大和興福寺五重塔・興福寺三重塔 興福寺勧学院八角多宝塔 春日西塔東塔 興福寺四恩院十三重塔

大和興福寺五重塔・興福寺三重塔・勧學院八角多宝塔・春日西塔東塔・四恩院十三重塔

大和興福寺五重塔(国宝)

五重塔は天平2年(730)創建。建立は光明皇后御願による。
  高さ15丈1尺、相輪長5丈1尺とされる。(「興福寺流記」)
寛仁元年(1017)雷火で東金堂とともに焼失、長元4年(1031)再興供養。
康平3年(1060)焼失、承暦2年(1078)再建供養。
治承4年(1180)平重衡の南都焼討で焼失、元久2年(1205)頃完成。
文和5年(1354)雷火で焼失、嘉慶2年(1388)頃完成。
応永18年(1402)雷火で焼失、応永33年(1426)棟上、この塔が現在に伝わる。
 和様を用いる。初重一辺29.2尺(中央間10.3尺、両脇間9.4尺)、基壇一辺58.1尺。(一辺8.77m、高さ50m余り)

興福寺五重塔
 

2000/8/18撮影 :
興福寺五重塔

2002/3/9撮影:
大和興福寺五重塔1

  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8



 

2002/7/28撮影:
興福寺五重塔1
 同       2
 同       3
 同       4
 同       5
 同       6
 同       7
 同       8
 同       9

2003/5/28撮影:
大和興福寺五重塔1
 同          2
 同          3
 同          4(左図拡大図)
 同          5
 同          6

2006/06/17撮影:
大和興福寺五重塔

○「大和の古塔」黒田f義、天理時報社、昭和18年 より
基壇一辺60尺5分、高さ5尺
初重柱間全3間28尺9寸3分、中央間10尺3分、両脇間9尺4寸5分
二重柱間全3間26尺8寸8分、中央間9尺5寸3分、両脇間8尺6寸7分5厘
三重柱間全3間24尺4寸2分、中央間8尺7寸1分、両脇間8尺8寸5分5厘
四重柱間全3間22尺1寸9分、中央間8尺、両脇間7尺9分5厘
五重柱間全3間20尺2寸7分、中央間6尺9寸9分、両脇間6尺6寸4分
相輪長49尺7寸7分、全高165尺3寸6部

2007/10/13撮影:
 興福寺五重塔21:眉間寺跡附近より
 興福寺五重塔22    興福寺五重塔23    興福寺五重塔24

2008/06/14撮影:
 興福寺五重塔31     興福寺五重塔32     興福寺五重塔33     興福寺五重塔34     興福寺五重塔35
 興福寺五重塔36     興福寺五重塔37     興福寺五重塔38     興福寺五重塔39     興福寺五重塔40
 

2010/02/21撮影
 興福寺五重塔41:左図拡大図
 興福寺五重塔42
 興福寺五重塔43
 興福寺五重塔44
 興福寺五重塔45
 興福寺五重塔46
 興福寺五重塔47
 興福寺五重塔48
 興福寺五重塔49
 興福寺五重塔50
 興福寺五重塔51
 興福寺五重塔52
 興福寺五重塔53
 興福寺五重塔54

2010/03/28撮影
 興福寺五重塔59
 

2012/01/28撮影:
 興福寺五重塔61
 興福寺五重塔62
 興福寺五重塔63
 興福寺五重塔64
 興福寺五重塔65
 興福寺五重塔66
 興福寺五重塔67
 興福寺五重塔68
 興福寺五重塔60
 興福寺五重塔70
 興福寺五重塔71

2012/02/26大和白毫寺より撮影:
 興福寺五重塔遠望1     興福寺五重塔遠望2     興福寺五重塔遠望3

2013/02/21撮影:
 興福寺五重塔81     興福寺五重塔82     興福寺五重塔83     興福寺五重塔84     興福寺五重塔85
 興福寺五重塔86     興福寺五重塔87     興福寺五重塔88     興福寺五重塔89     興福寺五重塔90

2015/11/21撮影:

興福寺五重塔101:左図拡大図
興福寺五重塔102
興福寺五重塔103
興福寺五重塔104
興福寺五重塔105
興福寺五重塔106
興福寺五重塔107
興福寺五重塔108
興福寺五重塔109
興福寺五重塔110
興福寺五重塔111
興福寺五重塔112
興福寺五重塔113
興福寺五重塔114
興福寺五重塔115:奈良県庁屋上から遠望
興福寺五重塔116:同上

2015/02/27追加:
 若草山山焼/興福寺塔婆:2015/01/25朝日新聞掲載、写真は朝日新聞による7枚の合成写真

○2016/06/15撮影:

興福寺五重塔細部11
興福寺五重塔細部12
興福寺五重塔細部13
興福寺五重塔細部14
興福寺五重塔細部15
興福寺五重塔細部16:左図拡大図
興福寺五重塔細部17
興福寺五重塔細部18
興福寺五重塔細部19
興福寺五重塔細部20
興福寺五重塔細部21
興福寺五重塔細部22
興福寺五重塔細部23
興福寺五重塔細部24
興福寺五重塔細部25
興福寺五重塔細部26

 興福寺五重塔基壇
 興福寺五重塔燈籠基台:塔創建期(奈良期)の五重塔燈籠の基台であろう。花崗岩製、力強い蓮華文を彫る。
 ○興福寺五重塔
 興福寺五重塔121     興福寺五重塔122     興福寺五重塔123     興福寺五重塔124
 興福寺五重塔125     興福寺五重塔126     興福寺五重塔127
 ○五重塔遠望

興福寺五重塔遠望・大御堂より1
興福寺五重塔遠望・大御堂より2
興福寺五重塔遠望・あら池より1:左図拡大図
興福寺五重塔遠望・あら池より2
興福寺五重塔遠望・あら池より3
興福寺五重塔遠望・あら池より相輪
 

2018/10/15撮影:
 興福寺五重塔131     興福寺五重塔132     興福寺五重塔133     興福寺五重塔134     興福寺五重塔135
 興福寺五重塔136     興福寺五重塔137     興福寺五重塔138
2018/11/11撮影:
 興福寺五重塔141     興福寺五重塔142     興福寺五重塔143     興福寺五重塔144     興福寺五重塔145
2019/11/10撮影:
 興福寺五重塔146     興福寺五重塔147     興福寺五重塔148     興福寺五重塔149

2019/02/15追加:
○興福寺発行リーフレット より
 興福寺五重塔146     興福寺五重塔147

2020/09/28撮影:
五重塔は点検あるいは修理のため、近々覆屋に覆われ、しばらくはその姿を見ることができなくなるとのこと。
興福寺僧侶の談では、五重塔の「痛み具合の調査」を行うとのことで、小修理はあっても解体修理ということにはならないであろうとのことである。
 興福寺五重塔151     興福寺五重塔152     興福寺五重塔153     興福寺五重塔154     興福寺五重塔155
 興福寺五重塔156     興福寺五重塔157     興福寺五重塔158     興福寺五重塔159     興福寺五重塔160
 興福寺五重塔161     興福寺五重塔162     興福寺五重塔163     興福寺五重塔164     興福寺五重塔165
 興福寺五重塔相輪
 額塚と興福寺五重塔

2020/11/01撮影:
 興福寺五重塔166

2021/10/11撮影:
五重塔は2022年度に大修理に入り、相当長期間覆屋に覆われるという。
 猿沢池付近から
 興福寺五重塔166+    興福寺五重塔167     興福寺五重塔168
 興福寺五重塔222
 荒池越
 興福寺五重塔169     興福寺五重塔170     興福寺五重塔171     興福寺五重塔172     興福寺五重塔173
 興福寺五重塔174     興福寺五重塔175     興福寺五重塔176     興福寺五重塔177
 興福寺五重塔223     興福寺五重塔224     興福寺五重塔225
 境内より
 興福寺五重塔178     興福寺五重塔179     興福寺五重塔180     興福寺五重塔181
 興福寺五重塔182     興福寺五重塔183
 興福寺五重塔226     興福寺五重塔227     興福寺五重塔228     興福寺五重塔229
 鶴福院町・池之町附近より
 興福寺五重塔184     興福寺五重塔185     興福寺五重塔186
 興福寺五重塔233     興福寺五重塔234     興福寺五重塔235     興福寺五重塔236
 県庁屋上より
 興福寺五重塔187     興福寺五重塔188     興福寺五重塔189
 斗栱など
 興福寺五重塔190     興福寺五重塔191     興福寺五重塔192     興福寺五重塔193     興福寺五重塔194
 興福寺五重塔195     興福寺五重塔196     興福寺五重塔197     興福寺五重塔198     興福寺五重塔199
 興福寺五重塔200     興福寺五重塔201     興福寺五重塔202     興福寺五重塔203     興福寺五重塔204
 興福寺五重塔205     興福寺五重塔206     興福寺五重塔207     興福寺五重塔208     興福寺五重塔209
 興福寺五重塔210     興福寺五重塔211     興福寺五重塔212     興福寺五重塔213     興福寺五重塔214
 興福寺五重塔215     興福寺五重塔216     興福寺五重塔217     興福寺五重塔218     興福寺五重塔219
 興福寺五重塔220     興福寺五重塔221
 興福寺五重塔230     興福寺五重塔231     興福寺五重塔232
 相輪
 興福寺五重塔相輪1     興福寺五重塔相輪2     興福寺五重塔相輪3

2021/10/15撮影:
2021/10/15撮影:
興福寺五重塔240
興福寺五重塔241
興福寺五重塔242
興福寺五重塔243
興福寺五重塔244
興福寺五重塔245
興福寺五重塔246
興福寺五重塔247
興福寺五重塔248
興福寺五重塔249
興福寺五重塔250
興福寺五重塔251
興福寺五重塔252
興福寺五重塔253
興福寺五重塔254
興福寺五重塔255
興福寺五重塔256
興福寺五重塔257
興福寺五重塔258
興福寺五重塔259
興福寺五重塔260
興福寺五重塔261
興福寺五重塔262
2021/10/15ライトアップ:
興福寺五重塔263
興福寺五重塔264
興福寺五重塔265
興福寺五重塔266
興福寺五重塔267
興福寺五重塔268
興福寺五重塔269:左図拡大図
興福寺五重塔270
興福寺五重塔271
興福寺五重塔272

2022/10/09追加:
sangenの神社仏閣仏像拝観巡り Oct 8 より
約120年ぶりの大規模修理が行われ来年(2023年)1月から塔を覆う素屋根が設置される。修理は2030年3月末までの予定。
 興福寺五重塔273

2023/01/25撮影:積雪
興福寺五重塔311
興福寺五重塔312
興福寺五重塔313
興福寺五重塔314
興福寺五重塔315
興福寺五重塔316:左図拡大図
興福寺五重塔317
興福寺五重塔318
興福寺五重塔319
興福寺五重塔320
興福寺五重塔322
興福寺五重塔323
興福寺五重塔324
興福寺五重塔325
興福寺五重塔326
興福寺五重塔327
興福寺五重塔328
興福寺五重塔329
興福寺五重塔330
興福寺五重塔331
興福寺五重塔332
興福寺五重塔333
興福寺五重塔334
興福寺五重塔335
興福寺五重塔336
興福寺五重塔337
興福寺五重塔338
興福寺五重塔339:相輪
興福寺五重塔340:相論

2023/03/21撮影:
 興福寺五重塔341     興福寺五重塔342     興福寺五重塔343     興福寺五重塔344
2023/04/06撮影:
 興福寺五重塔345     興福寺五重塔346     興福寺五重塔347:遠望

2023/05/01撮影:
興福寺五重塔遠望 五重塔遠望
興福寺五重塔348:左図拡大図
興福寺五重塔349
興福寺五重塔350

五重塔全身
興福寺五重塔351
興福寺五重塔352
興福寺五重塔353
興福寺五重塔354
興福寺五重塔355
興福寺五重塔356
興福寺五重塔357
興福寺五重塔358
興福寺五重塔359
興福寺五重塔360
興福寺五重塔366
五重塔細部
 興福寺五重塔361     興福寺五重塔362     興福寺五重塔363     興福寺五重塔364
 興福寺五重塔365     興福寺五重塔367     興福寺五重塔368     興福寺五重塔369
 興福寺五重塔370     興福寺五重塔371     興福寺五重塔372     興福寺五重塔373
 興福寺五重塔374     興福寺五重塔375     興福寺五重塔376:相輪     興福寺五重塔377
 興福寺五重塔378     興福寺五重塔379     興福寺五重塔380     興福寺五重塔381
 興福寺五重塔382     興福寺五重塔383     興福寺五重塔384     興福寺五重塔385
 興福寺五重塔386     興福寺五重塔387     興福寺五重塔388     興福寺五重塔389 

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2007/02/20追加:
○「日本建築史基礎資料集成・塔婆T」 より
  興福寺五重塔立面・断面図
2022/01/13追加:
○「奈良六大寺大観 第7巻 興福寺1」岩波書店、昭和48年(1973) より
  興福寺五重塔断面図     興福寺五重塔平面図

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◆五重塔/三重塔内部公開:2016/09/15拝観:
○興福寺五重塔心礎・心柱
 興福寺五重塔心礎/心柱1:下に掲載の興福寺五重塔弥勒三尊像3に心礎・心柱が写るので、そこだけ切り取って心礎・心柱として掲載。
 興福寺五重塔心礎/心柱2
興福寺五重塔の心礎及び心柱については、その写真を含め全く情報がない。
従って、心礎の形状や大きさ、心柱の径の法量などについて全く分からない。
心礎を実見した印象では、心礎はほぼ円形でその径は6、7尺ほどの大きさではないだろか。表面は粗いままで、奇麗に削平された様子ではない。心柱はその粗い表面に「がっしり」と食い込み屹立する印象である。柱座および心柱がすっぽりと入る柱穴の加工がなされているようには見えない。なお、心礎に出枘もしくは枘孔の加工がなされているかどうかは、当然分からない。
心柱の径も不明であるが、3、4尺ほどではないだろうか。
○興福寺初重内部
 興福寺五重塔阿弥陀三尊像:西面、向かって左は北面弥勒三尊像:産経フォト より
 興福寺五重塔弥勒三尊像:北面:産経フォト より      興福寺五重塔弥勒三尊像2:北面:産経フォト より
 興福寺五重塔阿弥陀三尊像2:西面、向かって右は南面釈迦三尊像:産経新聞 より
 興福寺五重塔弥勒三尊像3:北面:朝日新聞 より

◆五重塔特別公開:2021/10/11拝観:
 NHKニュース より
 興福寺五重塔心礎心柱3
 朝日新聞 より
 興福寺五重塔安置佛1     興福寺五重塔安置佛2     興福寺五重塔斗栱
 朝日新聞デジタル より
 興福寺五重塔心礎心柱4     興福寺五重塔安置佛3     興福寺五重塔安置佛4

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大和興福寺五重塔古写真及び絵画

○大和名所圖會 寛政3年(1791)刊より:(2012/03/25画像入替)
 大和興福寺
享保2年(1717)の大火によって、主要伽藍は焼亡し廃墟と化した興福寺の姿が描かれる。
近世以前には、幾度の焼失のつど復興を遂げてきたが、古のような復興する力を失った興福寺の様が描かれる。
主要伽藍の中では東金堂と五重塔は辛うじて存在する。
東金堂の北・中金堂東には明治維新に廃絶した細殿・食堂がある。左下隅は南円堂(寛保元年<1741>再建)。
 朝香山・大乗院:大乗院が描かれる。

○延宝3年版「南都名所集」(1675)より:
 興福寺東金堂(五重塔の描写あり)

○和州奈良之繪圖 元治元年(1884)より:
 和州奈良之繪圖の中央部分図:興福寺五重塔・三重塔が描かれる。

2003/03/19追加:
○加太越奈良道見取絵図第2巻、寛政年中(1789-1801)編修
  興福寺伽藍図(主要伽藍は焼失してい るが、明治維新前の全容を窺うことが出来る。)
  興福寺主要伽藍図:上記拡大図:五重塔・三重塔・勧学院多宝塔の姿がある。

2006/10/7追加:
○壬申検査記録写真:明治5年撮影
 大和興福寺五重塔:猿沢の池周囲にも明治5年頃にはかなりの土塀が残っていた様子がうかがえる。
 興福寺三重塔猿沢池:猿沢の池から西方を撮影したものと思われる。興福寺三重塔が写る。
 大和興福寺山内:おそらく春日参道鳥居(一の鳥居)手前から西方向を撮影したものと思われる。
            写真右上の相輪は五重塔と思われる。左土塀は興善院・菩提院などと思われる。
 大和興福寺北円堂:この荒廃の中で、今日まで良く維持される。
 大和興福寺南円堂
2010/02/01追加:
○壬申検査ステレオ写真(重文):「東京都江戸東京博物館資料目録 ガラス原板1」2006 より
 明治5年興福寺五重塔
2014/07/11追加;
 明治5年興福寺五重塔2;壬申検査ステレオ写真      明治5年興福寺五重塔3:壬申検査ステレオ写真・部分図
 明治5年興福寺五重塔4;壬申検査四つ切写真       明治5年興福寺五重塔5;壬申検査四つ切写真・部分図

2007/01/01:
「Y」氏ご提供
 
作者不詳「舊都の春」:明治末か大正初期ころの雑誌口絵。石版画。興福寺五重塔(推定)
 山口蓬春?「奈良公園」?:(題不明):「日本案内記」鉄道省、昭和9年、口絵(木版画)、作者は推定、興福寺五重塔
 川村曼舟「古都の春図」:「日本画大成 28昭和篇(2)」東方書院、昭和8年、川村曼舟(1880-1942)
   興福寺五重塔(推定):左重層堂は東金堂、右手若草山と思われる。
 池田真哉「興福寺大塔」:「絵画叢誌 第88巻」明治27年、石版画

2007/06/26追加:
○明治期興福寺五重塔
 東金堂と五重塔
 猿沢池と五重塔1   猿沢池と五重塔2   猿沢池と五重塔3

2008/03/23追加:
○「特別保護建造物及国宝帖」内務省宗教局編、東京:審美書院、明43年 より
 興福寺五重塔311      興福寺五重塔立断面図312

2008/12/31追加:
○「大和名所写真画帖」大正2年 より
 興福寺東金堂・五重塔

2009/07/25追加:
○「日本記/Notes in Japan」 パーソンズ/Parsons, Alfred, 1847-1920 より
 興福寺五重塔313
○「西回り極東へ:中国と日本の主要な都市の案内と朝鮮の印象/Westward to the Far East : a guide to the principal cities of China and Japan with a note on Korea」 シッドモア(シドモア)/Scidmore, Eliza Ruhamah, 1856-1928  より
 興福寺五重塔314
○「日本:日本人によって記述され挿絵を入れられた 第10巻/Japan : described and illustrated by the Japanese v. 10」ブリンクリー/Brinkley, F. (Frank), 1841-1912  より
 興福寺五重塔315

2017/01/11追加:
s_minaga蔵絵葉書:通信欄の罫線が3分の1であり、かつ「きかは便郵」とあるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのものであろう。
 興福寺五重塔及花の松


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2021/01/11追加:
2020年11月01日「興福寺で放送大学」ーならまちと五重塔ーが開催される。
会場:興福寺会館
講演:
1)「ならまちの景観と興福寺」京都大学教授・増井正哉
※特に目新しい論点はなし。
2)「五重塔の耐震性」奈良女子大学准教授・瀧野敦夫
 はじめに、地震動にはばらつきがある。その特性は千差万別である。全く同じ地震は一つもない。
つまり地震の揺れはその地震の種類(発生のメカニズム)・震源地の深さや距離などによって非常なばらつきがあり、ある任意の一定地点の地震の揺れを予測することは不可能である。
従って、建物の耐震設計においては実は倒壊という現象は想定をされていないのである。それは建物が倒壊するかどうかを予測することは困難であるからである。
 では、地震の揺れがあった場合、五重塔の揺れの特性はどうなのか。
一般的には建物の剛性が低い場合(建物の高さが高く、壁などが少なく柔らかい)は固有周期は長くなり、反対に建物の剛性が高い場合(建物が低く壁などが多い)固有周期は長くなる。
特に、五重塔は木造であり高さがあるため、剛性の低い建物の典型である。しかし、五重塔は高層のためその揺れ方がいろいろである。いわゆる「塔の揺れはスネークダンスのようである」といわれるが、塔の地震によるその典型を示すものであろう。
 木造の寺院建築の特徴は使用する材料が太い(断面が大きい)と云える。
特に五重塔は平面自体はそれほど大きいものではないが、比較的大きな断面の部材が使われる。柱・貫・板壁・土壁などが耐震要素となり得る。
 寺院建築のもう一つの特徴は礎石立構法を採るというである。
こういった構法の建物は地震に遭遇したとき、一種の免振構造であるように作用する。つまり柱脚などが礎石から浮き、あるいは滑り、地面からの揺れが上部構造に伝わなないように作用する。
但し、これには弱点があり、その一つはそもそも柱脚が滑る前に建物が倒壊する恐れがあることである。
もう一つは礎石自体は柱の断面寸法に対して一回り大きいだけの礎石であることである。この小ささは地震で柱脚が滑るあるいは一部の柱脚のみ礎石を踏み外すなどの現象が発生すれば、それで建物の倒壊につながる惧れがあると云える。
 また、寺院建築は接合金物を用いない太短い柱の上部に重量が載るが、このことにより「柱の傾斜復元力特性」という現象が生じる。これは「起き上がりこぼし」をイメージしてもらえれば良いが、地震等の傾きに対して復元力が働くということである。
特に木造多層塔は機能的には一階建てであり、上部は全て小屋組であるため、基本的には柱は太短いということになる。つまり耐震性が認められるということであろう。
 伝統工法の木造建築では構造体を構成するために、下の部分から組み上げの構造を採る。つまり伝統工法の木造建築(特に塔)には数多くの部品が存在し、例えば地震の時には至る處で部品が擦れ合うことになる。建物が一体で振動するより至る處で細かい部品が擦れ合う方が全体の振動を抑える効果が期待できる。(減衰)
 木造塔の構造は以上のように柔軟な構造であり、相対的には地震に対して、耐震性を有するものと判断される。


大和興福寺三重塔(国宝)

○延宝3年版「南都名所集」(1675)より:
  □興福寺窪弁才天(三重塔の描写あり)
南円堂の建立の時、弘法大師が完成を祈り天川弁才天に参籠し、そのとき宇賀弁才天を感得したと伝えられる。
そのため、宇賀弁財天を勧請し窪弁才天と称したと云う。
 ※窪弁財天は三重塔の附近もしくは興福寺世尊院に祀られたと思われる。
明治の神仏分離の後、三重塔東面に世尊院から窪弁才天及び十五童子像が遷座したと云う。
2012/04/03追加:
○2011/10/02付朝日新聞記事 より
初重内部はわずかに彩色が残る千躰仏が描かれ、頭部に鳥居や宇賀神を載せた弁才天像(江戸期、高さ38.5cm)を安置する。
 興福寺三重塔初重内部
2015/02/24追加:
○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
心柱から四天柱に放射状に板を張り、そこに薬師、釈迦、阿弥陀、弥勒の顕教四仏各千体づつを描く。
 三重塔初重内部2

○大和名所圖會 寛政3年(1791)刊より: (2012/03/25画像入替)
  □大和興福寺: 南円堂西に三重塔が描かれる。

2010/02/01追加:
○壬申検査ステレオ写真(重文):「東京都江戸東京博物館資料目録 ガラス原板1」2006 より
 明治5年興福寺三重塔1
 明治5年興福寺三重塔2
2014/07/11追加;
 明治5年興福寺三重塔3;壬申検査ステレオ写真      明治5年興福寺三重塔4:壬申検査ステレオ写真・部分図

2003/5/10追加::
 ○明治初頭の興福寺三重塔

2008/08/23追加:
○「特別保護建造物及国宝帖」内務省宗教局編、東京:審美書院、明43年 より
 興福寺三重塔313  興福寺三重塔立断面図314

2017/01/11追加:
s_minaga蔵絵葉書:通信欄の罫線が3分の1であり、かつ「きかは便郵」とあるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのものであろう。
 興福寺三重塔絵葉書

2007/03/03追加:
○「日本建築史基礎資料集成・塔婆U」:
・「興福寺別当次第」玄覚の条
保延4年(1138)7月18日、中宮御塔檀被築始之、行事従三位顕輔息、周防守重家朝臣、重任功也
保延4年10月27日、中宮御塔棟上了
・「本朝世紀」
12月20日壬寅、皇太后宮興福寺内御塔供養也<※康治2年(1143)>
※本願については旧来より待賢門院とされてきたが、近年(足立康説)、皇嘉門院(崇徳天皇中宮藤原聖子)であることに定着しつつあるのが現在の状況と思われる。(但し幾つかの矛盾点は残ると云う。)
治承4年(1180)平重衡の焼討ちで三重塔も焼失したと推定される。(治承5年「玉葉」皇嘉門院御塔焼失)
その後、再興の記録は欠くが、塔は鎌倉初期の一連の復興の過程で再興されたと推定される。
天文19年(1550)修理、享保6年(1721)、同8年修理、安政6年(1859)修理。
明治41〜43年解体修理。昭和54年屋根葺き替え部分修理。
初重総間15尺9寸8分、二重10尺8寸5分、三重9尺2寸6分。
初重の平面はひと回り大きくし、(その為)出組を用い、二重三重は通常の通り三手先を用いる。
但し初重平面は通常より大であるが、軒長は通常の中世三重塔と同一の逓減を示す。
鎌倉初期再建塔。一辺4.84m、高さ19m余り。
 興福寺三重塔立面図
2022/01/13追加:
○「奈良六大寺大観 第7巻 興福寺1」岩波書店、昭和48年(1973) より
 興福寺三重塔断面図     興福寺三重塔平面図

