安・・・』とある。

2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
 戦前釈迦童1:大正3年、絵葉書、池上本門寺蔵
 戦前釈迦堂2:大正8-12年、絵葉書、池上本門寺蔵
宝永7年(1730)火災焼失、享保15年(1730)徳川吉宗の寄附により再建。桁行11間、梁間10間。
堂前には清正公銅像が写る。銅像は明治45年建立。銅像は戦時の金属供出で供出される。
同じく堂前には鉄製宝塔もある。この基礎石には「木挽町」の銘があると云い、江戸木挽町講中の建立であろう。
釈迦堂は昭和20年戦災で焼失、跡地には再興されず、現在は経蔵と霊宝館が建つ。昭和44年北方に本殿として再興される。
 戦前釈迦堂内陣:明治44年頃、「明治写真帖」警眼社、明治44年 所収
釈迦堂宮殿は多宝塔形式であったと知れる。宮殿には釈迦如来と四菩薩を安置するも、今次大戦で焼失。

2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
戦前清正公銅像/清正公堂
 戦前清正公銅像:明治42-43年か、池上本門寺蔵ネガ。
開眼供養は明治45年であるが、垂れ幕の年紀及び写真中央に写る日亀上人(明治44年遷化)から判断して、鋳造の終った開眼供養前の明治42-43年の写真と推定される。
 戦前清正公堂:明治36年頃、「日蓮宗各本山名所図絵」石庫重継、博文館、明治36年所収

2011/05/02追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
戦前皷楼/鼠山感応寺遺構

明治中期の撮影と推定:池上本門寺蔵
 池上本門寺鼓楼:左図拡大図
鼓楼は雑司谷鼠山感應寺鼓楼として天保7年(1836)頃建立、天保12年雑司谷感応寺廃寺取壊、鼓楼のみ直ちに池上に移建されたものと思われる。
昭和20年今次大戦の空襲で焼失。
 →雑司ヶ谷鼠山感應寺

写真左は大黒堂(日蓮上人作の大黒天を祀る)
写真右に写る層塔は寿福院逆修塔である。

2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
戦前経蔵
 戦前経蔵:「古写真で見る江戸から東京へ」 所収
戦前日蓮上人御廟所/御真骨堂
日蓮上人御廟所
 戦前日蓮聖人御廟所:大正8年以前、池上本門寺蔵絵葉書、宝殿は明治14年600年遠忌紀念で建立。昭和20年焼失。
御真骨堂
 戦前御真骨堂拝殿:昭和6年新築      戦前御真骨堂:明治34年火災焼失、昭和6年再興
 戦前御真骨堂宮殿:宮殿は多宝塔形式と思われる。千葉県仏師浅子氏製作と云う。
以上何れも「宗祖六百五十年遠忌紀念写真帖」昭和6年 所収、昭和20年焼失。

戦後の池上本門寺

2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
昭和21年池上本門寺全景:国土地理院蔵、米軍撮影航空写真
 昭和21年池上本門寺全景:航空写真

2007/07/13追加:
○「池上本門寺百年史」新倉善之、池上本門寺、昭和56年11月 より
昭和20年4月15日、B29約200機による京浜西南地区空襲、大田区のほぼ全域が被災。
池上本門寺では祖師堂(大堂)、釈迦堂、仁王門、鐘楼、太皷堂、常唱堂、長栄堂、廻廊、方丈、庫裏、大書院、大客殿など56棟・約2500坪の建物を焼失。(総門、五重塔、経蔵、御廟所、宗学林、宝塔などは焼失を免れる)
 ※安立院・東之院が最初に被爆、本成院は焼失を免れる。
 ◎仮仏殿に経蔵を指定:被災後の緊急処置として、「経蔵を仮仏殿となし、三宝諸尊を安置、法務を執行す」。
   仮仏殿(経蔵)の向拝立増建築は終戦直後に決定・施工される。
 ※諸堂の建立時期
  七面堂(貞享9年1698建立)、祖師堂(享保8年1723建立)、釈迦堂(享保15年1730建立)、
  大黒堂(天明8年1788建立)、常唱堂(寛政11年1828建立)、宝塔(寛政11年1828建立)、
  長栄堂(天保元年1830建立)、大方丈(同左)、輪蔵(同左)、鐘楼(同左)、皷楼(同左)、額堂(同左)、仁王門(同左)、
  供膳所(同左)、接待所(同左)、鬼子母神堂(嘉永5年1852建立)、清正堂(安政4年1857建立)
昭和22年仮本堂、祖廟の建築、奉安塔建立が決定される。
 奉安塔は宗祖像(日蓮上人坐像・重文)、宗祖御真骨を格護するもので、永久的な建築としてRC製とする。
昭和23年仮祖師堂・祖廟が完成。
  ◎昭和23年再興池上本門寺仮祖師堂
昭和27年頃までに長栄堂、日朝堂、清正公堂、事務所、信徒休憩所などが再興される。
昭和28年池上本門寺伽藍

