寺町移転・宝永の大火・天明の大火・元治の大火

●寺町・寺の内の形成
天文5年(1536)京洛の法華宗諸本山21ヶ寺は連合して比叡山衆徒等と対峙するも破れ(天文法華の法難)、伽藍は灰燼に帰す。各本山は堺の末寺に遁れる。
天文11年(1542)前後に諸本山は帰洛が勅許され、法華宗本山はその数を16ヶ本山に現ずるも洛中に再興される。
その後、本能寺の変・山崎の合戦を経て、天下は秀吉が掌握する。
天正11年(1583)頃、豊臣秀吉は京都の街の改造に着手、市街地の寺院は基本的に寺町(鴨川西河原)及び寺の内(上京の北)に移転を命ずる。
その結果寺町では、三条通から北に、本能寺・妙満寺・要法寺・妙傳寺・寂光寺が直線に連なり、その北に(内裏の東)本禅寺、更に北に(今出川頭)立本寺、本満寺<元位置のまま>の法華宗本山が甍を連ねる景観となる。
 貞享3年京大絵図:貞享3年(1686):以上の状況が分かる。(2013/02/01画像入替)

一方寺の内には主として上記以外の法華宗諸山が移転を命ぜられ、東から西へ妙顕寺・妙覚寺・本法寺・妙連寺が寺院街を形成する。その南西に本隆寺も移転させられる。(聚楽第造営の為の理由が加わる)
 貞享3年京大絵図:貞享3年(1686):以上の状況が分かる。(2013/02/01画像入替)

本圀寺のみは元の地にとどまる。
 貞享3年京大絵図: 貞享3年(1686):以上の状況が分かる。(2013/02/01画像入替)

寛文13年(1673)頂妙寺は禁裏に隣接している理由で現在地に移転を命ぜられる。

●宝永(1708)の大火
宝永5年(1708)3月8日油小路通姉小路通角から出火。497町、寺社100余、14000軒余を焼失。
法華宗本山では、本満寺、立本寺、本禅寺、妙傳寺、要法寺、寂光寺(妙泉寺)が類焼する。
その復興では、京都御所東の類焼した27ヶ町と寺町・裏寺町の25ヶ寺は基本的に川東に替地を与えられ移転を命ぜられる。
※法華宗本山の要法寺・妙傳寺・寂光寺(妙泉寺を含む)は川東に、立本寺は西陣へ移転する。
 天保2年(1831)「改定京町御絵図細見大成」:妙傅寺・要法寺・寂光寺と頂妙寺の状況
 天保2年(1831)「改定京町御絵図細見大成」:立本寺の状況
2017/09/18追加:
○「音無川」洛陽散人春翁著(「新撰京都叢書第10巻」 所収) より
宝永3年の大火:
春翁自身が宝永の大火に被災するという。
「寺院類焼には、京極通りにて本満寺立本寺本善(禅)寺、浄華院、廬山寺、遣迎院、革堂、専念寺、常念寺、三福寺、西昌寺、西方寺、清光寺、仏光寺、信行寺、大恩寺、正行寺、福昌寺、聞妙寺、寂光寺妙傳寺要法寺、矢田寺、裏寺町にて本妙寺、生蓮寺、見性寺、善香(光)寺、専称寺、正覚寺、願正寺、大光寺、大雲寺、西蓮寺、本正寺、上安寺、教安寺。此外に、頂法寺、等持寺、・・・・・類焼寺院46ヶ寺。・・・」

●享保15年(1730)の西陣焼け
焼失範囲:東は上立売通室町。西は北野馬喰町、南は小川今出川・一条千本、北は盧山寺通。
要するに西陣一帯を全焼する。
法華宗本山では、本隆寺(本堂は残る)、妙連寺(本堂・大門は残る)が類焼。

