尾  張  福  寿  院  多  宝  塔

尾張福寿院多宝塔

福寿院多宝塔(焼失前)

福寿院多宝塔は昭和8年1月30日火災焼失する。

2016/09/25追加:
〇2016/09/25入手絵葉書:s_minaga蔵

尾張一宮市名所
 福壽院多宝塔:左図拡大図

軸部や軒下の細目は詳細には分からないが、
下に掲載の「大日本消防」中には「国宝とは云え、多年住職が特別の注意をすることもなく、荒れに任せ、雨もりもそのままで、塔内は物置としている有様であった・・・。」とある。
その文言を裏付けるように、荒れ果てた屋根・相輪などが写る。

絵葉書の年代:
表面の通信欄の罫線が2分の1の位置にあり、これは大正7年4月以降の形式である。
さらに表面には「きかは便郵」とあり、これは大正7年〜昭和7年の表示形式のものである。(昭和8年からは「きがは便郵」となる。)
従って、この絵葉書は大正7年〜昭和7年の発行のものであろう。
奇しくも、多宝塔は昭和8年焼失であるから、この点も符合する。

2017/01/16追加:
尾張一宮福寿院多宝塔

s_minaga蔵絵葉書
 尾張一宮福寿院ノ塔:左図拡大図
絵葉書の年代については、通信欄の状況は上に掲載の絵葉書と同一の仕様であるので、、この絵葉書は大正7年〜昭和7年の発行のものであろう。
しかし、上に掲載の絵葉書と比べてみると、向かって左の銅像や背後の民家・塀がなく、さらに右の方に写る石柵の外に生える若木が無く、従って、上に掲載の絵葉書よりは古いものと思われる。
塔の背後の様子や銅像の有無、石柵の外に生える若木の有無等から見れば、下に掲載の「大正4年頃の多宝塔」や「日本社寺大観/寺院篇」に掲載の撮影時期に近いものと云える。
 もし、上の推測が正しいならば、本写真は大正7年に近い年代に作成されたものであり、上の絵葉書は昭和8年に近い頃の写真であろう。

〇「戦災等による焼失文化財 建造物篇」文化庁、便利堂、1983 より

福寿院多宝塔(左図拡大図)

様式上室町期の建立とされ、
明治34年に旧国宝に指定される。

福寿院多宝塔細部(右図拡大図)

   形式:
   初層は面取角柱、腰長押・内法長押・台輪長押を打ち、
   縁なし(あるいは不朽?)、出組、二重繁垂木を用いる。
   上層は唐様が加味された四手先、二重扇垂木を用いる。

以上のような仕様だったとされる。

2014/07/25追加:
〇「建築工芸画鑑. 第2期 第10輯」建築工芸協会編、大正4年 より

大正4年頃福寿院多宝塔:左図拡大図

記事;
福寿院は須賀崎山と号し、尾張中島郡一ノ宮町にあり。其多宝塔は地蔵菩薩を安置して、東面し、三間二層の檜皮葺なるが、屋上の九輪は鉄質なり。其建築年代に就きては聞く所なしと雖も、手法の上より見れば鎌倉時代の創建に属するもののの如く、明治43年8月特別保護の建造物に指定さるるに至れるものなり。

2005/04/09追加:
〇「日本社寺大観/寺院篇」京都日出新聞社編、昭和8年(1933) より

福寿院多宝塔(左図拡大図)

記事:
「境内の一隅、疎松の間に多宝塔(3間2層塔婆、屋根檜皮葺)屋根の勾配頗る穏やかにして軽装なる感を与へ、全体の形構瀟洒優美たり。明治43年国宝に指定せられしも、昭和8年1月焼失す。」

2007/06/01追加:
〇「大日本消防 Vol.7 3」昭和8年所収
 「国宝{福寿院多宝塔}炎上記」一宮市消防組頭・浅井藤三郎 より

國寶炎上
愛知縣一宮市所在室町時代遺寶福壽院多寶塔

焼け落ちた福寿院多宝塔:左図拡大図

火災前の福寿院多宝塔

時  昭和8年1月30日午後零時20分
処  一宮市花園町、福寿院境内
建物 方2間高さ18尺、二重多宝塔(国宝)

 火災発生、直ちに十馬力ガソリン喞筒(ポンプ)が駆けつける。多宝塔の二重屋根は炎々と燃えつつある。
次いで町内警備の腕用喞筒(ポンプ)、第3部の手挽十四馬力の喞筒(ポンプ)が作業にあたる。
東より第4部、第2部、本部、西より第5部、第1部の喞筒(ポンプ)の管鎗(ノズル)が火点に向けられる。
午後零時40分頃には白煙と化す。残火鎮火に約10分、多宝塔の大半を焼きて鎮火す。