○大和興福寺三重塔

2002/3/09撮影:
大和興福寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8

2004/11/06撮影:
大和興福寺三重塔1
 (左図拡大)
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5

 
「大和の古塔」:
初重全3間15尺9寸8分、中央間5尺6寸、両脇間5尺1寸9分
二重全3間10尺8寸4分、中央間3尺8寸8分、両脇間3尺4寸8分
三重全3間9尺2寸5分、中央間3尺3寸5分、両脇間2尺9寸5分
相輪長19尺2寸4分、全高62尺9寸6分

2007/10/13撮影:
 興福寺三重塔21    興福寺三重塔22    興福寺三重塔23   興福寺三重塔24(相輪)

2013/02/21撮影:

大和興福寺三重塔31:左図拡大図
大和興福寺三重塔32
大和興福寺三重塔33
大和興福寺三重塔34
大和興福寺三重塔35
大和興福寺三重塔36
大和興福寺三重塔37
大和興福寺三重塔38
大和興福寺三重塔39
大和興福寺三重塔40
大和興福寺三重塔41
大和興福寺三重塔42
大和興福寺三重塔43
大和興福寺三重塔44
大和興福寺三重塔45
大和興福寺三重塔46
大和興福寺三重塔47
大和興福寺三重塔48(相輪)
大和興福寺三重塔49(相輪)

2015/11/21撮影:

大和興福寺三重塔51:左図拡大図
大和興福寺三重塔52
大和興福寺三重塔53
大和興福寺三重塔54
大和興福寺三重塔55
大和興福寺三重塔56
大和興福寺三重塔57
大和興福寺三重塔58
大和興福寺三重塔59
大和興福寺三重塔60
大和興福寺三重塔61
大和興福寺三重塔62
大和興福寺三重塔63
大和興福寺三重塔64
大和興福寺三重塔65
大和興福寺三重塔66
大和興福寺三重塔67
大和興福寺三重塔相輪

2016/09/15追加:五重塔/三重塔内部公開:
○興福寺三重塔初重内部
三重塔如重内部は四天柱を平面から見れば「×」状に板で区切り、東方には薬師如来像、南には釈迦如来像、西は阿弥陀如来像、北は弥勒菩薩像を各千体描くという。さらに四天柱・長押・外陣柱・扉・板壁には極彩色の仏画などを描くという。
 興福寺三重塔初重内部1:東須弥壇:弁才天坐像・十五童子像:産経フォト より
 興福寺三重塔初重内部2:同上、産経新聞 より
 興福寺三重塔初重弁才天坐像:頭部には宇賀神(白蛇)を載せ、鳥居を構える。:某サイトより転載
 なお弁才天は窪弁才天と呼ばれ、弘法大師が天川弁才天を感得したものと云われるのは前述のとおりである。
 福寺三重塔初重内部板絵:某サイトより転載
 ○2016/06/15撮影:
 興福寺三重塔細部11     興福寺三重塔細部12     興福寺三重塔細部13     興福寺三重塔細部14
 興福寺三重塔細部15     興福寺三重塔細部16     興福寺三重塔細部17     興福寺三重塔細部18
2018/10/15追加: 興福寺東向弁財天
なお、もちいどのセンター街には餅飯殿弁財天が祀られるという。

2018/10/15撮影:
 興福寺三重塔71     興福寺三重塔72     興福寺三重塔73     興福寺三重塔74     興福寺三重塔75

2020/11/01撮影:
興福寺会館(三重塔西隣)から三重塔と五重塔を同時に写真に収めることが可能である。
 興福寺三重塔・五重塔1     興福寺三重塔・五重塔2     興福寺三重塔・五重塔3
 興福寺三重塔76     興福寺三重塔77     興福寺三重塔78     興福寺三重塔79     興福寺三重塔80
 興福寺三重塔81     興福寺三重塔82     興福寺三重塔83     興福寺三重塔84     興福寺三重塔85
 興福寺三重塔86     興福寺三重塔87

2021/10/11撮影:
 興福寺三重塔88     興福寺三重塔89     興福寺三重塔90     興福寺三重塔相輪2

2021/10/15撮影:
 興福寺三重塔91     興福寺三重塔92     興福寺三重塔93     興福寺三重塔94     興福寺三重塔95
 興福寺三重塔96

2023/01/25撮影:積雪
興福寺三重塔111:左図拡大図
興福寺三重塔112
興福寺三重塔113
興福寺三重塔114
興福寺三重塔115
興福寺三重塔116
興福寺三重塔117
興福寺三重塔118
興福寺三重塔119
興福寺三重塔120
興福寺三重塔121
興福寺三重塔122
興福寺三重塔123:相輪

2023/03/21撮影:
 興福寺三重塔124     興福寺三重塔125     興福寺三重塔126     興福寺三重塔127
 興福寺三重塔128     興福寺三重塔128(相輪)
 なお、三重塔内部に弁財天が祀られるが、これは既述の通り、明治維新の神仏分離の処置で、塔内陣(東側須弥壇上)には、世尊院の弁才天坐像とその諸尊(十五童子)が遷され尊像で、現在に至る。世尊院は大御堂の賢聖院を距てた南にあったが、おそらく荒池の造成などで、まったく跡地は残らない。
 興福寺旧境内には属さないと思われるが、餅飯殿町には弘法大師が天河大辨財天社から勧請した弁財天に関係する(その関係性は良く分からないが)という弁財天が祀られる。
 餅飯殿弁財天・理源大師堂     餅飯殿弁財天     餅飯殿理源大師堂
◇餅飯殿弁財天
餅飯殿町に鎮座する。(現在は雑踏の中に沈殿する。)
弘仁4年(814)弘法大師(空海)が皇居の守護神として、興福寺南円堂に吉野の天河大辨財天社から分神を勧請し、窪之辨財天社を創建したことに始まるという。
そして、同年、蕗之畠郷(餅飯殿町)に吉野天河大辨財天社から弁財天を勧請して蕗之畠郷七辨財天(ふきのはたごうななべんざいてん)と号したという。
 ※蕗之畠郷弁財天が現在の餅飯殿弁財天と知れる。
 ※皇居の守護神とは単純に考えれば平安京と考えられるが、おそらく平城京が想定されているのだろう。
 ※この地で、窪之弁財天に供する餅飯を調えた故に、「餅飯殿町」の由来となったという。
◇餅飯殿聖宝理源大師堂
餅飯殿弁財天に並んで鎮座する。
かって大峰山には大蛇が棲み、人に危害を与えていたため、寛平7年(895)宇多天皇により、大蛇退治の勅命が聖宝に下される。聖宝は当郷の箱屋勘兵衛と共に峯入りし大蛇を退治、大峰山の安全を図ったという。
この功績を讃えた当郷の町民は、聖宝と箱屋勘兵衛に餅と飯を差し出して労をねぎらうと、後に聖宝から「餅飯殿へ」と書かれた礼状が届いたことから、当郷は餅飯殿郷と称されるようになったという。
なお、箱屋勘兵衛は大峰山蔵王権現に参詣する餅飯殿講を組織、聖宝より神符が授けられ、この神符を携えて金峯山寺に参拝登山する慣例がある。
以上の経緯で聖宝理源大師堂が建立され、本尊として理源大師聖宝倚像・神変大菩薩役小角尊像・山上講御守(聖宝が餅飯殿講に授けた神符)・箱屋勘兵衛位牌が祀られる。
 ※餅飯殿講は今も機能しているようである。
 ※毎年7月7日は弁財天七夕祭・理源大師法要が営まれ、東大寺僧侶が導師を勤める。また年1回大峰山上参を開催する。


興福寺大乗院八角多宝塔及び勧学院 (中院・中院の屋)八角多宝塔

元興寺禅定院塔→興福寺大乗院八角多宝塔(享徳3年<1454>興福寺中院に引移)→興福寺中院(勧学院)多宝塔

治承の兵火の後の復興では、興福寺寺中に宝塔3基(東金堂並びに塔1基、大乗院・・在塔1基、皇嘉門院御塔)と
寺外に院御塔、殿下御塔<春日両塔>の合計5基の復興を見る。

天禄元年(970):別当定昭、一乗院を建立。
応徳4年(1087):隆禅、一乗院東に大乗院を建立。
治承4年(1180):一山焼失。大乗院は元興寺別院であった禅定院に移転し再興される。
この頃、大乗院には殿舎の外に、東の鬼棲山上に、丈六堂、天竺堂、八角多宝塔、釈迦堂、弥勒御堂、観音堂等があったという。
大乗院多宝塔は平面八角の宝塔で、天福元年(1233)建立と伝える。
宝徳3年(1451):元興寺の火災で大乗院類焼、享徳4年(1455)興福寺勧学院に移されたという。
元和5年(1619)大乗院焼失。

2010/12/31追加:
◎「興福寺中院八角多寳塔考」福井堅二(「大和志 第4編 第1號(通巻第28號)」1937 所収) より
 ※当論考は興福寺中院多宝塔に言及した最初期に属するものの一つである。
以下の記録から大乗院に塔婆があったことが知れる。
○「七大寺巡礼記」:この書は良く分からないが「南都七大寺巡礼記」室町前期成立と云われる書か。
 大乗院件院者興福寺権別当法院隆禅為先建立之本尊丈六観音竝多宝塔一基云々今無庫此院也
○「興福寺濫觴記」:創建より享保2年(1717)までの記録
 二重塔 本尊釈迦如来 康正元年(1455)引移大乗院御塔云々天福元年(1233)建立
以下の記録によれば、隆禅法印代(大乗院創建の頃)大乗院塔婆は建立され、治承4年(1180)炎上、天福元年(1233)再建、
享徳4年(1455)大乗院から中院に移建されると云う。
○「大乗院寺社雑事記」尋尊大僧正正記
   ※尋尊は摂政関白太政大臣一条兼良の子であり、土佐幡多郡中村に下向した一条教房は兄である。
 享徳4年(1455)6月9日の条
  大乗院塔婆今日より中院に引之、則九輪下之了、立寳立上之内に仏舎利在之招提寺舎利也、後菩提山殿御判在之云々
  抑此塔婆は正法寺供養之導師に後菩提山殿を請定、為其御布施塔婆を建立云々
  本願隆禅法印之塔婆は治承4年(1180)之炎上に焼了云々只今塔は天福元年(1233)之塔也
   ※菩提山殿は実尊を指す。実尊は関白藤原基房息、任興福寺別当金峯山検校橘寺別当。治承4年(1180)−嘉禎2年(1236)。
   ※正法寺は大乗院末寺/大和市本に有りか。
   ※隆禅法印は権別当法印権大僧都、大乗院本願。長暦2年(1038)-康和2年(1100)。
さらに「尋尊大僧正正記」では移建に関して、以下が記録される。
 享徳4年(1455)5月13日の条
  ・・・・大乗院御塔事中院に可引之、無相相違者可悦喜、・・・
 享徳4年(1455)5月18日の条
  塔婆事不可有子細旨仰六方了(※塔婆移建は六方衆の要請によるものと解釈される。)
   ※六方衆は興福寺の学侶や堂衆であるが、中世興福寺の軍事警察権を担う。
    興福寺の堂塔・諸院坊を戌亥・丑寅・辰巳・未申・竜花院・菩提院の六方に分けて、組織される。
 享徳4年(1455)6月9日の条
  上に記載のとおり・・・九輪下之了・・・
 康正元年(1455)10月2日の条
  中院塔婆九輪上云々
 康正元年(1455)11月15日の条
  中院塔婆番匠今日まで也
多宝塔規模に関しては
○「興福寺伽藍本尊堂間数事」の勧学院の条:享保2年以前の記録と考えられる。
 二重塔 東西南北2間3尺8寸八角一方1間7寸高3間3尺5寸
    本尊釈迦如来 宝珠ノ内陀羅尼有之
        康正元年()十月二日巳■(豆偏に寸の漢字)奉納と在之
        修復慶長4年棟札有之
慶長4年の修理棟札の存在などからみて、享保2年以前の多宝塔の存在を明らかにしたものであろう。
また享保2年以降の地誌類などから判断して、この多宝塔は享保の焼失を免れたと推定される。
なお、古老の説によれば、明治維新まで其存在を説くも、之を証すべき資料がない。

2006/05/29追加:
◎「中世庭園文化史 : 大乗院庭園の研究 」森蘊、奈良国立文化財研究所、吉川弘文館、1959 より

一乗院門跡は左大臣藤原師伊息、別当法印大僧都定昭(永観元年<983>寂)に始まる。
 一乗院跡地は現在は奈良地裁の敷地となる。
大乗院門跡は寛治2年(1088)、権別当権大僧都隆禅が始めた伝える。
 創建時の大乗院跡地は一乗院東の現奈良県庁(古の龍花院の地)であった。
元興寺禅定院は成源権少僧都(康永元年<1058>寂)によって創建される。
 成源は後に禅定院院務をその弟子大乗院頼実に譲り、禅定院は興福寺大乗院が兼帯することとなる。
 頼実は禅定院伽藍を整備し、永久2年(1114)には内山永久寺を創建 し、禅定院を尋範に譲る。
承安4年(1174)尋範は入寂に際し、信円に大乗院門跡を譲る。
治承4年(1180)平重衡の南都焼討で、大乗院は被災し、信圓は被災を免れた禅定院に大乗院院努を移す。
その後、興福寺堂塔や一乗院門跡は旧地に復興されるも、大乗院は旧地に復興されず、禅定院の建物をそのまま利用する。
 なお信円は興福寺一乗院・大乗院・龍華樹院・禅定院・喜多院を兼帯、さらに内山永久寺を引継ぐ。
 後年は菩提山正暦寺の復興に尽力する。

文明15年(1483)「大乗院寺社雑事記」:
一、禅定院 号飛鳥坊、在元興寺東、当寺法相宗別院也
 丈六堂 ニ重閣 本尊丈六弥勒如来・・・・・宝徳3年・・焼失了
 天竺堂 本尊・・釈迦如来炎上以後奉入福智院・・・
 同多宝塔 八角也 本尊阿ミタ炎上以後奉入極楽坊・・・・
 釈迦堂 本尊尺迦云々
 弥勒御堂 宇本尊弥勒・・・・
 観音堂 本尊十一面長谷寺御宮木云々
とあり、治承4年に被災しなかったこれ等の堂宇及び禅定院御所は宝徳3年(1451)殆ど炎上する。
弥勒御堂と西面の3門と塔1基のみが焼け残ると記録される。
 ※塔は2基あり、尋尊大僧正の指図には塔跡の外に塔は明記されているという。
  残った塔が上記記載から漏れているのはこの塔は後に移建されたためと思われる。

この項は以下より抜粋:
○「元興寺の歴史」岩城隆利、吉川弘文館、平成11年
もともと元興寺の別院である禅院寺が右京に建立されていたが、興福寺僧成源<康和元年(1058)没>が元興寺別院禅院寺を復興し、禅定院院主となるという。その後、承徳2年(1098)に、元興寺東の地に坊舎が建立される。
この坊舎の建立は法印頼実(内山永久寺の本願とされる)によると云う。
この頃の禅定院坊舎は「本尊弥勒如来、丈六堂と号す。又釈迦堂あり、天竺堂と号す。又塔あり本尊阿弥陀也」(南都七大寺巡礼記)「堂5宇、塔1基・・・」(三箇院家抄)といった様子だったとされる。
また禅定院院主は初代興福寺成源、2代は大乗院開基の隆禅、3代頼実が伽藍を建立、4代は内山本願尋範、5代内山本願信円と続き、以降は代々大乗院主、竜華院主、禅定院主の兼帯となる。
治承4年(1180)平重衡の南都焼討ち、大乗院も焼亡し、大乗院は禅定院に退避する。
中世には一乗院と大乗院間あるいは藤原氏の摂家間の争いが頻発し、延文2年(1357)一条院実玄により、禅定院は焼亡する。
応安5年(1373)禅定院丈六堂・釈迦堂・天竺堂が再興される。

○「小五月郷図より禅定院を中心に作図」:下図の「大乗院領内指図」を参照。
  「塔」及び「塔跡」が明示される。
   ※小五月郷:寺門郷、大乗院郷のうちの小郷で、小五月会の費用を負担する郷を小五月郷という場合があった、
宝徳3年(1451)土一揆により、大きな罹災の無かった元興寺が炎上する。
「南都元興寺金堂弥勒炎上・・・」「大乗院殿門跡炎上・・・」「自小塔院火出、元興寺金堂悉以炎上了、・・・余災、当坊禅定院炎上了・・・・」
興福寺濫觴記:「禅定院 本願権少僧都成源、元興寺別院也、宝徳3年・・焼失、丈六堂本尊弥勒、天竺堂本尊釈迦(炎上・・今福智院之有)、多宝塔阿弥陀(炎上・・今極楽坊之有)・・・」
大乗院門跡の本拠であった禅定院は翌年から復旧に取りかかる。
文明15年(1483)の禅定院伽藍は以下のようであった。
丈六堂はニ重閣で本尊阿弥陀如来、天竺堂本尊は釈迦如来は福智院にあり、八角多宝塔本尊阿弥陀如来は極楽坊に移されたまま、釈迦堂、弥勒堂、観音堂がある。
(元興寺伽藍は中世後期に入っても金堂復興は進展せず、主要伽藍は南大門、中門、五重大塔、観音堂、吉祥堂、小塔院、極楽坊であったと思われる。)

○尋尊大僧正の大乗院領内指図(天理図書館蔵)には塔と塔跡の書き込みがある。
 ※「大乗院領内指図」:上図の「小五月郷図より禅定院を中心に作図」を参照。

享徳4年(1455)5月13日「大乗院寺社雑事記」:
「六方使節来賢弘良清大乗院御塔事中院に可引之無相違者可悦喜云々、重而可返事旨仰了」
5月18日「大乗院寺社雑事記」:
「塔婆事不可有子細旨仰六方了」とあり
宝徳の火災で焼け残った塔婆は六方衆の希望の通り、中院に移すことを尋尊大僧正も同意する。
6月9日「大乗院寺社雑事記」:
「大乗院塔婆今日ヨリ中院ニ引之則九輪之了、立宝立上之内ニ仏舎利在之、招提寺舎利也、後并山殿御判在之云々、抑塔婆ハ正法寺供養之導師ニ後并山殿請定、為其御布施塔婆ヲ建立云々、本願隆禅法印之塔婆ハ治承4年之炎上ニ焼了云々、只今塔ハ天福元年(1233)建立之塔也」
同年9月までには中院(現在の県庁の地)に移建され、10月2日には九輪を上げている。
その塔の形式は八角多宝塔であった。
  以上のように天福元年建立の大乗院八角多宝塔は享徳年中に勧学院(中院)に移されると云う。

2010/03/01追加:
「南都名所集」延宝3年(1675)刊 より
 ○中院屋
この屋には仏舎利を安置せらるるなり、・・・・二重六角の宝塔には、釈迦如来おはします、・・・
 ※二重六角の塔とする。

なお、明治維新で大乗院門跡は還俗、松園家と改称、男爵となる。
多くの坊官は松村家、福智院家などと改称、士族となる。禅定院御所の大半は解体され、諸所に分散と云う。
松園家は明治10年頃まで住居するも、宅地・住居を手放すこととなり、跡地は春日神社神官千鳥祐順が入手する。

 大乗院庭園遺跡実測図:図の北東部(奈良ホテル表門すぐ南)が塔跡とされる。

興福寺中院屋(勧学院)八角多宝塔

勧学院(中院屋)八角多宝塔は、ほぼ間違いなく、幕末もしくは明治維新まで存続していたと思われる。
 ※明治維新まで、勧学院(中院屋)は現在の県庁のところにあった。

○勧学院・中院屋
「寧樂百首」、二絛澹齋(一乗院宮坊官)著、<序は越智黄華(奈良正気書院主)・川路聖謨(奈良奉行)>、嘉永4年(1851)
には
七、勧學院 一曰中院屋
     聞説法筵月二回 因明講問意深哉 神君別附u千石 萬世永為勧學媒
とあると云う。
ここには、明確に勧学院は一に曰中院屋とあり、勧学院は中院とも称することがはっきりする。

  以上及び以下の諸文献から中世末期〜近世末期までの存在は確認できるが、幕末及び明治初頭の状況が全く不明である。
  しかしながら、この塔は明治維新の神仏分離→興福寺の廃寺の過程で「処分」されたと考えるのが妥当であろう。
  ※上に掲載の「興福寺中院八角多寳塔考」では「古老の説によれば、明治維新までその存在を説く」との表現がある。
  さらに下に掲載の「新・法隆寺物語」では法隆寺佐伯定胤の得度の頃の荒れた興福寺の懐古として「五重塔の近くに多宝塔があった。
  これを買った人が解体して・・・」との記述がある。

○延宝3年(1675)版「南都名所集」に見る興福寺中院屋

興福寺中院屋: 左図拡大図:2022/01/13画像入替

記事:この屋には仏舎利を安置。ニ重六角の宝塔には釈迦如来を安置。
 →経歴等の記載はないが、平面六角の多宝塔があったと云う。
   ※南都名所集:10巻 太田叙親, 村井道弘著、延宝3年(1675)序・刊、
   これは大和の地誌として早期のものである。
   ※但し、この地誌では平面六角というも、八角を六角と錯誤したものであろう。

○「興福寺濫觴記」(江戸期)の「興福寺伽藍所々間数之事」・・・未見・・・に勧学院多宝塔の記録があるという。
「勧学院:二層塔 東西南北2間3尺8寸、八角の一方1間7寸、高3間5尺5寸」


○「大和名所圖會」寛政3年(1791)刊に見る勧学院多宝塔
  □興福寺勧学院:2022/01/13画像入替
     図の左から一乗院門跡、三ツ蔵、勧学院と並び、勧学院に多宝塔が描かれ、この絵では八角(多角)のように表されている。
      (図中、右下円堂は北円堂、右中央芝地は講堂跡)

○寛政年中の「加太越奈良道見取絵図」の興福寺附近には
  □興福寺主要伽藍図(加太越奈良道見取絵図第2巻、寛政年中(1789-1801)編修)・・・上出図 ・・・勧学院に二層塔が描かれる。
     この図の上方一乗院の東が興福寺勧学院で、絵では平面八角かどうかは不明であるが、この塔が勧学院多宝塔である。

  なお、禅定院は元興寺別院であったが、大乗院門跡頼実が整備したという。
  治承の兵火で大乗院が焼失した後、大乗院が禅定院に移転再興される。
  大乗院門跡頼実は内山永久寺の本願であり、内山永久寺多宝塔が八角大塔とされ、その関連が注目される。
    参考)内山永久寺多宝塔


○春日興福寺境内図:奈良女子大学附属図書館蔵

春日興福寺境内図: 左図拡大図:2022/01/13画像入替

宝暦10年(1760) 以降の作図:勧学院の部分図
 以下の書き込みがある。:三(ニ)重塔
  東西南北2間3尺8寸(4.8m)、八角1長1間7寸(寸?)(2,0m)、
   高4間3尺6寸(8.4m)、屋根杮葺。

※前述の「興福寺濫觴記」は高さ「高3間5尺5寸」とす、この点は高さが相違している。


○興福寺境内図(乙):奈良県立図書館蔵:寛政3年(1791)頃
 当図の作成時期は、享保2年(1717)正月の炎上および寛政3年(1791)8月の東室顛倒の事が朱書されているので、寛政3年から程遠からぬ時期と推定される。
  境内図乙図(勧学院)1       境内図乙図(勧学院)2: 上記多宝塔部分拡大図

○興福寺境内図(甲):奈良県立図書館蔵:寛政3年(1791)頃
 当図の作成時期は、享保2年(1717)正月の炎上および寛政3年(1791)8月の東室顛倒の事が朱書されているので、寛政3年から程遠からぬ時期と推定される。
  境内図甲図(勧学院)1       境内図甲図(勧学院)2: 上記多宝塔部分拡大図

2007/01/03追加:
○「新・法隆寺物語」(太田信隆、集英社文庫、昭和58年)の廃仏毀釈の項で、興福寺五重塔に触れた「くだり」(以下)がある。
 (※この書は法隆寺佐伯定胤の生涯を描いたものであるが、定胤得度の頃の廃仏毀釈によって荒廃した法隆寺・興福寺の様子を記述した箇所がある。なお以下の記述の根拠が伝聞なのかあるいは何等かの文献に基づくものなのかは不明。)
 「五重塔の近くに多宝塔があった。これを買った人が解体して青銅の相輪を古物商に売ったところ、意外に高く売れた。五重塔の相輪は多宝塔の相輪より大きいし儲かるだろうというので買い手 は何人もついた。落札した男が取毀しにかかろうとしたが、作業員の日当がかさむので、塔に火をかけて焼き、相輪を地上に落とすことにした。・・・」
 以上によると
興福寺五重塔の近くに「多宝塔」があり、明治の廃仏で、多宝塔は売却され、多宝塔買受人は解体し、青銅の相輪は古物として高く売れたと解釈される。五重塔近くの「多宝塔」とは講堂北側の勧学院(中院屋)の八角多宝塔と推定される。
 ※以上が事実とするならば、勧学院(中院屋)多宝塔は明治初年の廃仏の中で、売却・解体されたものと思われる。
 ※現在のとこる、この記述が、明治の神仏分離による中院多宝塔処分を伝える入手できた唯一の消息である。