天明の大火
天明8年(1788)正月30日の火災を云う。応仁以来の大火とす。
天明8年正月29日夜狂風。30日寅の刻、賀茂川東、宮川町団栗辻新道の角、某両替商より出火。東石垣町・宮川町を焼き、五条橋にいたる。暴風更に加わり、寺町永養寺本堂に移り、浄国寺に焼き付く。火八方に漲り、炎々として京洛を焚く。2日卯の刻に止む。
被害の区域:建仁寺門前から問屋町。北にして仁王門新柳馬場・頂妙寺新地・聖護院村の民家。
西は千本壬生の野外に至る。二条本丸炎上。七本松を焼き、北にて千本東にて止む。
南は寺町を下がり七条・東本願寺南通に至る。
北は寺町頭鞍馬口に至る。更に西進し、新町頭・堀河頭・安居院・今宮お旅所・一番町に至り、西陣焼きに続き、西陣灰燼に帰す。
中に皇居・仙洞・公卿第宅・諸侯藩邸・所司庁等炎上す。
其数公卿邸130、武家第60、神社37、寺院201寺(末寺・寺中708合計909寺)、市坊1424ヶ町、人家36797戸(数え方を変えれば83000軒)とす。
 焼失した寺院中の法華宗本山は以下のとおり。
頂妙寺(寺中・仁王門)、本満寺(寺中)、本禅寺(寺中)、妙満寺(寺中)、本能寺(寺中)、妙覚寺(華芳塔・寺中)、妙顕寺(寺中)、本法寺(寺中)、妙連寺(寺中)、本圀寺(五重塔・大門・本堂以下寺中)。ただし本隆寺は余災を遁れる。
宝永年間に川東に移転した諸山は無事であった。

 焼失した塔婆
神泉苑(二重の塔炎上)。
層塔の炎上せしもの7基、曰く、本圀寺・本能寺・妙覚寺・妙連寺・妙顕寺・相国寺・誓願寺なり。

元治の大火:元治元年(1864)の大火/蛤御門の変(禁門の変)の大火/どんどん焼け(鉄砲焼け)
おおむね、京都御所周辺より南、寺町以西、堀川以東、東本願寺を含む七条以北の市街地が焼ける。
法華宗本山では妙満寺・本能寺が類焼。
2014/08/20追加:
平成26年8月〜11月まで、「京都市歴史資料館」にて『蛤御門の変と「どんどん焼け」-あれから150年』展が開催。
標記展示およびリーフレットより以下を転載。
元治元年(1864)7月19日に起きた蛤御門の変の戦火は京都市街の半分以上を焼き尽くす大火となる。
文久3年(1863)会津・薩摩藩は過激派長州藩を京都から追い落とすクーデターを敢行。
翌元治元年長州藩は失地回復を図るべく、武装藩士を上洛させ交渉するも、失地回復の交渉は決裂し、長州藩主力は蛤御門と中立売御門で会津・薩摩などの諸藩と戦端を開く。この戦闘の中で、堺町御門あるいは長州藩邸(河原町二条)に火が放たれ、火は南に延焼し、市街の南半分が罹災する大火となる。
 ※どんどん焼けとは鉄砲の音からの命名である。
 ※蛤御門とは、開かずの門であるが、大火の時には解放されたので、熱すれば口を開く蛤に例えたものという。
◇改訂・内裏細見之図
 改訂・内裏細見之図:蛤御門は西端中央、中立売御門はその北側、堺筋御門は南端中央に描かれる。
なお、東端に寺町通が通り、北寄りに日蓮宗本禅寺、浄華院、蘆山寺、遣迎院(今は鷹峯に移転)の寺院が並ぶ。
◇京都大火之圖
 京都大火之圖:どんどん焼けの火災図
本図は東を上にして掲載。焼失地域は淡いピンクで彩色される。
寺町を東限度として、妙マンヂ(妙満寺)以南の寺町がキコク屋敷(枳殻邸)を超えて焼失、寺町本能寺・誓願寺もその名が見える。西端は堀川であり、堀川西の六条本圀寺・西本願寺・二条御城は焼失を免れる。しかし東本願寺は類焼したことが分かる。
寺院は26□ヶ寺とある。
◇平安大火末代噺
 平安大火末代噺:どんどん焼けの火災図
本図も焼失地域は淡いピンクで彩色される。寺町妙満寺・本能寺が焼失し、六条本圀寺は類焼を免れる様が分かる。
洛外之部で、伏見、山崎村、天王山、嵯峨天竜寺・二尊院などの焼失を伝える。
伏見は中書島長州屋敷から出火し類焼、山崎・嵯峨は蛤御門の変の時の長州の根拠地で、長州敗北の時放火したものと推定される。
山崎村の焼失に関しては「洛中大火夢物語」では「・・・又山崎海道天王山はなの寺りきう八まん迄皆々焼失したし候」とあるという。 → 大山崎(離宮八幡多宝塔など)

●明治維新後
妙満寺:昭和43年現在地(北区幡枝)に移転。
本圀寺:昭和46年山科に移転・現在の伽藍を建立。
妙泉寺退転(年代不詳)


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