 この日は旧正月5日、福寿院境内には女角力一行、旧元旦以来興行中にて、其の寄太鼓の櫓を多宝塔の西2間に掛け、朝より寄太皷を打っていた。
風速78mの伊吹颪は、太皷を打っていた一行中の行司梶村秀作のなた豆煙管(鉈豆形の延打のキセル)の吸殻を吹き下ろして、檜皮葺の下屋根中ほどに吹き付けた。
国宝とは云え、多年住職が特別の注意をすることもなく、荒れに任せ、雨もりもそのままで、塔内は物置としている有様であった・・・。

 「一宮史編纂をしている森徳一郎氏の手記」:
寺伝の弘仁年中弘法大師建立・応長2年(1312)の修理説などは信じがたいが、建築の様式から室町と思われる。
嘉吉2年(1442)裏書の「康冨記」(権大外記中原康冨の記録・応永から享禄まで数十巻あったが、今20巻伝わる)に、
この塔についての記録がある。
 「洛北、東岩倉蜜花院の等月上人は、等日坊以下数名の僧徒を従えて、嘉吉2年9月20日京都を立ち、尾張国一宮に向かった。その用件は来る24日同地勝福寺(後福寿院と改める)の塔供養の導師として、等月上人が請招されたからである。
また上人は続いて28日に美濃國江斐寺の塔供養を致さるゝのであるから、かの両寺の表白文及諷誦を所望に依って自分が造り与えた。」
以上の記録及び多宝塔の様式から、嘉吉2年(室町期)の建築であることは明らかであろう。
かって天沼博士は細部の様式論から元亀創建説をとなえられたことがあったが、「康冨記」の記録を優先すべきであろう。
「400年前創建古社寺圖面記録調」(愛知県庁社寺課所蔵)によれば、この塔は、塔供養後、元亀2年、宝暦元年、明治12年に修復、明治20年内務省から金100円下賜、多少修理と云う。明治43年特建(国宝)に編入。
「日本古美術案内」瀧精一では
「総素木造、屋根の勾配頗る穏やかで瀟洒なる姿をなしている。足利時代の作と認められる。」

梶村秀作は一宮区裁判所で、失火罪として罰金百円の即決を受け、2月2日服罪して旅に立った。

 なお「康冨記」の云う「美濃國江斐寺」とは揖斐郡鶯村大字衣斐にあった大霊鳥寺を云う。
 (上記によれば、江斐寺においても、中世に「塔」の建立を見たようである。)
※大霊鳥寺とは不詳、但し鶯村とは
明治30年、鶯村成立(揖斐郡 公郷村, 領家村, 大衣斐村, 小衣斐村合併)、昭和31年、大野町鶯村編入
と云うから大衣斐村もしくは小衣斐村にあったと思われる。
小衣斐村には古代寺院である大隆寺があったことは知られるが、その他は不詳。


2008/10/20追加:
「鎌倉室町兩時代多寳塔の格好」土屋 純一(「建築雑誌」Vol.35、大正10年<1921>所収)より

この論文中の第2編「現存多宝塔の批判」の章があり、ここに今は失われている尾張福寿院及び今は上重を失う尾張祐福寺多宝塔の「批判」(スタイルの言及)がある。この両塔の姿を偲ぶ一つの手段として、「現存多宝塔の批判」の章から両塔に関する「批判」の全文を掲載する。
※福寿院多宝塔は昭和8年1月30日火災焼失。
※祐福寺多宝塔は明治35年火災に遭い、上重は失う。明治34年に旧国宝指定を受け、恐らく上重喪失前の寸法は記録されていたものと思われる。
なお、当論文で取上げられている多宝塔は以下である。
鎌倉期大型塔:近江石山寺、高野山金剛三昧院、備後浄土寺、紀伊浄妙寺、丹波大福光寺、山城金胎寺、美濃日龍峯寺
鎌倉期小形塔:和泉慈眼院
室町期大型塔:丹後智恩寺、和泉法道寺、尾張祐福字、三河池鯉鮒大明神、安芸厳島、三河大樹寺、尾張萬徳寺、尾張性海寺、尾張荒子観音寺
室町期小形塔:大和吉田寺、尾張福壽院、山城寳塔寺
室町期大塔:根来大傅法院
◎両塔の寸法:

単位:上段尺 全高 下層大サ 下層軒幅 下層軒高 上層大サ 上層軒幅 上層軒高 相輪全長
福寿院 39.50
(11.97m)
9.95
(3.02m)
18.19
(5.51m)
9.10
(2.76m)
5.10
(1.55m)
14.70
(4.45m)
17.75
(5.38m)
15.00
(4.55m)
祐福寺 53.75
(16.29m)
16.45
(4.98m)
28.70
(8.70m)
12.50
(3.79m)
7.50
(2.27m)
22.60
(6.85m)
26.00
(7.88m)
18.40
(5.58m)