2007/09/02追加:
○「平城坊目遺考」金沢昇平、奈良:阪田稔、明治23年 より
・中院屋址:裁判所の東
当屋境内に二層宝塔霊屋及泗濱浮磬華原磬等の宝器を?(不明)めありし所なり・・・

2006/06/17撮影:
興福寺大乗院門跡跡

○大和名所圖會 寛政3年(1791)刊より:(2012/03/25追加)
 朝香山・大乗院:大乗院が描かれる。

「名勝旧大乗院庭園発掘調査(平城第 390 次)」 現地説明会資料より転載
 大乗院殿境内図:宇賀志屋文庫蔵、部分、江戸後期
 大乗院四季真景図:奈良ホテル蔵、江戸後期
「加太越奈良道見取絵図第2巻」寛政年中(1789-1801)編修
 興福寺伽藍図:大乗院門跡は左下。図右下附近に常光院・最勝院・華蔵院跡、松林院、西林院、宝寿院、宝光院跡、慈恩院・華厳院・龍華院地蔵堂・勧修坊、宝光院・光林院などがあったとされる。

慶応元年、大乗院門跡還俗、大乗院御殿はそのまま松園氏の住居となる。
明治7年、大乗院御殿の一部が小学校として利用される。
明治16年、飛鳥小学校建設のため、大乗院御殿がすべて取り壊され、西小池も埋め立てられる。
明治33年、飛鳥小学校が移転。
明治42年、奈良ホテル開業、大池を中心とする庭園部分は奈良ホテルの前庭の役割を果たす。
昭和33年、庭園が名勝に指定。国鉄宿泊施設大乗苑建設される。
2004年、大乗苑撤去。

○大乗院庭園

大乗院庭園遺構1
 :南より撮影:中央右よりの丘上が「塔跡」と思われる。
大乗院庭園遺構2:北より撮影:左図拡大図
大乗院庭園遺構3;南より撮影
大乗院庭園遺構4:南より撮影
大乗院推定塔跡付近
 :現在の奈良ホテル入口付近の丘上に2基の塔があったとされる。

2013/02/21撮影:
 大乗院庭園遺構11     大乗院庭園遺構12     大乗院庭園遺構13     大乗院庭園遺構14    大乗院庭園遺構15
 大乗院庭園遺構16     大乗院庭園遺構17     大乗院庭園遺構18     大乗院庭園遺構19
 大乗院庭園遺構20:庭園西側に一郭に土塀が残るが、旧大乗院土塀の遺構であろうか。
 大乗院推定塔跡 遠望:写真中央付近の柵外にあったと推定される。
2016/09/15撮影:
 大乗院庭園遺構21     大乗院庭園遺構22
2023/03/21撮影:
 大乗院庭園遺構23

※近年、庭園南に「名勝大乗院庭園文化館」がオープンし、各種資料がパネル展示され、近世の大乗院庭園模型も展示される。
但し、この近辺に近年まであったと思われる大乗院土塀が姿を消しているのは納得がいかない。

○今西家書院:奈良市福智院町
大乗院門跡坊官であった福智院氏の居宅であった。室町中期の建築とされる。重文。
大正13年春日社神官で造酒屋である今西家が入手。貴重な興福寺遺構と思われる。

2020/07/05追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 では
大和桜井日蓮宗妙要寺妙見堂前の舞台の堂は、桃山御殿の馬乗門が大和大乗院の観音堂となっていた堂を、明治12年に移築すると伝える。
桃山御殿というのは不明であるが、大乗院観音堂が妙要寺妙見堂舞台となって現存しているものと思われる。
 → 伊賀・大和の日蓮宗諸寺


春日東塔跡・西塔跡

2008/02/27追加:
絹本着色春日社寺曼荼羅図:推定鎌倉期、京都個人蔵
 ◆絹本着色春日社寺曼荼羅図:「古図にみる日本の建築」より

なお、参考として、上記の「興福寺蔵・絹本着色春日社寺曼荼羅図」については以下のように解説される。
 京都国立博物館本興福寺曼荼羅に類似する作品と云われる。
上部は御蓋山で、右から文殊菩薩(若宮)、釈迦(一殿)、薬師(二殿)、地蔵(三殿)、十一面観音(四殿)の本地仏を表す。
その下は春日明神境内を西から俯瞰する図となる。図中段左には春日東西両塔がある。
下方は興福寺伽藍を南から俯瞰する。南から、南大門(仁王)、中門(二天)、中金堂(釈迦三尊ほか九躯)、講堂(阿弥陀三尊ほか六躯)、東に五重塔、東金堂(薬師三尊ほか七躯)、食堂(千手観音ほか一躯)、西に三重塔、南円堂(不空羂索観音ほか四躯)、西金堂(釈迦三尊ほか五躯)、北円堂(弥勒三尊ほか二躯)を仏堂・安置仏を表す。
京都国立博物館本春日社寺曼荼羅図に次ぐ、また大阪湯木美術館蔵春日宮曼荼羅図(重文、正安2年<1300>)よりは降らない鎌倉期の作と推定される。
その他奈良県には王寺久度神社本や奈良薬師寺本、奈良十輪院の興福寺曼荼羅(興福寺の安置仏を石に線刻)などの良く知られた春日曼荼羅が残る。
本図は明治15年、奈良角振町の元衆徒より興福寺に寄付されたものと云う。
大きさ:縦116cm(三尺八寸三分) 横42.5cm(一尺四寸)、鎌倉期(13世紀)と推定される。

2006/06/17追加:
 春日曼荼羅(部分図、鎌倉):左図拡大図、奈良市南市町自治会蔵(下に掲載)

 春日曼荼羅(部分図、鎌倉期の作、静岡MOA美術館 蔵)
 春日曼荼羅(部分図、西安2年(1300)、重文、大阪・湯木美術館 蔵)

 大和春日西塔跡
  「仏教考古学講座 第2巻 寺院」石田茂作館宗監修 雄山閣 1984年より

2018/04/12追加
 春日宮曼荼羅:重文、推定鎌倉期、奈良市南市町自治会蔵(下に掲載)
  :平成30年奈良国立博物館リーフレット より

2006/06/05追加:
 春日興福寺境内図:部分図:宝暦10年(1760) 以降の作図
  :春日西塔東塔跡を示す。

2020/09/13追加:
春日曼荼羅:静嘉堂文庫美術館蔵、2020/09/08朝日新聞夕刊 より
 静嘉堂文庫美術館蔵春日曼荼羅:サイズ4.00M
祭神と本地を対応させた春日曼荼羅である。
上段が一宮。下段が左から榎本社、紀社、三十八所、四宮、二宮、三宮、若宮、水谷社、一言主社である。 それぞれ本地仏と対応する。
 諸資料を参照すると、春日社祭神と本地仏は次のようである。
  春日大明神
   [一殿] 武甕槌命  不空羂索観音
   [二殿] 経津主命  薬師如来
   [三殿] 天児屋根命 地蔵菩薩
   [四殿] 比売神   十一面観音  であり、その他の祭神は
   若宮は文殊菩薩、三十八所は弥勒菩薩、榎本は毘沙門天、紀社は虚空蔵菩薩、一言主は不動明王、祓戸は阿弥陀如来である。
2020/09/13追加:
春日宮曼荼羅:奈良市南市町自治会蔵 (奈良国立博物館寄託)
○奈良女子大学>奈良地域関連資料画像データベース  より
 南市町自治会蔵春日宮曼荼羅:サイズ4.54M
次のように解説される。
 春日宮曼荼羅は、春日神を崇敬する藤原氏が遙か遠く奈良まで参拝をする代わりに、京都にて遙拝する目的で制作が始まる。「玉葉」寿永二年(1184)五月十七日条には、奈良僧正から届けられた「春日御社一鋪」を九条兼実が自宅にて拝んだことが記される。また「花園天皇宸記」正中四年(1325)十二月二五日条によれば、この頃には大勢の貴族が春日宮曼荼羅を所持しており、彼らは「社頭の儀(実際の参拝)」を模して絵を供養したと記されている。
 現存する春日宮曼荼羅の多くは、画面下辺中央の一の鳥居を起点に、参道が上方へと続く構図をとる。左手に東西二塔を眺めながら参道を進むと、春日本社(一宮〜四宮)へ至る。本社の右手には春日若宮社。画面上辺に御蓋山・春日山がそびえる。実際の奈良の地形を、西(下方)から東(上方)へ正確にとらえている。
 南市町自治会所蔵本の特色は、建造物や自然景あるいは鹿たちの様子がリアルに描写されていること、また社殿と山並みの中間に一宮=釈迦如来・二宮=薬師如来・三宮=地蔵菩薩・四宮=十一面観音・若宮=文殊菩薩を、顔貌に浮かぶ表情や持物の一つひとつまで実に丁寧に描出していることが挙げられる。眼を凝らしてみれば、若宮社の神楽殿に童子姿の若宮神が影向し、烏帽子をかぶる男性貴族と対面する場面が、幻想的に描かれている。
 描写の技法や描かれた風景の景観年代から考えて、本図の制作時期は13世紀後半までさかのぼる。現存する春日宮曼荼羅としては早い時期の作例である。また現存する春日宮曼荼羅としては最大の作品である。画幅は一枚絹(一幅一鋪)で、縦横一メートルを越える。
 大画面でありながら細密な描写をみせる本図は、類品の多い同種の絵画のなかでも際立った秀作として、日本中世絵画史上もっとも注目すべき遺品のひとつである。

2020/10/06追加:
○「特別展 聖域の美ー中世寺社境内の風景-」大和文華館、2019 より
「作品解説」
 大和文華館蔵春日宮曼荼羅:68cm×31cmの小品、南北朝期の作品と推定される。
春日宮曼荼羅は平安末期には存在していたと推測され、鎌倉後期にかけて図様の定型化が進む。その造立は藤原氏を中心に流行する。現存する作例の多さからもそれは窺える。
 さて、本作品も多の作例と同じく、基本的な構図は共通すが、最大の特徴は上部い描かれた本地仏の多さである。中央から向かって左側に、釈迦(一宮)、薬師・弥勒(二宮)、地蔵・弁財天(三宮)、十一面観音(四宮)、文殊(若宮)、毘沙門天(脇侍:吉祥天・善賦子童子、榎本社)である。これは当時考えられた春日本地仏の全てを描いていることになる。
さらに特筆すべきは春日東塔西塔のほかに興福寺四恩院十三重塔が描かれていることで、他には例がないのではないか。また四恩院十三重塔の図も珍しものであろう。(十三重塔は文明11年/1479に焼失と伝えられる。)
さらに画面下部には率川社が描かれるが、これも珍しいものである。


春日東西塔は塔土壇及び塔礎石を残す。

2006/06/05加筆修正:
東西両塔の規模は初重一辺から判断して、ともに興福寺五重塔とほぼ同規模と思われる。
総高の史料はないが、興福寺塔とほぼ同規模であるとすると50m内外であろう。
春日曼荼羅図また発掘調査結果によれば、両塔は塔院を形成し、南正面には複廊と中央楼門を設け、東・西・北の三方には一辺約70〜80mの築地を廻らせる。なお東塔初重には裳階を付設 するも、西塔には裳階は付設しない。
2020/09/13追加:
「春日宮曼荼羅研究の現在―作品研究の成果と試論―」白原由起子(「哲学 132」三田哲学会、2014.3 所収)
西御塔と東御塔
 永久4年(1116)、一の鳥居をくぐった参道の北側に、関白・藤原忠実が発願した五重塔(西御塔または殿下の御塔とよばれる)が建ち、保延6年(1140)には、この塔の東隣りに,鳥羽上皇の寄進した五重塔(東御塔または院の御塔)が建立される。
院政後期の春日社は、一の鳥居越しに朱塗りの二塔が並び建つ壮観をみせていたはずである。しかし,それから40年後の治承4年(1180)、平重衡による南都焼討により,二つの塔は焼失する。
まもなく建保5年(1217)に東御塔(五間四面で裳階付きの五重塔)は再建されるが、西御塔(三間四面,裳階なし)の再建は遅々として進まず、ようやく寛元4年(1246)に九輪を揚げる。おそらく,これよりそう隔たらない宝治年間(1247〜8)の頃に、二つの塔は再び並び建ち、それぞれの塔を囲む廻廊・築地塀も完成したと考えられる。
ところが応永18年(1411)の雷火で二塔は再び失われ,再建されぬまま現在に至る。
東西二塔は,法隆寺本,南市町本,湯木本の画面左下方に描かれる。法隆寺本は、東御塔の下層を霞で覆い,西御塔は全容を見せる(ただし塔身部分は絹の欠損が著しく細部はわからない)。西御塔を囲む廻廊・築地塀の周囲には、切石が散らばり、廻廊・築地塀に周囲には木柵が巡らされ、これによれば西御塔は未だ建設中ということになる。木柵の横木が杭から外れている表現によれば,長期におよんだ再建工事が,ようやく完成間近であることが看取される。また,ほとんどの宮曼荼羅が、法隆寺本や湯木本のように、東御塔の下層を霞に隠すのに対して、南市町本だけが二塔の全容を見せ,その規模の違いまでも克明に描き出すことは特筆される。なお,再建後の東西二塔は,13 世紀半ばから応永18年まで実在したが,焼失後も,春日社の由緒や格式を物語るシンボルとして、宮曼荼羅中に描かれた可能性は十分に考えられる。

春日西塔
天永3年(1112)関白藤原忠実の御願塔起工。よって「殿下の御塔」と称される。
永久4年(1116)御塔落慶。興福寺五重塔(永暦再興塔)を参考とする。(「殿暦」「中右記」)
          塔内には木造釈迦・薬師・地蔵・観音(各2脇侍を有する)のいわゆる春日四所の本地仏を安置、
          釈迦の脇には
羂索観音が添えられていたという。(「殿暦」)
治承4年(1180)平重衡の南都焼き討ちによって焼失。(「山
記」「玉葉」)
寛元4年(1246)再興塔の立柱(心柱)、相輪をあげる。(葉黄記?」)、恐らく寛治年中頃には完成と推定される。
応永18年(1411)両塔とも落雷により焼失。その後は再興されず。
なお、春日西塔には、忠実自筆の不空羂索経が納めてあったと云う。
 ※
春日四所明神の本地については異説もあるが、概ね「春日四所明神者、一宮ハ本地不空羂索観音ナリ(または釈迦如来)、二宮ハ本地薬師ナリ(或は弥勒菩薩)、三宮ハ本地十一面観音ナリ、四宮ハ本地地蔵菩薩ナリ(或は大日如来)」と 云うのが多数説であるとされる。
 ※春日四所;武甕槌命(常陸鹿島大明神)、 経津主命(下総香取大明神)、 天児屋根命(河内枚岡大明神)、 比売神(伊勢太神宮)をいう。

昭和40年、塔跡発掘調査。
塔跡中央に心礎及び四天柱礎を原位置で残す。3間4方で、初重一辺8.7m、基壇の一辺は16.8m。
基壇外装は創建時が凝灰岩、再建時が花崗岩切石の壇上積み基壇であったと推定される。
四方に階段を設け、周囲には犬走りと雨落ち溝が廻る。
 ◎昭和40年発掘調査:春日西塔跡
塔の南には複廊の礎石が比較的よく残る。基壇の幅は7.1m、東西復元長は74mである。(南北は82.4m)
中央正面に間口3×2間の楼門と見られる礎石も残る。西、北、東の3方で幅約3mの築地の跡を検出。三面築地にはそれぞれ四脚門と見られる門が開いていたとされる。
○「日本の木造塔跡」:西塔礎石は「令運置礎於此辺也、是南京旧寺之跡石也」(中右記)とあり、南都の旧寺の礎石を利用するという。
心礎は1.8×1.8mの大きさで、径134cmの柱座を造り出す。出枘式であるが出枘は今欠失する。
2000/08/18撮影:
 春日西塔跡
2002/03/09撮影:
 春日西塔跡1      春日西塔跡2      春日西塔跡3
2006/06/17撮影:
 春日西塔跡1:南より撮影  春日西塔跡2:東南より撮影   春日西塔跡3:西より撮影
 春日西塔礎石1         春日西塔心礎など         春日西塔心礎1       春日西塔心礎2     春日西塔礎石2
 西塔複廊・楼門礎石1      西塔複廊・楼門礎石2:いずれも東から撮影、手前礎石は楼門礎石
 西塔楼門礎石
2010/12/21撮影:
 春日西塔土壇・礎石1     春日西塔土壇・礎石2     春日西塔心礎・礎石1     春日西塔心礎・礎石2
2015/11/21撮影:

春日西塔土壇
春日西塔礎石1
春日西塔礎石2
春日西塔心礎1
春日西塔心礎2
春日西塔心礎・四天柱礎1:左図拡大図
春日西塔心礎・四天柱礎2
春日西塔楼門・複廊跡1
春日西塔楼門・複廊跡2

2019/11/10撮影:
 春日西塔跡11     春日西塔跡12     春日西塔跡13     春日西塔跡14
 春日西塔複廊跡11     春日西塔複廊跡12
2020/09/28撮影:
 春日西塔21:遠望、手前は複廊礎石
 春日西塔22     春日西塔23     春日西塔24     春日西塔25     春日西塔26     春日西塔27
以下は西塔心礎、心礎表面中央には出枘の痕跡が残る。但し、塔礎石は附近の礎石を取り集めて用いたとある(中右記)から、出枘がある心礎は平安後期のものではないのであろう。
 春日西塔28     春日西塔29     春日西塔30     春日西塔31     春日西塔32
 楼門複廊礎石11     楼門複廊礎石12     楼門複廊礎石13     楼門複廊礎石14     楼門複廊礎石15

春日東塔
保延6年(1140)鳥羽上皇の本願によって建立される。(「百錬抄」)よって「院の御塔」と称される。
治承4年(1180)平重衡の南都焼き討ちにより焼失。
建保5年(1217)再興(「興福寺別当次第」)。
応永18年(1411)落雷によって焼失。その後は再興されず。

昭和40年、塔跡発掘調査。
東塔礎石は半分近くが喪失。初重平面は裳階付き(方5間、一辺14.4m)、塔身一辺は8.64m。基壇の一辺は18.5m。
基壇外装は凝灰岩切石の壇上積みであるが、良質な薄手と粗質な厚手の切石がある。どちらかが創建時のものと思われる。
周囲には西塔に見られる犬走りはなく、基壇外装の地覆石のすぐ外に雨落ち溝があったとされる。四方に階段を設ける。
屋根:西塔と同じく、創建時は木瓦葺き、再建時は瓦葺きであった。
 ◎昭和40年発掘調査:春日東塔跡
西塔と同じく、南には基壇幅9mの複廊があり、正面には3間×2間の楼門があった。回廊の東西幅は73.6m。南北は82.4m。東西北には3面には築地を廻らせ、西門の跡が検出された。
2007/02/07追加;
○「大和の古塔」:
 春日東塔址実測図
東塔は一辺47尺5寸、全5間、各9寸5分の等間、裳階を除く平面は一辺28尺5寸(ほぼ西塔と等尺)
西塔は一辺28尺7寸、中央間9尺9寸、両脇間9尺4寸(この平面は興福寺塔と等尺とされる)
○「日本の木造塔跡」:
「東塔心礎は西塔よりやや小さく1.8×1.5m、径100cmの柱座を造り出し、出枘の痕跡がある。位置は原位置よりやや東北に寄っており、四天柱も同様動いている・・」との記載がある。
 ※しかし、現在、心礎位置には何も無く、著者岩井氏は上記北東隅柱礎を原位置から動いた心礎と判断していると思われるが、これはやや強引な推論であろう。
2000/08/18撮影:
 春日東塔跡
2002/03/09撮影:
 春日東塔跡1     春日東塔跡2
2006/06/17撮影:
 春日東塔跡1:東南隅  春日東塔跡2:南半部分(東より撮影)  春日東塔跡3:北半部分(東より撮影)
 春日東塔跡4:東半部分(北より撮影)    春日東塔跡5:南半部分(西より撮影)
 春日東塔跡6:中央間東礎石(北より撮影)  春日東塔跡礎石
2010/12/21撮影:
 春日東塔土壇・礎石1     春日東塔土壇・礎石2
 春日東塔土壇・礎石3:北東隅柱礎石

2010/12/29追加:2010/12/21東塔院東北隅発掘調査現地説明会
○「春日東塔院の発掘調査-平城第477次調査-発掘現場説明資料」 より
春日西塔及び東塔付近一帯の十分な保存を図る為の調査発掘を実施する。
塔院東北隅の外側雨落溝(東西7m南北7.5m分)を検出する。溝の幅は約1m深さ5〜20cmで、溝には瓦・土器・礫を多く含む。
瓦は平安末期から鎌倉前期のもので、東院区画施設の屋根を葺いていた瓦と推定される。
 春日東塔今回調査区     春日東塔遺構平面図     春日東塔今回調査区写真
 春日東塔院西側築地塀跡     春日東塔院南門遺構:左図2枚は昭和40年発掘調査
2010/12/21撮影
 春日東塔院調査区1     春日東塔院調査区2     春日東塔院調査区3     春日東塔院調査区4
 春日東塔院調査区5     春日東塔院調査区6
2015/11/21撮影:
 春日東塔跡土壇礎石1     春日東塔跡土壇礎石2     春日東塔跡土壇礎石3
 春日東塔跡土壇礎石4     春日東塔跡土壇礎石5     春日東塔跡土壇礎石6
2023/01/25撮影:積雪
 春日東塔跡7     春日東塔跡8     春日東塔跡9     春日東塔跡10


興福寺四恩院十三重塔

興福寺四恩院概要

○YahooMap より
 興福寺四恩院跡:画像の左上に奈良県新公会堂あり、浮雲社を含む一帯が四恩院趾である。 ・・・2015/01/20画像入替
 ※奈良県新公会堂は「奈良春日野国際フォーラム 甍 〜I・RA・KA〜」と称する。

2015/12/25追加:
○「奈良春日野国際フォーラム 甍 〜I・RA・KA〜」(リーフレット) より
 奈良春日野国際フォーラム甍平面図:一部加筆、図中の赤数字(1-26)は庭園の花種の対応の為であり、本論には関係なし。

2015/12/27追加:
○「「日本歴史地名大系 奈良県の地名」平凡社 より
白川法皇<天喜元年(1053)〜大治4年(1129)>によって建立された十三重塔があった。
・菅家本「諸寺縁起集」には次のようにいう。
十三重塔 建保3年(1215)五月廿八日覚蓮房上人入滅、同十一月十日門弟行蓮房述(延カ)供養、導師権別当法印範円、七僧在之、本尊御本地、尺、薬、地、観、文、四天、絵図尺迦浄土相、大明神地下并弥勒等来迎相、四本柱以下絵書之、障子十六ラカン、唐筆スミ絵、戸(扉)平八枚、法華万タラ、云木像云絵像、稀ニテ神妙シテ難及言詞者也、舎利殿台在之、四条院御寄進云々、於舎利者本来寺物也、
文明12年(1480)十一月十九日夜炎上了、於本尊者奉取出云々、土民所為也、
・「南都年代記」(興福寺文書)には
文明12年(1480)11月22の条に「興福寺十三重塔并院中悉焼馬借沙汰」、同17年4月11日の条に「興福寺十三重塔立柱」とある。
・「和州寺社記」には次のように当時の様子を記す。
「野田四恩院は興福寺より住寺おかるヽ、十三重塔あり、四方正面本尊は観音、薬師、弥陀、釈迦、側に竜王の社あり、雨乞など有時は興福寺の諸僧これ龍神の前にて祈祷あり、毎朝春日への加持御供も此所より傳へるとなり。」
・境内は1町四方で、築地を廻らし、東に表大門、北に裏門があり、その内に十三重塔1基、衆会所一宇、鐘楼1宇、鎮守浮雲社1座(武甕槌命)などがあったが明和年中(1764-72)に塔や堂宇を焼失する。(「奈良坊目拙解」)
なお興福寺唯識会は毎年5月4日からこの地で行われる。

2015/12/27追加:
「十三重木造塔婆の造立例」足立康(「足立康著作集 3 塔婆建築の研究」中央公論美術出版、1987) より
四恩院に十三重塔のあったことは諸書にみえるが、例えば「興福寺濫觴記」に
「十三重塔 順徳院御宇建保3年(1215)5月28日覚連上人入滅、同11月10日門弟行蓮房建立、(中略)本尊者五社垂迹、釈、薬、観、文、尊像、舎利殿在之」
とある。