昭和28年池上本門寺航空写真: 【全図】;左図拡大図
     ・・・・・・・・上に掲載済画像
なを、下に写るのは焼失した本院の瓦である。

仮大堂、その背後に奉安塔が建立され、仁王門付近に長栄堂、日朝堂と推定される堂宇が写る。

昭和56年(宗祖700年遠忌)直前の池上本門寺伽藍

昭和56年直前
 池上本門寺伽藍【部分図】:左図拡大図
中央上の大屋根が昭和39年再建祖師堂(大堂)、
大堂東端の木立の中に五重塔、
大堂西木立の中の方形屋根と相輪が宝塔、
大堂西南の方形屋根・相輪は奉安塔


昭和56年直前
 池上本門寺主要伽藍【全図】:上に掲載済

池上本門寺伽藍

2003/03/26撮影:現伽藍
 池上本門寺仁王門     池上本門寺大堂      池上本門寺題目碑

2009/10/17撮影・現伽藍
 池上本門寺門前題目     池上本門寺総門・此経難持坂:総門は元禄年中の建立、此経難持坂は加藤清正寄進
 池上本門寺仁王門:昭和52年再建
 池上本門寺大堂:昭和39年再建
 池上本門寺日朝堂:常唱堂、題目堂 、昭和48年再建。
 池上本門寺長栄堂:昭和28年再建。
 池上本門寺鐘楼:梵鐘は正保4年(1647) 瑶林院(加藤清正娘、徳川頼宣正室)が鋳造する。
  正徳4年(1714)天真院(紀州2代光貞正室)、寛徳院(徳川吉宗正室)、芳心院(頼宣娘、因幡池田光仲正室)、
  円光院(吉宗姉、上杉綱憲正室)らの寄進によって改鋳される。昭和39年鐘楼再建。
 池上本門寺経蔵     池上本門寺経蔵2:天明4年(1784)建立
 池上本門寺本殿:昭和20年の空襲で焼失した釈迦堂を 昭和44年再建(旧位置は旧祖師堂の西隣)、
  天正年中の再建堂は宝永7年(1710)焼失、享保15年(1730)徳川吉宗再建。
  なお宝永7年焼失釈迦堂は、第16世(復暦)日樹聖人の寛永6年(1629)再興堂とも考えられる。
 池上本門寺客殿・寺務所:昭和53年9月完成。地上2階、地下4階建、総面積は延べ1,780坪と云う大建築。RC。

2007/06/13追加:
○池上本門寺寺中概要:池上本門寺概要図

以下無印の写真は2009/10/17撮影:△印の写真は2011/02/19撮影
  △池上本門寺大堂201     △池上本門寺仁王門202
◇大坊本行寺:日蓮上人入滅の地とする。
  池上大坊山門     池上大坊本堂1     池上大坊本堂2     池上大坊御臨終の間     池上大坊諸堂

常仙院(常宣坊):天文18年(1549)本門寺9世東照院日純上人の隠棲所として開創、旧は「玉蔵坊」と称す。
 天保13年(1842)雑司谷感応寺の廃寺に当り、住持妙沾院日詮は感応寺の居間を縮小して移築し、当寺に隠棲したと伝える。
 今次大戦で南谷檀林山門と共に全焼する。

池上常仙寺変形三層堂

池上常仙院: 本堂は変形三重塔風の様式を採る。RC造。
あるいは屋上に一重塔を置く形式。

池上常仙院本堂1
池上常仙院本堂2
池上常仙院本堂3:左図拡大図

◇中道院:日頂上人庵室。もと南谷にあり、その後当地に移転。宝暦4年(1754)不二庵と合併。
  △池上中道院1     △池上中道院2
◇鬼子母神
  △池上鬼子母神
◇本成院:喜昇山、弘安五年(1282)日向上人庵室、池上宗仲が建立開基。旧は喜多院、北の坊と称す。
宝永元年(1704)火災。享保元年(1716)現在地に再建、本成院と改号。
  △池上本成院1     △池上本成院2     △池上本成院3
◇本妙院:日伝上人の庵室、旧「妙蔵坊」と称す、天正元年(1573)焼失、南谷外溝に移転、本妙院と改号。
元禄3年(1690)現在地に移転。
  △池上本妙院
◇理境院:本門寺3院家の一院。正和元年(1321)本門寺3世日輪上人住坊、延宝元年(1673)理境院と改号。
慶応3年江戸城明け渡し時の官軍参謀西郷隆盛の宿舎となる。明治11年堂宇を小学校に充当する。
  池上理境院       △池上理境院2
◇長栄堂:長栄大威徳天を祀る。
  池上長栄堂