(以下引用文)     福 壽 院
 福壽院多宝塔は下層大さ十尺に満たざる小形塔にして、金高に対する下層大さの割合は(第六表參照・・・省略)平均率以上に出づ。
廻縁は形を失ひて現存せず。
下層軒幅の全高に對する割合は両時代全多官塔を通じて最小率を示し、之れを下層大さに對比すれば又平均率以下にあり。即ち軒出
稍少きものにして,下層軒高の全高に對する割合又平均率以下に低し。即ち全高に対して下層軒幅及び軒高とも過小の比となるものなれば、他
方より之れを観察すれば下層の割合に全高が高きに失せるを知るべし。
上層亀腹は下層より小に、上層大さの下層大さに對すら割合又平均率以下に小なり。
上層軒幅の全高に對する割合は平均率以下となり、之れを下層軒幅に對比して又平均率以下にあり、上層大さに封比するも又同じく平均率以下にありて小なり。即ち上層に於ても下層に於けるが如く軒出は稍浅き形にして、其屋蓋の過小なるを現はせるものに他ならず。
上層軒高の全高に対する割合又例外的とすぺく、全多宝塔を通じての最小率を示して甚だ低く、上下層屋蓋の間隔をとりて全高に對比すらも叉無比の最小率を示せり。即ち上沿層軒が又著しく低位にあるものにして、叉之れ全高の高きに過ぎたるを現はすものといふぺきなり。
全高に対する相輪全長の割合は叉無比の最長例外的の率となり、ごれを上層軒幅に対比すれば更に甚しく、實に相輪長が軒高以上の長を有するものにして、頗る突飛なる手法といふべく、軒以上の高を以て軒幅に比較するも叉最大率を示せり。
 尚之れを判別標準によりて検証するに(第十表参照・・・省略)下層軒幅、下層軒高、上層軒幅、上層軒高,相輸全長とも室町時代たる資格に欠くるところなきも標準比率を距ること頗遠く、上層軒高及び相輪全長に於て特に甚しく常規を逸するものあるを認識せしむるなり。
 要するに此塔は上層屋蓋の位地低きに過ぎ、相輪が甚だしく長きに過ぎて、為に権衡を失せるものたるは頗る明瞭にして、恐くは補修もしくは
改鋳等の際に於ける惜むべき大失態ならざるべからず。
下層が一見高きに過ぎたるが如き観を呈せるは廻縁を欠きたるによるものにして其屋蓋は寧ろ低位にありといふべく、各層屋蓋の関係等必ずしも権衡を失したるにあらず。
屋蓋は上下層とも檜皮葺の勾配緩にして頗る軽快且安定の感を與ふるものあり、故に若し此相輪を短縮し下層廻縁を復旧せば、全体として大に其面目を改め、優秀なる権衡を親すべきは疑ふの余地なきなり。

「尾張名所図圖會」(後編)に見る福寿院多宝塔

尾張福寿院(部分・左図拡大図):絵図中央下段に福寿院

記事:(真言宗、当村地蔵寺末、文永年中空円法師の開基にて、須賀崎山勝福寺と号し、本尊は十一面観音の像を安置す。むかしは十坊ありしが、永禄・天正の頃の兵賊・地震等に衰廃して、この一宇のみ残れり。・・・・『康冨記』に曰く、「嘉吉2年(1442)・・東岩藏之蜜花院坊主等月上人。并等日房等。今日尾張国一宮に下向せしめたまふ。来る24日勝福寺塔供養也。等月上人を導師となして請招せらる云々・・・」と見えたり)

福寿院現況

神亀年間行基の創建とし、弘仁年中(810-823)弘法大師が伽藍を整備したと伝える。真言宗。本尊十一面観音。
のち文永年中(1264〜)空円上人が荒廃した福寿院を再興、10坊を構える。
昭和8年多宝塔焼失、昭和20年空襲により本堂なども焼失。

尾張福寿院現況:2005/04/03撮影
 ※写真右の瓦葺屋根は隣の即得寺の本堂であり、福寿院とは別寺院である。

昭和20年空襲で焼失、現在は市街地の中に埋もれ、衰微し、昭和初頭の「疎松の間に多宝塔」などの情景は全くない。
おそらく多宝塔があった場所は人家もしくは道路に変わり、その人家も2005/04月更地になり、変貌している。
多宝塔跡などは、全く偲ぶすべもない。


2006年以前作成:2017/01/16更新:ホームページ日本の塔婆