2007/09/02追加:
○「平城坊目遺考」金沢昇平、奈良:阪田稔、明治23年 より
 ○
野田四恩院址 春日野野田東端
坊目拙解曰当寺興福院(ママ)一院境内一町四方有築地表大門在東方裏門在北面
十三重塔婆 四方正面 本尊観音、薬師、阿弥陀、釈迦仏
鐘楼 在北方
浮雲神社 一座 西向在院内巽角
(略)
元要記第廿六巻四恩院元初四箇院之僧坤角経蔵朝廷より御経奉納なり
乾角湯屋一町四面勅願所なり
十三重塔婆 白河院御建立なり
異本奈良年代記曰文明11年(1479)土一揆賊党の為に十三重塔院内悉焼亡同17年十三重塔立柱云々此塔滅亡年代を不知
 (尋尊大僧正記:文明13年(1480)四恩院炎上。本尊、仏舎利は取り出す。  文明13年四恩院鐘を鋳造。)
 ※以上によれば、興福寺四恩院に十三重塔があり、文明11年塔焼亡・文明17年立柱とあり、室町期に焼失・再興される。
  しかしながら、その後の滅亡年代は不明とする。

2009/03/03追加:
○「大和志料」:四恩院(廃)
 春日野の野田の東口にあり、興福寺の一院たり、草創詳らかならず、其十三層の塔婆は白河法皇の建立する所にして、文明11年焼失し同17年これを再興す。
 元要記曰十三重塔婆白河院御建立也、春日五社の垂迹を安置奉る云々
 異本合運図曰文明11年11月22日十三重塔并院内悉焼馬借沙汰云々同17年4月11日十三重塔柱立云々
明和焼失後再興なし。

2019/01/03追加:
○「八幡神と神仏習合」講談社現代新書1904、逵日出典、2007 より
第6章 本地垂迹説の成立>本地仏の造立と安置 の項で次のように云う。
 春日社(興福寺鎮守春日権現)の本地仏の造立・安置などは奈良を中心にひときわ盛んであり・・・、春日社の関係塔頭寺院の一つに四恩院(興福寺では大乗院方の祈祷所の一つであった)があった。ここには十三重塔と法華堂があり、それぞれに春日五神の本地仏として、釈迦・薬師・地蔵・観音・文殊の五像が安置されていた。
「大乗院寺社雑事記」寛正2年(1461)9月14日条には、それらの像の配置が図示されている。
 四恩院春日五神本地仏配置:大乗院寺社雑事記
また十三重塔初重の来迎壁の一面には「春日浄土相」が、他の一面には「春日御本地来迎相」が描かれ、春日五神本地仏が絵でも描かれていた。
 ※春日本地については次のように云われる。
春日権現の祭神:
 [一殿] 武甕槌命  [二殿] 経津主命  [三殿] 天児屋根命  [四殿] 比売神  [若宮] 天押雲根命
春日本地:
 一殿 不空羂索観音/釈迦如来  二殿 薬師如来/弥勒菩薩  三殿 地蔵菩薩  四殿 十一面観音/救世観音/大日如来
 若宮 文殊菩薩/十一面観音 聖観音
  →上述の「興福寺蔵・絹本着色春日社寺曼荼羅図」について解説<春日東塔・西塔中>を参照。

○十三重塔絵図及び滅亡の記録は以下で知ることができる。
春日興福寺境内図:奈良県立図書情報館蔵
 春日興福寺境内図(四恩院):四恩院部分図
  ※四恩院の部分では、十三重塔・道場を朱線で囲み、明和4年(1767)4月焼失と朱書がある。
  ※十三重塔、導場(2あるいは3棟)、鐘楼、浮雲社、門の堂宇があった。
春日興福寺境内図
 春日興福寺境内図(四恩院):四恩院部分図
  ※本図は上図と同一である。
  ※いずれにせよ、興福寺四恩院十三重塔は、明和4年(1767)に焼失と云うことが知れる。

ところで、「春日興福寺境内図」で四恩院はどこに描かれるのであろうか。
上掲の「春日興福寺境内図/興福寺部分図<興福寺部分図>には描かれていない。
なぜなら、描かれるのは「興福寺部分図」ではなく、「春日興福寺境内図/春日社部分図」 <春日社部分図>の方であるからである。
 しかし、本ページに掲載した <春日社部分図>は小さく、予備知識がなければ、四恩院の位置を容易に認めることができない。
そこで、ある程度四恩院位置を判断できる
 春日興福寺境内図/春日社部分図その1
 春日興福寺境内図/春日社部分図その2
 春日興福寺境内図/春日社部分図その3・・・本図の向かって左端中央に描かれる社は「氷室社」である。
                             「氷室社」は「春日興福寺境内図/興福寺部分図の向かって右上に描かれる。
の3図を掲載する。
  ※なお、以前に掲載した図は次の通りである。
    興福寺四恩院位置:春日興福寺境内図(部分):絵図の上・中央が四恩院
  ※「春日興福寺境内図/興福寺部分図」と
    「春日興福寺境内図/春日社部分図」の区分については → 「春日興福寺境内繪圖」 のページを参照

2020/10/06追加:
上述の春日曼荼羅の項で掲載済であるが、大和文華館蔵の春日曼荼羅図は珍しく四恩院十三重塔が描かれるので、下に転載する。
○「特別展 聖域の美ー中世寺社境内の風景-」大和文華館、2019 より
「作品解説」
 大和文華館蔵春日宮曼荼羅:68cm×31cmの小品、南北朝期の作品と推定される。
春日宮曼荼羅は平安末期には存在していたと推測され、鎌倉後期にかけて図様の定型化が進む。その造立は藤原氏を中心に流行する。現存する作例の多さからもそれは窺える。
 さて、本作品も多の作例と同じく、基本的な構図は共通すが、最大の特徴は上部い描かれた本地仏の多さである。中央から向かって左側に、釈迦(一宮)、薬師・弥勒(二宮)、地蔵・弁財天(三宮)、十一面観音(四宮)、文殊(若宮)、毘沙門天(脇侍:吉祥天・善賦子童子、榎本社)である。これは当時考えられた春日本地仏の全てを描いていることになる。
さらに特筆すべきは春日東塔西塔のほかに興福寺四恩院十三重塔が描かれていることで、他には例がないのではないか。また四恩院十三重塔の図も珍しものであろう。(十三重塔は文明11年/1479に焼失と伝えられる。)
さらに画面下部には率川社が描かれるが、これも珍しいものである。

2015/12/25追加:
○「奈良公園史, [本編]」奈良公園史編集委員会、1982/3 より

奈良町繪圖は天理図書館蔵、「奈良公園史 本編」に掲載される図は興福寺及び東大寺を中心とした部分図である。
向かって左上端は眉間寺(多宝塔あり)、左中央付近は興福寺堂塔・北に一乗院門跡・南に大乗院門跡・周囲には子院群が囲み、一乗院門跡東に勧学院(多宝塔あり)があり、左下に元興寺(五重塔あり、極楽院・小塔院)がある。さらに元興寺東方・中央下に頭塔寺がある。
図中央上部は東大寺伽藍及び周囲には子院が配置、東大寺南大門の南東に四恩院(十三重塔がある)が描かれる。

 奈良町繪圖・部分図:左図拡大図

2015/12/25追加:
○「加太越奈良道見取絵図」
 「加太越奈良道見取絵図」東大寺附近図:部分図
中央やや左に大仏殿、下段中央やや右に南大門、南大門の東に四恩院があり、さらに東・下段右端に春日社(春日大明神が描かれる。
 「加太越奈良道見取絵図」四恩院附近図:部分図
下段中央やや右に四恩院が描かれる。十三重塔は既に焼失しているので、描かれない。

2015/12/25追加:
○「奈良公園史, [本編]」奈良公園史編集委員会、1982/3 より
 春日野村小字地図
明治23年第68国立銀行などが奈良倶楽部を開設といい、字浮雲には既に「奈良倶楽部」の平面が描かれている。
まさに、「四恩院」跡にこの「奈良倶楽部」が開設されたのである。
奈良倶楽部開設前の明治21年にはほぼ興福寺旧境内に限られていた奈良公園の大拡張案が企画・申請され、認可され 、翌年現在の奈良公園にほぼ等しい大奈良公園が出現する。
 奈良公園図
中央やや下に県公会堂があるが、この公会堂のおよそ東半分の面積が旧四恩院跡である。

2015/12/25追加:
焼亡の記録として次の小論がある。
○「四恩院十三重塔の焼失記録」田村吉永(「大和志 4巻5號 通巻32號」大和国史会、1937年5月 所収)
奈良市の現在公会堂の邊に四恩院の十三重塔があつたが、明和4年に焼失した。薬師院氏所蔵文書に
明和4年4月6日丑刻紫恩院経堂より出火 十三重塔火移焼失半時斗ニ御塔焼失板屋禰ニテ諸人群集御奉行火消両寺火消町人郷民雖群集水ノ手無之處不及人力境内ニ 小沼小井水屋川橋取隙も無之文永二之比建立四百餘年■一時ニ焼失残念也」とある。
 ※「禰」とは「み霊屋」の意であろうか。板屋禰は板葺の霊屋の意か。

2020/10/06追加:
十三重塔は白河法皇御願で建立。春日明神の本地仏の釈迦如来、薬師如来、地蔵菩薩、観音菩薩、文殊菩薩を祀る。
文明12年(1480)11月19日焼失、文明17年4月に立柱の記録があり、すぐに再興される。(「南都年代記」)
江戸初期には十三重塔、表大門、裏門、衆会所、鐘楼、浮雲社などが存在する。
明和年間に十三重塔・導場(衆会所?)を焼失。(春日興福寺境内図(四恩院)など)
鎮守の浮雲神社は現存、聖明社、愛宕社も四恩院鎮守といい附近に現存するも、良く分からない。 天神も鎮守というも、これも良く分からない。

興福寺四恩院跡その1:発端

2015/01/20追加:
某氏より以下の情報と写真の提供を受ける。
○某氏情報:
 春日大社主催のガイドツアーで、次の2件の遺構が四恩院遺構として紹介される。
一つは「四恩院の塔礎石」であり、もう一つは「四恩院の塀跡(と紹介された記憶がある)」である。
「四恩院の塔礎石」は「公会堂の庭園の東南端」付近にある。また「四恩院の塀跡」は「浮雲社」の背後にある。

 ※なお、「浮雲社」が四恩院の遺構と紹介されたかどうかは触れられていない。
○某氏2014/10/22撮影画像:
 四恩院十三重塔礎石:十三重塔礎石という。 (現地実見の後からいえば、塔跡を南東方向から撮影した写真であり、右中央から斜め下に並ぶ石列は塔南側柱礎石と判断できる。なお背後の上中央には浮雲社の祠が写る。)
 浮雲社と四恩院塀基礎:浮雲社背後には 四恩院塀の基礎石列が写る、
 四恩院塀基礎:基礎石列。
○Googleストリートビュー より転載
 推定四恩院十三重塔跡:写真左手竹垣の向う付近にあったと推定される。
 浮雲社と四恩院塀基礎2     浮雲社と四恩院塀基礎3:何れの写真も浮雲社背後に基礎石列が写る。
※浮雲社;
 上に掲載の「春日神社境内図(四恩院)」あるいは「春日興福寺境内図(四恩院)」によれば、明和4年(1767)の火災からは焼失を免れる。 本図には、大きさは正面2尺2寸、側面4尺4寸と記載され、いわゆる1間社流造のように描かれる。
但し、現存する浮雲社 社殿は実見する限り明和4年(1767)以前に遡るような建物ではなく、おそらく明治維新の興福寺廃寺の混乱のなかで退転するも、明治維新後のいつしか春日大明神の末社として再建されたものであろう。

興福寺四恩院跡その2:興福寺四恩院十三重塔跡

いわゆる奈良公園の一画に奈良県新公会堂(現在は「奈良春日野国際フォーラム 甍〜I・RA・KA〜」という)がある。
この新公会堂は広大な面積を占めるが、その東半分は新公会堂の背後(東側)にある庭園が占める。
そして今庭園となっている地がまさに興福寺四恩院跡と推定されるのである。
 下掲のように、「平城坊目遺考」では「野田四恩院址:坊目拙解曰当寺興福院(ママ)一院境内一町四方有築地・・」といい、方一町の境内であり、その面積はほぼ奈良県公会堂の庭園に一致するのである。
 抑々、新公会堂の歴史を紐解くと次のようである。
明治13年2月、太政官布達により奈良公園が開設される。
明治22年春日野や浅茅ヶ原等の名勝地、東大寺や氷室神社等の寺社境内地、若草山や春日山等の山野を含む新奈良公園地(奈良県立奈良公園)を告示する。
同年、第68国立銀行(本店郡山町)及び第34国立銀行(本店大阪市)の両奈良支店が集会所として「奈良倶楽部」を旧四恩院跡に建設する。(「奈良公園史」より・・・未見)
この「奈良倶楽部」こそが「奈良県公会堂」の前身で、「奈良倶楽部」の建物は後に公会堂の「2号館」として昭和58年まで存在したという。
 要するに、興福寺四恩院跡に「奈良倶楽部」が建立され、「奈良倶楽部」は「奈良県公会堂」の部分をなし、その敷地は現在に至るまで「奈良県新公会堂」に引き継がれているのである。

2015/12/25追加:
○「奈良公園史, [本編]」奈良公園史編集委員会、1982/3 より
明治22年大奈良公園が発足する。(ほぼ現状に等しい規模となる。)
奈良倶楽部の開設
 明治21年、第六十八国立銀行(本店は郡山町)・第三十四銀行(本店は大阪市)の両奈良支店が集会所として奈良倶楽部を春日神社境内の水谷橋近くの近くの旧四恩院跡に建設した。建築にあたり、同8月にその表門から春日参道(大鳥居から社頭に至る)に至る間の380尺(120m)に幅3間の道路開設を春日神社に請願している。年余を経て竣工、翌々23年には外周土居に布植する芝の分譲を春日神社に頼んでいる。(中略)ちなみにこの奈良倶楽部は同36年に開設する奈良県公開堂の前身である。
 旧四恩院は興福寺が創建した浮雲峰(大宮峰)の春日大明神を遥祀する堂舎である。社家町の野田郷に所在、その地域は浮雲と称される。白河法皇御願の十三重塔がそびえていた。明治維新の廃仏毀釈で荒蕪地と化していたところである。この苑池に水谷川の谷水が誘導され、そこから出て東大寺南大門附近で吉城川となって西流下し、今小路町で京街道を横断、法蓮寺町地内で佐保川に合流する。
2015/12/25追加:
上述の「旧四恩院は興福寺が創建した浮雲峰(大宮峰)の春日大明神を遥祀する堂舎である。」の典拠は不明ながら、四恩院の存在目的が具体的に語られる。
ここに初めて、四恩院に祀られる浮雲社の性格がぼんやりと見えてくるのである。
 抑々、「浮雲」とは以下のような春日社の生い立ちから派生したものなのであろう。
春日社(春日大明神)の背後(東)に円錐形の山があり、その山は春日山(御蓋山)と称する。
ここは当地は鹿島から遷した春日大明神の降臨の地と伝えられる。即ち、神護景雲2年(768)武甕槌命(鹿島神)が白鹿に騎乗し春日山頂の浮雲峰(本宮峰)に天降ったと伝える霊跡である。それ故、ここは禁足地であり、頂上には本宮社が祀られる。
因みに、興福寺南円堂本尊不空絹索観音は武甕槌命の本地仏とされる。
 以上であり、かつ「旧四恩院は興福寺が創建した浮雲峰(大宮峰)の春日大明神を遥祀する堂舎である。」ということが真ならば、四恩院境内の浮雲社とは春日山浮雲峰(大宮峰)の本宮社を勧請したものなのではなかろうか。

 再び、上掲の「平城坊目遺考」の野田四恩院址の項では「坊目拙解曰・・境内一町四方、有築地、表大門在、東方裏門在、北面 十三重塔婆 四方正面・・・鐘楼 在北方、浮雲神社 一座 西向在院内巽角・・・」という。
浮雲神社は下に掲載のように現存し、そのすぐ東には築地塀跡が残存する。この浮雲社は上述のように四恩院の巽隅(東南隅)にあったというので、築地塀跡は四恩院の築地塀跡であることは確かであろう。
一方、十三重塔は北側にあったと云い、また「春日興福寺境内図(四恩院):四恩院部分図 」の配置図でも十三重塔は浮雲社の北側」に描かれ、十三重塔は浮雲社からやや西に寄った北側にあったことになる。
 興福寺四恩院推定図:YahooMap

 そして、現在、浮雲社からやや西に寄った北側の場所つまり十三重塔の塔跡を訪れると、そこには、13個の礎石が残されているのを見ることができる。
但し、浮雲社は新公会堂の外にあるが、十三重塔の塔跡は新公会堂の内部の庭園内にあるため、移動するには大回りをしなければならないが、直線距離では浮雲社の北西20〜30mの距離に塔跡がある。
 塔跡の平面は方3間の様相を呈する。
下掲の「四恩院十三重塔礎石配置概要図」のように、2行2列目(東北)と2行3列(東南)四天柱礎は欠失し、1行4列(東南隅)側柱礎と4行目の4礎石(西側柱礎すべて)は原位置を動いているようであり、しかもそのうちの1行4列、4行2列及び4行3列の礎石は貧弱であり、他の石が転用されたものと思われる。つまり、逆にいえば、それ以外の礎石は一応原位置を保つものと思われる。
 以上の前提で、柱間間を実測すれば、おそらく中央間は160cm、両脇間は140cmであろうとの値を得る。
心礎はこの塔が平安末期の創建であり、まず無かったものと思われる。因みに多武峰妙薬寺十三重塔も心柱は二重の梁から建つという。

興福寺四恩院十三重塔礎石配置概要図1:赤の矢印部分及び朱文字部分をクリックすれば、矢印方向からの写真を表示する。


興福寺四恩院十三重塔礎石配置概要図1:赤の矢印部分及び朱文字部分をクリックすれば、矢印方向からの写真を表示する。
矢印部分の付属説明文の(a,b)内の数字a,bは行列を表す。
 例えば側柱礎(1,1;2,1)は1行1列にある側柱礎と2行1列にある側j柱礎を意味する。 

◇表示画像の補足説明

 15.側柱礎(1,4)は中央に写るやや小さい石である。向かって右上 の方向に1行目の礎石が並び、左上の方向には1列目の礎石が並ぶ。
おそらくこの礎石は、礎石に接するように人工の小川が流れる環境にありかつ大きさも小さくまた礎石配置の行列からやや外れ、間違いなく他から転用された石であろう。
 14.側柱礎(1,3)あるいは24.四天柱礎(3,3)のように、破砕した礎石が破砕したままの状態で置かれる。このことは次を示唆するのかもしれない。
十三重塔は火災によって退転と云われ、もしこのことが事実ならば、即ち破砕はこの塔が火災に遭ったことを示すのかもしれない。
さらに、火災で破砕した礎石が破砕したままの状態で在るということは、この礎石は火災後、原位置を動いていないものと判断してよいのかも知れない。

興福寺四恩院跡その2:興福寺四恩院築地塀跡

再び「平城坊目遺考」では以下のように云う。
 ○野田四恩院址 春日野野田東端
坊目拙解曰当寺興福院(ママ)一院境内一町四方有築地・・・浮雲神社 一座 西向在院内巽角


奈良県新公会堂の庭園の奥方の生垣の外(南側)に浮雲社(一間社流造)がある。この浮雲社の背後すぐ(東側)に築地塀跡が残る。
これこそ、興福寺四恩院の東を限る築地塀跡であろう。そして浮雲社に位置は東南隅とあるので、東の南端の築地塀跡であろう。
そして、築地とは残存する<基礎>の状況や壁土の残存などから、寺院一般に見られる「土壁」の築地であったと推測される。

 四恩院浮雲社1     四恩院浮雲社2     四恩院浮雲社3

築地塀外側基礎はおよそ12m残存する。
 築地塀外側基礎1:南から撮影 :左図拡大図
 築地塀外側基礎2:南から撮影       築地塀外側基礎3:南から撮影
 築地塀外側基礎4:北から撮影
 築地塀跡瓦散布と壁土堆積
  :写真上方(東側)に瓦が散布し、下方(西側)には壁土が堆積する。
  瓦は築地に葺かれた瓦の落下であろう。
 築地塀跡瓦散布1:東側に散布       築地塀跡瓦散布2:東側に散布
 築地塀壁土堆積:西側に堆積
 築地塀内側基礎1:南から撮影      築地塀内側基礎2:南から撮影
 築地塀内側基礎3:南から撮影
以下いずれも下側の小さい石の石列が内側基礎、上方の大きい石列は外側基礎、
築地塀基礎の巾(底)はおよそ150cmを測る。
 築地塀内側基礎4:西から撮影:
 築地塀内側基礎5:西から撮影
 築地塀内側基礎6:西から撮影

2020/09/28撮影:
興福寺鎮守春日明神のHPに次ぎの記事(一部改変)がある。
 水谷九社めぐりについて
春日大社境内の北を流れる水谷川は、春日山から湧き出る聖なる川で、吉城川、佐保川と流れを変えながら平城京、そして大和国原に住む人々を潤す「生命の水」として大切にされてきた。その水谷川のほとりに鎮座する水谷社は、御本殿・若宮に次ぐ社で、その周辺は古来、春日信仰の根幹をなす龍神信仰が特に盛んな場所であった。現在御祈祷所がある場所にあった勅額門を備えた安居屋の龍王社は、その拠点ともいえる社であったが、明治維新の暴挙で総宮神社に合祀される。 興福寺鎮守春日明神は平成30年に、140年ぶりに龍王社を再興する運びとなる。この龍王社とあわせ水谷川の川辺の九社の社を巡拝する「開運招福水谷九社めぐり」を行うこととする。
 ※要するに、「水谷9社めぐり」なるものが創設されたようで、「浮雲社」はその5番となり、案内板が更改される。
 四恩院築地塀跡と浮雲社     5番浮雲社
 浮雲社案内板:四恩院十三重塔の守護神云々の文言が追加されるが、案内板の文意(十三重塔と龍神との脈略)は理解不能である。

参考:
木造十三重塔が現存するのは多武峯妙薬寺の一基のみであるが、文献上 あるいは遺構の残る木造十三重塔は以下が知られる。
 山城笠置寺・南都興福寺四恩院・鎌倉極楽寺山城高山寺山城光明峯寺大和長谷寺大和菩提山正暦寺備前八塔寺


興福寺山内絵図

2006/06/05追加:
春日興福寺境内図/興福寺部分図:宝暦10年(1760)以降の作図:<画像容量:多少大>

◆奈良女子大学学術情報センター蔵
春日興福寺境内繪圖全図:<容量:1M>・・・2022/01/13:大容量画像を追加。



  本ページに使用する本図の区分については→「春日興福寺境内繪圖」を参照 ください。
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2008/12/06追加:
 「奈良県文化財調査報告書:第78集」奈良県立橿原考古学研究所編集.  2003 より
 興福寺旧境内図:すぐ上に掲載の 「春日興福寺境内図/興福寺部分図」を図に落としたものと思われる。

2015/12/25追加:
○「奈良公園史, [本編]」奈良公園史編集委員会、1982/3 より
 奈良町繪圖・部分図
奈良町繪圖は天理図書館蔵、「奈良公園史 本編」に掲載される図は興福寺及び東大寺を中心とした部分図である。
向かって左上端は眉間寺(多宝塔あり)、左中央付近は興福寺堂塔・北に一乗院門跡・南に大乗院門跡・周囲には子院群が囲み、一乗院門跡東に勧学院(多宝塔あり)があり、左下に元興寺(五重塔あり、極楽院・小塔院)がある。さらに元興寺東方・中央下に頭塔寺がある。
図中央上部は東大寺伽藍及び周囲には子院が配置、東大寺南大門の南東に四恩院がある。

  ○大和名所圖會 寛政3年(1791)刊より:(2012/03/25画像入替)
   大和興福寺: ・・・・・上に掲載済
  享保2年(1717)の大火によって、主要伽藍は焼亡し廃墟と化した興福寺の姿が描かれる。
  近世以前には、幾度の焼失のつど復興を遂げてきたが、古のような復興する力を失った興福寺の様が描かれる。
  主要伽藍の中では東金堂と五重塔は辛うじて存在する。
  東金堂の北・中金堂東には明治維新に廃絶した細殿・食堂がある。左下隅は南円堂(寛保元年<1741>再建)。
   朝香山・大乗院:大乗院が描かれる。 ・・・・・上に掲載済

  2003/03/19追加:・・・・・上に掲載済
  ○加太越奈良道見取絵図第2巻、寛政年中(1789-1801)編修
    □興福寺伽藍図(主要伽藍は焼失してい るが、明治維新前の 全容を窺うことが出来る。)
    □興福寺主要伽藍図:上記拡大図:五重塔・三重塔・勧学院多宝塔の姿がある。

  ○和州奈良之繪圖 元治元年(1884)より:・・・・・上に掲載
   和州奈良之繪圖の中央部分図:興福寺五重塔・三重塔が描かれる。

旧興福寺伽藍図・・・明治初期(推定)の略図
   旧興福寺伽藍図北部     旧興福寺伽藍図南部
 但し、上図で、院家:修南院・東北院、学侶:宝掌院・玉林院・不動院・惣殊院・五大院・清浄院・明王院・慈門院・龍雲院・花林院・楞厳院・勝願院の位置は特定できず。