◇覚源院:明徳4年(1393)開創、当初は西谷にあり蓮池院と称す、天文2年火災で東谷に移転、妙法坊と改号。
天正元年(1573)再び焼失、本門寺東に移転、元禄3年(1690)現在地に移動、宝暦元年(1751)覚源院と改号。
  △池上覚源院1     △池上覚源院2
◇南之院:弘安5年(1282)日昭上人庵室として開創。江戸期狩野家の菩提寺となる。
 狩野孝信(円大院孝信日養)の墓碑あり。
  池上南之院     △池上南之院1     △池上南之院2
◇厳定院:正応2年(1289)日朗上人弟子日尊上人開創。天文5年(1536)成就坊と合併し現在地に移転。
  △池上厳定院1     △池上厳定院2
◇西之院:日興上人庵室として創建。日法上人開山。旧地は市野倉村で、後に当地に移転、
寛永元年(1624)宝樹坊と合併、「西の院」と改号。
  △池上西之院1     △池上西之院2
◇真性寺:日蓮宗、寛永2年(1625)以来麻布今井町にあったが、昭和27年に現地に移転。
  △池上真性寺
◇実相寺:日蓮宗、妙玄山。天文19年(1550)江戸馬喰町に開創、明暦3年(1657)振袖火事で焼失、浅草新寺町に移転。
寛保3年(1743)大丸寺と改称、大正12年現地の「妙玄庵」と合併、実相寺と改号して現地に移転。
  △池上実相寺
◇妙法堂:不詳
  池上妙法堂

◇照栄院:朗慶山、本門寺3院家の一院。「南谷檀林立善講寺」あるいは「向林庵」と称す。日朗上人開基。
 南谷檀林:元禄元年(1688)本門寺第22世日玄上人開創、明治維新で廃檀。
  現在の池上小学校、池上会館、照栄院の一帯が南谷檀林であった。
  講堂、方丈玄頭寮、板頭寮、首座寮、所化寮、玄文両談合場、食堂、総門、妙見堂などを具備。
  板頭寮(天保7年<1836>再建)のみ照栄院書院として残存する。妙見堂も坂上に現存する。
  池上照栄院     池上照栄院本堂
◇妙見堂:寛文4年(1664)瑶林院(加藤清正娘・徳川頼宣室)が建立、慶応2年の再建。南谷檀林妙見堂。
 妙見菩薩立像は寛文4年銘があり、南谷檀琳開設の時その守護として移管されたと云う。
  池上妙見堂     瑶林院妙見菩薩立像
  △池上妙見坂     △池上妙見堂1     △池上妙見堂2
    参照:池上南谷檀林
◇養源寺:長荘山、慶安元年(1648)松平隆政母養源院殿の発願により、荏原郡浜竹村本成寺を当地に移転、養源寺と改号。
  △池上養源寺1     △池上養源寺2
◇妙雲寺:元和元年(1615)日正上人開創。若宮八幡社(堤方神社)別当。
  △池上妙雲寺1     △池上妙雲寺2

永寿院 :備中庭瀬藩戸川逵安が本門寺16世日遠に帰依、日遠の庵室に寄進、この地は戸川家下屋敷5000坪だったと云う。
山号は「不変山」と号するが。これは達安の法号に因る。
 → 備中庭瀬不変院・塔頭・末寺などを参照。
当初は「蓮乗院」(池上17世日東上人の法号)と号す。
芳心院(紀伊頼宣女、鳥取藩主池田光仲室)の帰依を受け、宝永5年(1708)芳心院の没後、永寿院と改号。
 → 池上本門寺永寿院:詳細な由来の記載がある。
  池上永寿院:2014/01/26画像入替
  芳心院万両塚     弥生式住居跡:いずれも2014/01/26画像追加

◇心浄院:本門寺3世日輪上人開創建、「大泉坊」と称す。あるいは佐渡在住で、日朗上人教化の小木氏が移住し当院を創建とも云う。
  △池上心浄院
◇法養寺:天正15年(1587)神田三河町で創建、慶長元年(1596)下谷稲荷町に移転、明治43年当地の妙教庵と合併、翌年当地に移転。
  △池上法養寺

◇東之院:蓮華山、日持上人の庵室と云う。弘安5年(1282)の開創。江戸末期に、本門寺玄理坊と合併。
  △池上東之院1     △池上東之院2
◇安立院:慈性山、日澄上人の庵室と云う。旧地は裏門前で「上之坊」と称す。 元治元年(1864)再興。
近世末期近接の自澄坊を合併する。
  △池上安立院1     △池上安立院2

