土  佐  室  戸  山  最  御  崎  寺

土佐室戸山最御崎寺

土佐室戸岬 :最御崎寺は、この太平洋に張り出し隆起した絶壁のような室戸岬の上に、立地する。


土佐室戸岬:上図拡大図      土佐室戸岬2

土佐最御崎寺略歴

空海が青年期に修行すると云う。
大同2年(807)唐から帰朝した弘法大師は嵯峨天皇勅を奉じて室戸岬を訪れ、虚空蔵菩薩像を刻んで本尊とし、伽藍を建立する。
現在四国第24番札所である。土佐金剛頂寺を西寺と称し、最御崎寺を東寺と称する。

○「日本佛教史 第4巻」辻善之助、岩波書店、昭和35年 より
建武5年(1338)六十六基の一として料所を寄せられる。
 ※あるいは、暦応4年(1341)足利尊氏は66基塔婆料所として、東寺に地頭職を寄進する。
 →土佐利生塔として指定する。(指定なのか新たにj建立したのかどうかは良く分からない。)

永禄6年(1563)火災焼失。
天正15年(1587)東寺地検帳では、山上には本寺(大坊)・西之坊・上之坊・北之坊・池之坊が記され、山下の高岡には里坊、領家側には藤之坊・西林坊・用蔵坊・桜坊などの名が記されると云う。
 ※山上の本寺(本坊)とは現在の宿坊「最御崎寺遍路センター」や本坊の付近であり、その南西付近に坊舎があったのであろうか、
 山下の高岡とは本寺の北嶺の東海岸部に高岡の地名がありこの付近に里坊があったのであろうか(未見)、
 領家とは北嶺を遥かに辿った現在のスカイライン入口すぐ付近に領家の地名がありここにも坊舎があったのあろうか(未見)、
 であろとすれば、最御崎寺の往時の寺領は広大なものであったと推測される。
元和年中(1615-)石州(石見)浪人僧最蔵(勝)坊の奔走により、2代藩主山内忠義が堂塔を寄進する。

2013/08/15追加:
○「四国遍礼霊場記」(原本は元禄2年「内閣文庫本」寂本原著7巻7冊、東京国立博物館本/元禄2年刊の複製) より

東寺圖(最御崎寺):左図拡大図

特に記事に特筆すべきものはない。
室町初期最御崎寺の足利氏による利生塔が建立されたのであろうか。
多宝塔が描かれる。
利生塔については沿革が明らかでないが、室町後期に利生塔が残っていたとしても、恐らくは戦国期の混乱で焼失したものと推定される。
以上が正しいとすれば、本図に描かれる多宝塔は元和年中の山内忠義の寄進による再興であろう。しかしこの多宝塔が利生塔の再興かどうかは情報がなく分からない。
そして江戸呼後期の「南路志」に堂塔と「して多宝塔と記されるので、幕末近くまでは存続したおであろう。明治初期の廃仏毀釈で寺は興廃するというので、恐らく混乱の中で多宝塔も退転したものと推定される。
昭和55年に多宝塔は再建される。

「南路志」では本堂・多宝塔・鐘楼・護摩堂・勤行所・求聞持堂及び山上、山下の神社が記されると云う。
 ※「南路志」全120巻:美濃屋(武藤致和・平道父子)、文化10年(1813)完稿
明治の廃仏毀釈で荒廃するも、大正年中に本堂を再興、その後、多宝塔・仁王門・客殿なども再建される。他に大師堂・護摩堂・鎮守祠・聖天堂・通夜堂・求聞持堂などを具える。

土佐最御崎寺多宝塔

昭和55年建立。RC造。但し外装である扉、連子窓、組物、彫刻、軒下一式などは木材で造作する。内装も四天柱・側柱を除き木造であろう。
一辺5.5m、高さ約20m。

最御崎寺多宝塔11:左図拡大図
最御崎寺多宝塔12
最御崎寺多宝塔13
最御崎寺多宝塔14
最御崎寺多宝塔15
最御崎寺多宝塔16
最御崎寺多宝塔17
最御崎寺多宝塔18
最御崎寺多宝塔19
最御崎寺多宝塔20
最御崎寺多宝塔21
最御崎寺多宝塔22
最御崎寺多宝塔23
最御崎寺多宝塔24
最御崎寺多宝塔25
最御崎寺多宝塔26
最御崎寺多宝塔27
最御崎寺多宝塔28
最御崎寺多宝塔29
最御崎寺多宝塔30
最御崎寺多宝塔31
最御崎寺多宝塔32
最御崎寺多宝塔33
最御崎寺多宝塔本尊

最御崎寺現況

 最御崎寺岩窟     最御崎寺境内1     最御崎寺境内2     最御崎寺仁王門1     最御崎寺仁王門2
 最御崎寺本堂1     最御崎寺本堂2:大正13年再建     最御崎寺大師堂:昭和60年再建
 最御崎寺鐘楼1     最御崎寺鐘楼2:慶安元年(1648)再建     最御崎寺新鐘楼:昭和59年建立
 最御崎寺霊宝殿:石造如意輪観音半跏像(重文、平安後期)、木造薬師如来坐像( 重文、平安後期)、木造月光菩薩立像(重文、平安後期)、漆塗台盤(重文、康暦元年(1379))のいくつかが収められているのであろうか。
 最御崎寺護摩堂


2013/08/15作成:2014/10/12更新:ホームページ日本の塔婆