2023/07/20追加:
奈良興福寺 古之繪圖
  奈良興福寺 古之繪圖
 本図は2023/03/21の「興福寺旧境内古地図ウォーキング」で配布されたものである。
オレンジ部分が古の部分であり、パープル部分が現在の施設及び通りである。
興福寺の古の部分はかなり正確と思われ「原図」があるのだろうが、寡聞にして其の「原図」が何かは分からない。
分からないがその原図は江戸中期のものと推定される。この意味では多少素性の淡しいものかも知れない。


大和興福寺の神仏分離(廃仏毀釈)

2015/06/22追加:
天和4年(1684)興福寺書上:春日大社文書 巻5 所収 より
 江戸初期の興福寺末寺と寺中の書上である。
 大和及び近隣の大寺・由緒寺院の大部を末寺とし、寺中も96ヶ院を数え、その権勢は中世の姿を留めている。

(前欠ク 可能性あり)
●一乗院御門跡末寺:
清水寺(城州愛宕郡)、浄瑠璃寺(城州)、神童寺(城州相楽郡)、岩船寺(城州)、龍蓋寺(和州高市郡)、龍福寺(和州山邊郡)、
松尾寺(和州添下郡)、忍辱山(和州添上郡)、在原寺(和州山邊郡)、金剛山(和州葛上郡)、喜光寺(和州沿下郡)、中川寺(和州添上郡)
般若寺(和州添上郡)、不退寺(和州添上郡)、信貴山(和州平群郡)、富貴寺(和州平群郡)、鶴林寺(和州平群郡)、金勝寺(和州平群郡)
千光寺(和州平群郡)、南法華寺(和州土市郡/高市郡の誤)、現光寺(城州相楽郡)、高天寺(和州葛下群/葛上郡の誤)
●大乗院御門跡末寺:
長岳寺(和州城上郡)、平等寺(和州城上郡)、永久寺(和州山邊郡)、菩提山(和州添上郡)、信貴山(和州平群郡)、長谷寺(和州城上郡)
大安寺(和州添上郡)、薬師寺(和州添下郡)、随願寺(城州)、法貴寺(和州城下郡)、萱尾寺(山邊郡)、吉田寺(和州平群郡)、
中山(和州山邊郡)、極楽坊(和州添上郡)、福智院(和州添上郡)、新禪院(和州添上郡)、橘寺(和州高市郡)、法興寺(高市郡)、
安位寺(和州高市郡)、新浄土寺(和州添上郡)、新福寺(添上郡)、正豊寺(添上郡)、正法寺(和州添上郡)、圓楽寺(和州平群郡カ)
(大安寺已心寺)已心寺(和州)、五知光院(和州添上郡)、符坂/極楽寺(和州宇多郡)、指檜皮/伏見寺(和州葛上郡)
●惣寺之末寺
法隆寺(和州平群郡)、西大寺(和州添下郡)、法花寺(和州添上郡)、招堤寺(和州添下郡)、元興寺(和州添上郡)、大福寺(和州廣瀬郡)
十輪院(和州添上郡)、新薬師寺(和州添上郡)、不空院(和州添上郡)、秋篠寺(和州添下郡)、称名寺(和州添上郡)
知足院(和州添上郡)、眉間寺(和州添上郡)、白毫寺(和州添上郡)、海龍王寺(和州添上郡)、蓮成寺(和州添上郡)
正覺寺(和州添上郡)、安倍寺(和州土市郡)、室生寺(和州宇多郡)、金峯山寺(和州吉野郡、飛鳥寺(和州高市郡)、富貴寺(和州平群郡)
興善寺(和州土市郡)、明王寺(高市郡)、明王院(葛下郡)、栄山寺(和州宇智郡)、高尾寺(和州葛下郡)、置恩寺(和州葛下郡)
當麻寺(和州葛下郡)、仙巌寺、高天寺(和州葛上郡)、牟尼谷寺、根本成身院(和州添上郡)、永福寺(和州宇多郡)、雷別所(高市郡)
海住山(城州)、安養寺(和州添上郡)、鹿山(城州)、灌頂寺(和州宇多郡)、観音寺(山邊郡)、澁谷寺(山邊郡)、西松尾(和州添下郡)
笠置寺(城州)、笠寺(式上郡)、鷲峯山(城州)、安養寺(和州平群郡)、善勝寺(山城国)、額安寺(和州平群郡)、平等院(城州)
三室戸(城州)、勧学寺(高市郡)、奄治寺(山邊郡)、与楽寺(和州廣瀬郡)、三鈷寺、日野寺(山城国)、神護寺(山城国)、長覺寺
到彼岸寺、正道寺(葛下郡)、竹林寺(和州平群郡)、長法寺(高市郡)、泰楽寺(土市郡)、百濟寺(土市郡)、西念寺(葛下郡)
仙洞寺(葛上郡)、延福寺(葛上郡)、国分寺(城州)、国分寺(河州)、静勝寺、神宮寺(和州山邊郡)、百輪寺、徳泉寺、龍花寺
楽音寺(葛上郡)、鳥坂寺(高市郡)、弘懸寺、久宝寺(河内国)、徳林寺、野中寺(和泉国)、葛井寺(河内国)、龍泉寺(河内国)
善寂寺、佛光寺、蜂田寺(河内国)、坂本寺、明林寺、雀部寺(和泉国)、勝尾寺(攝津国)
●開基之事、開山之事、宗門之事、宝物之事は特に取り立てて言うほどのことはないので、割愛する。
●坊舎員数之事
 ※知行高については石以下の斗升合は切り捨て
一乗院門跡(1495石)
大乗院門跡(951石)
喜多院家(180石)、松林院家(105石)、東北院家(74石)、修南院家(74石)
成身院(305石)、妙徳院(108石)、慈尊院(174石)、金蔵院(159石)、観禪院(154石)、雲龍院(152石)、賢聖院(134石)、
檜皮院(133石)、無量寿院(133石)、尊教院(127石)、五大院(126石)、惣珠院(114石)、明王院(114石)、安楽院(105石)、
花蔵院(102石)、千手院(97石)、宝壽院(97石)、観音院(96石)、金剛院(95石)、正智院(92石)、轉経院(88石)、清浄院(88石)
摩尼珠院(88石)、知足坊(88石)、發心院(86石)、徳蔵院(85石)、西發志院(85石)、寂勝院(84石)、窪轉経院(84石)、勧修坊(84石)
常光院(83石)、寂福院(82石)、法輪院(82石)、花巌院(79石)、浄名院(77石)、久保院(76石)、興善院(75石)、大蔵院(73石)
釈迦院(70石)、中蔵院(69石)、妙喜院(96石)、三蔵院(67石)、多聞院(67石)、大持院(66石)、妙光院(63石)、福寿院(61石)
恵心院(60石)、蓮成院(60石)、常如院(60石)、慈明坊(60石)、竹林院(59石)、圓明院(58石)、吉祥院(58石)、阿弥陀院(57石)
福園院(56石)、福成院(55石)、成福院(52石)、西恩院(52石)、南井院(51石)、蓮華院(51石)、清瀧(龍)院(51石)、宝徳院(51石)
佛地院(50石)、養賢院(50石)、持宝院(49石)、大聖院(49石)、法雲院(49石)、功徳院(48石)、圓満院(47石)、實證院(46石)
明星院(42石)、蓮蔵院(40石)、玉蔵院(40石)、宝光院(37石)、三學院(36石)、宝蔵院(35石)、戒蔵院(34石)、慈恩院(34石)
壽福院(31石)、安養院(30石)、龍徳院(29石)、奥蔵院(29石)、福生院(27石)、蔵光院(24石)、宝珠院(22石)
金勝院(72石)、愛染院(30石)、正法院(20石)、下松院(8石)、唐院(164石)
          坊舎合96軒
●春日興福寺知行之事
嵩弐萬千百拾九石五斗餘
         以上
  天和4年甲子2月日
                 竹林院、千手院、安楽院、宝蔵院、宝壽院、無量壽院、窪轉経院、寂勝院(各々印)
     御奉行所

明治の神仏分離

明治維新前の興福寺朱印領は約2万5000石と云う。

慶応4年4月13日:大乗院隆芳、一乗院応昭は連名で復飾願いを提出。

門跡:大乗院・一乗院
院家:修南院・喜多院・松林院・東北院
学侶:公卿出身(20ケ院)
 成身院・延寿院・慈尊院・無量寿院・養賢院・宝掌院・正智院・玉林院・中蔵院・不動院・惣殊院・五大院・賢聖院・清浄院・
 明王院・恵海院・慈門院・龍雲院・勧修坊・妙徳院
    武門出身(15ケ院)
 花林院・世尊院・楞厳院・最勝院・知足坊・摩尼珠院・蓮成院・安楽院・宝蔵院・円明院・観音院・勝願院・大喜院・
 弥勒院・観禅院
以上の僧侶をはじめ、
学侶以下の身分であった堂司(3人)、三綱(4人)、衆徒(20人)、専当(8人)、承仕(17人)、仕丁(13人)なども復飾願いを出し、「新神官」と言われる春日社の神官に任ぜられる。
復飾願いは慶応4年3月から4月にかけて提出されたという。(これには岩倉具視の工作があったとも云われるが、詳細は不詳)
興福寺は空家同様となり、明治4年1月の「上地」で一条院門跡は県庁に没収、明治5年教部省から廃寺の達が出される。
以上により、食堂・大乗院門跡・子院などが悉く破壊され、経典・仏像なども多くが売却あるいは焼却される。
五重塔・三重塔も売りに出されたが難を逃れる。
金堂は一時留置場に使われる。明治8年食堂取壊・後地に寧楽師範学校を建立。

2013/03/11追加
○明治6年「大和國寺院明細帳」 より:
 ※以下のように96ヶ院の明細が記載される。
 奈良 元高二万石余 法相宗 興福寺
  塔中

大乗院 従五位松園隆温 一乗院 従五位水谷川忠起 喜多院 従五位鹿園空晁 松林院 従五位松林為美
東北院 従五位北大路季敏 修南院 従五位南光度 成身院 従五位芝小路豊訓 妙徳院 従五位杉渓言長
慈尊院 従五位太秦供康 金蔵院(恵海院トモ云)鷺原量長 観禅院 東朝倉量英 龍雲院 従五位芝亭実忠
賢聖院 従五位今園国映 宝掌院 従五位竹園康長 無量寿院(※梶野行篤) 尊教院
五大院 従五位中川興長 惣珠院 従五位長尾顕慎 明王院(※西五辻文仲) 安楽院 伊達幸春
花蔵院(大喜院トモ云)大喜多善成 千手院 室寿院(花林院トモ云)一色雅文 観音院 尾谷直温
金剛院 正智院(※正知院 南岩倉具威) 文殊院 清浄院 従五位藤江雅孝(※藤枝雅之)
摩尼珠院 藤沢公英 知足坊 桂木由冨 發心院(玉林院トモ云)従五位穂積俊弘 徳蔵院
西發心院 寂勝院 松井?正 窪?経院(勝頚院又楞儼院トモ云)関英英 勧修坊 従五位河辺隆次
常光院 寂福院 玉花院 花厳院
浄名院 真如院 真善院 大蔵院
釈迦院 相楽冨道 中蔵院 従五位北河原公憲 妙喜院 三蔵院
多聞院 大持院 妙光院 福壽院
自證院 蓮成院 雲井春影 常如院 慈明坊
竹林院 円明院 索川秀宣 吉祥院 阿弥陀院
福園院(延寿院トモ云)従五位
藤大路納親
福成院 成福院(世尊院トモ云)従五位??藤原景隆 西恩院
弥勒院 南井忠俊 蓮花院 青瀧院 宝徳院
佛地院 養賢院 従五位粟田口定孝 持宝院 大賢院
法雲院 功徳院 円満院 密厳院
明星院 蓮蔵院 玉蔵院 宝光院
三学院 ?蔵院 ?瀧賀 戒蔵院 慈恩院
壽福院 安養院 龍徳院(勝願院トモ云)関根秀演 真蔵院
福生院 蔵光院 室珠院 金勝院 上田真文
?染院 谷口光盛 正法院 下松院 唐院

   ※備忘:上記には不動院住職小松行正、慈門院住職相楽綱直の書上げがない。

2006/11/05追加:「神仏分離の動乱」より
神仏分離令が告知された時、興福寺及び春日社は末寺・末社を含め一乗院門跡及び大乗院門跡の支配下にはあったが、興福寺僧侶が春日社の社僧であったわけではないので、特に動揺する必要は無かったであろう。
単に春日社を分離すれば済む話であったはずであろう。
 ところが、分離令の僅か半月後には、門跡・院家・学侶を初め僧侶の全員が還俗し、しかも春日社の神官となる。
門跡・院家の全て、学侶の多くは貴族出身であった。僧侶である前に貴族の子弟であり、従って興福寺の都合よりは、出身貴族の意向が優先したのであろう。(王政復古・祭政一致に乗り遅れるなということの行動であろう。)
見事な処世・転身という外にない。
(一乗院=水谷川、大乗院=松岡、修南院=南、喜多院=松岡、松林院=松林、東北院=北大路・・・などと還俗)
さらに驚くべきことは、彼等は実家に戻ることなく、春日社の神官になった訳であるが、さりとて興福寺の権益を手放すことなく、興福寺の什宝を私物化し、手当たり次第に処分して行ったことである。
本来であれば、春日社神官が興福寺財産の処分が出来るはずもないことであろう。
この間堂舎は破壊、仏像・仏器・経典・仏画などの什宝は二束三文で売られた云うのは広く知られたことである。
僧侶の居なくなった興福寺は廃寺、西大寺と唐招提寺が輪番で管理することになるも、ついには堂塔も売却に付されることに至る。 (五重塔は○○円で売られ・・・・の有名な話になる。)
 一方興福寺以外の南都諸大寺も神社を従えていた。
東大寺の手向山八幡、法隆寺の龍田明神・五所明神・天満宮、薬師寺の鎮守八幡、薬師堂十二社(天満宮)などである。
これ等はすべて寺院守護・仏法守護の目的で造営・保持され、僧侶の管理下にあったことは事実である。
しかし、神仏分離令が出たとき、これ等の神社・鎮守は由緒がどうであれ、祭神がどうであれ、管理する諸寺は附属する神社を分離さえすればよかったはずである。
事実、多少の混乱はあったにせよ、 南都諸大寺はこれ等の神社を寺院から分離し、本寺自体が解体する事態には至らなかった。
この意味では、少なくとも南都諸大寺の僧侶の処置は健全であったと云えるであろう。
結果、興福寺は一山離散・ほぼ廃寺となったが、興福寺以外の南都諸大寺では神仏分離の被害は最小限に収まったといえるであろう。

2011/08/16追加:
○「興福寺における神仏分離と春日神社」吉井敏幸(「大和における神仏分離史料の収集と研究」 2006.3 所収)より
○概要
大和興福寺の近世の寺領は21000石、坊舎は100ヶ坊、数百人の僧侶がいた。
興福寺は明治の神仏分離の処置で廃寺というより自ら寺を棄てる。明治15年に再興される。
○興福寺僧侶の復飾神勤
慶応4年3月17日神祇事務局ヨリ諸社ヘ達(神仏判然令)が発せられる。
慶応4年3月21日興福寺に上記「達」到着、同日中に興福寺衆徒仲間20家が討議を行い「仲ヶ間一同復飾相願可申」と決定する。
 衆徒以外の専当・承仕・仕丁などの寺僧の階層ごとにも会合が持たれ、各々復飾願いを取り纏める。
慶応4年4月13日「興福寺一山復飾願書」が両門跡・院家・学侶・三綱・衆徒・堂司・専当・承仕それぞれの願書を添えて、
 一乗院・大乗院両門跡の連署で提出される。
同年4月29日神祇局から一山復飾許可並びに興福寺僧は仮に「新神司」と称し、これまで通り春日社に奉仕することとの命がある。
 以上により興福寺の廃寺が決定する。
同年閏4月2日東大寺・法隆寺・薬師寺・西大寺・唐招提寺・新薬師寺・郡山藩・法華寺に興福寺一山復飾を通知
同年閏4月15日末寺18ヶ寺を召集し、離末を申し渡す。(下に掲載)
同年9月19日両門跡改名、同年10月興福寺堂塔・子院の建物の管理は唐院(西大寺僧侶が入院・復飾せず)と新坊(唐招提寺僧侶が入院・復飾せず)との委任することに決定。
以上に対し、明治元年9月妙音院(元堂司方)は再び落飾・興福寺寺号回復を奈良県に訴え・却下などの動きが知られる。
○興福寺廃寺の背景
興福寺廃寺の急展開は両門跡・院家・衆徒などが積極的に推進したことが分かるが、その理由は、興福寺僧侶間には幕末から勤皇思想が蔓延し、興福寺僧侶は王政復古の当初から維新政府を支持していたことにある。
例えば慶応3年には新政府に3000両の献納を申し出、鳥羽伏見の戦いでは新政府を支援・・・などの動きがそれを示す。
上級の興福寺僧侶、つまり両門跡・院家・学侶(衆徒)の殆どが京都の公家の子弟(下掲の明治17年華族一覧にもその一端が見える)であり、彼等の身内には勤皇の志に燃えるものが多く存在し、また当時の興福寺僧侶の多くは国学の影響を受け、それ故出家の身を嘆くような傾向があったものとと思われる。
例えば喜多院空晁は右大臣三条実紀の子息で、一族には三条実方や実美などがいた。当然出家である身を嘆き、朝野での活躍を望む精神であった訳で、興福寺を守るという意識は希薄で、彼等は神仏判然令が出た時に無条件で受け入れる体質であったと思われるのである。
○春日社の変質(つまりは国家神道への組織化)
慶応4年4月神仏判然令を受け、春日社境内の仏具仏堂の撤去が始められる。
春日御廊の経典・経棚を取除き西屋に運び、勧化所の本尊を念仏寺に譲り、仏具は興福寺三ツ倉に納め、宝蔵の仏器は別途運び出し、神宮寺殿と云う堂舎は取壊された。仏器の撤去と同時に祭壇を設ける工事も多く行われる。 これ等の処置は4月中に終ったと推定される。
従来、春日社は社家・禰宜方が神勤していたが、今般興福寺復飾僧侶が仮に「新神司」として神勤を命ぜられることとなる。
当初は新神司と社家禰宜は別々の組織であり別々に神勤していたが、最終的には明治2年8月にそれらを統合すべく春日社新規則が制定される。勿論これ等は旧僧侶と旧社家禰宜側との宥和を目的とするものではあったが、一方では位階や身分による組織化でもあった。
例えば、春日長官及び権長官(各1名)は華族、惣官(4名)、史官(8名)も上級位階ものに限定され、旧社家禰宜が就任する可能性もあるが、基本的に興福寺旧僧侶の位階のものが有利であり、この意味では旧興福寺僧侶によって組織化されたといえる。
慶応四年三月十三日の太政官布告では
 此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基,諸事御一新,祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ,先ハ第一,神祇官御再興御造立ノ上,追追諸祭奠モ可被為興儀,被仰出候,依テ此旨 五畿七道諸国に布告シ,往古ニ立帰リ,諸家執奏配下之儀ハ被止,普ク天下之諸神社,神主,禰宜,祝,神部ニ至迄,向後右神祇官附属ニ被仰渡間,官位ヲ初,諸事万端,同官ヘ願立候様可相心得候事
とあり、全ての神社・神職は神祇官の附属とされ、春日社でも、神祇官の指図が頻繁に行われるようになる。
 明治元年、春日社の重要な祭典である春日祭及び若宮祭に置いても、神祇官の差配を受け執行されるようになる。
さらに復古された国家祭祀も次々と春日社に執行が命ぜられる。
即ち明治3年から節分会、明治4年神武天皇祭などの官祭の執行が命ぜられる。
その後種々の取調べが行われ、明治5年5月春日社は官幣大社に列せられ、国家神道の最高位階に位する。要は国家神道の走狗になったということである。
 明治3年12月春日社に上地令が下達される。(社領を失うこととなる。)
明治4年「半祖納入」となり、旧来の知行の半額の納入となる。明治7年から社寺逓減禄となり、石高の1/4の禄となり、禄は以降逓減し10年後にはゼロとなる達が発せられる。
さらに明治4年神社は国家の祭祀であって、個人の所有するところではないという達が出され、神祇官が神職を補任することとなり、同時に神職の職員規則が制定される。この職員規則は大幅に神職の数を減らすものであった。
特に春日社にあっては収入が激減し、膨大は神職は免職されることとなる。
明治5年6月神祇官から神職の補任がある。春日社大宮司は水谷川忠起(元一乗院門跡)が任命される。
 (松園嘉尚元大乗院門跡は攝津生国魂神社と攝津国広田神社大宮司に補任される。)
同年12月にその他の神職の任命がある。少宮司は八尾鏡造神社宮尾恭基、禰宜は華族の穂積、同北河原、同藤枝、新社司野一色の4人、権禰宜は春日社から5名、主典は旧神人の1名が任命されるが、それ以外の新神司、新社司、旧社司は全て免官となる。
○結末
かくして、興福寺僧の大部は春日社から罷免され、興福寺僧には明治2年に与えられた堂上恪と従五位の地位と明治7年に与えられた家禄50石以下の家禄と華族と云う身分が残っただけであった。
彼等は幕末から明治初頭にかけて勤皇という志に賛同し、積極的に維新政府の宗教政策に協力推進した。
しかし彼等の運命は必ずしも好転せず、期待したようにはならなかった。
明治維新の激動は彼等の収入をほぼ絶ち、さらに維新の活動の入費も嵩み、春日社から罷免され、残ったのは借金のみという結末であった。
以上は興福寺における神仏分離の結末である。

2015/12/25追加:「奈良公園史, [本編]」奈良公園史編集委員会、1982/3 より
 明治元年3月神仏判然令が出されると幸福寺一山は復飾する。興福寺は廃寺同然となり、坊舎は坊主の居住は許されるも、堂塔は堂司らも離寺したので、看守も不在となる。堂塔の鍵は御蔵方(納所)輪番の唐院(西大寺僧)・新坊(唐招提寺僧)が保管に与る。
 興福寺鎮守氷室社・率川社が離脱する。高畑天満宮は大乗院門跡から離脱する。
 なお、東大寺八幡宮御神体(僧形八幡像)は佐保川に投ぜられたとも云われる。
 明治5年の教部省指令で興福寺の廃寺が確定し、仏像・仏具の海外流出、経巻・古文書が奈良反古と云われ市中に出回る。この頃坊舎から還俗者がたちさり、空坊の撤去が続く。堂舎の監護のため、西大寺(唐院)・唐招提寺(新坊)が引き続き輪番することが許可される。

2010/02/15追加:
サイト:wolfpac.press.ne.jpに「華族一覧表 公家分家・地下の部」がある。
明治17年7月7日、華族令が制定され、いわゆる「奈良華族」といわれる興福寺の門跡・院家が男爵を授けられる。
下記の表は標記のページから興福寺の門跡・院家の部分を抜き出したものである。
明治維新前後の門跡・院家の動向を多少知ることが出来る。

授爵者 家系・門流 授爵年月日 爵位 備考
松園 尚嘉 九条庶流 明治17年7月8日 男爵 大乗院門跡 春日社新宮司となり、後に摂津官幣大社広田社大宮司に転出
水谷川 忠起 近衛庶流 明治17年7月8日 男爵 一乗院門跡 明治4年春日神社大宮司となる
粟田口 定孝 葉室庶流 明治17年7月8日 男爵 養賢院住職、定孝は葉室顕孝の六男
今園 国映 勧修寺家末流芝山支流 明治17年7月8日 男爵 賢聖院住職、国映は芝山国典の養子(実坊城俊政二男)
太秦 供康 水無瀬一門桜井支流 明治17年7月8日 男爵 慈尊院住職
梶野 行篤 西洞院庶流石井支族 明治17年7月8日 男爵 無量寿院住職
河辺 隆次 油小路家分家 明治17年7月8日 男爵 勧修坊住職、伯爵油小路隆晃の三男、明治30年爵位返上
北大路 公久 三条末流阿野分家 明治17年7月8日 男爵 東北院住職(祖父季敏)
北河原 公憲 四辻(室町)支流 明治17年7月8日 男爵 中蔵院住職
小松 行正 石井家分家 明治18年5月2日 男爵 不動院住職(父行敏)
相楽 綱直 富小路家分家 明治17年7月8日 男爵 慈門院住職(父富直)、昭和18年爵位返上
鷺原 量長 甘露寺家別家 明治17年7月8日 男爵 恵海院住職、量長は甘露寺勝長の四男、明治21年爵位返上
鹿園 実博 三条家末流 明治17年7月8日 男爵 喜多院住職(父空晁)
芝小路 豊俊 勧修寺末家芝山支流 明治17年7月8日 男爵 成身院住職(父豊訓)、父豊訓は芝山国豊の養子
芝亭 愛古 西園寺一門裏辻庶流 明治18年5月2日 男爵 龍雲院住職(父実忠)
杉渓 言長 山科支流 明治17年7月8日 男爵 妙徳院住職
竹園 康長 甘露寺支流 明治17年7月8日 男爵 宝掌院住職、康長は甘露寺愛長の子。明治32年爵位返上
長尾 顕慎 勧修寺家分家 明治17年7月8日 男爵 惣珠院住職、顕慎は勧修寺顕彰の子、明治20年爵位返上?
中川 興長 甘露寺庶流 明治17年7月8日 男爵 五大院住職、興長は甘露寺愛長の七男
西五辻 文仲 五辻庶流 明治17年7月8日 男爵 明王院住職
藤枝 雅之 飛鳥井庶流 明治17年7月8日 男爵 清浄院住職
藤大路 納親 高倉一門堀河庶流 明治17年7月8日 男爵 延寿院住職
穂積 俊香 坊城庶流 明治17年7月8日 男爵 玉林院住職(父俊弘)、父俊弘は坊城俊明の三男
松林 為美 冷泉一門 明治17年7月8日 男爵 松林院住職(父為成)、明治29年爵位返上
南 光利 広橋支流 明治17年7月8日 男爵 修南院住職(父光度)
南岩倉 具威 岩倉家分家 明治17年7月8日 男爵 正知院住職(父具義)、父具義は岩倉具視のニ男)