◇廃玄理坊:慶安元年(1684)の創建で辻之坊と称す。総門の外の本成院の向いにあった。江戸末期に、東之院に合併。
◇廃妙教庵:寛延元年(1748)9代将軍家重に仕えた妙教尼が再興という。明治43年法養寺に合併。
◇廃成就坊:不詳、天文5年(1536)厳定院に合併。
◇廃宝樹坊:寛永元年(1624)西之院に合併。
◇廃妙玄庵:本門寺24世日等上人の隠居所であった。大正1 2年実相寺に合併。
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
 明治21年、寺中善講寺移転、朗慶山立善講寺として埼玉県志木市本町2−6−23に現存
 明治11年、寺中妙寿院移転、鏡石山妙寿寺と称し岐阜県岐阜市加納八幡町22にありしも、近年廃寺となる。廃寺により本尊什宝類は岐阜県岐阜市加納伏見町16 法覚山妙泉寺に遷座。
 明治36年、寺中坂本院移転、朗栄山本興寺として山口県宇部市西本町2−12−9に現存、明治開創の教会が、明治36年坂本院の寺号を移転、明治41年朗栄山本興寺と改称。

池上本門寺紀伊徳川家墓所:2011/02/19撮影

池上本門寺紀伊徳川家墓所
 右から大型の石造宝塔が3基並ぶ。大型宝塔の向かって右から養珠院、中央が天真院、左が瑤林院の宝塔である。
 養珠院左の一重塔が妙操院である。寛徳院および霊岳院宝塔は写真に写ってはいないが、写真左側にある。
池上本門寺宝塔北側の高台中段に紀伊徳川家墓所がある。
要するに紀伊徳川家江戸藩邸で逝去した婦人たちの墓所である。
向かって右から以下の8基の墓塔が並ぶ。
1)松寿院宝篋印塔;徳川頼宣娘松姫供養塔。延宝6年(1678)銘
2)真空院宝篋印塔:徳川頼宣息、四歳で夭折。寛永13年(1636)銘
3)養珠院宝塔:徳川頼宣生母(水戸徳川頼房生母、徳川家康側室)お万の方。承応2年(1653)銘
  ※本墓は甲斐大野本遠寺(養珠院墓所の項を参照)にある。
  ※養珠院略歴は紀伊海禅院のページを参照。
  養珠院宝塔1     養珠院宝塔2     養珠院宝塔3
4)妙操院一重塔:徳川11代将軍家斉側室、六男斉順生母。天保3年(1832)銘
5)天真院宝塔:紀伊徳川二代光貞側、伏見宮貞清親王姫・安宮。宝永4年(1707)銘
  天真院宝塔1   天真院宝塔2
6)瑤林院宝塔:徳川頼宣正室、加藤清正娘八十姫。寛文6年(1666)銘
  瑤林院宝塔1     瑤林院宝塔2
  ※瑤林院廟所がかっては京都本圀寺にあったが現存しない。 → 詳細は京都六条本圀寺を参照
7)寛徳院宝塔:徳川八代将軍吉宗室、伏見宮貞致親王姫・真宮。宝永7年(1710)銘
8)霊岳院宝塔:紀伊徳川光貞三女、徳川吉宗姉・育姫。元禄6年(1693)銘
  霊岳院宝塔1     霊岳院宝塔2

なお、加藤清正(浄池院殿日乗台霊)供養塔が残ると云う。(未見)
宝篋印塔であり、慶安2年(1649)瑤林院(八十姫)の建立。総高約4m。
 位置:鐘楼前に置かれた梵鐘の背後に清正供養塔がある。
2012/01/21追加:
『続・加藤清正「妻子」の研究』水野勝之・福田正秀、ブイツーソリューション、2012 より
○日乾上人授与瑤林院・身延日乾筆大曼荼羅:
 身延日乾筆大曼荼羅:池上本門寺蔵、左端下に「瑤林院浄秀日芳」の法号が見える。
  (「霊寳殿」池上本門寺、平成21年 より転載)
○「亀姫」(獻珠院)墓所:
池上本門寺紀州徳川家墓所の下に「亀姫」(獻珠院)墓所があり、その脇には加藤忠廣供養墓がある。(未見)
おそらくこの設営は瑤林院の配慮であるのであろう。
 ※亀姫(獻珠院):加藤忠廣息女


池上本門寺末寺

2016/03/06追加:K.G氏情報
「日蓮宗寺院大鑑」昭和56年などの資料から判明している、現存する末寺(孫末寺なども含む)数は次の通りである。
身延山 915寺、京都六条本圀寺 559寺、京都四条妙顕寺 320寺、中山法華経寺 316寺、池上本門寺 273寺、小湊誕生寺 174寺

その一端を示す。

○駿河府中妙像寺 →駿府附近の諸寺
○山城北野法華寺 →山城の日蓮宗諸寺


2006年以前作成:2019/10/26更新:ホームページ日本の塔婆