 注:「大和名所記(和州旧跡幽考)」より
第六の炎上は人王八十代高倉院、治承四年十二月廿八日平家の兵火にかゝりて伽藍一宇も残らず一時のけぶりとなる。
清涼院は清水の学窓大聖文殊の霊應あり。一乗院は定照僧都の聖跡、貞松房の松室ならびに興静僧都の喜多院、大乗院、松陽院、東北院、發志院、五大院、傳法院、真言円成院、一言主の社、辨財天の宮、龍蔵惣宮、住吉の社等炭灰となる(盛衰記)。

興福寺之寺中
中院の屋:中院の屋に春日相伝の舎利其の外仏像あり。只築山のたゝずまい池水の涼しさけしきことにぞ見え侍る。
一乗院は西のかたにあり。寶倉あり。
一乗院:一乗院は定照僧都の造立とかや。(以下略)
松室(一乗院のうしとら):松室貞松房は仲算已講の住み給いし所なり。(以下略)
花林院:松室の西に花林院の跡あり。中筋と言う所なり。花林院は別当永円僧正の住み給いし所なり。(以下略)
勸修坊:山野邊と言う所にあり。勸修坊は周防得業聖佛の住坊なり。(以下略)
菩提院(呼大御堂):(略)
大乗院:傳え聞く、大乗院は堀川院の御宇、寛治元年二月に造立なり、今の所は元興寺の別当の住坊たりし禅定院の跡とかや。むかしの大乗院の跡は、興福寺寺院の内龍雲院と言う僧坊のほとりなり。本願は隆禅大僧都と申しき。左少將藤原政兼朝臣の長男なり。

2014/07/11追加;
◇興福寺再興
明治5年興福寺廃寺
明治13年元一乗院門跡水谷川忠起、元大乗院門跡松園尚嘉の両名、興福寺再興願いを提出する。
明治14年内務省は興福寺の再興を認可、堂塔修繕のため、5万円を目標とした寄付募集が始まる。
明治維新の元勲などの肝いりもあり、目標に近い募金が集まる。
明治21年興福寺還仏会が執行される。(中金堂内陣整備、北金堂に放置されていた釈迦如来を遷座)、漸くにして復興が実現する。

2015/12/25追加:
○「奈良公園史, [本編]」奈良公園史編集委員会、1982/3 より
明治13年中金堂は奈良郡役所庁舎に官用され、南大門跡には御真影遥拝所が官設されていた。
明治16年4月に中金堂が興福寺に返還される。奈良郡役所は旧普門院跡に新築する。
 興福寺中金堂附近:明治18年撮影

2015/12/25追加:
○「奈良公園史, [本編]」奈良公園史編集委員会、1982/3 より
明治9年奈良県は堺県に合併、奈良県は消滅する。大和の国人は古都大和の誇りを蹂躙される屈辱であった。
明治14年堺県は大阪府に合併される。しかし大阪府の狙いは和泉・河内であったから、大和はお荷物であったであろう。
明治20年奈良県の再設置が認可公布される。
再設置の直前、大坂府知事は興福寺南大門附近の改良工事を認可する。これは南大門跡の常住者一掃とその整備であった。
明治21年ほぼ興福寺旧境内に限られていた奈良公園の大拡張案が企画・申請され、認可される。
同年興福寺は金堂本尊の還佛会を執行する。還佛会に先立ち、興福寺は南大門跡に旧奈良県県令四条が建設した遥拝所の撤去を出願する。遥拝所は大阪府管轄になってから荒廃していた。この出願は許可される。
 公園と県庁:「大和名所巡覧記」所掲図
奈良県庁は興福寺旧境内である奈良公園内にある洋風建物(旧寧楽書院)に庁舎を仮用する。裁判所(旧一乗院)と県庁との間には登大路が走る。正面中央の南大門跡は御真影遥拝所の名残りを留める。

2006/06/17撮影:
  △印は2013/02/21撮影:
◇興福寺現本坊:(この項2014/08/10追加)
現本坊のある地は「春日興福寺境内図/興福寺部分図」で云う東室のあった場所付近と推定される。
別の繪圖でいえば、「旧興福寺伽藍図北部」で云う東室院のあった場所(東金堂の東に東室院とある)付近と推定される。
(本坊で確認すると現本坊は東室であったと肯定する。)
 本坊表門:菩提院北側築地の西方に構えられていた門を明治40年(1907)に移築するという。天正年中(1573〜1592)の建築。
  ※菩提院北側築地の西方に構えられていた門とは「春日興福寺境内図」東室のあった場所、「興福寺旧境内図」東室のあった場所を参照。
   本図などの菩提院にその門が示されているが、この菩提院門が移建されたものと思われる。
 本坊北客殿;東室(僧坊)の遺構で、嘉永7年(1854)に再建されたものという。
 本坊南客殿:明治20年頃の増築であろうか。
 本坊大圓堂(持仏堂):大乗院の持仏堂を明治39年移築という。江戸代後期の建物。大圓堂は本坊内北側にある。
  大圓堂本尊は木造聖観音立像(重文)、建長5年(1253)仏師快円によって弥勒菩薩として造立されたとの胎内文書があるという。
2015/12/25追加:「奈良公園史, [本編]」奈良公園史編集委員会、1982/3 より
大和巡撫総督府(当時は摩尼珠院にあった)は新政と称して文武館を設置する。
2018/10/15撮影:
 興福寺本坊山門1     興福寺本坊山門2     興福寺本坊南客殿か

興福寺寺中(子院)遺構の現状

・加太越奈良道見取絵図第2巻、寛政年中(1789-1801)編集
 興福寺伽藍図:図右下附近に常光院・最勝院・華蔵院跡、松林院、西林院、宝寿院、宝光院跡、慈恩院・華厳院・龍華院地蔵堂・勧修坊、宝光院・光林院などがあった。大乗院門跡は左下。
 なお、上に掲載の
  春日興福寺境内図/興福寺部分図  旧興福寺伽藍図北部  旧興福寺伽藍図南部も参照。

○一乗院宮墓地
一乗院宮墓地:東大寺境内 ・西塔東・真言院裏手にある。
 ※なお、一乗院末であった大和喜光寺にも一乗院宮墓所がある。
2018/10/15追加: 一乗院宮墓碑2     一乗院宮墓碑銘

○遺構の概要
興福寺の門跡院家坊舎は、明治の神仏分離で全て廃寺、壊滅するも、辛うじて、境内東南隅の一画(常光院・最勝院・華蔵院跡および松林院、西林院、宝寿院、宝光院跡の小路、また常光院・慈恩院・宝光院の角を北に向かう慈恩院・華厳院・龍華院地蔵堂・勧修坊及び宝光院・光林院などの小路 )、現在の吉城園付近、中蔵院・千手院付近などに、辛うじてその面影を残す。

○摩尼珠院:現在の吉城園の地にあったと云われる。摩尼珠院別業は現在の依水園・前園とされる。
 △摩尼珠院跡:向かって右手は妙徳院跡 、雰囲気として門や土塀は旧坊舎を基本的に継承すると思われるも不詳。
2015/12/25追加:「奈良公園史, [本編]」奈良公園史編集委員会、1982/3 より
明治元年鳥羽伏見の戦で幕府軍は敗北し、官軍が奈良に入る。奈良奉行所を廃し、大和鎮台を設置し、摩尼珠院をその庁舎とする。
大和鎮台は後に大和巡撫総督府、市政裁判所、奈良府、奈良県(改称は明治2年7月)と改称される。

○仏地院・三蔵院(世尊院)などの東露地
西側は仏地院(現在の知事官舎)・三蔵院(現在は国際奈良学セミナーハウス)、東側は妙徳院・妙義院(現在はきんでん健保組合奈良保養所)・無量寿院が軒を連ねた露地・・・今 にその雰囲気を残す。
 △仏地院などの東露地:向かって右手前が仏地院跡、左手前が妙徳院跡、雰囲気として今に当時の様子を残す。
 2018/10/15撮影:
2014/0711追加:
 三蔵院などの路地
三蔵院跡には現在「国際奈良学セミナーハウス」が建つが、その入口(門)を入った玄関は「旧世尊院客殿」を奈良県が改修、保存したものという。なお世尊院は諸子院配置図によれば、猿沢池の南東付近にあったと分かる。
2018/10/15撮影:
 興福寺三蔵院跡:世尊院跡
2023/07/20追加:
現在、興福寺寺中で旧観を残すのは最勝院と世尊院のみと云われる。それと現在も寺中として機能する菩提院(大御堂)を加えて僅か3院坊のみである。
○世尊院は、現在工事中なので、次のサイトから写真を転載する。
◇「美しい桃山建築『旧世尊院』@国際奈良学セミナーハウス」2010-10-05 より
 旧世尊院山門     旧世尊院客殿     旧世尊院玄関     旧世尊院山門・玄関脇から
奈良っこ」 より
 旧世尊院玄関2
◇「旧世尊院 / 国際奈良学セミナーハウス」 より
 旧世尊院客殿2
元々、この地には三蔵院があり(江戸中期)、世尊院は菩提院(大御堂)の南の賢聖院のさらに一筋南のあったと思われる。
文化元年(1804)頃、寺地の交換が行われ、現在の場所へと移り、玄関・対屋・客殿・庫裏・西座敷を中庭を取り囲む配置し、周囲は築地で囲む造りとしたという。
明治維新後は民有地となり、井上邸(井上氏とは不明、何時所有したのかも不明)となっていたのを昭和36年奈良県が購入、客殿は昭和63年に改修し保存されることとなったようである。建物自体は寺地交換が行われた文化年中のものと思われる。
2023/05/01撮影:
 旧世尊院11     旧世尊院12     旧世尊院13     旧世尊院14     旧世尊院15     旧世尊院16
 旧世尊院17     旧世尊院18     旧世尊院19     旧世尊院20     旧世尊院21     旧世尊院22

○宝蔵院:現在の奈良国立博物館の地に取り込まれる。博物館前には宝蔵院井戸枠とされる六角形石組みが残る。
 興福寺宝蔵院跡: 真偽の程は不明であるが、宝蔵院遺物と云う。
2015/12/25追加:「奈良公園史, [本編]」奈良公園史編集委員会、1982/3 より
大和巡撫総督府(当時は摩尼珠院にあった)は新政と称して文武館を東室に設置するも、県学校として、当院に増設する。
2023/03/21撮影:
 興福寺宝蔵院跡2

2016/09/15撮影:
○興善院跡:現在は「菊水楼」(料理旅館)となる。
菊水楼は寺中興繕院跡に営まれた料理旅館で、現在も存続する。
 経営は岡本氏が行った。岡本氏は大和郡山藩の御用商人で、幕末には名字帯刀を許され、「菊屋」という屋号の旅籠営むという。
明治維新の廃藩置県で、岡本氏は奈良に出、興善院の賄い方となる。それが縁で、興善院とその周辺の土地、3500坪を明治22年までの間に、何回かに分けて買収する。明治24年 高級料理旅館「菊水楼」を開業。
菊水楼表門と庭門は忍辱山圓成寺のある寺中から買収し、菊水楼に移築し、現存するものであるという。
忍辱山のある寺中とは楠木正行が祀られていたといい、楠木の家紋「菊水」と旧屋号「菊屋」とを合わせ、「菊水楼」とするというも、その寺中名称は、資料が乏しく、判明しない。なお、表門・庭門とも江戸期の建築という。
 興善院跡菊水楼表門1     興善院跡菊水楼表門2     興善院跡菊水楼表門3     興善院跡菊水楼表門4
 興善院跡菊水楼庭門
2018/10/15追加:
 興善院跡菊水楼表門5

○俊寛塚
 ページ:「なぜこんなところに?!鹿ケ谷の陰謀ゆかりの俊寛塚」では次のように云う。
なら土連会館(常身院跡の一部)の北、菩提院の南にあった恵海院跡の一画(荒池の堤防脇)に「俊寛塚」と刻まれた石碑が建つ。
俊寛とは京都法勝寺の執行、後白河法皇の側近であり、安元3年(1177)鹿ケ谷の陰謀が発覚して、捕らえられ、平康頼や藤原成経とともに薩摩国の鬼界ケ島へ流され、そこで亡くなったとされる人物である。
しかし、「奈良坊目拙解」では、弟子の有王によって密かに奈良に連れ戻されて、晩年を当地で過ごしたという。俊寛は、青年時代、興福寺寺中興善院で学んだという。そのときの縁がこういった伝承を生んだのかも知れないと推測される。
2018/10/15撮影:
俊寛塚:塚は興福寺大御堂の南1町に満たない所にある。大御堂の東隣が俊寛僧都が幼少のころ勉学したという興福寺興善院(現在は菊水楼)である。
塚の現状は、これと云った特徴のない街中で、捨てられたような場所の猫の額ほどの土地(畳1枚以下の大きさ)が残され、そこは雑草が茂り、文字が剥落して読めない説明板と小さな石碑(俊寛塚と刻むのだろう)が建てられ、フェンスで囲まれ、北側はコンクリートで固められ、荒れ果てた状況であった。
まさに、ここは、以下で云われるような南都の鬼界ヶ島というか、否、鬼界ヶ島以下というべき塚の現状であった。
俊寛僧都は治承元年(1177)「鹿ケ谷の陰謀」に加担し捕縛され、鬼界ヶ島に流罪となり、許されることはなく、彼の地で亡くなると伝える。
しかし、江戸期の「奈良名所八重桜」、「大和名所図会」では、俊寛僧都は弟子の有王によって密かに連れ戻され、晩年を南都興福寺のこの地で過ごしたという。
その伝承によって古くからこの地は、鬼界島、あるいは俊寛ヶ辻と呼ばれ、標石「俊寛塚」が建立されたという。
俊寛僧都は幼少より興福寺興善院で勉学し、のちに京都法勝寺執行となったことから、近世にこのような伝承が生まれたのであろうか。
なお。この石碑は「俊寛の師、興善院僧正蔵俊が供養塔として建てたものではないか」と示唆する書籍もあるという。(「奈良の小寺」の一節「俊寛伝説の寺(正覚寺))
また、「奈良坊目拙解」では「俊寛僧都は従者たる有王丸のはからいで、鬼海ヶ島を潜かに逃れて、南都のこの寺(正覚寺)に隠れたとされている」というという。
 興福寺俊寛塚1     興福寺俊寛塚2     興福寺俊寛塚3     興福寺興善院1     興福寺興善院2

○残存する土塀・・・但し神仏分離以前の子院の土塀である確証はない。
 (確証はないけれども、土塀の残欠はきちっとした花崗岩の切石で基台を造り、かなりの厚さで粘土と瓦を相互に積み上げ、相当な強度で、積まれている。中に組み込まれた瓦には色目やその厚さなどから、興福寺の堂宇の廃棄瓦が転用されたものと推定され、古い年代と思われる瓦も散見されるようである。以上の造作の確かさ、古瓦の使用などで、明治維新前の寺中の土塀と判断してよいのではないかと思われる。)

 現在のさぎ池の北西すぐ、現在の荒池の北東すぐの地点に辛うじて土塀の残欠及び基台が残る。
但し、この土塀が興福寺子院の土塀なのかどうかは不明であるが、もし興福寺子院の土塀であるとすれば、中蔵院・千手院(慈眼院)・発心院(玉林院)の土塀と思われる。
近年まで残存していた一乗院・大乗院の土塀の残欠は現在は姿を消し、もしこの土塀が興福寺寺中の土塀であるならば 、かつての興福寺子院の遺構として大変な貴重なものであろう。
 興福寺寺中4:旧中蔵院土塀 (北側土塀)残欠と思われる。
 興福寺寺中5:手前旧中蔵院 (北側土塀)、中央旧千手院(慈眼院)土塀(北東隅土塀)残欠と思われる。
 興福寺寺中6:旧千手院土塀 (東側土塀北部)残欠と思われる。(東より撮影)
       なお千手院は上掲載の春日興福寺境内図/興福寺部分図では慈眼院とある。
 興福寺寺中7:旧千手院 (慈眼院)土塀(北東隅土塀)残欠と思われる。手前は旧中蔵院。
 興福寺寺中8:旧発心院 (玉林院)土塀(東側土塀)残欠と思われる。
       なお発心院は 上掲載の春日興福寺境内図/興福寺部分図では玉林院とある。
 △中蔵院・千手院1:左手前の区画が中蔵院、画面奥の区画が千手院      △中蔵院・千手院2:同左
 △中蔵院・千手院3:左の区画が千手院、右の区画が中蔵院
 △千手院跡1     △千手院跡2     △千手院跡3     △千手院跡4
 △中蔵院跡1     △中蔵院跡2     △中蔵院跡3     △中蔵院跡4     △中蔵院跡5
 △発心院跡      △知足院跡
  ※2013/02/08追加:
  「京都府の歴史散歩 下」2011では山城泉橋寺表門は元禄2年(1689)の建立で、興福寺知足院より移建という。
2016/09/15撮影:
 千手院土塀残欠:上方は発心院      千手院跡/右は中藏院跡     中蔵院跡/左は千手院跡
 発心院跡/右は知足院跡:発心院土塀残欠     発心院跡/知足院跡:右は発心院土塀残欠      発心院土塀残欠
 千手院土塀残欠     千手院/発心院土塀残欠     千手院土塀残欠
 中蔵院土塀残欠:右手奥は千手院土塀残欠      中蔵院土塀残欠2     中蔵院土塀残欠3:左奥は千手院土塀残欠
 中蔵院土塀残欠4:左奥は千手院土塀残欠
 大聖院土塀基台1     大聖院土塀基台2     大聖院土塀基台3
2023/03/21撮影:
 興福寺千手院跡5     興福寺千手院跡6     興福寺千手院跡7     興福寺千手院跡8     興福寺千手院跡9
 千手院・中蔵院跡:向かって右千手院跡
 興福寺中蔵院跡6     興福寺中蔵院跡7     興福寺中蔵院跡8
 興福寺発心院跡2     興福寺発心院跡3

○鷺池南
2023/03/21撮影:
 興福寺勧修坊跡    興福寺地蔵堂跡
現在の鷺池南には常喜院、光林院があった。
 △常喜院・光林院跡:写真中央が常喜院跡、右側が光林院跡と推定される。
2023/03/21撮影:
瑜伽山園地は興福寺旧境内南西の西端にあり、松林院家の北側にある。この地が興福寺寺中の地であったかどうかは不明。
 瑜伽山園地石塔残欠

○松林院・最勝院付近の小路
 興福寺寺中1:左手土塀は旧最勝院、右手手前から松林院、西林院、宝寿院、宝光院跡が続く
 興福寺寺中2:旧最勝院、その隣(奥)は常光院、突き当たりを左方面に天満宮が現存
  ※椿井文書(偽書)である「興福寺官務牒疏」では官務家とは最勝院と云う。(「官務 竝最勝院家配下領知分」:「官務牒疏})
   最勝院とはこの写真の最勝院を、史実であるかどうかは別にして、云うのであろうか。
 興福寺寺中3:旧龍華院地蔵堂、南隣の華厳院・慈恩院は天理教会と思われる。
 △常光院跡1     △常光院跡2
 △松林院・最勝院前小路1:東方向を撮影、右手が最勝院      △松林院・最勝院前小路2:西方向を撮影、左手が最勝院

○最勝院
 △最勝院跡1     △最勝院跡2     △最勝院跡3
2013/03/29追加:
○子院最勝院の若干の消息:
 奈良市議会議員・無所属・天野秀治のサイトで活動報告の掲載がある。
そこに、平成19年9月13日(木) 決算特別委員会 の質疑内容が掲載され、最勝院について若干の消息が知れる部分があるので、抜粋する。
 「旧最勝院文化施設整備事業用地の土地開発公社の買い戻し後の経過についてでございますが、既存建物の一部を保存改修するとともに、同敷地内に美術館を建設するため、平成12年6月に買い戻しを行いました。
 しかし、美術館建設計画については、地元のご理解が得られなかったため、その後新たな利活用を図るために作業を進めておりましたが、具体化には至らず、平成17年7月の定例議会におきまして、同事業の中止を表明した次第でございます。」
 「最勝院というのは、1664年(寛文4年)ごろに移設された興福寺の子院で、・・・明治の廃仏毀釈でほとんど全てが廃絶したにもかかわらず、ここはしっかりと残された数少ない遺構であると、調べたところ、そのように記述がありました。それで現在は本市の指定文化財となっています。
ここは、飛火野のすぐそばで、5億5000万円の出費をし、物件購入は4億5000万円ですね、今でもかなり高い値段がつくのではないかと思われます。これは売った方が良いのではないか?と思います。文化財ですから難しいかも知れませんが・・・。」
 「ただ、この最勝院の今回資料要求した資料では、事業計画書が無いとなっておりますが、これは頓挫したから無いのであり、「(仮称)最勝院跡美術館基本構想」という事業計画書があったようです。これは本当にしっかりと計画されていました。」
2014/07/11追加:
最勝院には明治維新前の建物が個人の住宅として改装され、今に残るという。現在は奈良市所有。
玄関は昭和初期に改装されるも、当初材を良く残すという。
奈良市指定文化財(建造物)として次が指定される。
  旧最勝院玄関、表門及び塀重門、附 棟札1枚 土塀4棟 石段1所 石敷1所 旧喜多家土蔵1棟
  玄関:桁行9.0m梁間7.0m、一重、入母屋造 妻入、正面軒唐破風付、桟瓦葺、正面檜皮葺、北面下屋 東西5.2m、南北3.2m、桟瓦葺
   江戸中期と推定される。
  表門:一間薬医門、切妻造、本瓦葺、寛文4年(1664)。
  塀重門:棟門、切妻造、本瓦葺、左右土塀付属、江戸中期と推定される。
2016/09/15撮影:
 最勝院表門     最勝院玄関
 GoogleMapより転載
  最勝院空撮:中央に写る敷地が最勝院跡、その およそ中央に写る入母屋造堂宇が旧最勝院堂舎
 奈良市HPより転載
  最勝院玄関:旧最勝院堂舎
2023/03/21撮影:
 興福寺最勝院堂宇
2023/07/20追加;
現在、興福寺寺中で旧観を残すのは最勝院と世尊院のみと云われる。それと現在も寺中として機能する菩提院(大御堂)を加えて僅か3院坊のみである。
最勝院の建物については、奈良市文化財に指定されている。
 奈良市>文化財>建造物(市指定文化財)>旧最勝院玄関、表門及び塀重門 に写真の掲載がある。
  https://www.city.nara.lg.jp/site/bunkazai/5894.html
最勝院については厳重に立入禁止となっていて、全容が分からないので、上記ページより写真を転載する。
 最勝院表門     最勝院玄関:向かって右手のあった庫裡は既にない。
 最勝院庫裡:平成12年(2000)に奈良市により撤去される。表門から撮影、向かって左は玄関
表記のサイトから
件名:旧最勝院玄関、表門及び塀重門 附 棟札1枚 土塀4棟 石段1所 石敷1所 旧喜多家土蔵1棟
指定日:平成13年7月6日:庫裡が取壊された後の再指定であろう。
構造形式:
玄関:桁行9.0m、梁間7.0m、一重、入母屋造、妻入、正面軒唐破風付、桟瓦葺、正面檜皮葺、北面下屋 東西5.2m、南北3.2m、桟瓦葺
表門:一間薬医門、切妻造、本瓦葺
塀重門:棟門、切妻造、本瓦葺、左右土塀附属
年代:
玄関:江戸時代中期
表門:江戸時代 寛文4年(1664)[棟札・棟木銘]
塀重門:江戸時代中期
 とある。
○「美術館計画頓挫、20年利用無し 奈良市、5億8600万円の取得地」2020年9月19日 ジャーナリスト浅野詠子、浅野善一
では次ぎのように云う。
  最勝院屋敷と庭園
 最勝院は明治初年の廃仏毀釈で、民間人の手に渡り、住まいになる。
市は「文化施設整備事業」の名目で1997年、市土地開発公社(2013年解散)に土地と建物を5億4400万円で買収させた。土地は広さ約2400平方m、地目は宅地。建物は木造瓦ぶき一部檜皮(ひわだ)ぶき平屋建て約77平方mのほかに土蔵など。
取得から3年後の2000年3月、大川靖則市長(当時)は定例市議会で、市出身の洋画家、絹谷幸二の作品を集めた美術館を2002年にオープンすると表明する。
3カ月後、市は、最勝院の土地を美術館建設の目的で同公社から金利分を加えた5億8600万円で買い戻す。
2001年7月、元子院の表門などを市の指定文化財に指定。
ところが、大川市長は2002年3月定例会で「計画見直し」を発表。事実上、計画を白紙に戻す。理由の説明はなし。
同土地の用途地域は第1種低層住居専用地域で、原則、美術館を建てることはできない。(条件を満たせば可能)
さらに
○「取り壊された元興福寺子院の庫裏、元禄期の可能性残していた 2000年、奈良市が美術館計画」2021年2月17日 ジャーナリスト浅野詠子
では、次のようにいう。
 奈良市が2000年、美術館建設を目的に取り壊した旧最勝院の庫裏と座敷棟が江戸時代元禄期の建築の可能性も残していたことが、市教育委員会文化財課への取材で分かる。当時の解体の過程で判明していた。玄関、表門、塀重門(いずれも江戸時代)は保存され、翌年、市文化財に指定されている。
 市教委文化財課によると、先行取得後の1997年11月、庫裏の屋根最上部(大棟)の南北両端から元禄8年(1695)の銘を刻む鬼瓦が発見される。当時市は、市内の建設会社に実測図面の作成を委託しており、報告書に鬼瓦についての記載がある。
 これより以前の1978年、県教育委員会文化財保存課は興福寺の子院調査を行っていた。旧最勝院の庫裏は、幕末ごろに大掛かりな改修があったことを同課は突き止めたが、建立年代には言及せず、座敷棟にいたっては明治か大正の建立と推定していた。
 市は美術館建設に当たって、絵画を所蔵する上で非木造の新築が良いと選択し、庫裏と座敷棟を取り壊す。
 ところが実際に解体してみると「庫裏、座敷棟ともに元禄期の建築である可能性を残していた」と、現地で立ち会った市文化財課担当者は話す。「屋根には、当初のものではないかと思われる古い桟瓦が使われていた。桟瓦は1674年の発明とされ、三井寺(滋賀県大津市)でふかれたと伝わり、最勝院で使われたのは早すぎるように思うが、ありえなくもない」
 さらに、座敷棟の屋根が上に反り上がった「むくり屋根」になっていることに同担当者は注目し「近代に流行するスタイルのようにも思えたが、江戸初期の桂離宮の古書院にも同様の屋根は見られ、元禄の奈良にあってもおかしくない」。桟瓦とむくり屋根。「可能性としては高くないが、鬼瓦銘が建築年代を示している可能性は排除しれきれないと考えるに至った」と話す。
 解体時、せめて報告書にまとめたいと、この担当者は美術館新築の担当課に提案したが、採用されず。
 市教委文化財課は今月2日、旧最勝院を紹介する市ホームページの文化財のコーナーに、解体された庫裏の写真を追加する。それまでは玄関や表門(市指定文化財)の解説にとどめていたが、市が自ら取り壊した庫裏の説明を省略するのは適切でないと、記者が指摘したことに対応したものである。

2007/06/26追加:
○興福寺一乗院門跡
 加太越奈良道見取絵図:一乗院部分図:中央やや上が一乗院門跡
 大和名所圖會:一乗院部分図:中央左が一乗院
 
 「写真集明治大正昭和奈良」藤井辰三編、国書刊行会、1979 より
 一乗院全景:南やや西から撮影、明治2年一乗院門跡は官に没収、奈良県庁庁舎となる。第42代応昭は春日大社宮司水谷川忠起となる。
         中央大屋根は宸殿で、昭和38年唐招提寺御影堂として移建される。
 旧一乗院:北西・奈良地検側から撮影した奈良地方裁判所:中央大屋根は一乗院宸殿、五重塔手前は県立図書館建物。
 旧一乗院土塀:東南より撮影、 内部は奈良地方裁判所
2018/05/13追加:
○「大和古寺巡礼」現代教養文庫390、昭和37年 より
 一乗院遺構:慶安年間復興の一乗院の遺構は、長い間奈良地裁として使用されてきたが、江戸期の名建築の中に入る。
2014/07/11追加:
 明治4年一乗院は県に接収され、宸殿は県庁に転用、さらに奈良裁判所に転用される。
 興福寺一乗院全景2
※一乗院宸殿:重文、寛永19年(1642)火災焼失、慶安3年(1650)再建、明治維新で廃寺、上地され、一旦奈良県庁として使用後,奈良地裁庁舎となる。 地裁の立替の時、寝殿は唐招提寺に譲渡され、昭和38年唐招提寺御影堂として復元移築される。昭和40年新地裁が竣工。
 2011/08/31追加:
  →参照:大和唐招提寺:御影堂
    唐招提寺旧一乗院遺構1     唐招提寺旧一乗院遺構2
2016/11/06追加:2016/10/13撮影:
 →参照:大和大安寺
大安寺南門は旧興福寺一乗院寺門を復元したものという。
大安寺寺僧談:この門は元来法華寺の寺門であったものを一乗院に移建、明治維新後裁判所の門であったが解体して大安寺が貰い受ける。
平成12年、復原南大門基壇上に、旧一乗院寺門を復元し、大安寺南門とする。
 大安寺南門1     大安寺南門2     大安寺南門3     大安寺南門4     大安寺南門5

2017/08/19追加:
○賢聖院僧侶墓
頭塔の南方に賢聖院僧侶墓が数基残る。
○「頭塔山ノ石仏」佐藤小吉 (「奈良県史蹟勝地調査会報告書』第3回、大正5年/1916 所収) より
「因みに云ふ、南方丁の下に、今五輪塔数基ありて、興福寺塔中賢聖院僧侶の石塔たり、賢聖院の後は、即今の男爵今園家にして東京府に貫す。寛保3年までは、此の地賢聖院の支配なりしを同年之を常徳寺に譲与せし結果、僧日實茲に頭塔寺を建て、常徳寺の末寺と定めきたりしを、維新の際公収め、官有となり、賢聖院の墓地のみ今国家の所有として残されるなるべし。」
2015/12/25追加:
○「奈良公園史, [本編]」奈良公園史編集委員会、1982/3 より
〇2016/09/15撮影:
頭塔南面は頭塔の整備対象外で、今も多くの墓碑類などが残る。多くは興福寺賢聖院関係の墓碑で、その他日蓮宗頭塔寺住僧の墓碑(2基)、題目碑などが残る。年紀は慶長年中から慶応年中迄あり、江戸期をカバーする年数のものである。これらの碑の銘文を総合すれば、頭塔は興福寺寺中賢聖院の支配下にあったが、寛保年中 に日蓮宗常徳寺に譲渡され、常徳寺末頭塔寺と称するようになることが分かる。頭塔寺開基は常徳寺日實上人とする。
 南面墓碑列:向かって右より、頭塔寺開基日實上人墓碑、大型五輪塔:寛永3年銘/盛兼学乗房墓碑、小型五輪塔:慶長15年銘/光誉宗古墓碑、小型五輪塔:慶長14年銘/妙薫禅定尼墓碑、大型五輪塔:<判読できず>墓碑、大型五輪塔:賢聖院住/享保7年銘/英誠学円房墓碑、大型五輪塔:賢聖院/正面は判読できず/慶■年紀、さらにこの左に 、写真には写らないが、大型五輪塔が1基あり、これは元文元年銘/秀英学真房の墓碑である。

2009/08/15追加:
◆興福寺東金堂遺仏:
 木造釈迦如来坐像:重文、丈六仏、平安後期の作と推定。寄木造、漆箔、像高230cm。
  ※瀬戸田耕三寺本堂東翼楼に安置、流転の経緯などは不明、
  この像は大和興福寺東金堂の一隅に安置(興福寺講堂本尊)されていたと云う。

2019/07/11追加:
◆奈良法徳寺の仏像:
〇奈良国立博物館ルーフレット より
法徳寺は奈良市十輪院町に位置する。融通念仏宗。
近年この寺に約30躯の仏像が寄進される。寄進したのはひとりの実業家で、彼は奈良の古美術商と親交があったため、南都伝来の仏像が少なくなく、興福寺に伝来した仏像が多く含まれる。それらには所謂興福寺千躰佛が20躯も含まれ、また明治39年に興福寺境内で撮影された仏像写真(同寺蔵)の中にある地蔵菩薩立像などもあり、興福寺伝来であることが確認できる。
 興福寺伝来地蔵菩薩立像:平安期(11世紀)
 興福寺千躰佛(菩薩立):平安期(12世紀):千躰佛については藤田美術館などに多く流出していることが分かっているようである。

◆興福寺末寺
慶応4年閏4月15日:興福寺、末寺一同を召集し、本末の関係の解消を通達する。
大和円成寺(寺領235石、12子院)、大和霊山寺(寺領100石、11子院)、大和龍福寺(寺領100石、13子院 、次項参照)など18ケ寺の末寺と子院89ケ院坊と断絶する。
この召集に参集したかどうかは不明ながら大和松尾寺も一乗院門跡支配。内山永久寺(970石、坊舎72軒)は大乗院支配。

桃尾山龍福寺(桃尾寺)の略歴は以下の通りである。
真言宗桃尾山蓮華王院龍福寺と号す。和銅年中義淵僧正の開基にして、行基が伽藍を整備したと伝える。
義淵僧正建立の大和龍蓋寺(岡寺)大和龍門寺(廃寺)とを合わせ、龍名の三大名刹 (大和三龍寺)の一寺という。
その後、弘法大師が再興し真言の道場となる。(以上<桃尾寺記>)
桃尾山絵図(江戸後期)には本堂、阿弥陀堂、護摩堂、滝不動堂、惣門、十二所権現などと宝光院、金蔵院、吉祥院、千手院、観音院、大門院などの寺中が描かれているという。
近世には寺領100石、16坊舎を有するも、明治の神仏分離で廃絶し、今は坊舎跡石垣を残すのみである。
なお阿弥陀堂跡地には報親教大親寺なる寺院(本堂・大日堂・庫裡など)が建立される。
 ※報親教なるものは情報が殆どなく、その性格は皆目不明。
 ※大正7年阿弥陀堂跡地に不動堂(大日堂)を建立、庫裡も鐘楼跡と思われる場所に建立されたものと推定される。
  昭和36年本堂を本堂跡と思われる場所に建立する。
  さらに近年吉祥院跡に新庫裡を建設と推定される。この時吉祥院の石垣を破壊したと思われる。
2014/07/11追加:
「改訂天理市史(本編・上巻)」1976 より
創建以来、古代の規模は不明であるが、中世には文明年中焼失し、漸く慶長年中に再興されるという。
 2015/03/15追加:「天理市史 資料編第1巻」昭和52年 より
  ◇徳川家康朱印状写;和州桃尾山竜福寺、久依不知行、堂塔及敗壊、仍為興隆於山辺郡熊(懸)橋村之内百石寄付之・・・・慶長7年
   ・・同じく、台徳院(秀忠)元和3年・大猷院(家光)寛永13年の朱印状写あり。
  ◇里本請負状写:桃尾山寺中十六坊里本請負証文事   元禄12年
   この証文は竜福寺近近郷の有力者が里本となり桃尾山寺中の維持を企図するものであるが、次の十六坊の連判がある。
   安楽院、大門院、住心院、金蔵院、宝光院、観音院、千手院、阿弥陀院、成就院、明玉(王)院、文殊院、安養院、
   吉祥院、宝蔵院、地蔵院、宝蔵院(宝生院の誤植?)
    ※但し、金蔵院は一時安楽院兼帯など必ずしも十六坊が揃っていた訳ではない。
  ◇享保13年「子院配分覚」:
    知行高100石 桃尾山
    46石大門院、8石金蔵院、6石安楽院、8石住心院、4石5斗余地蔵院、4石2斗安養院、2石7斗吉祥院、5石4斗余宝光院、
    3石2斗成就院、3石2斗文殊院、3石2斗観音院、2石7斗阿弥陀院、4石2斗宝性院、5石宝蔵院、4石2斗明王院、
    2石5斗千手院、2石4斗瀧不動堂修理料、14石5斗諸堂并社修理料  〆 百石也
  ◇嘉永元年大門院修復
  ◇竜福寺記写
    最後に以下の寺中の記名がある。
   法中:安楽院、大門院、住心院、金蔵院
   右四坊学呂:宝光院、千手院、観音院、安養院、吉祥院、文殊院、地蔵院、松之坊、成就院、宝生院、明王院、阿弥陀院
近世には学呂方と行人方にと別れ、16坊を有するという。
学呂方は安楽院、大門院、住心院、金蔵院の4ヶ院
行人方は宝光院、千手院、観音院、安養院、吉祥院、文殊院、地蔵院、宝蔵院、成就院、宝生院、明王院、阿弥陀院の12ヶ坊である。
 和州山邊郡桃尾山繪圖:江戸後期、増田家蔵
 桃尾山竜福寺跡地形実測図
江戸末期には衰微し、寺僧は僅か5人を数えるのみとなる。
明治維新の神仏分離の処置では5人の寺僧は復飾して、布留社の神職となり神勤したが、長くは続かなかったという。
その後堂舎は破壊され、明治8、9年頃廃絶する。
なお、安楽院本尊及び吉祥院本尊は下に掲載のように菩提山正暦寺に遷座、現存という。
2009/03/08追加:
○「和州寺社記」<寛文6年(1666)>(「大和志」 所収)
 桃尾山(寺領100石、坊舎16軒)
・・・いつの頃か零落してわずか残れり、本堂の本尊は十一観音傍に阿弥陀堂あり、鎮守十二所熊野の権現其脇に春日大明神の御社あり。側に鐘楼有宗旨は真言坊舎16軒有。
2006/06/26追加:
○「正暦寺一千年の歴史」、1992 より
吉祥天立像および十一面観音立像:桃尾山龍福寺より菩提山正暦寺に遷座 し、正暦寺に現存するという。
  吉祥天像:吉祥院本尊 、十一面観音像:安楽院本尊
2014/06/15撮影:
桃尾山龍福寺現況:
 惣門付近廃坊跡     宝蔵院跡     吉祥院跡:現在は大親寺庫裡(?)が建つ。
 本堂南石階参道:正面石垣は鐘楼堂      鐘楼堂跡:建物は大親寺の旧庫裡(?)か。
 本堂前庭石垣1     本堂前庭石垣2     本堂前庭石垣3:左の石垣の切れ目は本堂への石階跡であろう。
 本堂/阿弥陀堂跡:左が 竜福寺本堂跡で現在は大親寺本堂が建つ。右は阿弥陀堂跡で現在は大親寺大日堂が建つ。
 阿弥陀堂跡:大日堂 が建つ。
 本堂西面石垣     観音院跡     大門院跡:奥の平坦地が大門院跡
 護摩堂付近廃坊跡1     護摩堂付近廃坊跡2
歴代墓地と思われる入口には六地蔵石仏があり、恐らく100基を超える数の歴代住職/山内子院住職の墓碑が累々と建つ。
 龍福寺歴代墓碑1     龍福寺歴代墓碑2     龍福寺歴代墓碑3    龍福寺歴代墓碑4
桃尾瀧は今なお瀧行が行われているようである。
 桃尾瀧1       桃尾瀧2


大和興福寺現存伽藍

興福寺前史
○「興福寺」小林剛、興福寺、昭和42年初版 より
天智天皇の8年(669)、藤原氏の祖鎌足の為に、その夫人鏡女王が山城国宇治郡山階の地に、一つの寺を建てたのに始り、その後、奈良に平城京が営まれるのに従って、藤原不比等が山階寺をそこに移して、興福寺と号するようになったものである。

○「興福寺 カラーボックス 204」小西正文・入江泰吉、保育社、昭和45年 より
 写真の項:
大化の改新で・・功のあった中臣鎌足は蘇我氏誅滅の祈願するために造立した釈迦三尊と四天王像を、・・中大兄皇子から賜る。
藤原姓を下賜された・・・鎌足は、この仏像を大津京に近い山階の私邸に安置し祀った。
 本文の項:
天智天皇(中大兄)8年、鎌足はこの私邸で没するが、これが興福寺のもとになる山階寺である。
 壬申の乱(672)の後、天武天皇は都を大津京から再び飛鳥浄御原に遷す。山階寺は遷都とともに、高市の厩坂に移建され厩坂寺となる。
 天武・持統と続く律令国家の完成期、藤原氏とともに厩坂寺は飛鳥の地で寺運を誇る。和銅3年(710)藤原京からの平城遷都、厩坂寺は三たび改称されて興福寺となり、現在の地に移されるのである。
 寺伝では、鎌足が国政の国政の大改革を、中大兄皇子に協力して遂行するにあたって、丈六釈迦佛の造立発願をおこなったとされている。
・・・鎌足は後年、山背国宇治郡山階に住まっていたが、天智天皇8年病篤く、最後の時が近づいたころ、鎌足の妻である鏡女王は夫の病平癒を祈って、精舎の建立を願い出たという。
「山階の精舎」これが、世に山階寺と称され、鎌足の邸で、ささやかに開かれた精舎が、そもそも興福寺の最初の姿であるとされているのである。
同年、10月藤原鎌足は56歳をもって薨じたのである。
 さて壬申の乱のあと、大海皇子は673年に即位し、天武朝が始まった。都は大津からまた飛鳥の地に戻り造営された。これが飛鳥浄御原宮である。山階の精舎も、これに伴い、大和国高市郡厩坂に移り、厩坂寺と名称も改まったのである。・・・・
 寺伝によって話を進めると、山階寺に興福寺の起りを求めるということになる。が、しかし、山科の地にはたして、山階寺なるものが存在したのであろうか。この点については諸説があってそれぞれ説話的で理解に苦しむ。
 ところで、後世に至っても山階寺の名称がかなり多く使われる。最近の例としては、右京一条三坊大路の発掘(奈文研発掘部の発掘)で平安初期の側溝から墨書告知板が発見された。
  告知 往還諸人 走失黒鹿毛牝馬一匹 在験片目白 額少々白
     件馬以今月六日申時山階寺(*)南花園池而走失也
     若有見捉可告来山階寺中室自南端第三房之  九月八日   (*南花園池は今の猿沢池辺)
平安初期でもなお実際に実用として「山階寺」が使われている。どうして前期の「厩坂寺」と記さずに山階寺を記すのかは不明である。ただ、飛鳥に移建されたという厩坂寺については、そのほとんどが不明であるのはどうしたことであろうか。
2019/04/26撮影:
 推定山階寺跡石碑
 推定山階寺跡解説碑:山階寺の所在は山科大宅廃寺や中臣遺跡との説もあるが、現在有力な遺跡は見つかっていない。しかし、山科駅西南、御陵大津畑町を中心にする地域にあったという説が有力であるとある。
2020/02/24追加:
〇「飛鳥白鳳の甍〜京都市の古代寺院〜」京都市文化財ブックス第24集、平成22年(2010) より
大宅廃寺
平成16年度の調査の結果、北方建物、中央建物、南東建物(塔と推定)、南西建物(金堂と推定)、四周に築地が廻ることが判明する。
 さて、避けて通れない問題として山階寺の問題がある。
山階寺とは中臣鎌足の夫人鏡王女が夫鎌足の病気平癒を願い、山科にあった鎌足の私邸を寺としたもので、これが藤原京遷都に伴い、飛鳥に移って厩坂寺と称し、さらに平城京に移って興福寺となったという。つまりは南都興福寺の源流ともいうべき藤原氏の私寺であった。
 この山階寺については山科北部、山科中部の中臣、大宅廃寺説があった。
古くから古瓦を出土し、最近まで「興福寺橋」なるものもあり、大宅廃寺が山階寺であることは間違いないといわれてきた。しかし昭和33年の発掘で出土瓦の多くが藤原宮の時代のものであることが判明し、いったんは大宅廃寺=山階寺説は否定される。
 これについては、近年古川真司は山科北部が山階寺の故地に相応しいとする論文を発表する。
山科北部説は古くから唱えられていた説で、鎌足の私邸が「陶原家」と呼ばれていたのに対し、現在の山科区御陵の附近が鎌倉期「陶田里」という名称であったこと、平安前期には山科北部に興福寺の領地があったことなどがその根拠であった。
 古川は古文書を丹念に検討し、その興福寺領が山科郷大槻里の北半、現在の山科区御陵中内町・大津畑町・天徳町附近にあったことを論証した。そしてその領地が遅くとも11世紀には、荒廃田でもないのに科物上納を求められない特別扱いを受けていることから、これこそ陶原家の故地、即ち山階寺の故地と推定した。大槻里の西隣は陶田里なのである。

2022/05/20撮影:
○奈良市役所展示の平城宮跡復元模型
 →平城宮跡復元模型:平城宮での姿が再現される。

興福寺中金堂
 ◇文政2年仮金堂(赤堂と通称される)
享保2年(1717)講堂から出火した大火で中心伽藍である中金堂、西金堂、鐘楼、鼓楼、南円堂、三面僧坊、南大門、中門は完全に焼け落ちるが、この時代興福寺には復興する力がなく、漸く寛政元年(1789)南円堂が再興されるのみという始末であった。中金堂はさすがに見兼ねたのであろうか、奈良の豪商京屋市左衛門を中心とした勧進により、中金堂が再興される。しかし、文政2年(1819)の中金堂再建は資金不足もあり、四面を1間縮小して、仮凌ぎに再興されるという。
文政2年(1819)仮堂として再興された仮金堂は、老朽化のため 、薬師寺旧金堂が仮金堂として講堂跡に移築され、本尊などが遷座する。文政2年再興の堂は老朽化がひどく、移築再利用も不可能と判断され、一部の再利用できる木材を残して平成12年(2000)に解体される。
2014/07/11追加:
 明治5年興福寺仮金堂:壬申ステレオ写真       明治5年仮金堂食堂細殿: 同一の壬申ステレオ写真 ・食堂細殿の部分図
 ※明治5年の撮影なので、この仮堂は文政2年再興の仮堂であるが、
 注目すべきはこの仮堂背後に興福寺食堂・細殿の屋根が写るということであろう。
 興福寺食堂・細殿は明治7年(8年ともいう)取り壊される。この食堂・細殿は鎌倉後期・養和元年(1182)の建立であり、
 近世の古図では食堂は入母屋造で、細殿は切妻造として描かれる。写真にもそのような屋根に写る。
2015/12/25追加:
○「奈良公園史, [本編]」奈良公園史編集委員会、1982/3 より
明治13年中金堂は奈良郡役所庁舎に官用され、南大門跡には御真影遥拝所が官設されていた。
明治16年4月に中金堂が興福寺に返還される。奈良郡役所は旧普門院跡に新築する。
 興福寺中金堂附近:明治18年撮影
○「カラーボックス204 奈良の寺シリーズ6 興福寺」保育社、昭和45年 より
 驟雨中金堂      桜と中金堂:いずれも解体され今はない赤堂である。
なお、赤堂は松材が多く解体される、解体された材は大工の屋敷?に保存されている。(2020/09/28奈文研担当者の談)
◇薬師寺旧金堂(興福寺仮金堂→興福寺仮講堂)
昭和50年興福寺講堂跡へ大和薬師寺旧金堂が、仮金堂として移建される。
大和薬師寺旧金堂は新金堂建立によって不用となり、改造移築されたもので、室町後期の建築とされ、寄棟造、桁行9間、梁行6間、屋根本瓦葺の建築である・
2007/10/13撮影:
 興福寺仮金堂(大和薬師寺旧金堂)
2010/02/21撮影;
 興福寺仮金堂2
2010/03/28撮影:
 興福寺仮金堂3
2016/09/15撮影:
 興福寺仮金堂4
2018/10/15撮影:
興福寺中金堂の再興がなり、旧南都薬師寺前金堂であった興福寺假金堂は講堂として講堂跡へ移築され、今般中金堂の再興の成就した後は講堂として再興されるという。その意味で、南都薬師寺旧金堂即ち興福寺旧仮金堂は、現時点では、仮講堂という呼称を用いる。
 興福寺仮講堂5     興福寺仮講堂6
2018/11/11撮影:
 興福寺仮講堂7     興福寺仮講堂8     興福寺仮講堂9
2019/11/10撮影:
 興福寺仮講堂10
2020/09/28撮影:
 興福寺仮講堂11     興福寺仮講堂12     興福寺仮講堂13     興福寺仮講堂14     興福寺仮講堂15
 興福寺仮講堂16     興福寺仮講堂17
2021/10/11撮影:
 興福寺仮講堂18
2021/10/15撮影:
 興福寺中金堂・仮講堂     興福寺仮講堂19
2023/01/25撮影:積雪
 興福寺仮講堂20

◇平成再興中金堂
2018/10/15撮影:平成30年(2018)10月中金堂落慶。
 興福寺五重塔と中金堂
 再興興福寺中金堂11     再興興福寺中金堂12     再興興福寺中金堂13     再興興福寺中金堂14
 再興興福寺中金堂15     再興興福寺中金堂16     再興興福寺中金堂17     再興興福寺中金堂18
 再興興福寺中金堂19     再興興福寺中金堂20     再興興福寺中金堂21
2018/11/11撮影:再興中金堂:単層裳階付、寄棟造、桁行9間・梁間6間、本尊釈迦如来坐像。
 興福寺中金堂31     興福寺中金堂32     興福寺中金堂33     興福寺中金堂34     興福寺中金堂35
 興福寺中金堂36     興福寺中金堂37     興福寺中金堂38     興福寺中金堂39     興福寺中金堂40
 興福寺中金堂41     興福寺中金堂42     興福寺中金堂43     興福寺中金堂44     興福寺中金堂45
 興福寺中金堂46     興福寺中金堂47     興福寺中金堂48     興福寺中金堂49
2019/11/10撮影:
 興福寺中金堂50
2020/06/28撮影:
 興福寺中金堂51     興福寺中金堂52
2021/01/10追加:
中金堂:
和銅3年(710)不比等の発願で、和銅7年(714)に竣工、以降7回の焼失と再建を繰り返す。
享保2年(1717)中金堂は焼失、藤原氏の力も衰え、漸く文政2年(1819)篤志家の寄付によって仮堂<俗の赤堂と呼ばれる>として再建される。
昭和49年講堂跡に仮金堂(大和薬師寺の室町期の旧金堂を入母屋造から寄棟造に改造し、向拝を撤去)が移築され、本尊の釈迦如来坐像などは仮金堂に遷座する。文政再建の仮堂金堂は老朽化のため移築再利用も不可能と判断され、一部の再利用できる木材を残して平成12年(2000)に解体される。
2018年中金堂は創建当時の規模で再建される。
安置される佛は次のとおりである。
本尊は文化8年(1811)造作の釋迦如来、脇侍は薬王・薬王菩薩立像、重文、本来は廃絶した西金堂本尊・釈迦如来像の脇侍として建仁2年(1202)に造立されたものという。
木造四天王立像(国宝)、鎌倉期。この四天王像の当初の安置場所や作者は不明であるが、2017年までは南円堂に安置されていた。
南円堂本尊の不空羂索観音像と同様、本四天王像も運慶の父・康慶一門の作であると長らく信じられてきたが、藤岡穣が1990年に発表した論考で、当時の中金堂(仮金堂)に安置されていた現・南円堂安置の四天王像が、元から南円堂にあった康慶作の像であると指摘して以降、これが定説とる。本四天王像は2017年に東京国立博物館で開催された「運慶展」後に、康慶作の四天王像と入れ替わる形で中金堂に移される。
吉祥天椅像、重文、南北朝期。
大黒天立像、重文、鎌倉期。
なお、仮金堂は名称を仮講堂に改め、国宝館にあった阿弥陀如来坐像を新たな本尊として安置する。
2020/11/01撮影:
 興福寺南大門跡・中金堂1     興福寺南大門跡・中金堂2
2021/10/11撮影:
 興福寺中金堂53     興福寺中金堂54     興福寺中金堂55
2021/10/15撮影:
 興福寺中金堂56
2023/01/25撮影:積雪
 興福寺中金堂57     興福寺中金堂58     興福寺中金堂59     興福寺中金堂60     興福寺中金堂61
2023/03/21撮影:
 興福寺中金堂62
2023/04/06撮影:
 興福寺中金堂63:遠望
2023/05/01撮影:
 興福寺中金堂64:遠望     興福寺中金堂65

2023/01/25撮影:積雪
 興福寺南大門跡

中金堂院廻廊跡
2018/11/11撮影:
 興福寺廻廊跡

経蔵跡
2018/11/11撮影:
 興福寺経蔵跡

■鐘楼跡発掘調査
2020/11/15追加:
○2020/09/26朝日新聞記事
奈文研発表:大和興福寺鐘楼の発掘調査の結果、創建時(奈良期)鐘楼は袴腰を備えていた可能性が高いことが判明する。奈良期の鐘楼で袴腰の痕跡が発見されるのは初めてで、現存する袴腰鐘楼の最古例は大和法隆寺東院鐘楼で平安末期に建立されたとされる。
○2020/09/28大和興福寺鐘楼跡発掘調査現地説明会
現地説明会資料 より
 鐘楼基壇が良好な状態で残存し、創建当初及び再建時の建物規模と構造が判明する。
創建当初の建物規模は桁行3間(34尺/10.1m)梁間2間(22尺/6.5m)で経蔵と同一であり、さらに鐘楼は袴腰を持つ構造である可能性が高いことが判明する。
また、度重なる焼失を受けて、少なくとも平安期・室町期基壇外装の改修を行っていることを確認する。
○平城第 625 次調査 記者発表資料 2020 年 9 月 25 日
「興福寺鐘楼・東金堂院の発掘調査」法相宗大本山 興福寺、独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所 都城発掘調査部 より
興福寺鐘楼
 調査前、鐘楼は基壇状の高まりを残しており、地表に礎石の上面が露出していた。2015年度の調査ではこの高まりの西北隅と東南隅を部分的に発掘調査し、基壇の一部を確認していた。
鐘楼跡
 礎石と柱配置 鐘楼では9基の礎石が残存しており、長径 1.0〜1.9m で、柱座などの造出はない。これらの礎石は、多くが創建当初の位置を保っているとみられる。
礎石位置からみて、鐘楼は桁行 3 間(約 10.1m、34 尺)×梁行 2 間(約 6.5m、22 尺)の規模である。柱間寸法は、桁行では中央間が 12 尺、両脇間が 11 尺、梁行は 11 尺等間であったと考えられる。
基 壇
 基壇は良好な状態で残存し、現存する基壇の規模は、南北約 15m、東西約 11m で、基壇の出は各面とも 2.2m である。基壇外装については、たび重なる焼失をうけ平安期、室町期に据え直されたとみられる羽目石の一部を確認する。享保2年の焼失後も抜き取られずに残置されたものとみられる。
基壇については、室町期以降に一度、土を積み足して整備しなおしているとみられる。複数回に及ぶ焼失を示す炭層や焼土とその度の整地によって基壇が埋没したためと考えられる。
さらに、積み足し前の基壇上面において、四周をめぐる素掘溝を検出する。総長は南北 13.4m、東西 10.1m で、鐘楼の下層部分は袴腰と呼ば
れる構造物で覆われていたことが絵図等からわかる。この素掘溝は袴腰の基礎を抜き取った痕跡と考えられる。
「興福寺流記」には、鐘楼の規模について大小二つの記載がある。一つは経蔵(桁行 34 尺、梁行 22 尺)と同規模とする記述で、鐘楼の礎石位置から推定される柱配置に基づく建物規模と一致する。一方、「弘仁記」(弘仁年中〔810〜824〕)には桁行 46尺(13.6m)、梁行 35.3 尺(10.4m)とあり、また「宝字記」(天平宝字年間〔757〜765〕)も同様である、とも記している。経蔵の規模より一回り大きな「弘仁記」および「宝字記」の記述が何に基づくものかは判然とせず、課題とされてきたが、今回検出した基壇上面をめぐる素掘溝の南北および東西距離は、「弘仁記」および「宝字記」の数値とほぼ一致する。これにより、「弘仁記」および「宝字記」は、袴腰下端の平面規模を記していると解釈できるようになった。袴腰をもつ鐘楼は、これまで平安後期以降のものが知られるも、今回の調査の結果、奈良期の創建期にまで遡る可能性がある。
階 段
 基壇の西面では、2時期の階段跡の可能性がある痕跡を確認する。幅(南北)は約 1.6m、階段の出(東西)は約 1.2m とみられる。また、基壇の東面にも割石を用いた一段以上の階段を検出する。幅(南北)1.5m 以上、階段の出(東西)は 0.6m以上である。創建期の階段は西側に位置する僧房(西室)に向けて設置されたが、この階段は東側を向いており、僧房廃絶後に設けられたと考えられる。
玉石敷
 東西溝の北で東西方向の玉石敷を検出する。長径 10〜20cm 程度の玉石を敷き詰めており、南側に見切りの石をならべている。幅は 80cm 以上で、経蔵の北でも、ほぼ対称位置で玉石敷を検出していて、主要堂塔を結ぶ通路と考えられる。
2020/09/28撮影:
 興福寺鐘楼跡11     興福寺鐘楼跡12     興福寺鐘楼跡13     興福寺鐘楼跡14     興福寺鐘楼跡15
 興福寺鐘楼跡16     興福寺鐘楼跡17     興福寺鐘楼跡18     興福寺鐘楼跡19     興福寺鐘楼跡20
 興福寺鐘楼跡21     興福寺鐘楼跡22     興福寺鐘楼跡23     興福寺鐘楼跡24     興福寺鐘楼跡25
 興福寺鐘楼跡26     興福寺鐘楼跡27     興福寺鐘楼跡28     興福寺鐘楼跡29     興福寺鐘楼跡30

 ◇その他の伽藍
2002/03/09撮影:
 興福寺東金堂1   興福寺東金堂2(国宝)
2007/10/13撮影:
 興福寺東金堂
2008/06/14撮影:
 興福寺東金堂41     興福寺東金堂42
2010/02/21撮影;
 興福寺東金堂43     興福寺東金堂44
2010/03/28撮影:
 興福寺東金堂45     興福寺東金堂46     興福寺東金堂47
2013/02/21撮影:
 興福寺東金堂48
2015/11/21撮影:
 興福寺東金堂49
2018/10/15撮影:
 興福寺東金堂50     興福寺東金堂51
2018/11/11撮影:
 興福寺東金堂52     興福寺東金堂53
2020/06/28撮影:
 興福寺東金堂54     興福寺東金堂55
2021/10/11撮影:
 興福寺東金堂56
2021/10/15撮影:
 興福寺東金堂56     興福寺東金堂57     興福寺東金堂58
2023/01/25撮影:積雪
 興福寺東金堂59     興福寺東金堂60     興福寺東金堂61     興福寺東金堂62
 興福寺東金堂63     興福寺東金堂64     興福寺東金堂65     興福寺東金堂66
2023/03/21撮影:
 興福寺東金堂67     興福寺東金堂68
2023/05/01撮影:
 興福寺東金堂69     興福寺東金堂70     興福寺東金堂71     興福寺東金堂72

■東金堂院発掘調査
2020/11/15追加:
○平城第 625 次調査 記者発表資料 2020 年 9 月 25 日
「興福寺鐘楼・東金堂院の発掘調査」法相宗大本山 興福寺、独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所 都城発掘調査部 より
興福寺東金堂院
 東金堂院は単廊と築地塀で四周を取り囲むとみられ、北面と西面が礎石建ちの単廊、東面と南面が築地塀と考えられている。
建立以後、東金堂と五重塔は何度も火災に遭い、現存の建物は応永年中(1394〜1428)に相ついで再建されたもので、回廊は現存せず、いつ廃絶したかなど詳しい沿革はあきらかではない。
なお、北面回廊にはいくつか礎石が露出するが、回廊の大部分は平坦になっており、現状では西面回廊については地上に礎石や基壇の高まりは認められない。防災工事にともなう発掘調査(1974・2014年度)では、北面回廊で礎石と基壇を確認し、西面回廊では五重塔の正面で部分的に門の基壇を検出している。
東金堂院
門の規模と構造
 北区中央で礎石抜取穴を7基検出する。大きさは一辺 80cm 程度で、一部は据付掘方の可能性もある。
門の規模は、桁行 3 間(約 8.6m、29 尺)×梁行2 間(約 4.7m、16 尺)となり、切妻造の八脚門であったと考えられる。柱間寸法は、梁行が 8 尺等間で、桁行は中央間が 11 尺、両脇間は 9 尺とみられる。
門の基壇外装と雨落溝
 基壇外装については、門の東側で地覆石とその掘方・抜取溝を検出する。おもに凝灰岩の切石を用いる。門の柱位置から門の中軸が判明した
ので、それを基準に対称に復元すれば、基壇の規模は南北約 10.6m、東西約 7.7m と推定される。
西面回廊の基壇外装と雨落溝
 回廊の基壇外装についても東側で地覆石とその掘方・抜取溝を検出する。凝灰岩の切石を用いており、門の中軸で対称に復元すると基壇の幅
は約 6.2m と推測される。
石 敷
 北区中央の東端で検出した石敷で、西端には凝灰岩切石を転用して配置し、その東側に直径 10cm 程度の石を敷き詰めている。五重塔の正面に位置しており、五重塔への参道と思われる。
2020/09/28撮影:
東金堂院門跡
発掘調査中であるが、厳重にフェンスとシートで覆われ、殆ど中を覗くことはできない。
唯一五重塔横の段差の所から辛うじて撮影できたので、写真を掲載する。
 東金堂院門跡:五重塔西正面の門跡である。

2021年10月9日(土)平城第640次調査 現地見学会資料
○「興福寺東金堂院の門と回廊の発掘調査」法相宗大本山 興福寺/国立文化財機構 奈良文化財研究所 より
・興福寺東金堂院の概要:
 東金堂院は単廊と築地塀で四周を取り囲んでいたとみられ、北面と西面が礎石建ちの単廊、東面と南面が築地塀と考えられている。
「興福寺流記」(平安末期)によると、東金堂は神亀3年(726)、五重塔は天平2年(730)の創建で、東金堂院の門・回廊も同時期に創建されたと思われる。
創建以後、東金堂と五重塔は5回の火災に遭い、現存する堂塔は応永年中(1394〜1428)の1420年前後に再建されたものである。
回廊は現存せず、廃絶の時期は不明である。
防災工事にともなう発掘調査(1974・2014年度)では、北面回廊跡で礎石と基壇を検出する。
 2020年におこなった平城第625次調査では、五重塔の西正面において門の礎石据付・抜取穴を検出し、門の規模・構造が明らかになる。さらに、門と回廊の東辺の基壇外装と雨落溝を検出する。
 五重塔および東金堂の西面の門の規模については、「興福寺流記」に「西門二門。〈長三間。別々一丈。〉廣一丈六尺。」と記載がある。
主な検出遺構:
 東金堂の西約20mの位置で、門の全体(南北約11m)と、門の南北に取り付く西面回廊の一部(北で南北約8m、南で南北約1m)を検出する。
 東金堂院調査区     東金堂院遺構平面略図
東金堂院西面回廊:
・基壇
 東辺では、地覆石と羽目石の一部、および地覆石の抜取溝を検出する。
西辺では、地覆石の抜取溝を検出する。これらから、基壇の東西規模は約6.2m(21.0尺)であることが判明する。
 地覆石・羽目石は、凝灰岩の切石を用いる。地覆石は、奥行約18cm、高さ約9cmで、幅はばらつきがあるものの29cm前後のものが複数ある。
羽目石が一部遺存しており、高さは約6cmある。
 西辺の地覆石の下には、土器や軒丸瓦を含む整地土があり、これらの出土遺物の年代は、平安期末〜鎌倉期初頭であり、今回検出した基壇外装はそれ以降の再建にともなうものと考えられる。
・雨落溝
 基壇の東辺と西辺で南北方向の雨落溝を検出する。雨落溝は位置を踏襲して上下2時期あり、「下層」、「上層」と仮称する。
 上層東雨落溝は、東に側石とみられる凝灰岩の痕跡がある。西に側石はなく、回廊基壇外装の地覆石が雨落溝の側石を兼ねていたと考えられる。
雨落溝の幅は、約0.9m(3.0尺)を測る。この東雨落溝は、回廊基壇外装に対応した平安期末〜鎌倉期初頭以降の再建にともなうものと考えられる。
 下層東雨落溝は、底石、および東の側石の抜取溝を部分的に検出する。底石は、検出状況から奈良期の創建期に遡る可能性がある。
・建物
 門の北で、礎石の据付・抜取穴を4基検出する。一部では礎石の下に置く根石が遺存していた。
梁行は、1間の単廊で、梁行の柱間寸法は、約3.5m(12.0尺)と推定される。桁行は、2間分を検出する。
柱間寸法は、北側の1間が約3.2m(10.5尺)、南側の1間が約2.4m(8.0尺)とみられる。
後述する門との取り付きは約1.6mとなります。礎石の据付・抜取穴は一時期分しか確認されていない。
・門
基壇 北辺、西辺、南辺の地覆石およびそれらの抜取溝を検出する。
南北の基壇規模は約10.8m(36.5尺)。西辺は、回廊基壇の西辺から約0.9m(3.0尺)張り出す。
東辺は精査中で詳細は不明であるが、基壇が門の南北中軸から対称形であるとすれば、東西の基壇規模は約8.0m(27.0尺)に復元できる。
 基壇外装の地覆石には、凝灰岩の切石を用いる。基壇の西辺中央では、階段にともなう凝灰岩を検出する。
基壇から約0.4m(1.4尺)西に張り出した位置には、南北幅約2.1m(7.1尺)分の階段踏石が遺存している。
 今回検出した基壇外装は、回廊部分の調査所見などから、平安期末〜鎌倉期初頭以降に再建されたものと考えられる。
ただし、西辺の南側では、基壇外装に花崗岩製の転用地覆石がみられ、後世に改修された可能性がある。
再建以前の基壇外装の有無は現在精査中である。
・雨落溝
 基壇の東辺と西辺で雨落溝を検出する。雨落溝は、回廊部分から基壇の外形に沿って屈曲して続く。
回廊と同様、2時期の変遷があると考えられる。
 上層東雨落溝では、東に側石の抜取溝を検出する。回廊の所見から、平安期末〜鎌倉期初頭以降の再建にともなうものと考えられる。
 下層東雨落溝では底石を検出しており、創建期に遡る可能性がある。
・建物
 礎石の据付・抜取穴を6基検出する。一部根石が遺存する。
梁行は2間で総長が約4.7m(16尺)、桁行が3間で総長が約8.8m(30尺)とみられる。
柱間寸法は、南北方向の桁行が約3.0m(10尺)等間、梁行が約2.4m(8尺)等間である。
礎石の据付・抜取穴は一時期分しか確認されていない。
以上から、建物は切妻造の八脚門の形式であったと考えられる。建物の東西方向の中心軸は、東金堂と揃う。
2021/10/11撮影:
 発掘現場説明板より
 東金堂院回廊遺構     東金堂院遺構復元模式図:網掛は遺存部分
 焼土・土器・瓦の上に作られた基壇     復元模式図
 発掘調査現場
 東金堂院門回廊遺構1     東金堂院門回廊遺構2     東金堂院門回廊遺構3     東金堂院門回廊遺構4
 東金堂院門回廊遺構5     東金堂院門回廊遺構6     東金堂院門回廊遺構7     東金堂院門回廊遺構8
 東金堂院門回廊遺構9     東金堂院門回廊遺構10

2022/10/23追加:
○2022/10/13奈文研報道発表
東金堂院は定説の倍以上の大きさと判明する。
奈文研が10/13日発表。東金堂の北側の発掘調査から回廊の礎石・礎石抜取穴、基壇や雨落溝が発見される。
その結果、今までの見解では回廊は東西50mの長さとされてきたが、100mを越えることが判明する。
平安期の「興福寺流記」には北側回廊は約130mあるという記述があり、これに整合する。
 朝日新聞2022/10/14記事      東金堂院跡発掘概念図
 読売新聞・回廊発掘報道写真     産経新聞・回廊発掘報道写真


○北円堂は養老5年(721)創建と伝え、その後2度焼失、現在の北円堂は承元4年(1210)頃の再建という。
2004/11/06撮影:
 大和興福寺北円堂(承元2年<1208>再興・国宝)
2007/10/13撮影:
 興福寺北円堂1    興福寺北円堂2    興福寺北円堂3    興福寺北円堂4    興福寺北円堂5(宝珠)
2010/03/28撮影:
 興福寺北円堂5
2013/02/21撮影:
 興福寺北円堂21
2015/11/21撮影:
 興福寺北円堂22     興福寺北円堂23
2018/10/15撮影:
 興福寺北円堂24     興福寺北円堂25     興福寺北円堂26     興福寺北円堂27      興福寺北円堂28
2018/11/11撮影:
 興福寺北円堂29     興福寺北円堂30
2020/09/28撮影:
 興福寺北円堂31     興福寺北円堂32     興福寺北円堂33     興福寺北円堂34
2021/10/15撮影:
 興福寺北円堂35     興福寺北円堂36     興福寺北円堂37
2023/01/25撮影:積雪
 興福寺北円堂38     興福寺北円堂39
2023/03/21撮影:
 興福寺北円堂40     興福寺北円堂41     興福寺北円堂42     興福寺北円堂44
 興福寺北円堂廻廊跡
 2011年興福寺北円堂の回廊規模が判明
 奈文研は北円堂周辺の発掘調査で、北円堂創建当時(奈良期)に建てられた回廊の全体規模を確認する。
 回廊規模は南北約43.5m、東西約44.3m。東側の回廊跡からは、直径約1mの基壇礎石跡32カ所が発見される。

2023/03/21撮影:
 興福寺西金堂跡

2004/11/06撮影:
 大和興福寺南円堂(寛政元年<1789>再興・西国33所9番札所・本尊不空羂索観音は康慶作で国宝)
2013/02/21撮影:
 興福寺南円堂21     興福寺南円堂22     興福寺南円堂23
2015/11/21撮影:
 興福寺南円堂24     興福寺南円堂25     南円堂鐘楼
2016/09/15撮影:
 興福寺南円堂26     興福寺南円堂27
2018/10/15撮影:
 興福寺南円堂28     興福寺南円堂29     興福寺南円堂鐘楼
2018/11/11撮影:
 興福寺南円堂30
2020/09/28撮影:
 興福寺南円堂31     興福寺南円堂32     興福寺南円堂33
2021/10/11撮影:
 興福寺南円堂34     興福寺南円堂35
2021/10/15撮影:
 興福寺南円堂36
2023/01/25撮影:積雪
 興福寺南円堂37     興福寺南円堂38     興福寺南円堂39
2023/03/21撮影:
 興福寺南円堂40     南円堂鐘楼2
2023/05/01撮影:
 興福寺南円堂41

2018/10/15撮影:
額塚:もともと興福寺にも山号はあり、南大門に月輪山の山号額を掲げていたが、しばしば魔障が起こるという。とある僧の霊夢に「月の字は水に縁ある為なり」とお告げがあり、困り果てて額を取り下げると、魔障の現象は停止したという。その山号額を埋めたのが「額塚」という。
 興福寺額塚

2015/11/21撮影:
 中門・回廊復原平面図      南大門復原基壇     南円堂と中門復原基壇

2015/11/21撮影:
 興福寺国宝館:食堂・細殿の外観を復元したものという。
2023/01/25撮影:積雪
 興福寺国宝館2

2018/10/15撮影: 花乃井:由緒不明
 興福寺花乃井1     興福寺花乃井2

○大湯屋:重文、室町期の再興(五重塔の再興と同時期であろう)、屋根は西側は入母屋造で東側は切妻造である。これはおそらく東側になんらかの建物があったのであろうと推測される。
2015/11/21撮影:
 興福寺大湯屋1     興福寺大湯屋2     興福寺大湯屋3
2018/10/15撮影:
 興福寺大湯屋4     興福寺大湯屋5     興福寺大湯屋6     興福寺大湯屋7     興福寺大湯屋8

2014/07/11追加:
○菩提院大御堂(十三鐘):大正8年再興、内陣はRC造、その他は木造である。 玄ム僧正の創建と伝えられるも、実際は玄ムの菩提を弔うために建立されたと考えられるという。本尊は阿弥陀如来坐像(鎌倉・重文)。
梵鐘は永享8年(1436)銘。
2016/09/15撮影:
 菩提院南参道     菩提院北参道     菩提院大御堂1     菩提院大御堂2     菩提院大御堂3
 菩提院鐘楼1     菩提院鐘楼2      菩提院本坊1      菩提院本坊2       菩提院境内
2018/10/15撮影:
 興福寺菩提院4
2023/03/21撮影:
 菩提院大御堂5     菩提院大御堂6     菩提院大御堂7     菩提院大御堂8

2013/02/21撮影:
○平城飛鳥瑜伽大権現
 平城遷都により、元興寺(あるいは禅定院)の鎮守として、飛鳥より遷座すると云う。(飛鳥を元宮といい、この地は今宮と云う。)
「大乗院寺社雑事記」では延徳2年(1749)大乗院尋尊が創祀したと記載する。但し、今宮は五所大明神(五所とは春日四所と若宮と推定される)ともあり、今宮勧請の事情については「大乗院寺社雑事紀」になんら触れるところがない。
(今宮は、中世、今宮の西に興福寺大乗院が遷るに及んで、大乗院の支配下に入ったものと推定される。)
瑜伽大権現については、大乗院の発議で、備前瑜伽大権現を勧請するとも云うが、如何なる史料に基づくもものなのであろうか。
あるいは、法相宗(興福寺)が重視する瑜伽論に基づき瑜伽大権現と改称されたとも云うが、これも如何なる史料に基づくものなのであろうか。
いずれにせよ。今宮は大乗院の鎮守としての地位に変異したものと推測される。
 平城飛鳥瑜伽大権現参道石階
 平城飛鳥瑜伽大権現手水:瑜伽山と刻む      平城飛鳥瑜伽大権現燈籠:瑜伽大権現と刻む
 平城飛鳥瑜伽大権現拝殿1               平城飛鳥瑜伽大権現拝殿2



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